
昨年の2月に「蔦谷喜一さん」という人が91歳で亡くなりました。彼は、「きいちのぬりえ」で有名な「ぬりえ作家」です。私のブログで、美術教育における「ぬりえ」について書きました。(2006年2月10日)それは、創造性がなくなるということで排除されてきましたが、デザイン力をつけるためには、見直されるべきではないかということです。また、「マンダラ塗り絵」についても書きました。(2005年9月21日)ドイツに行って、曼荼羅塗り絵が、子どもの集中力を養うために効果的に使われることを知り、園児に使っています。「マンダラ塗り絵」は、日本でも売っているようになり、最近は、大人の「ぬりえ」が注目を浴び始めています。それは、塗り絵を塗っている間の血流と脳波の動きから、脳が活発化されていることが証明されているからです。脳を活性化するものとしてさまざまなものが提案されていますが、その中で、かなり効果的なものとして注目を浴びているのです。
「ぬりえ」は、大辞林では、「玩具の一。輪郭だけを描いた図形や模様の中に、色を塗りわけて楽しむもの。」と書いてあります。この「ぬりえ」は、明治時代の翻訳教科書の絵をなぞっていたところから発生しています。子どものころは、ずいぶんと「ぬりえ」がはやっていました。特に女の子は夢中でした。私は、「怪傑ハリマオ」や、「怪傑黒頭巾」などのぬりえをした思い出がありますが、女の子が夢中になったのは、たくさんのぬりえ画家のうちでも、「きいち」ほど人気のあった作家はいませんでした。今日は、そんな「蔦谷喜一」の作品が多く展示されている「ぬりえ美術館」に行ってきました。彼は、日本画家としての素養にくわえ、自分自身が元祖「モボ」を気取ったファッションセンス、なにより大量のモチーフによる作品の多さには感心させられます。最近のレトロブームもあり、資生堂やPARCOなどのポスターや、山手線の電車内の映像の提供である「早稲田予備校」の中吊りポスターなどで「きいちの少女画」が採用されていて、よく目に触れます。
喜一氏は、物心つくころから「絵の得意な」少年で、特に人物を描くのが好きだったそうです。小さいころは「正チャンの冒険」(椛島勝一のポンチ絵)など、良く描いていたそうです。まだ中学校のころに、高畠華宵の挿絵に魅せられ、明けてもくれても華宵の絵を模擬って描いていたそうです。そのころになるとすでに、将来挿絵画家になると決めていたそうです。最初は、浅草田原町のぬりえ屋さんの内職で描きはじめたころ、漱石の「虞美人草」のヒロイン藤尾からとって「フジヲ」という名前を入れていたそうです。そして、昭和22年からは「きいち」のサインで膨大な量のぬりえを描きつづけ、最盛期には袋絵も含めて1ヶ月に100万枚前後の「きいち」のぬりえが全国にでまわったそうです。戦後の昭和20年代から昭和30年代の高度成長時代に生まれた女の子たちは本当によく「ぬりえ」で遊びました。またこのころからぬりえにはふろくとしてきせかえが登場します。昭和40年代に入ると、子どもはテレビ漬けになるのでぬりえは下火になり、同時に、「ぬりえ」は、美術教育としてふさわしくないというレッテルを貼られ、幼児には与えなくなってしまったのです。子どもたちは、何も全員が画家になるわけではないのに、大人は、なんでも黒白をつけたがるのですね。