遠足

 昨日は、園の遠足でした。私の園の遠足は、園の周辺の地域を、ウォークラリー形式で問題を解きながら親子で回るというものです。そして、そのポイントで出される問題は、その年のテーマに関係のあるものです。今年のテーマは、「森でかなでるオーケストラ」ということで、楽器に触れ合わせるというものです。その形式の遠足を始めたころ、保護者からある苦情がきました。午前中は、0歳児から年長児までいっしょに行いますが、後日のアンケートに、「午前中、いっぱい歩かされて疲れてしまった。」「歩くのが少なすぎて、なんだか物足りなかった。」「バギーを押して歩くのに、階段があって困った。」「平らなところばかり歩くので、もっと、坂とか階段があったほうが良かった。」などがありました。このように並べて書いてみると分かりますが、相反するような感想なので、こちらとしては、どうしたらよいか、考えてしまうような内容ですね。みんないっしょに行う行事では、個々の対応は難しいのです。もちろん、子どもの年齢によって、歩く距離は変えているのですが、人によって、感じ方の違い、普段の運動の量の違いがあります。それは、必ずしも、年齢によって、比例するものではありません。そんなときに、良い解決策が浮かびました。それは、普段の保育でも行っている方法です。保育の内容も、子どもの年齢に必ずしも比例はしません。しかも、その年齢とは、日本の場合は、生年月日によって、4月生まれから3月生まれの子をひとつのくくりとして考えるので、個々によって当然無理が生じます。遠足のときにこんな方法をとりました。事前に保護者にどのコースを歩きたいか希望を取ります。たとえば、こんな様なものです。「ゆったりコース:ポイントが5で、アップダウンがなく、バギーを押しながらでも歩けます。ゆっくり歩いて、20分くらいで歩くことができます。」「ほどほどコース:ポイントが8で、階段はありませんが、少しアップダウンがあります。行程40分くらいで歩けます。」「たっぷりコース:ポイントが12で、坂あり、階段ありと、普段の運動不足が解消します。行程1時間くらいです。」というような具合です。当日は、それぞれ自分で選んだコースによって、地図を見ながら歩いてもらいます。この方法をとってから、一切苦情は出なくなりました。たとえ、思ったより疲れても、楽すぎてもです。それは、自分で選んでいるからです。人は、他人から与えられたことに対しては、あれこれ文句を言いますが、自分で選択したことには責任をとろうとします。
 今回の「楽器」をテーマとした各ポイントの問題はそれぞれ職員が下見をし、工夫をしたもので、なかなか面白いものが多かったのですが、特に私が気に入ったものがありました。ひとつは、ある場所で、「ここにある音の出るものは何でしょうか?」という問いに対する答えの「水琴窟(すいきんくつ)」です。子どもたちが、そこに水を落として、音を聞いていました。「水琴窟」とは、400年程前、作庭家でもある茶人、小堀遠州が考案した、つくばい周りの排水装置「洞水門」が起源と言われています。後の江戸期に、排水機能と同時に音を楽しむことを目的に、庭師達が秘伝として各地に作ったのです。滴が水面に落ちて、甕の空洞に反響する音は、琴の音のように聞こえます。水琴の残響に耳を傾けた古人のわびさびの風情が味わえます。下見のときに、こんなものが、近くにあることを見つけた喜びもある遠足です。

ハグとお辞儀

 最近、毎年ドイツに行っています。そして、そのときに必ずその中の1日、夜に教育委員会の幼児局の局長さんから食事に誘われます。彼女は、以前、40人ものドイツの保育者を引率して私の園に訪ねてきたことがあり、その時に、園での実践を気に入られて、都内の宿泊するホテルに着くまでずっとバスの中で、いろいろとカリキュラムについての話をしていきました。その後、世界保育大会に招待されたりしています。彼女は、今、10歳である子を一番下に4人の子どもがいます。一番上の子は、もう28歳だそうです。その彼女と毎年会うときに、戸惑うことがあります。それは、会ったときの挨拶です。最初は、握手を求められました。握手の由来はいろいろとあるそうですが、よく言われるのは、手に武器を持っていないことを証明することから始まったということです。それによると武器を持つであろう利き手は右手の人が多いため、握手をする手は右手になったのだそうです。握手するときは、背筋を伸ばし、必ず相手の顔(目)を見て行うことが礼儀だそうです。そして、強すぎず、緩すぎないように握ります。強すぎては相手に不快感を与え、また緩すぎても好意を表せません。アメリカでは弱い握手は「Dead-fish handshake」と呼ばれ、死んだ魚を握るようで気持ちが悪いと言われているようです。お辞儀をしながら握手をするのは卑屈に見えるので、あまりしない方がいいそうです。私は、本当は、あまり握手が好きではありません。日本では、どうも、すぐに握手したがる人たちは、あまり好きでない職業の人が多いからかもしれません。しかし、外国では違います。ですから、できるだけ、気持ちよく握手をするようにしています。しかし、ドイツに行って、何度目かの時に、握手をしようとしたら「あなたとは、握手しません。」と断られました。嫌われたのかと戸惑っていると、突然、抱きつかれました。あせりました。しかし、どうということはありませんでした。いわゆる「ハグ」されたのです。ハグ(Hug)とは、辞典には、「(人が)(人・物)を(両腕で)しっかりと抱きしめる。(クマが)(人などを)前足で抱え込む」とあります。彼女がいくら体格がいいからといって、まさか熊に抱きつかれたというわけではありませんが、私は、どうも握手以上になじめません。他人の大人と抱きつく経験がないからと、抱きついたときに、背中で手をとんとんとたたきあうときは、まさに照れてしまいます。すると、心がこもっていないとしかられます。それでも、何とか平気な顔をしてハグができるようになったかと思っていたら、今年行ったときに、また驚かされました。なんと今年は、ハグされながら、顔をつけられ、両頬にキスをされたのです。まあ、国によって違いますが、私は、やはり「お辞儀」がいいですね。握手は親睦・和解の表現として行われることが多いのですが、お辞儀は相手への敬意を表します。お辞儀は自分の首を差し出して、相手に対して敵意がないことを表現したことに由来するといわれ、飛鳥?奈良時代、中国の礼法を取り入れ、身分に応じたお辞儀の形が制定されたのがお辞儀の始まりといわれています。お辞儀には「立礼」、「座礼」の2種類があり、また礼の深さで分類すると「最敬礼」「敬礼」「会釈」の3種類があります。また、「礼三息(れいさんそく)」という言葉があり、息を吸いながら腰から上を前に倒し、止まったところで息を吐き、そして再び息を吸いながら元の姿勢にもどります。これをすると大変丁寧な印象を与え、また自分自身の精神状態を落ち着かせる効果もあるようです。この微妙さが、日本人らしくて、いいじゃないですか。

エコからロハス

 日本における学校の黎明期を見てきましたが、最新の学校とは、どのような学校なのでしょうか。日本建築学会が、文部省委託調査研究により平成5,6年度に「環境を考慮した学校施設のあり方に関する調査研究」で、「エコスクール」という概念を打ち出しました。これを受けて、文部省と通産省の共同により平成9年度から5年間「環境を考慮した学校施設(エコスクール)の整備推進に関するパイロットモデル事業」をスタートさせました。その内容は、「太陽光発電」や「蓄熱式空調システム」により省エネルギー化を図ろうというタイプが提案されました。以後、「CO2排出量の削減」「自然共生」「木材建築」「資源リサイクル型」「運動場の緑化」などの事業も行われました。この発端は、もちろん世界的に「京都議定書」で合意された温室効果ガス削減目標や「地球温暖化対策推進法」など、環境保全の取り組みからです。それは、新しく新設、改築された学校施設が、改築前の施設に比べてエネルギー使用量やエネルギー原単位が大幅に増加していることから、見直されたのです。しかし、それはなかなか難しいようです。昔よりは、生活水準が上がり、人工照明による照度基準が上がり、空調、換気設備の設置も増えました。また、特別教室の充実、多目的スペースの導入、ITに対応した設備、バリアフリー化のためのエレベーター設置など、時代の変化により、昔よりエネルギーが必要になってきています。人は、どうしても、快適に過ごそうとすると、それを機械に頼ろうとします。エコスクールというような、単に環境に配慮すれば省エネルギーになるという考え方には、無理があります。もっと、社会のあり方、人としての生き方に関係してきます。そういう意味で、最近いろいろなところで使われている「ロハス」という考え方を、学校建築にも導入しようとしています。すなわち、「ECOからLOHASへ」ということです。LOHAS(ロハス)とは、「Lifestyles of Health and Sustainability」(健康で環境にやさしいライフスタイル)の略で、もとはアメリカで生まれた概念です。意味は、「健康や環境に配慮し、持続可能な社会を志向するライフスタイル」のことです。これが、かつての環境への取り組みと異なる点は、従来の環境保護運動のように、何が何でも自然環境を守ろうと唱えるのではなく、自分が健康で気持ちよいスタイルを送りながら、自然や環境にとって良いことをできる範囲で行おうというスタンスです。このような考え方による学校施設への取り組みは、もちろん、教育内容にも反映しなければ意味がありません。そんな建物の中で、教師からの一方的な注入主義的教育を行ったり、子どもを監視するような間取りでは、豊かな生活が送れるはずはありません。ましてや、乳幼児の発達を促し、子どもの主体的な活動や自発的な遊びを保障する幼児施設ではなおさらです。「エコからロハスへ」ということは、「教育から援助へ」「注入から引き出すへ」「監視から見守るへ」というようなことです。また、子ども集団も、「共同体から共異体へ」「一斉から協同へ」と変わっていかなければならないのです。この新しい価値観の変化は、教育、保育の変化ではなく、生き方の変化なのです。いっせいに、国の号令で環境問題に取り組む時代から、個人が、自分でどう生きるかに結び付けて環境を考え、自分では何ができるかをそれぞれが考える時代にしていかなければならないのです。それが、世界に通用する人材になっていくことであり、世界に貢献していける人材になっていくのです。

柳池校

 明治2(1869)年5月21日に上京第二十七番組小学校が富小路通御池角で開校式が挙行されました。明治6年現在地に新築移転。これが柳池(りゅうち)小学校です。昭和22(1947)年,新学制施行により,柳池中学校となり,平成15(2003)年4月,京都城巽中学校と統合し京都御池中学校となりました。この中学校の建物には、保育所や高齢者の施設を併設し、さらに御池シンボルロード整備事業のにぎわい施設の一環として、御池通に面した1階には,商業文化機能を備えた複合施設として建設しました。この保育園の保護者向けに、昨日、講演をしてきました。私の母校のブログで、東京都区内で一番古い小学校と書きましたが、この、もともとの中学校が、日本で一番古い小学校だったのです。
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 京都は、江戸時代から漢学・国学・洋学や町人の道徳哲学である心学などの私塾や寺子屋の伝統が築かれていました。このような風土のなか、慶応3(1867)年,寺子屋を営む篤志軒八代目西谷淇水が官立の教学所設立の建白を出しました。のちに二代目府知事となった槇村正直が強力に小学校建設を推進し、読書・習字・算術の稽古場として、1組に1か所の小学校建設を計画しました。当時、京都府(今の京都市中心部)には上京、下京合わせて66の自治組織「番組」がありました。その番組ごとに小学校と町組会所を併設する町組会所兼小学校の構想を立てました。第二次町組改正が行われ,明治2年1月末に新しい町組が成立すると小学校建設は急速に進められました。日本で最初に発足したこの町組会所兼小学校を,一般に番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)と呼びます。そして、明治2(1869)年に上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と,下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で開校式が行われました。その後,次々と開校し,明治2年内にすべての開校が完了しました。日本の学制頒布は、明治5年です。ですから、これらの京都の小学校が、日本で一番古い学校になるのです。そのころの多くの小学校は,地元有志の寄附や寺社の敷地の一部でまかなわれ、運動場もなく、民家とあまり変わらない大きさでした。また、教育内容は府独自の規則により、筆道、算術、読書の3教科を中心として行われました。また、小学校は単に教育機関であるだけでなく、町会所であり、府の出先機関でもあり、警察・交番や望火楼までも設置し、塵芥処理や予防接種など保健所の仕事も担っていました。まさに、地域の核となる施設だったのです。ですから、経費の一切は町組が負担しました。明治5(1872)年8月,政府はフランスやアメリカの制度にならった学制を発布しました。これにより大・中・小学校の区分が示され、行政区画とは別に人口600人を基準とする小学校区が定められました。そのとき、京都では大・中学校区は学制に従って編成しましたが、小学校については,これまでの行政単位としての町組ごとに作られていたので、そのまま組を校区という方針を継続し、第何区小学校としました。さらに,区は組になり、学区と改称されていったのです。ですから、学区は単なる通学区域ではなく、独自の財源を持ち、教育経費を負担する自治団体だったのです。戦後になっても、学区は地域の社会福祉をはじめとする地域行政の核となり、京都独自の地域住民の自治単位として機能しています。これは「元学区」(もとがっく)と呼ばれています。これは、今また学校の課題を提案しています。
 これで、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある湯島聖堂から始まり、都区内最古の「育英小学校発祥之地」という石碑から、「日本最初小学校 柳池校」という碑まで、回ってきたことになります。これは、結果的にそうなっただけで、意図して回ったわけではありませんが、おもしろいですね。
 

大きくなって

 いま、サッカーのワールドカップ参加メンバーが公表されて、巷では大騒ぎです。楽しみな人も多いことでしょうね。しかし、どのくらいの順位くらいになるでしょうか。ベストエイト位で上出来だと思っている人が多いようですが。
 先日の日経新聞に面白いことが書いてありました。ジェフ千葉CMの祖母井さんの記事です。
「U-12 (12歳以下)のW杯はないが、昔、日本でこの年代の世界選手権を行ったことがある。いつも優勝するのは東アジアの日本、韓国、中国で、サッカー大国のブラジルやドイツは大差で負けていた。しかし、大人のW杯になれば立場は逆転する。どうして日本のU-12は強いのか。理由は簡単で、練習量の差。一般的に日本では、全国大会に出場するには週6回の練習が最低条件だそうだ。その量は年々エスカレートしているという。ドイツでは、日本のように毎日練習する少年チームはない。ほとんどのチームは週2回の練習+週1回のゲーム。大人の人たちが勝利至上主義に走らないように、日本のような全国大会は開催されてもいない。ジェフ千葉に入部してくる小・中学生の中には、既にスポーツ障害を抱えている子がいる。その障害が原因で大好きなサッカーができなくなるケースもある。過度のスポーツ活動による、目に見えない心の障害が生じているケースもある。全国のお父さんコーチや、お母さんマネージャーの皆さん、(自分の)子どものために、というのは分かるけど、大人の熱狂がエスカレートして奪ってしまう子どもの世界についても、しっかり目を向けてほしい…」
 私も、同様なことを心配します。今、学校から帰ってきてからの時間のすごし方、学校が休みの日のすごし方として、どうも子どもをスポーツチームに入れてしまうこともあるように思います。確かに、体とこころを鍛えることは大切でしょう。しかし、ただ、それをスポーツクラブに任せればよいというのとは違います。記事の中で、とても気になるのは、子どもの世界選手権でいつも優勝していたのが、東アジアの国々だということです。教育学者の佐藤学さんが「世界の中で一斉授業をしている国は、いまや、世界の中で東アジアの一角の7カ国のみである。」と10年位前に言っていたのを思い出します。また、あの学力世界調査のOECDのPASAの結果と、IEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSSの結果に対して、OECD東京センター主催の講演会の中で、中島氏がこういっています。「IEAが行ってきた理科と数学のテストで日本と韓国の場合は突出していたということは事実です。そのことが問題になりました、何らかの犠牲において、というのは人格的ということですよ。人格形成において欠けるんじゃないか、両国とも塾教育ですよ。詰め込み教育、無理をして叩き込む。むしろ、批判的な能力とか忍耐とか思いやりということが本当の意味において学力というものを形成するんじゃないだろうか。」
 両方に共通する部分が多い気がします。親たちは、いつの時点で活躍する子を作りたいのでしょうか。小さいうちに、「すごいね」といわれることを欲するあまりに、自分自身の力で生きていかなければならない時期になってから壊れてしまうような子どもにしてしまっては、決して、「子どものため」にならないのです。きちんと、将来の見通しが必要ですね。

母校

 今日は、都内で会議がありました。場所は、蔵前の「保育会館」です。蔵前は、台東区にあり、両国に移る前は、「蔵前国技館」といわれていたように、国技館があったところです。(1月29日のブログ参照)都営地下鉄浅草線の 蔵前駅の300メートルほど西にある保育会館の斜め前に、浄土宗のお寺である「西福寺」があります。この門前に『育英小学校発祥之地』という 黒い立派な石碑と, その横に 説明板が建っています。
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 現在の 育英小学校は, この地から約500メートル南東にあります。私の出身小学校の歌詞を以前のブログ(4月2日)で紹介しましたが、この「育英小学校」が私の母校なのです。どうして、こんな石碑があるかというと、ある歴史があるからです。その小学校の歴史を紹介します。日本で小学校が初めて出来たのが京都で明治2年、東京では、翌3年の六校が最も古いもので、現在、特別区内では、「育英小学校」が最古の小学校なのです。明治2年(1869)3月、明治新政府は、幕府.藩による政治体制に代わる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に六つの小学校を設立することを発布しました。その一つが翌年、西福寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、それが、育英小学校の前身なのです。いま、開校日は同年6月23日で, 現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋附近に居住していた旧大名・旗本 及びその家臣の子弟たちが入学したといわれています。 したがって, 当地は, 同5年8月の学制発布に先だつ, 東京で最も早い公立小学校発祥の地なのです。明治3年府達として「兼テ 御布告之通(明治二年三月布告)小学開業相成候間、左之日割之通相心得 幼年生徒有志輩 朝五ツヨリ出席可致候事事」この太政官布告により幼年生徒有志輩は、入学するのが建前となり、今までの寺子屋教育は廃止されて秩序ある小学校教育が始めらました。当時の校長は幕府の目付役だったそうです。生徒数約800名といわれていますが、今は、100名余なので、かなり多かったですね。明治6年5月、第五中学一番小学と改称。児童数約20名。授業料は月5銭から最高50銭(米一升が7銭の時代)だったそうです。そして、明治6年新堀学校と呼ばれ、のちに松前学校と改められ、明治10年8月、育英小学校と改称し、現在の場所に移りました。そして、明治11年8月 公立育英小学校と改称しました。「育英」という名前の学校は、各地にありますが、「すぐれた人を育てる」という意味です。
 明治18年に建てられた校舎は、煉瓦造りで屋上に木造2階建てが作られた和洋折衷の建物でした。そして、明治23年、「東京市育英尋常小学校」と改称します。この年、10月に「教育勅語」が発布され、日本の公立学校の全ての教育を規制することになっていきます。そして、明治28年には、通信簿が制定され、以後ずっと今まで続いています。最初は、「甲、乙」から、私のころは、「5,4,3…」で、今どうなっているかわかりませんが、通信簿を「あゆみ」とか名前は変わっていますが、引き継がれています。明治36年からは、「小学校の教科書は文部省に於いて著作権を有するものたるべし」ということで、以後太平洋戦争後まで、教科書の国定化が続きます。明治40年から、尋常小学校の4年制が6年に延長されます。その後、校舎は関東大震災で焼失しますが、私が在校していたときの校舎は、昭和3年に建てられたものでした。今は、近くの柳北小学校と統合して台東育英小学校となっています。市町村だけでなく、母校もだんだんなくなっていきそうです。(出身中学校は、統廃合で、今はもうありません)

黒豚

 今日は、鹿児島に来ました。鹿児島といえば、いろいろとイメージするものがありますが、まず、目に付くのは、いたるところに「黒豚」という文字です。「黒豚とんかつ」はもちろん、「黒豚マン」「黒豚シュウマイ」「黒豚餃子」「黒豚角煮」なんでも、豚肉を使う料理は、その前に「黒豚」が付いています。昼食は、それにつられて、「黒豚ラーメン」を食べました。「コラーゲンたっぷりの黒豚トロとんこつラーメン」です。また、夕食には、「黒豚しゃぶしゃぶ」をご馳走になりました。何で、こんなにも鹿児島は、「黒豚」なのでしょうね。
 日本で飼われている豚のほとんどは、「ランドレース種」(原産地デンマーク)「ハンプシャー種」(原産地アメリカ)「大ヨークシャー種」(原産地イギリス)「デュロック種」(原産地アメリカ)のいずれかを組み合わせた雑種です。雑種というとなんだか聞こえが悪いのですが、実は、掛け合わせることで、肉質のよさなど両親の優れた能力をひき継ぐ種類を作るためです。その中で、鹿児島の「黒豚」といわれるバークシャー種(イギリス)は、純粋種として飼われています。バークシャー種は、イギリスのバークシャーとウィルトシャー地方原産の黒色種の古代種で、肉質、肉色とも良く、精肉に適しているそうです。
 豚肉は、日本人が一番たくさん食べている肉です。豚は肉を食べるためだけに飼われている唯一の家畜です。(他の家畜は乳や毛皮の利用を含めた、多目的で飼われています)紀元前3000年から7000年の古代オリエントの遺跡からすでに家畜化された豚 (つまりイノシシがすでに家畜化されていた)の骨が出土するそうで、人類の最も古い家畜の一つだと言われています。日本でも弥生時代の遺跡から家畜化されたイノシシ(つまり豚)の歯が見つかっていることから、そうとう昔から家畜化され、食用にされていたのではないかと推測されています。木の実や農産物に余剰がでるようになると豚に食べさせて太らせ、食料が不足する時などにつぶして食べていたのでしょう。しかしその後、 奈良時代の仏教の普及による肉食の禁止以後、1000年にわたって日本人の食卓からは(少なくとも表向きは) 消えてしまいます。明治時代になると再び肉食が奨励されるようになりますが、最初に普及したのは牛肉でした。 豚肉が本格的に普及するのは明治も末期になってから、銀座の洋食屋であるレンガ亭で発明されたトンカツによってというのは有名ですね。(レンガ亭ではポーク・カツレツと呼んでいます。)豚肉は急に加熱しても固くなりにくく 外から脂が染み込みにくいのでトンカツにぴったりなのです。また、今日ご馳走になったしゃぶしゃぶも、霜降り牛で良く食べますが、本当は、豚肉のほうが肉そのものから大変おいしいダシが出るので、おいしいといわれています。しかし、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教では豚肉の食用がはっきりと禁じられています。
 そういえば、最近、レストランで「イベリコ豚」ということも良く聞きます。やはり、スペインが原産の黒い毛と蹄を持つ黒豚で、野生に近い種のため自然放牧で肥育するそうです。ですから、上質の脂肪と赤身が特徴で、赤身には霜降り牛のようにサシが入るので、生ハムなどに良いといわれています。
 何も鹿児島だけで黒豚を食べる必要はないのですが、町おこしとしては、ヒットかもしれませんね。

前田から鳩山

 日本は、本当に四季折々に花が咲きます。今日は、母の日なので、町中でカーネーションを持った人とよくすれ違います。古代ギリシア時代から栽培されていたというカーネーションは、日本へは、江戸時代にオランダから渡来しました。そして、父の日に贈るというバラの花はそろそろ盛りになります。今日は、都内にある「バラ園」に行ってみようと思いました。まず、駒場にあると聞いて、井の頭線で、「東大駒場前」で降りてみましたが、何も書いてありません。駒場公園かと思って行ってみましたが、数本しか見つからないので、ついでにその園内にある「旧前田侯爵邸洋館」を見学しました。この建物は、旧加賀百万石・前田家の第16代当主・前田利為(まえだとしなり)侯爵の本邸として建てられ、当時「東洋一の邸宅」といわれていました。戦後、連合軍により接収され、極東軍司令官の官舎として使われていましたが、その後、東京都が建物と土地を買収し、東京都近代文学博物館となりましたが、いまは、この文学博物館は閉館しています。以前、ブログ(12月16日)に書いた鎌倉にある「旧前田侯爵家別邸」の本邸です。この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使しています。建物のデザインは、チューダー様式で、イギリス後期ゴシック様式を簡略化したもので、玄関ポーチの扁平アーチにその特徴をみせています。また、内部は一変して王朝風に装飾が施され、各室はイタリア産大理石によるマントルピースや角柱、壁にはフランス産絹織物や壁紙を貼り、イギリス家具などを配したヨーロッパ調ですが、こうした洋風の室内に江戸情緒をのぞかせる唐草に雛菊をあしらった文様なども見られます。1991年には東京都有形文化財(建造物)として指定されました。鎌倉の別邸は、三島由紀夫の小説「春の雪」の舞台として描かれていますが、映画「春の雪」では、こちらの本邸が撮影に使われたそうです。
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  「旧前田侯爵邸洋館」と「鳩山会館」
 そのあと、「バラ園」がある「鳩山会館」に行ってみました。ここは、小沢が党首になる少し前に民主党で「桜を見る会」をやったことで有名になりました。文京区の音羽の丘にあります。鳩山家は、衆議院議員の和夫、総理大臣となった一郎、外務大臣をつとめた威一郎、さらに衆議院議員の由紀夫、邦夫、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てたと入り口の案内板に書いてあります。この洋館を建てたのは一郎で、美しい洋館が姿を現したのは、関東大震災の翌年大正13年です。ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行なわています。設計を手掛けたのは一郎の友人である、大正・昭和初期を代表する建築家として知られる岡田信一郎です。彼は、歌舞伎座も設計しています。19世紀末にフランスで実用化された鉄筋コンクリートの技術は、20世紀の始まりとともに世界中に広まり、耐震的な建築構法を模索していた日本でも、その新工法にとびつくことになる。鳩山邸がつくられた頃には、すでに耐震建築理論まで研究されていました。岡田は、この建物の設計において、快適なイギリス風邸宅をつくること、最新の鉄筋コンクリート工法を駆使し、安全で開放的な洋館をつくることを課題としました。いまは、公開されています。そして、イギリス風の外観の前に広がるバラ園では、さまざまな種類、色のバラが咲いていました。
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母と父

 明日は、5月の第2日曜日なので、「母の日」です。というのに、今日は、園に大勢の父親が集まって、会議をしました。それは、6月の第3日曜日の6月18日が父の日だからです。というのは、父の日にちなんで、園を1日中、園長から始まって、各クラスの担任もすべて父親だけで保育する日の、第1回打ち合わせをしたのです。
 日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと伝えられています。昭和に入ると、当時の皇后の誕生日であった3月6日を母の日としていました。一般に広く知れ渡ったのは1937年に森永製菓が告知を始めたことをきっかけだとも言われます。日本で、世界的発想の記念日は、大体、企業が広めるのですね。日本で最初にバレンタインデーの広告を出したのは戦前にモロゾフでからでした。それは、あまり定着しませんでしたが、戦後、メリーチョコレートが、東京・新宿の伊勢丹デパートで「バレンタインには女性から男性へチョコレートを贈りましょう」というキャンペーンを行なって、その後、日本チョコレート・ココア協会が、2月14日を「チョコレートの日」と制定し、デパートなどの流通業界も加わって大々的にチョコレート商戦を繰り広げたため、1970年代後半から定着し始めたといわれています。まんまと成功しましたね。日本の「父の日」は、1950年頃から広まり始め、一般的な行事となったのは1980年代です。母の日のシンボルフラワーとしてカーネーションがあるように、父の日のシンボルフラワーは、バラの花です。アメリカでは、「母の日」「父の日」とも祝日です。父親が育児をすることの意味を、私は、何回か園の巻頭言で書きました。そのうちのひとつを紹介します。
「90年代以降、父親論が盛んに行われるようになりました。最近、アメリカでは、子どもの教育が未来社会のための最も重要な投資であるという認識のなかで、子どもの社会化環境に対する危機感の強さから父親政策に力を入れています。ある書物(It takes a Village)では、父親をすることの意味は?との問いに対する答えとして、以下の5つがあげられています。
1、母親だけでなく、父親もかかわることで、子どもの発達によい影響をもたらす。
2、父親がかかわることで、母親の子育てにゆとりをもたらす。(母親にとって)
3、父親の生活に幅と厚みをもたらす。(父親にとって)
以上の点は、よく言われることですが、以下の二つは、これからの時代にとても大切なことです。そして、それが、保育園で行われる「父親保育」の目的なのです。
4、父親をするというのは、家庭を閉ざしてわが子の父親をのみするのではなく、家庭を社会に開き、地域の親たちとかかわり、地域の子どもたちの父親になるということが重要なのです。親たちが地域のネットワークの中にしっかりと足場を持っていることは、子どもたちに安心感をもたらすのです。
5、父親をすることで、夫婦の、あるいは男女の新しい関係の構築につなげるのです。育児について、母親、父親どちらか一方が主役ではなく、柔軟な男女の関係が子どもに伝わることが必要なのです。」

暗くなる前に

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 アイヌ民族出身のアイヌ文化研究者である萱野 茂(かやの しげる)氏が、先日の5月6日に亡くなりました。アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続け、アイヌ初の日本の国会議員になり、在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会の質問で史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られています。
 私は、アイヌ文化がなんとすばらしく、誇り高いものであるかということを感じたのは、石森延男の「コタンの口笛」を読んでです。この作品は、教科書に取り上げられたり、小中学校の課題図書になったりしていましたが、1970年以降はアイヌ民族に対する善意のあり方や、差別問題の取り扱いについて問題提起がなされています。もちろん、そういう問題があるので、この作品が一概にいいといってよいかということはあるでしょうが、私としては、この本を通して、アイヌ独特の文化、狩猟民族としてのほこりと自然を大切にする心、そして、特に「アイヌ刺繍」に感動しました。アイヌ民族の伝統紋様を、女性は衣服に刺繍を施し、男性は道具類に彫ります。これらの美しさと、そのもつ意味に感動して、そのあと、どうしても見たくて、北海道に見に行った経験があります。
 萱野 茂氏が、アイヌ文化振興法の成立に貢献しますが、この法律は、「アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする(1条)」とあります。この法律を成立させ、国会議員としての目的を果たした萱野氏は1期限りで引退します。その際「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」 という言葉を残したことで有名です。私は、狩猟民族だけでなく、農耕民族も日が沈む前には、家に帰っていたと思います。特に、農耕民族であった日本人の多数は、日が昇るとともに若い男女とも田畑に行って働きました。そして、日が沈む前には家に帰り、子どもの前で家での仕事をしたでしょう。私は、男女とも働くのは当然だと思いますが、今は、家に帰るのが男女とも遅すぎる気がします。やはり、暗くなる前には家に帰れるような社会であって欲しいと思います。何も、夜中まで買い物をする必要はありませんし、夜中まで、テレビを放映する必要はないと思うのですが。もちろん、どうしても、病院とか、夜中まで必要のある職業はあるでしょうが、今、遅くまでやっている職業が、「どうしても、しかたなく」とは思えません。しかも、せめて、子育て中の親は、暗くなる前には、子どもの前に姿を見せて欲しいと思います。ヨーロッパなどに行くと、基本的には、夜遅くまで店が開いていることはありません。また、ヨーロッパの大都市に行ったとき、日曜日に買い物をしようと日本でいう銀座のような町に出たところ、店を開いていたのは、日系人が経営している店だけでした。仕方なく、「ウインドウショッピング」をしたわけです。もちろん、これは、キリスト教の習慣から来ているのですが。日本も、もう少し、会社にしても、お店にしても、ゆとりを持った、人間としての行き方を保障するような、成熟していく社会を目指して欲しいですね。