日本橋

 先日の日曜日に、日本橋に行ってみました。最近、日本橋は大きく変わろうとしています。最近、デパートや、歌舞伎座などの建て替えで、高さ制限でも問題が起きています。街の景観を大切にしようというものですが、私から見ると、最も街の景観を壊しているものは、いわゆる「日本橋」という橋の上を、首都高速道路が走っていることでしょう。これは、バブルの頃の、東京オリンピックを象徴として日本中がただ前ばかりを向いていた頃の名残です。今、この道路を移転しようという話が出ていますが、莫大な費用がかかるそうです。そう簡単には、街づくりは元に戻せないのです。日本中で、街の動線が変わろうとしています。しかし、慎重にやらないと、簡単には元には戻せません。ある説によると、「町」は、田んぼの中の道のことをいい、「街」は、交差する道路のことを言い、「まち」という音は、「みち(道)」に通ずるというように、街づくりは、「道作り」でもあるのです。そして、その道は、人の通るところということで、「人づくり」でもあるのです。江戸時代から、そのすべての起点である「日本橋」は一種独特な思いがあります。私は、台東区の鳥越(浅草橋とか、蔵前の近く)というところに住んでいましたが、そこには都電が2路線走っていました。ひとつは、31系統で、私がよく乗っていたころは、東京駅丸の内北口から、以前ブログで書いた合羽橋を通って、三ノ輪駅前までです。もうひとつは、22系統で、起点は南千住、終点は新橋で、浅草?浅草橋?日本橋?京橋?銀座というルートでした。昭和42年には、日本橋までに短縮され、昭和46年3月17日には、営業終了しています。中学1年生の頃は、この都電に乗って、通学していましたし、休みの日には、よく、これに乗って、浅草とか、日本橋、銀座に行ったものです。
toden.jpg
その頃、日本橋というと、デパートを思い浮かべます。まず、「日本橋三越」です。入り口のライオンの像は、子どもの頃に読んだ、確か江戸川乱歩の「怪人二十面相」の中のどれかでしたが、そのライオン像の下に誰かを隠したという話があって、今でもその下に誰かを隠してある気がします。また、よく行ったのは、角の「白木屋」でした。その白木屋は戦後一時、進駐してきた米軍が接収し、米軍のPX(購買部)になりました。その後、昭和40年ごろに接収解除を受け、デパートとして営業しました。この白木屋は、のちに東急百貨店日本橋店になります。もうひとつ日本橋には、「日本橋高島屋」もあります。そして、一時交通が不便で行きませんでしたが、いまは、地下鉄がかなり便利になり、よく行くようになりました。
いまや、日本橋地区は、昨年オープンした「COREDO 日本橋」に続き、「日本橋三井タワー」、「三井記念美術館」など、街が活性化されている注目の地域です。
mitui.jpg三井記念美術館
三井グループで知られる三井家は、三井高利が伊勢松坂から息子達に指示を出し、1673年に江戸本街に「越後屋」を開店したことに始まります。今の三井本館は、昭和初期の日本を代表する重厚な洋風建築として、国の重要文化財に指定されています。その三井本館の中に「歴史的建築物の保存と周辺と調和した開発の両立」として、「三井記念美術館」を作りました。日本橋三井タワーの1階アトリウムが美術館の入口となり、入る前に美術館のある昭和初期の重厚な建築を見て、超高層ビルの入口から展示室に導かれるという趣向です。新しい試みです。