母校

 今日は、都内で会議がありました。場所は、蔵前の「保育会館」です。蔵前は、台東区にあり、両国に移る前は、「蔵前国技館」といわれていたように、国技館があったところです。(1月29日のブログ参照)都営地下鉄浅草線の 蔵前駅の300メートルほど西にある保育会館の斜め前に、浄土宗のお寺である「西福寺」があります。この門前に『育英小学校発祥之地』という 黒い立派な石碑と, その横に 説明板が建っています。
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 現在の 育英小学校は, この地から約500メートル南東にあります。私の出身小学校の歌詞を以前のブログ(4月2日)で紹介しましたが、この「育英小学校」が私の母校なのです。どうして、こんな石碑があるかというと、ある歴史があるからです。その小学校の歴史を紹介します。日本で小学校が初めて出来たのが京都で明治2年、東京では、翌3年の六校が最も古いもので、現在、特別区内では、「育英小学校」が最古の小学校なのです。明治2年(1869)3月、明治新政府は、幕府.藩による政治体制に代わる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に六つの小学校を設立することを発布しました。その一つが翌年、西福寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、それが、育英小学校の前身なのです。いま、開校日は同年6月23日で, 現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋附近に居住していた旧大名・旗本 及びその家臣の子弟たちが入学したといわれています。 したがって, 当地は, 同5年8月の学制発布に先だつ, 東京で最も早い公立小学校発祥の地なのです。明治3年府達として「兼テ 御布告之通(明治二年三月布告)小学開業相成候間、左之日割之通相心得 幼年生徒有志輩 朝五ツヨリ出席可致候事事」この太政官布告により幼年生徒有志輩は、入学するのが建前となり、今までの寺子屋教育は廃止されて秩序ある小学校教育が始めらました。当時の校長は幕府の目付役だったそうです。生徒数約800名といわれていますが、今は、100名余なので、かなり多かったですね。明治6年5月、第五中学一番小学と改称。児童数約20名。授業料は月5銭から最高50銭(米一升が7銭の時代)だったそうです。そして、明治6年新堀学校と呼ばれ、のちに松前学校と改められ、明治10年8月、育英小学校と改称し、現在の場所に移りました。そして、明治11年8月 公立育英小学校と改称しました。「育英」という名前の学校は、各地にありますが、「すぐれた人を育てる」という意味です。
 明治18年に建てられた校舎は、煉瓦造りで屋上に木造2階建てが作られた和洋折衷の建物でした。そして、明治23年、「東京市育英尋常小学校」と改称します。この年、10月に「教育勅語」が発布され、日本の公立学校の全ての教育を規制することになっていきます。そして、明治28年には、通信簿が制定され、以後ずっと今まで続いています。最初は、「甲、乙」から、私のころは、「5,4,3…」で、今どうなっているかわかりませんが、通信簿を「あゆみ」とか名前は変わっていますが、引き継がれています。明治36年からは、「小学校の教科書は文部省に於いて著作権を有するものたるべし」ということで、以後太平洋戦争後まで、教科書の国定化が続きます。明治40年から、尋常小学校の4年制が6年に延長されます。その後、校舎は関東大震災で焼失しますが、私が在校していたときの校舎は、昭和3年に建てられたものでした。今は、近くの柳北小学校と統合して台東育英小学校となっています。市町村だけでなく、母校もだんだんなくなっていきそうです。(出身中学校は、統廃合で、今はもうありません)