オープンスクールの原点?

 世界の先進諸国では、1960年代から学校建築に対してまったく新しい教育的要求を打ち出し、これに基づく教育施設が数多く建設されるようになって来ています。それは、新しい時代が要求する教育目標に沿ってのものです。その目標は、教育の「個別化」「多様化」であり、それに即応するシステムとして「オープンスクール」というものが生まれました。アメリカでは、1950年代の後半になって出現し、それと同時に、「個別学習」「ティームティーチング」「ノングレーディングシステム」などの教育方法も生まれました。よく、オープンスクールというのを、「壁のない学校」ということがありますが、確かに、当初は、建築的な意味から、教室という箱を並べて細長い校舎を作るよりは、中に壁の少ない、外壁の量も減る四角に近い校舎の方が安くできるということからでした。太陽信仰があまりなく、エアーコンディションをするのに、外気を取り入れるという考えが薄く、また、地震が少ないという国ならではの発想かもしれません。それが、あっという間に現在の教育革新と、それに対応する施設環境とがあい、評価され、もう半数以上の学校がみんなオープンスクールになっています。ですから、いま、辞書で「オープンスクール」と引いてみると、「子供の能力や適性に応じて個別に教育計画を立て,開放された空間で自主的な学習を進める教育形態。あるいは,そうした教育を行う学校。(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)」と出てきます。また、イギリスでは、違う考え方でした。イギリスは、クローズドシステムを基調にしてきたので、セミオープンプランスクールとして、活動が完結する教室周りを考え、それをどうつないでいくかということを考えました。クラスを解体して、一人ひとりの学習を中心において、学習集団を弾力的に考えるアメリカに比べて、イギリスでは、ホームルームという室は固定して、そこに生活集団としての居場所を作り、学習集団をオープン化していくという考え方です。最近、日本でもよく見られる学校は、このスタイルが多いようです。
 こんな世界の影響を受けて、日本でも様々なオープンスクールができてきていますが、先日、江戸時代のオープンスクールを見てきました。高遠進徳館です。当時、財政困難の続いた高遠藩では、他の大藩のように藩校をもてず向学心に燃える武士は儒官や武術師範の家に通って勉強していました。万延元年(1860)最後の高遠藩主・内藤頼直は、先代からの願いであった藩校にかわるものとして、藩士養成のために、城内の三の丸の空き家を改造して三の丸学問所を開設しました。後に林大学により「進徳館」と称されるようになったものです。現在残されている建物は、国の史跡に指定されています。
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 この平面図を見てみると、大きな部屋を区切っているのは、構造体ではない壁(障子とか襖)であり、学習内容によって、部屋を大きくしたり小さくしたりします。廊下は、大きな部屋の周りにあり、部屋をもっと大きくしたいときには、そこにも薄縁などを敷いて部屋の一部にします。そして、生徒は、異年齢集団であり、習熟度別で、先生もティームでします。
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 それは、ここだけに限りません。先週の日曜日に行った湯島の聖堂にある「昌平坂学問所」もそうでした。その他、どの藩校も、概ね、どの寺子屋もそうでした。オープンスクールという発想は、日本の方が早いかもしれませんね。外国の教室は、教会の牧師さんがお説教をするイメージからですから。