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2006年05月31日 読書

宇宙日記

 一昨日、景観について書きましたが、看板なり景観を損なっているものを、もっと上空から見るとどうでしょうか。たとえば、飛行機に乗って下を見たときの景観を壊しているものは何かというと、看板ではありませんし、電柱でもありません。私から見ると、それは「ゴルフ場」の気がします。ゴルフ場ラッシュの地域の上を飛ぶと、山肌は削り取られ、川は茶色によどみ、見るからに無残です。山が開発され、町ができ、道が敷かれる景色は、それと比べるとあまり、自然を破壊しているようには見えないほどです。本当は問題なのでしょうが、上空に上がると違ったものが見えてきます。もっと、上空から日本、地球を見るとどう見えるのでしょうか。昨日、知人からある本をいただきました。「宇宙日記」(世界文化社)という本です。この本は、ディスカバリー号に乗っていた15日間のことを、野口聡一さんがシャトル内で日記として書いたものです。この本の「はじめに」に、宇宙から見た地球の景観のことが書かれています。そのなかに書かれている文章に、
「実際に宇宙空間に出て見た地球はすばらしいものだった。宇宙船の中から見るのと、船外活動中に見るのは本質的な違いがある。」
とあるように、今までの宇宙飛行士が地球を見たときの感想と違うものがあるようです。最初に宇宙船から地球を見たガガーリンが「地球は青かった。」と言って有名になりましたが、野口さんは、宇宙船内からガラス越しに見る地球は、景色を見ている感じだそうです。というのは、機械のある船内と、外の景色は違うものとして見えるからだそうです。それに引き換え、船外活動をしているときに見る景色は違うようです。私も、飛行機から見る景色は、やはり、どこか傍観者的なところがあります。では、野口さんは、宇宙船から外に出て、地球がどう見えたのでしょうか。
「同じように宇宙空間に漂う同士として、ある意味地球と対等な立場で向き合うことができる。二次元的な景色でなく、三次元的な、まるで意識を持った存在として地球を感じることができる。それが、圧倒的な存在感であり、手を伸ばせば届きそうなリアリティーであり、生命の輝きに満ち溢れた天体であるのだ。」
 私たちも、地球の上で、地球そのものと一体となって生き、生活をしているのです。決して、どちらがどちらを征服するのでもなく、どちらが優位に立つというわけでもなく、ともに生きているのです。どうも、それを忘れている気がします。そのことを、野口さんは、こう言っています。
「宇宙飛行をして外から地球を見るという経験は人を変えずにはいられない。なにしろ生まれて以来見てきた全ての人々、全ての生命、全ての景色、全ての出来事は、目の前にある球体で起きたことなのだから。」
 私たち人間でさえも、地球という景観の中のひとつなのでしょう。そう考えると、「景観を壊しているのは、人間である。」といわれないように、そこでの生活を考えないといけないのかもしれません。この球体のなかで、自然を壊していくというのは、人間を壊しているということにつながるからです。野口さんの「宇宙日記」を読んでいて、自分自身が宇宙の船外活動をしながら地球を眺めている気になってしまったのかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 19:56 | コメント (4)

2006年05月30日 近頃思うこと

わが大地

 新聞の下のほうには、毎日、旅行案内が載っています。それを見ていると、まだまだ、日本はすばらしいところがたくさんあるのだと思います。数日前までの旅行先の花形は、「知床、富良野、旭山動物園」という三箇所をめぐるというものでした。どの旅行会社も、その三箇所が必ず入っています。それに、何々の食べ放題とか、何々温泉宿泊とか、それぞれ工夫を凝らしています。
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  下のほう見えるのが、なかふらの保育園かな?
 私は、昨年、7月の連休を利用して妻と二人で、まさにこの三箇所をめぐったのです。今は、知床が世界遺産に登録されていますが、知床に行こうと思い、予約をした時は、まだ登録されていませんでした。確か、ちょうど行っていた前後に決まった気がします。また、旭山動物園は、もう既に建て直しと、さまざまな企画で有名になり始めていました。ただ、旅行としては距離や日程等の関係で、知床と旭山動物園の二箇所にしていたのですが、たまたまついでにということで、旭川と富良野で講演を頼まれ、ちょうどラベンダーがきれいだという言葉に誘われて、日程を延ばしました。今となっては、誘われてとても良かったと思います。とてもきれいだったからです。つくづくと、日本のさばらしさを実感しました。
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   富田ファーム
 日本という大地の巣晴らしさを歌った歌があります。「わが大地のうた」という歌で、作詞が「笠木透」氏です。彼は、そのほかにも、日本という大地のすばらしさを謳った歌詞がいくつかあります。この歌を最初に知ったのは、高石ともやとナターシャセブンのアルバムでした。(今は、本人が歌ったCDを持っています)この歌は、とてもスケールの大きな歌で、日本全土が見渡せる気がします。歌った高石氏が「こんな歌を唄ってしまうと、もう唄う歌がない」と言わせるほど、大きなテーマを抱えた歌です。田口正和氏の作曲も、思わず口ずさんでしまうほど素晴らしいものです。
1.から松 こめつが 針葉樹林 かもしか 月の輪熊 走る稜線
そびえ立ち 連なる わが山々よ そびえ立ち 連なる わが山々よ
いくたびか春をむかえ いくたびか夏をすごし いくたびか秋をむかえ いくたびか冬をすごし
2.柿の木 赤土畑 広がる水田 かわやなぎ 青い水 流れる河川
この土地に 生きている 私の暮らし 私に流れる 人たちの歴史 
私がうたううたではない あなたがうたううたでもない わが山々が私のうた わが大地が私のうた
3.かるかや かやつり草 積乱雲 からすうり 月見草 風渡る草原
この土に 私の すべてがある この国に私の 今がある 
いくたびか春をむかえ いくたびか夏をすごし いくたびか秋をむかえ いくたびか冬をすごし
4.かもめどり 黒松 岩礁海岸 かつおどり うみつばめ うねる水平線
この国の 歴史を 知ってはいない この国の未来を知ってはいない
けれども私は ここに生まれた けれども私は ここで育った 
私がうたううたではない あなたがうたううたでもない わが山々が私のうた わが大地が私のうた
 この歌を、私が1年生で担任した子達数人が小学校の卒業式の夜、私の家に集まり、歌ってくれました。卒業生の歌として歌ったのだそうです。カセットに吹き込みました。

投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (1)

2006年05月29日 新聞記事より

景観

ドイツに行って、バスに乗ったときにガイドさんがこう質問しました。「ドイツの町並みを見てください。町並みを見て日本にはよく見られるもので、ドイツではほとんど見ないものが二つあります。なんでしょうか。」「それは、自動販売機と看板です。」確かにその二つがありません。日本で、今、景観を壊すものとして挙げられているものに、「電線や電柱が数多く走る街並、無秩序な看板やネオンサインの乱立、駅前の放置自転車、公共地域での乱雑なごみ放置、歴史的建造物に重なる大型建築物、海岸を埋め尽くす波消しブロック」といわれています。ドイツでは、もちろん電線や電柱もありません。それは、地下に埋まっているからです。あると思うと、市電の電線です。
先日の朝日新聞に「悪い景観100景」選定 「風格なし」「看板洪水」という記事が出ていました。これは、都市計画、建築、土木などの専門家グループが、日本の「悪い景観100景」の選定を進めているものです。巨大看板、電線電柱、不況の街のシャッター商店街などが挙げられていますが、私がブログで景観を壊すものとしてあげた、小泉首相が「空の復活」を提唱した日本橋も含められています。70カ所をすでに選んで、写真にコメントをつけてホームページで公表していますが、そのほとんどは、看板です。ビルに巨大な看板がある銀座の一角は「世界の銀座にふさわしい風格が見られない」、新宿の夜景は「無差別な広告看板の洪水」などのコメントがつけられています。
ドイツの町並みを通るときに「マイバーム」というポールを見かけます。英語で言うなら「メイツリー」、日本語で「5月の木」です。
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長く寒い冬が終わった5月にこの木を村の広場に立て、その回りで踊って喜ぶのだそうです。日本でも、最近、札幌などにも立てられるそうです。大きな木の先端の枝だけを残して他の枝を落とし、幹は皮を削って飾り彫りにします。先端からはリボンを垂らしたりします。この先端を掴んで木の回りを男女が踊るのです。木の途中には看板を付けたりします。町によっては木ではなくポールに白と青(バイエルン州の旗の色)の螺旋の色を付けたものも目に付きます。これは、ただその周りで踊るだけでなく、かつて村の案内板の役割もしていました。この村にはこういった職人がいるよということを旅人に判るようにし、旅人はそれを見てその職人の元を訪れ修行したりするのです。ですから、共同の看板なのです。そして、それぞれの家には看板は立てないのです。それがあるというわけではありませんが、都会の繁華街でも、看板はもとより、宣伝用ののぼり、コンビニエンスストア、自動販売機、ガードレールなどは見られません。
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 何が景観としてよいのかというと、個人差があります。建物の形状や色などは、個人的な好みもあります。たとえば、少し前に、ビルの上にジェットコースターをつけようとして反対にあい、取りやめました。今回の「悪い景観」に選ばれてしまったなかにJR鹿児島中央駅駅ビルの観覧車があります。私もこの間それを見て奇妙に思ったのは事実ですが、作った鹿児島ターミナルビル側では、「地元では好評いただいているので意外です」と、当惑しているそうです。観光ポスターに写真が使われ、新しい名所にもなった。「住んでいる人と、中央の専門家の見方に差があるということなんでしょうか」と首をかしげているそうです。難しいですね。

投稿者 fujimori : 18:04 | コメント (1)

2006年05月28日 散歩

絹の道

 今日、駅まで歩いていく途中で、桑が時期をむかえて、実がいっぱいぶらさがっていました。以前のブログで書きましたが、私が今住んでいる八王子は、古くから桑都と呼ばれ、生糸絹織物の生産が盛んでした。養蚕も行われていました。そこで、駅前通りの街路樹は、桑の木なのです。桑の木には、まだ緑の実が付いていますが、アスファルトの上は、濃い紫色で汚れています。それは樹木の実が落ちてそうなっているのです。私は、子どものころ都心で育ったので食べませんでしたが、このあたりの子どもたちはよく桑の実を食べたそうです。桑の実をそのまま食べると、ほのかな、それでいて濃い甘味が口に広がるようですね。最近の子どもたちは食べないでしょうね。また、桑の実でジャムが作れます。先日、園で、2歳の子達が苺ジャムを作りました。
kuwanomi.jpg桑の実と苺ジャム作り
 桑の実は、鍋を弱火にかけて実をつぶすときに、苺よりもずっと固くて少し力がいるそうですが、同じようにつぶしたあと、砂糖、レモン汁を追加して煮詰めればできます。
安政年間に横浜が開港し、その後、鉄道が発達する明治の中ごろまで、八王子近郊はもとより、長野、山梨、群馬などの各方面で生産された生糸は、八王子宿に集められ、横浜に運ばれて行きました。この道が、鑓水道または浜街道と呼ばれ、のちに「絹の道」として知られるようになりました。シルクロードです。今は、ほぼ16号線に沿っています。このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。峠の一番高いところには、かつて道を行き交う旅人や村内の安全を祈って、道了尊を祀ったお堂がありました。現在は取り壊されて、跡地が大塚山公園として整備されています。しかし、今日は、雨上がりということもあって、足元が悪く、少し歩くのに苦労しましたが、人とあまりすれ違うこともなく、時たま鳥の鳴き声が聞こえ、昔がしのばれます。
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  絹の道
 この道の往来が盛んになるにしたがって、八王子は信州・甲斐方面からの生糸商人たちの拠点となりました。中でも名高いのは南部、鑓水から出た大商人たちで「鑓水商人」と異名を取るほどの天下を築き大活躍しました。商人たちは、蔵や外国商人接待用の異人館を建て、富を競いました。そのなかで、生糸商人として莫大な富を築き上げた八木下要右衛門の屋敷跡地が、現在では「絹の道資料館」となっています。館内には、当時活躍した鑓水商人たちの栄枯盛衰の歴史が、様々な展示品と共に紹介されています。そこの休憩室で少し休みました。
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   小泉家屋敷
 その資料館の近くに、 茅葺き屋根のどっしりとした重量感のある古い民家があります。ここは、東京都指定有形民俗文化財に指定されている小泉家屋敷です。入母屋造り、茅葺き、田の字形四間取りという、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築の様式を取っています。内部も見てみたかったのですが、ここには現在でも人が住んでいるので、見学は遠慮してほしいとかかれていたので、覗き込むだけにしました。離れの軒下には、たまねぎがぶら下がっていました。
 文庫本に「呪われたシルクロード」(辺見 じゅん著)がありますが、そこには、わずか300人足らずの貧しい小さな村に、巨額の富を一夜にして築きあげた「鑓水商人」と呼ばれる人々が多数出現するという、異常とも言える事態が発生し、またそれにまつわる悲劇、その後、国の政策に需要を奪われ時代の流れに取り残され、一夜の栄華の夢が儚く消えゆく様相、その界隈で起きた、新聞、マスコミ等を騒がせた殺人事件等が書かれているそうです。一度読んでみたいと思っています。

投稿者 fujimori : 21:45 | コメント (1)

2006年05月27日 新聞記事より

脳トレ

今日の読売新聞の夕刊のトップ記事が「老いも若きも 脳トレ」でした。最近、中高年に人気なのものに、携帯ゲームがあります。それは、東北大学未来科学技術共同研究センターの川島隆太教授が監修している「脳を鍛える 大人のDSトレーニング」というものです。川島氏の考えでは、「脳の機能は青年期を過ぎると加齢とともに低下するのは、体力や筋力が年々低下するのと同じなので、体力や筋力が毎日の運動習慣で低下を防ぐことができるように、積極的に脳を使う習慣をつけることによって、脳の機能の低下を防ぐことができる」というものです。
もうひとつ、脳で最近注目されているのが、以前のブログ(4月18日)でも書きましたが、「前頭前野」です。この部分の働きは、「蓄えられた知識をうまく活用する」「現実をうまく処理したりする」「創造・記憶・コミュニケーション・自制力などの源泉」といわれ、「本当の頭のよさ」とは「前頭前野」をうまく使えるかどうかであることは、みんな分かってきています。そして、川島教授は、「音読」や「計算」が脳に効果的なトレーニングであることを、機能性MRIで脳の血流を測定し、それを勧めています。すなわち「脳を鍛えるには簡単な計算を速く解くこと、声を出して文章を読むことが有効である」ということです。
 この川島教授のさまざまな提案は、なんだかいまさらどうしてと思うことがあります。確かに、今までのことを科学的に証明したことは分かるのですが、古くは日本でも、声を出して論語などを読むのが一般的な勉強方法だったのです。建物の間取りのオープンスペーススクールや、ティームティーチングも、習熟度別も、異年齢での学習も、みんな日本の藩校や寺子屋で行われていたことです。教育内容までもとっくに日本で行われていたことですね。また、百マス計算とか、簡単な計算から脳を育てるということも、昔から教育は、「読み」「書き」「計算」といわれていたことです。私は、それを実践したわけではありませんが、1年生を担任していたとき、「スピードテスト」というものをしていました。足し算を教えたとき、一桁+一桁の計算のパターンは限りがあり、それだけはその後縦書き計算を習っても暗算でやらなければならないと思いました。その全種類は覚えてもらったほうがいいと思い、わら半紙1枚に20題の足し算の問題を印刷し、それを何通りも作っておきました。そして、ある時間内に何題できたかで、下のほうに道路が描いてあって、そこに解けた目盛りの分だけ車が進めるようにしました。子どもたちは、喜んでそれをやっていました。朝、私が教室に行くまで自分たちでそれを出して、やったり、時間が空くとその問題をやりたがりました。まったく、百ます計算のようなことをやっていたのです。今となればそのおかげかもしれませんが、私のクラスだけ、ほかのクラスより知能テストが高く、他のクラスの先生からうらやましがられたものです。しかし、私は、そんなことのおかげとは思いません。子どもたちといっしょにものを考え、ふれあい、いろいろなことを経験させたからだと思っています。そして、いくら計算が脳にいいからといって、携帯ゲームでやるのはどうかと思います。音読にしても、子どもに読み聞かせをすればよいことで、画面を読む必要はないと思うのですが。やはり、人間を相手にすることが一番いいと思います。

投稿者 fujimori : 20:36 | コメント (0)

2006年05月26日 読書

アメリカの学校建築

 「アメリカの学校建築」(ボイックス)という本を買って読んでみました。執筆者は3人で、「柳澤要」「鈴木賢一」「上野淳」です。私は、最近はよくドイツに行き、ヨーロッパの教育に関する文献などを読みますが、アメリカについては、あまり読みません。以前アメリカに行ったときには、これからは、絶対にアメリカのようになっていくであろうと思いました。戦後、アメリカコンプレックスが強く、アメリカの文明が輝いて見え、アメリカを見習ってきたからです。しかし、どうも違う気がしてきました。あのように、国土が広く、開拓精神が強く、競争原理から発展してくるような国と違い、日本は歴史が古く、農耕民族独特の、社会とか、人々の関係性の中での生活をしている国です。ですから、ただ形だけアメリカをまねてしまうと、ひずみが起きてきてしまうところがあります。また、教育は、振り子のように行ったり戻ったりと、自由と規制の中で揺れ動き、日本とアメリカの動きに差があるからです。しかし、その中でも、世界で共通する動きがあります。それは、国の差を越えて、時代の要請があるからです。それを、知ることで私たちも進むべき道が示されることがあるのです。何度か、ブログでもヨーロッパ、特にオランダとか最近話題のフィンランドなどを紹介しましたが、アメリカの事情ももう一度見てみようと、この本を読んでみたのです。この本の中では、小学校から高校まで16校の優れたアメリカの学校を紹介しています。その最初のほうの、執筆者の一人である鈴木要氏のコラムを紹介します。「教師が前方の黒板の前に立って、クラスの児童・生徒に対して一斉に講義を行うというのが、日本の典型的な授業スタイルであるが、一方でアメリカではこういった一斉型の授業は少なく、個々の児童・生徒に対応した個別指導の教育が中心である。また児童・生徒が各々独自のカリキュラムを持っていることも多い。このような日本とは大きく異なる教育方法、授業スタイルがアメリカの学校の校舎や教育の空間構成に大きく影響を与えている。クラスの枠を超え児童・生徒を学習進度や学習テーマなどによって複数のグループに分け、複数の教師がそれぞれを指導する協力授業方式、いわゆるティームティーチングは、日本ではオープンプランスクールなどの一部の学校で見られるにすぎないが、アメリカではオープンプランスクール以外の一般の学校でもごく日常的に行われている。中には、学年の枠を超えた2学年合同、3学年合同といったティームティーチングも見られる。」
 東京大学大学院教授の佐藤学氏が、日本教育新聞の2005年3月18日版に「?一斉授業?の時代は終わった 変化する教室」という連載の1で書かれているのとまったく同じです。
「教室が静かに変化している。黒板と教卓に向かって机と椅子がばらばらに一列に並び、教師が教科書を中心に黒板とチョークを使って説明し、教師の発問と子どもの応答で進行する教室の風景。私たちがなじんでいるこの教室の風景は、欧米諸国では博物館に入りつつある。中略 この新しい教室の風景の新しい学びが、近い将来、世界中のすべての教室のスタンダードになることを確信したのは、カナダの学校をいくつか訪問し、その教室の実践を観察したときである。カナダの学校では、十五年前にすでに今日の世界の教室に波及している「静かな革命」が、ほとんどの学校で日常化していた。」
 15年以上経って、日本では、静かな革命が起きているのでしょうか。

投稿者 fujimori : 19:19 | コメント (0)

2006年05月25日 散歩

日本橋

 先日の日曜日に、日本橋に行ってみました。最近、日本橋は大きく変わろうとしています。最近、デパートや、歌舞伎座などの建て替えで、高さ制限でも問題が起きています。街の景観を大切にしようというものですが、私から見ると、最も街の景観を壊しているものは、いわゆる「日本橋」という橋の上を、首都高速道路が走っていることでしょう。これは、バブルの頃の、東京オリンピックを象徴として日本中がただ前ばかりを向いていた頃の名残です。今、この道路を移転しようという話が出ていますが、莫大な費用がかかるそうです。そう簡単には、街づくりは元に戻せないのです。日本中で、街の動線が変わろうとしています。しかし、慎重にやらないと、簡単には元には戻せません。ある説によると、「町」は、田んぼの中の道のことをいい、「街」は、交差する道路のことを言い、「まち」という音は、「みち(道)」に通ずるというように、街づくりは、「道作り」でもあるのです。そして、その道は、人の通るところということで、「人づくり」でもあるのです。江戸時代から、そのすべての起点である「日本橋」は一種独特な思いがあります。私は、台東区の鳥越(浅草橋とか、蔵前の近く)というところに住んでいましたが、そこには都電が2路線走っていました。ひとつは、31系統で、私がよく乗っていたころは、東京駅丸の内北口から、以前ブログで書いた合羽橋を通って、三ノ輪駅前までです。もうひとつは、22系統で、起点は南千住、終点は新橋で、浅草-浅草橋-日本橋-京橋-銀座というルートでした。昭和42年には、日本橋までに短縮され、昭和46年3月17日には、営業終了しています。中学1年生の頃は、この都電に乗って、通学していましたし、休みの日には、よく、これに乗って、浅草とか、日本橋、銀座に行ったものです。
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その頃、日本橋というと、デパートを思い浮かべます。まず、「日本橋三越」です。入り口のライオンの像は、子どもの頃に読んだ、確か江戸川乱歩の「怪人二十面相」の中のどれかでしたが、そのライオン像の下に誰かを隠したという話があって、今でもその下に誰かを隠してある気がします。また、よく行ったのは、角の「白木屋」でした。その白木屋は戦後一時、進駐してきた米軍が接収し、米軍のPX(購買部)になりました。その後、昭和40年ごろに接収解除を受け、デパートとして営業しました。この白木屋は、のちに東急百貨店日本橋店になります。もうひとつ日本橋には、「日本橋高島屋」もあります。そして、一時交通が不便で行きませんでしたが、いまは、地下鉄がかなり便利になり、よく行くようになりました。
いまや、日本橋地区は、昨年オープンした「COREDO 日本橋」に続き、「日本橋三井タワー」、「三井記念美術館」など、街が活性化されている注目の地域です。
mitui.jpg三井記念美術館
三井グループで知られる三井家は、三井高利が伊勢松坂から息子達に指示を出し、1673年に江戸本街に「越後屋」を開店したことに始まります。今の三井本館は、昭和初期の日本を代表する重厚な洋風建築として、国の重要文化財に指定されています。その三井本館の中に「歴史的建築物の保存と周辺と調和した開発の両立」として、「三井記念美術館」を作りました。日本橋三井タワーの1階アトリウムが美術館の入口となり、入る前に美術館のある昭和初期の重厚な建築を見て、超高層ビルの入口から展示室に導かれるという趣向です。新しい試みです。

投稿者 fujimori : 19:37 | コメント (1)

2006年05月24日 教員の頃

ぼくは おうさま

 先日の5月21日に、童話作家の寺村輝夫さん(てらむらてるお)が亡くなりました。寺村さんは、毎日出版文化賞を受賞した「ぼくは王さま」や、「おしゃべりなたまごやき」を始めとする王さまシリーズなどで親しまれています。寺村さんは、早稲田大学在学中に坪田譲治に師事し、「びわの実学校」の同人となります。私が好きな児童文学は、この「びわの実学校」に連載されたものが多いですし、その同人に好みの人が多い気がします。また、寺村さんの作品では、他に「ミリ子は負けない」「寺村輝夫のおばけ話・とんち話」や「こまったさん」シリーズなどの著書が多数あります。このなかの「ミリ子は負けない」は、女の子が主人公ですが、16ミリ映画にもなっていますので、各地の公民館などから貸し出しができます。集団生活の大切さを感じとっていく姿をほほえましく描いています。もう一度、少子社会での集団の大切さを子どもたちに伝えるのにはいいかもしれません。
それらの作品のなかでは、私は「王さまシリーズ」に、特別な思い出があります。それは、私が教員のころ、学芸会で1年生に何をやらせようと相談した結果、私が大好きだった「王さまシリーズ」を脚色して演じさせることにしました。そして、その劇中歌として、場面ごとに歌う曲を作詞作曲しました。歌詞は、こんなのです。
 「王さまの好きなのは、“おひめさま!”それから それから なんですか?“たまごやき!”こころのやさしい 王さまだ。 けれども きらいなものもある。“となりの国とのせんそう”と なかでも きらいなものは“べんきょう!” いつも大臣に “コラッ!”おこられています “べんきょう しなさい!” ほんとに やんなっちゃう ほんとに やんなっちゃう」
 たぶん、王さまシリーズを読んだことがある人は、この歌詞の意味が良く分かると思います。というのは、そのシリーズを私はほとんど読んだからです。学芸会で、その劇をする直前に、教室で子どもたちを待たせていたときです。クラスの子のなかで、普段落ち着きのない、元気なやんちゃな男の子がいました。その子は、待っている間に教室内で走り回り、他の子とぶつかって、目の上を切り、血がたくさん出てしまいました。その子は、劇の中で、重要な役である「大臣」だったので、大騒ぎでした。その子が今、医者になっています。大学に入るときに、私が、その子が医学部に入学すると聞いたときに、急いで、臨床医か、研究医か聞きました。あんな落ち着きのない子が、臨床医にでもなったら、体内にはさみでも忘れないか心配だったのです。でも、今は、臨床医になって活躍しています。でも、なんとなく、私が病気になったときに、手術を頼むのは心配な気がします。教え子は、私の中ではいつまでも、やんちゃな子どもです。もう立派に、子どももいるお父さんになっていても、いつまでもかわいく、また心配なものですね。そして、今の園が開園1年目のときの年長さんの劇が、やはり、「おうさまシリーズ」でした。もちろん、劇中歌を、何とか思い出してその歌を歌いました。
 わが子も、小さいころ、この「おうさまシリーズ」が大好きで、そのなかの何話かを、自分で読んで、それをカセットテープに吹き込んでいました。なぜ吹き込んだのでしょうね。一人で、部屋に閉じこもって吹き込んでいる姿が、今でも思い出されます。

投稿者 fujimori : 23:13 | コメント (1)

2006年05月23日 講演先にて

人吉市

 人吉市に行ってきました。人吉市は、宮崎県と鹿児島県に境する熊本県の最南端に位置します。午前中に少し時間があったので、ある石碑を探しました。それは、「五木の子守唄」の碑です。球磨郡五木村(この人吉市から20kmくらい離れたところ)の「五木の子守唄」は、福連木出身の子守り娘たちが人吉に奉公にきて伝えたという説があります。しかし、その碑は見当たりませんでした。観光協会の人に聞いてみたら、その碑のあたりから遺跡が出たので、取り壊され、その後、まだ移転先が決まっていないとのことでした。この「五木の子守唄」は、自然発生的に歌われだしたものが、今日まで伝承されてきたと解釈されていますが、山村の厳しい暮らしの中から生まれ、長く唄いつがれてきたものであることだけは確かです。山村では、地主から山や土地を借り受け、細々と焼畑や林業を営んで暮らす「名子(なご)」と呼ばれる小作人がいました。その名子たちの生活は厳しく、子どもたちは7、8歳になると、食い扶ち減らしのために八代や人吉方面に奉公に出されたそうです。それも奉公とは名ばかりで、「ご飯を食べさてもらうだけで給金はいらない」という約束だったともいわれています。そうしたつらい奉公をまぎらわすために唄われたこの子守り唄は、他の大部分の子守唄(「眠らせ唄」や「遊ばせ唄)」と違って、「赤ん坊を眠らすための唄ではなく、子守り奉公をしている娘たち自身の嘆きの唄」だったと考えられています。歌詞を読めば、聞かせる唄ではなく、ひとりでさびしく口ずさむ唄だということは明らかです。子守り生活の悲しくつらいことばの歌詞が次々と続きます。最近、よく今の社会は「格差社会」といわれていますが、このころのほうが、よほど格差社会だったようです。こんな幼い子が、家を助けるために親元を離れ、奉公をしていたかと思うと、今の子育てが辛いなどというのは、申し訳ない気がします。
「おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる おどんが打っ死(ち)んだちゅうて だいが泣いてくりゅうか うらの松山蝉が鳴く おどんが打っ死(ち)んだら 住環(みち) ばちゃ埋(い)けろ 通るひと毎(ご)ち 花あぐる 花はなんの花 ツンツン椿 水は天からもらい水 おどんがお父っつあんは あん山(やみゃ)おらす おらすともえば いこごたる おどまいやいや 泣く子の守にゃ 泣くと言われて憎まれる ねんねした子の 可愛さむぞさ おきて泣く子のつらにくさ」
意味は、こんなのです。
「子守奉公も盆で年季が明け、恋しい父母がいるふる里に帰れる日が待ち遠しい。遠く離れた所に子守奉公にきて私が死んでも、だれも悲しまない。ただ蝉が鳴くだけでさびしい。私が死んでも墓参りなどしてくれないだろう。それならば人通りがある道端に埋葬してもらったほうが誰かが花でもあげてもらえるだろう。あげてもらう花は何でもいいが、道端にたくさんある椿でよい。水がなくても雨が降ってくるから。私の父は遠くに見えるあの山で仕事をしているだろう。又あの山の裾にふる里があり、早く帰りたい気持ちが増々大きくなる。子守にとっては、泣きやまぬ子はどうしようもなく、どんなにあやしても泣きやまない。子守の仕方が悪いと叱られる。子守背中ですぐ寝る子は、子守にとって楽であるが、いつまでも泣いて寝ない子は、普段は可愛いけれど 憎らしい。」
 今は、きっと、子育て中の母親は、こんな幼い子に近い思いをしながら子育てをしているのかもしれません。

投稿者 fujimori : 18:34 | コメント (0)

2006年05月22日 近頃思うこと

IT時代

 今、毎日ブログを書いていて、不安になることがあります。それは、毎日きちんと続けられるかということです。それは、今のところ、書く内容がなくなることではなく、忙しくて核時間がなくなることでもありません。もちろん、それは、ありうることで、もしそのような時は、書く日を飛ばせばいいと思っています。今は、書きたいときに書いているわけですから、何も義務的に書いているわけではないからです。では、何が不安かというと、書いている場所のIT環境が悪いときに、どうしようかということです。それは、書きたいことがあって、書いたのに、それをアップできないときのジレンマがあるからです。何度か、そのような状況に遭遇したときがあります。
 私は、普段、家とか、園からは、無線ランでつながっているので、そこから、何のストレスも感じずに発信できます。次に、外に出たとき、地方の都市へ行ったときとか、バスや新幹線の中からは、PHSの発信機を取り付けて、そこから発信します。PHSは、使い放題の契約になっているので、ネットサーフィンが使用料を気にしないでできます。ただすこし時間がかかるのと、通信量が少ないので、写真など重いものは、時間がかかってしまいます。(本当は、もっと大きいのもあるのですが、値段が高いので、少ないのを使っています)しかし、PHSがつながらない地域があります。そこに行ったときは、なんとか窓のそばまで行ってみるとか、駅のそばまで行って送信したこともありました。それでもつながらないときは、携帯電話でつなぎます。これは、つなぐ費用はかからないのですが、携帯電話の通信費はかかります。ですから、最低時間だけつないで、急いで切って作業をします。しかし、携帯のパケット契約をしているときは、通信量によって加算されますので、重たいときは、参ってしまいます。そして、最も困るのは、携帯電話もつながらない山奥などに行ったときです。そのときは、宿の部屋にある電話線に直接つないで、送信します。中継地点が近ければ近いほど、電話代がかかりませんので、その地方にある中継地点の電話番号を調べておきます。ただ、最近は、日本全国共通の番号になりました。外国から掛けるときも同じです。部屋にある電話回線で、その国にある中継地点まで電話をすれば、日本まででも国内電話料金でかけられます。(しかし、実際は、海外ではなかなか大変です。日本ほど、IT環境が整っているホテルは少ないからです。ドイツでも、苦労しました。)最近、驚くことができるようになりました。ドイツに行くルフトハンザ機では、機内からインターネットができるのです。世界初だといっています。しかし、まだ使用量はだいぶ高いですね。ちなみに、この間乗ったときに書かれていた費用は、○$9.95* for 1 hour of access1時間アクセス(連続した時間)○$14.95* for 2 hours of access2時間アクセス○$17.95* for 3 hours of access3時間アクセス○$26.95* for flat-rate access定額アクセス(24時間以内であれば、乗り継ぎ便でもOK)でした。メールだけやるにしては、高いですね。
 といっても、ずいぶんと時代は進んだものです。ブログは、携帯からアップしている人が多いと聞きます。私はしていませんが、ブログへのコメントの許可だけは、携帯からすることが多いです。これらITは使いこなすものであり、最近は、人間のほうが使いこなされている気がします。人生に余裕を持つためのものが余裕をなくしているものになっていることがある気がします。

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2006年05月21日 近頃思うこと

遠足

 昨日は、園の遠足でした。私の園の遠足は、園の周辺の地域を、ウォークラリー形式で問題を解きながら親子で回るというものです。そして、そのポイントで出される問題は、その年のテーマに関係のあるものです。今年のテーマは、「森でかなでるオーケストラ」ということで、楽器に触れ合わせるというものです。その形式の遠足を始めたころ、保護者からある苦情がきました。午前中は、0歳児から年長児までいっしょに行いますが、後日のアンケートに、「午前中、いっぱい歩かされて疲れてしまった。」「歩くのが少なすぎて、なんだか物足りなかった。」「バギーを押して歩くのに、階段があって困った。」「平らなところばかり歩くので、もっと、坂とか階段があったほうが良かった。」などがありました。このように並べて書いてみると分かりますが、相反するような感想なので、こちらとしては、どうしたらよいか、考えてしまうような内容ですね。みんないっしょに行う行事では、個々の対応は難しいのです。もちろん、子どもの年齢によって、歩く距離は変えているのですが、人によって、感じ方の違い、普段の運動の量の違いがあります。それは、必ずしも、年齢によって、比例するものではありません。そんなときに、良い解決策が浮かびました。それは、普段の保育でも行っている方法です。保育の内容も、子どもの年齢に必ずしも比例はしません。しかも、その年齢とは、日本の場合は、生年月日によって、4月生まれから3月生まれの子をひとつのくくりとして考えるので、個々によって当然無理が生じます。遠足のときにこんな方法をとりました。事前に保護者にどのコースを歩きたいか希望を取ります。たとえば、こんな様なものです。「ゆったりコース:ポイントが5で、アップダウンがなく、バギーを押しながらでも歩けます。ゆっくり歩いて、20分くらいで歩くことができます。」「ほどほどコース:ポイントが8で、階段はありませんが、少しアップダウンがあります。行程40分くらいで歩けます。」「たっぷりコース:ポイントが12で、坂あり、階段ありと、普段の運動不足が解消します。行程1時間くらいです。」というような具合です。当日は、それぞれ自分で選んだコースによって、地図を見ながら歩いてもらいます。この方法をとってから、一切苦情は出なくなりました。たとえ、思ったより疲れても、楽すぎてもです。それは、自分で選んでいるからです。人は、他人から与えられたことに対しては、あれこれ文句を言いますが、自分で選択したことには責任をとろうとします。
 今回の「楽器」をテーマとした各ポイントの問題はそれぞれ職員が下見をし、工夫をしたもので、なかなか面白いものが多かったのですが、特に私が気に入ったものがありました。ひとつは、ある場所で、「ここにある音の出るものは何でしょうか?」という問いに対する答えの「水琴窟(すいきんくつ)」です。子どもたちが、そこに水を落として、音を聞いていました。「水琴窟」とは、400年程前、作庭家でもある茶人、小堀遠州が考案した、つくばい周りの排水装置「洞水門」が起源と言われています。後の江戸期に、排水機能と同時に音を楽しむことを目的に、庭師達が秘伝として各地に作ったのです。滴が水面に落ちて、甕の空洞に反響する音は、琴の音のように聞こえます。水琴の残響に耳を傾けた古人のわびさびの風情が味わえます。下見のときに、こんなものが、近くにあることを見つけた喜びもある遠足です。

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2006年05月20日 近頃思うこと

ハグとお辞儀

 最近、毎年ドイツに行っています。そして、そのときに必ずその中の1日、夜に教育委員会の幼児局の局長さんから食事に誘われます。彼女は、以前、40人ものドイツの保育者を引率して私の園に訪ねてきたことがあり、その時に、園での実践を気に入られて、都内の宿泊するホテルに着くまでずっとバスの中で、いろいろとカリキュラムについての話をしていきました。その後、世界保育大会に招待されたりしています。彼女は、今、10歳である子を一番下に4人の子どもがいます。一番上の子は、もう28歳だそうです。その彼女と毎年会うときに、戸惑うことがあります。それは、会ったときの挨拶です。最初は、握手を求められました。握手の由来はいろいろとあるそうですが、よく言われるのは、手に武器を持っていないことを証明することから始まったということです。それによると武器を持つであろう利き手は右手の人が多いため、握手をする手は右手になったのだそうです。握手するときは、背筋を伸ばし、必ず相手の顔(目)を見て行うことが礼儀だそうです。そして、強すぎず、緩すぎないように握ります。強すぎては相手に不快感を与え、また緩すぎても好意を表せません。アメリカでは弱い握手は「Dead-fish handshake」と呼ばれ、死んだ魚を握るようで気持ちが悪いと言われているようです。お辞儀をしながら握手をするのは卑屈に見えるので、あまりしない方がいいそうです。私は、本当は、あまり握手が好きではありません。日本では、どうも、すぐに握手したがる人たちは、あまり好きでない職業の人が多いからかもしれません。しかし、外国では違います。ですから、できるだけ、気持ちよく握手をするようにしています。しかし、ドイツに行って、何度目かの時に、握手をしようとしたら「あなたとは、握手しません。」と断られました。嫌われたのかと戸惑っていると、突然、抱きつかれました。あせりました。しかし、どうということはありませんでした。いわゆる「ハグ」されたのです。ハグ(Hug)とは、辞典には、「(人が)(人・物)を(両腕で)しっかりと抱きしめる。(クマが)(人などを)前足で抱え込む」とあります。彼女がいくら体格がいいからといって、まさか熊に抱きつかれたというわけではありませんが、私は、どうも握手以上になじめません。他人の大人と抱きつく経験がないからと、抱きついたときに、背中で手をとんとんとたたきあうときは、まさに照れてしまいます。すると、心がこもっていないとしかられます。それでも、何とか平気な顔をしてハグができるようになったかと思っていたら、今年行ったときに、また驚かされました。なんと今年は、ハグされながら、顔をつけられ、両頬にキスをされたのです。まあ、国によって違いますが、私は、やはり「お辞儀」がいいですね。握手は親睦・和解の表現として行われることが多いのですが、お辞儀は相手への敬意を表します。お辞儀は自分の首を差し出して、相手に対して敵意がないことを表現したことに由来するといわれ、飛鳥~奈良時代、中国の礼法を取り入れ、身分に応じたお辞儀の形が制定されたのがお辞儀の始まりといわれています。お辞儀には「立礼」、「座礼」の2種類があり、また礼の深さで分類すると「最敬礼」「敬礼」「会釈」の3種類があります。また、「礼三息(れいさんそく)」という言葉があり、息を吸いながら腰から上を前に倒し、止まったところで息を吐き、そして再び息を吸いながら元の姿勢にもどります。これをすると大変丁寧な印象を与え、また自分自身の精神状態を落ち着かせる効果もあるようです。この微妙さが、日本人らしくて、いいじゃないですか。

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2006年05月19日 近頃思うこと

エコからロハス

 日本における学校の黎明期を見てきましたが、最新の学校とは、どのような学校なのでしょうか。日本建築学会が、文部省委託調査研究により平成5,6年度に「環境を考慮した学校施設のあり方に関する調査研究」で、「エコスクール」という概念を打ち出しました。これを受けて、文部省と通産省の共同により平成9年度から5年間「環境を考慮した学校施設(エコスクール)の整備推進に関するパイロットモデル事業」をスタートさせました。その内容は、「太陽光発電」や「蓄熱式空調システム」により省エネルギー化を図ろうというタイプが提案されました。以後、「CO2排出量の削減」「自然共生」「木材建築」「資源リサイクル型」「運動場の緑化」などの事業も行われました。この発端は、もちろん世界的に「京都議定書」で合意された温室効果ガス削減目標や「地球温暖化対策推進法」など、環境保全の取り組みからです。それは、新しく新設、改築された学校施設が、改築前の施設に比べてエネルギー使用量やエネルギー原単位が大幅に増加していることから、見直されたのです。しかし、それはなかなか難しいようです。昔よりは、生活水準が上がり、人工照明による照度基準が上がり、空調、換気設備の設置も増えました。また、特別教室の充実、多目的スペースの導入、ITに対応した設備、バリアフリー化のためのエレベーター設置など、時代の変化により、昔よりエネルギーが必要になってきています。人は、どうしても、快適に過ごそうとすると、それを機械に頼ろうとします。エコスクールというような、単に環境に配慮すれば省エネルギーになるという考え方には、無理があります。もっと、社会のあり方、人としての生き方に関係してきます。そういう意味で、最近いろいろなところで使われている「ロハス」という考え方を、学校建築にも導入しようとしています。すなわち、「ECOからLOHASへ」ということです。LOHAS(ロハス)とは、「Lifestyles of Health and Sustainability」(健康で環境にやさしいライフスタイル)の略で、もとはアメリカで生まれた概念です。意味は、「健康や環境に配慮し、持続可能な社会を志向するライフスタイル」のことです。これが、かつての環境への取り組みと異なる点は、従来の環境保護運動のように、何が何でも自然環境を守ろうと唱えるのではなく、自分が健康で気持ちよいスタイルを送りながら、自然や環境にとって良いことをできる範囲で行おうというスタンスです。このような考え方による学校施設への取り組みは、もちろん、教育内容にも反映しなければ意味がありません。そんな建物の中で、教師からの一方的な注入主義的教育を行ったり、子どもを監視するような間取りでは、豊かな生活が送れるはずはありません。ましてや、乳幼児の発達を促し、子どもの主体的な活動や自発的な遊びを保障する幼児施設ではなおさらです。「エコからロハスへ」ということは、「教育から援助へ」「注入から引き出すへ」「監視から見守るへ」というようなことです。また、子ども集団も、「共同体から共異体へ」「一斉から協同へ」と変わっていかなければならないのです。この新しい価値観の変化は、教育、保育の変化ではなく、生き方の変化なのです。いっせいに、国の号令で環境問題に取り組む時代から、個人が、自分でどう生きるかに結び付けて環境を考え、自分では何ができるかをそれぞれが考える時代にしていかなければならないのです。それが、世界に通用する人材になっていくことであり、世界に貢献していける人材になっていくのです。

投稿者 fujimori : 23:19 | コメント (1)

2006年05月18日 講演先にて

柳池校

 明治2(1869)年5月21日に上京第二十七番組小学校が富小路通御池角で開校式が挙行されました。明治6年現在地に新築移転。これが柳池(りゅうち)小学校です。昭和22(1947)年,新学制施行により,柳池中学校となり,平成15(2003)年4月,京都城巽中学校と統合し京都御池中学校となりました。この中学校の建物には、保育所や高齢者の施設を併設し、さらに御池シンボルロード整備事業のにぎわい施設の一環として、御池通に面した1階には,商業文化機能を備えた複合施設として建設しました。この保育園の保護者向けに、昨日、講演をしてきました。私の母校のブログで、東京都区内で一番古い小学校と書きましたが、この、もともとの中学校が、日本で一番古い小学校だったのです。
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 京都は、江戸時代から漢学・国学・洋学や町人の道徳哲学である心学などの私塾や寺子屋の伝統が築かれていました。このような風土のなか、慶応3(1867)年,寺子屋を営む篤志軒八代目西谷淇水が官立の教学所設立の建白を出しました。のちに二代目府知事となった槇村正直が強力に小学校建設を推進し、読書・習字・算術の稽古場として、1組に1か所の小学校建設を計画しました。当時、京都府(今の京都市中心部)には上京、下京合わせて66の自治組織「番組」がありました。その番組ごとに小学校と町組会所を併設する町組会所兼小学校の構想を立てました。第二次町組改正が行われ,明治2年1月末に新しい町組が成立すると小学校建設は急速に進められました。日本で最初に発足したこの町組会所兼小学校を,一般に番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)と呼びます。そして、明治2(1869)年に上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と,下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で開校式が行われました。その後,次々と開校し,明治2年内にすべての開校が完了しました。日本の学制頒布は、明治5年です。ですから、これらの京都の小学校が、日本で一番古い学校になるのです。そのころの多くの小学校は,地元有志の寄附や寺社の敷地の一部でまかなわれ、運動場もなく、民家とあまり変わらない大きさでした。また、教育内容は府独自の規則により、筆道、算術、読書の3教科を中心として行われました。また、小学校は単に教育機関であるだけでなく、町会所であり、府の出先機関でもあり、警察・交番や望火楼までも設置し、塵芥処理や予防接種など保健所の仕事も担っていました。まさに、地域の核となる施設だったのです。ですから、経費の一切は町組が負担しました。明治5(1872)年8月,政府はフランスやアメリカの制度にならった学制を発布しました。これにより大・中・小学校の区分が示され、行政区画とは別に人口600人を基準とする小学校区が定められました。そのとき、京都では大・中学校区は学制に従って編成しましたが、小学校については,これまでの行政単位としての町組ごとに作られていたので、そのまま組を校区という方針を継続し、第何区小学校としました。さらに,区は組になり、学区と改称されていったのです。ですから、学区は単なる通学区域ではなく、独自の財源を持ち、教育経費を負担する自治団体だったのです。戦後になっても、学区は地域の社会福祉をはじめとする地域行政の核となり、京都独自の地域住民の自治単位として機能しています。これは「元学区」(もとがっく)と呼ばれています。これは、今また学校の課題を提案しています。
 これで、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある湯島聖堂から始まり、都区内最古の「育英小学校発祥之地」という石碑から、「日本最初小学校 柳池校」という碑まで、回ってきたことになります。これは、結果的にそうなっただけで、意図して回ったわけではありませんが、おもしろいですね。
 

投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (1)

2006年05月17日 新聞記事より

大きくなって

 いま、サッカーのワールドカップ参加メンバーが公表されて、巷では大騒ぎです。楽しみな人も多いことでしょうね。しかし、どのくらいの順位くらいになるでしょうか。ベストエイト位で上出来だと思っている人が多いようですが。
 先日の日経新聞に面白いことが書いてありました。ジェフ千葉CMの祖母井さんの記事です。
「U-12 (12歳以下)のW杯はないが、昔、日本でこの年代の世界選手権を行ったことがある。いつも優勝するのは東アジアの日本、韓国、中国で、サッカー大国のブラジルやドイツは大差で負けていた。しかし、大人のW杯になれば立場は逆転する。どうして日本のU-12は強いのか。理由は簡単で、練習量の差。一般的に日本では、全国大会に出場するには週6回の練習が最低条件だそうだ。その量は年々エスカレートしているという。ドイツでは、日本のように毎日練習する少年チームはない。ほとんどのチームは週2回の練習+週1回のゲーム。大人の人たちが勝利至上主義に走らないように、日本のような全国大会は開催されてもいない。ジェフ千葉に入部してくる小・中学生の中には、既にスポーツ障害を抱えている子がいる。その障害が原因で大好きなサッカーができなくなるケースもある。過度のスポーツ活動による、目に見えない心の障害が生じているケースもある。全国のお父さんコーチや、お母さんマネージャーの皆さん、(自分の)子どものために、というのは分かるけど、大人の熱狂がエスカレートして奪ってしまう子どもの世界についても、しっかり目を向けてほしい…」
 私も、同様なことを心配します。今、学校から帰ってきてからの時間のすごし方、学校が休みの日のすごし方として、どうも子どもをスポーツチームに入れてしまうこともあるように思います。確かに、体とこころを鍛えることは大切でしょう。しかし、ただ、それをスポーツクラブに任せればよいというのとは違います。記事の中で、とても気になるのは、子どもの世界選手権でいつも優勝していたのが、東アジアの国々だということです。教育学者の佐藤学さんが「世界の中で一斉授業をしている国は、いまや、世界の中で東アジアの一角の7カ国のみである。」と10年位前に言っていたのを思い出します。また、あの学力世界調査のOECDのPASAの結果と、IEA(国際教育到達度評価学会)のTIMSSの結果に対して、OECD東京センター主催の講演会の中で、中島氏がこういっています。「IEAが行ってきた理科と数学のテストで日本と韓国の場合は突出していたということは事実です。そのことが問題になりました、何らかの犠牲において、というのは人格的ということですよ。人格形成において欠けるんじゃないか、両国とも塾教育ですよ。詰め込み教育、無理をして叩き込む。むしろ、批判的な能力とか忍耐とか思いやりということが本当の意味において学力というものを形成するんじゃないだろうか。」
 両方に共通する部分が多い気がします。親たちは、いつの時点で活躍する子を作りたいのでしょうか。小さいうちに、「すごいね」といわれることを欲するあまりに、自分自身の力で生きていかなければならない時期になってから壊れてしまうような子どもにしてしまっては、決して、「子どものため」にならないのです。きちんと、将来の見通しが必要ですね。

投稿者 fujimori : 18:36 | コメント (0)

2006年05月16日 近頃思うこと

母校

 今日は、都内で会議がありました。場所は、蔵前の「保育会館」です。蔵前は、台東区にあり、両国に移る前は、「蔵前国技館」といわれていたように、国技館があったところです。(1月29日のブログ参照)都営地下鉄浅草線の 蔵前駅の300メートルほど西にある保育会館の斜め前に、浄土宗のお寺である「西福寺」があります。この門前に『育英小学校発祥之地』という 黒い立派な石碑と, その横に 説明板が建っています。
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 現在の 育英小学校は, この地から約500メートル南東にあります。私の出身小学校の歌詞を以前のブログ(4月2日)で紹介しましたが、この「育英小学校」が私の母校なのです。どうして、こんな石碑があるかというと、ある歴史があるからです。その小学校の歴史を紹介します。日本で小学校が初めて出来たのが京都で明治2年、東京では、翌3年の六校が最も古いもので、現在、特別区内では、「育英小学校」が最古の小学校なのです。明治2年(1869)3月、明治新政府は、幕府.藩による政治体制に代わる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に六つの小学校を設立することを発布しました。その一つが翌年、西福寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、それが、育英小学校の前身なのです。いま、開校日は同年6月23日で, 現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋附近に居住していた旧大名・旗本 及びその家臣の子弟たちが入学したといわれています。 したがって, 当地は, 同5年8月の学制発布に先だつ, 東京で最も早い公立小学校発祥の地なのです。明治3年府達として「兼テ 御布告之通(明治二年三月布告)小学開業相成候間、左之日割之通相心得 幼年生徒有志輩 朝五ツヨリ出席可致候事事」この太政官布告により幼年生徒有志輩は、入学するのが建前となり、今までの寺子屋教育は廃止されて秩序ある小学校教育が始めらました。当時の校長は幕府の目付役だったそうです。生徒数約800名といわれていますが、今は、100名余なので、かなり多かったですね。明治6年5月、第五中学一番小学と改称。児童数約20名。授業料は月5銭から最高50銭(米一升が7銭の時代)だったそうです。そして、明治6年新堀学校と呼ばれ、のちに松前学校と改められ、明治10年8月、育英小学校と改称し、現在の場所に移りました。そして、明治11年8月 公立育英小学校と改称しました。「育英」という名前の学校は、各地にありますが、「すぐれた人を育てる」という意味です。
 明治18年に建てられた校舎は、煉瓦造りで屋上に木造2階建てが作られた和洋折衷の建物でした。そして、明治23年、「東京市育英尋常小学校」と改称します。この年、10月に「教育勅語」が発布され、日本の公立学校の全ての教育を規制することになっていきます。そして、明治28年には、通信簿が制定され、以後ずっと今まで続いています。最初は、「甲、乙」から、私のころは、「5,4,3…」で、今どうなっているかわかりませんが、通信簿を「あゆみ」とか名前は変わっていますが、引き継がれています。明治36年からは、「小学校の教科書は文部省に於いて著作権を有するものたるべし」ということで、以後太平洋戦争後まで、教科書の国定化が続きます。明治40年から、尋常小学校の4年制が6年に延長されます。その後、校舎は関東大震災で焼失しますが、私が在校していたときの校舎は、昭和3年に建てられたものでした。今は、近くの柳北小学校と統合して台東育英小学校となっています。市町村だけでなく、母校もだんだんなくなっていきそうです。(出身中学校は、統廃合で、今はもうありません)

投稿者 fujimori : 21:37 | コメント (0)

2006年05月15日 講演先にて

黒豚

 今日は、鹿児島に来ました。鹿児島といえば、いろいろとイメージするものがありますが、まず、目に付くのは、いたるところに「黒豚」という文字です。「黒豚とんかつ」はもちろん、「黒豚マン」「黒豚シュウマイ」「黒豚餃子」「黒豚角煮」なんでも、豚肉を使う料理は、その前に「黒豚」が付いています。昼食は、それにつられて、「黒豚ラーメン」を食べました。「コラーゲンたっぷりの黒豚トロとんこつラーメン」です。また、夕食には、「黒豚しゃぶしゃぶ」をご馳走になりました。何で、こんなにも鹿児島は、「黒豚」なのでしょうね。
 日本で飼われている豚のほとんどは、「ランドレース種」(原産地デンマーク)「ハンプシャー種」(原産地アメリカ)「大ヨークシャー種」(原産地イギリス)「デュロック種」(原産地アメリカ)のいずれかを組み合わせた雑種です。雑種というとなんだか聞こえが悪いのですが、実は、掛け合わせることで、肉質のよさなど両親の優れた能力をひき継ぐ種類を作るためです。その中で、鹿児島の「黒豚」といわれるバークシャー種(イギリス)は、純粋種として飼われています。バークシャー種は、イギリスのバークシャーとウィルトシャー地方原産の黒色種の古代種で、肉質、肉色とも良く、精肉に適しているそうです。
 豚肉は、日本人が一番たくさん食べている肉です。豚は肉を食べるためだけに飼われている唯一の家畜です。(他の家畜は乳や毛皮の利用を含めた、多目的で飼われています)紀元前3000年から7000年の古代オリエントの遺跡からすでに家畜化された豚 (つまりイノシシがすでに家畜化されていた)の骨が出土するそうで、人類の最も古い家畜の一つだと言われています。日本でも弥生時代の遺跡から家畜化されたイノシシ(つまり豚)の歯が見つかっていることから、そうとう昔から家畜化され、食用にされていたのではないかと推測されています。木の実や農産物に余剰がでるようになると豚に食べさせて太らせ、食料が不足する時などにつぶして食べていたのでしょう。しかしその後、 奈良時代の仏教の普及による肉食の禁止以後、1000年にわたって日本人の食卓からは(少なくとも表向きは) 消えてしまいます。明治時代になると再び肉食が奨励されるようになりますが、最初に普及したのは牛肉でした。 豚肉が本格的に普及するのは明治も末期になってから、銀座の洋食屋であるレンガ亭で発明されたトンカツによってというのは有名ですね。(レンガ亭ではポーク・カツレツと呼んでいます。)豚肉は急に加熱しても固くなりにくく 外から脂が染み込みにくいのでトンカツにぴったりなのです。また、今日ご馳走になったしゃぶしゃぶも、霜降り牛で良く食べますが、本当は、豚肉のほうが肉そのものから大変おいしいダシが出るので、おいしいといわれています。しかし、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教では豚肉の食用がはっきりと禁じられています。
 そういえば、最近、レストランで「イベリコ豚」ということも良く聞きます。やはり、スペインが原産の黒い毛と蹄を持つ黒豚で、野生に近い種のため自然放牧で肥育するそうです。ですから、上質の脂肪と赤身が特徴で、赤身には霜降り牛のようにサシが入るので、生ハムなどに良いといわれています。
 何も鹿児島だけで黒豚を食べる必要はないのですが、町おこしとしては、ヒットかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 22:28 | コメント (1)

2006年05月14日 散歩

前田から鳩山

 日本は、本当に四季折々に花が咲きます。今日は、母の日なので、町中でカーネーションを持った人とよくすれ違います。古代ギリシア時代から栽培されていたというカーネーションは、日本へは、江戸時代にオランダから渡来しました。そして、父の日に贈るというバラの花はそろそろ盛りになります。今日は、都内にある「バラ園」に行ってみようと思いました。まず、駒場にあると聞いて、井の頭線で、「東大駒場前」で降りてみましたが、何も書いてありません。駒場公園かと思って行ってみましたが、数本しか見つからないので、ついでにその園内にある「旧前田侯爵邸洋館」を見学しました。この建物は、旧加賀百万石・前田家の第16代当主・前田利為(まえだとしなり)侯爵の本邸として建てられ、当時「東洋一の邸宅」といわれていました。戦後、連合軍により接収され、極東軍司令官の官舎として使われていましたが、その後、東京都が建物と土地を買収し、東京都近代文学博物館となりましたが、いまは、この文学博物館は閉館しています。以前、ブログ(12月16日)に書いた鎌倉にある「旧前田侯爵家別邸」の本邸です。この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使しています。建物のデザインは、チューダー様式で、イギリス後期ゴシック様式を簡略化したもので、玄関ポーチの扁平アーチにその特徴をみせています。また、内部は一変して王朝風に装飾が施され、各室はイタリア産大理石によるマントルピースや角柱、壁にはフランス産絹織物や壁紙を貼り、イギリス家具などを配したヨーロッパ調ですが、こうした洋風の室内に江戸情緒をのぞかせる唐草に雛菊をあしらった文様なども見られます。1991年には東京都有形文化財(建造物)として指定されました。鎌倉の別邸は、三島由紀夫の小説「春の雪」の舞台として描かれていますが、映画「春の雪」では、こちらの本邸が撮影に使われたそうです。
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  「旧前田侯爵邸洋館」と「鳩山会館」
 そのあと、「バラ園」がある「鳩山会館」に行ってみました。ここは、小沢が党首になる少し前に民主党で「桜を見る会」をやったことで有名になりました。文京区の音羽の丘にあります。鳩山家は、衆議院議員の和夫、総理大臣となった一郎、外務大臣をつとめた威一郎、さらに衆議院議員の由紀夫、邦夫、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てたと入り口の案内板に書いてあります。この洋館を建てたのは一郎で、美しい洋館が姿を現したのは、関東大震災の翌年大正13年です。ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行なわています。設計を手掛けたのは一郎の友人である、大正・昭和初期を代表する建築家として知られる岡田信一郎です。彼は、歌舞伎座も設計しています。19世紀末にフランスで実用化された鉄筋コンクリートの技術は、20世紀の始まりとともに世界中に広まり、耐震的な建築構法を模索していた日本でも、その新工法にとびつくことになる。鳩山邸がつくられた頃には、すでに耐震建築理論まで研究されていました。岡田は、この建物の設計において、快適なイギリス風邸宅をつくること、最新の鉄筋コンクリート工法を駆使し、安全で開放的な洋館をつくることを課題としました。いまは、公開されています。そして、イギリス風の外観の前に広がるバラ園では、さまざまな種類、色のバラが咲いていました。
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投稿者 fujimori : 21:48 | コメント (0)

2006年05月13日 記念日

母と父

 明日は、5月の第2日曜日なので、「母の日」です。というのに、今日は、園に大勢の父親が集まって、会議をしました。それは、6月の第3日曜日の6月18日が父の日だからです。というのは、父の日にちなんで、園を1日中、園長から始まって、各クラスの担任もすべて父親だけで保育する日の、第1回打ち合わせをしたのです。
 日本で初めての母の日を祝う行事が行われたのは明治の末期頃で、教会で祝われ始め、徐々に一般に広まっていったと伝えられています。昭和に入ると、当時の皇后の誕生日であった3月6日を母の日としていました。一般に広く知れ渡ったのは1937年に森永製菓が告知を始めたことをきっかけだとも言われます。日本で、世界的発想の記念日は、大体、企業が広めるのですね。日本で最初にバレンタインデーの広告を出したのは戦前にモロゾフでからでした。それは、あまり定着しませんでしたが、戦後、メリーチョコレートが、東京・新宿の伊勢丹デパートで「バレンタインには女性から男性へチョコレートを贈りましょう」というキャンペーンを行なって、その後、日本チョコレート・ココア協会が、2月14日を「チョコレートの日」と制定し、デパートなどの流通業界も加わって大々的にチョコレート商戦を繰り広げたため、1970年代後半から定着し始めたといわれています。まんまと成功しましたね。日本の「父の日」は、1950年頃から広まり始め、一般的な行事となったのは1980年代です。母の日のシンボルフラワーとしてカーネーションがあるように、父の日のシンボルフラワーは、バラの花です。アメリカでは、「母の日」「父の日」とも祝日です。父親が育児をすることの意味を、私は、何回か園の巻頭言で書きました。そのうちのひとつを紹介します。
「90年代以降、父親論が盛んに行われるようになりました。最近、アメリカでは、子どもの教育が未来社会のための最も重要な投資であるという認識のなかで、子どもの社会化環境に対する危機感の強さから父親政策に力を入れています。ある書物(It takes a Village)では、父親をすることの意味は?との問いに対する答えとして、以下の5つがあげられています。
1、母親だけでなく、父親もかかわることで、子どもの発達によい影響をもたらす。
2、父親がかかわることで、母親の子育てにゆとりをもたらす。(母親にとって)
3、父親の生活に幅と厚みをもたらす。(父親にとって)
以上の点は、よく言われることですが、以下の二つは、これからの時代にとても大切なことです。そして、それが、保育園で行われる「父親保育」の目的なのです。
4、父親をするというのは、家庭を閉ざしてわが子の父親をのみするのではなく、家庭を社会に開き、地域の親たちとかかわり、地域の子どもたちの父親になるということが重要なのです。親たちが地域のネットワークの中にしっかりと足場を持っていることは、子どもたちに安心感をもたらすのです。
5、父親をすることで、夫婦の、あるいは男女の新しい関係の構築につなげるのです。育児について、母親、父親どちらか一方が主役ではなく、柔軟な男女の関係が子どもに伝わることが必要なのです。」

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2006年05月12日 近頃思うこと

暗くなる前に

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 アイヌ民族出身のアイヌ文化研究者である萱野 茂(かやの しげる)氏が、先日の5月6日に亡くなりました。アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続け、アイヌ初の日本の国会議員になり、在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会の質問で史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られています。
 私は、アイヌ文化がなんとすばらしく、誇り高いものであるかということを感じたのは、石森延男の「コタンの口笛」を読んでです。この作品は、教科書に取り上げられたり、小中学校の課題図書になったりしていましたが、1970年以降はアイヌ民族に対する善意のあり方や、差別問題の取り扱いについて問題提起がなされています。もちろん、そういう問題があるので、この作品が一概にいいといってよいかということはあるでしょうが、私としては、この本を通して、アイヌ独特の文化、狩猟民族としてのほこりと自然を大切にする心、そして、特に「アイヌ刺繍」に感動しました。アイヌ民族の伝統紋様を、女性は衣服に刺繍を施し、男性は道具類に彫ります。これらの美しさと、そのもつ意味に感動して、そのあと、どうしても見たくて、北海道に見に行った経験があります。
 萱野 茂氏が、アイヌ文化振興法の成立に貢献しますが、この法律は、「アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする(1条)」とあります。この法律を成立させ、国会議員としての目的を果たした萱野氏は1期限りで引退します。その際「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」 という言葉を残したことで有名です。私は、狩猟民族だけでなく、農耕民族も日が沈む前には、家に帰っていたと思います。特に、農耕民族であった日本人の多数は、日が昇るとともに若い男女とも田畑に行って働きました。そして、日が沈む前には家に帰り、子どもの前で家での仕事をしたでしょう。私は、男女とも働くのは当然だと思いますが、今は、家に帰るのが男女とも遅すぎる気がします。やはり、暗くなる前には家に帰れるような社会であって欲しいと思います。何も、夜中まで買い物をする必要はありませんし、夜中まで、テレビを放映する必要はないと思うのですが。もちろん、どうしても、病院とか、夜中まで必要のある職業はあるでしょうが、今、遅くまでやっている職業が、「どうしても、しかたなく」とは思えません。しかも、せめて、子育て中の親は、暗くなる前には、子どもの前に姿を見せて欲しいと思います。ヨーロッパなどに行くと、基本的には、夜遅くまで店が開いていることはありません。また、ヨーロッパの大都市に行ったとき、日曜日に買い物をしようと日本でいう銀座のような町に出たところ、店を開いていたのは、日系人が経営している店だけでした。仕方なく、「ウインドウショッピング」をしたわけです。もちろん、これは、キリスト教の習慣から来ているのですが。日本も、もう少し、会社にしても、お店にしても、ゆとりを持った、人間としての行き方を保障するような、成熟していく社会を目指して欲しいですね。

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2006年05月11日 近頃思うこと

オープンスクールの原点?

 世界の先進諸国では、1960年代から学校建築に対してまったく新しい教育的要求を打ち出し、これに基づく教育施設が数多く建設されるようになって来ています。それは、新しい時代が要求する教育目標に沿ってのものです。その目標は、教育の「個別化」「多様化」であり、それに即応するシステムとして「オープンスクール」というものが生まれました。アメリカでは、1950年代の後半になって出現し、それと同時に、「個別学習」「ティームティーチング」「ノングレーディングシステム」などの教育方法も生まれました。よく、オープンスクールというのを、「壁のない学校」ということがありますが、確かに、当初は、建築的な意味から、教室という箱を並べて細長い校舎を作るよりは、中に壁の少ない、外壁の量も減る四角に近い校舎の方が安くできるということからでした。太陽信仰があまりなく、エアーコンディションをするのに、外気を取り入れるという考えが薄く、また、地震が少ないという国ならではの発想かもしれません。それが、あっという間に現在の教育革新と、それに対応する施設環境とがあい、評価され、もう半数以上の学校がみんなオープンスクールになっています。ですから、いま、辞書で「オープンスクール」と引いてみると、「子供の能力や適性に応じて個別に教育計画を立て,開放された空間で自主的な学習を進める教育形態。あるいは,そうした教育を行う学校。(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)」と出てきます。また、イギリスでは、違う考え方でした。イギリスは、クローズドシステムを基調にしてきたので、セミオープンプランスクールとして、活動が完結する教室周りを考え、それをどうつないでいくかということを考えました。クラスを解体して、一人ひとりの学習を中心において、学習集団を弾力的に考えるアメリカに比べて、イギリスでは、ホームルームという室は固定して、そこに生活集団としての居場所を作り、学習集団をオープン化していくという考え方です。最近、日本でもよく見られる学校は、このスタイルが多いようです。
 こんな世界の影響を受けて、日本でも様々なオープンスクールができてきていますが、先日、江戸時代のオープンスクールを見てきました。高遠進徳館です。当時、財政困難の続いた高遠藩では、他の大藩のように藩校をもてず向学心に燃える武士は儒官や武術師範の家に通って勉強していました。万延元年(1860)最後の高遠藩主・内藤頼直は、先代からの願いであった藩校にかわるものとして、藩士養成のために、城内の三の丸の空き家を改造して三の丸学問所を開設しました。後に林大学により「進徳館」と称されるようになったものです。現在残されている建物は、国の史跡に指定されています。
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 この平面図を見てみると、大きな部屋を区切っているのは、構造体ではない壁(障子とか襖)であり、学習内容によって、部屋を大きくしたり小さくしたりします。廊下は、大きな部屋の周りにあり、部屋をもっと大きくしたいときには、そこにも薄縁などを敷いて部屋の一部にします。そして、生徒は、異年齢集団であり、習熟度別で、先生もティームでします。
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 それは、ここだけに限りません。先週の日曜日に行った湯島の聖堂にある「昌平坂学問所」もそうでした。その他、どの藩校も、概ね、どの寺子屋もそうでした。オープンスクールという発想は、日本の方が早いかもしれませんね。外国の教室は、教会の牧師さんがお説教をするイメージからですから。

投稿者 fujimori : 18:32 | コメント (2)

2006年05月10日 地域を知る

地名

 地名というものは、そこに住み始めた人々が、あるいはその周辺に住む人々が、その土地をほかの土地と区別して呼ぶために付けた名前です。その名前を決めるときに、その土地の特徴や、そこに伝わる伝説や、そこの産業などからつけることが多いようです。たとえば、2月に行ったオーストリアの「ザルツブルグ」という地名も、その地方では岩塩が取れたので、塩(ソルト)を意味する「ザルツ」が取れる地方ということでつけられています。日本でも、必ずしも「塩」に関係するとは限りませんが、「塩」が付いた地名が日本各地に多くあります。たとえば、山梨県に「塩山市」という市がありました。先日、それがなくなっていることにびっくりしました。最近、大事な地名が消えていっています。それは町村合併や開発などで由緒ある地名がどんどん消えていっているからです。これは、単に地図から地名が消えていくのではなく、史的遺産が亡くなっていくのだということなのです。先日行った長崎の「琴海町」もなくなってしまいました。(何とか、琴海は残っていますが)そして、新しい名前は、どこにでもあるような名前(富士見台、旭が丘、○○銀座、すみれが丘、平和台など)になることが多いようです。また、いくら考えた名前にしても、歴史的には、愛着がありません。その名前を聞けば、その言葉の意味を理解できる人であれば誰でも、すぐに「あの土地だな」と直感できるような意味をもつものでなければ、人々の間での意志の疎通が行われないのです。意味のないただの音、単なる符号では、それをあらかじめ約束した人々の間では合い言葉として通用しても、それ以外の人には場所を特定する「地名」として理解できないのです。 また、合併での綱引きの結果、それぞれの立場を重んじるあまりに、たとえば、「三菱東京UFJ」というような奇妙な名前になってしまうのです。
 地名には、それを命名し、使ってきた祖先の思いが滲みこんでいます。地名には、何千年という歴史がその中に刻まれているのです。文献に残されていない事実が地名を解読することによって判明することもあるのです。日本の地名で文献に記載されたもっとも古いものは、「魏志倭人伝」にでてくる「対馬」、「壱岐」、「末廬」などですが、文献に残っていなくても、たぶん、何らかの地名を、人間の生活、定住とともに付け始めたと思います。そのときは、何かの意味があったでしょう。しかし、今の統廃合と同じように、昔も意味なく名前を変えさせられたことがあります。「風土記」の編纂命令の中に含まれていた「郡郷の名に好字を著けよ」といういわゆる「地名二字好字令」が日本の地名を混乱させました。これは、「漢字に好字を用いる」「表記を二字で行なう」というもので、旧来の地名が全く消し去られたケースもありますし、消されないまでも、音だけ残して、意味のない漢字に当てはめられてしまった場合もあります。myoko1.jpg
 たとえば、4月に行った宿から眺められた「妙高山」という山名は、古くは「越の中山」と呼ばれていたものが、好字二字令により「名香山」と当て字され、それが「みょうこうざん」と読まれるようになり、「妙高山」の字が宛てられたものだそうです。ほかにも、昔は「泉」、「木(き)」、「島」と表記されていましたが、「すべての地名を漢字二文字にせよ」ということで、和泉、紀伊、志摩となりました。「火」の国は「肥前」と「肥後」に分かれました。もっと、地名を大切にしてもらいたいですね。

投稿者 fujimori : 18:23 | コメント (2)

2006年05月09日 新聞記事より

儒教復権

先日の朝日新聞の記事によると、最近、中国で儒教が復権しているそうです。(朝日 06/05/05)リードには、こう書かれてあります。「中国で「封建主義の道徳」と批判された儒教が復権、市民生活に定着しつつある。孔子の「論語」を音読する子ども向けの塾は花盛り。ビジネスマンの儒教教室も人気だ。急速な国際化や経済成長が中国人としての自己意識を求めさせる。とはいえ、格差の拡大や拝金主義の横行には不満が強い。国民をまとめる思想を探る当局の思惑もかいま見える。」
 この傾向は、どうも、日本で「国家の品格」が大いに売れているのと似ている気がします。それは、記事のなかの文章でわかります。「市場経済の競争の中で道徳観が低下していると危機感を抱く。『市場経済の道徳として儒教思想は必要だ。教室は学者としての責任感から始めた。政治思想として教えるわけではない』とボランティアで教える戴伝江さんが言う。また、そこに通わせている5歳のこの母親は、『競争の世の中でも、物事の道理はわかる大人になって欲しい』と言う。」
同様に、この現象に対して、このブームの火付け役の一人である中国人民大学農業農村発展学院の教授「康暁光」さんは、こう分析しています。「計画経済から市場経済へ、集団制から私有制へと急速に変わる中で価値観が混乱、みんなが迷っている。そこで、伝統的な倫理観を求め始めた。」と復権の背景を語っています。この言葉は、そのまま「なぜ、国家の品格があんなに読まれているのですか?」と聞かれたときの答えに使えそうです。そのとき、同じようにこんなコメントも言いそうです。北京師範大学哲学社会学学院の教授「李景林」さんが、儒教ブームは歴史の必然だとした上で、こう言っています。「儒教は文化理念であり、今は政治思想でも指導理念でもない。復興はあくまで民間主導でなされるべきだ。現代社会にあった新しい儒教の創造が必要だ。」これは、儒教復権の中で、政府が曲阜の「孔子祭り」を主催して、市長が祭文を読んだことに対していった言葉です。確かに、今一度「国家の品格」が問われ、たとえば、「武士道」を見直す必要があるかもしれませんが、ブームとか、過去への回帰とか、道徳観の押し付けに結びついてくると、なんだか心配になってきますね。
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孔子廟(こうしびょう)は、孔子を祀っている霊廟です。現在の山東省曲阜(きょくふ)に、孔子の死後1年目に魯の哀公が孔子の旧宅を廟にしたとされ、そこに孔子廟がつくられたのがそもそもの初めです。その廟は、現在孔廟と呼ばれ、儒教の総本山として厚く信奉されていて、その廟には、孔子やその弟子たちの像が安置され、「論語」がおさめられています。日本にも、各地に孔子廟があります。一番有名なものが、東京の湯島聖堂です。もともと朱子学の林羅山が上野忍が岡に先聖殿を築いたものを、徳川幕府が日本における儒教の学校として、湯島(御茶ノ水)に移築し、開き、林家の学問所としても発展したのです。ここの構内には、世界最大の孔子像が飾られています。
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むかし日本テレビで放送されたドラマ「西遊記」や、今年のフジテレビの「西遊記」のロケ地としても使用されています。
 そこに、交通博物館に行ったついでに、久しぶりに寄ってみました。

投稿者 fujimori : 18:18 | コメント (0)

2006年05月08日 散歩

交通博物館

 今、何かと話題の秋葉原ですが、皆さんは、秋葉原というと何を思い浮かべますか?普通は、「電気街」です。しかし、電気街といっても、そこで何を買うのでしょうか。私は、中学生の頃は、電気のパーツを買いに行きました。自分でラジオを作ったり、電流計、電圧計を買ったりしました。最近では、ゲームが発売されるとよく秋葉原の店がテレビに映りますね。また、新しいところでは、「フィギャー」の店や「メイドカフェ」も話題です。もうひとつ、私が小さかった頃と、わたしの子どもが小さかった頃の思い出があります。それは、「交通博物館」です。秋葉原駅から徒歩3分の場所にあります。
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 ここは、中央線のターミナル駅である万世橋駅でした。ところが、ターミナル駅は東京駅となり、万世橋駅は廃止されたので、1936年4月25日にターミナル駅であった旧万世橋駅に併設され開館しました。それが、最近、収蔵・展示品目の増加によって手狭になり、また建物の老朽化が進んでいることもあって、神田にある交通博物館を2006年5月14日限りで閉館し、「鉄道博物館」と改称して2007年10月14日〔鉄道の日〕にさいたま市に移転・再オープンする計画があります。秋葉原にあるのは、あと1週間もありません。そこで、日曜日に妻と二人で行ってみました。もちろん、最後とあってとてもにぎやかでしたが、いろいろと写真を撮ってきました。たまたま帰ってきていた娘がその写真を見て、「二人とも、子どもみたい!」と言われてしまいました。
 ここには、鉄道・船舶・自動車・航空機がフロア別に展示されています。特に、日本の鉄道黎明期に活躍した1号機関車、初代1号御料車、弁慶号機関車、善光号機関車、徳川好敏陸軍大尉が日本初の飛行に使用したアンリ・ファルマン機などを始めとし、各分野の貴重な実物資料が多数収蔵展示されています。しかし、なんといっても子どもが喜ぶのは、おおきな鉄道模型パノラマ運転場があって、時間を決めて、その中を何台もの電車が走り回るのを見ることができることと、いろいろな電車の運転シミュレータができることです。「205系電車(山手線)」「211系電車(2種)」「209系電車」「200系新幹線(東北・上越新幹線)」などが、映像を見ながら、運転席に座って体験できるのです。
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 汽車といえば、外国では、「トーマス」が有名ですが、日本では、阿川弘之さんが書いた「きかん車やえもん」が有名ですが、この話は、子どもたちに1号機関車のことを、子どもにわかりやすく、おもしろく書きかえた話です。「やえもん」は1872年(明治5)、日本で最初の鉄道がはじまったときに、新橋と横浜のあいだでかつやくしましたが、この交通博物館にあります。当時、新橋と横浜のあいだは、歩くと朝出発しても着くのは夕方でした。それが、1号機関車はわずか53分で走り、みんなをビックリさせました。それが、だんだんと時代おくれになって、1887年には大船へうつり、やがて大阪へうつり、そして1911年には九州の島原鉄道へ売られてしまいました。しかし、いちばん古いたいせつな機関車ですから、交通博物館でひきとって、展示することになったようです。
 レトロな展示室は、とても味わいがあってよかったので、展示品だけでなく、その場所がなくなってしまうのは残念です。建物や、万世橋駅の遺構だけでも、今後も保存して欲しいですね。

投稿者 fujimori : 18:29 | コメント (1)

2006年05月07日 散歩

きいち

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昨年の2月に「蔦谷喜一さん」という人が91歳で亡くなりました。彼は、「きいちのぬりえ」で有名な「ぬりえ作家」です。私のブログで、美術教育における「ぬりえ」について書きました。(2006年2月10日)それは、創造性がなくなるということで排除されてきましたが、デザイン力をつけるためには、見直されるべきではないかということです。また、「マンダラ塗り絵」についても書きました。(2005年9月21日)ドイツに行って、曼荼羅塗り絵が、子どもの集中力を養うために効果的に使われることを知り、園児に使っています。「マンダラ塗り絵」は、日本でも売っているようになり、最近は、大人の「ぬりえ」が注目を浴び始めています。それは、塗り絵を塗っている間の血流と脳波の動きから、脳が活発化されていることが証明されているからです。脳を活性化するものとしてさまざまなものが提案されていますが、その中で、かなり効果的なものとして注目を浴びているのです。
 「ぬりえ」は、大辞林では、「玩具の一。輪郭だけを描いた図形や模様の中に、色を塗りわけて楽しむもの。」と書いてあります。この「ぬりえ」は、明治時代の翻訳教科書の絵をなぞっていたところから発生しています。子どものころは、ずいぶんと「ぬりえ」がはやっていました。特に女の子は夢中でした。私は、「怪傑ハリマオ」や、「怪傑黒頭巾」などのぬりえをした思い出がありますが、女の子が夢中になったのは、たくさんのぬりえ画家のうちでも、「きいち」ほど人気のあった作家はいませんでした。今日は、そんな「蔦谷喜一」の作品が多く展示されている「ぬりえ美術館」に行ってきました。彼は、日本画家としての素養にくわえ、自分自身が元祖「モボ」を気取ったファッションセンス、なにより大量のモチーフによる作品の多さには感心させられます。最近のレトロブームもあり、資生堂やPARCOなどのポスターや、山手線の電車内の映像の提供である「早稲田予備校」の中吊りポスターなどで「きいちの少女画」が採用されていて、よく目に触れます。
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喜一氏は、物心つくころから「絵の得意な」少年で、特に人物を描くのが好きだったそうです。小さいころは「正チャンの冒険」(椛島勝一のポンチ絵)など、良く描いていたそうです。まだ中学校のころに、高畠華宵の挿絵に魅せられ、明けてもくれても華宵の絵を模擬って描いていたそうです。そのころになるとすでに、将来挿絵画家になると決めていたそうです。最初は、浅草田原町のぬりえ屋さんの内職で描きはじめたころ、漱石の「虞美人草」のヒロイン藤尾からとって「フジヲ」という名前を入れていたそうです。そして、昭和22年からは「きいち」のサインで膨大な量のぬりえを描きつづけ、最盛期には袋絵も含めて1ヶ月に100万枚前後の「きいち」のぬりえが全国にでまわったそうです。戦後の昭和20年代から昭和30年代の高度成長時代に生まれた女の子たちは本当によく「ぬりえ」で遊びました。またこのころからぬりえにはふろくとしてきせかえが登場します。昭和40年代に入ると、子どもはテレビ漬けになるのでぬりえは下火になり、同時に、「ぬりえ」は、美術教育としてふさわしくないというレッテルを貼られ、幼児には与えなくなってしまったのです。子どもたちは、何も全員が画家になるわけではないのに、大人は、なんでも黒白をつけたがるのですね。

投稿者 fujimori : 22:25 | コメント (0)

2006年05月06日 記念日

立夏

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 暦というのは天体の動きに合わせて作られていますので、とてもややこしく、わかりにくいところもありますが、簡単に言うと、1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われるのが一般的です。これを、二十四節気(にじゅうしせっき)といいます。そして、さらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されました。計算が苦手な人は、ややこしくていやになりますが、日本では暦注など生活暦において使われていることが多いので、なじみのものがあります。たとえば、天象と暦学上の季節区分として、「春分」「夏至」「秋分」「冬至」の4つに分けます。そして、その半分のところが、暦学上の季節区分として、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」となります。今日の5月6日が、今年の「立夏」です。「夏の気配が感じられるころ」といわれ、暦便覧には「夏の立つがゆへなり」と記されています。この日から立秋の前日までが夏となり、「蛙が鳴き始めるころ」とも言われています。(そういえば、昨日、散歩の途中で、かえるの声を聞きました)そして、立春から立夏までが春、立夏から立秋までが夏、立秋から立冬までが秋、立冬から立春までが冬というように定められています。日本では、旧暦5月を皐月(さつき)と呼び、現在では新暦5月の別名としても用いられています。他の月よりも、5月のことを旧暦の呼び名の「さつき」と呼ぶのは、より生活に密着している「さつき○○」(実際は、6月のことをさすことが多い)といわれるものが多くあり、なんだか、今の頃の方が「さつき」という感じがします。「さつき」は、本来は、この月は田植をする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短かくなったものです。また、「サ」という言葉自体に田植の意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もあるそうです。つまり、梅雨時の田植えの季節に由来しているのです。日本書紀などでは「五月」と書いて「さつき」と読ませており、皐月と書くようになったのは後のことであるようです。また、ツツジ科の皐月(さつき)も、旧暦の皐月(5月)に咲くことから命名されました。「皐月躑躅(さつきつつじ)」を省略したものでつつじの一種です。杜鵑花(ほととぎす)が鳴く頃に咲くため、「杜鵑花」とも書きます。江戸時代から庶民より武家世界にまで人気があり、さつきとつつじは見分け方が難しいのですが、さつきはつつじより遅れて咲き,やや花が小型であり,ろう細工のような光沢を持つこと,花びらの色が混じっていることが挙げられます。また「皐月」は花の名前となっていて、今盛りですね。また、もうすぐ咲く「あやめ」から、「菖蒲月(あやめづき)」の別名もあります。しかし、本来、さつきというのは今の6月のことですので、「五月雨を 集めてはやし 最上川」(芭蕉)という句の五月雨(さみだれ)とは梅雨の別名ですし、五月晴れ(さつきばれ)とは本来は梅雨の晴れ間のことです。しかし現在では、5月と6月の両方で「サツキバレ」が使われているのが現状で、「広辞苑」でも「さつきばれ(五月晴れ)」は、①さみだれの晴れ間、梅雨の晴れ間。②5月の空の晴れ渡ること。と両方を認めています。また、5月の蠅はうるさいことから戯れた当て字として、「煩い、うるさ・い」という字を「五月蠅い」と書きますね。そのほか、梅雨の頃の暗さのことを、「五月闇(さつきやみ)」などともいいますね。このように日本には古くから培われた文化があり、それが、旧暦、新暦となんとなく渾然として使われているにもかかわらず、現在も廃れることなく、いつのまにか我々の生活に影響しているのです。ちなみに、欧米での呼び名であるMayはローマ神話で豊穣を司る女神マイア(Maia)の名に由来するといわれています。

投稿者 fujimori : 15:34 | コメント (4)

2006年05月05日 来客

 今日は、こどもの日です。先日、園で「子ども日祭り」をやったときのことです。こいのぼり役をした保育者が、途中で元気がなくなりました。(もちろん、演技です)司会者が、元気にするためにいろいろな食べ物をあげますが元気になりません。何が好きなのだろうと子どもに問いかけたところ、年長さんみんなが、大きな声で「空気!」と叫んでいます。確かにそうでしょうが、司会者は、「風」と答えさせたそうです。たしかに、考えてみると、こいのぼりは、風が吹くと元気になりますが、口から入るものは空気ですね。どうして、空気が口から入るかというと、体の一番先頭に「口」があるからです。顔は、「口」を中心にできたものだといわれています。動物にとって、口は食べ物を入れる場所だけではなく、一番の「武器」になることが多いのです。ですから、人間以外の動物は、通常は胴が水平になっていて、体の一番先頭に口がついています。こいのぼりは、口が先頭にあるので風が入っていいのですが、普通は、口を先頭に歩いていると、いろいろな物が口に入ってきてしまいます。また、障害物にもぶつかってしまいます。そこで、危険を判断するために、目や鼻や耳などほかの感覚器官が顔に集まってきたそうです。それらの位置関係も、その生きていく環境にあわせて適応してきたのです。そうして、人間の顔ができてきました。そして、今、顔には、生殖器系と泌尿器系を除いた器官系がすべて集まっていて、複雑な構造になっています。人間にとっての「口」は、ものを食べる、呼吸をする、感覚するといった機能的な役割を果たすことだけにとどまらず、心が現れる舞台としての役割があるといわれています。立教大学の名誉教授である「香原志勢」氏がこのように言っています。「『顔』。それは人間の心が無意識に表れる場所でもある。また、意識が顔を現す場所でもある。顔だけでその人自身を表せるほど要の部分でありながら、自分の顔は自分で直(じか)に見ることができない。それは、人間が人間を探求しながら、なかなかその見えざる本質に辿りつかないことにも通じてはいないか。自分では見えない自分自身を探るひとつの手掛かり、それが『顔』なのではないだろうか。」
 先日、園に尋ねてきてくれた須賀さんから、自分が訳したという本をいただきました。「顔立ちから 子どもを知る」(L・コルマン著 須賀恭子訳 北小路書房)という本です。サブタイトルに、「ルイ・コルマンの相貌発達心理学」と書かれています。いろいろな学問があるのですね。その本の「訳者あとがき」にこう書いてあります。
「人と人との直接の交流は、相手と顔を見合わせることから始まる。初対面であっても、最初の一瞥でお互いに第一印象をこころにいだく。相手から顔をそらしがちになるのは、互いに受け入れがたいことを暗示している。言葉を交わしている間も、言葉以外の手段がコミュニケーションの底流を支え続ける。この間、顔の表情の交流は特に重要な役割を果たし続け、相互に第一印象を修正しながらもより強い印象を形成していく。」
 少し前にテレビのNHKの番組でやっていましたが、赤ちゃんに話しかけるとき、母親が、目をそらして話しかけたり、携帯電話で話しかけたり、ついたての陰から離しかけても、赤ちゃんの前頭葉は少しも刺激を受けていませんでした。直接顔を見つめて話しかけること、そうすることで、前頭葉も、コミュニケーション能力も、育っていくようです。

投稿者 fujimori : 20:05 | コメント (0)

2006年05月04日 旅先にて

イルフ

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 今日は、長野県岡谷市にある「イルフ童画館(日本童画美術館)」に行ってきました。この岡谷は、童画家である武井武雄の出身地なので、童画のほか、武井武雄の幅広い世界をじっくり堪能することができます。(ちなみに「イルフ」とは、「新しい(フルイの反対)」という意味の武井の造語で、イルフトイスと名付けた玩具の制作も行っていました)。武井は、私たち幼児教育にかかわるものにとっては、とても馴染み深い人です。それは、武井の作品を、単行本として知っているより、「コドモノクニ」や「キンダーブック」、そして展示されていた原画が「チャイルドブックゴールド」に掲載されていたもので、挿絵画家として有名です。武井は、「子どもの心にふれる絵」の創造を目指して、童話の添え物として軽視されていた子ども向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めたのです。武井の童画は、大胆な構図や幾何学的な描線によって、モダンかつナンセンスな味わいを感じさせ、残された作品はいまもって古びていません。そんな彼は、子どもの時から絵を描くことが好きで、5歳の頃に「エ兆金」と題した豆本の絵本を制作したのです。また、小学校では綴り方に「わたしは絵描きになります」と書いていたほどです。早くから自分の進むべき道が見え、その道に実際に進むことができるのは幸せなことですが、この道に進むと決めたとき、両親はどう反応したでしょうか。また、学校の先生は、どう助言をしたのでしょうか。子ども自身がどう思うかというよりも、それを正しい方向、本当に本人のためになる助言がそのときにできるかが問題なのでしょう。しかし、こんなに才能が現れていれば、誰でも認めざるを得ないかもしれませんね。武井武雄は病弱であった幼少時に、「ミト」という妖精といつも一緒に遊んでいたといいます。「ミトはいつでも思い出しさえすれば、もうそこへ来ていた。しまいには金平糖の芯の処へ来ていて、なめているうちに芥子といっしょにポイと出てきたりなんかした」というのです。このミトこそが、のちに武井が描く空想世界の源となる童話の主人公なのでした。その後、東京美術学校(現東京芸大)に進学し、西洋画科を卒業しました。そして、生活を支えるためのアルバイトのつもりで、「子供之友」や「日本幼年」などの子ども向けの雑誌に絵を描き始めます。そして、しばらくするうちに、子どものために絵を描くということは腰掛けでできるようなことではなく、「男子一生の仕事にしても決して恥ずかしくない立派な仕事」であると思うようになるのでした。
 今日は、企画展として、「武井武雄の科学絵本- 自然のしくみ 地球のふしぎ -」が開催されていましたが、単なる理科の初歩的内容を図解するのではなく、「やがて科学の世界に興味と情熱を持つ素地を養うような絵本」を作ろうと、この分野にも積極的に取組み先駆者的な役割を果たした科学絵本が展示されていました。
 同時企画展が、「かこさとし絵本の世界 ─だるまちゃんがやってくる─」でした。「かこさとし」も東京大学工学部を出て、工学博士ですが、学生時代からセツルメント活動や地域の子ども会の指導などを通して、間近に子どもたちと向き合い、その反応を一つ一つ確かめながら、絵本などの制作にあたってきた人です。専門知識を生かして制作された絵本は、動物や植物といった自然界の仕組みや成り立ちに小さな疑問を抱かせ、子どもたち自身の持つ「考える力」を引き出してくれます。

投稿者 fujimori : 16:30 | コメント (0)

2006年05月03日 散歩

木場から亀戸

今日は、「憲法記念日」ということで、江戸の名残がある町並みを歩いてみました。(特に、憲法には、関係ありませんが)まず、東西線の「木場」という駅で下車しました。木場は、江戸から昭和にかけて、江戸・東京へ材木を供給し「材木のまち」として栄えてきましたが、今は、木材関連業者が現在の新木場へ移転したのを機に、水と緑の森林公園として整備されています。その中心が、面積24.2haの総合公園である「東京都立木場公園」です。この広い敷地も、元々は木材関連企業の敷地だったようです。また、今日は行きませんでしたが、園内に「東京都現代美術館」もあります。ここは、今花盛りです。hana1.jpghana2.jpg
 今日は、連休ということもあって、団塊の世代向けの「フォークコンサート」や「木場ストック」(ウッドストックというかつてのコンサートをもじって)が、開かれていました。この公園を東西二つに分けているのが、「仙台堀川」です。何でこんなところで仙台かというと、元禄11年(1698)から仙台藩伊達家の蔵屋敷が有ったので、仙台堀と言われたのです。仙台から船で江戸・隅田川の東岸の深川まで米を運んでいました。今、その川に沿って「仙台堀川公園」という細長い都内最大級の親水公園があります。それに沿って歩いていくと、親水河川や魚釣り場、「区民の森」として様様な樹木、多くの鳥や魚も生息しています。ウォーキング協会の推薦の道だけあって、真っ直ぐな道と森の中のうねった道を選んで歩ける所があったり、水辺には飛び石を置いたり葦を植えている所、様々な形の池など、歩くにつれて風景が変化するため、運河沿いをただ歩くというものではなく、公園としての美観についてかなり考えられていて、ジョギングやウォーキングをする人達への配慮がされています。そして、その道が左に大きく曲がった先に、江戸時代に建てられた区内最古の民家建築の「旧大石家住宅」があります。この建物は、関東大震災でも倒壊しなかったそうです 。horikawa.jpg
 その後、「亀戸天神」に寄ってみました。ここは、太宰府天満宮の神官(道真の子孫と伝えられる)大鳥居信祐が、神木で菅原道真像をつくり、亀戸村に祀ったのが始まりといわれています。心字池・太鼓橋など、太宰府天満宮を模して造営されたものもあります。そして、境内の梅・フジの花が名所となり、学問の神様ということもあって、江戸時代以来行楽を兼ねた多くの参詣客を集めてきました。この境内にある池には、亀がたくさんいて、岩の上では甲羅干しをしています。この亀から、この辺を「亀戸」というかと思うと違うようです。この亀戸天神に行く途中に「香取神社」という江東区で最も古い神社があります。ここの社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰を集めているそうです。その亀よりも有名なのが、歌川広重の「名所江戸百景」に描かれ、今まで多くの人たちに親しまれてきている「藤」です。この藤は340年前の神社創建当時から植えられたと伝えられています。ちょうど、偶然に訪れた亀戸天神でしたが、「藤祭り」真っ最中でした。kameidofuji.JPG
 今日は、ずいぶんと、いろいろな花を見ることができました。

投稿者 fujimori : 22:18 | コメント (2)

2006年05月02日 近頃思うこと

春の星座

 夜、車に乗せてもらった時にびっくりしました。その車にカーナビがついていたのですが、今のカーナビはすごいですね。そこには、これから進む道が立体的に出てくるだけでなく、その地平線の上に、夜空が映し出されていたのです。星空が広がっているのです。進んでいる方角が東でしたので、地平線から顔をのぞかせ始めていたのが、こと座のベガです。これは、夏の大三角形のひとつで、織姫星です。夏の代表的な星なので、「ああ、もう夏の星が出始めているのだ。」と、思いました。そういえば、同じく、春に形作る0等星、1等星、2等星の3つの明るい星でできた「春の大三角形」は、もうすでに南中しており、春も終盤を迎えつつあることを示しています。春の大三角形とは、うしかい座の「アークトゥルス」、おとめ座の「スピカ」、しし座の「デネボラ」を結んだ三角形のことです。この三角形は意外と大きいものです。うしかい座のいわれには,いろいろな説があります。大神ゼウスの妻ヘラの呪いによって変えられた大熊(おおぐま座)を追う息子のアルカスの姿,あるいは,天をせおわされている,石になった巨人アトラスの姿ともいわれています。うしかい座の「アークトゥルス」は、だいだい色の1等星です。アークトゥルスはギリシャ語では熊の番人という意味で、日本では麦星と呼ばれています。しかし、他の星はあまり目立った星はありません。オレンジ色の男性的なアークトゥルスに対して、おとめ座のスピカは、白っぽく光り、女性的な輝きを放っています。スピカは,その色から日本では「真珠(しんじゅ)星」とも呼ばれていました。両者をカップルに見立てて「春の夫婦星」と呼んだりしています。しし座は、「?」(クエスチョンマーク)を裏返したような「ししの大鎌(おおがま)」と呼ばれる星の並びを頭として,前足,後ろ足と比較的明るい星を結んでいくと,ししの姿になります。その「しし座」の胸に輝く一等星が「レグレス」で、「小さな王」を意味しています。それは,この星がちょうど天球上で太陽の通り道である黄道に位置するため、古くから王の星として重要視されたためです。また,星占いでのこの星座の守護星は「太陽」になっています。
 この三つの星に、りょうけん座コル・カロリを結んだひし形が、「春のダイヤモンド」(おとめのダイヤ)と呼ばれています。また、北斗七星の柄杓の柄のカーブを延長すると、これらの「アークトゥルス」「スピカ」をつないでいくカーブができますが、これが「春の大曲線」と呼ばれる曲線です。
今、なぞの彗星が地球大接近しているそうです。夜9時ころの位置は、こと座のベガからこぶし二つ分、上にいったところだそうです。この彗星は、「SW3彗星」と呼ばれ、夜空がきれいな場所であれば、肉眼でも見えるかもしれないそうです。余裕があれば、大接近の5月中旬の頃は見るチャンスです。2時間ほどでお月様一個分の距離を移動しますから、双眼鏡で見ていると、じわじわと彗星が東に動いていく様子がわかるそうです。まさに宇宙がダイナミックに動いていることが体感できるでしょう。なお、国立天文台でも、連休中に「謎の彗星見えるかな?」キャンペーンを行っていまので、興味がある人は参加してみてはいかがでしょうか。
ついでに、春の星も眺めてみてください。星は、どの季節にも話題を提供してくれます。

投稿者 fujimori : 17:21 | コメント (0)

2006年05月01日 由来

ハナミズキ

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 今、街を歩くと、盛りに咲いている花があります。「ハナミズキ」という花です。花が咲くと、こんなにもこの木が多く植えてあったのだと再認識することがあります。桜の花が咲いたときもそう思いますが、このハナミズキもあっという間に町の街路樹に増えました。多く見られる「アメリカハナミズキ」は、明治45年(1912年)に、尾崎東京市長がアメリカのワシントン市へ桜(ソメイヨシノ)を贈った際、その返礼として大正4年(1915年)にアメリカから贈られたという話(ブログ3月27日)は有名ですが、本当は、日本には明治中期に渡来したそうです。ハナミズキ(花水木)は北アメリカ原産で、和名「アメリカヤマボウシ」といいます。「ハナミズキ」には白のほか、ピンクのかわいい花を付けるものがあり「ベニバナハナミズキ」と呼ばれます。ハナミズキの花も美しいですが、秋の紅葉も素晴らしく、秋につける実は赤く、これもきれいです。ハナミズキの花弁と思われているものは総苞片で、本当の花は中央に固まっています。よく見ると一つ一つにちゃんと4枚の花弁と雄しべがあります。普通は、花弁は受精するとすぐにその役割りを終え、普通は落ちてしまいます。それは、受粉のために昆虫の目印となる役割だからです。しかし、ハナミズキのような総苞やアジサイなどの萼は、かなりの期間そのままで残り、花の形を保っています。それは、ハナミズキやヤマボウシは、一つ一つの花の開花の時期をずらして、どれかの花は確実に種子を残す戦略であり、その時期がずれる長い間、開花し続けなければならないので、総苞が花弁としての役割りを受け持っているのです。自然の仕組みというのは、すごいですね。この花の英名はdogwoodといいますが、これはハナミズキの皮の煮汁で犬のノミ退治を行ったことによるそうです。また、樹皮や根皮は、整腸や強壮に効果があるそうです。和名の「アメリカヤマボウシ(山法師)」とつけたのは、アメリカから渡来したときに、日本の山法師(花水木とよく似ていますが、咲く時期が花水木より1ヶ月ほど遅いのと、花の先端がとがっている(花水木は丸い)ことから区別できます。)に似ているので、とりあえずこの名前がつけられた経緯があるそうです。以前に、この木の枝を切っておいて一晩経ってみたら、切った枝の下の土が湿っていました。それは、枝の切り口から樹液が出たからです。ですから、樹液が多いことから「水木」と呼ばれ、花を愛でる水木なので「ハナミズキ(花水木)」といいます。ほかにミズキという木がありますが、この木も、春先にこの木を伐ったり、樹皮に傷をつけたり、枝を折ったりすると樹液がたくさん出てきます。かなり前ですが、自然観察会に出たときに、そのような説明を受けて、感心した覚えがあります。また、そのときに、ミズキに聴診器を当てて聞いてみると、幹から水の流れる音がすると聞きました。聴診器を買って聴いてみたのですが、私は上手に聴くことができませんでした。(やはり、聴く練習をしないと、脈の音ですら聴くことができませんでした)また、お正月に繭玉を飾る家庭が多くあります。繭玉は本来、餅や団子などを小枝に刺し、五穀豊穣を析るためのものです。その繭玉に使われる木のほとんどはミズキです。今の時期、ミズキやハナミズキの枝を切って、そこから水が出てくるのを見せ、木も水を飲んでいるということを子どもに知ってもらうのもいいかもしれません。園児の当番さんが、植木への水遣りを真剣にやってくれるかも。

投稿者 fujimori : 18:47 | コメント (0)