最近、新聞紙上でまた「尊厳死」について論じられることが多くなりました。このテーマについてはかなり重いのですが、ちょっと考えてみました。昨日ブログで書いたデンマークでのバリアフリーでの体験と同じときのことです。このときは、デンマークのほかにスウェーデンとかフィンランドなど北欧諸国での福祉の考え方を学びに行ったのです。デンマークでの体験は、バリアフリーとは、何も、障害者とか、お年寄りということではなく、どんなものでもそれをハンデにしないという考え方に感心しました。犬を連れていようが、赤ちゃんを連れていようが、車椅子であろうが、自転車に乗っていようが、誰でも電車に乗る権利があり、どの店にも入る権利があるということでした。ですから、何も特別扱いするでもなく、また、そんな場合でも他人に迷惑をかけることなく、自分の責任の中で行動していました。たとえば、車椅子の人がいようが、特別に手伝いません。手伝って欲しいときは、そのように言えばすぐに手伝うだけです。それは、ほかの人が何か手伝って欲しいとき、たとえば、お年寄りが重い荷物を持っている時でも同じことなのです。(ただ、これは、もしかしたら、多分に私の思い入れと希望が入っていて、本当かどうかはわかりませんが)ここに私は、成熟した国を見た気がしました。もうひとつ感動したことがありました。
それは、スウェーデンだったと思いますが、老人施設に行ったときのことです。その施設に行ったら、ホールの隅のほうにほこりにかぶった「機織り機」が置いてありました。それは何かとたずねたら、「お年寄りに対して、ボケないためにも、また、長生きをするためにも、女性には機織りをさせるととても効果があるということ、また、男性には、大工をさせるとよいということで、機織り機や大工道具が支給されてきました。そして、それを使ってみたところ、毎日お年寄りたちは、無表情に、つまらなそうにそれをやっていました。そこで、いったいあなた方は、なにをしたいのかと聞いてみたところ、毎日、コーヒーでも飲みながらおしゃべりをしたり、トランプなどをしたいということでした。もしかしたら、そんな毎日を送っていたら、はやく動けなくなるかもしれないし、ボケるかもしれない。検討した結果、たとえそれで死期が早まっても、人生最後まで、自分の意思で、楽しく生きることの方が大切ではないかということで、大工道具と機織り機はしまってしまったのです。」と答えました。本人にとって望まない延命措置はとらないということなのでしょう。いま、論議されているような病院でのことだけでなく、もっと、人生そのものについての「自己決定権」について考えるべきかもしれません。また、本当の自己決定ができる能力を、子どものうちから育てていかなければならないと思います。いつもやってもらい、指示してもらっている子どもに、自分で決めなさいと言っても、それはかえってかわいそうなことですし、間違った選択をしかねません。その施設では、食事に関しても感心しました。もちろん、給食を部屋に配るのですが、もし自分で作りたいといえば、その材料が施設内のスーパーで売っていて、それを買ってきて部屋で作ることもできます。また、レストランに食べに行きたいと思えば、給食と同じメニューですが、すばらしいレストランが施設内にあって、素敵なドレスを着て、そこに食べに行くこともできます。すべてのことに「自己決定」なのです。これは、やはり、小さいうちからの教育の問題ですね。
私が幼いころは、自己決定する権利はありませんでした。
私だけでなく、どの家庭でも、決定権は父や祖父にありました。福岡という土地柄、九州男児の意見は絶対!でしたね~。
現在、老人ホームに入所するお年寄りが多数ですが、それは、自己決定の表れかもしれませんね。どうも、老人ホームイコール親の面倒をみない、とされがちですが、お年寄りが自分で決めて入所されることも多そうです。
子どもにとっても、自己決定は必要ですね。
自分で考え、自分で決めて、自分で経験して学ぶ、というのが理想ですね。おとなは、子どもが自分で決めようとしていることを気づいてあげるだけでいいと思います。アドバイスは必要ですが、無理やり方向性を変えたりしてはいけませんよね。
お年よりも子どもも、もちろんおとなも、みんなひとりの人間ですから、そのひとの人生や生き方は、誰が責任取るわけでもなく、本人次第です。いくら親といっても、子どもの生き方を決める権利はありませんよね。
私が自分で決めることに必死になれるのは自己決定権がない思春期にコンチクショーと思っていたせいかもしれないですね・・・。