昨日は、4月6日です。「しがつろくにち」から、「しろ」ということで、「城の日」でした。今年、財団法人日本城郭協会で、全国各地の名城探訪の手がかりとして「日本100名城」が選ばれ、2月に発表されました。選定されたのは、世界遺産の姫路城、国宝の彦根城・松本城など天守がそびえる近世の著名な城郭から、城郭の始まりとされる環濠集落吉野ヶ里(佐賀県)や古代の鬼ノ城(岡山県)、さらに中世の足利氏館(栃木県)・一乗谷城(福井県)、琉球王国の首里城(沖縄県)、信長の安土城(滋賀県)、西洋式の五稜郭(北海道)まで、時代と地域を代表する多彩な名城です。その中で、東京都から選ばれたのは、2城で、「江戸城」と「八王子城」です。
八王子城主は、「北条氏照」ですが、小田原に本拠をおいた北条早雲から三代目の氏康の次男で5代氏政の弟にあたる人物です。滝山城にいた大石定久の養子となり、成人して大石源三氏照と名乗ります。大石氏(後の大石氏は、赤穂浪士などで知られています)は、滝山城(この城跡も八王子市にあり、私の家の近くです)を本拠としていましたが、難攻不落の城(武田信玄が何回か攻めています)ではあったのですが、「滝は落ちる」ということで、縁起を担ぎ、氏照は、この滝山城から八王子城に移ることを計画します。私は、よくこの八王子城跡に行きました。それは、典型的な山城で、そこに登るのは一苦労ですが、山頂はとても景色がよく、教師をしていた頃、担任していたクラスみんなで行ったり、中学生を写生に連れて行ったものです。また、山頂近くには、法華経にある仏教伝説で、「釈迦の前で多くの人が悟りを開き出家した際に最後に出家した王の八人の王子がその後仏門に入った」という話に由来して、この八王子信仰が各地に伝わり、八王子社がこの山の頂上に建てられ、それが八王子の地名の由来だといわれています。
ここに築城された八王子城を、豊臣軍が、前田利家を総大将に上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してくる途中、攻め落とします。そのとき、城主の北条氏照は小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊に任せます。そして、1590年6月23日(旧暦)の早朝から攻められ城方も奮戦しましたが1日で落城しました。このときの戦いが、秀吉の小田原攻めのなかで、唯一の殺戮戦であったために、そのときの様子が、特に語られています。攻められ、逃げ場を失った女性達は御主殿の滝に身を投じて、川は数日血に染まったといいます。このときの話が、「赤いくし」(古世古和子作、箕田源一郎絵 童心社)という絵本になっています。
城を守っていたのが、留守を守っていた地侍、商人、職人、修験、僧侶、農民などわずかに3000人ほどであったといわれています。それが、10倍近い豊臣勢の猛攻を受けたのですから、ずいぶんと悲惨だったでしょう。
たまたま、以前ブログ(1月13日)に書きました小田原の二宮尊徳のお墓に行ったときに、その菩提寺には、この北条氏照の母親である氏康夫人の墓もありました。彼女は、あの今川義元の実姉です。家庭教育に力を注いだということで有名です。特に、総領の氏政、武勇の氏照・氏邦、外交の氏規と見事に分を弁えているといわれています。昔から、家庭教育の大切さが言われていたのでしょう。