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2006年04月30日 近頃思うこと

三宅島

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 昨日のブログに書きましたが、長崎では、漁船を運転する貴重な体験をさせてもらいました。海は内海で、波はほとんどなく、凪いでいました。その海をいつも航行していることと、漁船といっても、真珠養殖のためということもあって、隣で運転を見守ってくれた人は、とても優しく、穏やかな人で、海の荒くれ男という感じではありませんでした。しかし、こんな静かな海でも、時には、3メートル以上の波に立ち向かわなければならないときもあるそうです。それは、何も台風のときだけでなく、風が吹いただけのときでも荒れるときがあり、前から波がかぶさり、また、船が大きく揺れ、必死で舵を取るそうです。きっと、穏やかに見えたのは、その日の海の状態を映していたのでしょう。そんなときは、素人の私でも運転できます。しかし、狭い島の間を縫って走るとき、舵を取られそうになり島に近づきすぎたときは、横からそっと舵に手を添えてくれます。人は、いつも穏やかな状態の中だけで生きていくことはできません。時には、荒々しい状況のときもありますし、転覆しそうなときもあるでしょう。これを乗り切るときは、それなりの知識と、経験が必要なのでしょう。また、漁師としての資質も必要かもしれません。
私の園に、元気いっぱいの子がいました。少しもじっとしてはいません。別に乱暴というわけではなく、何しろ体を動かすのがすきなのです。ですから、みんなといっしょにじっと座っていたり、静かに長い間本を読むのは苦手のようです。その子が、卒園するときに、将来なりたいものを発表しました。「僕は、大きくなったら、三宅島で、お父さんのような漁師になりたいです。」と言ったのです。その子は、三宅島から、園の近くに避難してきている子でした。私は、その子が将来、三宅島で漁師になるのであるなら、このまま、元気で、体を思い切り動かし、じっとできないくらいのほうがいいのではないかと思いました。学校などでは、子どもはじっと座っていて、先生の話をじっと聞く子が「良い子」と思うようなところがあります。確かに、もし、この子が、将来なりたい職業が、「東京でサラリーマンになりたい。」としたら、もう少しじっとできないといけないかもしれません。どうも、誰でも同じような職業につくようなことを想定しすぎているのかもしれません。人は、それぞれ、違う職業に就き、そこで発揮できる能力が必要です。そして、それを認めてもらえて、自分の生きていく意味を感じるのです。
その子同様、近くには何人か三宅島から避難してきていました。そこで、園で、子どもたちの支援をすることになり、遊びの広場として園を解放したりしました。そうする中で、さまざまなボランティアの人が支援してくれることとなり、園では、その人たちに任せることにしました。そのような活動の中で、お年寄りたちが家に閉じこもってしまっていることに気がつきました。そこで、何回かお年寄りたちに「どうぞ、遊びに来てください。」「気軽に園に来てください。」と誘いましたが、なかなか出てはきません。そこで、ある工夫をしました。園庭の隅に、角材で正方形に囲った畑を作りました。そして、「どうか、畑でどうしたらよいかわからないので、助けてくれませんか?」と助けを求めたところ、三宅島で、農業で賞をとったことがあるといって、あるお年寄りが名乗り出てくれました。その後、三宅島に帰るまでの間、その畑で、いろいろなものを、子どもたちに指導しながら作ってくれました。雨の日も、雪の日も心配で見に来てくれました。病気になってしばらく休んだ後などは、来れなかったことのお詫びに来てくれました。まったくの好意で手伝ってもらっていたので、こちらのほうが恐縮してしまったほどでした。自分が生かせる場所があることが、生きがいなのでしょう。

投稿者 fujimori : 20:50 | コメント (0)

2006年04月29日 講演先にて

大村湾

 昨日長崎から帰ってくるときに、メンバーの人たちの好意により、とても貴重な、エキサイティングな体験をさせてもらいました。宿泊して、研修したのは、琴海町というところです。琴海町は「きんかいちょう」と読みます。この町は、西彼杵郡に属していましたが、今年1月4日に長崎市に編入されました。この町は、大村湾に面しています。この辺の海は、湖のように穏やかで、青ではなくエメラルドグリーンの海面が広がっています。おだやかな波が海岸に打ち寄せるさまが琴の音色のようだとして、古来よりこの海を指して「琴の海(ことのうみ)」という別名があるので、「琴海町」と名づけたのでしょう。
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 大村湾は、長崎県本土のほぼ中央に位置する湾です。面積は琵琶湖のおよそ半分くらいだそうです。湾内の反対側には日本初の海上空港である長崎空港があり、昨日、その空港まで船で連れて行ってもらったのです。用意された船は「漁船」です。大村湾は、漁業面では、真珠とナマコが特産品として有名で、特に天然真珠は古来より有名だそうですが、今は、養殖真珠に取って代わっているそうです。乗せてもらった漁船も、真珠養殖の船なので船名は「寶珠丸」といいます。途中から、その船の運転をさせてもらいました。免許者が乗船していればいいそうで、横にいてもらい指示を受けながら舵を取らせてもらったのです。大村湾は、四方を陸に囲まれた、まるで湖のような「湾」で、外洋に通じるのはわずか2ヶ所の細い水路を通してのみです。平均の深さは、わずか約15mなので、ところどこに浅瀬があり、そこをよけての舵取りです。この大村湾には、スナメリというとても珍しいイルカの仲間が住んでいます。今回は、残念ながら見ることはできませんでしたが、スナメリは、どういうわけか大村湾から出て行かず、一生をこのせまい湾内で過ごすそうです。
 この湾の中を琴海町から空港まで直行しないで、寄り道をしました。「西海橋」の下をくぐったのです。この橋は、伊ノ浦(針尾)瀬戸に大きなアーチを描いて架かる橋です。建設当時は東洋一、世界第三位のアーチ橋だったそうです。そこに向かう途中、「遠くに見える3本の塔を目指してください!」といわれましたが、後で知ったのですが、それは大正11年に旧日本海軍が建てた無線塔で、真珠湾攻撃開始の無線(暗号は「ニイタカヤマノボレ」)を発信した塔だそうです。近くに行って、端の下をくぐるときに、舵を取られ、船が大きく揺れました。もう少し小さい船だと、転覆することがあるそうです。なんだか、舵を取りながら、ちょっとした荒波を乗り越えていく心境でした。どうしてかというと、この針尾瀬戸はとても狭く、流れが速く、迫力のある渦潮が見られるからです。大村湾と東シナ海を結ぶこの伊ノ浦瀬戸のうず潮は、特に春の大潮の頃が見頃といわれ、直径10メートルほどの大きなうずを巻く事もあるそうです。その荒波を乗り越え、橋の下をくぐってユーターンです。また、ないでいる湾の真ん中に出てから、船を止め、昼食を食べました。本当は、釣った魚をそこで料理をするのでしょうが、お弁当の刺身を食べながら、ちょっとした漁師気分です。その後、空港に横付けされました。こんな経験は、めったにできないですね。
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投稿者 fujimori : 17:31 | コメント (1)

2006年04月28日 講演先にて

さるく

 昨年は、愛知万博で盛り上がりましたね。この世界博のほかに、さまざまな万国博覧会が行われます。花博とか、未来博などがありました。今来ている長崎では、私としては好みの博覧会が開かれています。「日本ではじめてのまち歩き博覧会」という「長崎さるく博‘06」です。今月開幕し、10月29日まで開催されます。長崎というまちは、西洋への唯一の窓口であった鎖国時代から明治時代に育まれた異国情緒、色濃く残る中国文化、キリシタンの殉教と復活の歴史、人類が忘れてはならない原爆の悲劇、これらが重層して奥深い個性を持っているといわれています。「さるく」とは、長崎の方言で「ぶらぶら歩く」という意味だそうです。こういう企画は、とてもいいなあと思います。「長崎の奥深さを再発見してもらおう」と、市民レベルの発想で企画されたそうです。ここには、マンモスの頭もありませんし、パビリオンもありません。しかし、まち自体が展示物であり、その町の歴史的建物がパビリオンであり、歴史がイベントなのです。
私の園では、「成長展」という行事があります。以前は、どこの園でもあるような「作品展」でした。年齢ごとにさまざまな作品を作って、展示していました。作品展の前の子どもたちは大変でした。その日のために、見栄えのよい?作品を子どもに造ってもらわなければならないからです。絵を描かせたり、工作をさせたり、共同作品を作ったり、そのほか何かないかと考えたものです。小さい年齢では、また違った悩みが出ました。大人の思うとおりの作品を作ってくれません。勝手に殴り書きをします。それをいかにも作品のように見せる工夫をします。そんなある年、「子どもにとっての本当の作品はなんだろうか?」ということを職員で話し合った結果、「1年間の中で、子どもの一番立派な作品は、子どもの成長した姿ではないか。」ということに気がつきました。絵にしても、「今、何が描けるかということでなく、どのように描けるようになったか。」ということが大切なことに気がついたのです。それを、保護者に見てもらうこととして、年度末のこの時期に「成長展」ということで、開催することになったのです。子ども成長を展示しながら、保護者にも、この1年で、子どもたちはどのような成長をしたかたずねます。子どもたちは、どの時期に、どんな絵を描いているのか、給食の中でなにが好きなのかをたずねたり、1年間でどのくらい身長が伸びたか、体重が増えたかも実感してもらいます。
 「長崎さるく博」でも、「自分の歩幅で歩く街に、普段気づかない街の姿を見つけることができるはずです。」と書かれています。マップ片手に自由気ままに歩く「遊さるく」が42コース、路地裏まで知り尽くしたさるくガイドが案内する「通さるく」は31コース、講座とガイドツアーがセットになった「学さるく」が74テーマ用意されています。この中で、特に「通さるく」が人気があって、週末は予約でいっぱいだそうです。コース名もなかなかいいです。南山手洋館や港が見える坂の散策は、「長崎は今日も異国だった」という名前のほか、「媽祖様(まそさま)と唐(とう)りゃんせ」「長崎はローマだった」「文人墨客も思案した?」「龍馬が見上げた長崎の空」などです。こんなイベントが、各地で行われるといいと思いますね。今回は行けませんでしたが、できれば、会期中に来て見たい企画です。

投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (7)

2006年04月27日 講演先にて

理論武装

 今日からの研修は、長崎で行われています。そのテーマは、「理論武装化計画」と書かれています。なんだか、面白いですね。誰に対して、武装化するのでしょうか。また、何を守るために武装化するのでしょうか。自分を守るためでしょうか。もちろん、そのタイトルは、大げさな書き方ですが、考えることがあります。厚生省が、制度を変えようと思ったとき、現場や教授たちにヒアリングをすることがあります。そのときのヒアリングを聞いていた人からこんな話を聞きました。厚生省がヒアリングをする相手は、医療関係と、福祉関係が主です。医療関係から話を聞いたときには、医師たちは、理系の最たるものなので、さまざまな資料と、研究データを持ってきて説明をします。しかも、理屈っぽい部分があるのですが、次々に筋道を立てて説明するそうです。その後に、保育問題について、保育関係者から意見を聞くことになり、各地の主任保育士さんたちに話してもらったそうです。「このように制度を変えることに対して、どう、思いますか?」「子どもは、国の宝ではないですか!」「?」「宝ですから、大切にしないと!」「どうすれば、いいのですか?」「だって、子どもって、かわいいですよね!」「えっ…」「情けないですよ、こんなことでは」「では、この制度は、どうなのですか?」「もっと、子どもを大切にするような制度にしないといけないのではないでしょうか。」こんなやり取りでは、保育の素人の議員さんや、行政マンには通じません。これに頷くのは、同じ業種の人だけです。「愛する」「大切」「かわいい」ということは、とても大切なことですが、それは感じ方であって、他人への説得にはそのような言葉は伝わりにくいものです。たとえば、このように言わないといけないと思います。「今の子どもたちは、こういう力が不足してきています。」「それはどうしてわかるのですか?」「この調査資料に現れています。」「そうするとどうなるのですか?」「これらの力が不足すると、研究では、このような子どもたちが事件を起こすことに関係してきていることが最近わかってきています。」「では、どうすればいいのですか?」「それには、こういう保育が必要となり、その保育を行うために、人的な配慮、このような研修、そして、このような検証が今後必要となるでしょう。」などです。
こんな本が出ています。「理論武装して部下を使い切れ!―強い上司になる30箇条」(松井健一 著)この本は、「仏(ほとけ)の笑顔で、理詰めで攻める。これほど恐く、頼れる上司はいない。」「管理者諸君。部下を納得させられないからダメなんだ!」などとあおっていますが、管理者の理論武装の必要性を説いています。しかし、理論武装には、怖さもあります。当人のみが勝手に筋道を立てて理解しているだけに留まり、相手側や第三者に対して何ら説得力を持ち合わせていない場合もあります。それは「へりくつ」です。また、梅田望夫氏が、講演会でこんなことを言ったそうです。「新しい現象に対し、古い感覚を総動員した理論武装で戦うな」これも理論武装ではありません。「理論とは、個々の事実や認識を、ある原理・原則によって統一的に、だれにでも納得できるように説明し、しかも実践の指針となりうるもの」(漢語林)なのです。ということで、理論的に武装することは、「誰でも納得」「実践の指針」が必要です。理屈っぽいと言うことは、非現実的なことばかり話したりしている人のことです。また、理論武装のできない人は、相手に利用されるだけ、正しい道から遠ざかる可能性もあります。相手と議論で勝つために理論武装するのではありません。仕事を円滑に進めるため、実践を効果的にするために理論武装が必要なのです。子どもを守るという仕事を、より質の高いものへ進めるために必要なのです。

投稿者 fujimori : 20:58 | コメント (3)

2006年04月26日 映画

メリーポピンズ

 昨日のブログで取り上げた映画は、すでに有名な「メリーポピンズ」と非常に似ています。これもミュージカル映画で有名ですが、原作は、「風にのってきたメアリー・ポピンズ」(P.L.トラヴァース著)から始まるシリーズ物です。やはり、原作と映画は少し違うようです。「桜町通り十七番地に住むバンクス家は、ご主人で銀行家のバンクスさんと、旧式だと人から思われる事が嫌いな優しいバンクス夫人、一番上の子どもジェインと、その次のマイケル、ふたごの赤ちゃんジョンとバーバラの6人家族です。そして、料理番のブリルばあやと、食卓の用意をするエレン、その他の色んな事をしてくれる(バンクスさんにいわせるとなまけものの)ロバートソン・アイが一緒にいます。さて、そんなバンクス家にやってきたのがメアリー・ポピンズ。東の風にのってやって来た不思議な女の人です。有無を言わせない威厳のある子どもあしらいと、素敵な不思議の数々。」設定などは映画と同じですが、昨日の映画と同様、原作が大きく違うのは、乳母とかナースというイギリス独特の保育者の保育をする態度です。原作は、どちらもわがままな子を厳しくしつけます。親は、ただ甘やかす存在として描かれています。しかし、厳しくという中に愛情があり、その本質を子どもは見抜きます。かわいがるということは、甘やかすことと違うということなのでしょう。しかし、最近の映画では、少し違います。子どもたちは、いろいろと心に影を持っています。そのほとんどは、愛に飢えているさびしい気持ちです。それを、乳母が受け止め、親にそれを気づかせるために現れ、子どもを救います。
 チム・チム・チェリーの歌でおなじみのこのミュージカルで、そのことを現している部分があります。メリーポピンズが乳母として子どもの家庭に来ることになったきっかけのところです。この場面は、親からみた子どもに対する接し方の理想像と、子どもからみた理想像とのギャップが表れていてとても興味深いものがあります。せりふの訳から見直してみましょう。
 「乳母を選ぶのは大仕事だ。洞察力と人を見る目が必要だ。」ということで両親は、乳母の募集の新聞広告を出すことになります。その文面は、
「募集!乳母。しっかり者でまじめな女性。イギリスの乳母は将軍。国の未来は彼女ら次第。頼もしい若者を育てるのは、乳母のきびしい手。イギリスの銀行は精密機械。家庭もそうあるべきだ。伝統、規律、そして規則が大切だ。でないと、混乱、破滅、すべてがめちゃくちゃだ。」
 これに対して子どもたちは、それを書き直します。自分たちが真に求める乳母像を描きます。その新聞広告の文面は、
「かわいい二人の子の乳母を求む。申し込む資格は、気立てが明るく、ゲームができて、親切で、気がきいて、やさしく、きれい。散歩の時はいつも、歌とお菓子。いじわるしないで。ひまし油なんか飲ませない。ママほどかわいがって。あんまりしからなければ、私たちもおとなしくします。」
あなたはどちらのタイプが必要だと思いますか?もちろん、ただ子どもが望むことをすればよいわけではありません。しかし、あまり使命感に燃えてしまうと、子どもから離れてしまいますね。

投稿者 fujimori : 23:58 | コメント (0)

2006年04月25日 映画

ふしぎなマチルダばあや

 映画を見た時、本を読んだ時、その内容にとても感動する場合、その作品が誰にとってもよいものであるほかに、自分だけに原因があることがあります。その多くの場合、自分の生きてきた人生において共感したり、自分の人生とダブって見たりと、その人の生きてきた過去や、いま生きている環境に関係することがあります。子どもという観点から映画を眺めて見ると、また違った感動や参考になることがあります。日曜日に見た映画もそうでした。原作は、「ふしぎなマチルダばあや」(クリスチアナ・ブランド著 原文では「NURSE MATILDA」)という本です。原作は読んだことがありませんが、映画と違う部分は、この主人公の子どもたちは兄弟が多いのですが、映画では7人のところ、原作では、30人以上いる設定です。また、映画では、母親は死んでしまっていますが、原作では、子どもたちの親のブラウン夫妻は「とっても優しい 善良な人たちなのだけど、子どもたちをやたらと甘やかしてしまい、とんでもない悪ガキぞろいにしてしまったダメな親」として描かれているようです。そこで、子どもたちはいたずらで、何人ものナースをやめさせてしまい、マチルダばあやがすこし過激な方法で子どもたちをしつけていくというものです。保育園のことをナーサリーと訳すことがありますが、ナースも看護師という意味だけではなく、「乳母」とか「保護者」という意味があります。この本の訳者によるあとがきにも、「子どもたちの一番たよりにしてよいもの、それをNURSEといいます」と書かれてあります。
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今回の映画の主人公のナニー・マクフィーを演じているのは、アカデミー賞主演女優賞をとったことのあるエマ・トンプソンであり、彼女は、原作に創作を加え、脚色し、自ら主人公を演じています。映画のストーリーは、母親が亡くなり、子どもたちは、その寂しさからいたずらが激しくなり、どんなナニーが来ても追い出してしまいます。そこに伝説の「ナニー・マクフィー」が来て、ステッキを床につくと、不思議なことが起こります。そして、レッスンが始まります。「夜は寝ること」「朝は起きること」、そして、「服を着替える」「人の話を聞く」などです。また、子どもを健全に育てるためにもいくつかのポイントが出てきます。「人にお願いします。と言うこと」、「野菜を食べること」、「自分で責任を取ること」。これらの内容は、当たり前のことですが、今の子どもにとても必要なことかもしれません。また、子どもに対する考え方でとても参考になる言葉が、映画のパンフレットに書いてあります。脚本家の「永田優子」さんの言葉です。「ナニー・マクフィーの魔法は、子どもたちを受け入れることから生まれる特別なものだ。時に大人は、子どもを従わせることに躍起になり、理解することを忘れてしまう。もちろんそれは、子どもたちに幸せな人生を生きてほしいという願いから来るものであり、愛情がなければできることではない。だが、その愛が、完璧なものでなかったら…。そこに弱さやゆがみが生じてしまえば、愛は間違った方向に進んでしまう。そして、弱く、ゆがんだ愛を受けた子どもたちは、自身の力で生きていく方法を見失ってしまうのだ。子どもたちに必要なのはどこまでも深く、厳しくも強い愛。」
 子どもに弱さやゆがみが見られるとき、それ自体に対応するのではなく、その原因を見、理解する必要があります。子どもによって、傷つくこと、ショックを受けるところは違います。ほかの子は大丈夫だったからという見方をしないで、その子がどのように感じているかを見ないといけないのです。

投稿者 fujimori : 20:18 | コメント (0)

2006年04月24日 地域を知る

合羽橋

 園で、子どもクッキングをすることがあります。手打ちうどんとか、パン作りとかです。また、定期的にするものとして、「お米とぎ」もやります。家庭で炊く大きさの炊飯器分ですが、当番の子がといで、炊飯器にかけ、昼食のときに調理室で炊いたご飯と混ぜて食べます。また、誕生会の日のおやつを、その月に誕生日がある3,4,5歳児で作ります。その前の日に、その材料をその子たちで買いものに行きます。「のびちゃん、おつかいに行ってきてちょうだい!」とアニメ「ドラえもん」の中で、お母さんはすぐ買い物かごを、のび太にわたします。同じように、ジャイアンの家庭でも、サザエさんの家庭でもかつおくんにお使いを頼みます。昔は、買い物は子どもの役目でした。買うものを覚えていくこと、お店でその素材のよしあしを見分けること、買うものを注文すること、時には値段の交渉をすること、お金のやりとりをすること、などその中には様々なことが含まれていました。今は、残念ながらなかなかそんな環境はありませんが、できるだけそんな体験をするようにしています。
 同様に、大人も買い物は楽しいですね。毎年、調理の人と一緒に、合羽橋まで、買い物に行きます。私も楽しみですが、調理の3人もとても楽しみのようです。また、私が運転して車でいくのですが、道中の車の中も、話がゆっくりでき、お菓子などを食べたり、さながらピクニック気分です。毎年行くのは4月だったので、途中、靖国神社脇など通るときは、花見気分です。今年は、今日行ってきました。桜は終わっていましたが、神宮外苑や東宮御所あたりの新緑は、とてもきれいでした。
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 このあたりは、もともとは入谷たんぼ(低地で水たまりや沼が多く、農家は殆どレンコンを作っていた)の水を集めての川が、新堀川で、合羽橋、菊屋橋を経て蔵前の所で鳥越川(三味線堀から隅田川に注ぐ)に合流し隅田川につながっていました。どうして、合羽橋というかというと説が二つあるようです。1つめは、その辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説です。もう1つは、今から約180年前、合羽川太郎(本名合羽屋喜八)は、この辺りの水はけが悪く少しの雨ですぐ洪水になってしまうのを見かね、私財を投げ出して掘割工事を始めました。なかなか捗らない工事の様子を見ていた隅田川の河童達は、川太郎の善行に感動して夜な夜な工事を手伝ったそうです。そして、なぜか河童を見た人は運が開け、商売も繁盛したといいます。近くに通称「かっぱ寺」(曹源寺)があります。大正の頃から現在のような道具専門店街の形を取り始めて合羽橋と名付けられました。合羽橋道具街は、例えば、レストランを開店するコックさんやすし屋を始める板前さんが、食器から厨房器具、看板からユニフォームまですべて揃えることが出来、この業種としては日本一の問屋街です。包丁、鍋、冷凍、冷蔵庫、サンプル品、ショーウィンドウ、ケース、看板、いす、テーブル等々があります。そして、レトロ調、中華調さまざまです。今日も、すれ違う人たちは、専門のお店の人というより、外国人が、カメラを片手に歩いている姿の方が多く見えました。蝋細工の料理サンプル品が外国人に人気だそうです。

投稿者 fujimori : 19:39 | コメント (0)

2006年04月23日 記念日

本の日

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 今日4月23日は、「世界 本の日」です。この日は、もともとは「サン・ジョルディの日」として親しまれており、愛と知性の文化運動として行われてきたものです。「サン・ジョルディの日」の由来は、スペイン・カタルーニャ地方のサン・ジョルディ伝説をもとにしており、悪獣のいけにえに差し出された王女を救った伝説の騎士、サン・ジョルディを愛の守護聖人としてたたえています。4月23日は彼が殉教した日で、いつしかこの日に本と花を贈りあって、愛する気持ちを伝え合うようになりました。また、この日は文豪として名高いセルバンテスとシェークスピアの命日でもあり、本との結びつきを強めております。日本でも4月23日に男性から女性に花を、女性から男性に本を贈るという知的でロマンチックな習慣は、現在、静かなブームになっています。そして、ユネスコ総会は、本は歴史的に知識の普及に最も有力なファクターであるとともに、その保存に最も正確な手段であることを考慮し、本にアクセスするすべての人々を啓蒙するだけでなく、世界中の文化的伝統をより豊かに共有する認識を広め、また理解、寛容、対話にもとづく人々の行いを鼓舞することに鑑み、4月23日を「世界・本と著作権の日」としたのです。日本でもこれに伴い、4月23日を「子ども読書の日」とすることが法律で定められています。そして、4月23日から5月12日が、毎年「こどもの読書週間」です。第48回の今年の標語は「魔法の国へのパスポート」です。
 本といえば、私は、小学生のころ本を読むのが好きでした。探偵ものとか、冒険物が特に好きでした。何年生のころか忘れましたが、「十五少年漂流記」が面白くて、時間があると読んでいました。母親から、「そんなに本ばかり読んでいないで、すこしは外に遊びに行きなさい!」と注意されたので、押入れに隠れて読んだり、寝るときにも布団の中にもぐって読んでいました。とうとう母親は腹を立てて、2階の窓からその本を隣の家の屋根に投げてしまいました。今だったら、本を読んでいたらほめられるのに、そのころは、テレビばかり見ていると同じ感覚だったのでしょうね。これは、誰でも読んだことがあるでしょうが、無人島に漂流した少年達が力を合わせて生活していく物語を描いていますね。原題は「二年間の休暇」といいます。この「十五少年漂流記」を、架空の未来に移して、エキセントクリックな状況の中で、少年たちの根源悪が噴出する小説「蝿の王」を大人になって読んだときに、やはり取り付かれた思い出があります。この作品は、ノーベル文学賞を受賞しています。題名の「蝿の王」とは、悪魔「ベルゼブブ」のことを指し、作品中では蝿が群がる豚の生首を「蝿の王」と形容しています。アメリカの陸軍幼年学校の生徒たちを乗せた飛行機が墜落した。とりあえず一命を取り留めた24人の少年たちは、近くの無人島へ漂着します。しかし彼らは、世間から隔絶されたこの島で、己の内に秘めた野性に目覚め、やがて理性と秩序を失ってゆく……。性・秩序・生命力を暗示する“ほら貝”を持つ文明支持派と、悪・死・無を象徴とする“蠅の王”を掲げる野性派に分裂してしまった少年たち。その間に目覚める、猜疑心、恐怖心、憎悪、闘争、そして殺戮--まるで人類が犯した過ちの歴史を忠実になぞるかのような彼らの姿を、鮮烈な映像で描き、人間性の奥に潜む“善と悪”に深く切り込んだ傑作といわれています。ただ、情緒的に美化されがちな子どもの世界を、冷静に見つめることができます。

投稿者 fujimori : 20:52 | コメント (2)

2006年04月22日 講演先にて

子規

shikido.JPG子規堂
 松山に来ても、夕方着いて、夜講演して、朝帰るというのは、なんだかもったいない気がします。しかし、ほんの1時間くらいの合間に、急いで、見たいところには行きます。
今日の朝は、ホテルの近くの「子規堂」に行きました。子規堂は正宗寺境内にあり、かつて子規が17歳まで過ごした家の一部である8畳の書院をそのままここに移し、後世に長く保存しようと建てられたものです。昨日のブログで書いたとおり、秋山真之とは愛媛一中、共立学校で同級であり、子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説「坂の上の雲」です。また、子規は、東大では夏目漱石と同窓です。子規の春の句をひとつ。
「ねころんで書よむ人や春の草」(写生でも特異な才能を発揮した子規は、寝転んで本を読んでいる姿からだけでも、春を感じさせてくれます。)
「菜の花や小学校の昼げ時」(近くの小学校の入学式に参加したとき、花壇に菜の花がいっぱい咲いていました。春は、昼時は眠くなりそうですね。1年生は、午後の授業は、眠いでしょうね。)
こんなのどかな句を読んだ子規ですが、子規といえば印象に深いのは、壮絶な病との闘いです。これを考えると、少しくらいのつらさにくじける心が情けなくなります。死の二日前まで「日本」に連載していた「病牀六尺」を読むとつらくなります。「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死後の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る事も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。」「悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない」という強い意志を持って俳句、短歌、写生文、水彩画、茶の湯など次々と新しい対象を見つけ、その研究に没頭することによって生きる方を掴んできた子規でしたが、この病牀六尺という場を七年もの長い間ほとんど出ることなく過ごしたのです。
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 この子規が、野球殿堂に入っているのです。よく、名選手が殿堂入りをしたという話は聞きますが、子規は、「新世紀表彰」という部門で殿堂入りをしているのです。それは、松山にベースボールを伝えたのは、子規であり、作品の中で、さまざまなベースボールのルールや用語を日本語に訳しているからです。投者=ピッチャー、攫者=キャッチャー、本基=ホームベースなど用語が子規独自の訳語で紹介されています。子規の訳語の中で、打者、走者、飛球、直球など現在も使われています。
記者として従軍し、帰国の船中で喀血したのが28歳で、それ以降、死に対する意識とはいつも隣り合わせだったのかもしれませんが、その生き方には、強い意思が見られます。自分への天命が聞こえていたに違いありません。

投稿者 fujimori : 17:12 | コメント (0)

2006年04月21日 講演先にて

坂の上

akiyama.jpg秋山好古と秋山真之
「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」これは、約4年間、産経新聞夕刊に連載された司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」の第一巻「あとがき」にある言葉です。「坂の上の雲」とは、封建の世から目覚めたばかりの幼い日本国家が、そこを登り詰めてさえ行けば、やがては手が届くと思い焦がれた欧米的近代国家というものを、「坂の上にたなびく一筋の雲」に例えた切なさと憧憬をこめた題名です。この話の主人公は、より日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いています。その中で、病床の子規を訪ねていた、真之が、こんな言葉を言います。
「経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」真之は、子規が俳句や短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしているのを知るに及び、自分も海軍の概念をひっくりかえそうとしていると告白します。軍艦は遠洋航海に出て帰ってくると、船底に「かきがら(=牡蠣の貝殻)」がいっぱいくっついて船足が随分と落ちてしまいます。人間も同じだと言ったのです。私は、昨年、ドイツのミュンヘンで行われた保育世界大会に参加しました。そのときのテーマが、「幼児教育とインクルージョン」でした。人は、さまざまなすり込みを持っています。園に男性保育者が職員として採用したとき、ある保護者から、「男性がいるのなら、サッカーくらいやってくれそうなものなのに。」と言われました。私は、「何で、男性ならサッカーなのですか?もしサッカーをやってほしいのなら、女性であっても要求すべきではないですか?」と答えたことがありました。同様に、最終的には個人差であるものに対して、世界のさまざまな場所では、さまざまな思い込みがあります。世界大会のときに、アメリカでは、「黒人と白人」に対する刷り込み、イギリスでは、「貧富の差」に対する刷り込み、ヨーロッパ全体では、「多国籍の人」に対する刷り込みがあることを知りました。その点、日本では、「年齢」による刷り込みが多いようです。通常は経験を積めば積むほど、知識が増え、知恵がつき、物事をうまく運べるようになります。保育者も、経験を積むことで、子どもを見る目が深くなります。しかし、年齢を増すことのマイナス面を意識するのはとても難しいことです。経験は、知恵という果実を実らせる一方で、自分の周りに既成概念という柵を作っていき、容易にその柵を越えようとしなくなります。ましてや、壊そうとは思いません。気がつくと、周りはどんどん開けてきていますし、どんどん変わってきています。早く出ないと、怖くて、本当に出ることができなくなると思いますよ。
 秋山兄弟、正岡子規、3人の故郷に来ています。以前のブログにも書いた(1月23日)松山です。

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2006年04月20日 近頃思うこと

PISA

 皆さんは、こんな問題が解けますか?
「高度に工業化のすすんだ経済のもとでは、インフレの影響がもっとも深刻なのは、次の誰でしょうか。」「ア、基本給が生活費指数により決まる人」「イ、固定した収入で生活している人」「ウ、強い労働組合に所属する工場労働者」「エ、大きな会社の重役秘書」「オ、弁護士や医師のような専門職の人」
この問題は、ヘルシンキ大で講師を務めたこともある中嶋博早大名誉教授が翻訳した「人生への準備は万全?」の中にあるPISAのための予備調査の出題問題です。このPISAは、何度も話題に出ています。国内では「OECD生徒の学習到達度調査」と呼ばれるもので、実施母体は、OECD(経済協力開発機構)です。2000年の調査のときの序文には、この調査の趣旨が書かれています。「若い成人が未来の調整に対処すべく、果たして十分に準備されているだろうか。彼らは分析し、推論し、自分の考えを意思疎通できるであろうか。彼らは生涯を通しての学習を継続できる能力を身につけているだろうか。父母、生徒、広く国民、そして教育システムを運用する人々は、こうした疑問に対して回答を知っておく必要がある。」ここに書かれているように、これからの時代に必要な力は何か、そのためにどのようにしたら良いかを考え始めているのです。そして、そのこれから必要な力として、「問題解決」「批判的思考」「コミュニケーション能力」「自信」としています。ですから、問題も少しずつそのような力を問うような問題を試行しています。しかし、今の段階での問題は、まだまだ認知的なものが多く、これから非認知的なものを進めようとしています。そのような問題傾向になるにしたがって、日本の子どもの点数は、下がっていくと思われています。中嶋博氏は、「日本や韓国が高得点をあげていた従来の国際調査は,詰め込まれた知識量をみるものだった。それを見直して生涯にわたって学習する能力を身につけているかどうかをみるための指標として始まったのがPISAである」と述べており、「そうなっていくと、日本は、特に社会規範の意識とかそういうことを含めるとまだまだ30番くらいまで下がるのではないか。」と言っています。2003年に行われた調査で、日本の子どもが読解力において2000年8位から14位に下がったことで、中山文部科学相は、国語などの基本教科を重視する検討課題を示し、「脱ゆとり」に大きくかじを切りました。しかし、今研究が進められている2006年に行われる調査結果は、どうなるでしょうか。PISAの調査結果は、ただ、どの国が高かったとか、その国を見習えば良いとかいうものではなく、これからの教育をどうしていくべきかという処方箋が書かれているのです。ですから、その結果を正しく分析しなければならないと思います。「さあ、高かったフィンランドに視察に行こう!」というだけでは、危険だと思います。もう一度、日本における教育、そして、基本の幼児教育を見直す必要があるのです。日本や韓国が高得点をあげていた従来の国際調査は、詰め込まれた知識量をみるものでした。ですから、暗記や暗唱が中心の教育に戻したり、授業時間を増やしたりする方法では、日本の教育が抱えている課題は解決できません。世界中が将来を担う子どもたちの力を育てようとしています。日本でも呼びかけは一緒ですが、どうも形が違ってきているような気がします。

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2006年04月19日 近頃思うこと

アンケート

最近、学校評価が問題になっています。その評価の中で、保護者からアンケートをとります。そのほかの時にも、アンケートをとることがあります。その時に、質問項目をいろいろと考えます。その項目は、知りたいことを質問します。また、書いてもらうタイミングを考えます。事前アンケートと事後アンケートがあります。しかし、アンケートというものは、書くほうは大変です。かなり書く内容を考えるからです。しかも、終わってから書くことが多いので、帰るのを少し遅らせて書かないといけないからです。しかし、終わってから書いてもらうのは、それをどう受け止めてもらったのだろうか、ということを知りたいからです。また、普段、どう思っているかを聞く場合もあります。これは、学校などの評価に使われます。先日、近くの小学校での会合の席上、学校に対してどう思っているのかという、保護者アンケートを見せてもらいました。もちろん、その学校はとてもよい学校で、先生たちは一生懸命にやっています。しかし、その結果は、あまりによすぎる気がしました。それは、このアンケートの質問が、普段、小学校に対するいろいろな不満を聞いていたからです。そして、それに対して、今後どう取り組んでいったらよいかを話し合いをしたり、いっしょに考えたりしたかったからです。しかし、その結果を見て、学校側は、簡単に納得してしまったのです。たとえば、「学校は、教育方針をわかりやすく伝えているか?」では、そう思う、ややそう思うが、全体の96%います。また、「学校は、基礎学力を付けさせようとしているか?」では、そう思う、ややそう思うが、93%います。「創意工夫のある教育活動に取り組んでいる。」では、そう思う、ややそう思うが84%います。そのほかの質問に対しても、ほとんど85~95%くらいが肯定的な答えです。しかし、よく聞いてみると、このアンケートは、記名で、担任に子どもから渡させたそうです。その会合に出ていた元保護者の何人かは、みんな「そのような提出の仕方は、書きにくいのではないか。実際、回収率も57.4%しかない。箱など置いておいて、そこに無記名で入れたほうがよいのではないか。」という意見を言いました。しかし、学校側は、無記名の意見がいいとは限らないのではという答えをしましたが、私は、「このアンケートで、何が知りたいのですか?無記名では、確かに、勝手な意見を言う人がいるかもしれませんし、ひどいことを言う人もいるかもしれません。しかし、学校をよりよくしていきたいのであれば、できるだけ、意見を言い易い環境にしてあげるべきではないでしょうか。」ということを言いました。私も、アンケート結果でいやな思いをすることもありますし、やる気がそがれることもあります。しかし、最近受けた第三者評価の中で、「アンケートの中で、よく書いてある1割と、悪く書いてある1割は差し引いて考えます。」と言っていました。必ずしもアンケート結果を信じる必要はなく、また、その結果どおりに変える必要はありませんが、きちんと受け止める姿勢がほしいですね。
 もともと、アンケートの語源は、調査や質問を意味するフランス語「enquete」です。「enquete」は、探し求めるを意味する俗ラテン語「inquarere」に由来しています。つまり、アンケートの根源は「解らないことを調べる」といった純粋な探求心に基づく行為だったのです。日本初のアンケートは、昭和21年、時事通信によって行われた「世論調査」といわれています。それが、昭和30年代に入り、大企業が市場調査アンケートを行うようになり、高度成長が進むにつれ細かな消費者ニーズを把握するため、アンケートは普及していったのです。アンケートは、その結果を読み取るのにも、力が必要ですね。

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2006年04月18日 散歩

 少し前の日曜日に、お台場の「未来科学館」に行ってきました。そこで、特別企画展「内なる不思議の世界へ 脳!」が開催されていたからです。最近、脳科学が話題になっています。その観点からいろいろなことを見直すと、いままで、私たちが思っていたことが覆されることに気がつきます。それは、当たり前のことなのですが、あらためて言われるとそうだったと思います。この展示のチラシに書いてあることがその代表です。そこには、「物を見るのは、目で見てるって思うかもしれないけど、実際は、脳が見てるってことがわかるよね。」とあります。私たちは、よく「心を育てる」とか、「心の発達」といいますが、それは、「脳を育てる」とか、「脳の発達」ということになるのです。胸にあるのは心臓であって、心臓でものを感じているわけではないのですよね。また、「あたまがいい」って、どこで決まるのだろうと問いかけています。「脳の大きさ?」「しわの多さ?」しかし、ゾウやクジラの脳は、人間よりもはるかに大きく、しわも多いといわれています。鳥は、体のバランスを保ち、空を飛ぶために「中脳」が大きく発達しています。体の節々に神経節を持ち、すばやく動くのに適するように、大きい脳は持たない「昆虫」。生物は、それぞれの生き方にあった脳を発達させていて、それぞれに「頭がいい」といえるのだといいます。そういう意味で言うと、果たして人間が生き物の中では一番頭がいいのでしょうか。人間は、自分自身の力や脳の働きでは、空を飛ぶことができません。その点では、鳥の方が、頭がいいですね。それは、何も様々な種類の生き物の間だけでいえるものでもありません。同じ人間の中にも言えることでしょう。東大を出た人と、どの魚の生きが良いか見極めることができる魚屋さんと、どちらが頭がいいということもいえないですね。会場には、様々な地球上の生き物の脳の標本が展示されています。それぞれ、大きさ、形、しわの数が違います。しかし、それぞれの生き物が、生きていく環境に合わせて、また行動の仕方によって、それに適した「脳」を持っています。また、脳は、いろいろな部分があって、それぞれが生きていくうえで大切な役目をしています。
 「大脳」は、人間では「前頭葉」「頭頂葉」「側頭葉」「後頭葉」の四つの部分に分かれています。その中で、人間だけが特別に発達している部分が、最近話題になっている前頭葉の大部分を占める「前頭前野」なのです。人間だけが特別に持っているということは、いわゆる「人間らしさ」とか、「人間にしかできないこと」という部分の源なのです。この展示の中には、この部分が受け持っている力は、「みんなが持つ想像する力」「記憶する力」「友達とコミュニケーションする力」などといっています。そして、「どうしたら、大切なみんなの脳、前頭前野をはたらかせ、鍛えることができるのか?」ということを問いかけています。しかし、そこには、あっという間にそれを鍛える方法は書いてありませんし、また、明快な答えもありません。まだまだそれらは、研究途上にあるからです。しかし、どちらにしても、何かひとつの方法、やり方にこだわるのではなく、様々な体験、様々な刺激が脳を発達させていくことは確かなようです。どうも、私たちは、何かがいいと思うと、そればかりする、何の食材がいいかといわれれば、そればかりを摂取するところがあるようです。もっと、気楽に、あれこれやってみたほうがいいですね。

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2006年04月17日 講演先にて

島崎藤村

 今回、小諸で1泊しました。小諸というと「小諸なる…」が浮かびますね。その温泉の脱衣所には、壁には違う詩が飾ってありました。それは、「椰子の実」の歌詞です。なんだか、山の中で、「遠き島より 流れよる」という歌詞は、合わない気がします。しかし、ともに島崎藤村の「落梅集」の中に収められています。学校では、島崎藤村の詩集といえば、「若菜集」を思い浮かべますが、実際に有名な詩は何かというと、「小諸(こもろ)なる古城のほとり」「椰子の実」「千曲川旅情のうた」などですが、これらはすべて「落梅集」です。「椰子の実」の詩は、伊良湖岬の浜に椰子の実が漂着したのを発見した柳田国男の話を聞き、藤村が詩にしたものであり、大中寅二の作曲の歌として愛唱され、小学校6年生で習います。「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月 旧の樹は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる われもまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ 実をとりて胸にあつれば 新なり流離の憂 海の日の沈むを見れば 滾り落つ異郷の涙 思ひやる八重の汐々 いづれの日にか国に帰らん」
この詩は、他の詩と同じく、故郷を離れた流浪の寂しさや人生の憂愁が五七調の文語定型詩で歌われていて、とてもいいですね。しかし、この寂しさや憂愁は、藤村が、柳田國男からエピソードを聞いたときに、自分自身が姪との不倫の末にフランスに渡った時の寂しい生活の思い出とを重ね合わせて書いたものであり、それを、昭和初期から現在に至るまで小中学校教育にて広く愛唱されているとは、おもしろいですね。子どもたちは、不倫の切なさを知っているのでしょうかね。というのは、考えすぎでしょうか。
 私が泊まった宿に島崎藤村の詩や資料が多かったのは、小諸にあるというだけではありません。藤村は、この地にあった小諸義塾に、創立者木村熊二に招かれ英語と国語の教師として勤務していたそうです。その教師時代、生徒を連れてしばしば入浴した由緒ある湯だからです。その頃に結婚し、子どもも生まれています。藤村は、7年間この地に滞在し、小諸、千曲川周辺を題材に多くの作品を生みました。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」で始まる「小諸なる古城のほとり」という詩の最後に「千曲川いざようふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」とある「岸近き宿」とは、今回泊まった現在の中棚荘なのです。小諸義塾は、明治26年に誕生した私塾です。しかし、13年間で短い歴史を閉じました。その建物は、義塾閉鎖後、小諸商工学校から、小諸幼稚園となり、病棟として移築され、今は市に寄贈され、小諸義塾記念館として移転復元されています。アーリーアメリカン調と、土蔵の様式のマッチした建物です。
nagano.jpg
 土蔵といえば、善光寺門前の長野市大門町に残っていた、明治から大正時代に建てられた商家、及び使用されていない土蔵、立派な庭を備えた3階建ての空家屋等、既存建物を取得再生し、新たな商業集積として整備しました。それが、「ぱてぃお大門蔵楽庭(くらにわ)」です。平成13年、空店舗の一つが売却されるという情報があり、ビルを建てられたら取り返しがつかないと悩んだ挙句、住民有志の組織がこの土地を取得し、景観について学び、住民自身による景観整備を軸にしたまちづくりをしたものです。そこで、食事をしました。とても美しい町並みです。ぜひ、行ってみてください。

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2006年04月16日 近頃思うこと

愛国心

 最近、毎年ドイツに行っています。はじめは、ドイツを学ぶことが目的でしたが、しだいに、そうではなく、日本のあるべき姿を模索するために行くようになりました。というのも、よく言われるように、行くごとに、日本のよさが見えてくるからです。日本が好きになってくるからです。そして、日本としてのよいものを見出し、世界に誇る「保育の形」「保育の質」を作りたいと思うようになりました。しかし、それは、決して、外国と競うわけでもなく、外国より日本のほうがよいと納得するためではなく、きちんと日本の形を作り、それを発信することが、世界に対して貢献できると思うからです。ただ、外国の真似をしたり、同じようなものを作っても、それは外国にとって、意味がありません。また、逆に、他の国を批判することで、自国を好きになるようになることはありません。
自民、公明両党の教育基本法改正に関する与党検討会は12日、最大のハードルとなっていた「愛国心」の表現について「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とすることで合意しました。 自民党は「国を愛する心」との表現を求め、公明党は「国を大切にする心」を主張しました。今回の合意は双方の立場を考慮した「寄せ木細工」のような内容だといわれています。自民党の主張に従い「国」「愛する」との表現を盛り込んだかたちですが、「国」とは何を指すのでしょう。というのは、ドイツでは、全国民の人口の4分の1はトルコ人だそうです。訪ねた園では、園児の半数がトルコ人、残りの半数が10カ国の国籍を持つ子どもたちで、そのひとつが、ドイツ人という状況でした。この園では、「国」をどのように教えるのでしょうか。「国を愛するとは、どうすることなのでしょうか。」まず、ドイツで取り組んだことがありました。それは、子どもたちに、きちんとしたドイツ語を学んでもらおうとしたことです。どの園でも、「言語教育」が重視されています。絵本の読み聞かせも、ストーリーを伝えるだけでなく、きちんとしたドイツ語の発音で、ゆっくりと明瞭に読み聞かせます。最近、少しずつ変化が出てきました。そうすることで、住んでいる国である「ドイツ」を愛するようになったかというと、どうも逆のような気がし始めています。2月にミュンヘンの教育委員会の幼児教育局の局長さんと話したら、方針を少し変えるそうです。それは、きちんとしたドイツ語を教える前に、まず、きちんとした自国語、トルコの子どもたちにはトルコ語を教えることにしようと思っているということです。すばらしいですね。まず、それぞれの国の文化を大切にすることを教えることであって、それぞれの国を忘れさせようとすることでは、真の「愛国心」は育たないと思います。
今、私の園には、多国籍の子が何人かいます。たとえば、両親や父親が中国や韓国やケニアの人などです。先日、そのお父さんたちに、「それぞれの国の言葉で書いてある絵本を、その国の言葉で読み聞かせをしてもらえませんか。」ということをお願いしました。また、3,4,5歳児のごっこコーナーには、その国の衣装がおいてあって、その国の服をいつでも着ることができます。また、「我が国と郷土を愛する」ということがまさにこういうことだと思ったことがありました。それは、保護者に「保育園に入って子どもがどう変わったか?」というアンケートを取ったときの回答に「ごみを、ゴミ箱に捨てるようになった。」私は、こういう答えが大好きです。

投稿者 fujimori : 22:13 | コメント (1)

2006年04月15日 新聞記事より

運転免許

 人は、自分に関係すること、自分の身の回りのことに対する情報を得ようとしています。今は、情報時代といわれ、多くの情報が、さまざまなメディアを通して流れてきます。しかし、その情報量が多いだけに、知らず知らずのうちに、自分の都合で選択しています。一緒にテレビの同じ番組を見ていても、後で話してみると、まったく違うところを見ていることが多くあります。4月13日の新聞に、こんなニュースが流れました。「運転免許:聴覚障害者もOKに 08年度制限撤廃へ」本当に申し訳ないのですが、今まで、聴力障害者には、運転免許に制限があったとは知りませんでした。現在は、聴覚障害者の自動車運転免許に一定以上(10メートルの距離で乗用車のクラクション音程度(90デシベル)が聞き取れることが合格条件)の聴力が必要とされているそうです。緊急車両のサイレンやクラクションを聞き取れないと安全運転に支障があるという判断だからだそうです。しかし、先進国の多くではこうした制限はありません。というのも、クラクションやサイレンが聞こえない聴力障害者が乗用車で車線変更をしたり、前進、後退する際に安全が確保されるかなどについて試験運転を重ねた結果、運転席から隣接車線も目視できる広角バックミラーを活用し、慎重に運転を行えば、安全に運転できることを確認したからです。しかも、事故原因として、聴力と関係のない目視確認の不十分さやあせり、スピードの出し過ぎなどが多かったそうです。
 多くの障害者や病者は、健常者以上に、自分で運転できることを必要としています。そして、「その人がどのようにしたら問題なく運転できるか」について適切な支援を受けられるかどうかは、障害者の社会参加にとって大きな要素なのです。しかも、就職するとき、運転免許所持を前提にしているものが多く、免許証を持っていないと、難しくなります。たとえば、自動車運転免許は、フォークリフトなどの免許講習受講資格になっており、建設機械など各種車輛の運転免許ともリンクしているため、技能を新たに獲得する上で必須のものです。しかし、今回認められることになった聴力障害者だけでなく、私は、運転免許試験の問題が、文章として理解しにくいことは、知的障害やLDなど文字についての理解が困難のある人等にとっては特に大きな壁になっています。あの短い時間内に、引っ掛け問題を数多く解かなければならないからです。そこで、記述の改善、実施方法として口頭によるテストの導入、聴覚障害者ならば試験時の字幕表示や手話通訳など、情報のバリアをなくす一環としても更に取り組む必要があります。なお、口頭によるテストは外国に例があり、国によっては、その国の標準言語が得意でない人にも配慮しています。「新・障害者の十年推進会議」が2000年に行った海外調査(回答国は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、カナダ、スウェーデン、ドイツ)によれば、個人の自家用車運転について、障害や病気を理由にした障壁はない、という回答が大部分です。逆に、もし不合理な扱いをすれば差別として裁かれる国が、多くを占めています。文字の読み書きが苦手な人に対して、アメリカでは、試験時間を増やしてくれたり、イギリスでは、ヒアリングでやってくれたりするそうです。事故は、障害や病気の有無にかかわらず絶対に起きないとはいえません。もしも事故を起こしてしまったときは、客観的な事実関係の解明の上で、ドライバーとして責任をとるのはいうまでもないことです。ただ、聴力障害者が免許を取れるようになったということだけではなく、どのような試験をするかも考えてもらいたいものです。

投稿者 fujimori : 21:15 | コメント (0)

2006年04月14日 講演先にて

信濃の国

 今日は、明日、長野での講演のために、佐久平駅で新幹線を降りました。最近、駅名に、町村合併などで聞きなれない名前が多くなりました。この駅名も、佐久市にあるので、当然、ただの「佐久駅」という名前でもいいのではないかと思います。しかし、やはりいわれがありました。この新幹線の駅を設置することになったとき、佐久市と小諸市の間で、駅名についての紛争が発生したことの名残だそうです。この紛争は、佐久市側が「佐久駅」を、小諸市側が「小諸佐久駅」または「佐久小諸駅」を、それぞれ主張し譲らなかったことから、最終的に当時の長野県知事の調停を仰ぐ事態にまでエスカレートしました。そして、その調停において提示された案がこの「佐久平」の名称を駅名にしようというものでした。この「佐久平」は、小諸市を含む佐久盆地一帯を指し、かつ、県歌「信濃の国」に登場するなど親しまれている名称であったことから、両市ともに受諾して、その名前を使っています。そういえば、長野県では、この「信濃の国」という歌を好んで歌います。私の先祖が長野県の出なので、親戚が長野に多いために、おじたちと一緒の席で、飲むとこの歌を覚えさせられたものでした。よほど、愛着があるのですね。山梨県の人は、よく「甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし…」と歌いだす「武田節」を歌いますが、これは、レコード会社の専属楽曲のため、少し違うようです。「信濃の国」は、明治32(1899)年、長野師範の教師浅井洌が作詞した県歌です。内容はお国自慢の歌ですが、山に隔てられ、バラバラになりがちな県民の心を一つにする役割もあったようです。今でも県民が集まる所や学校で歌われています。しかも、この歌には,長野県の地理、産物,名所,偉人、など、信濃の国と呼ばれた信州の特徴、概要が歌い込まれています。たとえば、1番が「長野県の地理に関する概要」2番が「山河」3番「産業」4番「旧跡・名勝」5番「信州出身の著名人」6番が「碓氷峠と鉄道(作曲の数年前に開通した信越本線)と結句」となっています。その中の1番は、このような歌詞です。「信濃の国は 十州に 境連ぬる国にして そびゆる山は いや高く 流るる川は いや遠し 松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は 肥沃の地 海こそなけれ 物さわに 万ず足らわぬ 事ぞなき」とあります。長野県は海のない内陸県で、隣国八県十ヶ国と接しています。越後(新潟県)、上野(群馬県)、武蔵(埼玉県)、甲斐(山梨県)、駿河(静岡県の東側)、遠江(静岡県の西側)、三河(愛知県)、美濃(岐阜県の南側)、飛騨(岐阜県の北側)、越中(富山県)に囲まれ,峠を通じて往来しました。そして、そびえる山はとても高く、流れる川はとても遠くまで流れていきます。また、松本、伊那、佐久、善光寺の四つの盆地はよく肥えた土地で、この代表的な盆地を「平」と表現しているのです。そのひとつが、この「佐久平」です。海はないけれども物産が豊かにあって、不足するものはなにもありません。と歌っています。県を紹介しながら、堂々と自慢しています。みんなで歌うわけですね。同じように歴史や名所を歌っているものに、以前のブログで書いた「鎌倉」という歌があります。しかし、他県で、これほど歌われたり、有名な県歌はないでしょうね。果たして、東京都の「都歌」って、あるのでしょうか。歌を歌いながら、歴史やストーリーが覚えられるのは、昔話の歌に多いですね。今の子に、どれだけ伝承しているでしょうか。

投稿者 fujimori : 21:54 | コメント (1)

2006年04月13日 散歩

菜の花

nanohanatodaiba.JPG菜の花とお台場(フジテレビ)
 時期は少し遅いのですが、先週の日曜日に一面の菜の花畑を見ました。また、もうすでに、東京では風は完全に「春風」の温かさでした。そして、夜の月は、たぶん朧月でしょうね。そんなときに浮かぶのは、作詞「高野辰之」、作曲「岡野貞一」の文部省唱歌「おぼろ月夜」です。いつも思うのですが、メロディーもいいのですが、歌詞が、日本の季節感があっていいですね。もちろん、最近の「桜」に関係する歌でよいものが出ていますが、壮大な自然界を浮かべるのは、昔の歌の気がします。みんな知っているでしょうが、歌詞だけでも、しみじみと読み直してみてください。
1、菜の花ばたけに 入り日うすれ 見わたす山のは かすみ深し 春風そよ吹く空を見れば 夕月かかりて においあわし 2、里わのほ影も 森の色も 田中の小道をたどる人も かわずのなく音も鐘の音も さながらかすめる おぼろ月夜
この「おぼろ月夜」は、歌唱共通教材として、小学校6年生の教科書に掲載されています。歌詞の内容には、菜の花畑ののどかな風景にかすみがかった夕暮れ時の美しさと、そこに吹く春風に漂うかすかな菜の花の香りなど、春の季節感が豊かに描かれています。同時に、ここに描かれた情景は、古くから伝わる日本人の心も表していると言えます。その歌詞が、ゆったりとした3拍子の4つのフレーズに載せられ、この4小節のフレーズ感や旋律の抑揚がさらに歌詞を引き立て、叙情豊かな曲に仕上がっています。この曲を歌うと、自然の美しさや大切さが感じられますが、今は、この写真のように、菜の花畑から見渡せるのは、超高層ビル群であったりします。しかし、意外と、その前に広がる菜の花畑は似合います。「花」という歌のときの隅田川の向こうにも、高いビルがそびえています。東京には、東京の自然の感じ方があるものですね。早春の訪れを告げる菜の花は、花蕾、葉、茎を食用とする野菜としても用いられますが、もともと地中海沿岸地方が原産の植物で、日本には弥生時代に中国から渡来したといわれています。当初はほとんど照明用の菜種油の原料として、種子採取を目的に栽培されており、食用に栽培されるようになったのは、明治時代以降のようです。菜種油というと、二宮尊徳の逸話が有名です。いぜん、尊徳の生家に行ったとき、その像(1月13日のブログ)の横の立て札にこう書いてありました。
sontokunotatefuda.JPG
「金次郎が享和3年(1803)16歳の頃、伯父の万兵衛宅に寄食中、1日の仕事を済ましてから、夜遅くまで書物を読んであるのを見て、万兵衛は、「百姓には学問は無用じゃ!」と、行灯の油を無駄に使うなと厳しく叱った。そこで、友人から菜種5勺(一握り)を借りて、腺両側に土手にまき、仙了川の土手に蒔き、それが翌年の春になって7升以上の収穫となり、使いきれない程の油ができた。このことが「積小為大」の貴重な体験になったといわれる。「小を積んで大と為す」の自然界の真理を深く学んだ。」とあります。この「積小為大」というのは、大事を為そうと考えたら、小さな事を怠らず励まなければならないのです。小が積って大となるからです。しかし、小人はいつも、大きな事を望んで、小さい事を怠ります。出来もせぬことにくよくよして、易しい事につとめません。ですから、いつまでたっても大きな事が出来ないのです。大きな改革をしようとするのであれば、まず、身近なところから少しずつ変えていくことが必要なのです。

投稿者 fujimori : 18:35 | コメント (2)

2006年04月12日 保護者

保護者会

 今、園では毎日クラスごとの保護者会が開かれています。今日は3歳児の保護者会でした。私の園では、男性保育者が多いせいか、送り迎えに父親の姿を多く見かけます。また、今日も出席していましたが、保護者会にどのクラスも父親の参加があります。これは時代かもしれませんが、子どもにとって、育児を女性だけがするものであるという刷り込みを持たせないためにもよいことだと思っていますし、多様な価値観で子どもを育てるためにも必要なことです。また、園に対しても、父親はまったく違う観点から園を支えてくれます。そういえば、昔は、そのような集まりの会を「父兄会」と言っていましたね。どうして、兄なのでしょう。たぶん、「父母兄弟」ということから、家族という意味を略して言ったのでしょう。しかし、父兄という言葉は、戦前の家父長制のなごり、男性社会へ差別用語であるといわれていたり、一方、この言葉は、日本語にある片方の性で、両性を代表する言葉(帰国子女などの)の一つであり、語源的に差別的ではないとの見解もあるようです。しかし、語源や、過去にどういう使われていたかというより、やはり「父兄会」というのは、変ですね。父親はほとんどでないし、兄などはもっと参加しません。そういう意味では、「父母会」というようになったのはわかります。しかし、これもなんだか変な気がします。参加する人が、必ずしも父親か母親に限らなくなっているからです。そこで、私は、「保護者会」という言葉を使いますが、それも最近は、怪しくなってきました。この人は、保護者だろうかと思うことがあるからです。しかも、記入上の保護者ではなく、「子どもを保護している人」となると、首を傾げたくなる人もいるようになりました。などと考えると、言葉って、難しいですね。もう一度、「家族とはなにか」、本来の「保護者会」は、どうあるべきかを考える必要があるかもしれませんね。
 戦前から「父兄会」や「学校後援会」は、学校後援会組織として、学校設備を寄付したり、周年行事をサポートしたりするものだったようです。それが、第二次世界大戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指示・勧告により、日本の文部省が「父母と先生の会委員会」を設置したのが、日本でPTAが誕生した始まりといわれています。そして、1947年に『父母と先生の会ー教育の民主化のために』というPTA設立の手引書を作成して、全国に配布しました。PTAとは文字通り『父母(親)と先生の会』ということで、親と先生が一緒に子ども達のために活動するものとなったのです。しかし、多くの学校のPTAでは、子どもの入学と同時に保護者が自動的に加入することになっていますが、“PTA”の“A”はAssociationということで、一般には任意の民間団体を指していることから、「その活動に賛同する人だけが、加入申込書を提出した上で会員になる」というのが本来の姿だそうです。もともとのアメリカでは、PTAはどんなかというと、「学校」単位というよりも「地域」を単位にした組織になっていて、活動に賛同する人は、子どもがその学校に通う保護者だけでなく、地域の市民だれでもが参加できるシステムなようです。また自分の子どもが通う学校だけでなくて「全国・全世界の子どもたちの幸せのために」という理念のもとに結成されている場合が多いようです。私の園での開園時の職員のキャッチコピーに「私たちは、世界の子どもの担任です」というのがありました。PもTも、そうあるべきでしょうね。

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2006年04月11日 近頃思うこと

自己決定

 最近、新聞紙上でまた「尊厳死」について論じられることが多くなりました。このテーマについてはかなり重いのですが、ちょっと考えてみました。昨日ブログで書いたデンマークでのバリアフリーでの体験と同じときのことです。このときは、デンマークのほかにスウェーデンとかフィンランドなど北欧諸国での福祉の考え方を学びに行ったのです。デンマークでの体験は、バリアフリーとは、何も、障害者とか、お年寄りということではなく、どんなものでもそれをハンデにしないという考え方に感心しました。犬を連れていようが、赤ちゃんを連れていようが、車椅子であろうが、自転車に乗っていようが、誰でも電車に乗る権利があり、どの店にも入る権利があるということでした。ですから、何も特別扱いするでもなく、また、そんな場合でも他人に迷惑をかけることなく、自分の責任の中で行動していました。たとえば、車椅子の人がいようが、特別に手伝いません。手伝って欲しいときは、そのように言えばすぐに手伝うだけです。それは、ほかの人が何か手伝って欲しいとき、たとえば、お年寄りが重い荷物を持っている時でも同じことなのです。(ただ、これは、もしかしたら、多分に私の思い入れと希望が入っていて、本当かどうかはわかりませんが)ここに私は、成熟した国を見た気がしました。もうひとつ感動したことがありました。
 それは、スウェーデンだったと思いますが、老人施設に行ったときのことです。その施設に行ったら、ホールの隅のほうにほこりにかぶった「機織り機」が置いてありました。それは何かとたずねたら、「お年寄りに対して、ボケないためにも、また、長生きをするためにも、女性には機織りをさせるととても効果があるということ、また、男性には、大工をさせるとよいということで、機織り機や大工道具が支給されてきました。そして、それを使ってみたところ、毎日お年寄りたちは、無表情に、つまらなそうにそれをやっていました。そこで、いったいあなた方は、なにをしたいのかと聞いてみたところ、毎日、コーヒーでも飲みながらおしゃべりをしたり、トランプなどをしたいということでした。もしかしたら、そんな毎日を送っていたら、はやく動けなくなるかもしれないし、ボケるかもしれない。検討した結果、たとえそれで死期が早まっても、人生最後まで、自分の意思で、楽しく生きることの方が大切ではないかということで、大工道具と機織り機はしまってしまったのです。」と答えました。本人にとって望まない延命措置はとらないということなのでしょう。いま、論議されているような病院でのことだけでなく、もっと、人生そのものについての「自己決定権」について考えるべきかもしれません。また、本当の自己決定ができる能力を、子どものうちから育てていかなければならないと思います。いつもやってもらい、指示してもらっている子どもに、自分で決めなさいと言っても、それはかえってかわいそうなことですし、間違った選択をしかねません。その施設では、食事に関しても感心しました。もちろん、給食を部屋に配るのですが、もし自分で作りたいといえば、その材料が施設内のスーパーで売っていて、それを買ってきて部屋で作ることもできます。また、レストランに食べに行きたいと思えば、給食と同じメニューですが、すばらしいレストランが施設内にあって、素敵なドレスを着て、そこに食べに行くこともできます。すべてのことに「自己決定」なのです。これは、やはり、小さいうちからの教育の問題ですね。

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2006年04月10日 記念日

駅弁

今日4月10日は、「駅弁の日」だそうです。それは、「4」と「十」の字を組み合わせると「弁」の字に見え、「10」は「とう」とも読めることから、この日を「駅弁の日」としたそうです。日本の駅弁第1号は、明治18年に宇都宮駅で発売されたもの。黒ゴマをまぶしたにぎり飯2つとたくわんを、竹の皮に包んだ質素なものだったようです。今は、様々な駅弁が発売され、デパートなどで開催される「駅弁祭り」は人気があるようです。私の園で、かつて、その年のテーマが「乗り物」の時の夕涼み会で、食事を駅弁みたいにして出したことがありました。入れ物のパックにかぶせてある掛け紙をデザインして、駅弁のように包みました。そして、飲み物を、あの駅弁に付き物のお茶に入れて添えました。
この日本と同じような駅弁は、日本と台湾の他には存在しないようです。それと似たものとして、韓国や中国の車内販売弁当や、駅で売られるランチボックスなどはヨーロッパでみることはあるのですが、「駅売り弁当」という、鉄道の駅や車内で売っている弁当としてはないようです。しかし、その分、列車の食堂車や駅の食堂の充実度は日本の比ではないそうです。乗っている時間が長い列車が多いからかもしれませんが。もうひとつ、駅弁が普及する壁があります。それは、座席で食べることを許容する文化や乗客や列車管理者の理解あることが必要で、意外にもこれが他国にはあまり存在しないようです。不思議ですね。日本でも、電車の中で物を食べたり、飲み物を飲んだりすることはマナーができていないと思う人が多いのに、駅弁だと許せるのですね。もちろん、狭い車内で、においが充満しないとか、テーブルつきの座席であるとか、ルールはあります。しかし、やはり、日本では、弁当やおにぎりのようにコンパクトになるとか、食べるときは、きちんと食堂に行くという外国に比べて、過ごす場所と食べる場所が一緒であってもかまわない日本人らしい生活観が出ていますね。
 列車の中で許せるものには、国によって違いがあります。デンマークに行ったときに驚いたことがありました。一人で列車に乗ったときのことです。日本では、乗り込むときに、まず気をつけるのが禁煙車であるかということです。そこで、禁煙車を探して、その車両に乗り込みました。4人がけのボックスに一人で座っていると、なんと、私の隣と前の席に乗り込んできたのは、大きな犬でした。北欧の人は背が高い人が多いのですが、犬も、とても大きく、りっぱです。その犬が、堂々と、隣と前に座ったときには、びっくりしました。通路にも犬が寝そべりました。その車両の中を通りすがる人は、申し訳なさそうに犬をよけて通っていきます。なんと、その車両は、「犬可」という車両だったのです。降りるときに、ほかの車両を見ると、「自転車可」という車両もあり、そこは座席がなく、みんな自転車に乗ったままホームまで降り、そのまま列車に乗り込みます。もちろん、これらは、犬を連れていようが、自転車に乗っていようが、それらを「ハンデ」にしないという国民性があるからでしょう。もちろん、障害者であろうが、バギーや乳母車を押していようが、同じ考え方です。どの店に入っても、すべての店には段差がないか、段差の脇には、レールが必ず着いていました。もう10年以上前の話です。列車の中で許されるものに国民性が出ていますね。

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2006年04月09日 散歩

野の花

桜が散っている中、足元には,よく見るとひっそりと、しかし、しっかりといつの間にかさまざまな花が咲いています。園の隣の桜の大木の足元で、いろいろな花を見つけました。それらの花には、その姿には似つかわしくない名前がついていたり、もし花が話せたら文句を言いそうな名前がついていたり、いかにも頷けるような、納得のいくような名前がついていたりします。どれにしても、その名前をつけた時代の人の発想に驚かされることがあります。
sumire.jpg「墨入れ」と「スミレ」
その中で、何年か前にその名前の由来を知ったときに、納得した名前があります。それは、「すみれ」です。その花の形は、建物を建てるときに、材木に線を引くときの道具である「すみいれ(墨入れ)」と形がそっくりです。スミレの仲間は非常にたくさんあって、スミレ属は世界の温帯に400種以上あり、日本には約50種あるそうです。園のそばに咲いているスミレは、「タチツボスミレ」のようですが、この種は,スミレの中でも一番よく見られ、低地や山地でみられるもっとも普通なスミレです。スミレの由来は墨入れからですが、タチツボの和名の由来は、「つぼ」とは道端や庭の意味で、そういう身近な所で見られることからツボスミレといいます。「立」は、花の盛りを過ぎると茎がしだいに立ち上がってくるところからきています。「春の野に すみれ摘みにと 来《こ》し我れぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」(山部赤人 万葉集)「春の野に、すみれの花を摘もうとやってきた私は、野辺の美しさに心引かれて、ここでつい一夜を明かしてしまいました」「古今集」や「源氏物語」にも引用された、有名な歌です。万葉の時代には、スミレは食用や染料としても利用されていたようですが、この歌の「すみれ摘み」は、そのために摘みに来たのではなく、「野遊び」だったようです。
karasutoooinu.jpg「カラスノエンドウ」と「ジシバリ」と「オオイヌノフグリ」
 その隣には、「カラスノエンドウ」という花が咲いています。この花は、マメ科の植物ですが、完全に熟すとさやや種が黒いので、カラスノエンドウであると言う説や、似た種類にスズメノエンドウがあり、これに似ており、それより大きいことから名がついたという説もあります。別名「ヤハズノエンドウ」といいますが、葉が、「矢筈」に似ていますね。実ったさやを割って種を除き、さやの片方をちぎって吹いて、鳴らして遊びます。
 この頃咲く花で、私が気に入っている由来を持っている名前は、「じしばり」です。細い茎が地面を這うように四方にのびて、その節々から根を出して生長します。その姿が、地面を縛っているように見えるので、「地縛り」という名前です。また、この花は、石垣の間や岩場のようなところでもよく育ち、茎や葉を切ると出る白い乳液が苦いところから、「イワニガナ」(岩苦菜)とも呼ばれます。
春の野で、なんといっても有名な名前は、「オオイヌノフグリ」でしょう。これは、もちろん「大犬の陰嚢」です。名前の由来の似ている形は、花の形でなく、晩春につける果実の形からです。ですから、一面に咲くこの花からは、この名前を呼ぶのは申し訳ないほど、とても可憐で、美しいと思います。また、大犬とは大きい犬のことではなく、日本産種の「イヌノフグリ」よりも大きいからで、「大イヌノフグリ」なのです。
 名前の由来をちょっと知っているだけで、同じ花を見ていても楽しくなります。子どもにも、そんな楽しさを伝えたいですね。

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2006年04月08日 近頃思うこと

プライバシー

 最近、また子どもに関係する痛ましい事件が起きました。その中で、プライバシーを重視するマンションのつくりということが出てきます。日本の家屋は、あまり個人のプライバシーは重視されませんでした。家の中は、ふすま1枚で隣と隔て、個室は持たず、また、建物も長屋などでは、壁1枚で隣の家と仕切られ、声は筒抜けでした。それが、現代の日本の戸建住宅の間取りは、大体、1階には居間、食堂、台所と和室があり、2階に数室の個室があるという間取りが一般的です。1階の居間を除くと、住居内のそれぞれの部屋は独立性が尊重され、他の部屋との関係が遮断されているのが特徴です。「日本の住居の間取りも、欧米並になった」ようです。
 「1階は家族とのコミュニケーションを大切にした間取り。台所は、家族との会話を楽しみながら、または子供たちの様子を見ながら家事ができる対面式のキッチンにし、家族が集うLDとの一体感を大切にした。LDの前面に広くウッドデッキを設けて明るさと広がりをもたせた。2階は家族それぞれの個室を設けてプライバシーを重視した間取り。個室は、家族の寝室も兼ねる部屋なので、地震対策の面からも余計な家具は置きたくない。各部屋に充実した収納スペースを設けて、家具を置かなくても済むようにしている。」これは、ある住宅メーカーのチラシ広告の一文です。そして、そこに平面図が書かれています。それを見ると、玄関に入ると、すぐ左手に2階に行く階段があります。そして、反対側にLD、すなわち、リビングと、キッチンがあります。このチラシのように、ここで家族とのコミュニケーションをとるのでしょう。そして、母親は、台所に立ちながら、家族と会話をし、子どもの様子を見ると書かれています。しかし、たぶん、子どもたちは帰ってくると、すぐに2階の自分の部屋に直接入ってしまいます。そして、下で食事の準備ができたと声がかかり、下へ行って食事をして、またすぐに自分の部屋に入ってしまうでしょう。最近聞く話では、自分の部屋に食事を運ばせる子も小学生の頃からいるようです。収納にしても各部屋にあるので、取りに行く必要はありません。
 しかし、こうした最近の日本住居の傾向に対して、進歩的な建築家から疑問が投げかけられています。「それぞれの部屋が閉鎖化し過ぎている」とか、「階段を家の奥にして、居間とか、台所を通って2階に上がるようにしたほうがいい」という意見です。今の子どもの生活環境は、時間的にも、空間的にも、精神的にも、いろいろな人とかかわる機会が失われています。間取りだけでなく、街のつくりも、できるだけ、人とかかわらなくても済むようにつくられています。その中でも特に、地域の人とふれ合う機会は、どんどん失われています。地域と触れ合う場所でもあった「縁側」がなくなり、地域で情報交換していた「井戸端」がなくなりました。かつて、子どもたちは、親と一緒に、また、子ども集団で、様々な地域の人と触れ合うことで、いろいろなことを学びました。危険な時代になったからこそ、もう一度、プライバシー確保というという観点からより、みんなで子どもを見守るという、日本社会特有の地域のあり方、家族、住居のあり方を見直す時期かもしれませんね。

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2006年04月07日 記念日

城の日

 昨日は、4月6日です。「しがつろくにち」から、「しろ」ということで、「城の日」でした。今年、財団法人日本城郭協会で、全国各地の名城探訪の手がかりとして「日本100名城」が選ばれ、2月に発表されました。選定されたのは、世界遺産の姫路城、国宝の彦根城・松本城など天守がそびえる近世の著名な城郭から、城郭の始まりとされる環濠集落吉野ヶ里(佐賀県)や古代の鬼ノ城(岡山県)、さらに中世の足利氏館(栃木県)・一乗谷城(福井県)、琉球王国の首里城(沖縄県)、信長の安土城(滋賀県)、西洋式の五稜郭(北海道)まで、時代と地域を代表する多彩な名城です。その中で、東京都から選ばれたのは、2城で、「江戸城」と「八王子城」です。
 八王子城主は、「北条氏照」ですが、小田原に本拠をおいた北条早雲から三代目の氏康の次男で5代氏政の弟にあたる人物です。滝山城にいた大石定久の養子となり、成人して大石源三氏照と名乗ります。大石氏(後の大石氏は、赤穂浪士などで知られています)は、滝山城(この城跡も八王子市にあり、私の家の近くです)を本拠としていましたが、難攻不落の城(武田信玄が何回か攻めています)ではあったのですが、「滝は落ちる」ということで、縁起を担ぎ、氏照は、この滝山城から八王子城に移ることを計画します。私は、よくこの八王子城跡に行きました。それは、典型的な山城で、そこに登るのは一苦労ですが、山頂はとても景色がよく、教師をしていた頃、担任していたクラスみんなで行ったり、中学生を写生に連れて行ったものです。また、山頂近くには、法華経にある仏教伝説で、「釈迦の前で多くの人が悟りを開き出家した際に最後に出家した王の八人の王子がその後仏門に入った」という話に由来して、この八王子信仰が各地に伝わり、八王子社がこの山の頂上に建てられ、それが八王子の地名の由来だといわれています。
 ここに築城された八王子城を、豊臣軍が、前田利家を総大将に上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してくる途中、攻め落とします。そのとき、城主の北条氏照は小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊に任せます。そして、1590年6月23日(旧暦)の早朝から攻められ城方も奮戦しましたが1日で落城しました。このときの戦いが、秀吉の小田原攻めのなかで、唯一の殺戮戦であったために、そのときの様子が、特に語られています。攻められ、逃げ場を失った女性達は御主殿の滝に身を投じて、川は数日血に染まったといいます。このときの話が、「赤いくし」(古世古和子作、箕田源一郎絵 童心社)という絵本になっています。
akaikusi1.jpg城を守っていたのが、留守を守っていた地侍、商人、職人、修験、僧侶、農民などわずかに3000人ほどであったといわれています。それが、10倍近い豊臣勢の猛攻を受けたのですから、ずいぶんと悲惨だったでしょう。
 たまたま、以前ブログ(1月13日)に書きました小田原の二宮尊徳のお墓に行ったときに、その菩提寺には、この北条氏照の母親である氏康夫人の墓もありました。彼女は、あの今川義元の実姉です。家庭教育に力を注いだということで有名です。特に、総領の氏政、武勇の氏照・氏邦、外交の氏規と見事に分を弁えているといわれています。昔から、家庭教育の大切さが言われていたのでしょう。
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2006年04月06日 近頃思うこと

花粉症

 そろそろスギ花粉の飛散が減ってくる頃でしょうか。しかし、5月の連休くらいまでは苦しそうです。私は、おかげさまで今のところ花粉症はありません。(いつ発病するか、ひやひやです)しかし、中学生の頃から、湿気アレルギーがあって、湿気が多いところ、気圧が変わるとき、雨が降り始めるときなどは、くしゃみを連発します。ですから、プールで顔を水につけたとき、浴室に入るとき、運動して鼻の中に汗をかくときなど大変でした。しかも、その頃花粉症などなかったのですから、くしゃみを連発すると怪訝な顔をされるか、風邪をひいたと思われました。しかし、良いところもありました。くしゃみを朝すると、その日は、「雨が降る」とわかったものでした。園を始めた頃、市内の園から、「今、くしゃみをしていませんか?」と、電話がきたものでした。その日の遠足をどうするか判断するためです。しかし、最近は、年を取ってきたせいか、ずいぶんと鈍くなってきました。結果的に良かったのか、悪かったのか。
 花粉症は、歴史的には、古代ローマの記録にも同様の症状が記録されており、19世紀末に、これらの症状が花粉によって起きることが解明されているそうです。日本における研究では、ブタクサ花粉症について研究発表が最初で、その後、スギ花花粉症等多くの花粉が関係していることが知られるようになりました。また、花粉症の発症については、大気汚染も関係するとも言われており、特に、ディーゼル排出微粒子等の粒子状物質が鼻粘膜に影響を与え、花粉の体内への侵入を容易にしている可能性が高いと言われていて、その研究を、平成3年度より動物実験及び疫学調査を進めているそうです。
 明治神宮の森は、「巨大なビオトープ」といわれています。この地は、もともと畑や水田、広い草原などがあった場所です。そこに神宮を作ることになったとき、最初、境内を公園や庭園のようにして花壇を作り、四季の美しい花でいっぱいにしたり、荘厳で雄大な杉林にしようという意見がありました。当時の大隈重信総理は、「伊勢神宮や日光の杉並木のようにしなさい。それには杉を植えなさい!」と言ったそうです。この発言に対して、植栽関係者たちは、「杉はこの土地に合わない木で、成長も悪い。ニセモノの自然だ。」と主張し、ここに大森林をつくるカシ、シイ、クスノキなどを主人公とした150年プランを、みんなで作ったのです。カシ、シイなどは、本来ここの地にニッチ(ある生物が生態系の中で占める位置)を持つ木々で、潜在自然植生といわれるのものです。最初は、それらの木を下層に、高くそびえる上層の木には、大きいものや前からあったアカマツ、クロマツを植え、中層には、生長の早いヒノキ、サワラ、スギなどを植えました。数十年経って、ヒノキ、サワラなどの針葉樹が生長し、マツ類と共に最上部を支配します。下層になる木は、上部に守られながら、中層にまで生長します。そして、カシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹が次第に上層部に混じり始め、さらに100年ほどで上層部を支配し、主人公になっていきます。そうして、自然の安定した豊かな森林ができていきます。本物の自然は、人の手を加えないで、未来も永遠に続くのです。すばらしい、ビオトープです。今考えると、杉を植えなくて正解でしたね。

投稿者 fujimori : 20:05 | コメント (0)

2006年04月05日 近頃思うこと

ユニーク

 オランダのある中学一年生の教科書にこんな文章が載っています。
「全ての人は異なる存在です。別の言い方をすれば、全ての人はユニークだということです。ユニークとはたった一つという意味で、他とは違うということです。あなたは他の人と違う外見を持っているし、あなたは他の人と違うものを美しいと思います。自分の兄弟や姉妹すら違います。全ての人は違う存在だ、ということは、個人という言葉を使っても表されます。個人とは、一まとまりの全体の中でその人だけに固有の性質を持った人、という意味です。そして全ての人は独自の性質を持っているからこそ、自分を大切にするためにそれぞれ違ったものを選ぶのです。例えば、石鹸でも、食べ物でも、自分で選ぶのです。」
 よく、子どもたちに質問するときに、前の人が言った意見と同じときに、「私も前の人と同じ意見です。」と言いますね。ドイツに行ったときに、こんなことを言っていました。その時にも、そうは言わせないようにしているそうです。同じ意見でも、きちんと、「私は、こう思います。」と、自分の考えを言わせるそうです。日本の子どもたちは、よく「私も同じです。」ということが多いようです。それとも、「よく、わかんない!」「どっちでもいい!」また、将来何になりたいかを尋ねると、人と同じ意見を言ったり、人の意見に左右されたりすることが多くあります。自分の意見をなかなか言いませんね。どうしても、「ユニーク」という言葉は、日本では、「珍しい」とか「独特な」とか使われ、別に悪い意味で必ずしも使われはしませんが、どこか、特別な、風変わりな、人と変わっているというイメージが強いですね。しかし、もう一つ、「唯一の」「一意の」「無比の」「独自の」「固別の」「無双の」というような意味合いもあるのです。それは、ラテン語で1(one)を意味するunusが語源だからなのです。
 何年か前に「ぼくが天使になった日」という映画を観ました。その映画はミニシアター系での上映でしたが、テレビでも放映されていましたので、DVDになっているも知れません。この映画が始まると、出演者名がスクリーンに現れると同時に、子どもの声で、単語の説明が始まりました。「はみだし者:仲間に入れず、無視される人。みんなと違う人。特別:すぐれていること。普通や平凡でないこと。反逆:権力や世の流れに対して逆らって行動すること。天才:すばらしい才能を持っている人」など、こんな言葉が続きます。「はみだし者」と「特別な者」、「反逆者」と「天才」の単語のイメージはまったく逆ですが、不思議と意味は近いものがあります。この映画の主人公の10歳の男の子は、はじめはみんなからの評価は「はみだし者」だったのが、次第に「特別な人」になっていき、「反逆児」だったのが、「天才児」になっていくのです。本人は何も変わっていかないのにです。内容は、主人公の男の子は、天使がいつも身に付けているフワフワしたドレスをいつか自分も身にまとってみたいと憧れています。そんな彼が、校則の厳しい学校の校内スペリング大会に、ドレスを着て出場したのです。注意をされた彼は、「ドレスを着ることは、一つの自己表現の手段で、誰も否定することはできない!」と反発します。その彼が、大会で勝ち進み、優勝しますが、そのごほうびは、ローマ法王と会うことでした。薄い生地のドレスを着て会いに行った彼を迎えたのは、同じような服を着た法王だったのです。(考えてみると、法王も見方によっては、ドレスのような服をいつも着ていますね。)子どもたちのユニークを認める心が必要ですね。

投稿者 fujimori : 18:08 | コメント (1)

2006年04月04日 近頃思うこと

ゲストからスタッフへ

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 昨日は、とても風が強かったですね。桜の花だけでなく、ずいぶんと木も倒れたようです。以前、園の隣にある公園の木が倒れたことがありました。園ができたころ、隣の敷地は、林になっていました。木が何本も植わっていて、その中には、大きな木が何本かありました。桜の大木も混じっていました。この林は、造成でなくなってしまうかと残念に思っていたところ、そこが公園になるということなので、ほっとしました。ところが、公園を作るにあたって、木を切り始めたのです。そして、そのあとに新しい木を、点々と植えているのです。もともとある木は使いません。そうやって、公園は、整備されていきました。しかし、さすがに、桜の大木はこのあたりに古くから自生している木なので、切るに忍びなく、何本か残すことにしたようでした。周りをみんな切ってしまい、大木だけを残したのです。すると、風が強く吹いた日、その大木の何本かが折れてしまったのです。大きな、太い木は、自ら立っているように見えますが、その周りにある小さな木が支えていたのです。小さな木があるからこそ、風を防ぎ、根を絡ませ、日の光を調節しているのです。その木だけ残そうとしても、無理だったのです。
 以前の新聞にこんなことがあいてありました。「サボることなく地道に働くとイソップ童話でも語られている働きアリなのに、実は怠け者もいる。」北海道大大学院農学研究家の研究です。「全体の1~2割のアリが、じっとしていたり、巣の中をうろうろしたり、自分の体をなめて掃除したりしているばかりだった。エサは、エサを集めてきた働きアリから、口移しでもらっていた。」この研究チームは、それぞれ、怠けアリや仕事熱心なアリを取り出して、どうなるかを研究しています。その後のどこかの講演で聞いたのですが、仕事熱心なアリだけ集めても、必ずその中で、怠けアリに1~2割なるそうです。「優秀な個体だけでは、集団の生産性が最大にならないことがわかってきている。仕事をしないアリにも何らかの役割があるかもしれない」と話しています。
 園で、「ゲストからスタッフへ」という事業をしています。園に来るときは、「ゲスト」としてではなく、「スタッフ」として来よう!という呼びかけです。そして、その呼びかけには、お年寄りに対して、「人生死ぬまで、人生のゲストではなくスタッフとして生きよう!」という意味がこめられています。私は、たとえ、寝たきりになっても、きっとその人にも何かの役目があると思っています。その気持ちが、生きる意味です。その事業の中で、あるお年寄りが、園児の世話に、何日か来てくれたことがありました。体の具合が悪くなって、先方で遠慮して来なくなったのですが、その最後の日、園児が大変お世話になったとみんなでお礼を言いました。すると、そのお年寄りは、逆にお世話になったとお礼を言うのです。よく、育児、教育の「両義性」ということをいわれます。お世話した人が、お世話をされるという関係です。インドでも、何かを人にあげるときに、もらったほうではなく、あげたほうの人がお礼を言うと聞いたことがあります。お互いに、何かをもらうのでしょうね。人は、誰も無駄に生きている人はいないのでしょう。きっと、誰かの役に立つことができるのです。そうすると、自分でも得るものがあるのではないでしょうか。

投稿者 fujimori : 17:35 | コメント (5)

2006年04月03日 近頃思うこと

組がえと担任

 もうすぐ、新年度が始まります。それぞれ、ひとつ上の学年にあがることは、とても不安だと思います。特に、組換えがあると、今度は、何組になるのだろうか、誰と一緒になるのだろうか、担任は誰だろうかと心配になります。組換えに関して、私の出身高校は、とても面白い方法をしていました。2年生で組換えがありますが、4月初日に登校すると、普通は、玄関に張り紙がしてあります。そこに、新しいクラスのメンバーが張り出されているのです。それが、私の高校は、朝行くと、校庭に旗が立っています。その旗には、男女数が書かれています。そして、校庭の後ろのほうに線が引いてあって、みんなその後ろに集まります。時間になると、生徒会の人が、前で「さあ、始めます。」と合図をします。すると、自分たちで、好きな旗の前に並びます。もちろん、友達同士で打ち合わせて、同じ旗に並びます。そのあと、みんなで話し合って、旗に男女数が書かれていて、その人数に合わせなければなりません。最後の数人は、誰が移動するか、なかなか決まりません。どうしても、離れたくない友達がいるからです。とうとう、時間切れになってしまいました。すると、生徒会で、「では、また、明日やり直します。」というのです。次の日に、また、始まりました。同じように、なかなか決まりそうでなかったのですが、もし自分たちで決められなかったら、教師が一方的に決めてしまいます。そこで、何とか自分たちの話し合いで決めました。こうして、クラスメイトを決めるのです。当然、一緒になりたいメンバーは、同じクラブの仲間であることが多く、そのときも、ラグビー部が、いっせいにある旗のところに集まりました。その旗に書かれた人数は、そのクラスだけ、男性だけでの構成になっていたのです。すると、ほかの人は、なんだか怖くて行きません。そこで、そこに行く人は、柔道部のメンバー、サッカー部のメンバーなど、格闘技にに近いクラブの人だけが集まりました。(体育祭のときにクラス対抗棒倒しのときは、他のクラスは、誰も、そのクラスとは戦いませんでした。攻めてくるのがラグビー部で、守るのが柔道部という具合でしたから)そして、メンバーが決まった後で、それぞれの旗に伏せてある担任名を開けて、担任も決まります。以前のブログに書いた、その高校の修学旅行での自由の責任を、この場面でも感じました。本当は、以前は、旗に担任名も書いてあったと聞きました。しかし、自分たちで調整できなかったために、担任を選ぶ自由はなくなったのです。自由といっても、ルールがないということではありません。ただ、そのルールを他人から言われて守るというのではなく、自らの中にルールを持ち、それを自らコントロールする力があってこそ自由なのです。私たちの何年か後からは、クラスは、教師が決めるようになりました。
担任も、私のときは、小学校では、1,2,3年は同じ担任、4,5,6年が同じ担任でした。今は、ほとんど、2年間持ち上がりが原則です。それが、保護者と子どもアンケートをしてみると、1年で交代を望む人が一番多いようです。その理由は、なんでしょうね。様々な価値観と出会うという意味ではいいのかもしれませんが、逆に、1年間のぶつ切りの学習活動しかできませんし、担任との愛着関係も結びにくくなってしまう気がします。ドイツのシュタイナー学校では、1年生から8年生まで、クラス替えもなく、同じ担任が受け持ちます。教師の質が高いのでしょうね。

投稿者 fujimori : 17:15 | コメント (0)

2006年04月02日 近頃思うこと

四季の移ろい

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 今日は、隅田川沿いに下流に向かって歩いてみました。「春」「桜」と聞いて、私が思い出す歌が2曲あります。それは、育った地域柄もあるのでしょうか、武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」です。私が育った地域は、台東区の鳥越というところで、駅でいうと総武線の浅草橋、小学校の校区は、鳥越のほか、蔵前、柳橋、など江戸時代から由緒ある地域です。そして、そのはじは、隅田川が流れています。そこで、思い出す曲といえば、「花」「桜」「隅田川」とくれば、当然ですね。
1.春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る 眺めを何に たとうべき 2.見ずやあけぼの露浴びて われにもの言う 桜木を 見ずや夕ぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳を 
3.錦おりなす長堤に 暮るればのぼる おぼろ月 げに一刻も 千金の ながめを何に たとうべき
 誰でもよく知っている歌ですね。学校では、二部合唱でも歌いました。童謡のようですが、この曲は、もともとは、東京音楽学校に赴任直後の武島が書いた詩に、同校助教授だった滝が曲をつけたもので、組歌「四季」として出版されました。その四部作の中の「春」が有名になったのです。この組曲は、日本人の手による歌曲の第1号であり、また、合唱曲としても第1号であり、唱歌の域をはるかに超えた日本初の芸術歌曲なのです。歌詞一番の「隅田川」と、二番の「露浴びて」とでは、メロディが変えてあるのが特徴です。また、三番の「一刻も千金」は、漢詩の句「春宵一刻値千金」(蘇軾「春夜」)を引用しています。 「春宵一刻 価千金 花に清香有り 月に陰有り 歌管 楼台 声細細 鞦韆 院落 夜沈沈」
「春の夜は、まさしく千金の価値がある。花はすがすがしい香りを放ち、月は朧にかすんでいる。歌や管絃で賑わっていた楼台も、今は静かなたたずまいを見せており、ブランコに乗る人もいない中庭に夜も更けてゆく。」
 もう1曲は、私の出身小学校の「育英小学校」校歌です。台東区の学校の校歌は、土地柄から当然でしょうが、歌詞には「上野」「浅草」「隅田川」「桜」の文字が多く出てきます。また、台東区の歴史、伝統から、作詞は折口信夫、久保田万太郎、西条八十、佐々木信綱、サトウハチロー、土岐善磨、作曲には古関裕而、中山晋平、山田耕筰等が名を連ねています。育英小学校の校歌は、作詞は土岐善磨です。1.春はうららかに 秋は清く さくらもさくよ 菊もかおるよ ああ 花が 都会の庭に 開くよう 世界のうちに 育英 育英 力を合わせ 文化の国を 作ろうよ 2.朝はさわやかに 空は広く たがいにはげみ 学ぶよろこび ああ 潮が 隅田の川に 満ちるよう 校舎のまどに 育英 育英 誉れを集め 社会の人と 育とうよ
 小学生の頃はあまり思いませんでしたが、今では、その歌詞がつくづくいいと思います。もちろん、曲も今でも口ずさめます。出だしは、「花」の「春のうららの」と同じで、それに対応して、「秋は清く」です。最後の、文化の国を作っていき、よい社会人として育っていこうというのも好きです。「花」にしても、この「校歌」にしても、日本語の美しさ、そして、その言葉が表す日本の美しさ、四季の移ろいを感じます。最近の歌から、そんなものが消えそうなのはとても残念な気がします。また、海外旅行に行ったり、表参道ヒルズに行くだけでなく、もっと、心に余裕を持ち、四季の移ろいを感じるような場所に子どもたちを連れて行ってもらいたいものです。

投稿者 fujimori : 20:45 | コメント (1)

2006年04月01日 近頃思うこと

ミモザ

 今日から新年度ですね。数日前のブログではありませんが、年度切り替えというのは、本来、会計年度から来ている話で、実際に私の会社(ギビングツリー)の年度は、7月から6月です。ですから、4月1日というのは、学校や役所の年度切り替えの話ですが、なぜだか、4月1日は身が引きしまる気がします。やはり、長い間学校生活を過ごしてきたせいか、それとも、厳しい冬がそろそろ終わりになって、希望の春が来るという期待感からか、または、桜に代表されるように、いっせいに花が咲き始めるからでしょうか。園庭でも、さまざまな花が咲き始めました。

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 園庭には、卒園記念樹が何本かあるのですが、その中で、今、「ミモザ」の花の鮮やかな黄色が、心を一瞬のうちに春の歓びへと誘ってくれています。また、園では、毎週、近くの花屋さんからお勧めの花束を買ってきて、各部屋に飾っていますが、先週は、「ミモザの花」でした。職員が、その一部をリースにして、私の部屋の前に飾ってくれています。部屋に入るたびに、春を告げる黄色の花たちを眺めています。
このミモザの名前をしっかりと刻み付けたのは、最初にその花からではなく、「ミモザサラダ」からです。ミモザサラダを先に知っていて、そのあとで「ミモザ」の花を見たとたん、あまりにサラダに似ていたので、いっぺんでその名前を覚えたのです。ミモザサラダは皆さんはよく知っていると思いますが、レタス、キュウリ、クレソン、炒めたベーコンなどで作ったサラダに、細かく刻むか、裏ごしして粒状にしたゆで卵をふりかけたものです。黄色い粒状の卵黄がミモザの花のように見えることから名づけられています。カリカリに炒めたパン粉をかけたりもします。実は、ミモザの花にそっくりな、裏ごしして使われる卵も、春が旬なのです。今は、1年中ありますが、英語で「スプリング・チキン(元気のいい子)」という言葉があるように、春になると鶏もたくさん玉子を産むようになります。昔は冬の間、鶏もあまり玉子を産まなくなるので、貴重なたんぱく源として大切に食べたのだそうです。ですから、そういう意味からも、春を待ち焦がれたのでしょうね。そのほかにも、このミモザのかわいいイメージから、オレンジジュースとシャンパンを半分ずつあわせたカクテルの「ミモザ」。スポンジのそぼろをミモザの花のようにまぶしつけた「ミモザケーキ」、黄色がアクセントの「ミモザ風ちらしすし」、花の砂糖づけなどがあります。 
 ミモザは、マメ科アカシア属の木で、別名「フサアカシア」ともいいます。しかし、西田佐知子の「アカシアの雨がやむ時」に歌われたアカシアは、ニセアカシアという木で、街路の並木として植えられているのはこちらのほうです。ミモザの花言葉は、秘めた恋・プラトニックな愛・優雅・友情などというそうですが、これは、インディアンが恋の告白の時ミモザの花枝をそっと渡したと言われる事からだそうです。そして、フランスではミモザ祭りにミモザの花束を投げ合い春の訪れを祝い、イタリアでは3月8日の「女性の日」に、お世話になった女性にミモザの花を贈る習慣があるそうです。ミモザの葉は、同じマメ科の「オジギソウ」に似ています。アカシア属の葉は、触れても動きません。しかし、もともとミモザ(英: mimosa)とは本来はマメ科の植物であるオジギソウを指すラテン語名でした。葉に刺激を与えると古代ギリシアの身振り劇ミモス mimos (マイム、パントマイムの前身)のように動くことからこの名がついたのです。なんと、パントマイムの「マイム」が、「ミモザ」になったなんて、面白いですね。

投稿者 fujimori : 18:35 | コメント (0)