三宅島

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 昨日のブログに書きましたが、長崎では、漁船を運転する貴重な体験をさせてもらいました。海は内海で、波はほとんどなく、凪いでいました。その海をいつも航行していることと、漁船といっても、真珠養殖のためということもあって、隣で運転を見守ってくれた人は、とても優しく、穏やかな人で、海の荒くれ男という感じではありませんでした。しかし、こんな静かな海でも、時には、3メートル以上の波に立ち向かわなければならないときもあるそうです。それは、何も台風のときだけでなく、風が吹いただけのときでも荒れるときがあり、前から波がかぶさり、また、船が大きく揺れ、必死で舵を取るそうです。きっと、穏やかに見えたのは、その日の海の状態を映していたのでしょう。そんなときは、素人の私でも運転できます。しかし、狭い島の間を縫って走るとき、舵を取られそうになり島に近づきすぎたときは、横からそっと舵に手を添えてくれます。人は、いつも穏やかな状態の中だけで生きていくことはできません。時には、荒々しい状況のときもありますし、転覆しそうなときもあるでしょう。これを乗り切るときは、それなりの知識と、経験が必要なのでしょう。また、漁師としての資質も必要かもしれません。
私の園に、元気いっぱいの子がいました。少しもじっとしてはいません。別に乱暴というわけではなく、何しろ体を動かすのがすきなのです。ですから、みんなといっしょにじっと座っていたり、静かに長い間本を読むのは苦手のようです。その子が、卒園するときに、将来なりたいものを発表しました。「僕は、大きくなったら、三宅島で、お父さんのような漁師になりたいです。」と言ったのです。その子は、三宅島から、園の近くに避難してきている子でした。私は、その子が将来、三宅島で漁師になるのであるなら、このまま、元気で、体を思い切り動かし、じっとできないくらいのほうがいいのではないかと思いました。学校などでは、子どもはじっと座っていて、先生の話をじっと聞く子が「良い子」と思うようなところがあります。確かに、もし、この子が、将来なりたい職業が、「東京でサラリーマンになりたい。」としたら、もう少しじっとできないといけないかもしれません。どうも、誰でも同じような職業につくようなことを想定しすぎているのかもしれません。人は、それぞれ、違う職業に就き、そこで発揮できる能力が必要です。そして、それを認めてもらえて、自分の生きていく意味を感じるのです。
その子同様、近くには何人か三宅島から避難してきていました。そこで、園で、子どもたちの支援をすることになり、遊びの広場として園を解放したりしました。そうする中で、さまざまなボランティアの人が支援してくれることとなり、園では、その人たちに任せることにしました。そのような活動の中で、お年寄りたちが家に閉じこもってしまっていることに気がつきました。そこで、何回かお年寄りたちに「どうぞ、遊びに来てください。」「気軽に園に来てください。」と誘いましたが、なかなか出てはきません。そこで、ある工夫をしました。園庭の隅に、角材で正方形に囲った畑を作りました。そして、「どうか、畑でどうしたらよいかわからないので、助けてくれませんか?」と助けを求めたところ、三宅島で、農業で賞をとったことがあるといって、あるお年寄りが名乗り出てくれました。その後、三宅島に帰るまでの間、その畑で、いろいろなものを、子どもたちに指導しながら作ってくれました。雨の日も、雪の日も心配で見に来てくれました。病気になってしばらく休んだ後などは、来れなかったことのお詫びに来てくれました。まったくの好意で手伝ってもらっていたので、こちらのほうが恐縮してしまったほどでした。自分が生かせる場所があることが、生きがいなのでしょう。

大村湾

 昨日長崎から帰ってくるときに、メンバーの人たちの好意により、とても貴重な、エキサイティングな体験をさせてもらいました。宿泊して、研修したのは、琴海町というところです。琴海町は「きんかいちょう」と読みます。この町は、西彼杵郡に属していましたが、今年1月4日に長崎市に編入されました。この町は、大村湾に面しています。この辺の海は、湖のように穏やかで、青ではなくエメラルドグリーンの海面が広がっています。おだやかな波が海岸に打ち寄せるさまが琴の音色のようだとして、古来よりこの海を指して「琴の海(ことのうみ)」という別名があるので、「琴海町」と名づけたのでしょう。
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 大村湾は、長崎県本土のほぼ中央に位置する湾です。面積は琵琶湖のおよそ半分くらいだそうです。湾内の反対側には日本初の海上空港である長崎空港があり、昨日、その空港まで船で連れて行ってもらったのです。用意された船は「漁船」です。大村湾は、漁業面では、真珠とナマコが特産品として有名で、特に天然真珠は古来より有名だそうですが、今は、養殖真珠に取って代わっているそうです。乗せてもらった漁船も、真珠養殖の船なので船名は「寶珠丸」といいます。途中から、その船の運転をさせてもらいました。免許者が乗船していればいいそうで、横にいてもらい指示を受けながら舵を取らせてもらったのです。大村湾は、四方を陸に囲まれた、まるで湖のような「湾」で、外洋に通じるのはわずか2ヶ所の細い水路を通してのみです。平均の深さは、わずか約15mなので、ところどこに浅瀬があり、そこをよけての舵取りです。この大村湾には、スナメリというとても珍しいイルカの仲間が住んでいます。今回は、残念ながら見ることはできませんでしたが、スナメリは、どういうわけか大村湾から出て行かず、一生をこのせまい湾内で過ごすそうです。
 この湾の中を琴海町から空港まで直行しないで、寄り道をしました。「西海橋」の下をくぐったのです。この橋は、伊ノ浦(針尾)瀬戸に大きなアーチを描いて架かる橋です。建設当時は東洋一、世界第三位のアーチ橋だったそうです。そこに向かう途中、「遠くに見える3本の塔を目指してください!」といわれましたが、後で知ったのですが、それは大正11年に旧日本海軍が建てた無線塔で、真珠湾攻撃開始の無線(暗号は「ニイタカヤマノボレ」)を発信した塔だそうです。近くに行って、端の下をくぐるときに、舵を取られ、船が大きく揺れました。もう少し小さい船だと、転覆することがあるそうです。なんだか、舵を取りながら、ちょっとした荒波を乗り越えていく心境でした。どうしてかというと、この針尾瀬戸はとても狭く、流れが速く、迫力のある渦潮が見られるからです。大村湾と東シナ海を結ぶこの伊ノ浦瀬戸のうず潮は、特に春の大潮の頃が見頃といわれ、直径10メートルほどの大きなうずを巻く事もあるそうです。その荒波を乗り越え、橋の下をくぐってユーターンです。また、ないでいる湾の真ん中に出てから、船を止め、昼食を食べました。本当は、釣った魚をそこで料理をするのでしょうが、お弁当の刺身を食べながら、ちょっとした漁師気分です。その後、空港に横付けされました。こんな経験は、めったにできないですね。
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さるく

 昨年は、愛知万博で盛り上がりましたね。この世界博のほかに、さまざまな万国博覧会が行われます。花博とか、未来博などがありました。今来ている長崎では、私としては好みの博覧会が開かれています。「日本ではじめてのまち歩き博覧会」という「長崎さるく博‘06」です。今月開幕し、10月29日まで開催されます。長崎というまちは、西洋への唯一の窓口であった鎖国時代から明治時代に育まれた異国情緒、色濃く残る中国文化、キリシタンの殉教と復活の歴史、人類が忘れてはならない原爆の悲劇、これらが重層して奥深い個性を持っているといわれています。「さるく」とは、長崎の方言で「ぶらぶら歩く」という意味だそうです。こういう企画は、とてもいいなあと思います。「長崎の奥深さを再発見してもらおう」と、市民レベルの発想で企画されたそうです。ここには、マンモスの頭もありませんし、パビリオンもありません。しかし、まち自体が展示物であり、その町の歴史的建物がパビリオンであり、歴史がイベントなのです。
私の園では、「成長展」という行事があります。以前は、どこの園でもあるような「作品展」でした。年齢ごとにさまざまな作品を作って、展示していました。作品展の前の子どもたちは大変でした。その日のために、見栄えのよい?作品を子どもに造ってもらわなければならないからです。絵を描かせたり、工作をさせたり、共同作品を作ったり、そのほか何かないかと考えたものです。小さい年齢では、また違った悩みが出ました。大人の思うとおりの作品を作ってくれません。勝手に殴り書きをします。それをいかにも作品のように見せる工夫をします。そんなある年、「子どもにとっての本当の作品はなんだろうか?」ということを職員で話し合った結果、「1年間の中で、子どもの一番立派な作品は、子どもの成長した姿ではないか。」ということに気がつきました。絵にしても、「今、何が描けるかということでなく、どのように描けるようになったか。」ということが大切なことに気がついたのです。それを、保護者に見てもらうこととして、年度末のこの時期に「成長展」ということで、開催することになったのです。子ども成長を展示しながら、保護者にも、この1年で、子どもたちはどのような成長をしたかたずねます。子どもたちは、どの時期に、どんな絵を描いているのか、給食の中でなにが好きなのかをたずねたり、1年間でどのくらい身長が伸びたか、体重が増えたかも実感してもらいます。
 「長崎さるく博」でも、「自分の歩幅で歩く街に、普段気づかない街の姿を見つけることができるはずです。」と書かれています。マップ片手に自由気ままに歩く「遊さるく」が42コース、路地裏まで知り尽くしたさるくガイドが案内する「通さるく」は31コース、講座とガイドツアーがセットになった「学さるく」が74テーマ用意されています。この中で、特に「通さるく」が人気があって、週末は予約でいっぱいだそうです。コース名もなかなかいいです。南山手洋館や港が見える坂の散策は、「長崎は今日も異国だった」という名前のほか、「媽祖様(まそさま)と唐(とう)りゃんせ」「長崎はローマだった」「文人墨客も思案した?」「龍馬が見上げた長崎の空」などです。こんなイベントが、各地で行われるといいと思いますね。今回は行けませんでしたが、できれば、会期中に来て見たい企画です。

理論武装

 今日からの研修は、長崎で行われています。そのテーマは、「理論武装化計画」と書かれています。なんだか、面白いですね。誰に対して、武装化するのでしょうか。また、何を守るために武装化するのでしょうか。自分を守るためでしょうか。もちろん、そのタイトルは、大げさな書き方ですが、考えることがあります。厚生省が、制度を変えようと思ったとき、現場や教授たちにヒアリングをすることがあります。そのときのヒアリングを聞いていた人からこんな話を聞きました。厚生省がヒアリングをする相手は、医療関係と、福祉関係が主です。医療関係から話を聞いたときには、医師たちは、理系の最たるものなので、さまざまな資料と、研究データを持ってきて説明をします。しかも、理屈っぽい部分があるのですが、次々に筋道を立てて説明するそうです。その後に、保育問題について、保育関係者から意見を聞くことになり、各地の主任保育士さんたちに話してもらったそうです。「このように制度を変えることに対して、どう、思いますか?」「子どもは、国の宝ではないですか!」「?」「宝ですから、大切にしないと!」「どうすれば、いいのですか?」「だって、子どもって、かわいいですよね!」「えっ…」「情けないですよ、こんなことでは」「では、この制度は、どうなのですか?」「もっと、子どもを大切にするような制度にしないといけないのではないでしょうか。」こんなやり取りでは、保育の素人の議員さんや、行政マンには通じません。これに頷くのは、同じ業種の人だけです。「愛する」「大切」「かわいい」ということは、とても大切なことですが、それは感じ方であって、他人への説得にはそのような言葉は伝わりにくいものです。たとえば、このように言わないといけないと思います。「今の子どもたちは、こういう力が不足してきています。」「それはどうしてわかるのですか?」「この調査資料に現れています。」「そうするとどうなるのですか?」「これらの力が不足すると、研究では、このような子どもたちが事件を起こすことに関係してきていることが最近わかってきています。」「では、どうすればいいのですか?」「それには、こういう保育が必要となり、その保育を行うために、人的な配慮、このような研修、そして、このような検証が今後必要となるでしょう。」などです。
こんな本が出ています。「理論武装して部下を使い切れ!―強い上司になる30箇条」(松井健一 著)この本は、「仏(ほとけ)の笑顔で、理詰めで攻める。これほど恐く、頼れる上司はいない。」「管理者諸君。部下を納得させられないからダメなんだ!」などとあおっていますが、管理者の理論武装の必要性を説いています。しかし、理論武装には、怖さもあります。当人のみが勝手に筋道を立てて理解しているだけに留まり、相手側や第三者に対して何ら説得力を持ち合わせていない場合もあります。それは「へりくつ」です。また、梅田望夫氏が、講演会でこんなことを言ったそうです。「新しい現象に対し、古い感覚を総動員した理論武装で戦うな」これも理論武装ではありません。「理論とは、個々の事実や認識を、ある原理・原則によって統一的に、だれにでも納得できるように説明し、しかも実践の指針となりうるもの」(漢語林)なのです。ということで、理論的に武装することは、「誰でも納得」「実践の指針」が必要です。理屈っぽいと言うことは、非現実的なことばかり話したりしている人のことです。また、理論武装のできない人は、相手に利用されるだけ、正しい道から遠ざかる可能性もあります。相手と議論で勝つために理論武装するのではありません。仕事を円滑に進めるため、実践を効果的にするために理論武装が必要なのです。子どもを守るという仕事を、より質の高いものへ進めるために必要なのです。

メリーポピンズ

 昨日のブログで取り上げた映画は、すでに有名な「メリーポピンズ」と非常に似ています。これもミュージカル映画で有名ですが、原作は、「風にのってきたメアリー・ポピンズ」(P.L.トラヴァース著)から始まるシリーズ物です。やはり、原作と映画は少し違うようです。「桜町通り十七番地に住むバンクス家は、ご主人で銀行家のバンクスさんと、旧式だと人から思われる事が嫌いな優しいバンクス夫人、一番上の子どもジェインと、その次のマイケル、ふたごの赤ちゃんジョンとバーバラの6人家族です。そして、料理番のブリルばあやと、食卓の用意をするエレン、その他の色んな事をしてくれる(バンクスさんにいわせるとなまけものの)ロバートソン・アイが一緒にいます。さて、そんなバンクス家にやってきたのがメアリー・ポピンズ。東の風にのってやって来た不思議な女の人です。有無を言わせない威厳のある子どもあしらいと、素敵な不思議の数々。」設定などは映画と同じですが、昨日の映画と同様、原作が大きく違うのは、乳母とかナースというイギリス独特の保育者の保育をする態度です。原作は、どちらもわがままな子を厳しくしつけます。親は、ただ甘やかす存在として描かれています。しかし、厳しくという中に愛情があり、その本質を子どもは見抜きます。かわいがるということは、甘やかすことと違うということなのでしょう。しかし、最近の映画では、少し違います。子どもたちは、いろいろと心に影を持っています。そのほとんどは、愛に飢えているさびしい気持ちです。それを、乳母が受け止め、親にそれを気づかせるために現れ、子どもを救います。
 チム・チム・チェリーの歌でおなじみのこのミュージカルで、そのことを現している部分があります。メリーポピンズが乳母として子どもの家庭に来ることになったきっかけのところです。この場面は、親からみた子どもに対する接し方の理想像と、子どもからみた理想像とのギャップが表れていてとても興味深いものがあります。せりふの訳から見直してみましょう。
 「乳母を選ぶのは大仕事だ。洞察力と人を見る目が必要だ。」ということで両親は、乳母の募集の新聞広告を出すことになります。その文面は、
「募集!乳母。しっかり者でまじめな女性。イギリスの乳母は将軍。国の未来は彼女ら次第。頼もしい若者を育てるのは、乳母のきびしい手。イギリスの銀行は精密機械。家庭もそうあるべきだ。伝統、規律、そして規則が大切だ。でないと、混乱、破滅、すべてがめちゃくちゃだ。」
 これに対して子どもたちは、それを書き直します。自分たちが真に求める乳母像を描きます。その新聞広告の文面は、
「かわいい二人の子の乳母を求む。申し込む資格は、気立てが明るく、ゲームができて、親切で、気がきいて、やさしく、きれい。散歩の時はいつも、歌とお菓子。いじわるしないで。ひまし油なんか飲ませない。ママほどかわいがって。あんまりしからなければ、私たちもおとなしくします。」
あなたはどちらのタイプが必要だと思いますか?もちろん、ただ子どもが望むことをすればよいわけではありません。しかし、あまり使命感に燃えてしまうと、子どもから離れてしまいますね。

ふしぎなマチルダばあや

 映画を見た時、本を読んだ時、その内容にとても感動する場合、その作品が誰にとってもよいものであるほかに、自分だけに原因があることがあります。その多くの場合、自分の生きてきた人生において共感したり、自分の人生とダブって見たりと、その人の生きてきた過去や、いま生きている環境に関係することがあります。子どもという観点から映画を眺めて見ると、また違った感動や参考になることがあります。日曜日に見た映画もそうでした。原作は、「ふしぎなマチルダばあや」(クリスチアナ・ブランド著 原文では「NURSE MATILDA」)という本です。原作は読んだことがありませんが、映画と違う部分は、この主人公の子どもたちは兄弟が多いのですが、映画では7人のところ、原作では、30人以上いる設定です。また、映画では、母親は死んでしまっていますが、原作では、子どもたちの親のブラウン夫妻は「とっても優しい 善良な人たちなのだけど、子どもたちをやたらと甘やかしてしまい、とんでもない悪ガキぞろいにしてしまったダメな親」として描かれているようです。そこで、子どもたちはいたずらで、何人ものナースをやめさせてしまい、マチルダばあやがすこし過激な方法で子どもたちをしつけていくというものです。保育園のことをナーサリーと訳すことがありますが、ナースも看護師という意味だけではなく、「乳母」とか「保護者」という意味があります。この本の訳者によるあとがきにも、「子どもたちの一番たよりにしてよいもの、それをNURSEといいます」と書かれてあります。
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今回の映画の主人公のナニー・マクフィーを演じているのは、アカデミー賞主演女優賞をとったことのあるエマ・トンプソンであり、彼女は、原作に創作を加え、脚色し、自ら主人公を演じています。映画のストーリーは、母親が亡くなり、子どもたちは、その寂しさからいたずらが激しくなり、どんなナニーが来ても追い出してしまいます。そこに伝説の「ナニー・マクフィー」が来て、ステッキを床につくと、不思議なことが起こります。そして、レッスンが始まります。「夜は寝ること」「朝は起きること」、そして、「服を着替える」「人の話を聞く」などです。また、子どもを健全に育てるためにもいくつかのポイントが出てきます。「人にお願いします。と言うこと」、「野菜を食べること」、「自分で責任を取ること」。これらの内容は、当たり前のことですが、今の子どもにとても必要なことかもしれません。また、子どもに対する考え方でとても参考になる言葉が、映画のパンフレットに書いてあります。脚本家の「永田優子」さんの言葉です。「ナニー・マクフィーの魔法は、子どもたちを受け入れることから生まれる特別なものだ。時に大人は、子どもを従わせることに躍起になり、理解することを忘れてしまう。もちろんそれは、子どもたちに幸せな人生を生きてほしいという願いから来るものであり、愛情がなければできることではない。だが、その愛が、完璧なものでなかったら…。そこに弱さやゆがみが生じてしまえば、愛は間違った方向に進んでしまう。そして、弱く、ゆがんだ愛を受けた子どもたちは、自身の力で生きていく方法を見失ってしまうのだ。子どもたちに必要なのはどこまでも深く、厳しくも強い愛。」
 子どもに弱さやゆがみが見られるとき、それ自体に対応するのではなく、その原因を見、理解する必要があります。子どもによって、傷つくこと、ショックを受けるところは違います。ほかの子は大丈夫だったからという見方をしないで、その子がどのように感じているかを見ないといけないのです。

合羽橋

 園で、子どもクッキングをすることがあります。手打ちうどんとか、パン作りとかです。また、定期的にするものとして、「お米とぎ」もやります。家庭で炊く大きさの炊飯器分ですが、当番の子がといで、炊飯器にかけ、昼食のときに調理室で炊いたご飯と混ぜて食べます。また、誕生会の日のおやつを、その月に誕生日がある3,4,5歳児で作ります。その前の日に、その材料をその子たちで買いものに行きます。「のびちゃん、おつかいに行ってきてちょうだい!」とアニメ「ドラえもん」の中で、お母さんはすぐ買い物かごを、のび太にわたします。同じように、ジャイアンの家庭でも、サザエさんの家庭でもかつおくんにお使いを頼みます。昔は、買い物は子どもの役目でした。買うものを覚えていくこと、お店でその素材のよしあしを見分けること、買うものを注文すること、時には値段の交渉をすること、お金のやりとりをすること、などその中には様々なことが含まれていました。今は、残念ながらなかなかそんな環境はありませんが、できるだけそんな体験をするようにしています。
 同様に、大人も買い物は楽しいですね。毎年、調理の人と一緒に、合羽橋まで、買い物に行きます。私も楽しみですが、調理の3人もとても楽しみのようです。また、私が運転して車でいくのですが、道中の車の中も、話がゆっくりでき、お菓子などを食べたり、さながらピクニック気分です。毎年行くのは4月だったので、途中、靖国神社脇など通るときは、花見気分です。今年は、今日行ってきました。桜は終わっていましたが、神宮外苑や東宮御所あたりの新緑は、とてもきれいでした。
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 このあたりは、もともとは入谷たんぼ(低地で水たまりや沼が多く、農家は殆どレンコンを作っていた)の水を集めての川が、新堀川で、合羽橋、菊屋橋を経て蔵前の所で鳥越川(三味線堀から隅田川に注ぐ)に合流し隅田川につながっていました。どうして、合羽橋というかというと説が二つあるようです。1つめは、その辺りにその昔伊予新谷の城主の下屋敷があり、小身の侍や足軽が内職で作った雨合羽を、天気の良い日に近くの橋にズラリと干していたという、「雨合羽」説です。もう1つは、今から約180年前、合羽川太郎(本名合羽屋喜八)は、この辺りの水はけが悪く少しの雨ですぐ洪水になってしまうのを見かね、私財を投げ出して掘割工事を始めました。なかなか捗らない工事の様子を見ていた隅田川の河童達は、川太郎の善行に感動して夜な夜な工事を手伝ったそうです。そして、なぜか河童を見た人は運が開け、商売も繁盛したといいます。近くに通称「かっぱ寺」(曹源寺)があります。大正の頃から現在のような道具専門店街の形を取り始めて合羽橋と名付けられました。合羽橋道具街は、例えば、レストランを開店するコックさんやすし屋を始める板前さんが、食器から厨房器具、看板からユニフォームまですべて揃えることが出来、この業種としては日本一の問屋街です。包丁、鍋、冷凍、冷蔵庫、サンプル品、ショーウィンドウ、ケース、看板、いす、テーブル等々があります。そして、レトロ調、中華調さまざまです。今日も、すれ違う人たちは、専門のお店の人というより、外国人が、カメラを片手に歩いている姿の方が多く見えました。蝋細工の料理サンプル品が外国人に人気だそうです。

本の日

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 今日4月23日は、「世界 本の日」です。この日は、もともとは「サン・ジョルディの日」として親しまれており、愛と知性の文化運動として行われてきたものです。「サン・ジョルディの日」の由来は、スペイン・カタルーニャ地方のサン・ジョルディ伝説をもとにしており、悪獣のいけにえに差し出された王女を救った伝説の騎士、サン・ジョルディを愛の守護聖人としてたたえています。4月23日は彼が殉教した日で、いつしかこの日に本と花を贈りあって、愛する気持ちを伝え合うようになりました。また、この日は文豪として名高いセルバンテスとシェークスピアの命日でもあり、本との結びつきを強めております。日本でも4月23日に男性から女性に花を、女性から男性に本を贈るという知的でロマンチックな習慣は、現在、静かなブームになっています。そして、ユネスコ総会は、本は歴史的に知識の普及に最も有力なファクターであるとともに、その保存に最も正確な手段であることを考慮し、本にアクセスするすべての人々を啓蒙するだけでなく、世界中の文化的伝統をより豊かに共有する認識を広め、また理解、寛容、対話にもとづく人々の行いを鼓舞することに鑑み、4月23日を「世界・本と著作権の日」としたのです。日本でもこれに伴い、4月23日を「子ども読書の日」とすることが法律で定められています。そして、4月23日から5月12日が、毎年「こどもの読書週間」です。第48回の今年の標語は「魔法の国へのパスポート」です。
 本といえば、私は、小学生のころ本を読むのが好きでした。探偵ものとか、冒険物が特に好きでした。何年生のころか忘れましたが、「十五少年漂流記」が面白くて、時間があると読んでいました。母親から、「そんなに本ばかり読んでいないで、すこしは外に遊びに行きなさい!」と注意されたので、押入れに隠れて読んだり、寝るときにも布団の中にもぐって読んでいました。とうとう母親は腹を立てて、2階の窓からその本を隣の家の屋根に投げてしまいました。今だったら、本を読んでいたらほめられるのに、そのころは、テレビばかり見ていると同じ感覚だったのでしょうね。これは、誰でも読んだことがあるでしょうが、無人島に漂流した少年達が力を合わせて生活していく物語を描いていますね。原題は「二年間の休暇」といいます。この「十五少年漂流記」を、架空の未来に移して、エキセントクリックな状況の中で、少年たちの根源悪が噴出する小説「蝿の王」を大人になって読んだときに、やはり取り付かれた思い出があります。この作品は、ノーベル文学賞を受賞しています。題名の「蝿の王」とは、悪魔「ベルゼブブ」のことを指し、作品中では蝿が群がる豚の生首を「蝿の王」と形容しています。アメリカの陸軍幼年学校の生徒たちを乗せた飛行機が墜落した。とりあえず一命を取り留めた24人の少年たちは、近くの無人島へ漂着します。しかし彼らは、世間から隔絶されたこの島で、己の内に秘めた野性に目覚め、やがて理性と秩序を失ってゆく……。性・秩序・生命力を暗示する“ほら貝”を持つ文明支持派と、悪・死・無を象徴とする“蠅の王”を掲げる野性派に分裂してしまった少年たち。その間に目覚める、猜疑心、恐怖心、憎悪、闘争、そして殺戮??まるで人類が犯した過ちの歴史を忠実になぞるかのような彼らの姿を、鮮烈な映像で描き、人間性の奥に潜む“善と悪”に深く切り込んだ傑作といわれています。ただ、情緒的に美化されがちな子どもの世界を、冷静に見つめることができます。

子規

shikido.JPG子規堂
 松山に来ても、夕方着いて、夜講演して、朝帰るというのは、なんだかもったいない気がします。しかし、ほんの1時間くらいの合間に、急いで、見たいところには行きます。
今日の朝は、ホテルの近くの「子規堂」に行きました。子規堂は正宗寺境内にあり、かつて子規が17歳まで過ごした家の一部である8畳の書院をそのままここに移し、後世に長く保存しようと建てられたものです。昨日のブログで書いたとおり、秋山真之とは愛媛一中、共立学校で同級であり、子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説「坂の上の雲」です。また、子規は、東大では夏目漱石と同窓です。子規の春の句をひとつ。
「ねころんで書よむ人や春の草」(写生でも特異な才能を発揮した子規は、寝転んで本を読んでいる姿からだけでも、春を感じさせてくれます。)
「菜の花や小学校の昼げ時」(近くの小学校の入学式に参加したとき、花壇に菜の花がいっぱい咲いていました。春は、昼時は眠くなりそうですね。1年生は、午後の授業は、眠いでしょうね。)
こんなのどかな句を読んだ子規ですが、子規といえば印象に深いのは、壮絶な病との闘いです。これを考えると、少しくらいのつらさにくじける心が情けなくなります。死の二日前まで「日本」に連載していた「病牀六尺」を読むとつらくなります。「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死後の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る事も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。」「悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない」という強い意志を持って俳句、短歌、写生文、水彩画、茶の湯など次々と新しい対象を見つけ、その研究に没頭することによって生きる方を掴んできた子規でしたが、この病牀六尺という場を七年もの長い間ほとんど出ることなく過ごしたのです。
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 この子規が、野球殿堂に入っているのです。よく、名選手が殿堂入りをしたという話は聞きますが、子規は、「新世紀表彰」という部門で殿堂入りをしているのです。それは、松山にベースボールを伝えたのは、子規であり、作品の中で、さまざまなベースボールのルールや用語を日本語に訳しているからです。投者=ピッチャー、攫者=キャッチャー、本基=ホームベースなど用語が子規独自の訳語で紹介されています。子規の訳語の中で、打者、走者、飛球、直球など現在も使われています。
記者として従軍し、帰国の船中で喀血したのが28歳で、それ以降、死に対する意識とはいつも隣り合わせだったのかもしれませんが、その生き方には、強い意思が見られます。自分への天命が聞こえていたに違いありません。

坂の上

akiyama.jpg秋山好古と秋山真之
「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」これは、約4年間、産経新聞夕刊に連載された司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」の第一巻「あとがき」にある言葉です。「坂の上の雲」とは、封建の世から目覚めたばかりの幼い日本国家が、そこを登り詰めてさえ行けば、やがては手が届くと思い焦がれた欧米的近代国家というものを、「坂の上にたなびく一筋の雲」に例えた切なさと憧憬をこめた題名です。この話の主人公は、より日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いています。その中で、病床の子規を訪ねていた、真之が、こんな言葉を言います。
「経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」真之は、子規が俳句や短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしているのを知るに及び、自分も海軍の概念をひっくりかえそうとしていると告白します。軍艦は遠洋航海に出て帰ってくると、船底に「かきがら(=牡蠣の貝殻)」がいっぱいくっついて船足が随分と落ちてしまいます。人間も同じだと言ったのです。私は、昨年、ドイツのミュンヘンで行われた保育世界大会に参加しました。そのときのテーマが、「幼児教育とインクルージョン」でした。人は、さまざまなすり込みを持っています。園に男性保育者が職員として採用したとき、ある保護者から、「男性がいるのなら、サッカーくらいやってくれそうなものなのに。」と言われました。私は、「何で、男性ならサッカーなのですか?もしサッカーをやってほしいのなら、女性であっても要求すべきではないですか?」と答えたことがありました。同様に、最終的には個人差であるものに対して、世界のさまざまな場所では、さまざまな思い込みがあります。世界大会のときに、アメリカでは、「黒人と白人」に対する刷り込み、イギリスでは、「貧富の差」に対する刷り込み、ヨーロッパ全体では、「多国籍の人」に対する刷り込みがあることを知りました。その点、日本では、「年齢」による刷り込みが多いようです。通常は経験を積めば積むほど、知識が増え、知恵がつき、物事をうまく運べるようになります。保育者も、経験を積むことで、子どもを見る目が深くなります。しかし、年齢を増すことのマイナス面を意識するのはとても難しいことです。経験は、知恵という果実を実らせる一方で、自分の周りに既成概念という柵を作っていき、容易にその柵を越えようとしなくなります。ましてや、壊そうとは思いません。気がつくと、周りはどんどん開けてきていますし、どんどん変わってきています。早く出ないと、怖くて、本当に出ることができなくなると思いますよ。
 秋山兄弟、正岡子規、3人の故郷に来ています。以前のブログにも書いた(1月23日)松山です。