可能性

2006年3月5日 読売新聞にこんな記事が掲載されていました。読んだ方には、申し訳ありませんが、ぜひ、紹介したいので、読んでみてください。
「小学生時代。気が弱く、体も小さかった宮本さんは、格好のいじめの標的だった。筆箱や上履きが隠されるのは日常茶飯事。休み時間に後ろからけられることや、足に画びょうを刺されることも少なくなかった。中学に進み、最初にもらったオール1の通知表に、「やっぱり、おれはバカなんだ」と自分を見放した。義務教育を終えた時の通知表も、「2」が二つで、残りはすべて「1」だった。九九を全部言うことができなかった。中学卒業後は大工の道に進んだが、親方の指導は厳しく、すぐに手が飛んできた。理解者だった母親を16歳の時に病気で亡くし、17歳で大工をやめた。その翌年には父親も病死した。だが、20歳を迎えたころから人生の風向きが変わり始める。地元の建設会社に就職。後に結婚することになる純子さんと出会ったのも、このころだ。純子さんから、一本のビデオを手渡されたのは23歳の時。家に帰って再生すると、「光は波か、粒か」をテーマに、アインシュタインの理論を解説したテレビ番組が録画されていた。画面に吸い込まれ、我に返った時には90分の番組が終わっていた。「もっと知りたい」。味わったことのない気持ちでいっぱいになった。「物理学を勉強するには、大学に入らなくては」。直感的にこう思い、その一歩として定時制高校を受けようと決意した。夢への道は、九九のマスターから始まった。小学3年用のドリルを購入。中学3年までの数学と英語を独りで学んだ。「難しい知恵の輪を簡単に解くのを見て、やればできる人なのではと思ったんです」と、純子さんは振り返る。自宅に近い豊川高校の定時制に入学したのは24歳の春。物理学科のある名古屋大に志望を定めた。毎朝5時に起床し、出勤時間まで勉強。帰宅後も午前0時まで机に向かった。高校3年の3学期。大学入試センター試験で8割近い点を取り、名古屋大の理学部を受験した。合格を知った時のことは忘れられない。自宅の郵便受けに入っていたレタックスを恐る恐る開き、その中に自分の受験番号を見つけた。「不合格者の番号が掲載されてるのでは」と何度も確認した。27歳で名古屋大に入学した。学部と大学院で過ごした9年間。宇宙物理学を専攻し、素粒子などの研究に没頭した。在学中に結婚、長男も生まれた。初めは研究者になるつもりだったが、満ち足りた日々の中で別の思いが芽生えた。
 「自分の経験が一番役立つ仕事は教師ではないか。落ちこぼれだったから、生徒がどこでつまずくかがわかるし、いじめられた時の悔しさもよくわかる」母校に電話をかけ、教壇に立ちたいと願い出た。理科と数学の教員免許を持つ宮本さんは、週14時間の授業を担当している。つまずく生徒もいないわけではない。しかし、九九もできなかった自分に比べれば、間違いなく、全員がより大きな可能性を持っている。「子どもたちが目標を見つける手助けをしてやりたい」。23歳で初めて人生の目標をつかんだ新米教師の、それが新たな目標だ。」
 人間というものは、すごいものですね。子ども一人ひとりには、どれだけの可能性が秘められているかわかりません。そんな可能性を、一つずつ消していっているのは、実は、大人かもしれませんし、教師かもしれません。もう一度、目の前の子どもを見つめなおしてみようと思います。