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2006年03月31日 [近頃思うこと]
コミュニケーション力2
園や学校でコミュニケーション力が必要だと思うときの一つは、保護者とのコミュニケーションが取れないときです。元NHKアナウンサーの吉田たかよしさんは、次のように言っています。
「初対面の保護者と話しをするときは、一番大切なのは、「聞く」に徹することです。自分の情熱をわかってもらおうとして自分が話すことになりすぎている可能性があります。営業でもセールスの世界でも同じですが、もっとも大切なポイントは、こちらのセールスポイントを語るのではなく、相手のニーズを聞き出すことです。9割は聞くこと。話すことは1割。私たち人間の基本的要求は、情報を他人に話すことアウトプットと、他人から情報を聞くことインプットが、1対1の割合になるようにできています。ところが、メディアが発達した現代社会では、アウトプットがほとんどなくて、インプットばかりに偏ってしまっています。そこで、現代人のほとんどは、「自分の話を聞いてもらいたい。」という根源的な欲求が満たされずにいるわけです。この「話したい」という欲求を解消しない限り、次のステップには進めないと思います。」彼は、アナウンサーを勤めた後、医師免許を取り現在クリニック院長ですので、このようなコミュニケーションのとり方を医療の世界からも言及しています。
「医療というのは、アウトプット中心の世界。手当てをしたり、注射をしたり、処方箋を書いたり、生活所の指導をしたりというのは、医者から見ればアウトプットです。しかし、それより大事なのはインプットのほう、つまり、患者さんから正確に悩みを聞いてあげることなのです。「正しく悩みを聞くことができれば、病気の半分以上は治ったのも同じ」というのは、医療の世界では戒めとして語られていることです。医療の専門用語では「デブリーフィング」といいますが、医者が患者さんの悩みや症状を正確に聞きだすことで自然治癒効果が働くというのは、医療の世界ではよくいわれています。」(学研「すまいる」より)
そういえば、ずいぶん前の話になりますが、ヨーロッパの福祉事情視察で厚生省の人たちとヨーロッパに行ったとき、メンバーの一人が具合が悪くなって、医者を呼んだことがありました。あとで、何をしたか聞いたところ、診察時間の9割が話を聞いただけだといっていたのを思い出しました。考えてみると、それは症状を正確に聞き取るというだけでなく、旅行先でその人が具合が悪くなったのは、精神的な部分が大きかったので、話を聞いてあげることが治療のひとつだったのでしょうね。だから、「医は仁術」といわれる所以でしょう。どうも最近の医者の中には、ただ検査結果だけを見て、患者の顔も診ずに病名を伝え、処置方法を伝えるだけという人もいるようです。時間がなく、忙しい世の中ということもあるのでしょうが。同様に、福祉、教育はアウトプットの世界です。しかし、まず、子どもの話をよく聞き、子どもの様子をよく見、保護者の話をよく聞くインプットが重要でしょう。保護者の中には、苦情や文句を言うときに、その内容を伝えたいというよりも、話を聞いてもらいたいということがあるかもしれません。子どもも、話を聞いてもらいたい、関わってもらいたいというサインを「わるさ」をすることで表現していることがあるのでしょう。「仁」は孔子が、「ひとをひととして扱う心構え」と名づけたことに始まるといわれます。「教育は、仁術」だと思います。
投稿者 fujimori : 17:44 | コメント (0)
2006年03月30日 [近頃思うこと]
コミュニケーション力
中教審は1年にわたり次期指導要領について議論を続けてきました。そして、出された原案では、日本の子どもの学力について、04年12月に公表された国際学力調査の結果をもとに、成績低位層が増加する「二極化」が進行していると分析しています。なかでも、読解力や記述式問題に課題があるなど、学力の低下傾向があると認めています。また、学習や職業に対して無気力な子どもが増えているとも指摘しています。そして、これを補うため、次の指導要領では、言葉や体験などの学習や生活の基盤づくりを重視する「言葉の力」を、すべての教育活動の基本的な考え方にすると明記しているのです。その内容を、原案では「言葉は、確かな学力を形成するための基盤。他者を理解し、自分を表現し、社会と対話するための手段で、知的活動や感性・情緒の基盤となる」と説明しています。これを、各教科にどう反映させていくかについては、○古典の音読・暗記や要約力の促進(国語)○数量的なデータを解釈してグラフ化したり、仮説を立てて実験・評価したりする(数学・理科)○感性を高めて思考・判断し表現する力(音楽・美術)――などを例示し、国語力の育成と関連づけた論理的思考力や表現力の重要性を強調しています。
確かに、日本の子どもたちは、コミュニケーション能力が最近欠けてきているといわれています。また、他人に自分の考えを伝えるプレゼンテーション能力に欠けているということは、昔から言われています。最近、就職をするうえで、会社が特に重視する能力として、このコミュニケーション力とか、プレゼンテーション能力が求められてきているように、これからの時代に必要な力とも言われています。これは、日本人特有の性格や、習慣によるものがありますが、少子化の影響によるところが大きい気がします。親に、自分の考えを言わなくてもわかってもらえます。訴えなくても、先にかなえてくれます。赤ちゃんのコミュニケーションとして「泣く」ということも、泣かせるとかわいそうということで、泣く前に欲求をかなえようとしてしまいますし、赤ちゃんのほうも、何度も泣いたり、長く泣く必要もありません。一生懸命に伝える必要がなくなっています。それだけ、子どもをよく見る時間があることや、手をかけられる時間があるようになったということが、ある部分の力をなくしていることにもなります。昨日、ある出版社から取材がありました。テーマは、「幼児期の子どもに、どうしたらコミュニケーション力をつけることができるか。」で、保護者用の本の記事だということでした。私は、二つの観点を言いました。一つは、以前にブログでも書いたように、話させようとする前に、大人が聞こうとすることが大切であるということ。もう一つの観点は、脳科学的に、最近、このコミュニケーション力は、「前頭葉」の働きによるものであるということがわかってきています。そこで、ただ、コミュニケーションをつけようとするのではなく、乳児の頃はやさしく語りかけ、スキンシップを図り、いっしょに運動をし、なるべくテレビやゲームに子守をさせず会話をし、など話してきたら、何ということはありません。子どもにとって、良いということをしていれば、結果的にコミュニケーション力もついてくるという話になりました。基本的には、正常な関係性発達をした結果です。教育の中で、ただ伝える手段をどう学ばせようかという話しだけにはしないでほしいと思います。また、英語も、伝える手段だけを教えるようになってほしくはないですね。
投稿者 fujimori : 17:05 | コメント (1)
2006年03月29日 [記念日]
日食

今日、皆既日食がありました。日食、月食というと、いくつか思い出があります。ひとつは、私が中学生の頃です。中学で地学という授業があります。その中で、その教科担任から「皆既日食を、地球と月の直径から見える大きさを割り出して、徐々にかけていく太陽を書きなさい」という宿題を出されました。しかし、中学生の頃は、見た目の太陽と月の直径比(本当は、日食が起きるのは、太陽と月の見かけの大きさ(視直径)がほとんど同じだからです)がわかりませんでしたし、自転、公転から欠けていく速度が割り出されます。どうすればよいか困った結果、専門家に聞きに行くことにしました。私の中学が神田にあったので、その駅には、銀座線が走っており、その終点は渋谷です。そこには、今はなくなってしまいましたが、五島プラネタリウムがありました。そこに聞きに行ったのです。何日か通ううちに、顔パスで入れてもらえるようになりました。そして、それが、天体が好きになったきっかけかもしれません。
そんなわけで、天体のことにも興味を持ち、以前のブログ(12月1日)で書きましたが、小学校の教員の頃に、子どもたちにギリシャ神話を話して聞かせ、その結末の星座を天井に貼っていったのです。そんなわけで、地域のボーイスカウトや、子ども会で、星の話をするように頼まれました。そんなある日、私の家(当時、一人で住んでいました)に、ある中学生が尋ねてきました。そして、こう言ったのです。「ぼくたちは、中学校で、自主的に天文研究会を作りました。先生に、ぜひ、その会の顧問をやってもらいたいのですが。」クラブではない、自主的な集まりなので、私に話を持ってきたのです。そこで、その会の顧問をやることにしました。会の活動としては、例会として、私の家で、会員に天体についてのテストをします。そして、答え合わせをしながら解説をしていきます。もう一つの活動は、日食と、月食の観察です。日食は昼間なので、学校なりで観察すればいいのですが、月食は夜中のことが多いです。ちょうど、そのころ月食があったので、私の家にみんな集まって、夜中に欠けていく月を天体望遠鏡を見ながら、時間を決めて写生をしました。こんなことも、いまだったら、学校から怒られてしまうかもしれませんね。しかし、今でも、そのときの会長を勤めていた中学生から、年賀状が届きます。
今日のの皆既日食は、皆既継続時間が4分以上ありますが、それが見られるのは、アフリカから中央アジアにかけて見られました。ですから、見るためには、そこに泊りがけで行かないとなりませんね。しかし、今は、ありがたいことに、その姿をリアルタイムで「観察」する手段があるのです。その手段とは、インターネットによる中継です。「非営利団体ライブ!ユニバース」によるプロジェクト「LIVE! ECLIPSE 2006」ではリビア、エジプト、トルコの3ヶ所から中継をしました。リビアからは、ぐるっと、周りを見渡せるようになっています。また、実際と違うところは、あたりが暗くなることでかんじるのではなく、純粋に刻々と黒くなっていく太陽自体を眺めることができることです。この3箇所からのライブを見ていて、映像は、あまり安定はしなかったので、あちらこちらを見ていたところ、トルコからの映像で、しっかりとコロナも見ることができました。とても感動しました。すごい時代になったものです。
投稿者 fujimori : 20:27 | コメント (0)
2006年03月28日 [近頃思うこと]
年度
そろそろ、今年度が終わりになります。よく、年末に忘年会をやるときの挨拶で、「今年1年間、お世話になりました。来年もよろしくお願いします。」というのがありますが、何で年末かというと、年が開けると借金が棒引きになるという話を聞いたことがあります。また、新年になると、年齢も一つ上がりました。いわゆる数え年で計算するからです。しかし、世の中的には、「今年度お世話になりました。」とか、「今年度よろしくお願いします。」のほうが、実感があります。なぜかというと、年度替りが、子どもたちは学年が一つあがり、職員は卒業の関係で新入や移動があるからです。その年度の区切りを、学校では、学年といいます。これは、学校で定められた、1年間を単位とした修学の期間のことです。ということで、期間を表す意味で「学年」を用いる場合、ニュアンスとしては年度とほぼ同義に使われます。日本では普通、学年は4月に始まり、3月に終わり、アメリカなどの欧米では、9月に始まるのが一般的であることは有名ですね。また、同学年というように、学年がある集団をあらわす場合は、多くの人が学齢によって義務教育を受ける日本では、ある年の4月2日~翌年の4月1日までに生まれた人全てを指して、「学年」と言います。日本では、特に義務教育段階にあっては原級留置(落第)の例がほとんど見られないため、「学年」ということばがそのまま年齢と直接関連します。従って、一般に「同じ学年」であることは、「同じ年齢である」と考えられます。また、生まれる年が1年違っていても、その人が1月1日~4月1日の生まれ(これを俗に早生まれという)であれば同じ学年になります。逆に、生まれ年が同じであっても早生まれであると、学年が1つ上になることから「同じ年」という認識が薄くなります。このような用い方での「学年」は、義務教育段階のみならず、就学前の幼児や、義務教育期後の大人に対しても用いられます。すなわち、「学年」は、修学期間あるいは入学年度で区別された、児童・生徒・学生の集団のことなのです。したがって、「学年」という言葉には「階層」のニュアンスが入ってきます。ですから、日本では、なかなか原級留置は理解されません。それが、多くの高校や大学になると、学ぶ内容が周知されたかということが評価になるので、学年よりも単位制をとります。これは、学年制といわれるような、各学年での教育課程の修了を繰り返すことによって学習していく方式に対して、授業科目を単位と呼ばれる学習時間数に区分して修得していく方式のことです。一般的に、単位制は、授業科目ごとに取得できる単位数が決まっており、卒業時に必要単位数がそろっているかどうかで卒業を判定することが多くなります。
そう考えてみると、幼児教育でも、この学校制度にならって学年制を基本にしますが、どうも、単位制のほうがいい気がします。というのは、学校教育法に書かれている幼児教育は、「発達を助長するところである」としたら、教育課程の修了を繰り返すというより、個人別に、発達内容を、きちんと踏み固めていくということに意味があるからです。たとえば、5領域の発達項目を単位と考えて、どの子も卒園までに、必要単位数をそろえて、学校に送り出すと考えるのはどうでしょうか。発達は、生年月日の区切りでしていくものでもなく、また、発達は、教えるものではないので、大人側から決められないからです。子どもにとって、卒園児以外は、年度替りは、次の日になるだけです。
投稿者 fujimori : 18:35 | コメント (0)
2006年03月27日 [旅先にて]
桜祭り

最近、各地から桜便りが届きますね。私も、少し早いのですが、枝垂桜を見に行ってきました。桜祭りというと、日本だけではなく、アメリカでも各地で行われます。一番有名なのは、首都ワシントンのポトマック河畔に咲き乱れる数千本の桜です。当時東京市長を務めていた尾崎行雄がアメリカに日本の桜を送ろうと活動したので有名ですね。この時のお礼として、アメリカから贈られたのがハナミズキでした。ほかにも、桜祭りのフェスティバルは、シアトルやホノルルでも行われます。シアトル桜祭に、かつて、私の園と園児の写真が展示され、当時のシアトル市長から感謝状をいただいたことがありました。そのいきさつは、面白いきっかけからです。カナダからの帰りの飛行機の中のことでした。当時、私はタバコを吸っていました。その頃は、飛行機の座席は、禁煙席と、喫煙席に分かれていて、機内でタバコを吸うことができました。私がタバコを吸っていると、突然、前の座席の人が振り返って、英語で怒鳴り始めました。私は、何を言っているのか、何を怒っているのかわかりませんでした。途方にくれていると、私の席の隣の人(アメリカの人)が、英語で、その人に向かって話し始めました。すると、突然おとなしくなって、席に座りました。何を言ったのか不思議でしたが、やさしい英語で、説明をしてくれました。私たちの席と、前列の間がちょうど喫煙席と禁煙席の境目だったのです。それが、きっかけでその人と話し始めました。私は、片言の英語でしたが、話題は、日本人の「美意識」についてでした。今考えると、ずいぶん難しい話をしたものです。しかし、なかなか英語が通じません。すると、遠くのほうに座っていた人が近寄ってきました。そして、私の隣の人に日本語で話しかけました。「先生、これから、どちらに行かれるのですか?」はなしかけた人は、アメリカ人です。「えっ、この隣の人は日本語がわかるのだ!」話しかけた人がいなくなってから、何で、あの人は日本語で話しかけたか聞いてみました。すると、あの人は、わざと自分が、日本語をこんなに話せるようになったと自慢したくて、日本語で話しかけたのだと言います。実は、自分も日本語は話せるが、いかにも自慢げなので、英語で話をしたと言いました。ということで、それから先は、日本語での会話です。話は、川端康成が自殺をした話になり、私は、三島由紀夫の自殺から、美意識の象徴が、三島の「憂国」という小説の中にあるような、真っ白い着物のすそのほうから、真っ赤な血がにじみあがってくる美を三島は言いたかったのではないか。そして、私の見解として、同様に日本の美を表現しようとした川端は、最後に日本の切腹に通じる自殺を図ったのではないかということで議論になりました。そして、私は、この美意識は、日本人でなければわからないかもしれないという失礼なことを言いました。しかし、相手の最後の一言で、これはかなわないと脱帽しました。なんと、先方は最後にこういいました。「じつは、私は、川端の自殺の前日に、本人に会って話をしているのです。」これは、かないませんね。そして、今回の日本への行く目的は、能の野村万象に会いに行くのだと言います。そして、私は、園長をしているということになり、園と園児の写真を見せると、「私は、日本では、田園調布のセブンアップアジア総代理店社長の家に滞在しているので、一度、遊びに来ませんか?」ということで訪ね、その写真を、シアトルチェリーブロッサムフェスティバルで展示をすることになったのです。私が、タバコを吸っていて、唯一よかったことでしょうか。
投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (1)
2006年03月26日 [散歩]
ご当地B級料理
各地では、町おこしのためにいろいろな企画をしています。その中で、食べ物に関しての町おこしがあります。そんな全国的な知名度はないものの、地元で愛され続けている「ご当地B級グルメ(料理)」が集まり王座を決める「B―1グランプリ」が2月18日、青森県八戸市で行われました。各地から十品が参戦しました。そして、ここで入場者が使ったはしを、気に入った料理に投票し、グランプリを決めます。このB―1グランプリは、八戸市周辺の郷土料理「せんべい汁」の普及を目指す市民団体が「各地のご当地料理が手を組んで、地域おこしにつなげよう」と発案しました。そして、次回の開催権は、グランプリを獲得した「ご当地」に与えられます。人気投票の結果、グランプリは静岡県富士宮市の「富士宮やきそば」が獲得、来年の第二回グランプリは同市で開催することが決定しました。そのほかの成績は次の通りです。
(2)横手やきそば(秋田・横手市)(3)室蘭焼とり(北海道・室蘭市)(4)八戸せんべい汁(青森・八戸市)(5)小倉発祥焼うどん(福岡・北九州市)(6)青森生姜味噌おでん(青森市)(7)とうふちくわ(鳥取・鳥取市)(8)富良野カレー(北海道・富良野市)(9)久留米やきとり(福岡・久留米市)(10)浜焼き鯖(福井・小浜市)
各地に行くことはあるのですが、どれも食べたことはないですね。ただ、ちょうどブログ(2月21日)で書いた小倉の焼きうどんが5位になりました。その時に、こだわる条件を書きましたが、同じように1位になった「富士宮のやきそば」も、調理方法で、12の特徴があるそうです。1.富士宮流やきそば蒸し麺 2.油は、ラード 3.「肉かす」をくわえる(一般的には、「肉」「天かす」など) 4.イワシの「削り粉(だし粉)」をふりかける 5.キャベツは、富士宮の高原キャベツで「秋キャベツ」 6.辛口ソース 7.紅ショウガをそえる 8.トッピングは、各店で工夫 9.富士山の湧水を用いる 10.厚くて大きい鉄板を用いる 11.焼き方は、店の主人が焼いても、客が焼いても可 12.食べ方は、皿でも熱い鉄板でも好き好き だそうです。ただ、これはあくまでも基本で、各店で工夫をしているそうです。
これは、焼きそば好きの私としては、ぜひ行って、食べてみたいと思って、富士宮に行ってきました。ラーメンもよく食べ歩きますが、結局は、どれがおいしいといっても、それぞれ味の好みがあるので、一概には言えませんね。富士宮焼きそばは、私のこだわりである「天かすを加える」「鉄板で焼く」が入っているので、美味しかったです。しかし、味の好みは、年齢によって、そのときの体調によって、もっと、微妙なことをいえば、そのときの精神状態によって変わってくるものです。その点で、集団給食の中ではなかなか難しいのですが、本当は、今日はちょっと疲れるような活動をしたので、甘口にしようとか、1日じめじめしているので、気分が晴れるような鮮やかな色彩の盛り付けにしようとか、そんな工夫ができると良いですね。また、昨日の夕食は少し重いものだったので、朝食は、胃に負担のないようなものにしようとか、その都度の食事だけではなく、1日すべての、また数日間のトータルな見通しの中での献立も必要でしょう。したがって、一食の、残菜が多いとか、食べる量が少ないからと一喜一憂する必要なないと思うのですが、やたらと給食だけで栄養を満たそうとか、好き嫌いをなくそうとする先生の使命感は強いですね。結果は、かえって好き嫌いを作っていることに気づいていないのでしょうね。
投稿者 fujimori : 20:22 | コメント (1)
2006年03月25日 [近頃思うこと]
動線その2
小学校での永遠の週目標に、「廊下を走らないこと!」というのがあります。定番ですね。しかし、私が勤めた小学校の中に、それがいちども週目標にならなかった学校がありました。その学校では、子どもたちは、廊下を走らなかったからです。なぜでしょう。その学校は、しつけができていたからでしょうか。いいえ、それは、その校舎が、敷地の都合で、折れ曲がっていたからです。当然、廊下も途中で折れ曲がっています。廊下の見通しがとても悪く、向こうから誰が来るか直前までわかりません。すると子どもは走りません。

また、私の園の近くの地域でこんなことがありました。この地が開発されてしばらくしてからのことです。ここには、シンボルとして、「せせらぎ」があります。静かに川が流れています。(この計画は、建設大臣賞を受賞しました。)「せせらぎ」は長池見附橋の下の池から流れ出て、この地方で、かつて雑木林の丘陵の間を流れていたせせらぎの姿を再現しています。このせせらぎは、地域の里山における自然の保水機能でもあったのです。この「せせらぎ」が、下流に下ってくると、渓流風の造りから現代的な造形の水路へと姿を変えます。このせせらぎができた頃、よく、水路へと変わるあたりで水の中に落ちる人が何人か出ました。ある人は、子どもを自転車に乗せて走っていて、そのまま落ちる人もいました。もちろん、それほど深くないので、ぬれる程度でしたが。その時に地域のメーリングリストにこのことが話題になりました。この川に柵をつけるべきだ。いや、景観をそこねるのでそれは避けるべきだ。気をつけるように立て札を立てて、注意を促すべきだ。それくらいは、自分で危険回避能力が必要ではないか。などなどです。そして、最後に、私が意見を求められました。私は、こう答えました。「川というものは、自然にその地形に沿って流れるものです。獣道もその地形に沿ってできるものです。人は、自分の心に沿って自然に歩くと、その川の流れや獣道に沿って歩くはずです。それが、人の歩く道になって行きます。それが、ある場所で川に落ちるということは、その場所が人の心に沿っていないということではないでしょうか。ということは、その川を設計した人がいけないと思います。設計者が、自分の趣味で計画をしてしまい、人の動線を読みきれていないのではないでしょうか。ですから、その場所は作り直さない限り、違う具体的な方法で防ぐしかないと思います。」結局は、突き当りに柵をすることにしました。
私の園に、子ども同士がよくぶつかる場所がありました。そこは、かどになっていて、トイレに走っていく子と、トイレから急いで戻ろうとする子がよくぶつかりました。子どもによく言って聞かせました。「ここは、危ないでしょ。向こうから誰が来るかわからないから、気をつけなさい!」しかし、子どもはすぐにそんなことは忘れてしまったり、あせっているとつい走ってしまいます。職員で話し合いをしました。飛び出し注意の標語を貼ろうか、カーブミラーをつけようか、もっと、子どもに何度も注意をしようか、などです。結果、ある方法をしたところ、その後、誰もぶつからなくなりました。それは、そのかどに植木を置いたのです。その植木があるために、当然、かどを大回りでまわらなくてはなりませんし、植木越しに向こうから来る子が見えます。人は、どうしても危ないと、ものを片付けようとします。すると、見通しがよくなって余計に走るようになったり、走ることができる直線距離が長くなりますし、走り回る空間ができてしまいます。それなのに、「走るな!」と言っても、無理ですよね。
投稿者 fujimori : 21:22 | コメント (1)
2006年03月24日 [近頃思うこと]
動線
「福岡県のある少学校では、給食後の食器の片付けを子どもたちがきちんとしないために、先生方がこれを子どもたちの「心の問題」ととらえ、子どもたちに対して「マナー」とか「食器を洗う人への思いやり」とか、さらには「食器さんがかわいそう」などということを連呼し、子どもたちの心や意識やモラルに働きかけようとしたことがあったそうだ。それでも顕著な改善が見られず、先生方が落胆していたところ、一人の先生が、「これは、食器を片付けるときの動線が悪いのではないか」ということに気づき、子どもたちがスムーズに動けるよう動線を直したところ、たちどころに片付けられるようになったという。」(「日本を滅ぼす教育論議」岡本薫著)
「ずいぶん前の話になるが、「子どもが落ち着いて一つのことに集中できなくて、いつもザワザワソワソワで、どうにかならないだろうか」と、ある保育園の園長さんから相談を受けた。早速、出かけてしばらく様子を見せてもらった。床の上でお絵かきをしているすぐ横を駈けぬけて行く子や、ままごと遊びのすぐ横でトランポリンで飛び跳ねている子がいる。ルーム形式の保育園で、異なる年齢の子が自由に遊べるようになっていて、それはそれでいいのだが、これでは確かにじっくりと落ち着いた遊びは、やりにくい。そこでぼくは問題点を指摘し、試みにその部屋の家具のレイアウトを変えるよう提案した。園長さんは、半信半疑の様子だったが、ぼくの提案は、お金がかかることでも多大な労力を要する仕事でもなかったので、子どもたちが帰宅しはじめたころから、数人の保母さんに号令をかけて家具の移動をやってみることになった。それまで、ほとんどの家具は四方の壁に背を向けていたのを、中心に引っぱり出して、間仕切りになるようにしたわけである。こうすることで随所にコーナーができ、子どもたちの動線をあらかじめ設定できる。翌日、早速、園長さんから電話がかかってきた。見事にこちらが予想した結果が得られたということだった。そして、それが驚くべき事実だと評価され、ほめられ、感謝されてしまった。しかし、こんなことは、建築デザインの仕事をやっていれば、誰もが知っていることなので、ぼくはただただ恐縮するばかりであった。そしてこういう知識は、保育の現場でも共有できていなければならないなと痛感した。」(「バリアフリーをつくる」光野有次著)
「動線」というのは、人や乗り物などが動く道筋のことです。建築物や、展示会場などの平面を機能的に計画する手法の一つです。動線と動線が交わらないで、目的地点に短い線で行けるのがよいとされています。建築物というのは、その建物にどのように近づいていくのか、建物のどの場所から入るのか、そして中に入るとどのように動いてどこに行って何をするのか、というように基本的に人が動く場所です。しかもその動くものは、園では、それぞれの年齢の子です。登園から降園まで、どのように子どもが生活をするかに関係します。そして職員がそれに対して、どのように動くか。最近は保護者だけでなく、地域の人も園の中に来ることが多くなるので、そういう人たちの動きも考えなければいけません。子どもが怪我をしたり、騒いだり、落ち着かなかったり、その問題の原因を簡単に「こころ」や「しつけ」の問題にするのではなく、まず、システムやさまざまな手段をを充分に検討しなければいけないのを、どうも手順を間違えてしまうことが、子どもの問題が、なかなか解決しない原因になっているかもしれませんね。
投稿者 fujimori : 17:45 | コメント (1)
2006年03月23日 [散歩]
水仙
道を歩いていると、2月の初め頃から咲き始めている花があります。それは、いろいろな種類の水仙です。水仙といえば、私の年代の団塊の世代が思い浮かべるものがあります。それは、「七つの水仙」です。今考えると、なぜ、七本の水仙でなかったのでしょうね。これは、ブラザース・フォーの名曲です。この頃、意味もよくわからずに、英語の歌詞を丸暗記した思い出があります。「アイメノ ハバマンション アイハブン エニランド」という具合です。本当は、
I may not have mansion, I haven't any land
Not even a paper dollar to crinkle in my hands
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils
です。また意味も当時は余り関心はありませんでした。英語の響きがよかったからです。改めて意味を訳してみると、
「僕には、豪邸も、土地もない。手の中でしわくちゃな紙幣一枚さえ無い。けれど、千もの丘に降りそそぐ朝を、君に見せてあげられるよ。そして、くちづけと、七つの水仙の花をあげよう。」こんな歌だったのですね。
また、水仙というと、この歌の題名のように英語では「ダフォディル」といいますが、学名はナルキッススで、そのいわれをほとんどの人は、知っているでしょう。「多くの男女の愛を受け入れなかったナルシスが、水を飲んで渇きをいやそうと泉にやってきて、水を飲もうとのぞき込むと、そこに美しい少年がいます。彼はその少年に恋をしてしまいました。ナルシスはもだえ、やつれてこの世を去ったのです。姉妹や仲間たちが彼の埋葬をしようとやってくると、泉のほとりに死体はなく、そこに一輪の水仙が咲いていた。」というものです。しかし、山の「こだま」のエコーがナルシスに失恋した話を知らない人は多いかもしれません。「エコーは森のニンフのひとりです。あるとき女神たちの最高位のヘーラーが、夫ゼウスの浮気の相手の森のニンフを追いかけていましたが、エコーが現れて色々なおしゃべりで引き止めるので、夫とニンフとも逃してしまいました。怒った女神はエコーに「おまえなんか短い言葉しかいえなくしてやる」と言って呪いをかけたので、エコーは他人の最後の言葉を返すことしかできなくなってしまいました。あるとき、エコーは森の中を歩いているナルシスを一目見て恋心にとらえられ、ひそかにあとをつけました。ナルシスは狩りの仲間とはぐれて一人になってしまって、不安になって「おおい、誰かいるかい」というとエコーが「いるよう」と応えた。「出ておいで」というと「出ておいで」と言うだけで姿はありません。そこでナルシスが「一緒になろうよ」というとうれしくなってエコーは「一緒になろうよ」といって木陰から姿を出してナルシスにかけより、両手で首に抱きつこうとしました。驚いたナルシスが「はなしてくれ、誰がおまえなんかの思い通りになるものか」と飛び退きました。恥ずかしくて悲しくなったエコーは山に逃げ帰り食事もとらずに嘆くうちにやつれてひからびて岩の一部になってしまいました。今でも山では、大きな声で叫ぶとエコーがこだまを返しています。」ギリシャ神話で、最後に星座になる話は多いですが、最後に花になったり、岩になるのは珍しいですね。
投稿者 fujimori : 18:07 | コメント (3)
2006年03月22日 [教員の頃]
教師として
WBCで日本が勝ってよかったですね。あの、アメリカの審判への不満がなければ、こんなに国民が喜ばなかったでしょう。あの審判は、大きな喜びのための演出だったのかもしれませんね。日本の多くの人が、この試合を見ていたと思います。ちょうど、休みの日の昼頃だったのでよかったですね。もし、夜中とか、明け方であれば、みんな寝不足になったでしょう。また、平日であれば、多くの人は、仕事の合間をぬって見ていた人も多かったに違いありません。また、もしかしたら、学校では、授業中に見ていた先生がいたかもしれません。ラジオで、そんなときに教師は、授業中に見てよいかというトークをやっていました。何日か前のブログへのコメントにも、小学校の頃の担任がタイガースファンで、給食が3時になってしまったことがあったという思い出が書いてありました。昔は、そんなことが許されるようなおおらかさが確かにあったと思います。しかし、私は、それはおかしいと思います。教室は、私にとっては神聖な場所であり、娯楽をする部屋ではありませんでした。教員の頃、私は、かなりのヘビースモーカーでしたが、決して教室ではタバコは吸いませんでした。こんなことは当たり前のような気がしますが、ずいぶん、吸っていた教師がいました。ただ、もう時効なので話しますが、もし今の時代だったら、怒られるようなことを教師の時代にした思い出があります。数日前にブログ(3月18日)で話した5年生を担任したあと、1年生を担任していたときのことです。3学期も終わる頃、そのときは6年生になっていた一人の男子生徒が、家の都合で引越しをしなければならなくなりました。あと1週間くらいで、小学校が終わります。しかし、家から通うには、遠すぎます。親から、どうしたらよいか相談を受けました。最後の小学校生活を送らせたいと言います。そこで、私はその頃は一人で住んでいたので、1週間、その男子生徒と私と二人で生活することにし、朝一緒に家を出て、学校のそばで分かれて知らん顔をして校舎に入って行ったのです。今は、そんなことは許されないでしょうね。
また、こんなことがありました。その頃、青少対(青少年対策委員会)で、夜のパトロールをしていました。夜、街で中学生がうろつくのを注意するためです。そのとき、パトロールがあるという情報が入ると、「わる」と呼ばれていた中学生たち数人を私のところで、パトロールが終わるまで、かくまっていたのです。(結局、その子達に、その後、夜、勉強を教えることになるのですが)パトロールで注意をして歩いても何の効果もなかったからです。取締りよりも、そんな子を作らないような予防措置を企画しましょうと青少対に提案しました。小学6年生を対象に、「地域ウォークラリー」を企画しました。まず、青少対は、中学校単位を基盤にしていますので、区域内に小学校が3校あります。その3校均等になるようにチームを作ります。そのチームで出発するときに記念写真を撮ります。そして、地図を見ながら3小学校区内のウォークラリーをしていきます。ところどころにあるポイントの問題は、その学区内の小学生なら簡単に解ける問題ですが、ほかの学区内の子どもには難しくできています。そして、ゴール地点は、着いてみないと解らないようになっていますが、行く中学校の校庭です。そこで、先輩たちがクラブごとに待っていて、6年生に指導してくれます。お父さんたちは、お昼の焼きそばを作っています。そして、出発のときに撮った写真を、手作りの額に入れてプレゼントします。その子たちと、中学に行って、また出会うでしょう。日を決めてのパトロールよりも、日常、地域みんなが見守っていることを子どもに感じてもらうほうが有効的でしょう。
投稿者 fujimori : 18:18 | コメント (1)
2006年03月21日 [散歩]
あかね雲
身の回りには、草木や鳥のほかに、星や風でも季節をかんじました。そのほか、空や雲でも感じることができます。入道雲では、真夏を感じ、うろこ雲では、秋をかんじます。また、雲は、季節だけではなく、時を感じることもできます。先日、あんずを見つけた日に、家路に向かいながら次第に日が沈み始めました。そのときの空に「あかね雲」が広がっていました。「あかねぐも」(茜雲)とは、朝日や夕日を浴びて茜色に照り映える雲のことです。朝日に限って言うと、東の方が赤くなるので、「東雲」(しののめ)といいますね。「あかね」というと、よく女の子の名前にもつけることがありますが、本来は、アカネ科の蔓性の多年草で、晩夏、多数の淡黄緑色の小花を円錐状につけます。その根は赤い染料に使われたり、薬用に使われたりします。ですから、「あかね」は、赤根からとった言葉です。また、「あかね」というと、また、学校時代を思い出すことがあります。「あかねさす○○○」という歌が多いですね。それは、茜色に鮮やかに照り映える意味から、「日」「昼」「紫」「君」などにかかる枕詞として、また、紫(古代紫)は赤みを帯びていることから、「紫」にかかる枕詞として、また、照り映えて美しいの意味から、「君」にかかる枕詞として使われたからです。この「あかね」を使って、茜色とか、あかね雲とかありますが、どうも、気象用語には、「あかね雲」は無いようです。もともと、雲は、いろいろな形や性質を持っています。そして、その雲の、形や性質に着目して分類し、いろいろな名前がついています。雲の名前の付け方は、時には学術的であったり、また時には地域の暮らしの模様をよくあらわしていたりしていますので、雲の名前を知ることで、その雲と人とのつながりを肌で感じることができます。そのなかで、世界気象機関(WMO)の国際雲図帳に定められた分け方は、とてもわかりやすいものです。この分類でいくと、10種すべてに2文字の略号を持っています。略号は、以下の用語を合成して作られています。10種雲形は、巻雲(Ci)・巻積雲(Cc)・巻層雲(Cs)・高積雲(Ac)・高層雲(As)・積雲(Cu)・層積雲(Sc)・乱層雲(Ns)・積乱雲(Cb)・層雲(St)です。この文字は、次のようなことを表しています。「C」は、circle(円)、circulation(循環)、「A」は、alto(高い)、「C」は、cumulus(積状の)、「S」は、stratus(層状の)、「N」は、nimbus(雨雲)です。ですから、高積雲は、Acとされ、「A」高い「c」積状の雲ということになります。ほかの呼び方として、雲の発生する場所に応じて呼び分ける方法があります。上層雲は、高度6000m以上の雲のことを言います。また、雲の形状では「もくもくタイプ」「べったりタイプ」「すじ雲タイプ」に分かれます。あと、見た目を重視して命名した「種」、雲片の配列や厚さで命名した「変種」、雲の一部に現れる形を重視した「副変種」があります。レンズ雲(レンズ様の形をしているため)などです。そのほか、日本は天候表現が豊かな国で、雲に関する和語が多いようですそれらは、何かにたとえてあることが多く、風流だとして俳諧などで用いられています。これに分類されるのが、すじ雲・うろこ雲・いわし雲・まだら雲・ひつじ雲・さば雲・雨雲・雪雲・くもり雲などがあります。あかね雲もその色から名づけられたのでしょう。もっと、カラフルなものは、彩雲というのもあります。雲は、そのときの気流や、気温などによって形状が分かれるために大体の形に分類されますが、子どもにとって、もっと自由な発想を生み出すものです。親子で、じっくり雲を眺めながら、何に見えるか言い合うのも楽しいですね。
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2006年03月20日 [散歩]
あんず
昨日の日曜日は、東京はとても風が強かったのですが、夕方、少し外を散歩しました。裏の公園を歩いていたのですが、まだ木々はつぼみが固く、雑木林は冬の様相でした。

雑木林を抜け、丘の上に上がってみると、花が満開に咲いている木が見えました。見た様子は、梅か、桜の一種の花のようです。なんだろうと思って近づいてみると、ラッキーなことに木に札が下がっていました。それは、「あんずの木」だったのです。あんずの木といえば、「あんずの里」で有名な長野県更埴市が有名ですね。ここにあんずがもたらされたのは、元禄時代といわれています。一説によれば、伊予宇和島藩主伊達宗利候の息女 豊姫が、第3代松代藩主真田幸道候にお輿入れの折、故郷の風情を偲ぶよすがにと、あんずの種子を持参したのが始まりとか言われています。当時は種子の中にある「杏仁」が、医薬品とて珍重され、松代藩が栽培を奨励したため、今日の姿になったそうです。この「杏仁」というのは、杏仁豆腐として有名ですね。この読み方を、どう読みますか?ほとんど、「あんにんどうふ」というと思いますが、本当は、「きょうにん」という呼び名が、いつのまにか「あんにん」にすり替わっていったようです。本来はアンズ類の種(杏仁(きょうにん)の粉から作るからです。しかし、今は、家庭では、牛乳にアーモンドエッセンスもしくはアマレットを加えて作られるようになっています。この杏仁が、医薬品として珍重された異常に、あんずには、さまざまな作用があります。あんずの持つ甘味はブドウ糖や果糖、酸味はリンゴ酸やクエン酸によるものです。こうした有機酸は、胃液の分泌を促進させて消化を助け、食欲を増してくれます。また、ビタミンではA(カロチン)が多く、ミネラルではリンと鉄が多く含まれています。しかし、日もちが悪いので、ジャムや缶詰、干しあんずにされますが、干しあんずには果糖が非常に多くハイカロリーなので、登山、遠足や激しい運動後などに2~3個食べるだけで元気が回復します。また緩下作用に優れていますので、便秘がちの人は、毎日食べるとよいといわれています。また、果肉に含まれているアミノ酸の一種のギャバは、脳の血行を良くする作用が知られていますので、脳動脈硬化症によるボケの予防の効果も十分に期待されます。また、昔からあんずは、冷え症に効くことで有名です。したがって、冷え症で虚弱体質の人は、あんず酒を就寝前に杯一杯飲めば、体が温まり、滋養強壮作用を発揮するといわれています。そんなことから、古く中国では、貧しい患者から治療費を取る代わりに、あんずの木を植えさせました。このことから、医者の事を杏林というようになったわけです。そのことから、「杏林大学」とか、「杏林薬局」とか命名します。「杏林大学」の案内にその名の由来が書いてありました。
「その昔、中国は櫨山というところに董奉(とうほう)という医師がいました。彼は人に尽くすために治療を行ってあえて治療代を受け取らず、その代わりに病気が治った人には、記念として杏の苗を植えてもらいました。そうして、いつしか10万余株の杏の木がうっそうと茂る大きな林ができあがったといわれています。この故事から後世良医のことを杏林と呼ぶようになりました。」
そんな「あんず」の木が、身近なところにあるなど、思いもよりませんでした。名札があったからよかったものの、危うく見逃すところでした。このブログも、身近なことを見逃さないための「名札」代わりになればいいと思っています。
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2006年03月19日 [教員の頃]
授業
私が、5年生の子どもから評価された授業とは、どのようなものかというと、簡単です。子どもたちからすると勉強という感じではなく、遊びのように感じた内容だったからです。当然ですよね。勉強など好きな子どもがいるわけはありません。というより、本当は、勉強なのですが。子どもたちは、5年生になると、勉強とは、机の前のじっと座り、教科書を説明する先生の声を聞き、その内容を覚えるものであると思っているからです。1年生を担任していた時もそうでしたが、私は、まず、学習指導要領を読んで、その学年で、どんな力をつけたいのかを知ります。その力をつけることが本来の目的で、その目的を達成するために教科書の内容を活用するというだけです。ですから、教科書を覚えても、その内容を理解しても、目的は達成されません。また、教科書の内容よりも、より学習指導要領に書かれている目的を達成するために有効的な教材があれば、それを使えばよい話です。この考え方が、今の保育の考え方を形作ったのかもしれません。たとえば、1学年及び2学年の国語の内容の取り扱いの中で、「読むこと」には、こう書いてあります。「昔話や童話などの読み聞かせを聞くこと,絵や写真などを見て想像を膨らませながら読むこと,自分の読みたい本を探して読むことなど」この内容を子どもたちに指導するときに、何で教科書を使わなければならないのでしょう。たとえば、教科書以外に、たくさんの昔話や童話を読み聞かせれば言いと思います。私が、1年生を担任しているときに、毎週、各都道府県の昔話の読み聞かせをしていました。最初に、全国の白地図を子どもに配り、教室の前には大きな白地図を貼り出し、私が読み聞かせをした都道府県の場所を赤く塗ります。1年生が終わるとき、(それは、同時に私がその学校をやめるとき)最後の北海道に伝わる昔話をして、日本中が真っ赤に塗りつぶされました。その最後の授業に、保護者たちが、みんなで連絡を取り合って、授業参観に来てくれました。そして、最後の話が終わったときに、みんなで拍手をしてくれました。そして、読み聞かせたあとで、1学期間は、絵で、2学期になってからは文字で感想文(感想絵)を書いてもらいました。このような内容を取り扱うのに、何で教科書にある昔話を読んで、まず、その話に出てくる新出漢字を覚えさせ、意味調べを宿題に出すのでしょう。5年生を担任したときもこんな考えでした。たとえば、算数の授業のときは、こんなことを子どもたちに言いました。「さあ、今日はつまらない授業は、やめにしよう。みんなで腕相撲大会をしようよ!」そして、私が生徒を順に呼んで、適当に戦わせました。私も入りました。終わってから、「さあ、誰が1番強かったか?」「先生!」当たり前です。全部、勝ったからです。「では、全員の順位は?」みんなは、考え込んでしまいました。勝った数で比べると、人によって戦った回数が違います。どうしたらよいか考えていると、ある子がこんなことを言いました。「そうだ、野球の打率のように勝率をそれぞれ出したら?」そうだということで、みんなで計算し始めました。私は全部勝ったので10割、一度も勝たなかった人は、0割。その出し方は、みんな打率の出し方を知っているので、打数割る打席です。そうして順位を決めました。終業のベルが鳴ったので、「さあ、今日の授業は終わり!」みんな、「ああ、楽しかった。」とつぶやいています。私は、5年生の算数の中で子どもたちが一番苦手とする「割合」の復習をしたのです。それを、「くらべる量÷もとにする量=割合」などと覚えても、どっちがどっちだったか考えてしまいます。身近に、そんなことはいっぱいあるのです。身近なところから覚えた知識は、身近なところで使えるようになるのです。
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2006年03月18日 [教員の頃]
年度末
私は、本来は、学校建築を研究するために学校に勤めたので、いろいろな学校の体験と、その頃の書籍等に紹介されている建物の学校に行けるようにと、産休代替、育休代替教員で学校に勤めました。そこで、いつの時期からか、何年生を受け持つかわかりません。ある年に、ちょうど今頃3月中旬に5年生を担任することになりました。そろそろ卒業式で、毎日その練習で明け暮れる日々です。そして、授業は、1年間のまとめです。そんなある日、校長から、来年度から育休制度ができたので、1年間やってほしいと言われました。そして、次年度、1年生を担任するように言われたのです。私は、びっくりしました。それは、1年生の担任のイメージは、ベテランの年配の方が多いと思っていたからです。それに比べて、私は、その頃は、独身、20歳代でしたし、経験年数は、その前の学校で産休代替教員として、4ヶ月だけです。しかも、この学校でも代替職員です。想像してみると、体育館で入学式をして、そこで校長から担任紹介があります。そして、「3組の担任は、○○先生。産休のため△△先生。」と私を紹介し、私が出て行きます。私は、校長に「いいのですか?私で。」と聞いたところ、「大丈夫です。前の学校で、1年生が上手だと聞いていますから。」そんなことを言われても、1年生しかしたことがないのですから。という訳で、1年生を4月から3月まで1年間担任することになったのです。その後、他の学校に行っても1年生のベテランということで、1年生を担任しました。(今の職業にとっては、ありがたい経験でした。)しかし、問題が起きました。2週間受け持った5年生が、私を6年になっても受け持たせろとストライキをしたのです。何とか説得しましたが、4月にはいって、毎朝黒板に「先生の裏切り者」とか、「私たちを見捨てた」と書かれたのには参りました。そこで、きちんと説明をして、6年生は、きちんとした担任の下で勉強をし、「卒業式の次の日にみんなでどこかに行こう!」と約束をしました。(みんなで約束どおり、高尾山にいきました。)それにしても、私は、みんなに聞いてみました。「何で、そんなに私がいいのか?」大きく、ふたつの体験があるといいます。ひとつは、給食のときでした。最初の日の給食のとき、前で食べている私の机のそばに、その日に休みの子のデザートが3個置いてありました。それを、新しい先生は、どうするのだろうと思ったそうです。まず、一番古いタイプですと、「給食費は、みんな同じ金額を払っていて、みんなはその分だけ食べている、ここに残っているのは、休んだ子が払った分だから、このまま返しなさい。」ちょっと若くなると、「いいから、これはみんなで分けて食べなさい。」というタイプです。一番若いタイプは、「これを誰が食べるかじゃんけんしよう。」と言って、先生もそのじゃんけんに参加します。子どもたちは、私はどの年齢のタイプかと思っていると、そのどのタイプでもなく、しかも、子どもたちからすると、一番望んでいたタイプだったといいます。私はどうしたかというと、みんなに、「私は一番体が大きいし、一番偉いのだから。」と言って、有無を言わせず、一人で全部食べてしまったのです。もちろん美味しそうだったからです。しかし、子どもたちからすると、変に子どもに媚をうったり、機嫌を取ったりする教師は、かえって信用しません。ちょうど「金八先生」が放映されていた頃だったと思いますが、自分たちと違う、尊敬できる存在を求めていたようです。もうひとつ、私が良かった理由は、授業が面白かったからだといいます。どんな授業をしたかは、明日話します。
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2006年03月17日 [近頃思うこと]
自然保全
多摩ニュータウンには、さまざまな自然保全型の公園が残されています。この辺りは多摩ニュータウンとして開発が進み、今では近代的な住宅地へと姿を変えているが、かつては多摩丘陵の直中に位置する山間の農村だった。いわゆる里山が広がっていました。そこには、狸がすみ、さまざまな自然にあふれていました。それを少しでも残そうと公園を作ったのです。その一つが、園のそばにある「長池公園」です。ここは、その当時から残る農業用水の溜め池とその周辺の里山の自然を残して整備したもので、里山文化の継承と住民コミュニティの形成が公園のテーマです。そのテーマの実現のために、園内に「長池ネイチャーセンター」がおかれ、その管理運営を地元のNPO「FUSION長池」が八王子市から業務委託を受けて行っています。(このNPOは、かなり全国で先駆けて作られ、さまざまな提案をし、理事長の富永氏は、全国で講演活動などをしています。私も、その設立に少し関係しています。)長池ネイチャーセンターの設計者は、野沢正光建築工房(「いわむらかずお絵本の丘美術館」の設計では、さまざまな賞を受賞しています。)で、建物自体にも工夫が凝らされており、その木造の外観が自然溢れる公園にマッチし、太陽熱を利用しての発電や冬場の暖房なども行われ、「自然環境との共生」がテーマです。同時に、「里山文化の継承と住民コミュニティの形成」もテーマになっています。
同様に、少しはなれたところに「小山内裏公園」という都立公園があります。(ここは、昨年、遠足で行ったところです。)ここも、指定管理者による管理を行っており、株式会社が指定を受けています。この公園は、多摩丘陵の骨格をなす主稜線上に位置し、北側は多摩川の支流太田川の源流部にあたり、現在でも湧水の湧く谷戸地形が良好な姿で保存されています。また公園の大部分は、多摩丘陵に特徴的な雑木林で覆われており、谷戸部分の湿性草地とともに良好な植生が維持され、多様な動植物が生息しています。また、民間に運営を委託しているので、さまざまなサークルが、この場所で活動をしています。バーベキューができたり、クラフト作りなどにも参加できます。
そして、もう一つが、先日行った「小山田緑地」です。ここは、丘陵地帯の一部を公園としたもので、都立の公園として開園しています。小山田に残された多摩丘陵の自然を緑地として保全しようという目的のためのもののようで、都市型の公園とはまったく趣が異なります。「小山田の牧」と名付けられたこの広場は12世紀頃に馬の放牧が行われていた牧場の遺構だそうです。
これら、かつての自然を残そうとする試みではありますが、実際は、かなり自然は壊されています。その様子は、ここを舞台にしたスタジオジブリ制作の劇場アニメ作品「平成狸合戦ぽんぽこ」に描かれています。開発が進む多摩ニュータウンを舞台に、狸が人間に対し抵抗を試みる様子を描く作品で、最後には、人間に敗れた狸が、ひっそりと昼間は人間の姿になって生きていくという話です。そのアニメにも映っている住都公団(当時)で建設された近代的な建物が、いま、構造のずさんさで、倒壊の危機があり、すべて修復工事やら、建て直しやらで大変な騒ぎです。映画には、本当は続きがあって、もしかしたら、戦いに勝ったのは、狸のほうだったような気がします。
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2006年03月16日 [近頃思うこと]
鳥類保護
鳥で思い出すのは、娘が小学生のときに、ボランティアで、「テグス拾い」に参加したことがあります。テグスはとても丈夫で釣りをするときには便利ですが、この丈夫さが鳥にとっては危険です。鳥の足や翼にからまると鳥自身では切ることもはずすこともできません。足にからまったテグスがだんだんしまり、血がかよわなくなった部分が腐ってとれてしまったり、長いテグスを引きずって飛んでいて電線や樹木に引っかかってしまうことがあります。また、テグスといっしょに針やエサがついているものもあり、これらをまちがって飲みこんで死んでしまう鳥もいます。野鳥にとって、水辺は食べ物をさがしたり水を飲んだり、水浴びをしたり、とても大切な場所です。その水辺で私たちは釣りを楽しみます。障害物に引っかかり、しかたなく糸を切ることもあるでしょう。 また、いつでも安く手に入るテグスを使い捨てにし、その場で捨ててしまう人もいます。 悪気の無し・有りに関わらず、そうやって放置されたテグスが鳥たちを苦しめているのです。そのテグスを拾って歩きました。無頓着な人間の行動が、思わないところで、自然を苦しめていることがあるのです。拾ったテグスの重さを量り、そこからテグスの長さに換算します。たとえば、2000年に690地点を調べ、333地点でテグスが見つかり、その長さは、67420.9mにもなりました。この活動は、「財団法人 日本鳥類保護連盟」が行っています。そういえば、かつて私は、ここ主催の「日中愛鳥教育交流視察団」の6名の団員の一人として、中国の江蘇省の南京市や蘇州市、上海市などを訪れたことがあります。話はそれますが、訪問したのは、年末(年末年始は、日本では学校が休みですが、中国では、旧正月を祝うため、年末年始は学校があります)だったので、蘇州の寒山寺の除夜の鐘を聞きました。ここは、唐の詩人張継の「楓橋夜泊」に詠まれた寺で、この寺の除夜の鐘を聞くと10年若返ると言われていて、12月31日は、日本人観光客で寺はあふれるようでしたし、その夜のパーティーもにぎやかでした。(日本人だけ)しかし、この詩は良いですね。「月落鳥啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船」(張継)しみじみと感じるのは、詩の内容だけでなく、学生の頃を思い出すからかもしれません。
話はそれましたが、私は、あまり鳥のことは知りませんが、鳥にも興味があります。できるだけ散歩するときは、双眼鏡を持って行きます。いまの園が開園するときの記念品には、ダンボールで作る鳥のえさ台でした。その頃、ダンボールで作る巣箱も園にはありました。これらは、やはり「日本鳥類保護連盟」のグッズです。
県や市の「木」について書いたことがありましたが、同様に、各都道府県ごとに都道府県の「鳥」が定められています。皆さんは、自分の都道府県が何の鳥か知っていますか?
日本の国鳥はみんな知っていると思います。キジですね。キジは、日本特産であるだけでなく,童話・文学・芸術などで親しまれ,勇気と母性愛に富むという点などの理由からだそうです。そういえば、園が開園した頃は、春になると、メスを呼んでいるのか、雄のキジの鳴き声がよく響いていました。また、園庭によくキジが飛んできましたし、あるときは、親子で来たこともありました。でも、知らない間に、土地の開発でいなくなってしまいました。キジも鳴かずば撃たれなかったのでしょうか。
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2006年03月15日 [近頃思うこと]
泣き声

春の兆しは、日ごとに増してきています。それは、風の温かさや、木の芽のふくらみや、小さく咲き始めた花々で感じることができます。そのほかにも、空の色、遠くに見える富士の雪、そして、空を飛ぶ鳥の姿です。春といえば、鶯を思い出しますが、私は、「しじゅうから」でも春を感じます。もちろん、しじゅうからは、渡り鳥ではないので、1年中見ることができますが、私は、なんとなく早春のイメージが強いです。それは、「椿にしじゅうから」という歌川広重の花鳥画を思い出すからかもしれません。
「しじゅうから」は、山から町まで広範囲に生息しています。冬には同じスズメ目シジュウカラ科の「コガラ」や「ヤマガラ」などと同一行動しています。春になると、高い木の上で早くから囀ります。首回りは黒ですが、紺色に光る背中の羽は灰緑で白線が入っています。胸元にはっきりしたネクタイをつけているようにみえます。ネクタイの幅が広いのが雄、細いのが雌です。大体、雀大の大きさです。漢字で書くと、「四十雀」と書きますね。(ちなみに「ヤマガラ」は、山雀と書きます。)鳴き声は「ツツピー ツツピー」と鳴きます。警戒音はジージーです。鳥は、鳴き声が様々あり、呼び方が違います。「さえずり」というと、主に繁殖期にする独特な鳴き方のことで、一般的にはオスが鳴きます。それを、ソングといいます。「地鳴き」とは、季節、年齢の区別のない鳴き方で、個体同士の合図に使われていると考えられています。コールといいます。「ぐぜり」というと、完成されたさえずりとは違い、はっきりせずつぶやくような鳴き方のことをいいます。これは、よく早春の鶯の鳴き声で聴くことができますね。その中で、面白いのが、「聞きなし」というものです。これは、さえずりを人の言葉にたとえたもののことです。有名なところでは、ホトトギスは「テッペンカケタカ」、ほおじろは「一筆啓上つかまつり候」または「札幌ラーメン味噌ラーメン」ふくろうは「ぼろ着て奉公」メジロは「ちるちるみちる」サシバは「キッス・ミー」です。人間の表現力というのは、すばらしいですね。よく聞いていると、本当にそのように聞こえてくるから不思議です。もっと身に迫るように聞こえたのは、しじゅうからで、「土地、金、欲しいよ(とち かね ほしいよ)」と鳴こえたそうです。他にも、ほととぎすが「特許許可局」メジロが、「長兵衛忠兵衛長忠兵衛」ウグイスが「法法華経」と聞こえます。
人間は、言葉をもっていますから、その内容は、人に伝わります。しかし、まだ話せない赤ちゃんの場合は、困りますよね。初めて親となると、泣き続ける赤ちゃんを前に、どうしてあげたら良いのか、何が言いたいのかわからず、ただおろおろし、自分たちの無力感を感じ、落胆してしまうことがあります。そこで、「赤ちゃんの泣き声分析器」というものが売られています。??(そういえば、少し前から、イヌやネコの鳴き声翻訳機が流行していますね。私は、これは、おもちゃかと思っていましたが、かなりのヒット商品だそうです。)、「赤ちゃんの泣き声分析器」は、何を言っているかわからない、生後10ケ月くらいまでの乳児が対象で、20秒程度で、①空腹 ②退屈 ③不快 ④眠気 ⑤ストレスの5パターンに分類してくれるそうです。1998年に、電気技師だったペドロ・モナガスさんが自分の子育ての体験から思いついたそうで、アメリカ、イギリス、フランス、韓国など7カ国で7万台が売れたそうです。かつては、そんなものがなくても、大体わかったものですが。また、対応が少しくらい違っても、赤ちゃんが我慢をしていたのでしょうね。
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2006年03月14日 [近頃思うこと]
気にするところ
日本の学校を取材する上でも大変さのひとつに「清潔」があることを先日のブログ(3月11日)で書きましたが、もうひとつ大変なことがあります。それは、個人情報の保護で、子どもの写真を撮ることが難しいということです。したがって、授業風景だとか、体操をしている姿とか、パソコンを操作したり、図書を読んでいる姿は、なかなかOKが出ません。かなり早めに計画すれば、保護者に手紙を出して、趣旨を理解してもらい、承諾を得るという過程を経ればいいのですが、それには、時間がかかってしまったり、承諾を得た保護者には、その後で、その子が写っていないとなると、また厄介なことになりかねません。そこで、遠景の、子どもが特定できないような後姿を撮るしかありません。すると、子どものいきいきした姿は見ることができませんし、あまり手元は写りません。そこで、そのような写真のときは、プロのモデルを使います。なんだか、やらせっぽくなりますね。なんだか面倒ですね。写真がいけないとなると、顔を出して町も歩けなくなりそうです。清潔と同様、ドイツでは、意外と無頓着です。よほど、カメラを顔に近づけて取らない限り、子どもを撮影しても気にしません。いたるところに、子どもの写真が貼ってありますし、いわゆる誕生表のような個人情報があってもあまり気にしません。また、危険箇所にしても私たちからみると、危ないところだらけの気がします。角はとがっていますし、階段は高いし、手すりは低いし、隙間の幅が大きいし、暖房機には柵もなくそのままですし、ぶつかりそうなものがいたるところに置いてあります。家庭では、そうだからといいます。しかし、清潔と同じに、日本ほど怪我が多くないようです。自分で防ぐ力をつけているからです。清潔にしても、個人情報にしても、紫外線にしても、危険箇所への配慮にしても、かなりいい加減のようです。そんないい加減な保育のように見えて、とても神経質なところがあります。たとえば、子どもたちが、紙やブロックで「武器」を作ることは全体に許しません。また、戦いごっこなど決してやらせません。ナチスの思い出があるから余計に神経質なのでしょう。日本では、子どもたちが、戦いのテレビゲームや映画、テレビを見ることに無頓着ですし、他の園などでは、よく戦いごっこをやっている子どもをよく見かけます。また、私から見ると戦いとしか見えない「けんか」を、子どもの成長には欠かせないと容認したり、勧める人もいます。靖国に行く行かないだけではなく、そんなことに無頓着の方が心配です。また、ドイツを含めて、世界で神経質なことに「テレビ」があります。子どものテレビの視聴時間は、日本は世界でもトップのほうです。「乳幼児のテレビ・ビデオ長時間視聴は危険です」と2004年に、日本小児科学会こどもの生活環境改善委員会が注意を喚起しています。米国小児科学会では、すでに、1999年に「2歳以下の乳幼児のテレビ視聴を禁止すべきだ」という勧告を出しています。そのほかに、ドイツで気にしているのは、就寝時間です。以前にブログ(2月17日)で書いたドイツ在住の「太郎君」は、中学生の頃は夜8時には寝ていたそうです。今、高校生になっても、なにもなければ9時から10時までには寝るそうです。日本では、これも無頓着ですね。幼児でも、10時でもまだ起きている子が多くいます。日本でも、4月「早寝早起き朝ごはん」全国協議会が発足します。今まで、気にするところが、なんだかずれていたような気がします。
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2006年03月13日 [映画]
官と民
昨日の日曜日は、久しぶりに邦画を見ました。「有頂天ホテル」にしようか迷ったのですが、結局「県庁の星」を見ました。この映画は、大体こんなストーリーです。「県庁のエリート公務員の野村は、200億円をかけたプロジェクトを踏み台にキャリアの躍進を狙っていました。そのために、このプロジェクトに必要な「県と民間の交流」をクリアするため、何人かが民間で、半年間の研修をすることになります。野村は、三流スーパーに派遣されることになりました。そこで、パート従業員の二宮が野村の教育係になりますが、役所のスキルを押し通そうとする野村は、スーパーの現場に馴染めません。しかし、出世のために我慢をして何とか過ごそうとしますが、県庁では、野村抜きでプロジェクトが動きはじめてしまいます。その挫折感の中から、スーパーの立て直しを図り、県庁に帰ってからも、そのプロジェクトに参加するよりも、より住民の側に立った仕事に変わって行きます。」
ストーリーはなんだか、あまりにもできすぎのきらいがないではありませんでしたが、この中で面白かったのは、随所に見られる、役人の意識と、民間の意識の違いに対するせりふです。
たとえば、映画の最初のほうのせりふで、こんなやり取りがありました。
「接客マニュアルを見せてもらえますか?」「はぁ?そんなモノありませんけど」「じゃあ組織図を」「そんなモノなくたってまわっていきますから、民間は!」
先週、私の園で、東京都の基準による第三者評価を受けていたときを思い出しました。「この根拠になる書類は?この手順書は?これはどこに明示してありますか?」などという質問が投げかけられます。ある園では、「マニュアル書は?」と聞かれて、園長が、「私がマニュアルだ!」と答えたそうです。そう、答えたくなるときもありますね。役所内での書類作りに長けている主人公は、その作成のすばやさやマニュアル作りを同僚にほめられたときに「役所というところは、書類を作って何ぼという世界ではないか。」と答えます。住民が相談に来たり、苦情に来たりした時のマニュアルも作ってあって、「わかりました。前向きに検討します。」とあります。これは、何もしないことのマニュアルだといいます。また、役所というところを表現している言葉として次のようにいうところがあります。「成績優秀、書類第一、上下関係に厳しい」「人の上に人を作り、人の下に人を作るところ」「もらった予算は使いきれ!」「人を“使役”してこその“役人”」「間違いは認めるな。」そして、「スーパーに行って学んだことは?」と最後に問われてこう答えます。「素直にあやまること、素直に教わること、仲間と一緒にがんばること」
原作は、OLから転身した桂 望実さんの「県庁の星」という娯楽公務員小説だそうです。それが漫画にもなっています。
大げさで、誇張しすぎるところはありますが、やはり、この映画から素直に教わることも必要ですね。また、書類にしても、この映画は、ただ、勘や経験だけに頼っている民間にありがちなやり方だけではなく、書類によって、きちんとした現状の把握、分析、そして改革をしていくことの必要性を言っています。しかし、どんなときでも、その書類は、真に誰のためのものかを忘れてはいけないと思います。
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2006年03月12日 [散歩]
東風
今日は、外に散歩に出てみると、大変でした。非常に風が強かったのです。(電車も止まったほどです)「春1番」は、もうすでに吹いていますので、今日の風はそれではありません。風は前から吹いてきて、目に入ります。東に向かって歩いているので、たぶん「ひがしかぜ」です。このように、東の方から吹いてくる風のことを、「東風」と書いて、「こち」といいますね。日本では 春は東北風、夏は東南風、秋は西南風、冬は西北風が吹くといわれます。風は、それが吹く季節によって、様々な吹き方があり、それぞれに名前がついています。やさしく、まろやかに包み込むように吹く風のイメージは、「春風」ですね。「台風」は、恐ろしいイメージですし、「木枯らし」は、なんだか寒々しいです。そして、この東風は単独で使うよりも季節の動植物を伴って使われる場合が多いようです。「雲雀東風」「鰆東風」「梅東風」「桜東風」などです。例えば「雲雀東風」というと、雲雀が天で一日中さえずっているような天候の時に吹く風のことです。鰆(さわら)は、春を代表する魚とイメージが重なります。ずいぶんと、東風は幅の広い意味を持った言葉のようです。ですから、そのほかにも異名がたくさんあり、正東風(まごち)、強東風、朝東風、夕東風などとも言うようです。また、「風吹けば雨」または「風が東から西に吹けば雨」ということわざは福島県その他の地方でいわれているように、この風が吹いた後は、雨が降るようです。今日の天気予報でも、「夕方から雨」でした。それは、雨の降る主な原因は低気圧で、その低気圧は時計の針と反対方向の空気の大きな渦巻であるために、低気圧が南の太平洋上から、または西の方から近づいて来る時には、その前面では東寄りの風が吹くこととなり、東風が吹くような時にはやがて低気圧の温暖前線により雨が降ることとなるのです。「こち」というと、すぐに思い出す歌があります。「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」(拾遺集)です。この歌は、菅原道真が、京より出発したのは、梅の季節でした。庭前の梅も真っ盛りでした。そこで、こんな歌を歌ったのです。もうひとつ、夏目漱石もこんな歌を歌っています。「東風吹くや 山一ぱいの 雲の影」です。春がもうそこまで来ているという感じがしますね。
私は、もうひとつ、「東風」というと、思い出す歌があります。むかし、夜、ラジオで、放送していた番組の主題歌です。Djが荒木一郎の「空に星があるように」です。受験時代に、よく聞いたものでした。その番組の始まりに流れる曲の歌詞は、受験生の心に響いたものでした。「空に星があるように 浜辺に砂があるように 僕の心に たった一つの 小さな夢がありました。風が東に吹くように 川が流れて行くように 時の流れに たった一つの 小さな夢は消えました。淋しく淋しく星を見つめ 一人で一人で涙にぬれる 何もかも すべては 終わってしまったけれど 何もかも まわりは 消えてしまったけれど 春に小雨が降るように 秋に枯れ葉が散るように それはだれにもあるような ただの季節の 変わり目の頃」この歌詞の中の「風が東に吹くように」というフレーズです。でも、それは、ただ、誰にもあるような、季節の変わり目であるということです。
今日の強い風も、次に来る暖かいやさしい春への季節の変わり目なのです。そう思うと、風あたりが強い風でも、励まされている感じがしますね。
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2006年03月11日 [近頃思うこと]
清潔
先日、ある出版社から、年長児の本の3月号を作るにあたって、小学校を取材したいので、どこか紹介してほしいといわれました。そこで、ある小学校に行って校長先生に頼んでみました。編集の意図としては、4月入学する子に、小学校の紹介をするために、どんな部屋が学校にあって、どんな人が、どこで、どんなことをしているかという写真を撮りたいということでした。いま、このような依頼をすることは大変です。その理由のひとつに、O157問題以来、非常に菌に対して神経質だからです。構内に、あまり部外者を入れたがりません。また、たとえば調理室を写真に撮りたいと思っても、いま、学校の調理室には、調理員以外は、校長しか入ってはいけないそうです。そういえば、園でも、いま、とても神経質です。こまめに手を洗わせますし、園によっては、いちいちアルコール消毒をしています。また、手を拭くタオルは、共同ではいけないことになっていますし、ところによっては、タオルも湿気を含むということで、紙タオルにするように指導しています。床は、特に乳児室は、薬品で消毒を毎日します。そこには、靴を脱いで入ります。子どもが使う絵本や様々な道具は、抗菌仕様になっています、それがドイツに行って、びっくりです。乳児室を含めてどの部屋へも、外で様々なものを踏んだ靴のまま上がります。乳児が這うじゅうたんの上にもそのままです。調理室へも、調理中であろうが、私たち17名くらいがやはり靴のまま入って、いろいろなものを覗き込んでもかまいません。子どもは、いつ手を洗っているかわかりません。それどころか、部屋にある流しは、手を洗うのが禁止です。手は、トイレでしか洗いません。ある園では、歯磨きをするときに、コップを使わずに、手で水をすくってしていました。それなのに、今世界中で、おなかをこわすのは、日本人だけだといわれています。そのまま飲めるドイツの水道の水も、日本人だけは飲まないように注意されます。オリンピックでも、食べ物で体調を壊したのは、日本の選手だったそうです。いまや、日本人は、世界では活躍できないのではないかといわれています。かなり前ですが、「清潔はビョーキだ」(朝日新聞社)で取り上げられていました。
「清潔も度をこすと危険です。O157がその典型です。O157は腸壁にくっつかないと悪さができません。ですがO157は毒素を作るためにエネルギーのほとんどを消費しているために、大腸菌などの雑菌の多くいる腸では腸壁にくっつくことができませんので、お尻から排出されて悪さができません。以前、岡山県でO157の集団食中毒が発生した時に感染者の清潔度を調べた結果、重症者の全員が超清潔に育てられた生徒だったそうです。同じ給食を食べていながら、まったく症状がでない生徒と重症で入院しなければいけないほどの差は清潔度の差です。清潔が必ずしもいいとは限らない、それも殺菌剤や除菌剤などの化学的清潔がいけないといういい例です。」
小野芳朗氏の「<清潔>の近代「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」ヘ」(講談社選書メチエ、)にこう書かれています。
「江戸幕藩体制において、現在流布しているような「清潔」志向は存在しなかった。近代医学も発達していなかった当時、清潔で健康な生を維持していたのは医者ではなく、人体と環境との調和を図り、病気の治癒ではなく病気の予防を進める中国・神仙糸医学、家々の置き薬(富山の行商が有名)、そしてまた神仏のカにすがる医療信仰であった。」
神が治すかわかりませんが、たぶん、自分の力で治していたのでしょう。
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2006年03月10日 [由来]
ツバキ
園の玄関には、1枚の手ぬぐいが飾られています。季節ごとに、私が浅草の手ぬぐい店で買ってきます。そこに書かれている絵は、日本手ぬぐいに書かれているために、色調はやさしく、構図は大胆で、とても日本的で、季節感がよく表れており、私は、見ていて心が和みます。今、飾られている柄は、ツバキです。先日、氷見に伺ったときに、先方の方が、私にぜひ見てもらいたいということで、山の奥まで連れて行ってもらったのが、コメントにも書いていただいた「老谷の大椿」です。富山県の文化財に指定されている天然記念物のツバキです。樹齢は500年以上と推定される日本でも屈指の巨樹で、3月中旬から4月中旬にかけて真紅の花を枝いっぱいにつけるそうで、年によっては、2月下旬でも咲くことがあるらしいのですが、今年は、雪が多くて、そばに近づくこともできませんでした。花いっぱいのところか、落ちた花で周囲が敷き詰めたようになる様子も格別だそうです。である。富山県には、もう一つ「長坂不動の大ツバキ」という天然記念物のツバキがあるそうです。こちらも、樹齢は約400年の巨樹だそうです。本州に野生するツバキには、ヤブツバキ、ユキバタツバキ、ユキツバキ等がありますが、この二箇所のツバキは、どちらもヤブツバキで、暖地性常緑広葉樹、花は赤色の五弁花です。
椿は縄文時代から人々の生活に使われた、大変馴染み深い木です。椿の木は堅く、しなやかなため、その特徴を利用して石斧の柄や櫛に使われました。また、「続日本記」に、渤海の使者に日本特産の椿油一缶を贈ったという記録があります。当時ツバキ油は食用、灯用、化粧用以外に不老長寿の薬とされていたようで、寒く椿が育たない渤海国にとっては、大変貴重な油であったようです。万葉集が詠まれる以前より、紫は最も高貴な色とされていました。その紫色を染めるのに欠かせなかったのが椿の灰でした。平安時代は、椿は宮廷や貴族の間で高貴な花、聖なる花木として扱われ、献上花、宮中行事、衣装、調度にも多く椿が使われ始めました。また、椿は昔から邪悪をよせつけぬ呪木として、厄除けなどに使われていましたが、葉もまた同じような力を持ったものとして扱われました。現在、おめでたい植物としては中国風に松竹梅が定着していますが、江戸前期までは松竹椿を使うことのが多かったようです。室町時代から流行した茶道により、茶庭、茶花の世界が膨らみ、椿が観賞用植物として脚光を浴び始めます。どうして、こんな歴史を言うかというと、なんと、昔の人にはなじみのある「大島椿」の製造元が、八王子市にあるのです。ツバキ油はヤブツバキの種子から採れる植物油ですが、ヘアケア用、スキンケア用、また食用としても大変優れた特徴をもった油です。
また、椿といって思い出すのが、「椿姫」です。これは、アレクサンドル・デュマと娼婦マリ・デュプレッシとの恋愛をもとにして書いた長編小説です。パリの高級娼婦マルグリットは、椿の花しか持たないため、椿姫と呼ばれます。これを基に書いたオペラが、ヴェルディ作曲の「椿姫」です。しかし、イタリア語の題名「ラ・トラヴィアータ」は、「道を踏み外した女」という意味で、原作の『椿の夫人』という名前を用いていません。また、ヒロインの名前も「スミレ」を意味するヴィオレッタに変えています。
「椿」の字は、日本で作られた字ですが、「春に花咲く」という雰囲気が出ていますね。
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2006年03月09日 [新聞記事より]
可能性
2006年3月5日 読売新聞にこんな記事が掲載されていました。読んだ方には、申し訳ありませんが、ぜひ、紹介したいので、読んでみてください。
「小学生時代。気が弱く、体も小さかった宮本さんは、格好のいじめの標的だった。筆箱や上履きが隠されるのは日常茶飯事。休み時間に後ろからけられることや、足に画びょうを刺されることも少なくなかった。中学に進み、最初にもらったオール1の通知表に、「やっぱり、おれはバカなんだ」と自分を見放した。義務教育を終えた時の通知表も、「2」が二つで、残りはすべて「1」だった。九九を全部言うことができなかった。中学卒業後は大工の道に進んだが、親方の指導は厳しく、すぐに手が飛んできた。理解者だった母親を16歳の時に病気で亡くし、17歳で大工をやめた。その翌年には父親も病死した。だが、20歳を迎えたころから人生の風向きが変わり始める。地元の建設会社に就職。後に結婚することになる純子さんと出会ったのも、このころだ。純子さんから、一本のビデオを手渡されたのは23歳の時。家に帰って再生すると、「光は波か、粒か」をテーマに、アインシュタインの理論を解説したテレビ番組が録画されていた。画面に吸い込まれ、我に返った時には90分の番組が終わっていた。「もっと知りたい」。味わったことのない気持ちでいっぱいになった。「物理学を勉強するには、大学に入らなくては」。直感的にこう思い、その一歩として定時制高校を受けようと決意した。夢への道は、九九のマスターから始まった。小学3年用のドリルを購入。中学3年までの数学と英語を独りで学んだ。「難しい知恵の輪を簡単に解くのを見て、やればできる人なのではと思ったんです」と、純子さんは振り返る。自宅に近い豊川高校の定時制に入学したのは24歳の春。物理学科のある名古屋大に志望を定めた。毎朝5時に起床し、出勤時間まで勉強。帰宅後も午前0時まで机に向かった。高校3年の3学期。大学入試センター試験で8割近い点を取り、名古屋大の理学部を受験した。合格を知った時のことは忘れられない。自宅の郵便受けに入っていたレタックスを恐る恐る開き、その中に自分の受験番号を見つけた。「不合格者の番号が掲載されてるのでは」と何度も確認した。27歳で名古屋大に入学した。学部と大学院で過ごした9年間。宇宙物理学を専攻し、素粒子などの研究に没頭した。在学中に結婚、長男も生まれた。初めは研究者になるつもりだったが、満ち足りた日々の中で別の思いが芽生えた。
「自分の経験が一番役立つ仕事は教師ではないか。落ちこぼれだったから、生徒がどこでつまずくかがわかるし、いじめられた時の悔しさもよくわかる」母校に電話をかけ、教壇に立ちたいと願い出た。理科と数学の教員免許を持つ宮本さんは、週14時間の授業を担当している。つまずく生徒もいないわけではない。しかし、九九もできなかった自分に比べれば、間違いなく、全員がより大きな可能性を持っている。「子どもたちが目標を見つける手助けをしてやりたい」。23歳で初めて人生の目標をつかんだ新米教師の、それが新たな目標だ。」
人間というものは、すごいものですね。子ども一人ひとりには、どれだけの可能性が秘められているかわかりません。そんな可能性を、一つずつ消していっているのは、実は、大人かもしれませんし、教師かもしれません。もう一度、目の前の子どもを見つめなおしてみようと思います。
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2006年03月08日 [来客]
だるま
私の記念のブログ第1号で、なにを書いたかというと、「私は強くシンクロニティーを感じるタイプのようです。日本語で言うと「共時性」です。(心に思い浮かぶ事象と現実の出来事が一致すること。ユングの用語)」ということです。これが、よく、「連想ゲームのように」という書き方で、ブログの中で共時性を書くことがあります。一昨日、園に行ってびっくりしました。私の机のそばに、大きい箱があるのです。それを開けてみると、大きなだるまでした。これは、明日見学に来る高崎市の園長会からの贈り物でした。高崎といえば、「だるま」で有名だからです。この張り子の縁起だるまは、高崎にある少林山達磨寺から生まれました。昔、大洪水で流れて来た大木で、一了行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのがこの寺の起こりです。その達磨寺境内に「洗心亭」があります。これは、日本に亡命したドイツ人建築家ブルーノ・タウト氏が日本文化の研究にいそしんだ場所です。この日曜日にたまたま行った「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」では、展示がいくつかのコーナーに分かれていました。そのひとつのコーナーが、「バウハウスとブルーノ・タウト 1930年代の建築とデザイン 」でした。彼は、ドイツで名声を確立した後、ナチスを嫌ってまずスイスに移住し、さらに日本に1933年に亡命するような形でやってきました。3年余り日本に滞在し、あちこちを旅しながら日本美の再発見に努めました。そして、「日本美の再発見」などの著書が多数あります。また、現在、世界遺産に登録されている白川郷・五箇山の合掌造り民家を見て、「これらの家屋は、その構造が合理的であり、論理的であるという点においては、日本全国全く独特の存在である」と称賛し、その骨太の構造物を「ゴシック式と名付けるべきだ」といっています。また、「この辺の風景は、もうまったく日本的でない。少なくとも私がこれまで一度も見たことのない景色だ。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。」と著書の中で述べています。
頂いた達磨は、最初は、「一筆だるま」に似た「座禅だるま」、それが次第に繭の形に似た「繭型だるま」になり農家に広がり、形が丸く起き上がりやすくなり、現在の「縁起だるま」の形になっていきます。最初の坐禅だるまは両眼とも見開いていました。それが、養蚕農家が七転八起にあやかって蚕の起き(目覚め「4度脱皮すること」)がよくなるよう大当りの祈願をするため、眼を描かず願いを込めて片眼(向かって右)に墨を入れました。やがて蚕が良い繭を作ると、残った片眼にも墨を入れて大当りと喜び、お祝いしたのが始まりです。それが一般に広まって、達磨大師の不屈の精神にあやかり、目標(願い)を立て、精進努力して無事達成するよう願かけをするようになりました。それが、「願かけだるま」です。高崎だるまの特徴は、マユは鶴、鼻から口ヒゲは亀をあらわし、とても縁起のよい顔の福入だるまです。
達磨大師は、インドの香至国の王子として生まれ、のちに出家し、お釈迦様から28代目の教えを継がれて、中国に渡りました。そこでの、梁の武帝との問答や、中国少林寺での面壁九年の話は特に有名です。この話は、またいつか、何かの折に書こうと思っています。どこで、どうつながるかわかりませんから。
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2006年03月07日 [地域を知る]
里山

今日は、園の裏の方に広がる里山を子どもたちと一緒に歩きました。里山は、自然と人間が、共に生かされてきた所です。そんな里山に似合うのは、人の気配を感じる立ちのぼる煙と、あぜ道を駆け抜ける子どもたちの姿です。このあたりには、まだ、人間に一方的に開発された街作りの隙間に、そんな里山が残っています。そんな里山をのんびりと歩いていると、突然いい香りがしてきます。紅梅が満開です。

道端を見ると、枯れているかに見える草はらも、春の準備が整っています。風はまだまだ冷たく、春はまだだいぶ遠いと滅入る気持ちを、吹き飛ばしてくれます。これから一面に咲くであろう青い花は、「オオイヌノフグリ」です。

日本の春の花には欠かせませんが、もともとは、地中海原産の帰化植物なのです。日本在来種は、「イヌノフグリ」と言いますが、今ではすっかり稀な野草になってしまいました。セイヨウタンポポが年々増えているのと似ていますね。タンポポの見分け方は、有名で、在来種はすべて総苞外片は反りませんが、外来種は総苞外片が反り返るので識別できます。イヌノフグリの在来種は、淡紅紫色で花がひとまわり小さいようです。また、オオイヌノフグリは、名前が有名ですね。子どもがその意味を知ると大喜びをします。しかし、その花の可憐さにしては、へんな名前なので、この花ほど改名が論議された花も珍しくありません。また、その横を見ると、紫の小さな花が見えます。この花も、道端や田んぼの畦道などで普通に見かける花です。葉の形が仏さまの蓮華座に似ていることから、「ホトケノザ」と呼ばれます。花を数段つけることから別名サンガイグサ(三階草)とも呼ばれているようです。しかし、春の七草でいうホトケノザでは、ありません。この花を料理して食べてみた学者があり、全く食用にならない事から、春の七草のホトケノザは通称タビラコの事であるというのが一般的になっているようで、今日ではホトケノザと言えばこの花を指します。春早く土手や野原を赤紫色に染め、群生すると、レンゲ畑のように見えます。似たような花に、オドリコソウやヒメオドリコソウがあります。ホトケノザも、やはり、古い時代にヨーロッパから渡来した帰化植物です。
帰り道に、これは野草ではありませんが、「馬酔木」を見つけました。アセビ、アセボ、アシビと読みます。伊藤左千夫を中心に創刊されたアララギ派の短歌雑誌 「馬酔木」(あしび)が良く知られていますね。この枝葉には有毒成分を含んでいて、馬が食べると酔って足がなえることから「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、しだいに変化して「あしび」そして「あせび」となったそうです。漢字の「馬酔木」もその由来によります。また、このことから、葉を煎じたものは殺虫剤としても使われています。日本原産のツツジ科の常緑低木でスズランの形をした花が古くから愛でられ、万葉集に10首詠まれています。
これからの季節、気候がよくなると同時にさまざまな花が咲き始めます。のんびりとあぜ道を歩きながら、春を感じたいと思っています。
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2006年03月06日 [散歩]
デザイン

私の園では、2001年度に「グッドデザイン賞」を受賞しています。部門は、「新領域部門」で、「人々の関係性のデザイン」ということで受賞しました。この2次審査は、10分間のプレゼンと、10分間の質問です。まず、審査委員長から、このように尋ねられました。「なぜ、このデザイン賞に応募したのか?」私は、このように答えました。「かつて、デザインというものは、付加価値だった。たとえば、コップにしても、飲めればよい。その上で、デザインが良ければ、より良いコップであるというように。しかし、今は、コップのデザインというものは、コップと飲み手の関係をどのように構築するかではないか。その関係性の良さが、良いデザインではないだろうか。ということは、園の仕事は、いかに、子どもと子どもの関係、子どもと大人の関係、大人と大人の関係、園と地域の関係を作っていくか、それは、どんなデザインをしていくということかだと思う。」「そして、その関係性の提案として、今までの母性の保育(やってあげる)から、父性の保育(見守る)という観点への変化と、それぞれの違いを認め合い、それらがともに生きていく社会「共異体」を作っていくことではないか。」このような内容のプレゼンテーションを10分間した後、質問です。たとえば、「この事業は、永続的なものですか?」と聞かれたときは、「いいえ。それは、次第に成熟していく事業です。」という具合です。そのときに、審査員の質の高さを感じました。というのも、私の伝えたかったことを理解してくれ、プレゼンが終わったときに、みんなで、拍手をしてくれました。(そのあとに、金賞にノミネートされたことを知りました。)このときのキーワードに、昨日の日曜日に出会いました。六本木に「ドイツ・デザイン展」(3月12日まで)と「東京ベルリン・ベルリン東京展」(5月7日まで)を見に行ったときです。その展示の中に「デザインは、ものと人との関係性を作ることである。」というコメントがありました。私は、最近ドイツによく行きますが、今回のドイツ・デザインの展示を見て、昔から私が好きなデザインは、ドイツのものが多いことに気がつきました。「クールなフォルムと合理的な機能性」が好きなようです。関係性という相互作用の中に、徹底して無駄をなくし、一見一方的にも思えるデザインが、使い手にとってもその目的を明確にし、心地よいものにしている気がします。
会場で、もうひとつの今の私のテーマである言葉に出会いました。「インクルーシブデザイン」です。会場に置いてあったチラシ「人間の可能性を広げるデザインの未来」というフォーラムの案内の中に、「超高齢社会を迎え、多様な個性、多様なニーズを持ったユーザーに使いやすいデザインのあり方が問われています。多様な存在が多様なままに、共にあることを幸福と感じられる社会「インクルーシブ・ソサエティ」を作るために、デザインにはどのような役割があるでしょうか。」と書かれています。まさに、このインクルーシブ・ソサエティとは、私が提案する「共異体」です。ただ、この中で使われている言葉としては、高齢者を対象に、ユニバーサルデザインのことを、イギリスではインクルーシブデザインと言うようです。私は、高齢者に限らず、すべての年齢、人種、障害、貧困、性によって、中でも個性の成長や人格の発達によって、また、あらゆる価値観においてもインクルーシブな社会を作っていく必要があると思います。デザインの世界でも、流れは同じですね。
投稿者 fujimori : 17:46 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月05日 [映画]
たんす
昨日から全国で公開されている映画に「ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女」があります。この映画は、宣伝も、かなり前から盛んにしていました。私は、まだこの映画は見ていませんが、本では、かなり昔に読んだことがあります。まだ、ハードカバーの大きな装丁の本で、面白くて、出版される順に、全7巻まで読んだ気がします。この話は、イギリスの作家であるC・S・ルイスによるファンタジー児童文学です。英語ではThe Chronicles of Narniaといい、日本語に直訳すれば、「ナルニア国年代記」となります。ナルニア国の誕生から滅亡までを描く全7作のシリーズです。C・S・ルイスは、宗教者としての書籍を多く書いており、この作品も聖書の物語を下敷きにして書かれています。このように、彼は、ファンタジー作家だけでなく、神学者であり、古典文献学者ですが、実は、子供時代、兄と想像の国を作りその物語を書いて遊んでいました。しかし、学校嫌いのために、ある学者の個人授業をうけて、オックスフォード大学に進学して、古典語の最優秀になりました。今回映画上映されている「ライオンと魔女」は、7部作のうち、最初に執筆された作品です。原題は"The Lion, the Witch and the Wardrobe"といい、直訳すれば「ライオンと魔女と衣装箪笥」といいます。というのは、4人兄弟が、古い屋敷の空き部屋にあった衣装ダンスから別世界の国ナルニアに引き込まれるからです。そして、不思議なライオンに導かれてナルニアを支配する白い魔女から住人たちを解放しようと奮闘します。
同じように、五月三十五日に、洋服ダンスの中から出てきたローラースケートをはいた馬に乗って、たんすの入り口から、「南洋」についての作文を書くため、おじさんといっしょに、旅に出る話が、「スケートをはいた馬」です。原題は、「5月35日」といいますが、それがわからずに、子どもの頃に読んで、面白い思い出があったために、もう一度読みたいと思っても探せませんでした。この話は、私が大好きなドイツの偉大な作家ケストナーが書いたものです。彼は、実の父がユダヤ人だったためもあり、ナチス・ドイツが政権を取ると、政府によって執筆を禁じられましたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続けています。彼の作品は、映画になったものが多くあります。最近では、私も見ましたが、「点子ちゃんとアントン」や「飛ぶ教室」があります。しかし、私の一番好きな作品は、「エミールと探偵たち」です。たぶん、小学校低学年の頃だったと思いますが、その映画を見に連れて行ってもらいました。話しは、お母さんと二人で暮らすエミールが、ベルリンのおばさんの所へお金を届けに出かける途中、汽車の中でうっかり居眠りしたら、山高帽の男に大切なお金を盗まれてしまいました。そこで、ベルリンのこどもたちと協力して男を追い詰め、最後に捕まえる話です。本書は、ケストナーにとって初めての小説です。映画の後、すぐに本を買って、夢中になって、何度も読んだ記憶があります。そして、私が小学生の頃は、みんな髪の毛が「坊ちゃん刈り」という髪型(映画3丁目の夕日に出てくるような)でしたが、私は、エミールの髪型のように、横分けにしました。(今、考えるとおかしいですが、髪がすぐに前に落ちてきてしまうので、ピンで留めていました。)もしかしたら、今の髪型も、そのときから変わっていないかもしれません。あの、わくわく感も、今でも求めています。
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2006年03月04日 [講演先にて]
氷見
今日は、富山県の氷見で講演がありました。宿泊した宿の前は、富山湾です。その向こうには、立山連峰が見えます。実は、運がよければ見えるはずです。ここからの景色は、とても有名です。富山湾上に三千メートル級の立山連峰が浮かぶように見える絶景は、氷見市が世界に誇る景観なのです。海岸線から海越しに、三千メートル級の山々を望むことができるところは、ここ以外では、現在世界中でも確認されていないそうです。しかし、この景観は、晴れればいつでも見えるというものではないそうで、冬を中心に年間30日から50日程度しか見えないと言われています。今朝は、もう少しで見えそうでしたが、ちょっとかすんでいました。ですから、空港から見えた立山連峰の写真をお送りします。
また、空港に向かう途中で、氷見の名所を少し案内してもらいました。途中で、からくり時計のあるところを通りました。(残念ながら、冬はお休みでした。)そのからくりは、なんと「忍者はっとりくん」です。不思議ですね。あまりメジャーではないですよね。(ただ、最近、スマップの香取君が主役で映画化されていましたが。)それは、原作者である藤子 不二雄(A)(ふじこ・ふじお・エー、本名は安孫子 素雄)が、ここ氷見市の禅寺の住職の息子として生まれています。私は、まだ、どちらがどちらで、何の作品がどちらかよくわかりませんが、もともと二人であることは有名ですね。この藤子不二雄Ⓐのほうの作品には、「忍者ハットリくん」のほかには、「怪物くん」「プロゴルファー猿」「魔太郎がくる!!」「せぇるすまんシリーズ」「笑ゥせぇるすまん」「まんが道」「少年時代」などです。一番有名な「ドラえもん」は、もう一人の藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお、本名は藤本 弘)です。彼のほうは、隣町の高岡市出身です。二人の出会いは、氷見市に住んでいた安孫子の父が亡くなり、高岡市に引っ越して、小学校5年生の同じクラスになったことがきっかけです。当時人付き合いが苦手だった安孫子がノートに絵を描いていたところ、同じく人付き合いが苦手だった藤本が珍しく話し掛けたことで二人は知り合ったようです。そして、漫画家を目指すにあたり、一人でやるより二人でやったほうが力になるだろうということで合作を決意。以後手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」の名で投稿しています。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」足塚不二雄名義になったそうです。「まんが道」にいきさつが描かれていますね。しかし、コンビと言っても共著は「オバQ」等が数点あるのみで、実際は当初から別々に作品を執筆し、それぞれが藤子不二雄名義で発表するという、2人で1つのペンネームを使用するという方法を執っていました。(後にキン肉マンの作者である「ゆでたまご」もこの方法を執っています。)その後、正式にコンビを正式に解消し、藤子・F・不二雄と藤子不二雄(A)になりました。コンビ解消前は「藤子不二雄」名義であった作品でも、後にいずれかの名義に改められたものが多数あります。藤子・F・不二雄のほうの作品として代表的なものに、「パーマン」「21エモン」「ウメ星デンカ」「モジャ公」「キテレツ大百科」「エスパー魔美」などです。ちょうど、わが子が夢中で見た作品が多いので、懐かしく思います。人は、それにいつ出会っているかで、思いが違うものです。様々な漫画のふるさとを、様々な思いで訪ねるのも面白いかもしれません。
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2006年03月03日 [講演先にて]
カバン
少し前に、世界文化社という出版社から、「安野光雅のいかれたカバン」という絵本をもらいました。安野は、島根県の津和野町の生まれです。(ずいぶんと先ですが、今年11月に津和野で講演会があるので、楽しみです。)そして、山口県で小学校の教員を務めて、東京で、美術教員として約10年間あまり小学校で教師を勤めながら、本の装丁やイラストなどを手がけています。そして、画家としても数多くの作品を発表しました。絵本「ふしぎなえ」(福音館書店)で絵本作家としてのデビューを果たします。これは、エッシャー的な不可能図形の不思議な世界を描き、世界中で評判となった代表作です。その後、淡い色調の水彩画でやさしい雰囲気漂う作品を数多く発表しています。「あいうえおの本」(福音館書店)でBIB金のりんご賞、「安野光雅の画集」(講談社)でボローニャ児童図書展グラフィック賞・グランプリを受賞しています。(私も一度どうしてもこの図書展に行きたくて、ボローニャまで行ったことがあります。)彼の作品の中で、私の本(さんすうのはじまり・こくごのはじまり)と同様に幼児用の数学の本を書いています。「はじめてであう すうがくの絵本(1)(2)」(福音館書店)です。これは、読んであげるなら4歳児くらいからわかると思います。発見の喜び、創造の楽しさに満ちた数学の本として、定評があります。第1巻は、「なかまはずれ」「ふしぎなのり」「じゅんばん」「せいくらべ」という内容で、第2巻は、数式や記号のかわりに、ウサギやカラスが登場します。「ふしぎなきかい」「くらべてかんがえる」「てんてん…」「かずのだんご」「みずをかぞえる」という構成です。絵もとてもいいですが、数学の本としても、とても面白い本です。
いただいた「安野光雅のいかれたカバン」という本は、彼が、30年以上前に書いた絵について、30年前の自分と今の自分との対談形式で語っている内容です。最初のページにこのように書かれています。
「やい、お前たち、黙ってここが通れると思っているのか。そのカバンをあけて見せろ。鍵がないんです。ウーム、妙ないいわけをするな、なにが入っているんだ。さあ、あまり昔のカバンなので、覚えていません。なに、覚えていない?中を見せないと通すわけにはいかんぞ。じゃあ、通らないで帰ります。まて、あやしい。こじ開けるぞ、あのな、規則が変わったんだ。テロ防止だ。カバンが壊れます。ぼくたちもまだ見ていないのに。ぐずぐずいうな。もし、怪しいものが入っていたら、お前たちを喰っちゃうからな。コジゴジコジゴジコジゴジ ア、アーア、カバンがいかれてしまった。なんだ、こりゃ絵か、たいした絵でもないのに、だいじそうにしまってあるな。その絵、みんなあげますから帰らせてください。あ、狼の絵じゃないか!!待て!お前たちを喰うことに決めた!!」
私は、今日は、富山に来ていますが、黒いカバンを持ってきています。今、必ず入っているものは、ブログを書くためのパソコンと、自前の「歯ブラシ」と「歯磨き」と「髭剃り」です。「中身を開けろ!」と疑われるでしょうか。とてもマニアックですが、突然、泉谷しげるの「黒いカバン」という歌を思い出しました。この歌は、岡林信康「チューリップのアップリケ」、赤い鳥「竹田の子守唄」、フォーククルセダーズ「イムジン河」と同様放送禁止になった歌です。黒いカバンを持って歩いているのを警官にとがめられます。職務質問答が歌になっています。「おまえはだれだ!」と聞かれて、「人間だ。」と答えるところがいいですね。
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2006年03月02日 [講演先にて]
聖職
先日、飯田に向かう車窓から、駒ケ岳をはじめ、中央アルプスの山々が見えました。その山々を見ていて、懐かしく思い出したことがありました。この駒ケ岳には、何度か登ったのです。といっても、今は、ほとんど山頂付近までロープウェイが行くのですが。
この山の思いでは、2年生を担任しているときに、その子どもたちをつれて映画を見に行きました。その映画は、「聖職の碑」というものです。原作は、新田 次郎の小説です。彼は、山岳小説をよく書いていて、ほかに「八甲田山」も映画になっています。最近、この新田次郎からの連想ゲームのようなことがあります。彼は、本名藤原寛人といって、気象学者でもあります。私の先祖の地、長野県上諏訪町(現 諏訪市)の出身で、その町の中の霧が峰に上る途中で角間新田というところで生まれています。ですから、ペンネームを「新田」(地名では、しんでんと読みますが、名前では、にったといいます。)の次男坊ということで、「新田次郎」です。また、彼の次男坊も有名です。今ベストセラーである「国家の品格」を書いた、藤原正彦氏です。彼は、もともと数学者で、以前ブログで書いた「博士の愛した数式」は、小川さんが藤原さんの著書からインスピレーションを得て書いたものです。そのあとの「世にも美しい数学入門」も、小川洋子さんとの対談集で、ベストセラーになっています。
と、連想は続きますが、元に戻って、「聖職の碑」という小説は、舞台は中央アルプス駒ヶ岳 です。大正時代、この地方に定着している駒ヶ岳への学校登山で台風に遭い遭難した生徒たちと殉職した教師の実話です。当時の赤羽校長にとっては、この中央アルプス駒ケ岳登山は執念の行事でした。それは彼の「子どもは生まれついては強くも正しくもない、それを鍛え、困難を乗り越えられる人間にするのが教育だ」という方針の為です。しかし、訓導は、この登山には反対していました。彼は、自由な理想教育を目指していたからです。その中での登山で、台風に遭い、次々に生徒が校長の腕の中で死んでいき、最後には、自分のすべてのシャツを生徒に着せて、校長も死んだのです。それを見て、登山に最も強く反対していた訓導も、教育の方針の違いを越えた大きな愛を見る思いがします。それから12年後、修学旅行は再会され、それは今にうけつがれているそうです。新田次郎は、この惨劇に強い関心を抱き、現地を訪れて資料を渉猟するとともに、遭難コースを登山し、生存者や遭難者の遺族から当時の状況をつぶさに聴取して、この物語を書き上げました。当時台頭しつつあった白樺派の理想主義教育と明治の実践主義教育との対立について、改めて考えてしまいました。この原作が、東宝で森谷司郎監督のもとで映画化され、それを見に行ったのです。鶴田浩二・三浦友和・北大路欣也主演でした。ちょっと、小学2年生には、理解するのは難しかった気がします。ただ、その頃、私の中に引っかかっていたことがあったのです。「聖職」という言葉です。私が、看護学校で「教育学」を教えていたときの最初の課題が、「教師は聖職であるか、看護師は白衣の天使か?」でした。もちろん、学生のほとんど「違う」と答えます。では、何かというと、「人間である。」と答えます。そこで、私はこう聞きます。「もし、自分が大変尊敬している担任の先生が、夜、酔っ払って道の真ん中で寝ている姿を見たときと、どこかのサラリーマンが寝ている姿を見たときと同じ気持ちか?」当然違います。教師も、もちろんただの人間です。しかし、人間としてよくない行動をしたときには、普通の人以上に子どもに影響することだけは知ってほしいと思います。
投稿者 fujimori : 22:33 | コメント (0) | トラックバック
2006年03月01日 [新聞記事より]
広告
この写真の説明にこう書いてあります。
「自分より愛せるものがある。」人生の時を重ねながら、人は自分にとって 本当にかけがえのないものの存在を知る。家族への深い愛と感謝を、○○に込めて。
このコマーシャルコピーは何の会社のものだと思いますか?
とてもよい写真ですね。本当に、自分より愛せるものを感じます。しかし、なんと○○に入る言葉は、「ティファニー」です。この1面広告の写真を見たときに、安らぎを覚えました。しかし、上手ですね。私は、あまりブランドが好きではないので、もし、写真を見ないで、このコピー「自分より愛せるものがある。」を読んでいたら、なんだか、この会社の商品を買う人は、自分より愛するものは、指輪なのかと思ってしまいます。そのギャップが、手なのでしょうね。昨日は、新聞のコラムの中に、人生の参考になる言葉を見つけることができるとかきましたが、同様、コマーシャルの中にも、とてもよいものがあります。

十月十日、待っていた。はじめてしゃべるのを、待っていた。「パパ」と呼ばれるのを、待っていた。入学する日を、待っていた。夢が育つのを、待っていた。君が大きくなるにつれ、君とぼくは、少しずつ離れていった。あんなに待っていた君なのに。もう一度、話をしよう。
ぼくたちは、親子なんだから。子供が待っています。
この写真は、社団法人・公共広告機構の広告です。この法人は、広告のもつ強力な伝達力や説得機能を生かし、社会と公共の福祉に貢献することを目的として、1971年(昭和46年)に設立されました。現在、会員は1300あまり。広告に関連する多くの企業・団体が参加し、有力な企業人によってバックアップされています。全国ほとんどすべての新聞社や、放送会社、雑誌社、鉄道会社が会員になっていて、各社が収入源である広告スペースやCMタイム、ポススター枠の一部を無料で提供しています。その広告料の総額は正規料金換算で、毎年巨額なものとなっており、平成12年度は、307,2億円に達するそうです。これは一広告主の広告量としてはトップクラスに入るものだそうです。広告のテーマは、毎年テーマアンケートを実施し、全国合同会議で決定します。毎年、広告会社から毎回約500点を超える企画が集まるそうです。その中で、この作品は、「父の想い」という韓国制作のものです。同じ内容のものを、新聞、テレビ、ラジオで流しました。上に書いたコピーは、ラジオ用です。このテーマは、「父親はいるが、お父さんはいない時代と言われている。私たちは、父親からお父さんに戻れと訴える。父親になると、なぜ話をしなくなるのだろうか。最初からそうだったわけではない。この世に生まれておいでと、10か月間心の中で子供に話しかけながら待ったのがお父さんだ。子供の最初の一言を待った。最初の一歩を待った。そのお父さんが、いつからか話をしなくなった。子供には、無口な父親より対話をしてくれるお父さんが必要だ。私たちは言う。子供があなたの言葉を待っていると。あなたの一言を。」というものです。いつも、多くの中から選べれる作品だけあって、いいものが多く、賞を取っているものも多くあります。もう一度、じっくり読んでもらいたいですね。また、園での保護者へのメッセージにも使えそうですね。