新聞の記事の中には、ニュースや情報を伝えるだけでなく、コラムのなかに、ほっと一息つく言葉や、さまざまな示唆を含んだ言葉を見つけることがあります。
「今年に入ってから、妻はテレビドラマの収録、そして僕は歌舞伎の稽古と、珍しく二人とも家にいないことが重なった。そういう場合は、動物たちの世話はペットシッターさんにお願いしている。仕事から帰宅すると、リビングのテーブルの上に伝言ノートが置いてある。とび(飼い犬)が散歩でどこまで行ったか、猫たちはちゃんとウンチをしていたか、えさは残さず食べたか、事細かく記されている。先日、そのノートに「ホイちゃん(3年前に拾ってきた捨て猫)の元気がありません」とあった。―略― そのホイが、ペットシッターさんのノートによればまったく夕食をとらなかったというのだ。そう言えばあれだけおしゃべりだったホイが、この数日は無口になっている。具合でも悪いのか。―略― 妻と相談し、翌朝も元気がなければ、出かける前に僕が病院に連れて行こうということになった。その夜、ホイを抱いて寝た。―略― その日の朝は、ホイは残さずご飯を食べた。元気も戻ったようで、いつもの意味不明のつぶやきも復活。「淋しかったんだね。」と妻。―略― そんなホイだから、この数日、僕がかまってやれなかったので、精神的にまいってしまったのだろう。のほほんと生きているようで、彼らは意外とナーバスなのである。」(三谷幸喜)
猫以上に、人間の子どもはナーバスのはずですよね。シッターのように、遊び相手や、散歩に連れて行ったり、記録を書いたりしても、それでは満たされない何かがあるのですね。
「何を嬉しいと感じるかということには個人差がある。毎朝、コーヒーを飲みながら、「今日もあの未解決問題についてたっぷり十時間も考えることができるのか!」と胸を弾ませる数学者がいる。体の弱った人を介護し、その笑顔に接することを何よりの生き甲斐にする人もいる。たとえベストセラーにならずとも、自ら魂を込めた一編の小説を世に送り出すことに至上の喜びを見出す作家もいる。私たちの脳の中で、ドーパミンの上流に位置する「快楽のアマゾン河」は広大であり、人それぞれである。欲望のあり方が単純に割り切れないことを認め、その多様性を育むことが何よりも「合脳的」な倫理規則ではないか。」(茂木健一郎)
最近、格差社会ということが言われていますが、この問題は、収入や地位の格差が広がっているのではなく、価値観が単一化されてきていることが問題だと思います。収入や地位が高いからといって、幸せとは限りませんから。
「友人と電車に乗るときに、「飴、食べる?」ポケットから飴を出すと、「ありがとう」友人はにっこり笑って受け取ってくれた。小学生の頃にいじめられていた私には、給食当番のときに「お前の触ったパンは食べられない」と受け取ってもらえなかった経験がある。だから、人が食べ物を受け取ってくれただけで、胸が熱くなる。大人は「ありがとう」と言ってくれる。大人になれてよかったと、感じ入る。」(山崎ナオコーラ)
早く大人になりたい人や、いつまでも子どもでいたい人は、その時期に満足いく体験をしていないのでしょうね。