ドイツの哲学者ニーチェは「強者は、嘘をつかない」と言っています。堺屋太一氏は、「織田信長は弱くて不安定なときには大嘘つきだった。しかし、武田信玄が死んだ頃から自信に溢れ、何事にも率直に表現するようになった」と分析しています。渋谷昌三氏の「人はなぜ ウソをつくのか」という本を興味深く読みました。まえがきにこう書いてあります。「信長が若いときに悪用したウソは、明智光秀の猜疑心をあおり、本能寺での謀反劇の伏線となった。強者は嘘をつかないのか、嘘をつく必要がないのか、それは定かではないが、弱者だったときのウソが命取りになることを肝に銘じておきたい。」この言葉が実感として感じるのは、最近のライブドアの堀江の一連の報道の中で、堀江やその社員のやっていたことや、昨今の話題の「ガセネタ」騒ぎを見聞きするからでしょう。(「ガセネタ」騒ぎというのは、本当は使い方が間違っています。どうしてかというと、ガセの語源は「お騒がせ」の「がせ」で、本物ではないのに人騒がせな物ということから、「偽物」の意味となったといわれているので、ガセ自体にお騒がせという意味があるからです。)
 今回ドイツに行って、日本ほど人間関係を大切にする国はないと思うようになりました。しかも、その関係の奥ゆかしさや、相手を大切にする気持ちなどは、すばらしいものがある気がします。たとえば、自分のことを表す言葉は日本語には、300種類以上あるそうです。相手によって、呼び方を変えます。それに比べて、英語では、1種類(I)しかありません。すごい違いですね。それに比べて、嘘という言葉は、英語表現のほうが多い気がします。(lie,deception,cheat,fraud,fake,sham,swindle,charlatan,fib,trick)ウソの手口や目的によって言葉が違うようです。これは、アメリカなどは、契約社会なので、うそをつくことは重大な意味があるからのようです。また、日本では、人間関係を大切にする現われとして、あいまいな言い方が許され、好んで使われるからのようです。これも面白いですね。人間は、少しずつウソを学んでいくのでしょう。渋谷氏の本の1章の中で、ウソはついてはいけないと教えられるにもかかわらず、「子どもはどうやってウソを覚えるのか」が書かれています。そこには、「ウソをつく行為は、後天的に学習するものであり、その師となりモデルとなっているのが、ウソをついてはいけないと説いている当の大人たちである。」とあります。また、河合隼雄氏は、「子どもを心ならずもウソつきにしてしまうのには、学校の先生も一役買っている。」と指摘をしています。こんな例が出されています。「学校の先生は、「嘘をついてはいけません」と言いながら、実際に子どもが何か説明しようとすると、「生意気言うな」というような形で、子どもの発言を封じ、嘘をつくように仕向けているところがある。」また、よく使われるのが、「正直に言ってごらん。決して叱らないから」といわれて正直に話すと、やはり小言を言われるか、お説教をされてしまいます。子どもにしてみれば、叱られたのと変わりません。正直に言うことはやめようということになります。私も、保育者の言葉の中で、気になる言葉があります。「こんなこと、していいと思っているの!」という言葉、文章に書くとわかりますが、最後には、「?」がつかないで、「!」が付きます。ですから、こどもは「うん」とは言いにくく、「ううん」と答えます。すると、「じゃあ、なんでやったの!」と言われてもねえ。この言葉は、質問ではなく、脅迫ですよね。

” への5件のコメント

  1. 子どもが嘘を学んでいることはちゃんと受け止めないといけませんね。嘘をつくことしか認められない場を作ってしまっているとしたらなおさらです。嘘に限らず、大人が原因をつくっていることは他にも多い気がしています。まずは大人から、まずは自分からという意識は絶対に大事です。

  2. 「嘘」とは、世間的に見て間違っているということではなく、自分の気持ちに反した言葉で紡がれたものであるということでしょうか。子どもが、嘘を大人の姿から学んでいるとすれば、大人は普段から嘘をついているということになってしまいますね。なぜ嘘をついてしまうのかは分かりませんが、いわゆる「子どもだまし」は子どもにとって大人の嘘としてしか見えていないのかもしれません。どこかで「人を幸せにする嘘ならついていい」という言葉を聞いたことがあります。自分も含め、人が悲しくなる嘘は、なんだか切なくなりますね。

  3. 子どもと関わる上で、その対応がどういうことに繋がっていくのかということは絶えず考えていきたいと思います。子どもと関わる上での責任ということをしっかり理解しなければいけません。子ども達は何人かの保育者と長い時間を共に過すことになります。その分、多くの影響も受けるはずです。そのことを自覚せずに責任を逃れるような態度は絶対にとってはいけませんね。子どもと関わる大人としてのあり方は絶えず考え、実践していきたいと思います。

  4. 今回のブログの最後の部分は、私も見聞きすることです。確かに正直に言ったら、結果として怒られるから、それならしらを切り通したほうがいい、ということになりますね。これは大人になってもそうですね。正直者は馬鹿を見る、という社会に育つと自然と嘘をつき通すようになります。嘘の上に嘘を重ねても結果としていいことにはなりません。嘘という行為は字の通り、口に虚しさが残ります。虚しさが人を支配すると心身共に病んでいきます。怖いことです。それゆえ、嘘をつかなくても良い環境に自分の身を置く必要があると思います。環境=社会だと思います。大人の役割は嘘をつかなくても暮らせる社会をこどもたちに保障することでしょう。子どもは「うそつき!」を言った回数だけ本当の嘘つきになっていくような気がします。そして「うそつきは泥棒のはじまり」です。とても気を付けていかなければなりませんね。

  5.  〝「じゃあ、なんでやったの!」と言われてもねえ。この言葉は、質問ではなく、脅迫ですよね。〟この最後の文章、とても印象に残ります。〝言われてもねえ〟という言葉の語尾で藤森先生が話している時の声の感じを思い出しました(笑)小説を読んでいるようでなんともしっくり心に響きます。こういう書き方もあるのかと、目から鱗のような気持ちになります。
     子どものウソを助長しているのは大人だと思うと、日頃の自分の態度というものを改めて省みなければと思うところです。日本人が人間関係な良好な民族である理由の一つに、やはり相手を思いやる気持ち、おもてなしの心というものが存在するからなのではないか〝自分のことを表す言葉は日本語には、300種類以上あるそうです。相手によって、呼び方を変えます。〟という文章を読んで改めて感じるところです。ウソをついたり、どこかで誰かの悪口を言ったりすると、やはりそれが結局は自分のところに返ってくるように思います。自分の良心こそ物事の判断基準と、思えてきます。正直に生きる、とは思ったことをなんでも言っていいということでなく、目の前の人を傷つけず、愛情ある言葉を選ぼうよ、ということであるということを改めて感じました。

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