
今日でミュンヘンの保育施設、学校施設の視察訪問が終わりました。明日は、午後の便で帰国です。今回の参加者もとても熱心で、空港に行くまでの間の午前中も、ホテルの一部屋を借りて、ディスカッションをします。このブログの中でよく書くのですが、見学とか、研修とか、視察とかは、何を見たか、どこへ行ったかということではなく、何を学んだか、何を感じたか、自分に何を取り入れたか、それを実行に移したかということが大切です。そのためには、見てきたこと、感じたことの振り返りがなければなりません。そこで、毎晩、ディスカッションを繰り返したのです。明日の午前中は、その総括です。いよいよ、帰ってから実行に移すためです。しかし、まったく町を見ることがないかというと、そうでもありません。移動のバスの中からでも、様々な町並み、町の顔を見ることができます。また、夕方、視察研修が終わってから、ホテルでのディスカッションまでの間にも少し時間があります。そんな間を見て、昨日、町の中を少し歩きました。バイエルン州の首都ミュンヘンは人口130万人、ドイツ第三の都会です。「隠れた首都」、「ビールと芸術の町」、「百万人の村」など数々の愛称を持っています。町のいたるところに、小さなお坊さんのミュンヘン市の紋章がありますが、それは、ミュンヘンの名前の由来である僧院(僧を表わすドイツ語メンヒ)に由来しています。毎日、視察研修が終わると、まず、町の真ん中「マリエン広場」に建っているネオゴチック様式の建物の前で解散します。ここは、新市庁舎です。毎日11時には仕掛時計を見る人で広場は一杯になります。1568年の大公結婚式を再現する等身大の人形仕掛けが動きます。昨年、世界保育大会がミュンヘンで行われたときに招待を受け、参加したときに、夜、この建物の2階で行われたレセプションに招待を受けました。いつも外から見ていた建物の中には入れたのには、感激しました。ちなみに、この地下には、何度も入りました。今年も一度入りました。なぜかというと、地下は、一般に開放されている大きなビアホールだからです。市庁舎の地下が、ビアホールとはいいですね。また、昨日は、初めて行って、面白かったところがあります。それは、「ピナコテーク・デア・モデルネ」という、芸術、建築、デザイン、グラフィックの4部門から成るヨーロッパ最大の現代美術館です。ダリやピカソ、ウォーホールをはじめ、様々な有名に人の作品が並びます。商品デザインの部屋には、ソニーのパソコンのバイオや、アイボが並んでいました。ここがはじめてなのは、そこに並んでいる「アルテ・ピナコテーク絵画館」という、欧州有数の美術館に行くからです。そこには、14-18世紀の古典絵画が中心で、デューラーなどドイツ古典巨匠のほか、ラファエロ、ルーベンス、レンブラントなど世界的傑作があります。その前には、ここもよく行くのですが、「ノイエ・ピナコテーク絵画館」があります。ここは、現代作品を展示する美術館でゴッホ、ゴーギャン、ミレーなど傑作揃いです。有名なゴッホの「ひまわり」もあります。ホテルの近くの「ドイツ博物館」もとても面白いところです。世界最大の自然科学技術博物館で、実演や自分で動かせる装置が多く楽しめます。講演や視察にいろいろな場所に行くとき、ちょっとした時間の合間を見つけて歩き回るのも楽しみです。また、明日からのブログは、日本からになります。
月別アーカイブ: 2月 2006
ミュンヘン
今日の視察研修で、ドイツミュンヘンでの保育園、幼稚園、学童クラブなど7箇所を視察する予定が終わりました。明日は、ザルツブルグにあるシュタイナー学校の視察研修です。そこで、ドイツで見聞きしたことで、驚いたこと、感心したこと、文化の違いに気づかされたことを思いつくまま書いてみます。
まず、太郎君のことです。彼は、ドイツ在住の日系2世の高校1年生の男の子です。彼のアルバイトを聞いて驚きました。彼は、週1~2回、ベビーシッターのアルバイトをしているというのです。今は、毎週、10ヶ月と2歳の子どもを見ているそうです。特に、彼は、保育に関係ある学校に行っていたり、関係のある教科を受けているわけではありませんし、将来、保育者になる積もりもないそうです。その彼が、小さな子どもを夕方5時から10時くらいまで見ているというのです。夕食を食べさせ、遊び相手をしているというのです。ドイツでは、16歳になるとベビーシッターのアルバイトができるそうですし、男性も何人かいるそうです。驚いたのは、それだけではありません。何で、毎週1回(金曜日)子どもを預かるかというと、毎週金曜日、両親は外で夫婦だけで一緒に食事をしたり、映画を見たりするためだというのです。必ず、毎週出かけるのだそうです。
次に驚いたのは、今日食事に誘われたミュンヘン市学校局幼児教育施設部部長さんの話です。彼女は、ミュンヘン市で、幼稚園関係の中で1番偉い人で、仕事をバリバリしています。その彼女は、お子さんが4人いると言います。1番上のお子さんがもうすぐお孫さんを出産するそうで、一番下の子は今10歳だそうです。その彼女が、明後日から2週間の休暇をとって、ご主人と二人でマジョルカ島にバカンスに行くそうです。その間のお子さんたちは、1番上の娘さんが、旦那さんと見てくれるのだそうです。だから4人子どもが産めるのだというと、ミュンヘン市の家族省の社会保障大臣は女性で、7人の子持ちだそうです。
次に驚いたのが、視察した園では、どこも保育者があまり子どもと接したり、一緒に遊んだりはしません。離れて、見守っていることが多いのです。この距離感は、どこから生まれるのかと聞いてみましたら、保育者養成校で教わるという答えでした。なるべく、子どもがやることに手を出さないように学び、実習のときに手を出すと怒られるのだそうです。日本では、養成校で、どのように子どもと遊ぶか、子どもにやってあげるかを学びます。ミュンヘンでは、今の子どもへの課題の1番目は、「自立」だからです。日本では?
最近、ドイツでは、0歳児から3歳児まで預かる「キンダークリッペ」という施設とか、0歳児から6歳児まで保育する「コープ」という施設に、たくさんの待機児(入園希望で、入園できないで待っている子ども)がいるそうです。それは、1999年のアンケートで、3歳児までに子どもを預けたい人が18%でしたが、今は、68%いるそうです。その増え方は、ものすごいですね。それは、働いているというだけでなく、少子化なので、子どもを早く集団に入れたいと思う親が増えたことも原因のようです。
今、ドイツでは、育児休暇が3年間取れるそうです。「うらやましいですね」と言うと、「もうすぐ、18ヶ月になるのですよ。」と言われました。聞き違いかともったら、3年間給料保障も薄く、休暇をあげることから、期間は短くなりますが、きちんとした保障をしようとするものだそうです。なんだか、後退にしか思えませんね。それが、少子社会では、前進だといいます。
ホルト

今日は、午前中は昨日2箇所見た、0歳児から6歳児までの施設である「コープ」という施設を見学しましたが、午後は、日本でいう学童クラブの「ホルト」を見学しました。保育は、必ずしもドイツの方がいいとは限りませんが、学童クラブに関しては、ドイツはなかなかいいところが多いです。まず、管轄が学校教育と同じ教育局なので、学校教育との連携や、施設の共用がスムーズに行われていました。本当は、管轄が違うからといって、それぞれ別々というのもおかしいですね。たとえば、日本では、学童クラブが学校の部屋を借りたり、校庭の片隅を借りて学童クラブの建物を立てようとすると、大変な手続きが必要です。文科省の持ち物を、厚労省が借りるという感じです。以前、小学校の校長会で、放課後の学童のために、部屋を貸して欲しいというと、「異物が、校舎内に入るのを、教員は嫌がるのですよ。」と言われた時には、耳を疑いました。同じ児童が、放課後になると「異物」になるというのです。ここドイツでは、同じ管轄だということだけではないでしょうが、放課後を学童クラブの子どもに学校全体を開放しています。これは、2日前に書いた「ターゲスハイム」同様、宿題をやるときは、教室内でやります。それが終わると、学童の部屋に行きます。今日の「ホルト」では、2階が学校の教室で、1階が学童クラブでした。しかも、使う教室が、自分の教室と違うところですし、ほかの先生の部屋を使うのです。日本では、教室は、なんとなくその部屋の担任の個人的な所有かのように物が置かれ、他のものが入りにくい感じがします。ですから、午後は丸々あいている学校に対して、人間が生活するような空間でない狭い部屋に大人数押し込められている学童クラブの子がいるという状況のような気がします。学校にしても、保育園にしても、国民の税金で作られた施設であるという認識が薄い気がします。学校開放の話し合いでも、私が地域代表で出席したときに、私の園と協力して地域に開いている近くの小学校に対して、代表の校長がこんなことを言いました。「今、予算的にとても大変になっている。電気を節約するように、ガスを節約するようにといわれている中、地域に開放して、電気やガスを使うことは無駄遣いではないか。」私は、それに対して、頭にきたので、こんなことを言いました。「学校の先生たちは、何か勘違いしていませんか。学校は、地域住民、国民の持ち物です。それは、私たちの税金で立てられているからです。それを、学校の教員に、教育をするために施設を貸しているのです。それなのに、何で私たちが頼んで借りなければいけないのですか。どちらが使うことが無駄遣いなのですか。」もちろん、穏やかに言ったのですが、ちょっときつかったかもしれません。その点、ドイツでは、「学校は機能であり、建物ではない」ということが、ここでも実感できました。内容も、学校との連携が取れており、宿題の指導も、ただ、子どもたちにやらせているのではなく、きちんと指導をしていました。そして、私たち見学者のために、事前にテーマとして日本のことを勉強し、知っている日本語を書き出したり、忍者などの絵を描いたりしてありました。また、研修中に出された飲み物やケーキを運んだり、片付けを子どもたちがしてくれました。何度でも、「コーヒーはいかがですか?」と聞きに来られると、一生懸命で、なんかかわいくて、おなかがいっぱいでも、飲んであげないと気の毒な気がして、つい「お願いします。」と言ってしまいます。放課後に、学校では出来ない学習をしている気がしますね。
コープ

今日は、ミュンヘン市内にある「コープ」という施設に午前、午後2箇所に行きました。ドイツでは、キンダーガルテンが有名ですね。ドイツの偉人「フレーベル」が創設したことで有名で、幼稚園の始まりといわれています。しかし、日本の幼稚園とは、制度の違いもあって少し機能が違うようです。管轄は、学校教育局幼児教育施設部ということで、日本の文科省に当たりますが、3歳児から6歳児まで、または、小学校入学まで(就学年齢の弾力化ということで、6歳児で必ずしも入学させなくてよいことになっています。かなりの家庭で、特に、インテリの家庭では、1年遅らせるようです。)の子どもを預かっています。保育時間は、家庭の事情で、昼までの子、2時くらい、最高5時半まで預かります。ですから、日本のように、保護者の事情(働いているか、いないかなど)では、施設は変わりません。また、働いている家庭でも、ほとんどの家庭では、育児休暇が3年間取れるので、3歳からの入園で大丈夫なのです。どうしてもという家庭では、管轄が違いますが、生後9週間から3歳児まで入園できる「キンダークリッペ」という施設があります。これを、幼稚園に対して、保育園と呼びます。ところが、日本同様に、0歳児からの入園希望が増えてきました。幼稚園への入園率は80~100%ですが、キンダークリッペへは、10~20%しか入ることが出来ません。そこで、数年前から、省庁はまたがりますが、0歳児から6歳児、または小学校入学までの子どもたちの保育施設「コープ」(Kooperationseinrichtung)が出来てきたのです。今、ミュンヘンには10箇所あるそうです。しかし、いくら0歳児から6歳児までの施設だからといって、0歳児から、6歳児までを同じ保育室で保育する(0歳児から6歳児までの異年齢児集団)のは、少し無理がある気がします。おやつの時など、0歳児も淡々と自分で食べている姿は、なんともいえません。ドイツの言い分は、「家庭でそうだから。」というのです。この試みの良し悪しは別として、日本との考え方の違いに考えさせられることがあります。それは、保育者が作る書類です。日本では、年案、月案、週案などの保育計画や、児童表と呼ばれるような子どもの発達の記録や、保護者とのやり取りの連絡帳や、日々の記録の保育日誌や、会議録、研修報告など様々な書類を作成します。それらすべて、ドイツでは、ほとんどないそうです。年度末に、簡単な子どものチェックをするだけだそうです。しかも、これは、記録として残すというよりも、複数の保育者の話し合いの材料にするだけといいます。保護者とも、何も書類ではやり取りはしません。言葉だけだそうです。保育計画も、簡単に「今日は散歩」と書いてあるだけです。ですから、子どもが帰ってから残ってやることは何もないといいます。(掃除も、帰ってから業者がやります。)「年に2,3回は残るかもしれません。子どもがいないのに、何をすることがあるのですか?」と、質問に対して、逆に聞かれます。以前は、東ドイツでは、今の日本のように様々な書類を書いていたそうです。それは、社会主義国家が、国としての統制をしていたからです。しかし、将来、どちらの方が有能な人材になるかを検証した結果、何も書かない西ドイツのほうの子どもの方が優秀だったので、東西の壁がなくなってから、何も書かなくなったそうです。日本では、本当に、様々なところで書類を多く作成します。しかし、これらの書類が、保育を厚くしているでしょうか。書類をきちんと作成する保育者が優秀でしょうか。なんだか、たくさんの書類のために、保育が薄くなっているところがあるかもしれません。
ターゲスハイム

ターゲスハイムと学校の教室
今日の午後は、ミュンヘン市内にある「ターゲスハイム」という施設に行きました。ドイツでは、基本的に小学校は、午前中で終わりです。それは、1日の食事の中で昼食を大切にするために、昼には家に帰って家族みんなで食事をするからです。ということで、小学校は、すべて半日制です。5年位前にドイツに来たときの新聞に、市民からの要望が高いのは、「小学校の全日制」と「0歳児保育」(基本的には、キンダーガーデンは3歳児から)でした。この小学校全日制の要望を受けて、様々な試みを行っています。ひとつが、この「ターゲスハイム」であり、もうひとつが「ホルト」という施設です。日本でも、小学校が終わってからの「放課後児童対策」として、学童保育(学童クラブ)があります。このイメージに近いものが、今回まだ行っていない「ホルト」です。それに比べて、「ターゲスハイム」という施設は、なかなか理解ができません。直訳としては、「昼間の家」ということなのですが、説明によると、一言で言えば、「午後に宿題とテーマ学習をやるところ」といいます。私は、この「宿題」という言葉になんだか納得がいかないところがあります。宿題というと、英語では、「ホームワーク」といいます。ドイツ語でも同じ意味のドイツ語だそうです。ということは、「家での仕事」というのを、家の外でやることに違和感があるのです。また、宿題そのものにも様々な議論があります。昔は、夏休みを含めて、かなり宿題を出していました。それが、あまり宿題を出さなくなりました。すると、学力が低下してきたので、文科省は、新しい学習指導要領が全面実施された時に一緒に「確かな学力の向上のための2002アピール―学びのすすめ」というものを出しました。その中に「学びの機会を充実し、学ぶ習慣を身に付ける」という項目があります。そこには、「放課後の時間などを活用した補充的な学習や朝の読書などを推奨・支援するとともに、適切な宿題や課題など家庭における学習の充実を図ることにより、子どもたちが学ぶ習慣を身に付ける。」とあります。国として、宿題を出すことを推奨したのです。しかし、ここには、「家庭における学習の充実」とありますが、どうも、学校教育の補足とか、代替の要素が強い気がします。というのは、「ゆとり教育」と同時期に出されたので、学校教育が削られたということで、教え切れない、定着しきれないことを家庭で補うということでしょう。でも、そうなると何のための「ゆとり」なのでしょう。子どもは、学校でやらなくなった分を家庭でやるとしたら、学校の教員にとってだけの「ゆとり」になってしまいます。私が教員の頃は、宿題は、家庭でしかできないことを出していました。親にインタビューをするとか、地域の魚やさんに「なぜ、白い服を着ているのか」取材をするとかです。そういう意味では、ドイツでもターゲスハイムでやることは、「ホームワーク」ではなく、補習授業のようなものでしょう。ただ、ドイツで面白いのは、「学校というのは、建物のことではなく、機能というソフトです。」というように、建物の中に、学校とターゲスハイムが同居しています。それも、日本のように建物の一角が学童クラブという様な同居ではなく、学年ごとに、午前中、学習をする学校の教室の隣に、午後にテーマ学習をするターゲスハイムがあり、3時頃からターゲスハイムで宿題という学習をやるときには、また隣の教室でやるように機能によって教室を行き来します。どうも、ここで宿題をやるのは、授業時間が少ないからではなく、午後は子どもを見ることができない家庭が増えたということのようです。
機内サービス

今日は、国際線に乗って、ミュンヘンまで来ました。飛行機に乗るときに考えるのが、機内サービスです。先日、島根に行くときの飛行機の中でのことです。いつものように機内サービスで、飲み物を運んできました。すると、突然、隣の席の人が、スチュワーデスに文句を言い始めました。「俺は、以前から、こんな機内サービスなんていらないと言っているのだ。人件費の無駄だ。それよりも、前のほうに自動販売機を置いておけばそれでいいのではないか。」というようなことです。乗客の言葉を無視するわけにもいかず、スチュワーデスは、しゃがみこんで、一生懸命に謝っています。そして、「その後意見を、会社のほうに申し伝えます。」と言うと、乗客は、「前にも同じことを言ったのに、何も改善されていない。それは、言っていないからだろう。」隣で聞いていて、いらないのなら断ればいいのに。欲しい人もいるだろうに。そんなことを言われても困るだけで、もし意見があるのなら、きちんと会社にでも手紙を出せばいいのに。と思ってみたのですが、まあ、結局は、文句を言って、聞いてもらうのが、この人にとっての機内サービスなのだろうと思いました。到着をするまでに、何度もスチュワーデスに様々なことを注文していました。確かに、機内サービスが必要かどうかは、考えます。その分、チケット代が高いのかもしれません。しかし、楽しみなこともあります。のどが渇いているときには、飲み物が欲しい気がします。何かあったときには、誰かを呼びたいときもあります。どこまでが適正なサービスで、どこからが過剰サービスなのでしょうか。最近、ホテルに泊まるときも、私は、大体は、洗面所にある用品は使いません。歯ブラシ、髭剃り、くしなどは、自前のものを使います。しかし、たまに荷物が多いときには、備え付けがあるとありがたく思います。最近、シャンプーなどは袋でないところが増えました。あの一袋は、男性にとっては、いつも量が多い気がしていましたし、夜と朝使いたいときには、何とか半分にしていましたが、自分で量が調整できるとありがたいです。部屋の冷蔵庫の中も、中身は入っていないところが多くなり、コンビニで買って自分で入れて使うようになりました。これもいいのですが、外に出るのが面倒であったり、ホテル内や近くに買うところがないときは、あればいいと思うときもあります。人間というものは、贅沢ですね。自分の都合のよいように要求してしまうようです。
過剰サービスかどうかというと、最近の保育園のやることで、これは過剰サービスかなと思うことがあります。きちんと親としてやるべきことまでやってしまったり、子どもだ自分でできることまでやってあげたりすることがあります。このサービスは、ありがた迷惑というよりも、自分自身の力を奪っていることになるときがあります。いわゆる、自立する力を奪いかねません。かといって、なんでも相手に要求したり、勝手にやれといわんばかりに放り出しても自立はしていきません。この対応は、親子関係でもいえます。子どもに過剰育児は、子どもの自立を妨げ、逆に放っておいても自立をしません。育児は、サービスではありませんが、適切な、心地よいサービスを見つけていかなければならない点では、同じかもしれません。邪魔をせず、必要なときに力を貸し、自分でやろうとする気持ちを受け止めることの必要性を、長い国際線の機内で考えていました。
こくごとさんすう
今、成田空港にいます。これから、ドイツの園訪問に行くためです。それに先立って、ドイツ在住の日本人で、ドイツ人と結婚された方から、こんなメールが来ました。
「現場の保育士からの要請が多い、「はじめてのこくご、さんすうシリーズ」一部もっていたのですが、友人に貸したら戻ってこないので、もし荷物にならなければいただけますでしょうか。
ドイツ語に訳すことを真剣に考えています。複数の方から声をかけられたので。」
たまたま、何年か前にドイツから私の園に研修に来た際に、その本を買って帰った方がいました。日本でも、ピサの学力調査で順位が下がったことが問題になっていますが、ドイツでも、前回の結果で、最低だったので、幼児教育を含めて、見直しがされています。その中で、いわゆる「読み、書き、算盤」と昔から言われてきたように、言語教育と、数の理解をどのように付けていくかが課題になっています。私は、小学校に勤務をしていて、就学前教育をきちんとしないと、学校に入ってからだと絶対に間に合わないと思っています。しかし、今の幼児教育の中で多くの園で行われているものは、「就学後教育」の先取りが多いような気がします。中教審が先ほど出した答申の中でもこんな注意がされています。「受験などを念頭に置き、もっぱら知識のみを獲得することを先取りするような、いわゆる早期教育とは、本質的に異なる。」といっています。必要なのは、就学前教育なのです。これは、学校教育の先取りではなく、学校教育が始まったときに、それがより効果的に、より広く考えられるようなものでなければなりません。いわゆる、同じく中教審の答申の中で謳われている「後伸(あとの)びする力」を培うことです。特に、国語力と、算数です。
自宅で小中学生に英語を教えている妻から、以前にこんなメールが来ました。
「新聞の「ライブドア事件を語る」(藤原正彦氏)の文章の一部に興味を持ったので、早速「国家の品格」を読んでみました。全体的にみるとあまりにもハードで首をかしげる部分もありますが、納得し賛同できる部分がありました。教育問題を論じる部分で氏は「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。国語を通して自ら本に手を伸ばす子に育てる」と言っています。大人になって様々な局面に際しての判断を下して進むときも、人とうまくコミュニケーションをとって穏やかに暮らしていくためにも、どんな時にも必要な知恵や教養は国語力なくしては培っていけないというような考え方には共感をおぼえます。毎年、今頃中学2年生の生徒に同じことを言われます。「英語って国語力がないと出来ないね」と。中二の終わりころになるとかなり文法も高度になり難しい文章が出てきます。そうなると文法理解が出来ていても、単語や熟語の知識が増えても、国語力がないと訳せなくなってくるのです。国語は人生を豊かに生きるための基礎だけでなく、他の科目の基礎でもあると実感しています。真の国際人になりたいならば「まず国語」だと思います。また、物を筋立てて考えるための基礎は「算数」でしょう。
そこで考えたのですが、貴方の著書の「こくごのはじまり・さんすうのはじまり」が、その導入のお手伝いになれば嬉しいなと。あれは出版した時期が少し早かったのかもしれませんが、小学一年生で習う内容を体験で学んでいけるように写真がついているので、少なくも楽しみながら接することはできると思います。何かの折にお知らせしたらいかがでしょうか。」
ちょうど、ドイツからのメールと時を同じくしていたので、小学校で英語を導入する前に、きちんとした国語教育が必要であり、物事を論理的に考える上でも、算数教育が必要であることを再確認しました。また、2月9日付の中教審部会報告案でも同様なことが提案されていました。もし、興味があれば、「はじまりシリーズ」を読んでみてください。(ただ、残念ながら、書店では販売していません。学習研究社(学研)に問い合わせてみてください。)
さんすうのはじまり・こくごのはじまり ~保育者のためのはじまりシリーズから(藤森平司著)
(〒146-8502 東京都大田区仲池上1-17-15 株式会社 学習研究社 教育ソリューション事業部 通信販売室 電話:03-3726-8711 FAX:03-3752-6404 e-mail:order@hoikucan.jp)
明日から1週間の予定でのドイツ訪問ですので、ホテルのIT環境によっては、このブログはお休みになります。もしできれば、少しだけでもドイツ報告をします。
はるよ こい
寒い寒いといいながら、今日は外に出てみると、東京ではかなり暖かく、春の予感がします。立春の日にブログで書いた「早春賦」のほかに、春を待ち望んでいる歌に「春よ来い」があります。この歌は、もう少し後の季節、3月頃の歌です。しかし、この歌詞も、本当に北国の人々が、春が来るのを待ち焦がれている感じが出ていて、いいですね。
「春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている 春よ来い 早く来い おうちの前の 桃の木の 蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで はよ咲きたいと 待っている」
春よ、来いと呼びかけている感じが、子どもの気持ちを借りて歌っている様子をよくあらわしています。この歌を作詞したのは、新潟県糸魚川市出身の文学者、相馬御風で、『金の鳥』に発表されていますが、誕生した御風の長女を素材に作られたといわれています。歌が作られた当時、数えで3才。ちょうど「あるきはじめた」ばかりで、自分の周囲に好奇心を向ける年頃です。しかし、日本海に面した糸魚川市は雪の多い所なので、冬は家の中でじっとしていなくてはなりません。雪が消えて、赤い鼻緒の草履をはいて外出できるようになる春の訪れを、ひたすら待っているのです。御風は「じょじょ」や「おんも」といった幼児語を大胆に歌詞に取り入れることによって、彼女の心の叫びを見事に表現しています。彼は、早稲田大学校歌「都の西北」や「カチューシャの歌」(島村抱月との合作)の作詞をしたことでも知られています。作曲者は、南国・高知生まれの弘田龍太郎です。ほかにも、「叱られて」「雀の学校」「靴が鳴る」など、いずれも有名なものばかりです。
1番の歌詞は、冬の間に歩き始めた「みいちゃん」が、買ってもらった下駄を持て余し、早く雪が解けた地面で歩きたいのを待つ情景が想像できます。そして、そばで、「もうすぐ春が来るからね。そうしたら外にでれるから、もうちょっと待とうね。」というような声が聞こえてくるようです。2番の歌詞からは、春が来るのを待っているのは、みいちゃんだけではなく、庭の草木も同様です。家の前にある桃の木は、つぼみも膨らんで、早く咲きたいと、言っているようです。相馬・弘田のコンビはこの童謡「春よ来い」が有名ですが、面白いことに、この歌と対を成すように「春がゆく」という歌があるのです。こちらは、山鳩の低い鳴き声に、季節の変化を描き出そうとしています。こんな歌詞です。
「デデツポツポ デデツポツポ、どこで啼くのか 山鳩が、しづんだ ふといなき聲で、おかしいやうに 時にまた、あはれなやうに うたひます。もうぢき春が行くのでせう。デデツポツポ デデツポツポ、遠い山には 雪がまだ、白く光つて ゐるけれど、浦の山には きのふけふ、やるせもなげに 鳩がなく。もうぢき春が行くのでせう。」
こちらのほうは、「春よ来い」と比べて、なんだか気取りすぎている気がします。春を惜しむ気持ち「惜春」があらわされていない気がします。春が行くのは、私からすると、次には夏が来るので、さびしいというよりも、春を惜しむ気持ちのほうが強いからです。そして、次に来る季節に対しての、期待がこめられていないような気がします。私は、何かと別れを告げることは、何かと出会う始まりだと思っています。やはり、春の終わりには、「夏よ来い」のほうがいいですね。
美術教育
今までの美術教育、特に、幼児に対しての美術教育で、少し違うなと思うことがあります。たとえば、塗り絵は、児童の創造性を損なうとして、批判されたことがあります。それは、形、縁取りがすでに書いてあるので、自由な形作りを創造する必要がないからでしょう。しかし、創造性は、必ずしも、形作りだけではない気がします。たとえば、色に対する創造性だってあるはずです。塗り方にだって、創造性はあるはずです。また、塗る素材にも創造性はあるかもしれません。これらの創造性は、塗り絵でも育つことがあるのではないでしょうか。特に、デザインにおける創造性を養うためには、塗り絵は、よい素材かも知れません。また、以前の曼荼羅塗り絵のブログでも書いたように、美術には、心を癒す効果もあります。心が落ち着き、ゆったりとした気分になったり、逆に気持ちを高揚させたりする効果もあります。先日の新聞に、こんな特集がありました。「大ブーム おとなの塗り絵本」というものです。最近、「塗り絵」の本が売れているそうです。それは、子どものキャラクターものではなく、おとなを対象に、名画などを線画にした塗り絵を、見本のカラー図版とセットにした出版が、昨年末、活況を呈しているようなのです。部数、出版数ともうなぎのぼりだそうです。「大人の塗り絵」シリーズ(河出書房)は、「美しい花編」をはじめとするシリーズ5冊で、48万部を超える出版があったそうです。これは、郷愁を誘うと同時に、癒しの効果があると思います。もう一つ、近年のドリル本の人気から、脳の活性化に効果があると謳っているのもあります。日本でも、「マンダラ塗り絵」が春秋社というところから出版されています。帯封には、特徴として、「●無心に塗ることで、日々のストレスから開放されます。●楽しみながら塗れば、こころとからだが知らぬ間に癒されます。●塗りあがったものを通して、今まで気づかなかった「自分」に出会えます。●子どもの創作意欲を刺激し、創造力を育てます。●調和の取れた図形を塗ることが、子どもの心の豊かな成長をはぐくみます。●手を使い配色を考えることで右脳が活性化し、お年寄りの脳の老化防止にも役立ちます。」これらは、美術教育というよりも、美術の持つ力のような気がします。私は、歌を幼児に歌わせることは、何も歌手にするためではなく、歌うことの楽しさから、心が癒され、うきうきさせるのと似ている気がします。大人になって、歌をそのような存在にさせたものが、「カラオケ」のような気がします。疲れて帰るとき、1曲歌って帰るように、1枚絵を描いて帰るようなことにならないかなと思っています。それに反して、今の子どもたちは、どんどん、大きくなるにしたがって、絵が嫌いになる子が多いといいます。歌や、絵画が、生活に潤いを持たせ、心を豊かにする存在になるような教育が必要なような気がします。また、身の回りにあるさまざまなデザインに関心を持ち、特に、産業デザインといわれているものに興味を持つような、デザイン力をつけるような教育も必要なような気がします。もう一度、決め付けないで、塗り絵を見直してもいいかもしれませんね。
今日は、3,4,5歳児の子どもが、私の顔や姿の絵を書きました。対象が私というだけで、普段描こうとしない子が描き始めたり、いつもまるしか書かない子が、それなりに顔になったり、帰りに会うと、「今日は、園長先生の絵を書いたんだよね。」と声をかけられたりすると、何であれ、きっかけが大切な気がします。
韓国からの取材
今日は、韓国文化放送からの取材がありました。この放送局は、韓国内地上波公営テレビ局で、2月28日に特別番組「女性」というテーマで放映されます。この番組の趣旨は、「出産率が世界最低水準である韓国女性たちが、育児に対する心配なく社会活動ができる環境を作るためにどんな条件が必要なのかを、フランス、日本などの現地取材を通じて調べる。」というものです。3時間の特別番組のようです。
昨年の韓国の出生率は1.16人を記録し、過去最低となりました 1970年から2003年の間に日本の合計出産率は2.13人から1.29人に0.84人、ドイツは2.03人から1.34人に0.69人、英国は2.43人から1.73人に0.72人減少していますが、韓国では、4.53人から1.19人へと3.34人減少し、昨年は1.16人まで減っている状態です。米国の場合、1970年2.46人から1980年1.84人にまで減った後、1990年からは同じ水準を維持、2003年には2.04に持ち直しています。この期間中の合計出産率の下落幅は0.42人に過ぎず、韓国と比較した場合、約8倍近い格差があることが分かりました。日本より深刻のようです。それは、女性の社会進出が活発になり、結婚年齢が高くなると共に、出産可能な年齢にある女性の人口が減っていることも大きな原因であるとされています。しかし、最近、韓国では、「ディンク族」という人たちが増えています。「ディンク族」は英語のDINK (Double Income, No Kids)で、子供を作らずにのんびり生きていくことを選んだ共働き夫婦を意味します。収入に余裕がなかったり仕事のため仕方なく出産をあきらめた夫婦とは違い、「ディンク族」は趣味活動など夫婦同士のやりがいに重きを置き、子供は面倒くさいと思っているのです。特にずっと一人っ子で育てられたせいか、多少自己中心的で、「子供なんか人生の幸せには関係ない」とも言う人も少なくありません。問題は社会全体に「ディンク族」が拡散しつつあることのようです。少子化の根っこには、共働きをしながら子供を育てられるような職場環境、社会環境が整っていないことはもちろんあります。しかし、こうした「ディンク族」の風潮がさらに広まったら、少子化社会に悩んでいる政府がどんな対策を立てても歯止めがかからないでしょう。そこで、韓国でも少子化対策が緊急課題で、政府も新人口政策に取り組んでいます。
取材の内容として、0歳児保育の充実、保育園の充実を取り上げていますが、それは確かに少子化の主な原因の一つである「育児と仕事の両立」という点では有効な手段の一つですが、こんなことを答えました。(ただ、これは、放映されないと思いますが。)ディンク族に対しては、決して両立支援ではなく、子どものいる幸せを感じさせないといけないのではないでしょうか。今は、子どもがいろいろな事件を起こしたり、面倒をかけたり、のんびり生きる邪魔をする存在になっています。そこで、今の課題は、少なく生まれている子どもをどう育てるか、その子が、どのように成長していくのかが課題のような気がします。特に、韓国では今は学力が確かに高水準です。しかし、それは、競争原理からの高さであって、この熾烈さを見ると、子どもは欲しくなくなるでしょう。また、一人っ子政策での子どもが大きくなると、自分を優先します。子どもを生ませようとするほうにお金を投入すると同時に、今の子どもの保育、教育にお金を投入し、より質の高い保育、教育をしていくべきではないでしょうか。記者の人も、まったく同感だといっていました。