無記

 私の園に、実習生が来たときです。彼女は、実習の途中で、風邪をひいてしまいました。そこで、しばらく休んでいたのですが、ほぼ治ったので出てきました。しかし、声が出ません。出そうと思っても、息が出るだけです。しかし、実習期間が終わってしまうので、まあ、2歳児の担当でしたので、声が出なくても大丈夫だろうとそのまま保育をしてもらいました。ところがとても面白い経験をしました。まず、朝、登園してくる子に声がかけられません。「おはよう」と、部屋に入ってくる子に「おはよう」と声がかけられないので、そばに行って、にっこりうなずくしかないのです。そのあと、子どもを呼ぶときも、子どもに何かを指示するときでも、何かを表現しようとすると、声が出ないので困ってしまいました。本当は、言葉とは、声だけではないはずです。ボディーラングェッジという、体での表現もあります。アイコンタクトという、目での表現もあります。絵で表したり、文字で表すこともできます。人の体は、いろいろな機能を持っています。しかし、その中で、多くの人は、声に頼っていないでしょうか。特に、言葉を使って保育をしていることが多いのではないでしょうか。声で、子どもを動かそうとしていることが多いのではないでしょうか。昔、電車の車内販売の売り上げのトップの人は、声で売り歩くのでなく、乗客の目を見ているのだということを聞いたことがあります。声での掛け声で止まる売り子に、私も思わず言いそびれてしまうことがあります。しかも、どうしようかと迷っているときに素通ってしまうと、「まあ、いいか。」と思ってしまいます。それを、乗客の目を見て歩くと、買いたそうな人がわかります。声をかけようとした人がわかります。子どもにも、「だめ!」と叱るよりも、とても悲しい顔をすることで、大切な人を悲しませたくないという思いからやめることがあります。登園をしてきた子どもに、よく来たねという気持ちは、声をかけても、他を向いていたり、いやそうな顔をしていたら、子どもには伝わりません。
 また、実習生が来たときに、こんな経験もあります。2歳児にはいっていた実習生は、子どもが自分でいろいろなことをどんどんやってしまうので、手を出すときがありません。そこで、担任に聞いてみました。「私は、何をすればいいですか?」園の職員は、悪気ではなかったのですが、その答えに、「では、そこをどいてて!」と言ってしまったのです。あとで、邪魔扱いされたと泣かれて困ってしまったことがありました。そのときに、「子どもとかかわることは、何も、相手をしたり、面倒を見るだけでなく、子どもがすることを邪魔しないで見守っているのもかかわるということだよ。」と言ってあげました。私は、「何もしないこと」が、子どもにとって、「何かをしてあげること」になることもあると思います。同じように「質問に答える」ことが、「何も言わない」ということもあります。それどころか、声に出さないことが、答えることになることもあるのです。「瀬戸内寂聴」著の「釈迦」の中にこんな文があります。
「人の質問に対して、たまに世尊は一言もお答えにならず無言を続けられることがある。それを世尊の「無記」と呼んで、深い意味があるのだという。あの世はあるのかないのか。地獄や極楽は確かにあるのか。人はどこから来てどこへ行くのか。そんな質問にはすべて「無記」の沈黙が返された。そんな愚問に答える必要がないとも取れるし、そんな深遠な問いに対して簡単に答えられようかとも取れる。そういう疑問に時を費やす間に、作務にでも打ち込めとも取れる。もしかしたら、それらの疑問に対する答えを探すことこそが、めいめいに課せられた求道の種子ではないかということなのか。世尊の「無記」は、どんなに激しい叱責の言葉よりも重く恐ろしいものを含んでいた。」
 なんと、「無記」とは、声のない答えでしょうか。もう少し、何かをする、声を出すということを考えたいものですね。

無記” への6件のコメント

  1. 読みおわって、とても考えさせられました。日本ではアイコンタクトが少ないために、海外の方とのコミュニケーションのしかたにずれが生じることがあると聞きます。日本での、子どものときからの周りの家族たちのコミュニケーションの取り方が、子どもたちのそれを大きく方向付けているのでしょう。言葉がなくとも、スキンシップやアイコンタクトで伝わる感情があるということを思い出さなくてはと思いました。言葉で伝えるということももちろん大切だと思いますが・・・。「無記」についてはとても奥が深い話だと思いました。すぐに解答をもらおうとするのではなく、すべての「なぜ」に対する答えを、地道に自分で探そうとする心構えが必要ということなのかと思いました。あせらなくていいのだというメッセージだとすれば、少し救いになります。

  2. 声を使って相手に思いを伝えることに慣れているので、確かに声に頼りすぎているところはあると思います。いっそのこと声はほとんど使わないことにして、他の表現でどこまで伝えることができるかを試してみるのもいいかもしれません。迷ったときはそのくらい極端なことをしてみないと大事なことになかなか気づけないので、やってみる価値はありそうです。無記についてですが、無言の返答から何を読み取るかは結局は自分自身に問いかけることになります。自分の考えを深めたり改めたりするために、無記というのも必要なことかもしれませんね。

  3. 以前も書いてしまったかもしれませんが、2年前、1歳児を担当している時にある実習生が来ました。とても控えめでゆったりしていて、子どもによく微笑みを返していました。昼寝明け、寝起きが得意でなく少々ぐずっている子どものそばに実習生が行ったので、何をするのか見ていると、少し距離を置いたところから、きれいな三角座りをして子どもの様子をちらちら見たり、微笑んだりしていました。子どもは、その様子を同じくちらちら見ていました。そんな時間が5分ほど経過したでしょうか。しばらくして、その子どもは実習生と手をつないで部屋までとことこ歩いてきました。その子どもが、寝起きに自らの足で部屋まで来ることがほとんどなかったので驚いた記憶があります。言葉ばかりに頼って“寄り添う”ことをしていなかったなぁと反省しました。実習生も多くの学びを与えてくれます。

  4. 「動いていないとやる気がないと思われてしまう」という思いを抱えて多くの実習生がとにかく何かをしなくちゃいけないと動き回っているという姿は少なくないように思います。自分の実習生だった時のことを思い出して、そんな思いを抱えていたことを思い出しました。私が実習生だった頃に藤森先生が仰られたような言葉をかけていただいたら、どんなに心強かっただろうと想像しました。声に頼った関わり方はかなりな部分を占めているように思います。子どもには声や言葉だけではなく、全身でメッセージを返したり、受けとめてあげることが必要ですね。自分自身、反省する点はたくさんあります。

  5. 保育者の大半は、子どもといる時、子どもと一緒に何かやるとか声掛けをするとか、そうすることが「仕事だ」と思っている向きがあります。ところが、子どもたちには迷惑なこともあります。自分たちで遊んでいるのに大人の保育者や実習生が関わってきます。求めていないから関わってこなくてもいいのに・・・。しかし、子どもたちはやさしいです。その大人の関わりを快く受け止め、結果としてその大人は「仕事」をしている安心感に包まれ、ますます関わっていきます。子どもから離れて見守ることが「仕事」なのに・・・。今回のブログの後半を読みながら、「維摩の一黙、万雷の如し」という『維摩経』の一節を思い出しました。この一黙によって、猛省させられる経験をします。そして、不快を感じたら、言葉にせずに、黙ることが自分の相手への意思表示に繋がる、たとえ繋がらなかったにしても、少なくとも、不快というネガティブ感情を重くすることにはならないと思います。「目は口ほどにものを言う」ということもありますが、黙して語らないこと、目も合わせないことのほうが、多くを語ることがあります。余計なことは言わない、しない、という訓練をする必要が私にはあります。今回のブログのコメンテイター各位同様私自身も反省をしています。

  6. 声かけについての議論というのでしょうか、どのように子どもに声をかけるかということが話し合われることは保育の世界では少なくないことだと思います。もちろんその話し合いも有意義なものがあるのかもわかりませんが、保育を道と捉えた時に、どのような声をかけるかということよりも、その先生の人柄は、人格は、子どもを惹きつけるものだろうか、チームに好影響を与えるものだろうか、その重要性の比重の方が重いのではないかと考えます。この度のブログの前半部分は藤森メソッド、先生の生の言葉による具体的な解説と捉えることができ、それだけに、見守るということの本質について、それぞれが自分と向き合う中で見えてくる、ということの大切さを思うところです。

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