見守る

 昨日から訪れている長崎は、「見守る保育研究会」という勉強会に参加するためです。私が提案する保育を、「見守る」と表現する人が多くいます。それは、私の提案は、なにも保育に限らず、育児においても、地域社会においても、新しい時代におけるコミュニティーのあり方を考えようというもので、「関係性」の構築です。その関係性を表す言葉として、この「見守る」というのは、とても重要な考え方です。「見る」だけでなく、「守る」だけでもありません。今日の夕方、メンバーのうちの何人かが、近くのグラバー園を見て歩きました。これは、「見て歩く」です。そこに、学びがあります。それが、「見学」です。しかし、その文化遺産を残していこう、大切にしていこうとすると、この施設の「見守り」が必要になってきます。それは、1人称だけの動きだけでなく、相手との関係性が生まれてくるからです。しかし、関係性を構築しようとするときには、関係における「距離感」を考えることが必要になってきます。たとえば、グラバー亭を残そうとするあまりに、周りをコンクリートで固めようとしたりく、作り直そうとするのではなく、その文化が訴えかけようとする思いを大切にし、建物自ら建っているような、昔の思いをそのまま生かすような工夫をしなければなりません。それが、「見守っていく」ということになります。相手に干渉することなく、相手を生かさないとならないからです。そのためには、まず相手を知ることから始めなければなりません。そして、最終的には、その見守りの中で、自ら律し、自ら生きていこうとする力をつけてあげることが必要です。
 私の教員時代に、クラスの歌を作っていました。それを、クラスの子どもたちがよく歌っていました。1年生を担任していたときの歌詞は、こんな歌詞でした。子どもたちと作ったのですが、1番、2番は、クラスの年間を通して取り組み、そして、3番は、私の望む最終的なクラスの子どもの姿を表わしています。「ぼくらのクラスは なんでもじぶんで できるんだ 先生なんか ようはないのさ 三小 三組 みんなそろって いちにのさん」
 この歌詞は、「十八史略」のなかの「鼓腹撃壌」という逸話に感動し、教師とは、このような存在になりたいと思ったからでした。それは、聖天子の聞え高い帝堯のころ、堯は自分の存在が人々からどう思われているかを知るために、目立たぬ衣服に身をやつし、こっそり町中にしのび出てみました。そして、「天子さま私たちがこうやって元気に楽しく暮すのはみんなあなたのお陰です。」という歌を聴いたときに不安になります。しかし、白髪の老百姓がひとり、食べもので口をもごつかせながら、木ごま遊び――撃壌(壌をぶちつけあって勝負をきめる遊び)に夢中になり、お腹を叩いて拍子をとって、しわがれた声でつぶやくように、だが楽しげに歌っている内容が、「日が出りゃせっせと野良仕事、日ぐれにゃねぐらで横になる。のどの渇きは井戸掘ってしのぐ、腹の足しには田畑のみのり。天子さまなぞおいらの暮しにゃ、あってもなくてもおんなじことさ。」というものでした。これを聞いて、自分の政治がうまくいっていると喜んだという逸話です。これに感動をした教師の頃から、「見守る」という概念ができ始めたのかもしれません。

各地に

 今日から、長崎に来ています。各地の仲間に会うのは、とても楽しみです。最近は、いろいろなところに行くようになりました。私は、会社員ではないので、地方出張をうらやましく思っていました。実際は大変でしょうが、いろいろな地を訪れ、そこの文化に触れることは、とても刺激的です。ところが、なかなか地方に行く機会がありませんでした。しかし、今は、いろいろなことを学ぶ上で、地域の物理的距離は関係なくなりました。まず、インターネットであれば、地球の裏側であっても、隣の部屋に伝言するかのようにできます。また、好奇心や、知識欲、学ぶ意欲も、物理的距離は妨げにはなりません。今は、いつでも、どこでも行くことにしています。ただ、次第に、行った先で予定がびっしりと組まれることが多くなり、自由な時間がなくなってきたので、好き勝手にその地を歩くことはできなくなりましたが、その分、どの地にも知り合いができ、話を楽しむことはできるようになりました。
 各地に行くときに、その地をはじめて訪れたときのことを思い出します。この長崎には、大学時代に一人旅できました。周遊券という、国鉄に限り、その周辺の乗り物に急行、バスを含めて何度でも乗り降りできる券で、年末、九州を一周したのです。乗り物は乗り放題でしたが、宿泊はそうは行きません。夏であれば、寝袋とか、駅で寝ることが多かったのですが、冬ではそういうわけには行きません。そこで、まず、夜行を探して、朝になるまで列車に乗っていました。そのほかの宿泊先として、年末など休みの日は、寮生が帰省して空いた部屋に生徒会が管理し、300円くらいで寮に泊めてくれたのです。長崎は、長崎大学、鹿児島は、鹿児島大学に泊まりました。長崎では、「皿うどん」をうどんだと思って 頼んだ思い出があります。あの頃は、一人旅がはやっていました。今は、あまり見かけませんね。治安の問題もあるでしょうが、卒業旅行といって、海外に行く学生を見ると、贅沢だなあと思います。
 最近は、北海道にもよく行きますが、初めて行った時の思い出があります。かつて、中学生を何人か勉強を見ていましたが、その中で、4人のグループで教えていた中学1年生が、どうしても勉強に身が入らないので、私はひとつの提案をしました。1学期の成績が、これくらいだったら、香港、マカオ旅行、このくらいだったら北海道旅行、このくらいだったら長野旅行、このくらいだったらわたしのうちに泊まりに来てもいいというようなことを、半分ふざけて提案してみたのです。でもそんな成績は絶対に不可能のようだったので、おまけで、自分でどのくらいの成績かを言い当てたら、ひとつランクを上げてあげると言ったのです。そうしたら、ある子が、がんばって北海道旅行をあてたのです。それは冗談だったのですが、夜、その子の母親から電話がきて、「せっかくですから、費用は自分で持ちますから、ぜひ連れて行ってください。」と言われました。あせって、かつての教え子で、北海道に親の転勤で行っている家庭に電話をして、泊まらせてもらうことを頼みました。そして、結局、わたしとしても初めての北海道旅行を、中学1年生の男の子と二人で行くことになったのです。若かったなあと思います。初めてなどというのは、どんなきっかけからおこるかわかりませんね。

なりたい職業

 自分が子どものころ、何になりたいと思っていたでしょうか。それは、変わっていったでしょうか。それは、どうしてそう思ったのでしょうか。そして、今、その職業についているのでしょうか。ついていないとしたら、何がその職業に就くことを妨げたのでしょうか。あらためてそんなことを考えます。今週号の「ガテン」という雑誌の特集が、「子どものころ、どんな仕事がしたかった?」 です。
 園では、毎年3月には、卒園児たちが、将来の夢を語って、巣立っていきます。その夢に向かって、一歩ずつ歩んでいってもらいたいものです。夢は、子どもが成長するにしたがって、何度か変わることもあるでしょう。しかし、いつのときも夢は持っていてほしいと思います。大阪の幼稚園で、卒園式の後でその園の園長先生が保護者に話した内容を、ある保護者から聞きました。「夢は、大きく持たなければいけません。お花屋さんになるとか、ケーキ屋さんになるとか、そんな小さな夢では情けないと思います。もっと、医者になるとか、弁護士になるとか、政治家になるとか大きな夢を持ってもらいたいと思います。」その幼稚園は、地元では人気があるそうです。それを聞いて、私は、なんだか情けなくなります。何で、夢としてなりたい職業が、お花屋さんが小さくて、医者が大きいのでしょう。大きい、小さい、えらい、えらくない、うらやましい、つまらない、そのような職業的な区別は何でするのでしょう。自分がなりたいものであれば、それがその子にとって大きく、立派な職業なのだと思います。自分で、何になりたいのか、自分は何がしたいのかをはっきり、堂々と言える子になっていってほしいと思います。
 そういえば、昔の女の子の大きくなったら何になりたいかの夢の中に、「お嫁さん」とか、「お母さん」とか、あったような気がします。そういえば、いつの頃か、そんな夢を持つ子は聞かなくなりました。それこそ、そんなものは、夢ではないと大人が言い聞かせてきたのでしょうか。ただ、そのときでも、男の子が、「大きくなったら、お父さんになりたい!」というのは、どの時代もあまり聞きませんね。
 昨年11月下旬に、カナダの「父親の育児」支援事業を伝授するティム・パケットさんが来日しました。彼は、この事業の総括責任者として一連のキャンペーンを手がけています。その中で、世界の国々から注目を浴びているのは、カナダ保健省が2003年から進めている父親の子育て支援事業で全国放映されたテレビCMです。それは、息子や娘のために遊びやスポーツに打ち込む父と、子どもの笑顔。そこに、こんなフレーズが流れます。
「お父さん、それはこの星で一番ステキな仕事」
 カナダでも、共働き家庭が7割に上り、離婚率は4割近くになり、「父は仕事、母は家事育児」の家庭像は変貌しています。若い親に「稼ぐだけでなく、子育てに関わる新しい父親像が求められている」と説いています。彼は、問題を起こす若者に共通して「父親不在」が響いていることから、行政や研究者らを巻き込みながら民間活動を育ててきました。とはいえ、父親支援って政府の仕事なのでしょうか。彼は、こんなことを言っています。
「父親が関わると、子どもの情緒や社会性の発達にいい影響を及ぼすことは、各種調査でも明らか。父親自身も地域に心を向け、職場でも成功する傾向がある。父が子育てする意味を、社会的に知らせていく必要があるのです。」
「お父さん」「お母さん」これは、なんとステキな仕事なのでしょうか。

エキナカ

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 この写真は、どこのデパ地下だと思いますか?最近、デパ地下が大人気です。いわゆる、デパートの地下売り場のことです。そこで、食事の、特に夕食のお惣菜を買って帰るのです。忙しいということもあり、勤め帰りに買って、家でそれを暖めたり、そのまま皿に乗せて食べるのです。最近の子どもたちのままごと遊びを見ていると、ハンバーグや目玉焼きなどの作り物を皿に乗せて、「さあ、どうぞ!」と出すだけの調理をすることが多くなりました。調理過程がないのです。そこで、私の園では、3,4,5歳児のままごとコーナーには、そのように出来上がったおかずは置かずに、材料を置いておきます。そうすると、包丁で切ったり、なべで煮たり、フライパンでいためたりするようになりました。と、話はずれましたが、最初の写真は、実は、駅の構内、改札口の内側です。いわゆる「エキナカ」と呼ばれている、最近の新しい試みです。車社会になってきて、電車を使用する客が減り、国鉄の民営化の中で、駅を根本から改革するという「ステーションルネッサンス」という取り組みです。駅は、電車に乗るところ、電車を乗り換えるところというように、通過する場所でした。それを、人が集う駅を創り出すことで、駅から地域社会へ、賑わいの波及効果が生まれるはず。地域との共生を目指そうというものです。この写真は、今日、宇都宮での講演に向かう途中で立ち寄ったJR大宮駅に、昨年3月に登場した、「エスキュート大宮」という売り場で、食品、ファッション雑貨、飲食店などが、「マーケットアベニュー」ということで68店舗並んでいます。これを運営している会社では、社長をはじめ、全員がサービス介助士という資格を取っています。ここ大宮駅での試みの前に、上野駅を始め、阿佐ヶ谷、西船橋、郡山などで改修をして、いろいろな改善をしてきました。かつて、駅にある店というと、まず「キオスク」という売店です。そのほかに、立ち食いそば、ジュース販売などがあります。それが、日本そばの店ができ、ラーメンの店ができ、ハンバーガーショップ、いろいろな店ができました。しかし、それらは、客の多様なニーズへの対応が十分ではなかったといいます。それまでの店舗は、乗り換えの間に時間をつぶすためが主な使い方でした。そこで、電車に乗るためでなく、駅に行きたくなるような、あるいは、乗換駅でなくて途中下車したくなるような、魅力ある駅作りとしてのひとつの集大成がエスキュート大宮なのです。「駅を利用する客を、従来の旅客から様々なニーズを有する顧客として捉えなおし、徹底した顧客志向により、客の視点に立脚した駅への発想の転換。」といいます。最近は、駅のホームにこんなものもできています。
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「床屋」です。今までの感覚から言うと、ホームとは思えませんね。その他にも特殊なものとしては、長野県の上諏訪駅には、ホームに「露天風呂」がありました。(今は、足湯になっています)切符を売る窓口では、切符をかたどった石鹸や、手ぬぐいも売っていました。また、最近では、託児所もできています。駅の魅力作りが街の魅力にもつながるというように、幼稚園や、保育園、学校の魅力作りが、街の魅力作りになっていかなければならないと思います。そのための、新しい発想と、企画力が求められてくるでしょう。

赤ちゃん

千歳に行って思いましたが、前回の支笏湖にしても、ウトナイ湖にしても、アイヌ語から来ている地名が多いですね。北海道では、言葉だけでなく、アイヌ文化のすばらしいことに出会うことが多くあります。たとえば、赤ちゃんのことをこんな風に書いてある絵本があります。「ヘカッタラ シノッ」という絵本で、ちむらまさる氏の作です。この絵本は、子どもたちが日々の暮らしのなかで、親の愛に見守られ、友だちと遊び、自然の中でいろいろな体験をすることで成長していく姿を紹介しています。いつの時代にもその本質は変わらないことを本書は表現しています。本書の題名の「ヘカッタラ シノッ」は、アイヌ語でヘカッタラは「子どもたち」、シノッは「遊び」という意味です。
「アイヌのひとたちは むかし あかちゃんを べちゃべちゃウンチ なんて よんだんだ。 かわいくて きれいなものが だいすきな びょうきの かみさまが あかちゃんに ちかづかないようにね。」
 乳幼児の死亡率が高かった時代、赤ちゃんの健やかな成長を願ってわざと汚い言い方で呼びました。赤ちゃんを守るために、かわいくてきれいなものに近づこうとする神さまは、臭くて汚いものが大嫌いだという世界観があり、「言葉の力」で病気を寄せつけまいとした愛情の表れだといわれています。そして、なまえも、5、6歳になったころにその子の個性にちなんでつけていましたが、体の弱い子の場合わざわざ汚い名前をつけたといわれています。
世界では、乳児に対していろいろな呼び方をしています。姿を現したり、様子を表したり、願いを表したりして呼びます。たとえば、「赤ちゃん」の語源は、新生児の皮膚の色が赤く見えることによるといわれ、「赤ん坊」や「赤子・赤児」も、皮膚の色に由来するといわれています。しかし、それほど赤くはないですね。ですから、赤ちゃんと言う理由としては、「赤」は、夜が「明ける」から来ていて、朝になって昇ってくる太陽からくる「純粋で穢れの無い」「生まれたて」「始まり」というイメージと、太陽=「赤」という印象が結びついたものだという説があります。また、「赤の他人」や「真っ赤な嘘」などの「赤」も語源は同じと考える説もあり、これは、「赤」には、「何も無い、全く無い」という意味がある、というものです。ほかにも、仏前に供える浄水を意味する梵語(サンスクリット語)の「アルガ」にある、ともいわれています。この「アルガ」は漢字をあてると「閼伽(あか)」、英語に転じて「aqua-アクア」となっていますが、どうやら「空」という意味も持っていたようです。どれが本当かわかりませんが、こんな面白い呼び方もあります。飛騨の民芸品に「さるぼぼ」という人形がありますが、これは、飛騨の言葉で「ぼぼ」は赤ちゃんという意味で、サルの赤ちゃんに似ていることからこう呼ばれています。災いが(さる)、家庭(えん)満などの願いがこめられています。色であらわすと、みどりご(緑児)と呼ぶこともあります。これは、「新芽のような子」という意味で、生まれたばかりの子をさしました。ちなみに、英語のインファント[infant](フランス語ではアンファン)は、「話せないもの」(unable to speak)という意味から出ているらしいです。どちらにしても、何もできないとか、話せないとかという言葉に比べて、アイヌの言葉のように守ろうという意味がある言葉はいいですね。

先導花

 今年は、各地で大雪が降り、雪の被害が多いですね。自分で、年を取ったと思う瞬間はいろいろなときにありますが、その一つに、雪が降ることが楽しかったり、うれしかったり思うことから、うんざりし始めたときに年齢を感じました。特に、あまり雪が降らない東京では、雪がふるのは楽しみでした。でも、今回のニュースを見ると、雪の多い地域では、雪は生活に密着していて、一つの自然として存在している観を強くします。ですから、「春を待ち焦がれるという」気持ちが強く沸くのでしょうね。そして、雪の多い自然の中で、春の兆候に敏感になるのでしょう。また、「春の兆し」をさまざまな動植物から感じ、その名前をつけます。有名なところで「春告げ鳥」がありますね。同じように、「春告草」と呼ばれているものがあります。それは、「梅の花」です。そのほかにもこの花は、「好文木」(こうぶんぼく)、「木の花」(このはな)、「風待草」(かぜまちぐさ)などとも呼ばれます。私の園では、毎年「年間のテーマ」があり、子どもたちにそのテーマに沿ってそれに親しんでもらったり、そのことに触れてもらおうというものです。今年のテーマは、「森の木陰でひとやすみ」ということで、「木」がテーマです。そして、年齢ごとにテーマの「木」を持っています。3歳児が「梅」4歳児が「竹」5歳児が「松」で、「松竹梅」になっています。だからと言って、もちろんお酒ではありません。松竹梅は、年の初め、正月のめでたい植物で、冬でも緑を保ち寿命も長いということで平安と長寿を表す「松」、冬でも緑を保ち雪にも折れること無いということで無事を表す「竹」、雪の中でも花をつけるということで生気と華やかさを表す「梅」という意味があります。『広辞苑』によると、「松と竹と梅。三つとも寒に堪えるので、中国では「歳寒の三友」と呼んで画の題材とされた。日本では、めでたいものとして慶事に用いる。」とあります。
先日の休みの日に、日本一の早咲きで知られる熱海梅園に行ってきました。ここに梅園が作られたのには、面白い話があります。熱海は、温泉で有名で、体の養生で訪れる人が多くいます。しかし、内務省の初代衛生局長であった長与専斎が、熱海に赴任した年に、次のように提唱しました。
「温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、適当な運動をするからである。もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない・・・・・」(「熱海風土記」―梅園記より)
それで、運動のために作られたといいます。私も運動のために妻と訪れたのですが、ちょうど「梅祭り」は始まっていましたが、今年はどうも寒いらしく、「梅1輪」も咲いていませんでした。しかし、帰りに、その代わりにいい花を見つけました。
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それは、「蝋梅」という花です。「蝋細工」のような花から「蝋梅」と呼ばれていますが、蝋月(陰暦の12月)に梅に似た花を咲かせるところからともいわれています。とてもよい香りがする黄色の花を咲かせ、南京梅あるいは唐梅とも呼ばれるようですが、梅の仲間ではありません。この花は、「春告げ」というほど春に近い時期に咲きませんが、他の花に先立って年の初めに咲くので、「先導・先見」という花言葉をもらっています。いい花と出会いました。行動を起こすと、目的は達することができなくても、思わない収穫があるものですね。

ウトナイ湖

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 今日は、千歳からの帰りに、「ウトナイ湖」に連れて行ってもらいました。ウトナイ湖で確認された野鳥は今までに260種以上いて、日本でも屈指の渡り鳥の中継地です。このあたりは、沼地や湿地や原野が広がり、このウトナイ湖も、ウトナイ沼とも呼ばれているようです。ですから、決して深くはなく、平均水深0.6mの淡水湖です。そのために、ここは、動植物の宝庫、野鳥の楽園ともいわれているのです。特にガン、カモ類やハクチョウなどの渡り鳥にとっては重要な中継地であり、マガンやハクチョウの集団渡来地として国際的に知られています。そこで、「ウトナイ湖」は、2005年、ラムサール条約事務局に登録されています。最近では、知床が世界遺産に登録され、話題になりましたが、この条約もとても重要なものです。
 この条約は、湿地や湖、沼、川、干潟など水のある土地(ウエットランド)に生息・生育する多くの動植物、特に国境を越えて移動する水鳥を中心に、世界各国が保護・保全することを目指しています。ですから、この条約の正式名称は、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」ということで採択されました。そして、1971年、この条約を締結した時の開催地が、イランのラムサールだったので、この名前にちなみ「ラムサール条約」と一般に呼ばれています。日本は1980年に加入。このとき、釧路湿原を最初の指定湿地候補にあげたのです。
 湿原、沼沢地、干潟等の湿地は、多様な生物を育み、特に水鳥の生息地として非常に重要です。しかし、湿地は干拓や埋め立て等の開発の対象になりやすく、その破壊をくい止める必要性が認識されるようになりました。しかも、湿地には国境をまたぐものもあり、また、水鳥の多くは国境に関係なく渡りをすることから、国際的な取組が求められます。そこで、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全を促し、湿地の賢明な利用(Wise Use)を進めることを目的として条約が作られたのです。1980年に条約加入の際に「釧路湿原」を登録して以降、「伊豆沼・内沼」「クッチャロ湖」「ウトナイ湖」が追加登録されました。今回訪れた「ウトナイ湖」は日本では、4番目に登録されたことになります。今は、日本では、30箇所が登録されています。
 ウトナイ湖にたくさん飛来しているコハクチョウは、夏にシベリアで繁殖し、冬には、南下して日本に渡ってきます。日本での中継地としては、北海道のクッチャロ湖、ウトナイ湖などがありますが、その後、その大半が、南下し、伊豆沼・内沼(宮城県)、猪苗代湖、佐潟をはじめとした新潟平野の湖沼などに渡ってきて、そこで越冬します。また、一部はさらに南下し、中海(島根県)で越冬するものもいます。これら中継地や越冬地の湿地が失われてしまうと、ハクチョウたちは、渡りのルートを変更しなければなりません。極端な場合には、ルートそのものが成り立たなくなってしまいます。このように、湿地は、渡りを行う水鳥たちにとってかけがえのないものです。人類は古来、干潟などの湿地とそこに生息する様々な生き物の恵みを受けてきました。それを破壊し、自然の営みを狂わせてきた人間として、次の世代に、それを取り戻す努力をしなければいけないのも人間だと思います。

無記

 私の園に、実習生が来たときです。彼女は、実習の途中で、風邪をひいてしまいました。そこで、しばらく休んでいたのですが、ほぼ治ったので出てきました。しかし、声が出ません。出そうと思っても、息が出るだけです。しかし、実習期間が終わってしまうので、まあ、2歳児の担当でしたので、声が出なくても大丈夫だろうとそのまま保育をしてもらいました。ところがとても面白い経験をしました。まず、朝、登園してくる子に声がかけられません。「おはよう」と、部屋に入ってくる子に「おはよう」と声がかけられないので、そばに行って、にっこりうなずくしかないのです。そのあと、子どもを呼ぶときも、子どもに何かを指示するときでも、何かを表現しようとすると、声が出ないので困ってしまいました。本当は、言葉とは、声だけではないはずです。ボディーラングェッジという、体での表現もあります。アイコンタクトという、目での表現もあります。絵で表したり、文字で表すこともできます。人の体は、いろいろな機能を持っています。しかし、その中で、多くの人は、声に頼っていないでしょうか。特に、言葉を使って保育をしていることが多いのではないでしょうか。声で、子どもを動かそうとしていることが多いのではないでしょうか。昔、電車の車内販売の売り上げのトップの人は、声で売り歩くのでなく、乗客の目を見ているのだということを聞いたことがあります。声での掛け声で止まる売り子に、私も思わず言いそびれてしまうことがあります。しかも、どうしようかと迷っているときに素通ってしまうと、「まあ、いいか。」と思ってしまいます。それを、乗客の目を見て歩くと、買いたそうな人がわかります。声をかけようとした人がわかります。子どもにも、「だめ!」と叱るよりも、とても悲しい顔をすることで、大切な人を悲しませたくないという思いからやめることがあります。登園をしてきた子どもに、よく来たねという気持ちは、声をかけても、他を向いていたり、いやそうな顔をしていたら、子どもには伝わりません。
 また、実習生が来たときに、こんな経験もあります。2歳児にはいっていた実習生は、子どもが自分でいろいろなことをどんどんやってしまうので、手を出すときがありません。そこで、担任に聞いてみました。「私は、何をすればいいですか?」園の職員は、悪気ではなかったのですが、その答えに、「では、そこをどいてて!」と言ってしまったのです。あとで、邪魔扱いされたと泣かれて困ってしまったことがありました。そのときに、「子どもとかかわることは、何も、相手をしたり、面倒を見るだけでなく、子どもがすることを邪魔しないで見守っているのもかかわるということだよ。」と言ってあげました。私は、「何もしないこと」が、子どもにとって、「何かをしてあげること」になることもあると思います。同じように「質問に答える」ことが、「何も言わない」ということもあります。それどころか、声に出さないことが、答えることになることもあるのです。「瀬戸内寂聴」著の「釈迦」の中にこんな文があります。
「人の質問に対して、たまに世尊は一言もお答えにならず無言を続けられることがある。それを世尊の「無記」と呼んで、深い意味があるのだという。あの世はあるのかないのか。地獄や極楽は確かにあるのか。人はどこから来てどこへ行くのか。そんな質問にはすべて「無記」の沈黙が返された。そんな愚問に答える必要がないとも取れるし、そんな深遠な問いに対して簡単に答えられようかとも取れる。そういう疑問に時を費やす間に、作務にでも打ち込めとも取れる。もしかしたら、それらの疑問に対する答えを探すことこそが、めいめいに課せられた求道の種子ではないかということなのか。世尊の「無記」は、どんなに激しい叱責の言葉よりも重く恐ろしいものを含んでいた。」
 なんと、「無記」とは、声のない答えでしょうか。もう少し、何かをする、声を出すということを考えたいものですね。

儒商

先日、テレビで、「論語とそろばん ?徳川家当主が見た中国経済と儒教?」という番組をやっていました。これは、最近、世界中の資金と資源を集めて膨張するアジアの虎―中国で、いま、その成長の影で、社会の歪も表面化しています。拡がる個人間・地域間の格差。急速な経済成長がもたらす負の側面が、看過できない社会不安として浮かび上がってきているのです。こうしたある種の閉塞感の中で、中国は伝統回帰のひとつとして、文革で否定され、その後の近代化において顧みられることのなかった「儒教」に再び光が当たり始めているのです。企業活動では、儒教を経営方針の柱にすえ、単なる利潤追求ではなく社会的貢献を目指す「儒商」と呼ばれる存在が注目を浴びています。「儒商」とは、「誠実信用」「品質による社会還元」「徳を重視する人材観」などを企業理念に掲げ、独自の企業文化を育もうとする企業のことです。これは、「論語とそろばん」で知られる澁澤栄一から綿々と続く日本の起業精神なのです。栄一は『道徳経済合一説』「仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります・・」、ということで、企業を発展させ、国全体を豊かにするために、幼い頃に親しんだ『論語』を拠り所に、道徳と経済の一致をいつも心がけていました。道徳と経済は、一見釣り合わないように見えますが、実は両立するものであり、利益を求める経済の中にも道徳が必要であると考えたのです。また、商工業者がその考えに基づき、自分たちの利益のために経済活動を行うことが、国や公の利益にも繋がるとして、みずから実践をしました。
同じような考え方が、二宮尊徳の教えにもあります。彼の10年に及んだ桜町復興の成果報告を、二宮尊徳から受けた小田原藩主大久保忠真は、「そちの方法は論語にある、『徳を以って徳に報いる(以徳報徳)』というやり方だな」と評しましたことに、わが意を得た尊徳は、その後自分の仕法を「報徳」と呼ぶようになるのです。尊徳の偉業については、別の機会に譲るとして、利潤追求ではなく社会的貢献を目指す「儒商」と同じような考え方のところをみてみます。報徳思想は、二宮尊徳が説き広めた思想であり、経済学説のひとつです。経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。特にその中で、「推譲」ということが柱の一つにありますが、これは、余った時間や財産は地域や社会のために使うことです。節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や会社のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えたのです。
儒商の考え方の似ていますね。
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 先日の休みの日に、二宮尊徳の生家と、資料館に行ってきました。彼も、実践を重んじる陽明学を基本とし、学者はあまり好きではなかったようです。民衆のことを第1に思い、具体的な改革をしていったのに、子どもの頃の銅像が学校に置かれ、国の政策に使われたことから、ずいぶんと不本意な扱いをされています。もう一度、私たちが学ぶべきことを見直す必要があると思います。

三原から竹原へ

昨日は、広島の三原市に行っていました。少し広島市からは遠いのですが、空港から近いのと、新幹線が止まります。私は、昨年、偶然に三原市から、空港までバスに乗ったのですが、それまでは行ったことはありませんでした。ここの「市の木」は、偶然にも、ブログで書いた「クスノキ」です。やはり、宇佐神宮の境内には市の天然記念物に指定されている大クスノキがあるそうです。確か、広島市も「クスノキ」ですね。広島も、戦前までは、戦前は巨樹老木が市内随所に見られたようですが、原爆でそのほとんどを失いました。しかし、生き残ったクスノキは、いち早く生命をよみがえらせ、市民に生きる希望と復興への力を与えましたということで、市の木になったようです。クスノキは、映画「となりのトトロ」で出てきたすごく大きな木です。全体に特異な芳香を持っているので、「臭し(くすし)」がクスの語源になったそうです。この材や根を水蒸気蒸留し樟脳を得ることができます。
 ここ、三原市は、広島県の南部に位置し、「浮城」の異名を持つ三原城の城下町を起源とする市です。三原城は、中国地方の覇者毛利氏の「毛利両川体制」の一翼を担った小早川隆景が城郭としての体裁を整えた名城です。この隆景は、あの有名なエピソードの「三本の矢」の毛利元就の三人の息子のうちの三男です。しかし、このエピソードは、後年作られた作り話であることがわかっています。この話しの原典は、中国の故事とも、伊曽保物語(イソップ物語)とも言われています。ただ、全く根も葉もない作り話というのではなくて、毛利元就が息子に宛てて、兄弟力を合わせる様説いた書状があった事から、脚色されたのだと考えられています。
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 昨日の午前中、竹原市に連れて行ってもらいました。ここは、初めて行きましたが、なかなかいいところです。この町は、元来、墾田永年私財法により、京都・下鴨神社の荘園地として開墾されたのが最初とされていますが、室町後期には、「隆景」が、竹原で幼少期を過ごしたなどで栄え、江戸後期の「塩田」と「酒造」により町は、発展をしていきます。現在は『安芸の小京都』と呼ばれ、2000年に国土交通省によって『広島風景百選』に選ばれています。竹原の町家は江戸時代に建てられたものが数多く残っており、その型式も平入りで切妻屋根のものと入母屋屋根のもの、妻入りで切妻屋根のものと入母屋屋根のものなど、さまざまなものがあります。平入の町屋は屋敷の規模が大きく、主屋、土蔵、塀などが連続して立面を構成しているものがよく見られます。妻入の町家は町の周辺部に多くありますが、中には竹鶴邸のように、平入と妻入の建物を組合わせ、さらに妻入の建物を連続させた珍しい建築もあります。
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 ところで、この竹鶴邸というのは、享保以来の酒造家で、ニッカウヰスキーの創業者であり、『日本のウイスキーの父』と呼ばれている竹鶴政孝氏の生家でもあります。彼は、寿屋(現在のサントリー)山崎工場初代工場長として、日本初の本格ウイスキー製造を指揮し、その後、大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)を興しました。イギリスのヒューム副首相が来日した際、一人の青年が万年筆とノート(竹鶴ノート)でウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった、という意味の発言をしたと言われています。
 これは、決して、非難の言葉ではなく、賞賛の言葉だそうです。よいところをまねよう、盗もうということは、決して悪いことではないのです。