江戸東京博物館と国技館

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 今日は、久しぶりに、都内を散歩しました。もらったチケットがあったので、久しぶりに「江戸東京博物館」に行きました。この江戸東京博物館は、失われつつある江戸東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化を振り返ることによって未来の東京を考えるために設立された博物館です。しかし、下町の景観を損ねたうえに激しいビル風との批判も受けています。また、バブル期に計画されたため維持費用も膨大で、都の持ち出しも多いので、「こんな物はつぶしてしまえ!」と石原都知事が言いましたが、実際に見学したところ、これは、大切だということで、残ったことで有名です。この建物の設計は、菊竹清訓氏によるものです。彼は、福井県の久留米出身ということで、久留米市役所の設計を手がけ、一度その地に行ったときに案内をしてもらいました。(あの携帯電話のような建物です)この江戸東京博物館は、高床式の倉のイメージで設計されたと言われています。ここで、今、大河ドラマ『功名が辻』特別展『山内一豊とその妻』という企画展をやっているので、それを見に行ったのです。
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 この建物は、その隣り合わせにある、両国国技館との調和を考えて設計されたとも言われています。今は、国技館というと両国を思い浮かべる人が多いのですが、私は、「蔵前国技館」のほうを思い浮かべます。というのは、私の出身幼稚園は、蔵前でしたし、小学校の運動会は、蔵前工業高校のグラウンドで行っていたというように、蔵前の近く、鳥越で育ったからです。大相撲は、まさに「栃若(栃錦と若乃花)時代」でした。そして、若乃花が優勝すると、優勝パレードを住んでいた場所の近くを通ります。蔵前国技館から、中野の相撲部屋に帰るのに、蔵前通りを通るからです。よく見に行きました。もともとは、国技館は、明治42年(1909年)に両国に開館しました。しかし、それまでは、勧進相撲の開催場所として、蔵前八幡・深川八幡・本所回向院・神田明神など決まっておらず、天保年間に本所回向院が定場所となりました。そして、江戸中を巡って興行を行っていた江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになったのですが、雨雪などで順延になることも多かったため、日本銀行や東京駅などの設計で有名な辰野金吾氏と葛西万司氏との設計で両国国技館が建てられました。しかし、第2次世界大戦の戦局が悪化してくると両国国技館は軍部に接収されてふ号爆弾(風船爆弾)の工場として使われ、空襲で焼け落ちてしまいます。そして、戦後、進駐軍に両国を追われた後、蔵前に国技館を建設したのです。蔵前の地は古くから相撲との係わりが深く、江戸時代に蔵前神社(蔵前八幡)で勧進相撲が催行されていました。この蔵前では、栃若時代だけでなく、大鵬と柏戸の「柏鵬時代」、輪島と北の湖の「輪湖時代」、千代の富士時代柏鵬時代と数多くのドラマを提供しました。しかし、老朽化のため、昭和59年9月の千秋楽を最後に35年にわたる歴史の幕を閉じたのです。ここでは、相撲だけでなく、プロレス興行も行われ、最後の対戦は、「アントニオ猪木対長州力(長州小力ではありません)」で、アントニオ猪木のフォール勝ちでした。あの伝説のキャンディーズも蔵前国技館でコンサートを開催したことがあります。そして、今の新両国国技館が、両国駅をはさんで旧両国国技館と対称の位置にある旧国鉄の用地に建てられたのです。なんだか、あのあたりは、私にとって、「ALWAYS 三丁目の夕日」です。