見守る

 昨日から訪れている長崎は、「見守る保育研究会」という勉強会に参加するためです。私が提案する保育を、「見守る」と表現する人が多くいます。それは、私の提案は、なにも保育に限らず、育児においても、地域社会においても、新しい時代におけるコミュニティーのあり方を考えようというもので、「関係性」の構築です。その関係性を表す言葉として、この「見守る」というのは、とても重要な考え方です。「見る」だけでなく、「守る」だけでもありません。今日の夕方、メンバーのうちの何人かが、近くのグラバー園を見て歩きました。これは、「見て歩く」です。そこに、学びがあります。それが、「見学」です。しかし、その文化遺産を残していこう、大切にしていこうとすると、この施設の「見守り」が必要になってきます。それは、1人称だけの動きだけでなく、相手との関係性が生まれてくるからです。しかし、関係性を構築しようとするときには、関係における「距離感」を考えることが必要になってきます。たとえば、グラバー亭を残そうとするあまりに、周りをコンクリートで固めようとしたりく、作り直そうとするのではなく、その文化が訴えかけようとする思いを大切にし、建物自ら建っているような、昔の思いをそのまま生かすような工夫をしなければなりません。それが、「見守っていく」ということになります。相手に干渉することなく、相手を生かさないとならないからです。そのためには、まず相手を知ることから始めなければなりません。そして、最終的には、その見守りの中で、自ら律し、自ら生きていこうとする力をつけてあげることが必要です。
 私の教員時代に、クラスの歌を作っていました。それを、クラスの子どもたちがよく歌っていました。1年生を担任していたときの歌詞は、こんな歌詞でした。子どもたちと作ったのですが、1番、2番は、クラスの年間を通して取り組み、そして、3番は、私の望む最終的なクラスの子どもの姿を表わしています。「ぼくらのクラスは なんでもじぶんで できるんだ 先生なんか ようはないのさ 三小 三組 みんなそろって いちにのさん」
 この歌詞は、「十八史略」のなかの「鼓腹撃壌」という逸話に感動し、教師とは、このような存在になりたいと思ったからでした。それは、聖天子の聞え高い帝堯のころ、堯は自分の存在が人々からどう思われているかを知るために、目立たぬ衣服に身をやつし、こっそり町中にしのび出てみました。そして、「天子さま私たちがこうやって元気に楽しく暮すのはみんなあなたのお陰です。」という歌を聴いたときに不安になります。しかし、白髪の老百姓がひとり、食べもので口をもごつかせながら、木ごま遊び――撃壌(壌をぶちつけあって勝負をきめる遊び)に夢中になり、お腹を叩いて拍子をとって、しわがれた声でつぶやくように、だが楽しげに歌っている内容が、「日が出りゃせっせと野良仕事、日ぐれにゃねぐらで横になる。のどの渇きは井戸掘ってしのぐ、腹の足しには田畑のみのり。天子さまなぞおいらの暮しにゃ、あってもなくてもおんなじことさ。」というものでした。これを聞いて、自分の政治がうまくいっていると喜んだという逸話です。これに感動をした教師の頃から、「見守る」という概念ができ始めたのかもしれません。