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2006年01月31日 [近頃思うこと]
言わなくてもわかる?
明日から2月です。毎月、園便りを発行していますが、そのなかで、わたしは、「巻頭言」を担当しています。そこには、私の考え方、感じたことを書いています。最近、日本の文化の中で、少し変わってきたと思うことに、「言わなくてもわかる。」とか、「子どもは、親の背中を見て育つ。」ということがあります。この言葉には、少し、甘えがある気がします。「察する」ということはとても大切な能力ですが、やはり伝わっていないと思えば、きちんと、言わないとだめだと思います。以前、こんなことがありました。園に入園してくる保護者の皆さんは、当然、園の考え方、園の方針を理解し、それに賛同してくださっていると思っていました。ある年、各クラス保護者会が始まる前に、全体に向けて、園の方針を話しました。すると、何人かの保護者の方に、「話を聞いて、本当によかった。」とか、「園の考え方がわかりました。」とか、「感動しました。」という声を聞いて、考えてしまいました。ということは、それまで、園の方針をあまり知らなかったのだということです。この園を選び、評判がよいといううわさがあっても、具体的に説明しないとわかっていなかったのです。ショックだった感想にこんなのがありました。子どもたちが、生活の中で、友達との関係からいろいろなことを学び、そして、時にはトラブルを起こし、泣いたりすることがあります。それを、保育者が見守りながら、子どもの成長を支えているのだということを、具体的な例から話した時です。「園は、ただ、子どもを泣かせているのではないということがわかって、本当によかったです。」という感想をもらいました。ふと、今までは、園は、ただ子どもを泣かせているのだと思っていたのだろうかと思ってしまいました。それ以後、参加者が少なくても、毎年、きちんと方針を説明することにしていますし、毎月の巻頭言で、園の考え方をお伝えしています。
同じように、バブルの頃は、父親たちはとても忙しく、妻のこと、子どものことにかまってやれませんでした。しかし、自分が一生懸命に働いている後姿を見れば、わかるであろうと思っていた頃がありました。しかし、気がついてみると、夫婦間、親子間の気持ちにずれが起きてきてしまっています。きちんと、前を向いて、話をしないとダメだったのです。結局は、忙しいという言葉に甘えてしまってきた気がします。今の時代の、少子化、育児の伝承、若者の働く意欲、それらの問題点は、「言わなくてもわかる。」という甘えに一因がある気がします。医療のなかで、インフォームド・コンセントということが言われています。「説明・理解」と「同意」ということですが、どちらが欠けても成立しません。しばしばこの点は誤解されるようです。「お医者様に全部お任せします」といって十分な説明を受けない態度や、「十分に医師・歯科医師として説明は行った」として半ば説得して「同意」させる態度がありますが、これらは不十分だと言われています。子どもとの関係でも、親は、まず、きちんと説明をする必要があります。園と、保護者との関係でもそうです。また、説明だけでなく、「話したから、いいでしょ!」とか、「子どものことは、とやかく言わないで、任せなさい。」というのも違います。きちんと、こちらの考え、内容を伝え、同意を求めていかないとならないのです。保護者のほうでも、ただ、要求だけを伝えたりすることが多く見られます。今、双方にそのような文化が育っていない気がします。
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2006年01月30日 [教員の頃]
ピグマリオン
今日は、近くの医院に行きました。私は、少し血圧が高いために、定期的に計ってもらっています。最近は、肥満気味なので、高いとも言われますが、若い頃から高いので、生まれつきとか、遺伝とか言われています。でも、自分では、意外と精神的かなと思うところがあります。あるとき、血圧が高いと言われました。そうすると、その後、血圧を計るときに、「高いと、どうしよう。」と、どきどきしてしまいます。看護師さんに、「深呼吸して!」とか、「ゆったりとして!」といわれても、余計どきどきしてしまうのです。「がんばれ!」と励まされると、余計に落ち込んでしまうのと似ているのかもしれません。私は、かつて、内蔵を悪くしたことがあって、毎年、胃カメラを飲んでいたことがありました。胃カメラは、私は苦手で、どうしてもゲーゲーしてしまいます。ある年、検査に行って、控え室で喉をうがいしていました。これは、喉を麻酔して、少しでも刺激をなくそうというものです。今日は、ゲーゲーするのをよそうと、一生懸命に、丁寧にうがいをしました。しばらくして、検査室から看護師さんが、名前を呼びました。そのときに、自分で、予期しない、びっくりしてしまったことが起きました。なんと、検査室の戸をあけて、部屋の中に一歩入った瞬間にゲーゲー始めたのです。まだ、何も、検査をしているわけでもなく、喉に何も入れているわけでもないのにです。そのとき、小学校の教員時代のある出来事が思い出されました。給食のときに、ある子が目の前の野菜に手をつけていないので、私が「あれっ、野菜、食べないの?」と聞いたところ、突然、ゲーゲー始めました。私は、「先生は、無理に食べろなんて言わないのだから、わざとらしく、ゲーゲーしないでよ。」と言ったのを、思い出したのです。「あの時は、わざとではなかったのだ。私が声をかけた瞬間、喉が食べたと思って、その反応をしただけなのだ。」とわかったのです。私の検査の日も、部屋に入ったとたん、喉に胃カメラを入れられたと思って、そのときの反応をしたのです。人の体って、本当に不思議ですね。子どもが学校に行きたくないと思うと、本当に熱が出たり、おなかが痛くなることもあります。逆のこともあります。「ピグマリオン効果」といわれているものです。アメリカのローゼンタールという人の実験結果から、期待することによって、相手もその期待にこたえるようになる、という現象をいいます。ピグマリオンという名前はギリシア神話から取っています。ギリシャ神話のキプロスの王、ピグマリオンには女性忌避症があり、俗世の女性を愛することはできないと考えました。それで象牙で理想型を彫刻をつくり、それをこの上なく大切にし、彫刻が人間であってほしいという夢を見るようになりました。そして、美の女神アフロディテに彫刻像の女性を妻として迎えられるようにしてほしいと切実に祈ったところ、女性像が呼吸を始め、この女性と結婚し、娘も生まれ、彼の女性観も変わったという話です。ここから「ピグマリオン効果」という言葉が出ました。このような効果が起こる理由として、ローゼンタールは、人は常に相手の期待に対し最も敏感に反応するから、と説明しています。この実験は後に、その実験内容に不備があるという指摘がなされたため、この実験結果をそのまま信じることはできませんが、私は、子どもに対して期待をもち、その子の長所を伸ばそうという温かい態度で接していれば、子どもも自分にあった望ましい方向に伸びていく可能性はあるように思います。もう少し、子どもを信じて、待っていてあげる必要があるのかもしれません。
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2006年01月29日 [散歩]
江戸東京博物館と国技館
今日は、久しぶりに、都内を散歩しました。もらったチケットがあったので、久しぶりに「江戸東京博物館」に行きました。この江戸東京博物館は、失われつつある江戸東京の歴史遺産を守るとともに、東京の歴史と文化を振り返ることによって未来の東京を考えるために設立された博物館です。しかし、下町の景観を損ねたうえに激しいビル風との批判も受けています。また、バブル期に計画されたため維持費用も膨大で、都の持ち出しも多いので、「こんな物はつぶしてしまえ!」と石原都知事が言いましたが、実際に見学したところ、これは、大切だということで、残ったことで有名です。この建物の設計は、菊竹清訓氏によるものです。彼は、福井県の久留米出身ということで、久留米市役所の設計を手がけ、一度その地に行ったときに案内をしてもらいました。(あの携帯電話のような建物です)この江戸東京博物館は、高床式の倉のイメージで設計されたと言われています。ここで、今、大河ドラマ『功名が辻』特別展『山内一豊とその妻』という企画展をやっているので、それを見に行ったのです。
この建物は、その隣り合わせにある、両国国技館との調和を考えて設計されたとも言われています。今は、国技館というと両国を思い浮かべる人が多いのですが、私は、「蔵前国技館」のほうを思い浮かべます。というのは、私の出身幼稚園は、蔵前でしたし、小学校の運動会は、蔵前工業高校のグラウンドで行っていたというように、蔵前の近く、鳥越で育ったからです。大相撲は、まさに「栃若(栃錦と若乃花)時代」でした。そして、若乃花が優勝すると、優勝パレードを住んでいた場所の近くを通ります。蔵前国技館から、中野の相撲部屋に帰るのに、蔵前通りを通るからです。よく見に行きました。もともとは、国技館は、明治42年(1909年)に両国に開館しました。しかし、それまでは、勧進相撲の開催場所として、蔵前八幡・深川八幡・本所回向院・神田明神など決まっておらず、天保年間に本所回向院が定場所となりました。そして、江戸中を巡って興行を行っていた江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになったのですが、雨雪などで順延になることも多かったため、日本銀行や東京駅などの設計で有名な辰野金吾氏と葛西万司氏との設計で両国国技館が建てられました。しかし、第2次世界大戦の戦局が悪化してくると両国国技館は軍部に接収されてふ号爆弾(風船爆弾)の工場として使われ、空襲で焼け落ちてしまいます。そして、戦後、進駐軍に両国を追われた後、蔵前に国技館を建設したのです。蔵前の地は古くから相撲との係わりが深く、江戸時代に蔵前神社(蔵前八幡)で勧進相撲が催行されていました。この蔵前では、栃若時代だけでなく、大鵬と柏戸の「柏鵬時代」、輪島と北の湖の「輪湖時代」、千代の富士時代柏鵬時代と数多くのドラマを提供しました。しかし、老朽化のため、昭和59年9月の千秋楽を最後に35年にわたる歴史の幕を閉じたのです。ここでは、相撲だけでなく、プロレス興行も行われ、最後の対戦は、「アントニオ猪木対長州力(長州小力ではありません)」で、アントニオ猪木のフォール勝ちでした。あの伝説のキャンディーズも蔵前国技館でコンサートを開催したことがあります。そして、今の新両国国技館が、両国駅をはさんで旧両国国技館と対称の位置にある旧国鉄の用地に建てられたのです。なんだか、あのあたりは、私にとって、「ALWAYS 三丁目の夕日」です。
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2006年01月28日 [近頃思うこと]
携帯電話
今日から、JRの改札口が、携帯電話で通れるようになりました。携帯電話が、人と話をする電話であるという時代は、とうに、過去の話になってしまいました。私の財布には、いろいろなカードが入っています。その中で、乗り物関係のものが多くあります。その代表格は、「スイカ」と呼ばれるカードです。「Suica(スイカ)」 とは、JR東日本の出改札システムで使用されるICカードの総称です。「Super Urban Intelligent CArd」の頭文字をとって名づけられています。もちろん、音から、“スイスイ行けるICカード”という意味があるのは、誰もが気がつくことですね。よく言われるこの「ICカード」のICとはIntegrated Circuit(集積回路)の略であり、プラスティックカードにICチップを埋め込んだカードの略称です。このICを使う前は、「イオカード」とか、「オレンジカード」を使っていました。今、このカードの使えるエリアは、首都圏エリア、仙台エリア、新潟エリア、近畿圏エリアです。ずいぶんと広範囲になったものです。次によく使うカードは、「パスネット」というもので、首都圏の22の鉄道の乗り降りができます。たとえば、小田急、京王、京成、京急、東京メトロ、都営地下鉄などですので、よく使います。その次によく使うのが、「バス〈共通〉カード」というカードで、東京・神奈川・埼玉・千葉の一都三県に路線を持つ主なバス事業者で共通して利用できるバスのカードです。同じようなカードが、関西エリアにもありますね。「イオカード」に相当するものが、「イコカカード」というもので、JR西日本のICカードです。イコカとはIC Operating CArdの略とのことですが、いかにも関西らしい「行こか!」という雰囲気が出ていますね。「パスネット」に相当するものが、関西の私鉄のほとんどを網羅している「スルっとKANSAI」というカードです。それぞれ、ネーミングが面白いですね。なんとなく、関西らしさがあり、その気質や正確が出ている気がします。改札を通り抜けるのに、関東は「すいすいと抜け」関西は「行こうか」と通り抜け、関東は改札口を「パスする」のを、関西では、「するっと抜ける」という感覚は、面白いですね。
しかし、それらのカードは、次第に携帯電話の中にすべて入っていきそうです。便利でいいのですが、ネーミングが、「携帯電話」では、変ですよね。まあ、「モバイルSuica」とは言うのですが。ほかにも、「おさいふ携帯」というのもあります。携帯電話で、ものが買えたり、自動販売機から飲み物が買えます。財布は、もう要らなくなります。あと、飛行機のチケットの購入と、チェックインができます。そのほか、宿泊地などの予約、辞書代わりにいろいろなことを調べる、音楽を聴く、ラジオを聴く、今いる場所がわかる、子どものいる場所がわかる、ビデオ、写真を撮る、声を録音する、計算をする、メモ帳、予定を記入するカレンダー、もう際限がありません、もうすぐ、日本語を英語に翻訳をするなども、簡単にできるようになるかもしれません。機械でできることは、すべて、あの小さな機械で可能になります。しかし、英語を話せるようになっても、どんなに進んでも、話す内容は考えてくれません。人格ももつことはできません。善悪を判断することはできません。英語を早くから教えようとしていますが、英語が話せるようになったとき、その英語で、何を話すのでしょうか。話す内容は、人間が考えるしかないのです。
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2006年01月27日 [記念日]
ザルツブルグ
今日は、ヴォルフガング アマデウス モーツアルトの250歳の誕生日です。というより、生誕、250年です。彼は、1756年1月27日、ザルツブルグに生まれ、1791年12月5日、ウィーンでなくなりました。ザルツブルグに生家と、幼少期に過ごした家が残っています。その家が今は、記念館になっています。私は、4年前にそこを訪ねたことがあり、また、来月行く予定です。といっても、目的地は、そこではなく、有名な建築設計士であるイエンス・ペータース氏の設計によるシュタイナー学校を見るためです。
彼は、建築デザインと工業デザインの融合を提案しています。シュタイナー学校の建築設計、及び車両デザイン(ICE、IRなど)のヨーロッパにおける第一人者です。子どもの成長こそ、学校建築における機能の内実であるという確信から、シュタイナー学校が建築されたこと、車両デザインに有機体の思想の欠如しているという意識に基づいて、インターレギオ車両やICE1で試みられたことなどで、それがわかります。前回行ったときに残念だったことは、雪まじりの曇天だったため、その建物の背景にある山々が見えず、山から流れ落ちる川をイメージした屋根の設計と、それぞれの教室の窓から見える背景となる景色が見えませんでした。今回は、どうでしょうか。ただ、訪問する2月は、基本的には、毎日暗い、雪まじりの天気が多いので、期待はできませんが。滞在は、ミュンヘンですが、今は、EU諸国は、まったく国内という感じなので、ドイツからオーストリアに行くのも簡単ですし、通貨もいっしょですし、ちょっと足を伸ばすという感覚です。ミュンヘンのキンダーガーデンでも、給食は、半分くらいの園では、このオーストリアの業者から運んでもらっています。国内でまかなえる食材は限られるからと言っていました。ですから、国内産と同じ感覚ですね。ここは、大司教区として栄え、岩塩の生産地でもあります。その美しい街並みや風景は、サウンドオブミュージックのロケ地としてあちことが使われました。また、ザルツブルク音楽祭でも有名で、多数の教会もあります。
今日、誕生日を迎えるモーツアルトは、私は、好きな作曲家です。特に、オーボエ協奏曲と、ピアノ協奏曲が好きで、その全集をもっています。K288などは、楽譜を買ってきて、第2楽章のさびの部分を必死に弾いた記憶があります。映画にもよく使われますね。また、息子が幼稚園の頃、音楽祭で、アイネクライネ・ナハトムジークという曲を、メロディオンの鍵盤を目いっぱい使って弾きました。また、この曲を、訪れたシュタイナー学校のオイリュトミーの授業で使っていたのをみたとき、神秘的なオイリュトミーが、ずいぶん身近に感じました。また、こんなことを聞いたことがあります。今の若い人は、ロックやラップなどを聞くと心が落ち着きますが、胎児は、親に関係なく、クラッシックを聞いているほうが落ち着くようです。特に、モーツアルトの曲が落ち着くといわれています。アルフレッド・トマティス博士というフランスの医師が、子どもの学習と音環境の関係についてリサーチを行って、赤ん坊は生まれる前から音を聞いているということ、そしてこの出生以前の聴覚経験が、幼児の成長の重要な要素であるということを発見しました。彼は「モーツァルトは素晴らしい母親だ」と表現していたそうです。大人の好み、価値観と違ったところで、子どもは、育つことがあるのですね。
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2006年01月26日 [近頃思うこと]
人との付き合い
昨日は、市内の小学校の研究授業に行ってきました。とても面白い試みで、1、2年生は生活科の時間を使って、3、4、5、6年生は、総合的な学習の時間を使って、「由井二っ子」という活動です。この時間は、1年生から6年生までの異学年集団での「縦割り班活動」を行います。全部で、18の課題に分け、それぞれの班は、各学年からの2~3名で構成をします。課題は、主に「生き物」「遊び」「暮らし」「音楽」などで、たとえば、「昔の暮らしを体験しよう」では、1年かけての活動で、大豆を畑で育て、それを石臼で轢いて、きなこ団子や、豆腐を作り、最後のフェスタでみんなに披露するというものです。まず、発達が違う子との関係から、さまざまな工夫が必要になってきます。話す言葉も、説明も、高学年の子は苦労しています。また、普段なかなか他学年の子と触れる機会のない子は、付き合い方で戸惑っています。この苦労、戸惑いがとても大切だと思います。今の子どもたちは、いつも心地よい関係の中で過ごすことが多い気がします。話のわかる人、話を聞いてくれる人、自分にあわせてくれる人と付き合い、相手に合わせて付き合うことは少なくなっています。その意味では、異学年集団での活動は大切な気がします。
「オランダの教育」(リヒテルズ直子著)には、オランダにおける新しい教育の試みが紹介されています。オランダの教育は、オルタナティブ教育である。「オルタナティブalternative」というのは、「何かに取って代わる」とか「もう一つの別のやり方」というような意味です。すなわち、既存の教育に取って代わる別の教育という意味です。ここでいう既存の教育といわれるのは、長い間当然の形式とされてきた、同じ年齢の子どもを一つの教室に集め、先生が教壇に立って、主に一方通行で知識を伝達し、子どもはそれを受身に習う、という教育のことでしょう。その中で、オランダの多くで取り入れられている教育は、イエナ・プラン教育といわれているものです。これは、子どもと社会の理想像、そこから導かれる教育の原則が二十項目の「イエナ・プランの基本原則」として明記されています。例えば人はユニークなものであり、一人しかいない存在です。だから、子どもも大人も各人は他のものでは代えることのできない価値を持っています。原則の4番目には、人はまとまりの人格を持った人間として認められ、可能な限りそういう態度で待遇され、話かけられるべきであると書かれています。また、原則の6番目には、人は各人がユニークで何者にも代えがたい価値を持つ者であることが尊重される共同社会を目指して働くべきであると書かれています。原則では共同社会についての見方も、明確に定義してあります。このようにイエナ・プラン教育では、子どもを育てるにあたって、子どもが育ち、やがて一員となっていく社会とはどうあるべきかということについて、明確な理想像を言葉にしているのです。
教育とは、何かの知識を学ぶことではなく、社会での生き方を学ぶところでもあります。社会とは、人と人との関係を中心として、人と自然、人と物など様々な関係のなかでなりたっています。ということは、社会を学ぶということは、関係を学ぶことでもあります。そして、一人ひとり、自分の価値に気がつき、その価値を尊重する社会を学ぶためにも、人とのかかわりが必要になります。昨日の研究授業には、そんな意図も含まれています。
投稿者 fujimori : 21:13 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月25日 [近頃思うこと]
仕事
ある町の市長選の演説です。
「前略―このような演説の機会に、「私に投票してください。」という人が多いのですが、しかし、皆様、私はそんなことは言いません。次のような人に投票してください。「この人に信頼できる。この人がこの町の発展を助ける。」と思われる人に。ただ、一つだけ言っておきたいと思います。もし、私が当選したら、できることはすべてやって見せます。そして、この町を発展させたいと思います。(一同拍手)そして言いたいことがもうひとつあります。次のような人に投票しないでください。当選するために、イベントで人にお金を渡したような人です。なぜなら、そんなことをしなくても、よくできる候補が多くいるからです。しかし、賄賂を渡さないとなんともならない人もいるようです。こういうことはよくないと思います。なぜなら、この選挙は自由で、この選挙は平等だからです。」
この演説は、ドイツで毎年行われている子どもの都市「ミニ・ミュンヘン」での市長選挙で、立候補した14歳の少年の演説です。私が気に入ったフレーズは、「私に投票してください。」とは言わずに、「こんな人に投票してください。」と言った所です。ミニ・ミュンヘンは、8月の夏休み期間3週間だけ誕生する7歳から15歳までの子どもだけが運営する「小さな都市」で、ドイツのミュンヘンでは20年の歴史があります。この都市で市民権を得るためには、まず少しだけ仕事と学習が必要です。市民権を得た後は、自由に自分の好きな仕事を見つけて働くと「ミミュ」という通貨をもらえます。時給すべて5ミミュですが、1ミミュは税金として市役所に納めなければなりません。そして、ミミュを持っていると、映画を見たり、タクシーにも乗れますし、おいしい食事もできます。しかし、働かないとそのお金は手に入りません。コックさん、タクシー運転手、花屋さん、デパートの定員、デザイナー、新聞記者、教員、公務員、議員、市長など仕事はさまざまです。そして、お金が余ったら、銀行に預けたり、土地を買って店を経営します。そのために、銀行ができ、建築家ができ、大工さんがいます。清掃局があり、広告代理店も、テレビ局も、大学もあります。しかし、投資家はありません。どれも、体を動かして、働き、お金を得ます。
リクルート出身の和田中の藤原さんの授業が新聞に紹介されていました。「よのなか科」という授業です。「お金で買えないものを9個挙げよ。」「ビル・ゲイツは、帝釈天どおりの商店主よりも幸せだろうか。」藤原さんは、今回のホリエモンは最高の教材と言います。「正解のなくなった成熟社会で、極端な価値観を示した。彼は、停止していた人々の思考のスイッチを入れたんです。」と言っています。
このミニ・ミュンヘンで大人として関わっている人のインタビューで「なぜ、こんなことをするか」という問いに対して、「ここで、子どもたちはいろいろなことを体験できます。しかし、子どもが体験するのは、仕事だけではありません。他の人と接することです。人との付き合いも体験しています。これこそが、一番重要なポイントだと思います。」
仕事とは、体を使うことのほかに、人との関係をどう作るかの問題が含まれています。ただ、コンピューターの前に座って、画面とだけ接しているような仕事を、最初に、子どもたちには教えるべきではない気がします。
投稿者 fujimori : 19:45 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月24日 [講演先にて]
機内誌
飛行機に乗ると、機内誌がおいてあります。そこに、思わない収穫があることがあります。今回、JALの機内誌にこんな記事がありました。
養老孟司(脳を旅する)ある保育園の理事長も務めている養老さんは、園では子どもたちを戸外に連れ出すことはあっても、勝手に遊ばせているだけと言います。最近、脳からの検証が盛んですが、こんな話はいいですね。
「戸外で体を動かして生き生きするのは、実は体だけではない。ある統計がある。3歳くらいの子ども100人以上の生活時間と識字率の関係を調べたら、外遊びの時間が長い子どもほど文字を知っているという結果が出た。意外なようだが、脳の成長の仕組みを考えれば、これはあたりまえ。体を動かすことが脳を育ててるからである。脳には、目、耳、手足など皮膚感覚を通して、外部からいろいろな情報が入ってくるが、逆に脳から出すことができるのは体の運動だけだ。しゃべるだけでも声帯や口を動かさなくてはならない。動かしてみて、その感覚をまた脳にバックしていく。そうやって入出力をぐるぐる回していきながら、脳は育つ。一見、無意味なような遊びの中から、いろいろなことに出会って、自分なりのルールを作っていくことは、生き物としての人間には大事。特殊な才能を育てるのはその先でいいとぼくは思う。おとなが思っているよりずっと、子どもは自然に近い生き物なのだ。」
高輪時間(高輪プリンスホテルを作る人々)ここには、このホテルの各分野のスタッフの言葉が綴られています。コマーシャルですが、一流の言葉は、どの分野にも共通します。
「ベルボーイ:お客様の目を見れば、瞬時に、求められているものがわかる。そんなベルボーイが目標です。」彼は、二年目に入った頃、視野に入ってくる空間が広くなったことに気がつきましたと言っています。どうしても、保育者は、年数を重ねるに従って、視野が狭くなる気がします。視野が狭くなると、子供の目を見れば、瞬時に求められるものがわかる。そんな親であったり、保育者にはなれないですね。
「メール・ド・テル:お客様が求めているのは、どんな空気か。それを発見し、つくるのが私の仕事です。」彼は、グラスを置く位置も、人によって心地よい場所が違う。お客を理解すれば、何をすべきかわかると言います。環境を設定するためには、まず、相手の理科がなければならないのです。
「総料理長:料理人は、臆病なくらいでいい。それがパーファクトを目指して挑み続ける情熱の芯になる。」彼は、常に新しいものに挑戦する姿勢が大切だと言います。これでいいと思ったら、それがその人のレベルだとも言います。だから、本当にこれ以上できることはないか、臆病なくらい自分に問い続けることをしています。
「ゲストリレーション:心を透明にして、お客様の話を聞くこと。それが的確な答えをご提供するための第1歩」質問が同じでも、答えが同じとは限らないと言います。子どもからの質問に、また同じことを聞く!と言うことは、心の真ん中で聞こうとしないかもしれませんね。
こんないろいろな言葉が聴けるのも、旅のよさかもしれません。
投稿者 fujimori : 20:58 | コメント (2) | トラックバック
2006年01月23日 [講演先にて]
いろいろな姿

今日は、松山に来ています。いろいろなところを訪れますが、それは、土地というより、いろいろな人と出会うという印象です。ですから、場所の移動の疲れより、いろいろな人との出会いに疲れるという感じです。しかし、私の場合は、いろいろな土地に行って面白いというより、いろいろな人と出会って面白いという感じです。
人は、場所のことをすぐ思い浮かべます。愛媛の松山に行ったというと、「いいですね。道後温泉ですか。」といわれます。しかし、私の場合は、本当は幸せなことなのでしょうが、宿泊先は、呼んでいただいた先方が予約をすることがほとんどです。すると、人様々というように、宿泊先も様々です。そして、その宿泊先で、私への先方の印象を感じることがあり、精一杯の心遣いを感じます。今日の宿泊先は、道後温泉でなく、松山全日空ホテルです。長崎でも、長崎全日空ホテルでした。(とても、すばらしいシティーホテルなのですが、私は、本当は、ひなびた温泉宿がいいのですが。)しかし、先方が選ぶことで、自分では決して体験しないこと、いつもは気がつかないこと、そんな新しい発見をすることもあります。今日の夕食は、ホテルの中のレストランでいただいたのですが、その窓から見慣れない建物がライトアップされているのが見えました。よく、松山には来ているのですが、いつもは、直接、道後温泉に連れて行ってもらい、あまり市内見学はしていないので、その建物には気がつきませんでした。そこで、夕食後、散歩をかねて、その建物のあたりをめぐってみました。(結局、松山城を一周しました。1時間半くらいかかりました)小高い丘の上にライトアップされている松山城が鎮座しており、その丘の中腹に、緑に埋もれるようにして古い洋風建築の建物がありました。萬翠荘(ばんすいそう)です。この建物は、大正時代に、旧松山藩主久松家、第15代当主久松定謨伯爵と云う人が別荘として建てたフランス式建築の建物だそうです。今は、愛媛県美術館分館(正式名称 愛媛県美術館分館郷土美術館)ですが、非常に立派な建物で、当時は、最高の社交の場として各界の名士が集まり、又、皇族方が愛媛に来た折は、必ず立ち寄ったそうです。戦後は米軍の宿舎として使われたり、その後裁判所として使われたりしていたようです。定謨伯は、陸軍駐在武官としてフランス生活が長く、陸軍きってのフランス通といわれ、欧米外遊帰朝直後の建築家木子七郎に設計建築させた鉄筋コンクリート造の建物で、フランス風です。また、この敷地は、松山藩の家老屋敷の跡地で、夏目漱石が、松山中学の英語の教師として赴任した折に下宿をしていた「愛松亭」のあったところでもあるそうです。また、漱石と子規が一つ屋根の下て暮らした「愚陀佛庵」(復元)もこの庭園内にあります。
そういえば、以前のブログに書いた気がしますが、この正岡子規と、日露戦争を秋山兄弟から描いた司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」が、どうも、平成19年度以降の放送に向け、NHKの21世紀スペシャル大河として制作を開始するそうです。というように、いつもと同じ町でも、見方によって、連想から違った町の姿が見えてきます。人も、地方に行っていつも出会う人でも、出会い方によって、違った姿が見えることがあります。ひとつの姿だけから、判断しないほうがいいですね。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (0) | トラックバック
2006年01月22日 [読書]
数の美
今、長崎から、福岡の二日市温泉に来ています。二日市の中の「2」という数字は、どういう意味を持っているでしょうか。100までの「素数」の最初のほうを並べてみると、「2,3,5,7,11…」と、25数字が並びます。その中で、2だけが一つだけ偶数であり、最初の数字です。これを、博士は、こう言います。「素数番号①の一番打者、リードオフマンは、たった一人で無限にある素数の先頭に立ち、皆を引っ張っているわけだ。」「淋しくないのかな」「いやいや、心配には及ばないさ。淋しくなったら、素数の世界をちょっと離れて偶数の世界に行けば、仲間はたくさんいるからね。大丈夫。」
これは、今、公開されている「博士の愛した数式」という映画の原作にある一文です。この本は、小川洋子さんという作家が書いた小説です。私は、映画は見ていませんが、個人的には、この原作はとても好きなジャンルです。これは、交通事故で、80分しか記憶ができない老数学者と、そこに来た10歳の息子を持った家政婦との触れ合いを、「数」を通して描いたものです。たとえば、最初に訪れた日に、博士が名前より先に、こう尋ねます。「君の靴のサイズはいくつかね。」「24です。」と言うと、「ほう、実に潔い数字だ。4の階乗だ。」それにたいして、階乗とは何かを尋ねる家政婦に説明をします。「1から4までの自然数を全部掛け合わせると24になる。」次にこう聞きます。「君の電話番号は何番かね。」「576の1455です。」「5761455だって?すばらしいじゃないか。1億までの間に存在する素数の個数に等しいとは」いかにも感心するふうに、博士はうなずきます。こんな日々が繰り返されます。数学が苦手な人は、最初は抵抗あるかもしれませんが、読み進めるにしたがって、数の不思議さというよりも、数の美しさを次第に感じるようになります。家政婦の10歳の息子に博士は頭の形から、こんな愛称をつけます。「君はルート(√)だよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる。実に寛大な記号、ルートだ」その息子にある日博士は、こんな宿題を出します。「1から10までの数を足すと、いくらになるか。」という問題です。これを読んだときに懐かしくなりました。以前のブログに書きましたが、私が小学生の頃「数学クラブ」でいろいろな数の不思議さ、数の面白さを知りました。その授業の中でひとつのエピソードが紹介されました。これは有名な話ですが、数学者であるガウスが幼少の頃、クラスの先生が自分で何かやることがあるので、しばらく生徒に自習させようと思いました。そこで、生徒に時間がかかるようにこんな問題を出しました。「1+2+3+4+.......+100は」という問題です。もちろんすぐさま答えられないと思ってです。それは、その先生自身が1から順番に足し、3回かけてようやく答えをだせたからでした。さあ、仕事をしようとしたら、3分程でガウスは手をあげて、「5050です。」と答えます。先生は答えをどこかで盗み見たのではないかと疑い、なぜそうなったのかを尋ねてみると、「最初と最後の数を足すと101になります、次の数と最後から二番目の数を足しても101になるので、101が50組で5050です。」と答えたという話です。この話で、数の面白さにひきつけられました。そう思ってみると、数はなかなか面白いものです。たとえば、数の日の3月14日は、円周率が3.14であることから決められています。こんな遊びもあります。電卓を出して『12345679』と入力して下さい。(8を抜きます)これに自分の好きな数字×9をかけてみてください。自分の好きな数字が電卓に並びますよ。数って、美しいですね。
投稿者 fujimori : 21:50 | コメント (1) | トラックバック
2006年01月21日 [講演先にて]
見守る
昨日から訪れている長崎は、「見守る保育研究会」という勉強会に参加するためです。私が提案する保育を、「見守る」と表現する人が多くいます。それは、私の提案は、なにも保育に限らず、育児においても、地域社会においても、新しい時代におけるコミュニティーのあり方を考えようというもので、「関係性」の構築です。その関係性を表す言葉として、この「見守る」というのは、とても重要な考え方です。「見る」だけでなく、「守る」だけでもありません。今日の夕方、メンバーのうちの何人かが、近くのグラバー園を見て歩きました。これは、「見て歩く」です。そこに、学びがあります。それが、「見学」です。しかし、その文化遺産を残していこう、大切にしていこうとすると、この施設の「見守り」が必要になってきます。それは、1人称だけの動きだけでなく、相手との関係性が生まれてくるからです。しかし、関係性を構築しようとするときには、関係における「距離感」を考えることが必要になってきます。たとえば、グラバー亭を残そうとするあまりに、周りをコンクリートで固めようとしたりく、作り直そうとするのではなく、その文化が訴えかけようとする思いを大切にし、建物自ら建っているような、昔の思いをそのまま生かすような工夫をしなければなりません。それが、「見守っていく」ということになります。相手に干渉することなく、相手を生かさないとならないからです。そのためには、まず相手を知ることから始めなければなりません。そして、最終的には、その見守りの中で、自ら律し、自ら生きていこうとする力をつけてあげることが必要です。
私の教員時代に、クラスの歌を作っていました。それを、クラスの子どもたちがよく歌っていました。1年生を担任していたときの歌詞は、こんな歌詞でした。子どもたちと作ったのですが、1番、2番は、クラスの年間を通して取り組み、そして、3番は、私の望む最終的なクラスの子どもの姿を表わしています。「ぼくらのクラスは なんでもじぶんで できるんだ 先生なんか ようはないのさ 三小 三組 みんなそろって いちにのさん」
この歌詞は、「十八史略」のなかの「鼓腹撃壌」という逸話に感動し、教師とは、このような存在になりたいと思ったからでした。それは、聖天子の聞え高い帝堯のころ、堯は自分の存在が人々からどう思われているかを知るために、目立たぬ衣服に身をやつし、こっそり町中にしのび出てみました。そして、「天子さま私たちがこうやって元気に楽しく暮すのはみんなあなたのお陰です。」という歌を聴いたときに不安になります。しかし、白髪の老百姓がひとり、食べもので口をもごつかせながら、木ごま遊び――撃壌(壌をぶちつけあって勝負をきめる遊び)に夢中になり、お腹を叩いて拍子をとって、しわがれた声でつぶやくように、だが楽しげに歌っている内容が、「日が出りゃせっせと野良仕事、日ぐれにゃねぐらで横になる。のどの渇きは井戸掘ってしのぐ、腹の足しには田畑のみのり。天子さまなぞおいらの暮しにゃ、あってもなくてもおんなじことさ。」というものでした。これを聞いて、自分の政治がうまくいっていると喜んだという逸話です。これに感動をした教師の頃から、「見守る」という概念ができ始めたのかもしれません。
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2006年01月20日 [講演先にて]
各地に
今日から、長崎に来ています。各地の仲間に会うのは、とても楽しみです。最近は、いろいろなところに行くようになりました。私は、会社員ではないので、地方出張をうらやましく思っていました。実際は大変でしょうが、いろいろな地を訪れ、そこの文化に触れることは、とても刺激的です。ところが、なかなか地方に行く機会がありませんでした。しかし、今は、いろいろなことを学ぶ上で、地域の物理的距離は関係なくなりました。まず、インターネットであれば、地球の裏側であっても、隣の部屋に伝言するかのようにできます。また、好奇心や、知識欲、学ぶ意欲も、物理的距離は妨げにはなりません。今は、いつでも、どこでも行くことにしています。ただ、次第に、行った先で予定がびっしりと組まれることが多くなり、自由な時間がなくなってきたので、好き勝手にその地を歩くことはできなくなりましたが、その分、どの地にも知り合いができ、話を楽しむことはできるようになりました。
各地に行くときに、その地をはじめて訪れたときのことを思い出します。この長崎には、大学時代に一人旅できました。周遊券という、国鉄に限り、その周辺の乗り物に急行、バスを含めて何度でも乗り降りできる券で、年末、九州を一周したのです。乗り物は乗り放題でしたが、宿泊はそうは行きません。夏であれば、寝袋とか、駅で寝ることが多かったのですが、冬ではそういうわけには行きません。そこで、まず、夜行を探して、朝になるまで列車に乗っていました。そのほかの宿泊先として、年末など休みの日は、寮生が帰省して空いた部屋に生徒会が管理し、300円くらいで寮に泊めてくれたのです。長崎は、長崎大学、鹿児島は、鹿児島大学に泊まりました。長崎では、「皿うどん」をうどんだと思って 頼んだ思い出があります。あの頃は、一人旅がはやっていました。今は、あまり見かけませんね。治安の問題もあるでしょうが、卒業旅行といって、海外に行く学生を見ると、贅沢だなあと思います。
最近は、北海道にもよく行きますが、初めて行った時の思い出があります。かつて、中学生を何人か勉強を見ていましたが、その中で、4人のグループで教えていた中学1年生が、どうしても勉強に身が入らないので、私はひとつの提案をしました。1学期の成績が、これくらいだったら、香港、マカオ旅行、このくらいだったら北海道旅行、このくらいだったら長野旅行、このくらいだったらわたしのうちに泊まりに来てもいいというようなことを、半分ふざけて提案してみたのです。でもそんな成績は絶対に不可能のようだったので、おまけで、自分でどのくらいの成績かを言い当てたら、ひとつランクを上げてあげると言ったのです。そうしたら、ある子が、がんばって北海道旅行をあてたのです。それは冗談だったのですが、夜、その子の母親から電話がきて、「せっかくですから、費用は自分で持ちますから、ぜひ連れて行ってください。」と言われました。あせって、かつての教え子で、北海道に親の転勤で行っている家庭に電話をして、泊まらせてもらうことを頼みました。そして、結局、わたしとしても初めての北海道旅行を、中学1年生の男の子と二人で行くことになったのです。若かったなあと思います。初めてなどというのは、どんなきっかけからおこるかわかりませんね。
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2006年01月19日 [近頃思うこと]
なりたい職業
自分が子どものころ、何になりたいと思っていたでしょうか。それは、変わっていったでしょうか。それは、どうしてそう思ったのでしょうか。そして、今、その職業についているのでしょうか。ついていないとしたら、何がその職業に就くことを妨げたのでしょうか。あらためてそんなことを考えます。今週号の「ガテン」という雑誌の特集が、「子どものころ、どんな仕事がしたかった?」 です。
園では、毎年3月には、卒園児たちが、将来の夢を語って、巣立っていきます。その夢に向かって、一歩ずつ歩んでいってもらいたいものです。夢は、子どもが成長するにしたがって、何度か変わることもあるでしょう。しかし、いつのときも夢は持っていてほしいと思います。大阪の幼稚園で、卒園式の後でその園の園長先生が保護者に話した内容を、ある保護者から聞きました。「夢は、大きく持たなければいけません。お花屋さんになるとか、ケーキ屋さんになるとか、そんな小さな夢では情けないと思います。もっと、医者になるとか、弁護士になるとか、政治家になるとか大きな夢を持ってもらいたいと思います。」その幼稚園は、地元では人気があるそうです。それを聞いて、私は、なんだか情けなくなります。何で、夢としてなりたい職業が、お花屋さんが小さくて、医者が大きいのでしょう。大きい、小さい、えらい、えらくない、うらやましい、つまらない、そのような職業的な区別は何でするのでしょう。自分がなりたいものであれば、それがその子にとって大きく、立派な職業なのだと思います。自分で、何になりたいのか、自分は何がしたいのかをはっきり、堂々と言える子になっていってほしいと思います。
そういえば、昔の女の子の大きくなったら何になりたいかの夢の中に、「お嫁さん」とか、「お母さん」とか、あったような気がします。そういえば、いつの頃か、そんな夢を持つ子は聞かなくなりました。それこそ、そんなものは、夢ではないと大人が言い聞かせてきたのでしょうか。ただ、そのときでも、男の子が、「大きくなったら、お父さんになりたい!」というのは、どの時代もあまり聞きませんね。
昨年11月下旬に、カナダの「父親の育児」支援事業を伝授するティム・パケットさんが来日しました。彼は、この事業の総括責任者として一連のキャンペーンを手がけています。その中で、世界の国々から注目を浴びているのは、カナダ保健省が2003年から進めている父親の子育て支援事業で全国放映されたテレビCMです。それは、息子や娘のために遊びやスポーツに打ち込む父と、子どもの笑顔。そこに、こんなフレーズが流れます。
「お父さん、それはこの星で一番ステキな仕事」
カナダでも、共働き家庭が7割に上り、離婚率は4割近くになり、「父は仕事、母は家事育児」の家庭像は変貌しています。若い親に「稼ぐだけでなく、子育てに関わる新しい父親像が求められている」と説いています。彼は、問題を起こす若者に共通して「父親不在」が響いていることから、行政や研究者らを巻き込みながら民間活動を育ててきました。とはいえ、父親支援って政府の仕事なのでしょうか。彼は、こんなことを言っています。
「父親が関わると、子どもの情緒や社会性の発達にいい影響を及ぼすことは、各種調査でも明らか。父親自身も地域に心を向け、職場でも成功する傾向がある。父が子育てする意味を、社会的に知らせていく必要があるのです。」
「お父さん」「お母さん」これは、なんとステキな仕事なのでしょうか。
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2006年01月18日 [講演先にて]
エキナカ

この写真は、どこのデパ地下だと思いますか?最近、デパ地下が大人気です。いわゆる、デパートの地下売り場のことです。そこで、食事の、特に夕食のお惣菜を買って帰るのです。忙しいということもあり、勤め帰りに買って、家でそれを暖めたり、そのまま皿に乗せて食べるのです。最近の子どもたちのままごと遊びを見ていると、ハンバーグや目玉焼きなどの作り物を皿に乗せて、「さあ、どうぞ!」と出すだけの調理をすることが多くなりました。調理過程がないのです。そこで、私の園では、3,4,5歳児のままごとコーナーには、そのように出来上がったおかずは置かずに、材料を置いておきます。そうすると、包丁で切ったり、なべで煮たり、フライパンでいためたりするようになりました。と、話はずれましたが、最初の写真は、実は、駅の構内、改札口の内側です。いわゆる「エキナカ」と呼ばれている、最近の新しい試みです。車社会になってきて、電車を使用する客が減り、国鉄の民営化の中で、駅を根本から改革するという「ステーションルネッサンス」という取り組みです。駅は、電車に乗るところ、電車を乗り換えるところというように、通過する場所でした。それを、人が集う駅を創り出すことで、駅から地域社会へ、賑わいの波及効果が生まれるはず。地域との共生を目指そうというものです。この写真は、今日、宇都宮での講演に向かう途中で立ち寄ったJR大宮駅に、昨年3月に登場した、「エスキュート大宮」という売り場で、食品、ファッション雑貨、飲食店などが、「マーケットアベニュー」ということで68店舗並んでいます。これを運営している会社では、社長をはじめ、全員がサービス介助士という資格を取っています。ここ大宮駅での試みの前に、上野駅を始め、阿佐ヶ谷、西船橋、郡山などで改修をして、いろいろな改善をしてきました。かつて、駅にある店というと、まず「キオスク」という売店です。そのほかに、立ち食いそば、ジュース販売などがあります。それが、日本そばの店ができ、ラーメンの店ができ、ハンバーガーショップ、いろいろな店ができました。しかし、それらは、客の多様なニーズへの対応が十分ではなかったといいます。それまでの店舗は、乗り換えの間に時間をつぶすためが主な使い方でした。そこで、電車に乗るためでなく、駅に行きたくなるような、あるいは、乗換駅でなくて途中下車したくなるような、魅力ある駅作りとしてのひとつの集大成がエスキュート大宮なのです。「駅を利用する客を、従来の旅客から様々なニーズを有する顧客として捉えなおし、徹底した顧客志向により、客の視点に立脚した駅への発想の転換。」といいます。最近は、駅のホームにこんなものもできています。
「床屋」です。今までの感覚から言うと、ホームとは思えませんね。その他にも特殊なものとしては、長野県の上諏訪駅には、ホームに「露天風呂」がありました。(今は、足湯になっています)切符を売る窓口では、切符をかたどった石鹸や、手ぬぐいも売っていました。また、最近では、託児所もできています。駅の魅力作りが街の魅力にもつながるというように、幼稚園や、保育園、学校の魅力作りが、街の魅力作りになっていかなければならないと思います。そのための、新しい発想と、企画力が求められてくるでしょう。
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2006年01月17日 [由来]
赤ちゃん
千歳に行って思いましたが、前回の支笏湖にしても、ウトナイ湖にしても、アイヌ語から来ている地名が多いですね。北海道では、言葉だけでなく、アイヌ文化のすばらしいことに出会うことが多くあります。たとえば、赤ちゃんのことをこんな風に書いてある絵本があります。「ヘカッタラ シノッ」という絵本で、ちむらまさる氏の作です。この絵本は、子どもたちが日々の暮らしのなかで、親の愛に見守られ、友だちと遊び、自然の中でいろいろな体験をすることで成長していく姿を紹介しています。いつの時代にもその本質は変わらないことを本書は表現しています。本書の題名の「ヘカッタラ シノッ」は、アイヌ語でヘカッタラは「子どもたち」、シノッは「遊び」という意味です。
「アイヌのひとたちは むかし あかちゃんを べちゃべちゃウンチ なんて よんだんだ。 かわいくて きれいなものが だいすきな びょうきの かみさまが あかちゃんに ちかづかないようにね。」
乳幼児の死亡率が高かった時代、赤ちゃんの健やかな成長を願ってわざと汚い言い方で呼びました。赤ちゃんを守るために、かわいくてきれいなものに近づこうとする神さまは、臭くて汚いものが大嫌いだという世界観があり、「言葉の力」で病気を寄せつけまいとした愛情の表れだといわれています。そして、なまえも、5、6歳になったころにその子の個性にちなんでつけていましたが、体の弱い子の場合わざわざ汚い名前をつけたといわれています。
世界では、乳児に対していろいろな呼び方をしています。姿を現したり、様子を表したり、願いを表したりして呼びます。たとえば、「赤ちゃん」の語源は、新生児の皮膚の色が赤く見えることによるといわれ、「赤ん坊」や「赤子・赤児」も、皮膚の色に由来するといわれています。しかし、それほど赤くはないですね。ですから、赤ちゃんと言う理由としては、「赤」は、夜が「明ける」から来ていて、朝になって昇ってくる太陽からくる「純粋で穢れの無い」「生まれたて」「始まり」というイメージと、太陽=「赤」という印象が結びついたものだという説があります。また、「赤の他人」や「真っ赤な嘘」などの「赤」も語源は同じと考える説もあり、これは、「赤」には、「何も無い、全く無い」という意味がある、というものです。ほかにも、仏前に供える浄水を意味する梵語(サンスクリット語)の「アルガ」にある、ともいわれています。この「アルガ」は漢字をあてると「閼伽(あか)」、英語に転じて「aqua-アクア」となっていますが、どうやら「空」という意味も持っていたようです。どれが本当かわかりませんが、こんな面白い呼び方もあります。飛騨の民芸品に「さるぼぼ」という人形がありますが、これは、飛騨の言葉で「ぼぼ」は赤ちゃんという意味で、サルの赤ちゃんに似ていることからこう呼ばれています。災いが(さる)、家庭(えん)満などの願いがこめられています。色であらわすと、みどりご(緑児)と呼ぶこともあります。これは、「新芽のような子」という意味で、生まれたばかりの子をさしました。ちなみに、英語のインファント[infant](フランス語ではアンファン)は、「話せないもの」(unable to speak)という意味から出ているらしいです。どちらにしても、何もできないとか、話せないとかという言葉に比べて、アイヌの言葉のように守ろうという意味がある言葉はいいですね。
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2006年01月16日 [旅先にて]
先導花
今年は、各地で大雪が降り、雪の被害が多いですね。自分で、年を取ったと思う瞬間はいろいろなときにありますが、その一つに、雪が降ることが楽しかったり、うれしかったり思うことから、うんざりし始めたときに年齢を感じました。特に、あまり雪が降らない東京では、雪がふるのは楽しみでした。でも、今回のニュースを見ると、雪の多い地域では、雪は生活に密着していて、一つの自然として存在している観を強くします。ですから、「春を待ち焦がれるという」気持ちが強く沸くのでしょうね。そして、雪の多い自然の中で、春の兆候に敏感になるのでしょう。また、「春の兆し」をさまざまな動植物から感じ、その名前をつけます。有名なところで「春告げ鳥」がありますね。同じように、「春告草」と呼ばれているものがあります。それは、「梅の花」です。そのほかにもこの花は、「好文木」(こうぶんぼく)、「木の花」(このはな)、「風待草」(かぜまちぐさ)などとも呼ばれます。私の園では、毎年「年間のテーマ」があり、子どもたちにそのテーマに沿ってそれに親しんでもらったり、そのことに触れてもらおうというものです。今年のテーマは、「森の木陰でひとやすみ」ということで、「木」がテーマです。そして、年齢ごとにテーマの「木」を持っています。3歳児が「梅」4歳児が「竹」5歳児が「松」で、「松竹梅」になっています。だからと言って、もちろんお酒ではありません。松竹梅は、年の初め、正月のめでたい植物で、冬でも緑を保ち寿命も長いということで平安と長寿を表す「松」、冬でも緑を保ち雪にも折れること無いということで無事を表す「竹」、雪の中でも花をつけるということで生気と華やかさを表す「梅」という意味があります。『広辞苑』によると、「松と竹と梅。三つとも寒に堪えるので、中国では「歳寒の三友」と呼んで画の題材とされた。日本では、めでたいものとして慶事に用いる。」とあります。
先日の休みの日に、日本一の早咲きで知られる熱海梅園に行ってきました。ここに梅園が作られたのには、面白い話があります。熱海は、温泉で有名で、体の養生で訪れる人が多くいます。しかし、内務省の初代衛生局長であった長与専斎が、熱海に赴任した年に、次のように提唱しました。
「温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、適当な運動をするからである。もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない・・・・・」(「熱海風土記」―梅園記より)
それで、運動のために作られたといいます。私も運動のために妻と訪れたのですが、ちょうど「梅祭り」は始まっていましたが、今年はどうも寒いらしく、「梅1輪」も咲いていませんでした。しかし、帰りに、その代わりにいい花を見つけました。
それは、「蝋梅」という花です。「蝋細工」のような花から「蝋梅」と呼ばれていますが、蝋月(陰暦の12月)に梅に似た花を咲かせるところからともいわれています。とてもよい香りがする黄色の花を咲かせ、南京梅あるいは唐梅とも呼ばれるようですが、梅の仲間ではありません。この花は、「春告げ」というほど春に近い時期に咲きませんが、他の花に先立って年の初めに咲くので、「先導・先見」という花言葉をもらっています。いい花と出会いました。行動を起こすと、目的は達することができなくても、思わない収穫があるものですね。
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2006年01月15日 [講演先にて]
ウトナイ湖
今日は、千歳からの帰りに、「ウトナイ湖」に連れて行ってもらいました。ウトナイ湖で確認された野鳥は今までに260種以上いて、日本でも屈指の渡り鳥の中継地です。このあたりは、沼地や湿地や原野が広がり、このウトナイ湖も、ウトナイ沼とも呼ばれているようです。ですから、決して深くはなく、平均水深0.6mの淡水湖です。そのために、ここは、動植物の宝庫、野鳥の楽園ともいわれているのです。特にガン、カモ類やハクチョウなどの渡り鳥にとっては重要な中継地であり、マガンやハクチョウの集団渡来地として国際的に知られています。そこで、「ウトナイ湖」は、2005年、ラムサール条約事務局に登録されています。最近では、知床が世界遺産に登録され、話題になりましたが、この条約もとても重要なものです。
この条約は、湿地や湖、沼、川、干潟など水のある土地(ウエットランド)に生息・生育する多くの動植物、特に国境を越えて移動する水鳥を中心に、世界各国が保護・保全することを目指しています。ですから、この条約の正式名称は、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」ということで採択されました。そして、1971年、この条約を締結した時の開催地が、イランのラムサールだったので、この名前にちなみ「ラムサール条約」と一般に呼ばれています。日本は1980年に加入。このとき、釧路湿原を最初の指定湿地候補にあげたのです。
湿原、沼沢地、干潟等の湿地は、多様な生物を育み、特に水鳥の生息地として非常に重要です。しかし、湿地は干拓や埋め立て等の開発の対象になりやすく、その破壊をくい止める必要性が認識されるようになりました。しかも、湿地には国境をまたぐものもあり、また、水鳥の多くは国境に関係なく渡りをすることから、国際的な取組が求められます。そこで、特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全を促し、湿地の賢明な利用(Wise Use)を進めることを目的として条約が作られたのです。1980年に条約加入の際に「釧路湿原」を登録して以降、「伊豆沼・内沼」「クッチャロ湖」「ウトナイ湖」が追加登録されました。今回訪れた「ウトナイ湖」は日本では、4番目に登録されたことになります。今は、日本では、30箇所が登録されています。
ウトナイ湖にたくさん飛来しているコハクチョウは、夏にシベリアで繁殖し、冬には、南下して日本に渡ってきます。日本での中継地としては、北海道のクッチャロ湖、ウトナイ湖などがありますが、その後、その大半が、南下し、伊豆沼・内沼(宮城県)、猪苗代湖、佐潟をはじめとした新潟平野の湖沼などに渡ってきて、そこで越冬します。また、一部はさらに南下し、中海(島根県)で越冬するものもいます。これら中継地や越冬地の湿地が失われてしまうと、ハクチョウたちは、渡りのルートを変更しなければなりません。極端な場合には、ルートそのものが成り立たなくなってしまいます。このように、湿地は、渡りを行う水鳥たちにとってかけがえのないものです。人類は古来、干潟などの湿地とそこに生息する様々な生き物の恵みを受けてきました。それを破壊し、自然の営みを狂わせてきた人間として、次の世代に、それを取り戻す努力をしなければいけないのも人間だと思います。
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2006年01月14日 [近頃思うこと]
無記
私の園に、実習生が来たときです。彼女は、実習の途中で、風邪をひいてしまいました。そこで、しばらく休んでいたのですが、ほぼ治ったので出てきました。しかし、声が出ません。出そうと思っても、息が出るだけです。しかし、実習期間が終わってしまうので、まあ、2歳児の担当でしたので、声が出なくても大丈夫だろうとそのまま保育をしてもらいました。ところがとても面白い経験をしました。まず、朝、登園してくる子に声がかけられません。「おはよう」と、部屋に入ってくる子に「おはよう」と声がかけられないので、そばに行って、にっこりうなずくしかないのです。そのあと、子どもを呼ぶときも、子どもに何かを指示するときでも、何かを表現しようとすると、声が出ないので困ってしまいました。本当は、言葉とは、声だけではないはずです。ボディーラングェッジという、体での表現もあります。アイコンタクトという、目での表現もあります。絵で表したり、文字で表すこともできます。人の体は、いろいろな機能を持っています。しかし、その中で、多くの人は、声に頼っていないでしょうか。特に、言葉を使って保育をしていることが多いのではないでしょうか。声で、子どもを動かそうとしていることが多いのではないでしょうか。昔、電車の車内販売の売り上げのトップの人は、声で売り歩くのでなく、乗客の目を見ているのだということを聞いたことがあります。声での掛け声で止まる売り子に、私も思わず言いそびれてしまうことがあります。しかも、どうしようかと迷っているときに素通ってしまうと、「まあ、いいか。」と思ってしまいます。それを、乗客の目を見て歩くと、買いたそうな人がわかります。声をかけようとした人がわかります。子どもにも、「だめ!」と叱るよりも、とても悲しい顔をすることで、大切な人を悲しませたくないという思いからやめることがあります。登園をしてきた子どもに、よく来たねという気持ちは、声をかけても、他を向いていたり、いやそうな顔をしていたら、子どもには伝わりません。
また、実習生が来たときに、こんな経験もあります。2歳児にはいっていた実習生は、子どもが自分でいろいろなことをどんどんやってしまうので、手を出すときがありません。そこで、担任に聞いてみました。「私は、何をすればいいですか?」園の職員は、悪気ではなかったのですが、その答えに、「では、そこをどいてて!」と言ってしまったのです。あとで、邪魔扱いされたと泣かれて困ってしまったことがありました。そのときに、「子どもとかかわることは、何も、相手をしたり、面倒を見るだけでなく、子どもがすることを邪魔しないで見守っているのもかかわるということだよ。」と言ってあげました。私は、「何もしないこと」が、子どもにとって、「何かをしてあげること」になることもあると思います。同じように「質問に答える」ことが、「何も言わない」ということもあります。それどころか、声に出さないことが、答えることになることもあるのです。「瀬戸内寂聴」著の「釈迦」の中にこんな文があります。
「人の質問に対して、たまに世尊は一言もお答えにならず無言を続けられることがある。それを世尊の「無記」と呼んで、深い意味があるのだという。あの世はあるのかないのか。地獄や極楽は確かにあるのか。人はどこから来てどこへ行くのか。そんな質問にはすべて「無記」の沈黙が返された。そんな愚問に答える必要がないとも取れるし、そんな深遠な問いに対して簡単に答えられようかとも取れる。そういう疑問に時を費やす間に、作務にでも打ち込めとも取れる。もしかしたら、それらの疑問に対する答えを探すことこそが、めいめいに課せられた求道の種子ではないかということなのか。世尊の「無記」は、どんなに激しい叱責の言葉よりも重く恐ろしいものを含んでいた。」
なんと、「無記」とは、声のない答えでしょうか。もう少し、何かをする、声を出すということを考えたいものですね。
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2006年01月13日 [旅先にて]
儒商
先日、テレビで、「論語とそろばん ~徳川家当主が見た中国経済と儒教~」という番組をやっていました。これは、最近、世界中の資金と資源を集めて膨張するアジアの虎―中国で、いま、その成長の影で、社会の歪も表面化しています。拡がる個人間・地域間の格差。急速な経済成長がもたらす負の側面が、看過できない社会不安として浮かび上がってきているのです。こうしたある種の閉塞感の中で、中国は伝統回帰のひとつとして、文革で否定され、その後の近代化において顧みられることのなかった「儒教」に再び光が当たり始めているのです。企業活動では、儒教を経営方針の柱にすえ、単なる利潤追求ではなく社会的貢献を目指す「儒商」と呼ばれる存在が注目を浴びています。「儒商」とは、「誠実信用」「品質による社会還元」「徳を重視する人材観」などを企業理念に掲げ、独自の企業文化を育もうとする企業のことです。これは、「論語とそろばん」で知られる澁澤栄一から綿々と続く日本の起業精神なのです。栄一は『道徳経済合一説』「仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります・・」、ということで、企業を発展させ、国全体を豊かにするために、幼い頃に親しんだ『論語』を拠り所に、道徳と経済の一致をいつも心がけていました。道徳と経済は、一見釣り合わないように見えますが、実は両立するものであり、利益を求める経済の中にも道徳が必要であると考えたのです。また、商工業者がその考えに基づき、自分たちの利益のために経済活動を行うことが、国や公の利益にも繋がるとして、みずから実践をしました。
同じような考え方が、二宮尊徳の教えにもあります。彼の10年に及んだ桜町復興の成果報告を、二宮尊徳から受けた小田原藩主大久保忠真は、「そちの方法は論語にある、『徳を以って徳に報いる(以徳報徳)』というやり方だな」と評しましたことに、わが意を得た尊徳は、その後自分の仕法を「報徳」と呼ぶようになるのです。尊徳の偉業については、別の機会に譲るとして、利潤追求ではなく社会的貢献を目指す「儒商」と同じような考え方のところをみてみます。報徳思想は、二宮尊徳が説き広めた思想であり、経済学説のひとつです。経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説いています。特にその中で、「推譲」ということが柱の一つにありますが、これは、余った時間や財産は地域や社会のために使うことです。節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や会社のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えたのです。
儒商の考え方の似ていますね。

先日の休みの日に、二宮尊徳の生家と、資料館に行ってきました。彼も、実践を重んじる陽明学を基本とし、学者はあまり好きではなかったようです。民衆のことを第1に思い、具体的な改革をしていったのに、子どもの頃の銅像が学校に置かれ、国の政策に使われたことから、ずいぶんと不本意な扱いをされています。もう一度、私たちが学ぶべきことを見直す必要があると思います。
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2006年01月12日 [講演先にて]
三原から竹原へ
昨日は、広島の三原市に行っていました。少し広島市からは遠いのですが、空港から近いのと、新幹線が止まります。私は、昨年、偶然に三原市から、空港までバスに乗ったのですが、それまでは行ったことはありませんでした。ここの「市の木」は、偶然にも、ブログで書いた「クスノキ」です。やはり、宇佐神宮の境内には市の天然記念物に指定されている大クスノキがあるそうです。確か、広島市も「クスノキ」ですね。広島も、戦前までは、戦前は巨樹老木が市内随所に見られたようですが、原爆でそのほとんどを失いました。しかし、生き残ったクスノキは、いち早く生命をよみがえらせ、市民に生きる希望と復興への力を与えましたということで、市の木になったようです。クスノキは、映画「となりのトトロ」で出てきたすごく大きな木です。全体に特異な芳香を持っているので、「臭し(くすし)」がクスの語源になったそうです。この材や根を水蒸気蒸留し樟脳を得ることができます。
ここ、三原市は、広島県の南部に位置し、「浮城」の異名を持つ三原城の城下町を起源とする市です。三原城は、中国地方の覇者毛利氏の「毛利両川体制」の一翼を担った小早川隆景が城郭としての体裁を整えた名城です。この隆景は、あの有名なエピソードの「三本の矢」の毛利元就の三人の息子のうちの三男です。しかし、このエピソードは、後年作られた作り話であることがわかっています。この話しの原典は、中国の故事とも、伊曽保物語(イソップ物語)とも言われています。ただ、全く根も葉もない作り話というのではなくて、毛利元就が息子に宛てて、兄弟力を合わせる様説いた書状があった事から、脚色されたのだと考えられています。

昨日の午前中、竹原市に連れて行ってもらいました。ここは、初めて行きましたが、なかなかいいところです。この町は、元来、墾田永年私財法により、京都・下鴨神社の荘園地として開墾されたのが最初とされていますが、室町後期には、「隆景」が、竹原で幼少期を過ごしたなどで栄え、江戸後期の「塩田」と「酒造」により町は、発展をしていきます。現在は『安芸の小京都』と呼ばれ、2000年に国土交通省によって『広島風景百選』に選ばれています。竹原の町家は江戸時代に建てられたものが数多く残っており、その型式も平入りで切妻屋根のものと入母屋屋根のもの、妻入りで切妻屋根のものと入母屋屋根のものなど、さまざまなものがあります。平入の町屋は屋敷の規模が大きく、主屋、土蔵、塀などが連続して立面を構成しているものがよく見られます。妻入の町家は町の周辺部に多くありますが、中には竹鶴邸のように、平入と妻入の建物を組合わせ、さらに妻入の建物を連続させた珍しい建築もあります。
ところで、この竹鶴邸というのは、享保以来の酒造家で、ニッカウヰスキーの創業者であり、『日本のウイスキーの父』と呼ばれている竹鶴政孝氏の生家でもあります。彼は、寿屋(現在のサントリー)山崎工場初代工場長として、日本初の本格ウイスキー製造を指揮し、その後、大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)を興しました。イギリスのヒューム副首相が来日した際、一人の青年が万年筆とノート(竹鶴ノート)でウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった、という意味の発言をしたと言われています。
これは、決して、非難の言葉ではなく、賞賛の言葉だそうです。よいところをまねよう、盗もうということは、決して悪いことではないのです。
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2006年01月11日 [読書]
心の灯
先週の土曜日の朝日新聞「be」に宇宙飛行士の野口さんが特集されていました。彼の7歳のときの誕生日に、飛行機を手にしてうれしそうな顔をしている写真があります。そして、高校に進学したとき、スペースシャトルの打ち上げをテレビで見て、3年生のときに「宇宙からの帰還」(立花隆著)と出会い、宇宙飛行士を目指します。人は、生まれついて、何か心に響く分野があります。しかし、それに出会い、それを職業にできる人は、とても少ないような気がします。もし出会えたら、その分野で大成する気がします。
「私は泣き虫のくせに乱暴で、人と仲良くすることができなかったので、他の人と遊ぶことは苦手であった。いつの頃からか、私は土蔵の中へ入って、一人で遊ぶことが多くなった。」こうして、土蔵で遊んでいるうちに、将来に影響するあるものと出会うのです。天井から吊り下げてある紐を引っ張って、土蔵の中に光が差し込んだとたんに、「複雑に打ち砕かれたそれらの宝石は、光の中できらきらと反射しあって、意思の奥に秘められた神秘な世界を惜しげもなく私の目の前にあらわしていた。いったいこれはなんだろう。私はこの不思議な石に、すべてを忘れて夢中になった。わたしはそれをこっそり持ち出して台紙から切り取り、そろえて並べたり、口へ入れてなめたり、夜はフトンの中へ持ち込んで寝た。とがった先端で皮膚をつっついてみると、くすぐったいような、とてもいい気持ちであった。」
これは、遺跡の石矢じりだったことが後でわかります。そして、そんなものを好きになってはだめだと父親にしかられ、お灸をすえられますが、どうしてもその魅力に勝てず、涙でお灸が消えたほどだったそうです。この本を読んだときに、こんなものに出会えるのをうらやましく思ったものです。この本は、藤森栄一氏「心の灯 考古学への情熱」で、昭和46年にサンケイ児童出版文化賞を受賞しています。(私と同じ姓ですが、特に親戚ではありませんが、私の先祖が同じ郷里です。)彼は、アマチュアであるが、素人ではないと言っている様に、最後まで在野での考古学者です。小さいうちから、こんなにも惹かれた考古学なので、他の本にもとてもいい言葉があります。
『考古学とともに―涙と笑いの奮戦記―』の中には、「友にいってやりたい。なに、こんな迷った奴もいるんだよ。あせることも、あきらめることもないんだよ。君のその少年期につけた心の灯を消さぬように、ともしつづけていけばいいんだよ、と。疲れたら休めばいい。苦しければ中絶したって、心の灯に油を忘れさえしなければね」
『かもしかみち』では、「深山の奥には今も野獣たちの歩む人知れぬ路がある。ただひたすら高きへと高きへと、それは人々の知らぬけはしい路である。私の考古学の仕事はちょうどそうした、かもしかみちにも似ている。」といっています。
「いいんだよ。ゆっくり休んでいこう。どんな廻り道だって、人生に無駄だったなんてことは一つもないんだ。一度ともした灯を消しさえしなければね。」『かもしかみち以後』『心の灯』より
私も、今、心の中にともされた灯を大切に、あせらずに、確実に進んでいこうと思っています。
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2006年01月10日 [旅先にて]
大楠
今年は、まだ行っていませんが、毎年、初詣に高尾山に行っていました。高尾山は、東京に住む子ども達なら一度は訪れる場所です。遠足でも必ず行くところです。ここは、高い山ではありませんが、立派な木が多くあります。その中で、薬王院周辺には沢山の杉の巨木がありますが、最も大きいものは、「飯森杉」と呼ばれている木です。樹形が円錐形であったことから「飯盛り」の名が付けられています。その次に大きいものは、「蛸杉」と呼ばれ、根の形が蛸のようであることから名が付いています。このように、巨木には、何か霊があり、その樹齢の長いものは、大切にされたようです。ということで、休みの日に、いろいろなところをウォーキングしていると、巨木に出会うことがあります。昨年、熱田神宮に行ったときに大楠に出会いました。熱田神宮には、沢山のクスノキがあるが、巨樹に該当するものでも7本を数えます。そして、一番有名なのは御神木の大楠です。これを見たときに、ボランティアガイドに面白いことを聞きました。この大楠の根元に、卵が数個空いてあります。これは、何かというと、この木のほこらに大きな蛇がすんでいて、その蛇が食べるためにおいているそうです。聞いてみないとわかりませんね。
そして、成人の日には、来宮神社の大楠(静岡県熱海市 国指定の天然記念物)を見に行きました。大楠の横にある由緒書きには、このように書いてありました。
「今から百二十年前の嘉永年間に熱海村に大網事件という全村挙げての漁業権をめぐる事件が勃発し、その訴訟費等捻出のため、境内に聳え立っておりました七本の楠のうち五本は伐られてしまいました。古記によると、残されているこの大樟をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ怱然として白髪の老人が現れ、両手を広げてこれを遮る様な姿になると大鋸は手元から真っ二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったそうです。これは神のお告げであるとして村人等は大樟を伐ることを中止致しました。この木が即ち現在ある御神木であります。」
また、この大楠は、非常にいまだに活力があり生命力に溢れることから、「不老長生」、「無病息災」の象徴とされ、この巨樹の周りを一周すると寿命が一年延び、また、願い事のある人は必ずそれが叶う、と言われているということなので、一周してきました。神社のデータによると、幹周囲は、20mで、樹齢は、約2000年だそうです。これだけの年月を経ても、落雷、暴風雨など、世の天変地異にも耐え、一年を通じ、恒に青々とした楠の葉を繁らせ、現在でも成長し続けていることから、超越した生命力を有する木と信じられているのもうなずけます。年を取って、よぼよぼになっているという感じではなく、世の中のあらゆる物を知り尽くしている太古老という感じです。しかも、内に益るる生気は益々旺にして、枝は毎日西に東に伸びゆき、未来永却に生き抜こうとする生命力に敬虔な気持ちになり、思わず、その幹をさすりたくなります。このように、年を取るということは、衰えていくというのではなく、より厳然として、物にも動せず、ひたすらに正しく生きる道に徹し、それを他に伝え、多くの人を見守れるようになることだというようになりたいものです。
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2006年01月09日 [教員の頃]
自分という存在
今日は、成人式でした。
私が、小学校の教員の頃、少しワルだった中学生の面倒をみていたことがありました。その子たちの中の4人が、私の結婚式にテープでメッセージをくれました。そこには、「ぼくたちは、先生から、自分の存在感を学びました。いつも自分はこの世には用はないのではないか、自分は存在する意味がないかと思っていました。しかし、そんなぼくたちでも、世の中では必要なのだということを教えてもらいました。」というような内容でした。こんなことを書くと、いかにも私はすばらしい教師のような気がしますが、そんなではありません。この子たちと付き合い始めた頃の中学校では、忠生中で問題になったような、第1期の校内暴力が盛んな頃でした。この子たちの仲間も、当然のように、「いじめ」「万引き」「恐喝」が行われ、トイレの戸や教室の壁や窓は割れたままでした。そんな彼らでしたから、学校では、いつも邪魔扱いでした。「いないほうがいい。」「お前なんか、用はない。」「じゃまだ。」と言われ続けていました。そんな時、私は、彼らと知り合いました。そのころ、私は、子ども会を作ったばかりで、人手が必要でしたので、彼らを子ども会に誘いました。そして、中学生なので、リーダーをやってもらいました。小学生たちは、とても喜びました。一緒に遊んだり、甘えたりしました。そして、終わって、帰るときに小学生たちは、みんなこう言ったのです。「また、来てね。」初めて、自分が必要であるという体験をしたのです。自分を求めている人がいるのだという経験をしたのです。そして、そのあと、彼らの中の一人が、夜間に通って、男性保育士になったのです。
昨年、私の園に一人の男性が紹介されてきました。彼は、高校を数日行っただけで、その後不登校になり、家にずっと閉じこもっているのです。彼は、子どもと一緒に過ごしたいので、ボランティアで園に来たいと言います。最初、少し心配でしたが、毎日きちんと通ってきます。そして、黙々と子どもたちと遊んだり、面倒を見たりしてくれました。そこで、9月から少しは張り合いになるのでは、ということで、夕方の保育のアルバイトにして、少し給料をあげることにしました。しかし、金額には限度があるので、勤務を15時から19時にしました。すると、心配そうに、「午前中から来ては、いけないのですか?」と聞きます。そこで、時給の金額を低くせず、15時までは、無償ボランティアで来て、そのあとは、きちんと働いてもらうということにしました。年度が終わる頃、みんなの勧めもあって、もう一度、高校に行ってみたいという申し出がありました。そこで、みんなで応援して、夜間の高校に入ることができました。(どの高校かをみんなで選んであげ、試験の日は、みんなで励ましました。いつ、やめると言い出さないかが心配だったのです。)その彼が、1学期の終わりに成績を持って、見せに来てくれました。そして、先日、2学期の成績を持って見せに来ました。みんなが感心したのは、まず、1,2学期を通して、遅刻、欠席が1日もなかったことです。そして、成績も、10教科のうち、7教科が「5」(もちろん、5段階)で、2教科が「4」、1教科が「3」です。もうひとつびっくりしたのは、彼は1年生なのに、生徒会長に選ばれたそうです。投票で、他の2,3,4年生をしのいで、選ばれたのです。私は、持ってきた通知表をコピーさせてもらいました。彼は、もって来た日、1日中、子どもたちと過ごしました。帰りに、子どもたちに「また、来てね。」と言われていました。
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2006年01月08日 [記念日]
今の若者
毎年、成人式の日になると、必ず各地からその模様が放映されます。しかし、その模様は、テレビなどが、ある意図を持って撮影した部分を切り取って見せるので、必ずしも全体像を表わしているとは限りません。整然と座っている若者だけを映せば、なんと最近の若者はきちんとしているのだろうと思い、騒いでいる若者を映せば、困ったものだと思うでしょう。これは、若者に限らず、社会の姿も同様なことがいえます。しかし、どちらにしても、実際のそのような姿、若者がいることは確かです。私が書いた「やってあげる育児から 見守る育児へ」(学研)という本の中で、そこを取り上げてみました。
「成人式などで暴れる子
最近、各地の成人式が見直されています。それは、式の間、騒いだり、壇上の来賓に罵声を浴びせたり、壇上に登って大騒ぎをしたりする成人が何人かいるからです。これがニュースとして流れると、まったく最近の若者はどうしようもないと思う人が多いのですが、騒ぐ成人はほんの一握りで、ほとんどの人はきちんと参加しています。ですから、最近の若者と言う言い方でひとまとめにしないほうがいいのですが、それにしても、騒ぐ青年はどうしてでしょう。まず、ほとんど式の前に酒を飲んでいる場合が多いので、この場合は、大の大人でも酒を飲んで暴れる人がいるのですから、若者のことだけを言えません。
問題は他にいくつかあります。よく騒いだ青少年を後で注意してみると、それほど悪いことだと思っていない子がいます。場を盛り上げるためにしたのだと言うのです。よく、会場で携帯電話を鳴らす子たちも、それほど悪いことだと思っていない場合があります。この子たちは、そんなことを教わってこなかったのでしょうか。きっと教わってきたのでしょうが、小さいころに自分を認めてもらう前に、ただ言葉で何度も言われてきたので、ただ反発心だけを植えつけられてきているか、小さいころから騒ぐことが、元気があっていい子であると親から思われてきたのでしょう。子どものころにただ騒ぐのは決して子どもらしいのではなく、何をしていいかわからず、自分を持て余している子の訴えであることに、周りの大人が、気がつかないのです。
もうひとつの原因に、青年が自分の存在に自信が持てない場合があります。よく、自己肯定感がないと言われることです。自分の存在をどのように示したらいいかわからないのです。小さいころに、親に声をかけてもらったり、保育者、先生に注目されるときは、何か悪いことや、目立つことをしたときです。きちんとしているだけでは、あまり注目してくれません。さびしいときでも、気がついてくれません。そんなときに困った状況を引き起こしてきたのです。子どもが自分のほうに目を向けてほしい、と思ったときに親がそれに気がついてきちんと対応してきていたら、騒ぐことで自分をアピールする必要はないのです。成人式で騒ぐ若者を見ていると、なんだかかわいそうになってきます。」
ただ、現象としての姿だけを嘆くのでなく、その奥にある真の姿を見てあげなければ、ただ、成人式をやめればいいというだけでは、解決しません。明日の成人式は、どうでしょうか。
投稿者 fujimori : 18:46 | コメント (2)
2006年01月07日 [近頃思うこと]
漢字
先日、園のご近所の方がある本を持ってきてくれました。その本の出版社は、「登竜館」といいます。たぶん、昨日のブログの「登竜門」から来ているのでしょう。この出版社の案内には、「幼児の心と言葉を豊かに育むための、石井方式の絵本・教材・指導法を提供しています。」とあります。私は、もう20年以上前になりますが、石井方式の実践園の見学と、石井氏の講演を聞いたことがあります。教育学博士でもある石井勲氏は、残念ながら2004年に、85年の生涯をとじられましたが、実は、八王子市にも縁があります。彼は、戦後、高等学校教諭として初めて教壇に立ち、その後、中学校、小学校の教諭を勤めます。そして、小学校教諭時代に「石井式漢字教育指導法」を次々と発表したのです。そのあと、八王子市教育委員会指導主事、大東文化大学幼小教育研究所長、同大学付属幼稚園青桐幼稚園園長を歴任して、石井式教育研究会を立ち上げています。松下政経塾講師もしたことがあります。
石井方式というと、なかなか奥が深くて、また、実践している園からすれば、私の印象は的を得ていないかもしれませんが、あまりよく知らない人にとっては、なかなか面白いところがありますので、そこのところだけ少し考えてみます。まず、「幼児には漢字の方が覚えやすい」ということでしょうか。漢字は一字一字に意味をもつ『見る言葉』と捉えます。その点、ひらがなは、一字一字に意味をもたない、いわば発音記号(表音文字・聴覚言語)なので、ひらがなで表わす言葉は、それがもつ意味までは表わしません。「木」がたくさんあるから「森」なんだと、漢字で言葉を知ると、その意味まで理解できます。つまり、漢字は考える力や理解力を育てる道具となるのです。小さな子どもにとっては、絵や記号を見るのと同じ感覚で、楽しんで覚えるからです。そして、その覚える順序が、大人が思うのと違うのです。これは、私には、目からうろこでした。幼児を集めて、『鳩』『九』『鳥』の漢字のうち、どれが覚えやすいかを調べた実験があります。結果は、一番覚えやすいのが『鳩』、次が『鳥』、最後が『九』でした。幼児は、具体的なものほど覚えやすく、抽象的なものほど覚えにくいようです。つまり、幼児にとって、文字の覚えやすさは、そのものをイメージできるかどうかであり、字形の複雑さとは関係のないことがわかります。私も園児に「虫」と「蟻」で試してみました。「蟻の方を早く覚えます。また、部屋の窓に、「まど」と「マド」と「窓」をしばらく貼っておいて(ほかにも、「戸」とか「壁」とか「机」など)、はがしたあとで、子どもにどの字を覚えているかやってみたところ、ほとんど漢字でした。漢字は、確かに音ではなく、形を表していることが多いからでしょう。ですから、辞書や絵本などは、漢字かな交じり文で書かれているのを読み聞かせるといいかもしれません。ただ、私は、その漢字には、読み仮名をふったほうがいいと思うのですが。(石井方式では、漢字を見ずに、読み仮名を追ってしまうので、仮名はふりませんが)また、私の見た実践園では、漢字をフラッシュカードのようにすばやく見せて、どんどん言わせていたことが気になりました。漢字は、考える力をつけるはずなのにと思ってしまったのです。もう一つ、その園では、子どもを一斉に立たせるとか、歩かせるとか、移動させるとか、すべて、ピアノの音で指示をしていたのも気になりました。どこまでが「石井方式」か、わかりませんが。
投稿者 fujimori : 19:54 | コメント (0)
2006年01月06日 [由来]
登竜門

12月30日(金)から2006年1月16日(月)まで、東京・銀座の百貨店「松屋銀座」で、「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展」が開かれています。この展覧会に行ってきました。大胆な図柄と華麗な色使いで世界的に高い評価を得ている“古九谷”は、17世紀中ごろから制作が始まりましたが、わずか数十年で途絶えたそうです。それから約120年後に、72歳にして私財を投じて古九谷再興にロマンをはせた男が、加賀市の豪商4代豊田伝右衛門です。店の屋号を「吉田屋」といったことから、再興九谷窯は「吉田屋窯」と呼ばれ、作品の九谷焼は「吉田屋」と呼ばれています。吉田屋窯は、緑、黄、紫、紺青の四彩を用いた古九谷風の優れた作品を生み出しましたが、古九谷の模倣ではありません。江戸後期の豊かな町人層の食文化を反映して、平鉢や皿、徳利(とくり)などの食器類のほか、茶道具など様々な器形と、吉田屋風ともいうべき卓越したデザイン性を誇り、色絵磁器の最高峰に位置づけられます。しかし、その吉田屋窯も7年で廃窯になりましたが、再興九谷焼の色絵と優れた技は、数多くの作家を輩出し、加賀の地で受け継がれています。
このなかで、「登竜門」がテーマの絵皿がありました。このテーマは、皿だけでなく、様々なものに描かれてきました。また、もうすぐ受験ですが、そのときにも使われることが多いですね。
登竜門の「竜門」とは、黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことです。その急流の滝を登り切った鯉には霊力が宿り、龍になると言われていました。ある時一匹の鯉が激しく落ちる滝水に逆らいながらも、懸命に滝を登り切ったまさにその時!鯉の体はまぶしい光を放ち輝きながら龍へと変身し、悠々と天に昇っていったというお話です。この竜門の言い伝えから、人の立身出世の関門を「登竜門」と言うようになった由来は、中国『後漢書 李膺伝(りようでん)』の故事によります。その故事とは、李膺という実力者がおり、彼に才能を認められれば出世が約束されたものと同じで、その認められた人は、竜門に登った鯉に喩えられたというものです。これから、この鯉のようにたくましく立ち向かい、やがて成功することを願って「鯉のぼり」が生まれたと言われています。それが、今、こどもの日に立てられています。また、「鯉が険しい滝を登り、竜になった」という故事から、立身出世のための厳しい関門とか、厳しい選抜試験のたとえとしてよく使われています。
このブログの名称が「臥竜塾」というように、竜という文字や言葉を聴くと、反応してしまいます。竜(旧字は龍)は中国の伝説上の生物です。古来から神秘的な存在として位置づけられ、中国では皇帝のシンボルとしてあつかわれていました。そして、竜は神獣・霊獣であり、通常は水中か地中に棲むといわれています。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われています。だから、「竜巻」なのですね。このブログも、臥せてばかりはいられなくなりそうです。
投稿者 fujimori : 17:51 | コメント (0)
2006年01月05日 [近頃思うこと]
性格
「おとこ」と「おんな」というインスピレーションクイズをやったら、何をイメージするでしょうか。私の息子が、3,4歳児の頃、子ども会に連れて行ったときに、転んだかなにかして泣き出し、なかなか泣き止みませんでした。一生懸命になだめている私たちのそばを、6年生の女の子が二人、通りがかりました。そして、こんなことを言ったのです。「しょうがないよ、男の子だもん。」そのころから、もう、子どもたちの間では、泣くのは男の子というイメージがあったようです。私たちの頃は、「男のくせに、泣くな!」と、言われたものです。
厚生労働省は、同一客体を長年にわたって追跡調査する縦断調査をするために、平成13年度から承認統計を実施しています。これは、21世紀の初年に出生した子の実態及び経年変化の状況を継続的に観察することにより、少子化対策等厚生労働行政施策の企画立案、実施等のための基礎資料を得ることを目的としています。対象児の年齢は、3歳6ヵ月としています。そこに、「子どもの状況」という項目の中で「性格」というのがあります。親が、自分の子どもの性格はどうであるかを回答(複数回答)したものです。その回答が、男の子と女の子に対してどのように思っているかを%で出してあります。クイズを出してみます。皆さんは、ABどちらの%が、男の子に対して思っている性格か当ててみてください。
1、甘えん坊:A63.2%、B50.3% 2、活発:A54.8%、B52.3% 3、気が強い:A51.9%、B36.8% 4、一人でやりたがる:A51.3%、B38.2% 5、お調子者:A42.8%、B30.9% 6、好奇心が旺盛:A41.9%、B39.5% 7、誰にでも愛想がよい:A36.3%、B28.2% 8、恥ずかしがりや:A35.0%、B32.0% 9、負けず嫌い:A33.0%、B26.0% 10、落ち着きがない:A27.6%、B19.1% 11、素直:A24.4%、B20.9% 12、執着心が強い:A16.0%、B12.3% 13、執着心が強い:A16.0%、B12.3% 14、気が短い:A17.2%、B16.0% 15、飽きっぽい:A16.2%、B15.2% 16、人見知りが激しい:A12.7%、B8.1% 17、気が弱い:A10.2%、B4.5% 18、おとなしい:A8.2%、B7.4% 19、のんびりや:A8.2%、B6.9%
答 1:A 2:B 3:B 4:B 5:A 6:A 7:A 8:B 9:B 10:A 11:A 12:A 13:A 14:A 15:B 16:B 17、A 18:A 19:A
どうですか?今、子どもと接している人であれば、ほとんど正解だと思います。しかし、よく考えると、かなり昔とイメージが違うところがあります。しかも、その違いは、わずかになってきています。はっきりとどちらが男の子で、どちらが女の子といえなくなってきています。生理的、身体的なことは明らかに男女の違いがありますが、もうすでに、社会的、文化的な性差はなくなり、個人差になってきているのでしょうね。
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2006年01月04日 [散歩]
ロゼット

「タンポポ」と「よもぎ」のロゼット
今、街の中をウォーキングしていると、山茶花の花が盛りですが、ほかの季節に比べて、色とりどりの花が少ないので、少しさびしい気がします。しかし、冬は、違う楽しみがあります。それは、次に来る春を待つ姿が、木々や草花に見ることができるからです。華やかに、今を盛りに咲いている姿よりも、もしかしたら、「忍耐」「希望」「未来」そんなものを感じることができるのは、冬の木々や草かもしれません。
たとえば、道端で花の中でも美しいといわれている「バラ」(ローズ)の小さいのを見ることができます。小さいバラという意味の「ロゼット」(rosette)です。これは、非常に短い茎から葉(根出葉)が重なり合って地面に放射状に広がり、バラの花の形のようになっているものをいいます。多年草・越年草の冬越しの状態で、タンポポ・ヒメジョオン・ナズナなどの葉にみられます。ロゼットは、冬の間しっかりと根を張り、春にはいち早く花を咲かせる、そんな地道で実のある活動を目指しています。
冬は、一年で一番寒い季節です。それぞれの生き物は、いろいろな方法で冬を乗り越えます。人間など哺乳類や鳥類は、気温や水温など周囲の温度に左右されることなく、自らの体温を一定に保つことができる恒温動物(かつては、定温動物、温血動物とも言われた)です。これらは、体内で熱を作り出し、または体内の熱を外に逃がす機能を持っています。反面、変温動物といわれる動物など、自分で体温を調節できない生き物たちは、活動をやめてじっと春の来るのを待っています。それが、冬眠です。また、卵や幼虫で冬をすごすものもいます。植物も、木々は葉を落とし、冬芽の状態で春を待つものがあります。草花には種子や球根で冬を越すものもあります。そんな中で、冬も枯れずに葉をつけたまま冬を越す道ばたの野草(多年生の植物)があります。その姿が「ロゼット」です。「ロゼット」は植物が寒さに耐えて冬を越すのに都合のよい形なのです。まず、茎を伸ばさず、地面にはりつくことで冷たい風から身を守ります。また、地面に近いところは、暖められた地面からの熱で温かくなっています。さらに葉を広げて太陽の光をたくさんあびることにより、体温も上がり、光合成をさかんにして地下の根に栄養分をためることができます。また、草丈が高くなる植物は刈り取られたり草食獣に食べられる危険性が高いのですが、地面にへばりついている植物は刈り取られても被害は少ないでしょう。そして、冬を種子や球根で越す植物は全部枯れてしまっていて、光をさえぎるものがありません。そして春になると、他の植物よりいち早く長い茎を伸ばして花をつけ種子を散布します。つまり地面を最大に利用している植物と言えます。ロゼットを作る野草には、ナズナやタンポポの他、ゴギョウ・ホトケノザなど春の七草は、ロゼットで冬を越します。
人間は、自分自身で体温を調節できる生き物のはずです。しかし、どうも最近は、その機能を失いつつある気がします。体温を上げるために、毛を立てる。(身体の回りに空気の層を作り、伝熱を抑える。)身震いをする。(筋肉の摩擦熱による)脂肪の燃焼をする。血管を収縮させる。(重要な臓器に血液を集中し、保温する効果がある。)など体の機能のほかにも、行動として体温を上げるために、日光に当たる、身体を縮める、丸める(表面積を減らし放熱を抑える)、運動するなどがあったはずですが。 最近は、「暖房の部屋にいる」ですね。これで、生き抜いていけるのでしょうか。
投稿者 fujimori : 18:23 | コメント (1)
2006年01月03日 [写真]
日本の子ども

1953年 長崎(長野重一)
今、東京都写真美術館で日本写真家協会企画展「日本の子ども 60年―21,900日のドラマ-」が開催されています。これに、今日、行ってきました。この写真展には、1945年(昭和20年)から2005年(平成17年)までの60年、子どもたちの姿を通して見る日本の社会を、日本を代表する写真家約150名が撮った200余点の写真が展示されています。最初は、まず、昭和20年8月6日、広島で被爆した子どもたちの写真から始まります。解説には、こう書いてあります。「焦土と化した都会では、大人も子どもも衣食住に事欠くどん底生活にあえいでいました。街には戦災孤児、栄養失調で尻にしわがよった子などがあふれ、貧困の中から力強く生きることにみな懸命でした。そして日本人は焼け跡から立ち上がり、経済成長へと歩みます。しかし経済優先の社会に、公害や環境破壊が問題となります。その後バブル経済へと一気に進み、バブルの崩壊、混沌の時代を迎えています。子どもたちの諸相は、大人社会を映すきわめて克明な鏡ともいえるものです。200点余の写真を一つのテーマに繋げ、未来に羽ばたく子どもたちへのメッセージにしたいと考えています。」
以前のブログにも書きましたが、写真とは、とても不思議なものです。時が流れ、時代が流れ、途切れることはありませんが、写真は、ある時を切り取って見せます。その瞬間は、実際の姿ではあるのですが、時間にしては、ほんの一瞬です。しかし、そこから、その時代が見えてくることがあります。しかも、背景としての時代ではなく、心としての時代が見えてきます。特に、その時々の子どもの姿、顔はまさにその心を表わします。なかでも、子どもの「泣き顔」「笑い顔」は、その時代の表面的な悲惨さにも打ちのめされず、次世代への希望が見えてきます。確かに、戦後、生活は貧しく、苦しく、悲惨な状態でした。児童読み物作家の山中恒が書いた本に、「昔はよかった はずはない」というものがあった気がしますが、確かにそう思います。子どもの虐待にしても、子殺しにしても、いじめ、暴力も今の時代だけのものではありません。最近の言葉で、格差社会ということが言われていますが、戦後の格差も大きかったような気がします。しかし、その時代の写真を眺めていると、昔と今の大きな違いは、子どもの「泣き顔」と「笑い顔」です。特に目に焼きつくのは、子どもの笑い顔です。背景が、どんなに悲惨であっても、その前に立つ子どもの笑顔は、本当に楽しそうです。うれしそうです。時代が進み、生活がよくなり、写真の背景は、次第によくなっていきます。しかし、それに反して、なんだか子どもの笑い顔が減ってきます。笑い顔だけでなく、顔つきが変わってきます。無表情に、作り笑いになってきます。なんだか、今後が心配になってきます。

1978年東京(小松健一)
このような心配をする「今の子どもたち」に対して、作家で、今回、写真も提供している重松清氏は、このようなメッセージを出しています。「昔の子どものほうが、目がキラキラ輝いていた……。昔の子どものほうが、貧しいけれど楽しそうだった……。もしも、きみたちがそんな感想を抱いたのなら、この写真集にかかわったおとなたちみんな、そっと、黙って、きみたちの肩を抱くだろう。だいじょうぶ。残念ながら、いま、おとなたちがこどもたちを語る言葉は、なかなか「明るい未来」や「希望」とダイレクトには結びつかなくなってしまった。だが、子どもたちは、いつの時代だって、おとなが決め付ける「いまどきの子どもは……」という紋切り型からするりと身をかわす。そんなしなやかさとたくましさを、きみたちは持っているはずだ。」
子どもとかかわる仕事をしている私たちは、心から笑い、泣く子どもの姿を取り戻す社会を作っていかなければならないのです。
投稿者 fujimori : 22:20 | コメント (0)
2006年01月02日 [近頃思うこと]
正月の遊び
子どもにとっての楽しみなお正月になりました。昔から、子どもたちはいろいろなお正月の遊びをしました。このいわれには、それぞれあります。たとえば、お正月に魔除け、厄被いの意味で羽子板を飾ったり、女の子の初正月に羽子板を贈っていました。この羽子板がお正月の遊戯や贈り物に用いられたのは室町時代で、同時に羽根突きが始まりました。このようにお正月の遊びには、歴史的な意味がありますが、私なりにお正月の遊びの意味を解説してみます。(まったくの、個人的見解です)
まず、たこあげです。子どもは、しっかりと歩けるようになり、走ることができるようになるまでは、一人遊びが中心です。しかし、農耕民族である日本人は、村の人と協力しないと生きていくのは難しいので、少しずつ社会性を養わなければなりません。しっかりと走ることができるようになった頃、たこあげをしようとします。しかし、凧は、持ち手がいないと揚げることはできません。そこで、二人で協力することを学びます。もっと高く上げようとすると、凧のそりや尻尾の長さを工夫しないとなりません。農耕には、工夫が要ります。それに比べて、狩猟民族では、他人との協力よりも、早く走るというような自分の力が必要です。そこで、ゲイラカイトという凧は、一人でも揚げることができますし、高く上げるためには、工夫よりも早く走ることが必要です。つぎは、かるたについてです。文字を覚え始めたとき、日本語は、一音に一文字当てはめます。そのために、言葉を音節に分解することが必要になります。かるたは、言葉や文の頭音(最初の音節)が、絵札の端に書いてあります。しりとりは、相手の最後の音節を、最初に着いた言葉を言う遊びです。どちらも、文字を書いたり、読んだりするときの基本の音節分解の練習です。そして、読む文章は、教訓ものが多く、繰り返すことで、覚えていきます。すごろくは、次のような役割があります。全体の進行は、出世物語とか、人生を学べるようになっています。そして、さいころは、ほとんど「ドット」(黒い●)の数で数の量を表わしています。それを1対1対応で数えて、こまを進めていきます。最近のさいころは、ドットだけでなく、数字や漢数字のものや、6までだけでなく、4まで、8まで、10まで、20までのものもあります。ままごとは、子どもは周りの人の行動に興味を示し、模倣することによって、物事の間の共通性を見い出したり、概念化することを学び、また、象徴機能や観察力も増し、家事の所作を学ぶようになっています。はねつきは、全身のバランスをとる能力が発達し、体の部分を自分の意のままに使えるようになり、体の動きが巧みになることによって、各機能間の分化・統合が進み、目と腕の共用のように、異なる2種以上の行動を同時にとるようにもなります。
このように、今、科学的に検証しても、昔からの子どもの遊びには、成長のための意味があるのです。しかし、今の遊びのテレビゲームなどは、人に対して暴力を振るったり、死んでもリセットして生き返るなど、命の意味を混乱させるものが多くあります。また、早く手を動かすことで、敏捷性が養われると思っていたことが、そんなことはなく、かえって、前頭葉という脳を破壊しているだけであることも実証されています。今の子どもの遊びは、成長のための学習ではなく、享楽的な、大人の遊びに近い役目しかもっていないものが多いですね。昔からの子どもの遊びの科学的な意味を、今は、親に伝えることが必要かもしれませんね。
投稿者 fujimori : 19:23 | コメント (0)
2006年01月01日 [あいさつ]
1秒
あけまして おめでとうございます。
皆さんは、どこでカウントダウンをしたでしょうか。今年は、いつもの年より1秒得をします。もしかしたら、1秒損をしています。どちらでしょうか。皆さんが知っているように、時間は地球の公転と自転から決められています。そこで1年を決めて、1日を決めて、時刻を決めています。しかし、1年のずれが起きるので、「うるう年」が決められていて、4年に1日多くします。それが、最近になると、もっと正確になっています。というのも、時刻を決めるために、現在では、原子の振動を利用した原子時計をもとに決められるようになり、非常に高精度なものとなっています。このため、逆に天文時に基づく時刻との間でずれが生じるようになりました。そこで、原子時計に基づく時刻を天文時と0.9秒以上ずれないように調整を行った時刻を世界の標準時として使うことにしています。そこで、今年は、地球の公転・自転に基づく時刻とのずれが0.9秒に近づいたために、「うるう秒」として調整が行われました。なお、最近では7年前(平成11年(1999年)1月1日)にうるう秒の挿入を行いました。調整の仕方としては、日本では、平成18年(2006年)1月1日(日)午前8時59分59秒と午前9時00分00秒の間に「8時59分60秒」を挿入する方法を取るようです。電話の時刻の案内では、10秒前から0.1秒ずつ延ばしていくそうです。
この1秒という時間は、どんな時間でしょうか。先日行った経済館では、1秒ごとに日本の借金が増えていきますので、1秒長くなるということは、借金が、何億と増えることなのでしょう。同じように1秒で何ができ、世界で何が起きているかを考えると、得なのか、損なのかわかりません。そんな本があります。「1秒の世界」山本 良一責任編集です。(出版 : ダイヤモンド社)こんなリードが書いてあります。「1秒間に人は93mlの空気を呼吸し、世界に420万tの雨が降っている…。世界の変化を1秒で見ると「地球の今」がリアルに実感できる。宇宙と生命の真実を認識し、有限な地球で豊かなエコライフを実現するためのテキスト。」1秒は確かに大切ですし、1秒の間にいろいろなことが動いていきますが、なんだか私はあまりそんな世界は好きではありません。ゆったりと時が流れる感じが好きです。もし、1秒を大切にしようとするのであれば、次のような詩が好きです。
詩「1秒」 永田 光男
『はじめまして』この1秒ほどの短い言葉に 一生の時めきを感じる事がある。
『ありがとう』この1秒ほどの短い言葉に 人の優しさを知る事がある。
『がんばって』この1秒ほどの短い言葉で 勇気が蘇ってくる事がある。
『おめでとう』この1秒ほどの短い言葉で 幸せに溢れる事がある。
『ごめんなさい』この1秒ほどの短い言葉で 人の弱さを見る事がある。
『さようなら』この1秒ほどの短い言葉が 一生の別れになる時がある。
1秒に喜び 1秒に泣く 一生懸命 1秒...
そんな意味で1秒を大切にしたいですね。
もし、早口で言ったらこんな言葉も1秒でいえます。「あけまして おめでとう」