山中恒

 日曜日に訪れた「尾道」というと、思い出すものの一つに、大林監督の映画「尾道三部作」と「新・尾道三部作」があります。このシリーズの「転校生」(原作では、「おれがあいつであいつがおれで」)「さびしんぼう」(原作では、「なんだかへんて子」)「あの、夏の日 ~とんでろ じいちゃん~」の原作者は、「山中恒」です。私が、児童文学者の中で、好きな作家です。彼は、『赤毛のポチ』で日本児童文学者協会新人賞、『三人泣きばやし』でサンケイ児童出版文化賞、『山中恒児童よみもの選集』で巌谷小波文芸賞、『とんでろじいちゃん』で野間児童文芸賞を受賞しています。そして、数多くの”児童読み物”を創作する一方、『子どもたちの太平洋戦争』『教えの庭に』『ボクラ少国民』などの「少国民シリーズ」で、自らが少国民として受けた戦時下の教育の実態を記録し続けています。
 しかし、彼を有名にしたのは、その作品の多くがNHKの少年ドラマになっていることと、なんていっても人気テレビドラマ「あばれはっちゃく」シリーズでしょう。また、歌の作詞でも、「インディアンが とおる あっほい あっほい あっほいほい」と始まる「インディアンがとおる」とか「ビュワーン ビュワーン 走る 青いひかりの ちょうとっきゅう じそく250キロ」と始まる「走れ超特急」が有名ですね。
 その中で、私が特に好きなのは、本人が、「僕は、児童文学者ではなく、児童読み物作家だ。」といっているように、痛快、面白読み物です。巌谷小波文芸賞を取った『山中恒児童よみもの選集』は、どれも面白くて大好きです。その中で「六年四組ズッコケ一家」などは、何度も、勉強を教えていた6年生に読み聞かせたものです。一方、とてもシリアスなものもあります。その中で好きなものに、「ぼくがぼくであること」があります。
 この主人公は小学6年生の少年です。彼は出来のいい兄弟たちの中で唯一おちこぼれているため、教育ママの母親から目の敵にされている。その彼が、夏休みの最初に些細なことから母親と対立して家出をするところから話は始まります。家出をした少年は走り始めたトラックの荷台に潜り込み、ちょっとした偶然から山村で暮らす老人と少女の家に身を寄せ、そこで二人の暮らしを手伝いながら、一夏を過ごします。やがて夏が終わり、家に帰った彼は母親や兄弟との関係の中で、自らが、自分にとってかけがえのない自己であること、家族もまた、一人一人が欠点も弱さもある一個の人間であることを自覚出来うる力を身につけていくのです。少年の母親は恐ろしいほどの教育ママに描かれています。最近の青少年に起きている事件の母親たちは、皆、子どもに対して「過干渉」のようです。教育ママという言葉を最近は聞きませんが、この言葉も過干渉という言葉同様、「自分の価値観を子どもに押し付ける」ということでしょう。子どもを教育すること、子どもに干渉することは別に悪いことではありません。ただ、一歩的に、自分の価値観で子どもをコントロールしたり、子どもの気持ちを汲み取ることなしに、自分の気持ちを押し付けることが問題なのです。
「ぼくが、ぼくであるために」ということが必要なのです。

餅つき

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 若い人と話すときに、私たちの世代は、次の世代にいろいろなことを伝承しているだろうかと思うことが多くあります。戦後、新しい文化が入ってきて、一見夢のような、すばらしい世界かのように欧米文化が見えました。その文化に浸り、その文化を取り入れることが、時代の先端を行くかのように思っていました。昔からの文化は、「ダサイ」「おじん、おばんくさい」と言われ、なるべく昔からのことは言わないにようにしてきて、今の人の考え方についていくようにしました。特に、私たち団塊の世代では、大学を始め、古い体質を変えよう、壊そうと先頭に立っていたこともあり、残すことよりも、壊すこと、変えることに価値を持っていた気がします。もちろん、悪い、古くからの慣習は、変える必要があります。新しい時代を作っていかなければなりません。しかし、その前に、過去からの文化を検証し、その意味を考えなければいけないのでしょう。
 今日は、園で、餅つきがありました。私の園では、行事の目的をきちんと意味づけています。今日の「餅つき」という行事は、行事4つの目的の一つである、「地域の文化を伝承する。」です。
私は、下町で育ちましたが、祖父母が八王子にいたので、長い休みになると八王子に来ていました。私が小さかった頃、年末になると、朝から、地域の人たちがみんな私の家に集まって、餅つきを始めます。私の家では、工場をやっていたので、住み込みの人も何人かいましたので、朝から大騒ぎでした。正月いっぱいの、また地域の人の分までもちをつくので、次から次へとたくさんついていきます。つきおわると、それを、鏡餅と、伸し餅と、青のりや豆を入れて、なまこ餅にしていきます。それを、新聞紙を下に敷いて、おおきな板の間に並べていくのです。餅をついているのを覗き見している私に向かって、大人たちは、「ほら、ついてみな!」といって、杵を渡されます。八王子の杵は、重さでつくので、非常に重く、持ち上げるだけで一苦労です。しかも、餅が杵につくと、もっと重くなります。ひいひい言って持ち上げる私を見て、大人たちは、からかいます。「そんなんじゃ、大人になれないぞ。」と。でも、そう言いつつも、つき方のこつを教えてくれます。「こねるだけで、餅はほぼ出来上がる。力でこねるのではなく、体重でこねるのだ。」「手で、ついてはダメだ。腰でつくものだ。」「手返しは、つく横からでないと、頭を打ってしまう。」「手返しは、もちを返すのではなく、リズムを取ってあげることだ。」などなど。しかし、そんないっぱいの量をついても、つきたてのやわらかい餅は食べたことがありませんでした。餅は、冬の間の大切な、保存用の食べ物です。ほかの地域ではわかりませんが、つきたての餅を食べたという記憶は、大人になってからしかありません。また、正月の食べ物なので、年を明けてから餅をつくということもあることも知りませんでした。ただ、それらは、地域での伝承なので、本来のものとは、違ってきているのかもしれません。どうも、年末の12月29日は二九を音韻からフク(福)と読み、その日に餅をついていた気がします。(逆に、「苦を搗く」音韻から九日餅(くんちもち)と呼び、年の暮れの数日間のうちその日だけは餅を搗いたり購入を避ける風習がある地域もあるようですが。)
 みんなで集まって、わいわいがやがやと餅をつく姿を見ながら、年末を感じたものです。

志賀直哉

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 昨日、訪れた尾道には、大正元(1912)年に「志賀直哉」が移り住んだ棟割長家が現在でも見られるようになっています。代表作「暗夜航路」も、ここ尾道のこの部屋で執筆されました。彼は、生涯20数回転居しているので、各地に居宅跡があります。鎌倉にも、結婚した翌年の大正4年に、現在では雪ノ下となっている千度小路に居住しました。大正14年には、京都の山科から奈良に移り住み、4年後、奈良市の高畑に新居を建て、東京に戻るまでの9年間をここで暮らしました。この建物は、彼自身が設計をしており、数寄屋造りの名人が作っていて、現在公開されています。そして、ここで、尾道で書き始めた「暗夜行路」を完成させています。
 転居を繰り返している理由の一つに、父親との不和があるようです。中等科に進む直前、母の死にあい、その年のうちに父は再婚します。これも影響していると思いますが、直接的な原因としては、この頃、足尾鉱毒事件がおこり、その見解について、父親と衝突します。これが、以後の決定的な不和のきっかけとなります。そのあと、女中に夢中になり、結婚を約束したため、父との関係が険悪になります。その頃に、有名な小説「清兵衛と瓢箪」を発表します。これは、なかなか興味深い気がします。
 この作品は、教科書にも取り上げられて有名ですが、一応、あらすじは、
「小学生の清兵衛は、瓢箪が好きでたまらない。ある日、教室にまで持ち込んで手入れをしていたところを先生に見つかり、激しく叱られ、瓢箪を取り上げられてしまう。家でも父にさんざん叱られ、せっかく集めた瓢箪はすべて割られてしまい、清兵衛は、「大人のくせに何もわかっていない」と思う。取り上げられた瓢箪は六百円もの大金で売れた。」というものです。
 子どもの一途な執念を、彼の父を含め、先生はじめ、周りの大人には理解されず、ただ、その行為に対して、彼の父は、こんな態度をします。
『その話を聞くと、急に側にいた清兵衛を捕えて、散々に殴りつけた。清兵衛は、ここでも、「将来とても見込みのないやつだ。」といわれた。「もう、貴様のような奴は出て行け」といわれた。』
 このような無理解な父親が、見込みのある奴を、ない奴にしてしまうことが多いのではないでしょうか。子どもの興味はあらゆるところにあり、それが将来役に立つか、立たないかは、誰にもわかりません。わかっているのは、子どもを理解することが大切だということです。そして、子どもを、子どものやることを大切にするということです。
 この小説に結びには、こう書いてあります。
「・・・・・清兵衛は今、絵を描く事に熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員を怨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で破って了った父を怨む心もなくなって居た。然し彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言い出して来た。」
 その後、実生活では、志賀直哉は、父親と和解し、すぐに「和解」という小説を書いています。

一言

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 人の話は、文章とちがって、素通っていきます。聞き手にとって、その場で、その内容を把握しながら聞くのですが、言葉の解釈は、聞き手によってなされます。いわゆる我田引水といわれるもので、結局は、自分の都合のよいように聞くことが多くなります。私の部屋に飾ってあった、毎月のカレンダーの一言にこんなことが書いてありました。「物事の善悪を判断するときに、好き嫌いで判断してしまうことがある。物事の真理を見極める必要がある。」逆に話し手になるとき、できるだけこちらの真意を誤解されずに伝える努力が必要です。勝手に、自分の都合のよいように判断されてしまっては困ります。しかも、それを他人に伝えられていくと、いわゆる「伝言ゲーム」のように、仕舞いには、まったく言った内容と異なったものになってしまうことがあるからです。また、逆のことがいえることがあります。本人は、そんなに深い意味で言ったつもりはなくとも、聞き手が深く考えてくれることがあります。また、さりげない一言から、考え方や、人柄がわかることもあります。
もうひとつ、言葉のすばらしさがあります。それは、言葉によって、ちがうものに見えてくることがあるのです。たとえば、今日、尾道を歩きました。尾道は、坂と階段が多く、歩くのはとても疲れます。途中でいやになってしまいます。そんなときに、こんな看板を見ました。「健康への道 出発点から1Km エネルギー消費量(体重60K)41Kcal」これを読むと、もう少し歩こうという気になります。同じような言葉が、昨日の広島でのリースさん(フランクフルト保育行政官)の講演の中にありました。最近フランクフルトでは、0歳児保育が進められてきています。その理由を、こう言いました。「政策的には、3歳以下(0歳から3歳)に対する陶冶と保護の提供を拡張すべきだとしていて、それを実施に移すための措置が実行されています。その背後にあるのは、子どもたちには、生まれた最初の瞬間から学習の機会が与えられなければならないという要求である、というふうに言うことができます。」日本では、たぶんこう言います。「最近、少子化になってきたので、仕事と育児の両立をするために、乳児からの保育を充実します。」と。暗に、子どもにはよくないが、親のために仕方なくするニュアンスが感じられます。それに反して、フランクフルトでは、あくまでも、子どものために0歳児からの保育をすると言い切ります。日本同様、少子化がかなり進んでいても、絶対にその言葉は口に出しません。また、多国籍の子を受け入れてきたり、子どもたちの多様化を進めるために、私は、こういう言い方をします。「それぞれの異なりを認め合い、そのものたちが、みんなで生きる社会を作りましょう。」ということで、「共異体」ということを提案していますが、どうして、これが必要かは、なんだか、そのような世の中になってきたからというような、子どもにとって、それがどういうことかはありません。それを、リースさんは、こう言いました。「子どもと大人の双方にとって、多様性と差異が豊かさとして体験できる場所として理解されていて、文化的価値や伝統、習慣を日常生活に取り入れることは本来的な課題として理解されています。」
 言葉ひとつで、ずいぶん違うものですね。

南天

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 先日、鎌倉に行ったときに「瑞泉寺」を訪ねました。紅葉がきれいということだったのですが、庭の真ん中に「南天」の真っ赤な実がたわわになっていました。この実は、鳥の大好物なので、食べられなければ、冬まで残っています。「南天」というと、真っ赤な真ん丸い実であるので、雪ウサギの目によく使います。また、赤飯に入れたり、赤飯の掛け紙には南天が描かれています。これには、こんな意味があるようです。古来より、「難を転じて福を招く」(「難転」あるいは「成天」に通じる)と言われ、縁起良い植物として、祝い事や除災の祈念に用いられてきました。その昔は武士の出陣に臨んで一枝を鎧の内に挿し武運長久を祈りました。また、元服の式に挿花したり、安産のお守りにしました。南天の葉は諸毒を消すと言われ、赤飯に添えます。ちなみに、赤飯に小豆を用いるのは、小豆に薬効があるからともいわれ、身体によいものと評価されているからです。また赤い色は邪気をはらい厄除けの力をもつと信じられ、祝い事や特別の行事に使われています。慶事に赤飯を用いるようになったのは江戸後期からといわれています。また、南天は不浄を清めるということで,お手洗いの外に植えてあったりします。また,南天の箸というのも食あたりを防ぎ,長寿を祈願するということで好まれるようです。また、防火・厄除けとして庭先や鬼門にも植えられます。京都の金閣寺の床柱は、南天の材を使っていることで知られています。福寿草の花と南天の実とセットで縁起物の飾り付けとして、正月用の生け花にされることがあります。実を乾燥させたものには「せき」止めの効き目があります。「南天のど飴」というのがありますね。また、葉には「ナンジニン」という成分を含み、殺菌効果があります。また葉の煎液が目薬としても使われています。このように、南天は昔から、生活と深いつながりがあります。
南天と同じような赤い実のなるもので、お正月の飾りによく使われるものに、「千両」(仙蓼)、「万両」という縁起の良い植物があります。区別としては、「南天」の実は上方に飛び出していますが、「万両」は葉の下側に実があります。そして、「千両」は、葉の上に実があります。
「千両」は、切り花のほうがよく出回ります。花屋は毎年市場で、千両市というので買い求めます。赤い実が大変きれいで、おめでたいのでお正月しかでてきません。「万両」は、小低木なので1m位までしか伸びません。真っ赤な実がとても冬にはきれいなのは同じで、鉢植えでもでまわります。そのほかにも、「十両」「一両」もあるそうです。
 科学が進んで、様々な研究がされると、新しい知恵が生まれるというより、昔からの知恵が、科学的にも証明されるということが多い気がします。これは、生活の知恵のなかに多くあります。また、子どもの伝承遊びのなかにも、そんな昔からの知恵が多い気がします。生活や子どもの遊びは、知識でするものでないからでしょう。しかし、最近は、生活の知恵や、子どもの遊びを、知識として押し付けようとしたり、知識として覚えようとすることが多い気がします。もう一度、知恵としての伝承をしていかなければならないと思います。

三島

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「春の雪」が映画化されて、上映されています。私は、この手の恋愛物は苦手で、映画もほとんど見ませんが、この原作には、とても興味がありました。というか「豊饒の海」4部作を、出版当時、夢中で読んだものです。第4巻の最後にこう書いてあります。「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。…… 「豊饒の海」完 昭和45年11月25日」
作者三島由紀夫は昭和45年11月25日、切腹自殺しました。三島由紀夫は昭和45年(1970年)の11月25日に市ヶ谷の自衛隊本部に侵入し、自衛隊員に決起を呼びかけ、自刃を行ったのです。そしてその日の朝、彼の最後の長編小説『豊饒の海』の最終原稿を手渡しているのです。つまり、11月25日の朝、最後の著作の原稿を手渡し、その日の午後には市ケ谷で自刃しています。この最後の文章を、それを知って読むと感慨深いのですが、そうでなければ、そんな気配は見られません。心の高ぶりも、決心も、感じられません。
しかし、この本を読もうと思ったのは、そんな劇的なことに関心があったのではなく、この本の装丁に惹かれたからでした。三島の世界を象徴するように、この本の表紙は、絹の布でできています。しかも、その第1巻の「春の雪」はとてもきれいな紫色をしています。第2巻の「奔馬」は真っ黒、第3巻の「暁の寺」は真っ赤、第4巻の「天人五衰」は真っ青です。
第1巻の「春の雪」は恋愛ものです。このなかで、主人公が、鎌倉の別荘に行きます。そのくだりにこう書いてあります。「青葉に包まれた迂回路を登りつくしたところに、別荘の大きな石組みの門があらわれる。―略― 和洋折衷の、12の客室のある邸を建て、テラスから南へひらく庭全体を西洋風の庭園に改めた。南面するテラスからは、正面に大島がはるかに見え、噴火の火は夜空の遠い箒になった。由比ガ浜までは庭伝いに5,6分で歩いていける。」このモデルは、先日行った、「鎌倉文学館」です。本当は、加賀百万石の藩主で知られた、旧前田侯爵家の鎌倉別邸だったそうです。この建物が建っている鎌倉といい、その建物のつくりといい、いかにも三島が好きそうですね。
第2巻の「奔馬」が、私は当時一番好きでした。これは、神風連史話に傾倒する主人公が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語です。なんとなく、三島の末期を予感させますね。
しかし、このシリーズの本当の物語は、各巻ごとに時代と背景と環境は異なる独立した物語として完結しながら、それぞれの主人公が歴史の流れとともに、輪廻、転生の不思議な縁でつながるというものです。作品の末尾にはこう書かれています。「『豊饒の海』は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunditatis の邦訳である。」何もない、砂漠のような月にある海の名前を取ったのは、面白いですね。三島由紀夫のあまりに美しい言葉を並べ、テーマも少し陳腐の嫌いがあるのですが、天才の「ほとばしり」を感じます。

150段

 昨日は、赤穂浪士の討ち入りの日でした。この話は、日本人は好きですね。好きな理由の一つに、目的のために、今を耐え忍び、言いたいことも言わず、周りに気づかれないように準備を進め、最後に目的を果たすところにあります。最後に見返すというところが、その前の屈辱が大きいほど、「ほら見ろ!」ということがあります。どうも、途中の苦しさ、大変さを人には見せず、最後に出来上がってからみんなに披露することの快感があるのでしょう。しかし、私は、それは、本当でない気がします。私が好きな考え方が「徒然草」の150段にあります。
能 をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

この段は、宮本輝氏の「約束の冬」に取り上げられており、宮本氏が訳しています。
芸能を見につけようとする人は、「よくできないような時期には、なまじっか人に知られまい。内々で、よく習得してから、人前に出て行くようなのこそ、まことに奥ゆかしいことだろう」と、いつも言うようであるが、このように言う人は、一芸も習得することができない。まだまったくの未熟なうちから、上手の中にまじって、けなされても笑われても恥かしいと思わずに、平然と押しとおして稽古に励む人は、生まれついてその天分がなくても、稽古の道にとどこおらず、勝手気ままにしないで、年月を過ごせば、芸は達者であっても芸道に励まない人よりは、最後は上手と言われる芸位に達して、人望も十分にそなわり、人に認められて、比類のない名声を得ることである。世に一流といわれる一芸の達人といっても、初めは下手だという噂もあり、ひどい欠点もあったものである。けれども、その人が、芸道の規律を正しく守り、これを重視して、気ままにふるまうことがなければ、一世の模範となり、万人の師匠となることは、どの道でも、かわりのあるはずがない。」
芸 を身につけようと思っている人が、「へたくそなうちは、なまじっか人に知られては、はずかしい。人知れず猛特訓して熟練してから、お披露目をすれば格好良く見えるだろう」と、よく思うけれど、こんなことを言っている人が、芸を身につけたためしは何一つとしてない。ということですね。「まだ、まだ」という人は、どこかで納得いくようになるのかと思います。保育の世界も、「これでいい。」ということはありません。「さあ、みんなに見せられるようになった。」という時期は、いつなのでしょうか。みんなで、試行錯誤を繰り返し、みんなでいっしょに考えていくからこそいいものになっていくのでしょうね。恥を恐れていては、いいものには、なりません。

労使関係

 あるところで、新しい試みの話をした後、アンケートで「その試みを実行しようとするときの障害は、何ですか?」と聞いたところ、保育者の回答のほとんどは、「園長」と答えていました。逆に園長に尋ねた回答のほとんどは、「保育者」でした。お互いが、お互いを壁と感じているようです。
今日の来客は、とても珍しいパターンです。今まで、数日間にわたって園の職員を全員交替で実習によこし、最後にそこの主任が来て話をし、そして、今日、そこの園長が来ました。園職員全員で来ることはあっても、それぞれ別々の日に園長、主任を含めて全員が来るというのは珍しいです。別な日なので、それぞれの本音が聞けるからです。そして、園に戻って、みんなで話し合えるからとてもいいと思います。(特に、園長と職員)
園というのは、企業ではありませんが、企業の「労使関係」という考え方が、職員との関係で参考になることがあります。保育園、幼稚園では、企業でいうと、中小企業です。中小企業の場合は、とくに労使の間の個人的なつながりが密接で、従業員と使用者との人間関係が、その企業の労使関係に及ぼす影響が強くなっています。経営者の従業員に対する人間的理解の欠如が原因となって、労使関係が悪化した多くの例があります。人間関係に十分な心づかいをして、従業員との信頼関係を築き上げていくことが、労使関係をよくするためにはとても必要なことだといわれています。私は、そのほうの専門家ではないので、詳しくはわかりませんが、一般に大きくアメリカ型とドイツ型に分けられるようですが、どうも最近は、労使関係でも「ドイツ型」が提案されているようです。アメリカ型は、会社の主催者の意向は経営に強く反映します。しかし、企業に対する一体感は薄く、企業内部での一体感もあまりありません。一方、ドイツ型は産業民主制の立場から、労使の関係は対等であり、経営に対する責任分担は両者共同で行われます。このため、企業内での一体感は高まりますが、意思決定が対立した場合は調整が難しくなります。ドイツでは、協調的問題解決型、すなわち協約自主性というようです。参考に、トヨタの労使関係を見てみました。トヨタの人事労務は「労使相互信頼」を基本理念としています。労使相互信頼は、「従業員の生活向上は会社の繁栄があって初めて実現するものであり、労使が会社の繁栄を共通の目的として価値観を共有する」が基本精神のひとつにあります。そして、その基盤として「相互信頼」に「相互責任」が加わっています。
園に見学にきた保育士さんから、こんな感想のメールをいただきました。
「お話を聞かせていただき、私が特に印象深く残ったのは、園長先生が現場の職員の先生方を信頼し感謝をしていて、その園長先生の姿勢にしっかりと受け答え、実践していらっしゃる現場の先生方とのチームワークです。つまり「輪」ですよね。「輪」は「和」にもなります。きっと、通園している子どもたちは、いちばん身近なところにいる大人が安定して穏やかであれば、自然と心が和むことでしょう。そして、子供の様子を見れば、その子どもたちの保護者の方々も、我が子をしっかりと受け止めて下さっていると確信して先生に協力したいという感情が湧いてくるのでしょうね。『子どもが外の社会で最初に生活をする場の大人が信頼できる人間であること』とても大切だと思います。」

妻からのメール

 私が、出張先で泊まるときに、妻からメールをもらいます。妻は、保育園にはかかわっていないので、外から保育の世界を見たり、育児を専業主婦としていた経験からのコメントは、とても参考になります。直近のものを紹介します。
12月12日
 私は今日「山内一豊と千代」の講演を聴きましたが、なかなか面白かったです。本を読んでいたので、よけいに面白く感じたのでしょう。講演者の先生は来年の大河ドラマの時代考証担当の方だから、来年の大河はいつもより面白いかもしれません。時代考証をした人の所へは苦情の電話や手紙が来るそうで今年の義経の担当の先生は、精神的に追い詰められ病気になってしまったそうで、自分も覚悟しているとおしゃっていました。大変なことですね。
さっきNHKの八時からの番組で大変面白いことを聞きました。アフリカのマタ・アトランティカという所にムリキという種類のサルがいるそうです。普通サルはボスがいて階級があるし喧嘩が多いのに、この種類は仲が良くてボスもいないし喧嘩もしない仲良しサルなのだそうです。理由はいくつかあるのですが、日常穏やかなハグをしているのが大きな特徴だそうです。ちょうど今読んでいる本「抱かれる子どもは良い子に育つ」にも通じるところでもありちょっとその偶然に驚きました。「穏やかなハグ」は確かに心が落ち着く気がします。もちろん誰でも良い訳じゃなく、愛情を感じられる人にだけですが。
12月1日
 ところで、朝に話してもらった「子供の犠牲になりたくない確立が高い日本人」のことですが、やっぱり気になりますね。私は子供が生まれてから、全ての行動を起こす時に(時には間違っていたかもしれませんが)自分では「子供が第一優先」で決定していました。だからといって決して犠牲になったとは一度も思ったことはありませんでした。かえってだからこそ、最良のコースをたどってこられたと感謝しているくらいです。例えば子育てが一番ハードだった長男が4歳、長女が1歳くらいの時(長男が幼稚園に入る前)には、一番の夢がゆっくりトイレに入ることでした。30代前半ですが。その当時独身の友人はヨーロッパ旅行を楽しんでいると聞きましたが、羨ましいとか、子供の犠牲になっているとか思ったこともありませんでした。ただ、ちょっと今の人と違うのは、同じ暮らしをしている人が90パーセントくらいで海外旅行に浮かれている人は一割もいなかったということです。今は5割くらいはいるでしょうか?そうだとまた話も少し違ってくるでしょうか。 おととい、昨日の貴方のブログではありませんが、「子供との思い出」や「子供の笑顔」しぐさ等々、言い尽くせない素晴らしい経験というか「生きている喜び」ですよね。他に取って代わるものなどありません。
先日、ラジオに近石しんすけさんが出演されて「子供には小さい時に充分な幸せをもらったから、大人になってもらうものは何もない」っておしゃっていたけれど、本当にそう思うし、近石さんの心の広さを知りました。小さな心の人間が増えたということなのでしょうか?
11月26日
今日の朝日新聞に、マレーシアの前首相マハティール氏が寄稿している文章にうなってしまいました。なぜイスラム教が「戦争の宗教」になってしまったのかが、明確にわかるのですが、それは他のジャンルでも当てはまるとも思いました。(保育にも)かつてイスラム教徒たちは、偉大なギリシャの科学者や数学者、哲学者たちの著書を読みペルシャ人、インド人、中国人たちからも学んだ。ところが宗教のみを学び始めると、視野の狭さが今日のイスラム教徒を苦境に導いていった。そういう意味では、貴方のブログが保育だけに突出しないで、多岐に渡ったジャンルで書かれていることは、保育界の閉塞感を打破する一助になっている一つの現れであると改めて感じました。
今晩は「やっぱり変だよ。日本の営業」を読もうかと思っています。どんなジャンルでも転換期を迎えているようで、時代を先取りした人の話は、どれもファンタスティックで興味深いです。

鎌倉の歴史

 加齢してくるにしたがって、様々な変化が現れます。できなくなったこと、できるようになったことがあります。また、見えにくくなったこと、見えるようになったことなどもあります。ですから、あるときは、年を取ったことを嘆くときがあったり、ありがたく思ったりすることがあります。つくづく、人間というものは、勝手なものだと思います。逆に、よくできているなあと思うこともあります。そんなことで、以前と同じものを見ても、そのときとまったくちがう見方をすることがあります。ですから、いつも新鮮に感じます。日曜日に行った鎌倉も、あらためて、「鎌倉」の歌を味わうことができました。
 1番にまつわる話です。(七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎 名将の/剣投ぜし古戦場
鎌倉幕府の専制政治は頂点に達していたころのことです。そこに、天皇の新政復活を目指す後醍醐天皇の動きが活発化し、討幕の兵を募りました。その声に応じた一人が上野国(群馬県)の新田義貞だったのです。そして、鎌倉に向かう途中で、いろいろなところで戦っていきます。その戦場として有名なひとつに、「分倍が原」の合戦があります。新宿から八王子に京王線で行く途中にある駅です。多摩川を背にして後がない幕府軍は、決死の勢いで戦い、新田軍は入間川まで後退したのですが、新田軍に味方する武士が増え、幕府軍を圧倒し、再び南下した分倍が原で激しい戦闘となり双方で数千人の死傷者が出たほどでした。さらに関戸河原にまで南進し、勝ち進みます。そして、いよいよ鎌倉に近づいていきます。鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然の要害です。極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つです。極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もありません。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、多数の死者がでました。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかったのです。しかし、水が深く、渡ることができませんでした。『太平記』によれば、このとき義貞が黄金造りの太刀を海に投じて竜神に祈ったところ、水が引き、干潟となったので、新田軍は鎌倉に突入することができた、とあります。そして、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
4番(上がるや石のきざはしの/左に高き大銀杏/問わばや 遠き世々の跡)は、有名ですね。鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児公暁によって暗殺されたという話です。
5番(若宮堂の舞の袖/しずのおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ)は、最近のNHKの「義経」で印象が深い、源義経の愛妾・静御前を歌ったものです。義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行しました。しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られました。そして、都第一と歌われた白拍子の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前の若宮堂で踊りました。そのとき、義経を恋い慕う歌を歌ったので、頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じますが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許されました。その後、静は義経の子を出産しますが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまいました。そののち静は許され、京に帰されましたが、以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられています。