田端

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 以前のブログにも書きましたが、鎌倉には、様々な作家をはじめ、文化人が住んでいました。その人たちの資料館「鎌倉文学館」に行きましたが、同様に、北区の田端にも様々な文化人が住んでいたようです。その資料がある、「田端文士村記念館」に行ってきました。田端という駅は、山手線・京浜東北線が乗り入れていて、その両線の分岐する駅ですので、特に朝晩の通勤時間には乗換えをするお客さんの数が多いようです。また、高架には、たまに、新幹線が通るのが見えます。しかし、このあたりは、明治の中頃まで、雑木林や畑の広がる閑静な農村でした。そこに若い芸術家・文士たちが移り住むようになり、“田端文士芸術家村”と呼ばれるコミュニティができあがりました。上野に美術学校(現東京芸術大学)ができると、台地つづきの田端に美術家たち(板谷波山・小杉放庵ら)が住むようになり、美術家どうしの交流が盛んになりました。大正になって、東京帝国大学に通う芥川龍之介が、当時住んでいた新宿では「田舎過ぎる」といって田端に引っ越してきたのです。そして、室生犀星・掘辰雄・菊地寛・野口雨情ら文士やパトロンたちが多く集まり、田端は“文士芸術家村”となりました。今日、行った「田端文士村記念館」には、彼らの作品・遺品の一部、貴重な映像を展示しています。
 その展示のなかで、興味を特に引いたのは、「金の船」(その後、「金の星」と誌名を改称)の編集室が、ここ田端にあったことです。この「金の船」は、斎藤佐次郎が、1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意し、島崎藤村、若山牧水、西条八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西条八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊したのです。その後、中山晋平より本居長世の紹介を受け、野口雨情と本居長世による多くの童謡を世に送り出しました。この頃発行されていた「赤い鳥」は北原白秋、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が中心的人物となり、それぞれが覇を競いました。(この3人が、3大詩人と呼ばれています。)「金の船」の中心人物の「野口雨情」は、やはりブログでも書いた「証城寺の狸囃子」の作詞で有名ですが、ほかに『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』などがありますが、いずれも曲がつけられて、広く愛唱されています。
 話は変わりますが、「夕焼け小焼けで 日が暮れて?」の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれました。(この「夕焼け小焼け」の詩は、ふるさと恩方の風景を歌ったといわれ、従って、今、八王子市で、夕方になると、市内全域にこの曲が流れます。)この中村雨紅は、詩人・童謡作家ですが、東京府立青山師範学校卒業後、日暮里や厚木で教諭をしながら詩作を続けました。そして、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称したのです。
 どこかで、いつも、何かがつながってきますね。

田端” への5件のコメント

  1. つながりを感じるために必要なのは、あることについて深く考えていること、そして様々なものに関心を持つこと、これらがつながりを生んでいくんだろうと思っています。そう考えると私はつながりを感じる力がまだまだ不足していますね。視野を広げ、もっと多くのことに関心を持てるようにならなければと思います。そのためにもいろんなことをおもしろがること、そして行動あるのみ、ですね。

  2. 夕焼け小焼けの歌詞は小学生の頃を自然と思い出させてくれます。「夕焼け小焼け」と聞くだけで、その頃を自動的に思い出したりします。以前、ブログの中で童謡についての話がありました。それに触発されて、童謡に関する本を読んでみたしが、人によっていろいろな解釈があって面白いですね。七つの子も、カラスが七匹なのか、七歳のカラスなのか、そんなことを考えるとおもしろくなってしまいます。また、そこで「小焼け」がどのようなものかもしりました。よく歌ってはいますが、小焼けがどういう現象がはっきりしていなかったんだなと気がつきました。

  3. 私も、コメンテーター“もりぐち”氏の影響で「小焼け」を調べてみました。すると、私の大好きな映画「ザ・マジックアワー」(三谷幸喜監督作品)と関連性を発見しました。マジックアワーとは、日没後の「太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、しかし最も美しい時間帯」を指す言葉であり、転じて本作では「誰にでもある『人生で最も輝く瞬間』」を意味しているそうです。まさに、何かがつながっていきますね。

  4. 田端駅には降りることがは基本ありませんが、「田端文士村記念館」訪問ということで降りてみるのもいいですね。田端が文士の集まっていた場所であることを今回のブログから教わりました。確かに、上野から台地伝いに来れるところですね。東京帝大に通う芥川龍之介が、当時住んでいた新宿では「田舎過ぎる」といって田端に引っ越してきた、という件に思わずニヤッとしてしまいました。新宿が田舎過ぎる、とはおもしろいなと思いました。現在では副都心と呼ばれるほどの大都会ですが、大正期には「田舎」だったのですね。ところで、八王子駅に降りると電車の発車メロディーが「夕焼け小焼け」です。しかも、駅に置いてある駅スタンプの図案も「夕焼け小焼け」を意識したものです。それでなぜだろう?と思っていたところ今回のブログでその謎が解明しました。作詞者中村雨紅が八王子出身、なるほど。そういえば、木更津駅の駅スタンプは「証城寺の狸囃子」がデザイン化されたものでした。勝手にいろいろつなげて楽しませて頂いております。

  5.  「若い芸術家・文士たちが移り住むようになり、“田端文士芸術家村”と呼ばれるコミュニティができあがりました。」類は友を呼ぶということなのでしょう、才能がその場所に集結したのですね。「新宿では『田舎過ぎる』」芥川龍之介の言葉もとても印象的です。
     「どこかで、いつも、何かがつながってきますね。」縁、を感じます。上述のコミュニティもまた、縁と呼べるものだと思います。現在のブログでは脳のことが連載されていますが、人と人との巡りあわせを引き寄せるような力も脳にはあったりするのでしょうか。

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