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2005年12月23日 散歩

田端

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 以前のブログにも書きましたが、鎌倉には、様々な作家をはじめ、文化人が住んでいました。その人たちの資料館「鎌倉文学館」に行きましたが、同様に、北区の田端にも様々な文化人が住んでいたようです。その資料がある、「田端文士村記念館」に行ってきました。田端という駅は、山手線・京浜東北線が乗り入れていて、その両線の分岐する駅ですので、特に朝晩の通勤時間には乗換えをするお客さんの数が多いようです。また、高架には、たまに、新幹線が通るのが見えます。しかし、このあたりは、明治の中頃まで、雑木林や畑の広がる閑静な農村でした。そこに若い芸術家・文士たちが移り住むようになり、“田端文士芸術家村”と呼ばれるコミュニティができあがりました。上野に美術学校(現東京芸術大学)ができると、台地つづきの田端に美術家たち(板谷波山・小杉放庵ら)が住むようになり、美術家どうしの交流が盛んになりました。大正になって、東京帝国大学に通う芥川龍之介が、当時住んでいた新宿では「田舎過ぎる」といって田端に引っ越してきたのです。そして、室生犀星・掘辰雄・菊地寛・野口雨情ら文士やパトロンたちが多く集まり、田端は“文士芸術家村”となりました。今日、行った「田端文士村記念館」には、彼らの作品・遺品の一部、貴重な映像を展示しています。
 その展示のなかで、興味を特に引いたのは、「金の船」(その後、「金の星」と誌名を改称)の編集室が、ここ田端にあったことです。この「金の船」は、斎藤佐次郎が、1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意し、島崎藤村、若山牧水、西条八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西条八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊したのです。その後、中山晋平より本居長世の紹介を受け、野口雨情と本居長世による多くの童謡を世に送り出しました。この頃発行されていた「赤い鳥」は北原白秋、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が中心的人物となり、それぞれが覇を競いました。(この3人が、3大詩人と呼ばれています。)「金の船」の中心人物の「野口雨情」は、やはりブログでも書いた「証城寺の狸囃子」の作詞で有名ですが、ほかに『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』などがありますが、いずれも曲がつけられて、広く愛唱されています。
 話は変わりますが、「夕焼け小焼けで 日が暮れて~」の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれました。(この「夕焼け小焼け」の詩は、ふるさと恩方の風景を歌ったといわれ、従って、今、八王子市で、夕方になると、市内全域にこの曲が流れます。)この中村雨紅は、詩人・童謡作家ですが、東京府立青山師範学校卒業後、日暮里や厚木で教諭をしながら詩作を続けました。そして、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称したのです。
 どこかで、いつも、何かがつながってきますね。

投稿者 fujimori : 2005年12月23日 23:01

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