
昨日、訪れた尾道には、大正元(1912)年に「志賀直哉」が移り住んだ棟割長家が現在でも見られるようになっています。代表作「暗夜航路」も、ここ尾道のこの部屋で執筆されました。彼は、生涯20数回転居しているので、各地に居宅跡があります。鎌倉にも、結婚した翌年の大正4年に、現在では雪ノ下となっている千度小路に居住しました。大正14年には、京都の山科から奈良に移り住み、4年後、奈良市の高畑に新居を建て、東京に戻るまでの9年間をここで暮らしました。この建物は、彼自身が設計をしており、数寄屋造りの名人が作っていて、現在公開されています。そして、ここで、尾道で書き始めた「暗夜行路」を完成させています。
転居を繰り返している理由の一つに、父親との不和があるようです。中等科に進む直前、母の死にあい、その年のうちに父は再婚します。これも影響していると思いますが、直接的な原因としては、この頃、足尾鉱毒事件がおこり、その見解について、父親と衝突します。これが、以後の決定的な不和のきっかけとなります。そのあと、女中に夢中になり、結婚を約束したため、父との関係が険悪になります。その頃に、有名な小説「清兵衛と瓢箪」を発表します。これは、なかなか興味深い気がします。
この作品は、教科書にも取り上げられて有名ですが、一応、あらすじは、
「小学生の清兵衛は、瓢箪が好きでたまらない。ある日、教室にまで持ち込んで手入れをしていたところを先生に見つかり、激しく叱られ、瓢箪を取り上げられてしまう。家でも父にさんざん叱られ、せっかく集めた瓢箪はすべて割られてしまい、清兵衛は、「大人のくせに何もわかっていない」と思う。取り上げられた瓢箪は六百円もの大金で売れた。」というものです。
子どもの一途な執念を、彼の父を含め、先生はじめ、周りの大人には理解されず、ただ、その行為に対して、彼の父は、こんな態度をします。
『その話を聞くと、急に側にいた清兵衛を捕えて、散々に殴りつけた。清兵衛は、ここでも、「将来とても見込みのないやつだ。」といわれた。「もう、貴様のような奴は出て行け」といわれた。』
このような無理解な父親が、見込みのある奴を、ない奴にしてしまうことが多いのではないでしょうか。子どもの興味はあらゆるところにあり、それが将来役に立つか、立たないかは、誰にもわかりません。わかっているのは、子どもを理解することが大切だということです。そして、子どもを、子どものやることを大切にするということです。
この小説に結びには、こう書いてあります。
「・・・・・清兵衛は今、絵を描く事に熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員を怨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で破って了った父を怨む心もなくなって居た。然し彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言い出して来た。」
その後、実生活では、志賀直哉は、父親と和解し、すぐに「和解」という小説を書いています。