一言

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 人の話は、文章とちがって、素通っていきます。聞き手にとって、その場で、その内容を把握しながら聞くのですが、言葉の解釈は、聞き手によってなされます。いわゆる我田引水といわれるもので、結局は、自分の都合のよいように聞くことが多くなります。私の部屋に飾ってあった、毎月のカレンダーの一言にこんなことが書いてありました。「物事の善悪を判断するときに、好き嫌いで判断してしまうことがある。物事の真理を見極める必要がある。」逆に話し手になるとき、できるだけこちらの真意を誤解されずに伝える努力が必要です。勝手に、自分の都合のよいように判断されてしまっては困ります。しかも、それを他人に伝えられていくと、いわゆる「伝言ゲーム」のように、仕舞いには、まったく言った内容と異なったものになってしまうことがあるからです。また、逆のことがいえることがあります。本人は、そんなに深い意味で言ったつもりはなくとも、聞き手が深く考えてくれることがあります。また、さりげない一言から、考え方や、人柄がわかることもあります。
もうひとつ、言葉のすばらしさがあります。それは、言葉によって、ちがうものに見えてくることがあるのです。たとえば、今日、尾道を歩きました。尾道は、坂と階段が多く、歩くのはとても疲れます。途中でいやになってしまいます。そんなときに、こんな看板を見ました。「健康への道 出発点から1Km エネルギー消費量(体重60K)41Kcal」これを読むと、もう少し歩こうという気になります。同じような言葉が、昨日の広島でのリースさん(フランクフルト保育行政官)の講演の中にありました。最近フランクフルトでは、0歳児保育が進められてきています。その理由を、こう言いました。「政策的には、3歳以下(0歳から3歳)に対する陶冶と保護の提供を拡張すべきだとしていて、それを実施に移すための措置が実行されています。その背後にあるのは、子どもたちには、生まれた最初の瞬間から学習の機会が与えられなければならないという要求である、というふうに言うことができます。」日本では、たぶんこう言います。「最近、少子化になってきたので、仕事と育児の両立をするために、乳児からの保育を充実します。」と。暗に、子どもにはよくないが、親のために仕方なくするニュアンスが感じられます。それに反して、フランクフルトでは、あくまでも、子どものために0歳児からの保育をすると言い切ります。日本同様、少子化がかなり進んでいても、絶対にその言葉は口に出しません。また、多国籍の子を受け入れてきたり、子どもたちの多様化を進めるために、私は、こういう言い方をします。「それぞれの異なりを認め合い、そのものたちが、みんなで生きる社会を作りましょう。」ということで、「共異体」ということを提案していますが、どうして、これが必要かは、なんだか、そのような世の中になってきたからというような、子どもにとって、それがどういうことかはありません。それを、リースさんは、こう言いました。「子どもと大人の双方にとって、多様性と差異が豊かさとして体験できる場所として理解されていて、文化的価値や伝統、習慣を日常生活に取り入れることは本来的な課題として理解されています。」
 言葉ひとつで、ずいぶん違うものですね。

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