鎌倉の歴史

 加齢してくるにしたがって、様々な変化が現れます。できなくなったこと、できるようになったことがあります。また、見えにくくなったこと、見えるようになったことなどもあります。ですから、あるときは、年を取ったことを嘆くときがあったり、ありがたく思ったりすることがあります。つくづく、人間というものは、勝手なものだと思います。逆に、よくできているなあと思うこともあります。そんなことで、以前と同じものを見ても、そのときとまったくちがう見方をすることがあります。ですから、いつも新鮮に感じます。日曜日に行った鎌倉も、あらためて、「鎌倉」の歌を味わうことができました。
 1番にまつわる話です。(七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎 名将の/剣投ぜし古戦場
鎌倉幕府の専制政治は頂点に達していたころのことです。そこに、天皇の新政復活を目指す後醍醐天皇の動きが活発化し、討幕の兵を募りました。その声に応じた一人が上野国(群馬県)の新田義貞だったのです。そして、鎌倉に向かう途中で、いろいろなところで戦っていきます。その戦場として有名なひとつに、「分倍が原」の合戦があります。新宿から八王子に京王線で行く途中にある駅です。多摩川を背にして後がない幕府軍は、決死の勢いで戦い、新田軍は入間川まで後退したのですが、新田軍に味方する武士が増え、幕府軍を圧倒し、再び南下した分倍が原で激しい戦闘となり双方で数千人の死傷者が出たほどでした。さらに関戸河原にまで南進し、勝ち進みます。そして、いよいよ鎌倉に近づいていきます。鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然の要害です。極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つです。極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もありません。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、多数の死者がでました。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかったのです。しかし、水が深く、渡ることができませんでした。『太平記』によれば、このとき義貞が黄金造りの太刀を海に投じて竜神に祈ったところ、水が引き、干潟となったので、新田軍は鎌倉に突入することができた、とあります。そして、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
4番(上がるや石のきざはしの/左に高き大銀杏/問わばや 遠き世々の跡)は、有名ですね。鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児公暁によって暗殺されたという話です。
5番(若宮堂の舞の袖/しずのおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ)は、最近のNHKの「義経」で印象が深い、源義経の愛妾・静御前を歌ったものです。義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行しました。しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られました。そして、都第一と歌われた白拍子の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前の若宮堂で踊りました。そのとき、義経を恋い慕う歌を歌ったので、頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じますが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許されました。その後、静は義経の子を出産しますが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまいました。そののち静は許され、京に帰されましたが、以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられています。

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