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2005年12月10日 近頃思うこと

おたのしみ会

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今日は、「おたのしみ会」でした。園としての位置づけは、「表現」と「言語」の発達を保護者に見てもらうというものです。0歳児は、朝、集まってから挨拶をし、わらべ歌「ちょち ちょち あわわ」を保育者が歌いながら子どもといっしょに手遊びをしている姿を、当日は舞台の上で再現し、見てもらいます。そして、年齢が高くなるにつれて、「劇」を演じるようになって行きます。先日のブログで、私が「たきび」の歌を子どもたちに歌ってもらうときに、まず劇をしたこととねらいが似ているところがあります。
文学作品を読むことが子どもにとって楽しいのは、主人公に身を寄せ、出来事を見守っていくことにあるのです。さまざまな体験や冒険をしていきながら、何を考え、どんな工夫をし、様々な人と出会う中で、どのように困難を乗り切り、最後に思いを達成するかを共感していくのです。もちろん、年齢が低いころは、深い読み取りというより、子どもの言葉では、「面白い」「かわいそう」という感想でいいと思います。以前のブログでも書きましたが、ある保育大会の「絵本」の分科会で、「ごんぎつね」をとりあげ、子どもの感想が「かわいそう」ということなので、そうではないということをどのように子どもたちに伝えていくかを発表していましたが、私は、そのような実践は、幼児期には無意味な気がします。こどもが、「かわいそう」「おもしろい」には、大人と違うもっと深い意味があり、その感想に対して、大人がとやかく言うのでなく、「そうだね、かわいそうだね。」「ほんとに面白いね」でいいと思うのですが。子どもたちが文学作品を素直に楽しんでいるのに、教育となると急に、子どもの思いとは距離のあるものになってしまうことがおおいようです。子どもの思いを深めるためには、解釈よりも、その立場になって、演じさせることのほうが、効果があると思います。ですから、「たきび」の歌の歌詞の解釈よりも、その場面を演じさせることで、 深めようとしたのです。「演じる」ことは楽しさ、新しさにつながる学習活動の開発の視点です。それは、体験・理解・ 表現という過程で捉えれば学習の体験化につながります。「おたのしみ会」での劇は、そのような意図もあります。そして、もう一つの意味として「演じる」ことは、豊かな言語の発達の基盤を学ぶことにあります。日本では、まだまだ多国籍の子の入園が少ないのですが、ヨーロッパなどでは、移民の多国籍の子に対する「言語教育」が、きちんとカリキュラム化され、絵本などを通して、丁寧な指導がされていました。今の日本の子どもたちは、非常に言葉が悪い子が多いような気がします。たぶんに、テレビの影響が大きいのでしょう。しかし、たぶん、テレビを見ている時間よりも、時間的には、特に保育園児は、保育者との関わり、絵本、紙芝居とのかかわりの時間のほうが長いのです。環境としてのテレビよりも、環境としての保育者の存在が子どもに影響します。もっと、言葉を大切にして、子どもと接してもらいたいものです。また、きちんとした「言語」を子どもたちに伝える方法としての「本の読み聞かせ」「劇遊び」を見直してもらいたいものです。

投稿者 fujimori : 2005年12月10日 21:41

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