学ぶの半ばなり

 今日で今年が終わりです。このブログを振り返って、「自分ながらよく続いたな。」と思います。しかも、内容はつまらないだろうし、長くて読みづらいし、読む人は、大変だろうと思います。私は、日記も続いたことはありません。ほかのことでも、続いたためしがありません。そのなかで、ひとつだけひと月ですが、毎日続いたものがありました。それは、教員を辞めるときの最後のひと月の間、クラス便りを日刊で出していました。その頃は、コピーもなく、印刷も手回しでした。家に帰ると、鉄筆で原紙に書いたものです。間違えたときは、あの独特のにおい(マニュキアのにおいと同じ)の修正液を使います。そして、朝早く学校に行って、印刷をします。紙も、わら半紙というものです。こんな毎日のなかで、ふと思ったことがありました。「こんなに毎日書いているのに、何の反応もないは、何でだろうか。読んでいないのではないだろうか。」と保護者を疑ったのです。そして、ある日のクラス便りに、その不安を書きました。すると、その次の日に、大勢の保護者がお便り帳をよこしました。そこには、みんな楽しみに読んでいると書かれていましたが、ある保護者のお便り帳に書かれている内容に頭を殴られた気がしました。そこには、「先生は、クラス便りを毎日出しているのは、ほめられたくて書いていたのですか?反応が欲しくて、書いていたのですか?先生のことをいいと思っている保護者を疑っているのですか?」私も、まだ人間ができていない気がし、とても反省しました。その時を含めて、いろいろなところで、ずいぶんと保護者に育てられた気がします。
 そのときに書いていたのは、確かに書きたいことが山ほどあったからです。子どものことを伝えたくて仕方なかったのです。決して、ほめられたくてではなかったはずです。だから、毎日続いたのでしょう。
このブログが続いていることについても同じことが言えそうです。毎日続けて大変でしょうと人はいいますが、今のところ、私は、毎日ふたつくらい書きたいことがあります。ですから、毎日、「何だ、一つしか書けないや。」と思うことにしています。また、長さも、最初に書いていくと、倍か3倍の長さになってしまいます。書きたいことがたくさんあるからです。それを、できるだけ1600字を限界にして縮めています。毎日が、いっぱいいっぱいだったら、たぶん続かないでしょう。
 読む人は、自分にとって、興味のあるところ、退屈しているとき、自分ながらの読み方をしてください。つまらないかもしれませんが、これが、私にとって、自然なことだからです。書くことで、自分も勉強になっているからです。
 私が、見学者の対応する時でも、講演に地方に行くときでも、それが自分にとって、自然な気がすることと、自分にとっても勉強になるから、できるだけ受けてしまいます。
「教うるは学ぶの半ばなり」(書経)です。
来年もよろしくお願いします。