« 労使関係 | メイン | 三島 »

2005年12月15日 近頃思うこと

150段

 昨日は、赤穂浪士の討ち入りの日でした。この話は、日本人は好きですね。好きな理由の一つに、目的のために、今を耐え忍び、言いたいことも言わず、周りに気づかれないように準備を進め、最後に目的を果たすところにあります。最後に見返すというところが、その前の屈辱が大きいほど、「ほら見ろ!」ということがあります。どうも、途中の苦しさ、大変さを人には見せず、最後に出来上がってからみんなに披露することの快感があるのでしょう。しかし、私は、それは、本当でない気がします。私が好きな考え方が「徒然草」の150段にあります。
能 をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

この段は、宮本輝氏の「約束の冬」に取り上げられており、宮本氏が訳しています。
芸能を見につけようとする人は、「よくできないような時期には、なまじっか人に知られまい。内々で、よく習得してから、人前に出て行くようなのこそ、まことに奥ゆかしいことだろう」と、いつも言うようであるが、このように言う人は、一芸も習得することができない。まだまったくの未熟なうちから、上手の中にまじって、けなされても笑われても恥かしいと思わずに、平然と押しとおして稽古に励む人は、生まれついてその天分がなくても、稽古の道にとどこおらず、勝手気ままにしないで、年月を過ごせば、芸は達者であっても芸道に励まない人よりは、最後は上手と言われる芸位に達して、人望も十分にそなわり、人に認められて、比類のない名声を得ることである。世に一流といわれる一芸の達人といっても、初めは下手だという噂もあり、ひどい欠点もあったものである。けれども、その人が、芸道の規律を正しく守り、これを重視して、気ままにふるまうことがなければ、一世の模範となり、万人の師匠となることは、どの道でも、かわりのあるはずがない。」
芸 を身につけようと思っている人が、「へたくそなうちは、なまじっか人に知られては、はずかしい。人知れず猛特訓して熟練してから、お披露目をすれば格好良く見えるだろう」と、よく思うけれど、こんなことを言っている人が、芸を身につけたためしは何一つとしてない。ということですね。「まだ、まだ」という人は、どこかで納得いくようになるのかと思います。保育の世界も、「これでいい。」ということはありません。「さあ、みんなに見せられるようになった。」という時期は、いつなのでしょうか。みんなで、試行錯誤を繰り返し、みんなでいっしょに考えていくからこそいいものになっていくのでしょうね。恥を恐れていては、いいものには、なりません。

投稿者 fujimori : 2005年12月15日 16:43

コメント

はじめまして。グーグルでサル/ムリキで検索をかけたら辿りつきました。

下手なうちから上手な人にまじって稽古をする…という文章に、「あ、そうだ、本当だな。」と思いました。私はとても人の中にいることや、人前が苦手で、どうしても内の方向に進みがちなのですが、恥をかまわないようにならねばなりませんね…。

他の日記の内容も興味深いです。これからじっくり読ませていただこうと思います。

投稿者 せれ : 2005年12月16日 21:05

コメントしてください




保存しますか?