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2005年12月31日 あいさつ

学ぶの半ばなり

 今日で今年が終わりです。このブログを振り返って、「自分ながらよく続いたな。」と思います。しかも、内容はつまらないだろうし、長くて読みづらいし、読む人は、大変だろうと思います。私は、日記も続いたことはありません。ほかのことでも、続いたためしがありません。そのなかで、ひとつだけひと月ですが、毎日続いたものがありました。それは、教員を辞めるときの最後のひと月の間、クラス便りを日刊で出していました。その頃は、コピーもなく、印刷も手回しでした。家に帰ると、鉄筆で原紙に書いたものです。間違えたときは、あの独特のにおい(マニュキアのにおいと同じ)の修正液を使います。そして、朝早く学校に行って、印刷をします。紙も、わら半紙というものです。こんな毎日のなかで、ふと思ったことがありました。「こんなに毎日書いているのに、何の反応もないは、何でだろうか。読んでいないのではないだろうか。」と保護者を疑ったのです。そして、ある日のクラス便りに、その不安を書きました。すると、その次の日に、大勢の保護者がお便り帳をよこしました。そこには、みんな楽しみに読んでいると書かれていましたが、ある保護者のお便り帳に書かれている内容に頭を殴られた気がしました。そこには、「先生は、クラス便りを毎日出しているのは、ほめられたくて書いていたのですか?反応が欲しくて、書いていたのですか?先生のことをいいと思っている保護者を疑っているのですか?」私も、まだ人間ができていない気がし、とても反省しました。その時を含めて、いろいろなところで、ずいぶんと保護者に育てられた気がします。
 そのときに書いていたのは、確かに書きたいことが山ほどあったからです。子どものことを伝えたくて仕方なかったのです。決して、ほめられたくてではなかったはずです。だから、毎日続いたのでしょう。
このブログが続いていることについても同じことが言えそうです。毎日続けて大変でしょうと人はいいますが、今のところ、私は、毎日ふたつくらい書きたいことがあります。ですから、毎日、「何だ、一つしか書けないや。」と思うことにしています。また、長さも、最初に書いていくと、倍か3倍の長さになってしまいます。書きたいことがたくさんあるからです。それを、できるだけ1600字を限界にして縮めています。毎日が、いっぱいいっぱいだったら、たぶん続かないでしょう。
 読む人は、自分にとって、興味のあるところ、退屈しているとき、自分ながらの読み方をしてください。つまらないかもしれませんが、これが、私にとって、自然なことだからです。書くことで、自分も勉強になっているからです。
 私が、見学者の対応する時でも、講演に地方に行くときでも、それが自分にとって、自然な気がすることと、自分にとっても勉強になるから、できるだけ受けてしまいます。
「教うるは学ぶの半ばなり」(書経)です。
来年もよろしくお願いします。

投稿者 fujimori : 18:29 | コメント (2)

2005年12月30日 映画

八犬士

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 私が小学生の頃、臨海学校は、千葉の岩井海岸でした。今でも、夏は海水浴客や臨海学校の子ども達で賑わい、秋から春にかけても、民宿は、コーラスクラブや剣道、空手、柔道などの合宿銀座のようだそうです。この岩井駅を降りると駅前に伏姫と八房の像があります。それは、戌年である来年のお正月の話題作である「南総里見八犬伝」の始まりの場面となるのが、この岩井海岸がある富山町の中央に位置する富山(とみさん)(八犬伝では富山(とやま))だからなのです。(八犬伝は架空の物語ですが、富山町には伏姫の籠穴や犬塚、八房誕生の地など、八犬伝にちなんだ地が数多くあります。)NHKでの人形劇「新八犬伝」は、夢中で見ました。かなり、高視聴率を稼いだようです。また、角川映画「里見八犬伝」(薬師丸ひろ子・真田広之主演)などで有名ですが、私は、いつの頃か忘れてしまいましたが、小さかった頃、父親に連れて行ってもらった映画を見て、夢中になりました。(この映画は実写でしたが、いつごろ、誰が主役かまったく覚えていませんし、インターネットで調べてみましたが、出てきません。)すぐに本を買って、読みふけりました。以前にも書きましたが、私は、天命を持って生まれたものが、その使命を果たすという話が昔から好きだったようです。
 「南総里見八犬伝」は江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた原典は九十八巻、百六冊に及ぶ大長編です。物語は、室町時代、安房の国の城主里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間に不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れます。 伏姫の死とともにこの玉が八方に散し、やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し苦難に出会いながらも、因縁の糸で結ばれて少しずつ出会っていきます。そして、里見氏のために忠義をつくし、主君を守るために活躍するという、いわゆる勧善懲悪の理念に貫かれた物語です。舞台も房州を中心に、関東から甲信越にまでわたって展開し、ハラハラ、ドキドキの一大スペクタクルです。
八犬士が持っている玉に浮かび上がる「仁義礼智、忠信、孝悌」の8つの徳目は、次のような儒教に典拠があるといわれています。孟子の「惻隠之心仁之端也、羞悪之心義之端也、辞譲之心礼之端也、是非之心智之端也」(四端の説)と論語の「主忠信」と孟子の「堯舜之道、孝悌而巳矣」です。簡単に言うと、「仁」とは、「思いやり、慈しみ」。「義」とは、「人道に従うこと、道理にかなうこと」。「礼」とは、「社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従うこと」。「智」とは、「物事を知り、弁えていること」。「忠」とは、心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心」。「信」とは、「言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと」。「考」とは、「おもいはかること、工夫をめぐらすこと。親孝行すること」。「悌」とは、「兄弟仲がいいこと」といわれています。
 また、ある使命を持ったものであるという証拠には、この玉を持っているほか、それぞれが、犬の姓を持っていることと、体のどこかに牡丹の痣を持っています。これは、三島由紀夫の「豊饒の海」で転生する主人公4人にはいずれも脇腹に三つのほくろがあることを連想させます。
 私は、小さかった頃、何かの使命を持って生まれてきているかもしれないと、体のどこかに証を探したものです。

投稿者 fujimori : 19:06 | コメント (1)

2005年12月29日 近頃思うこと

あぶりだし

 学校は、今、冬休みです。今では、寒くていやだと思いますが、子どものころは楽しいことがいっぱいあった冬休みでした。クリスマスから、年末のあわただしさ、お正月のゆったりした日々、ずいぶんとメリハリのある休みです。子どもの遊びも、たこあげ、はねつき、かるた、すごろく、とても豊富でした。その遊びのなかで、最近あまり見かけなくなったものに「あぶりだし」があります。これは、冬のアイテム「みかん」と「火鉢」が必要だったために、冬の遊びの代表格です。「あぶりだし」は、知っている人も多いでしょうが、白い紙に、みかん汁やレモン汁などで、絵や文字を描きます。そして、液が乾けば、何が描かれているかは本人にしか分かりません。しかし、液の乾いた紙をストーブやコンロ、火鉢などであぶると、紙の上に茶色の文字が浮かび上がってくる遊びです。酢、レモン汁、あるいは玉ねぎの汁は、紙に化学変化をおこし、発火温度が紙より低い物質に変えてしまいます。ですから、その汁で書いた紙をろうそくなどであぶると、変化した物質が紙より先にこげて、茶色の文字があらわれます。子どものころは、「秘密の暗号」として友達に渡したりして楽しみました。レモンやみかんや酢やたまねぎの汁のほかに、みょうばん水、トマト、オレンジジュース、りんごジュース、牛乳、さとう水などでやっても、いろんな色がでます。そして、今は、火鉢であぶらないで、あたためておいたオーブントースターに入れて、10秒たてば、絵がうき出てきます。
 紙で遊ぶというと、最近はいろいろとありますね。昨日、園で、見学者に対して、子どもたちがこんなことを言っていました。「ねえ、ねえ、この絵本見て!ここをこするとにおいがするんだよ。」とカレーの絵を指していました。これは、紙というより、インクの上に匂いの粒がついていて、こすると、カレーのにおいがするようになっているのです。カレーのほかに、イチゴのにおいや、チョコレートのにおいのするインクもあります。また、絵本に、手で触ると絵が浮き出てくるものもありました。手の体温に反応するのです。しかし、この企画は失敗したそうです。沖縄では、触らなくても絵が浮き出てしまったそうですし、北海道では、触っても絵が浮きでなくて、苦情が殺到したそうです。
 今日、電車に乗ったとき、知床の案内の中吊り広告にこう書いてありました。「この紙は、マイナスイオンを出しています。」その車両全部がその広告だったので、さぞかし、その車内は、マイナスイオンで満たされていたでしょう。
園では、今年の運動会のプログラムは、今年のテーマ「木かげでひとやすみ」にちなんで、年輪をかたどったものでした。その一番上の年輪を、ヒノキで作った紙にして、木のにおいを嗅いでもらえるようにしました。
 紙の原料は、パルプで、勿論、木材から作られることが多いのですが、最近は、ケナフやバガスといった非木材繊維と呼ばれるものもパルプ化され、原料となっています。とくに、ケナフは熱帯性の一年草で,二酸化炭素を効率よく吸収し,早く生育する植物で、栽培が比較的容易であることから、その栽培が、学校で環境教育としてされることが多いようです。
 紙は、いろいろと変わってきても、子どもの伝承遊びは、ぜひ、伝えていかなければなりませんね。

投稿者 fujimori : 20:35 | コメント (0)

2005年12月28日 散歩

経済館

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 何かイベントをやるときには、多くの集客を目指します。そのためにいろいろな企画を立てます。私は、このような企画を立てることがとても好きです。それは、来る人が楽しむ企画は、立てる側にとっても楽しいものでなければならないからです。また、来客者が、ただ楽しいだけでなく、楽しんでいるうちに、来客者に知らず知らずのうちに、こちらの伝えたいことが伝わっていかなければなりません。
私が30代の頃から、八王子市で仲間の若手男性園長たちと、毎年12月に、駅ビルで「乳幼児の世界展」というイベントを開催していました。そのイベントを通して、「市民に子どものことを理解してもらおう!」「保育園は、そんなことに取り組んでいるのだ。」ということを訴えようとしたものです。ある年、子どもを理解してもらおうと、こんなことをしました。まず、子どもは、よく、持ったコップを落として親に叱られます。そこで、子どもは、どんなコップを、どんな感覚で持っているのか体験してもらいます。まず、子どもと大人の手のひらの面積を比較して見ると、ほぼ子どもは半分です。また、背筋力を測ってみるとこれもほぼ半分です。また、指を伸ばして届く距離を測っても半分です。そこで、直径が、普通のコップの倍ある入れ物に、コップにいっぱいに水を入れた重さの倍の重さのものを入れて持ち上げてみてもらいます。思わず、落としそうになります。また、大人の雑巾の倍の厚さで、大きさも倍のものをタオル地で作り、これを絞ってもらいます。しっかりと絞れません。また、子どもの視野の広さのめがねをかけてもらい歩いてみると、車が近づくまで、横から来る車に気がつきません。そんなものを部屋いっぱいに並べて、子ども体験をしてもらいました。テーマは、「子ども探検ツアー募集中」です。
25日の日曜日に、東京タワーフットタウンに行ってきました。ここに、11月から「感 どうする経済館」がオープンしています。ここでは、日本経済の今、日本経済の現状を、楽しく体験しながら勉強できるミュージアムになっています。プロデュースは作家の荒俣宏さんです。この部屋のベンチは、1万円を並べた100億円の束と同じ大きさになっています。ショックなのは、「日本経済の足音時間」というもので、「私たちが作り出している金額(GDP)」と「日本の借金」がものすごい速さで増えていきます。しかも、作り出しているスピードよりも、借金のスピードがものすごい勢いで増えていきます。別なコーナー「日本の借金リュック」では、政府債務の金額の重さを実感するアイテムで、世帯当たりの負担金額に換算した重さのリュックサックを背負ってみます。「100の1万円」では、1万円で買えるもの、1万円で行けるところ、1万円分かせぐのに必要な時間。そんなアイテムが100並んでいます。つまらなそうな経済というものを、楽しく理解してもらえるために、とてもいい企画ですね。
 いつか、全国の幼稚園、保育園で、全国いっせいに、各地で子どものことについてのイベントを行うような企画をしてみたいですね。

投稿者 fujimori : 18:05 | コメント (0)

2005年12月27日 散歩

あかり

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光る海 光る大空 光る大地 行こう無限の地平線」で始まるのは、「エイトマン」の主題歌です。コマーシャルに使われて、もう一度思い起こしましたね。これを何の宣伝に使ったかというと、光通信です。いまや、光は、明かりをともすだけでなく、情報のやり取りにも使われることになっています。
 日曜日に六本木にあるAXISビル内のAXIS Gallery Annexへ「あかりメッセージ2005」を見に行きました。ビル内では2つの会場に分かれ、学生展とプロ展が行われていました。テーマは「21世紀のAndon(行灯)を考える」というものです。「あかり」のデザインには、いくつかの要素があります。まず、一番わかりやすいのが、照明器具のデザインです。壁にかけるもの、机に置くもの、床に置くものによって、また、居間に置くもの、食堂に置くもの、オフィスに置くものなど、置く場所によってデザインが変わってきます。次のデザインが、「ひかり」のデザインです。どのくらいの照度のものを、どこに当てるかです。それは、まず、器具自体の問題があります。経済的にはすばらしいのですが、私は、蛍光灯の発明が、ある意味で「ひかり」のデザインを無味乾燥にしたように思っています。それに比べて、ろうそくの光は、なんともいえません。(外国では、ろうそくを保育室の装飾や保育に多用します。)この光は、何かを物語っているような気がするからでしょう。物語にもよく登場します。そして、雪がしんしんと降りしきるのは、物悲しい気がするのですが、雪明りはとても明るいです。昔は、それで勉強したというのもうなずけます。しかし、蛍の光では、勉強はできそうにありませんね。(「蛍雪の功」とは言うものの)それから、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」にも出てきた「裸電球」の光です。この「あかり」は、生活感がでています。今月23日の祝日に行った「建築家吉村順三の作品とその世界」(会場: 東京藝術大学大学美術館)では、吉村順三のこんな言葉が書いてありました。
「建築家として、もっともうれしいときは、建築ができ、そこへ人が入って、そこでいい生活がおこなわれているのを見ることである。日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな生活が感じられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか」
 たぶん、この家の中の明かりは蛍光灯ではない気がします。
 「あかり」の次のデザインは、「ゆらめき」のデザインです。これは、電気では難しいです。星も、自ら光っていない恒星はゆらめきません。「ゆらめき」は、それ自体の燃えている活動だからです。しかし、最近では、電気でその「ゆらめき」を演出できるようになりました。
最後のデザインの要素で大切なのは、「影」です。光で生じる「影」を、どうデザインするかです。これをよく表しているものが、谷崎 潤一郎の「陰翳礼讃」です。この中に、こんな言葉があります。
ひとはあの冷たくも滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くはない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」
 影というよりも、「ひかり」をなくしたときのデザインをかんじる文ですね。

投稿者 fujimori : 17:43 | コメント (0)

2005年12月26日 近頃思うこと

河合継之助

 「読書三到」が表わしているように、江戸時代は朱子学中心でした。朱子は、「只是知を致す」という徹底的に学ぶこと(致知)を唱え、読書三昧です。それに対抗するように言われているのが、「陽明学」です。陽明学とは、中国の明時代に、王陽明がおこした学問で儒教の一派です。心即理、知行合一、致良知の言葉に思想が凝縮されています。「心即理」(しんそくり)とは、人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではないということで、その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はないということです。「知行合一」(ちこうごういつ)とは、論語には、「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」といいますが、王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張しました。朱子学では、万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」という主張なので、これに対立しています。「致良知」(ちりょうち)は、実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である良知を推し進めればよいという主張です。やはり、朱子が「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を発揮して物事の是非を判断するということに対して、「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として物を心の理としてそれを正すことによって知を致す、すなわち「良知を致す」ことであると解釈しています。
 そんなことから、日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた半面、陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、私が先日、広島へ行って聞いたドイツ人の講演で出会った「心の陶冶」鍛えることの大切さを主張した教えです。それゆえ、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かったようです。
 この陽明学に18歳の時に出会い、精神根底にこの思想をもち、それが、後年の悲劇を呼び込んだ人が、明日テレビ放映される「河合継之助」です。私が、この河合継之助を主人公にした、司馬遼太郎の「峠」を読もうとしたきっかけは、「知行合一」という「知って行わないのは、未だ知らないことと同じであること」に共感したからです。以前のブログに書きましたが、「備中松山藩の山田方谷を訪ねる」場面を読んでいるときに偶然に備中「方谷」駅を通過したのです。そして、それが、テレビドラマ化されると知って驚きました。しかし、継之助の行動には幾つかの矛盾があります。時代の流れが読めていたのに、政府軍へ戦いを挑み長岡を戦火にまみれさせ、藩をつぶし、藩主を滅亡させた点などはその際たるものでしょう。長岡市民は彼を恨み怨嗟の声は絶えなかったといいます。「峠」を読みながら、継之助が、この道に進まざるを得なかった心の動きに、なんとも言えず切ない思いをしたものでした。しかし、「「我あって他あり、他あって我あり」の精神は、今の時代、人生の上で、もう一度「陶冶」という概念を含めて、人間としての関係性の構築から、道徳的基本を考え直さなくてはいけない事を教えていることに間違いはないでしょう。

投稿者 fujimori : 18:27 | コメント (0)

2005年12月25日 読書

読書三到

 先日の新聞全面広告に、こんな言葉が出ていました。
「口でよく読み、目でよく見、心で理解することを、読書三到といいます。」
 最近は、この言葉は、あまり聞かなくなってきました。読書は、江戸時代以降、活字文化が主役になりました。寺子屋時代は、「読書三到」が国語教育の中心だったようです。読書三到(どくしょさんとう)という意味を広辞苑ではこう書いてあります。
「読書の法は心到・眼到・口到にあるということ。すなわち、本をよむときは心・眼・口をその本に集中して、熟読すれば内容がよくわかることをいう。南宋の朱子が主張した読書の際の三条件。
心到:=心を本に集中させる
眼到=目を本に集中させる
口到=声に出して本をよく読む

『 到 』は徹底的におこなう意。」
『訓学斎規』読書写文学では、こう説いています。
「読書に三到有り。心到・眼到・口到を謂う。心ここに在ざれば、すなわち眼子細を看ず。心眼すでに専一ならざれば、却ってただ漫浪誦読(まんろうしょうどく)し、決して記する能わず。記するも久しきこと能わざるなり。三到の中に、心到最も急なり。心すでに到らば、眼・口あに到らざらんや」(心が集中していなければ、眼もおろそかになり、口誦しても覚えられない、心が集中していさえすれば、眼と口はついていく)とあるように、特に心到が大切であるという考えです。
 しかし、私は、もう一つあると思っています。それは、「耳到」です。いわゆる「読み聞かせ」の大切さです。「耳をよく傾けて本を読む」ことで、内容がより深く理解でき、話の主題により迫ることができると思います。中学校の国語のテストには、最初のほうに長文読解の問題があります。私が中学生の勉強を見ていたときに、その長文を読み聞かせて問題を解かしたところ、自分で読むよりは正解率が上がりました。これは、特にそれほど勉強ができる子たちではなく、普段、あまり本を読まない子だったので、読み聞かせは、とても効果がありました。自分で読むと、まず、文字を読むのに頭を使い、同時に内容を理解していくのは、難しいのでしょう。そのときに、「読み聞かせ」は、必ずしも文字の読めない子にしてあげることではなく、子どもが大きくなってからも、たまには、子どもに本を読んであげてほしいと思うようになりました。大人でも、たまにラジオなどで、「朗読」をする番組がありますが、よく知っている話でも、それを聞いたあとに、もう一度その本を読みたくなることがあります。見て読むのと、聞いて読むのと、違うところが見えてくるのでしょうね。
 また、本の読み聞かせは、内容を子どもたちに伝えるだけではないことをドイツに行って改めて考えさせられました。多国籍の子を多く受け入れている欧米での本の読み聞かせは、「言語教育」の一環ということでした。先生は、正確で明瞭な発音で、口を大きく開けながら読み聞かせをしていました。多国籍の子だけでなく、今の子たちが、初めて他人の言葉に接する園での役割はとても大きいと思います。テレビからの言葉の影響に負けないようにしないといけないですね。

投稿者 fujimori : 20:39 | コメント (1)

2005年12月24日 教員の頃

クリスマスといえば

今日は、クリスマスイブです。クリスマスといえば、とても懐かしい、暖かい思い出があります。
 担任している1年生の授業中に、私がみんなに、「明日クリスマスだけど、サンタさんから、みんなは何をもらうのかな?」と聞いたところ、ある子が、「先生は何をもらうの?」と聞いたので、「本当は欲しいけど、先生はもう大人だから、何もくれないと思うよ。」と答えました。次の日の日曜日は、クリスマスでした。私が家にいると、玄関が「ピーン、ポーン」となりました。だれかお客が来たのかと出てみると誰もいません。どうしたのかと思って探してみると、門のところの郵便受けに、担任をしている一人の男の子がしがみついています。「どうしたの?」と聞いてみると、「ぼくが、先生へのクリスマスプレゼントとして来たんだよ。」子どもというものは、発想が豊かで、胸にジーンと来ることを言いますね。
 こんなこともありました。国語の授業で、小沢正の『目をさませトラゴロウ』の「ひとつがふたつ」という教材をやったときのことです。『目をさませトラゴロウ』というのは、「山のたけやぶに、とらがすんでいた。なまえはトラノ・トラゴロウといった。」という書き出しで始まる7つの話が語られます。それぞれの話は、とてもやさしい童話ですが、一貫しているテーマは、やはり、「自己同一性」であり、「子どもの自立性」です。教科書に取り上げられていたのは、その巻頭の「ひとつが ふたつ」でした。この話は、「山の発明家である、きつねが、たるのかたちをした、1つのものを2つにする機械を自慢げに持ち出す。さるは、りんごを、うさぎは、にんじんを2つにふやしてもらうが、トラゴロウには、2つにしてもらうものがない。そこで、自分自身を2つにしてもらおうと、機械のなかに入り込む。そうすれば、1ぴきが竹やぶで昼寝をしているあいだに、もう1ぴきが肉まんじゅうをさがすことができるというわけだ。トラゴロウは、無事2ひきになるけれど、2ひきは、それぞれ、自分がほんとうのトラゴロウだと主張して、たちまち大げんかになる。きつねは、今度は、2つのものを1つにする機械を発明せざるをえなくなるのである。1ぴきだけのトラゴロウにもどったは、はずかしそうにいう。「ほんとうの トラゴロウは ぼくだけだ。(中略)やっぱり ぼくは 一ぴきだけのほうが いいなあ」とつぶやきます。
 この授業のあとで、みんなに「みんななら、何をひとつをふたつにしてもらいたいのかな?その理由も書いて!」ということで、紙に書いてもらいました。それを読んでみると、クラスの大半がふたつにしてもらいたいものが同じものでした。それは、「藤森先生。一人は、職員室で仕事をする先生。もう一人は、ぼくたちと一緒に遊んでくれる先生。」私は、休み時間とか放課後には、いつも職員室で仕事をしていました。忙しそうにしている自分をちょっと反省しました。

投稿者 fujimori : 17:33 | コメント (2)

2005年12月23日 散歩

田端

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 以前のブログにも書きましたが、鎌倉には、様々な作家をはじめ、文化人が住んでいました。その人たちの資料館「鎌倉文学館」に行きましたが、同様に、北区の田端にも様々な文化人が住んでいたようです。その資料がある、「田端文士村記念館」に行ってきました。田端という駅は、山手線・京浜東北線が乗り入れていて、その両線の分岐する駅ですので、特に朝晩の通勤時間には乗換えをするお客さんの数が多いようです。また、高架には、たまに、新幹線が通るのが見えます。しかし、このあたりは、明治の中頃まで、雑木林や畑の広がる閑静な農村でした。そこに若い芸術家・文士たちが移り住むようになり、“田端文士芸術家村”と呼ばれるコミュニティができあがりました。上野に美術学校(現東京芸術大学)ができると、台地つづきの田端に美術家たち(板谷波山・小杉放庵ら)が住むようになり、美術家どうしの交流が盛んになりました。大正になって、東京帝国大学に通う芥川龍之介が、当時住んでいた新宿では「田舎過ぎる」といって田端に引っ越してきたのです。そして、室生犀星・掘辰雄・菊地寛・野口雨情ら文士やパトロンたちが多く集まり、田端は“文士芸術家村”となりました。今日、行った「田端文士村記念館」には、彼らの作品・遺品の一部、貴重な映像を展示しています。
 その展示のなかで、興味を特に引いたのは、「金の船」(その後、「金の星」と誌名を改称)の編集室が、ここ田端にあったことです。この「金の船」は、斎藤佐次郎が、1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意し、島崎藤村、若山牧水、西条八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西条八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊したのです。その後、中山晋平より本居長世の紹介を受け、野口雨情と本居長世による多くの童謡を世に送り出しました。この頃発行されていた「赤い鳥」は北原白秋、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が中心的人物となり、それぞれが覇を競いました。(この3人が、3大詩人と呼ばれています。)「金の船」の中心人物の「野口雨情」は、やはりブログでも書いた「証城寺の狸囃子」の作詞で有名ですが、ほかに『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』などがありますが、いずれも曲がつけられて、広く愛唱されています。
 話は変わりますが、「夕焼け小焼けで 日が暮れて~」の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれました。(この「夕焼け小焼け」の詩は、ふるさと恩方の風景を歌ったといわれ、従って、今、八王子市で、夕方になると、市内全域にこの曲が流れます。)この中村雨紅は、詩人・童謡作家ですが、東京府立青山師範学校卒業後、日暮里や厚木で教諭をしながら詩作を続けました。そして、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称したのです。
 どこかで、いつも、何かがつながってきますね。

投稿者 fujimori : 23:01 | コメント (0)

2005年12月22日 由来

鳥山

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 今日は、園の「今年の納めの会」で、みんなで、鳥山に行きました。八王子には、「鳥山」という食べるところが何件かあります。「うかい鳥山」「ひな鳥山」「鎌田鳥山」などです。この鳥山という呼び方は、全国にあるかわかりませんが、もともとは、野鳥を食べさせるところでした。市内には、丘陵があり、そこで、「カスミ網」を使って、野鳥を捕っていました。秋から冬にかけて、シロハラやツグミなどが日本に渡ってきます。それを一網打尽にしてしまうのが「カスミ網」です。この罠は、細い糸(近年ではテグス等)で作られた網を空中に渡し、そこに飛んできた野鳥を捕らえる物です。現在、カスミ網はそれを所持することも販売することも禁止されていますが、今でも観賞用(メジロなど)や食用(ツグミ・スズメなど)といった野鳥の需要は高く、かすみ網を用いた密猟は後を絶たないようです。特にツグミという鳥が食用にされたのは、名前は、女の子の名前のようでかわいい感じがするのですが、体型はやや丸型です。特に、日本に渡ってきた直後と、春の渡りの直前は、脂肪をたっぷりと蓄えていて、おいしかったそうなので、狙われたようです。
もちろん、鳥山で食べさせてくれるのは、今は野鳥ではなく、ほとんどが鶏肉です。鶏は太古から我々にとって身近な存在だったようです。古墳の副葬物として鶏を形取った埴輪が出土されていることや「万葉集」に東の枕詞として「鶏が鳴く」があることからも、鶏が当時の人々に親しまれていたことが解ります。古事記での天照大神を呼び戻すために「常世の長鳴鳥」として鶏が登場しているように、刻を告げる役割が中心だったようですが、食用にもされていたようです。しかし、天武天皇のときに、牛・馬・犬・猿・鶏の食用禁止令が出され、家畜は食べてはならないということになりました。その頃から、近世に至るまで食用の鳥と言えば、キジや水鳥などの野鳥に限られていました。しかし、信長・秀吉の頃となるとヨーロッパの宣教師や商人の影響により、鶏肉が日本人の食卓に並ぶようになり、肉の禁止令は出ていましたが、江戸時代になると幕府や諸藩によって奨励され、鶏の飼育が広まりました。幕末になると肉食はポピュラーとなり、坂本龍馬がシャモ鍋を好んで食べていたことは有名な話です。明治以降は、肉食の禁令が解かれましたが、今と違って、「番頭さんは牛肉料理で旦那さんは鶏料理」といわれるほど鳥料理は、昭和中期、食肉用ブロイラーが台頭するまで高級食材だったようです。主な食べ方は、国によって違うようです。例えばドイツやスイスの北ヨーロッパ、中近東、中南米などは丸焼きや半割、または四つ割の骨付きのあぶり焼きにして食べる習慣があり、一方イギリスや南ヨーロッパでは骨付きの煮込み料理が多く、アメリカはケンタッキーフライドチキンに代表される様にフライドチキンが主な調理法であるようです。日本は、手羽先や手羽元は別にしても、正肉(骨なし肉)で売っているのがあたり前で、丸鶏を売っているのはあまり見かけません。鶏肉を細かく切って骨なしで食べるというのは古来日本独特の食べ方だったそうで、これは、正肉というのは、料理のバリエーションを豊富にし、器用な日本人らしい特徴のようです。

投稿者 fujimori : 23:25 | コメント (0)

2005年12月21日 読書

山中恒

 日曜日に訪れた「尾道」というと、思い出すものの一つに、大林監督の映画「尾道三部作」と「新・尾道三部作」があります。このシリーズの「転校生」(原作では、「おれがあいつであいつがおれで」)「さびしんぼう」(原作では、「なんだかへんて子」)「あの、夏の日 ~とんでろ じいちゃん~」の原作者は、「山中恒」です。私が、児童文学者の中で、好きな作家です。彼は、『赤毛のポチ』で日本児童文学者協会新人賞、『三人泣きばやし』でサンケイ児童出版文化賞、『山中恒児童よみもの選集』で巌谷小波文芸賞、『とんでろじいちゃん』で野間児童文芸賞を受賞しています。そして、数多くの"児童読み物"を創作する一方、『子どもたちの太平洋戦争』『教えの庭に』『ボクラ少国民』などの「少国民シリーズ」で、自らが少国民として受けた戦時下の教育の実態を記録し続けています。
 しかし、彼を有名にしたのは、その作品の多くがNHKの少年ドラマになっていることと、なんていっても人気テレビドラマ「あばれはっちゃく」シリーズでしょう。また、歌の作詞でも、「インディアンが とおる あっほい あっほい あっほいほい」と始まる「インディアンがとおる」とか「ビュワーン ビュワーン 走る 青いひかりの ちょうとっきゅう じそく250キロ」と始まる「走れ超特急」が有名ですね。
 その中で、私が特に好きなのは、本人が、「僕は、児童文学者ではなく、児童読み物作家だ。」といっているように、痛快、面白読み物です。巌谷小波文芸賞を取った『山中恒児童よみもの選集』は、どれも面白くて大好きです。その中で「六年四組ズッコケ一家」などは、何度も、勉強を教えていた6年生に読み聞かせたものです。一方、とてもシリアスなものもあります。その中で好きなものに、「ぼくがぼくであること」があります。
 この主人公は小学6年生の少年です。彼は出来のいい兄弟たちの中で唯一おちこぼれているため、教育ママの母親から目の敵にされている。その彼が、夏休みの最初に些細なことから母親と対立して家出をするところから話は始まります。家出をした少年は走り始めたトラックの荷台に潜り込み、ちょっとした偶然から山村で暮らす老人と少女の家に身を寄せ、そこで二人の暮らしを手伝いながら、一夏を過ごします。やがて夏が終わり、家に帰った彼は母親や兄弟との関係の中で、自らが、自分にとってかけがえのない自己であること、家族もまた、一人一人が欠点も弱さもある一個の人間であることを自覚出来うる力を身につけていくのです。少年の母親は恐ろしいほどの教育ママに描かれています。最近の青少年に起きている事件の母親たちは、皆、子どもに対して「過干渉」のようです。教育ママという言葉を最近は聞きませんが、この言葉も過干渉という言葉同様、「自分の価値観を子どもに押し付ける」ということでしょう。子どもを教育すること、子どもに干渉することは別に悪いことではありません。ただ、一歩的に、自分の価値観で子どもをコントロールしたり、子どもの気持ちを汲み取ることなしに、自分の気持ちを押し付けることが問題なのです。
「ぼくが、ぼくであるために」ということが必要なのです。

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2005年12月20日 記念日

餅つき

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 若い人と話すときに、私たちの世代は、次の世代にいろいろなことを伝承しているだろうかと思うことが多くあります。戦後、新しい文化が入ってきて、一見夢のような、すばらしい世界かのように欧米文化が見えました。その文化に浸り、その文化を取り入れることが、時代の先端を行くかのように思っていました。昔からの文化は、「ダサイ」「おじん、おばんくさい」と言われ、なるべく昔からのことは言わないにようにしてきて、今の人の考え方についていくようにしました。特に、私たち団塊の世代では、大学を始め、古い体質を変えよう、壊そうと先頭に立っていたこともあり、残すことよりも、壊すこと、変えることに価値を持っていた気がします。もちろん、悪い、古くからの慣習は、変える必要があります。新しい時代を作っていかなければなりません。しかし、その前に、過去からの文化を検証し、その意味を考えなければいけないのでしょう。
 今日は、園で、餅つきがありました。私の園では、行事の目的をきちんと意味づけています。今日の「餅つき」という行事は、行事4つの目的の一つである、「地域の文化を伝承する。」です。
私は、下町で育ちましたが、祖父母が八王子にいたので、長い休みになると八王子に来ていました。私が小さかった頃、年末になると、朝から、地域の人たちがみんな私の家に集まって、餅つきを始めます。私の家では、工場をやっていたので、住み込みの人も何人かいましたので、朝から大騒ぎでした。正月いっぱいの、また地域の人の分までもちをつくので、次から次へとたくさんついていきます。つきおわると、それを、鏡餅と、伸し餅と、青のりや豆を入れて、なまこ餅にしていきます。それを、新聞紙を下に敷いて、おおきな板の間に並べていくのです。餅をついているのを覗き見している私に向かって、大人たちは、「ほら、ついてみな!」といって、杵を渡されます。八王子の杵は、重さでつくので、非常に重く、持ち上げるだけで一苦労です。しかも、餅が杵につくと、もっと重くなります。ひいひい言って持ち上げる私を見て、大人たちは、からかいます。「そんなんじゃ、大人になれないぞ。」と。でも、そう言いつつも、つき方のこつを教えてくれます。「こねるだけで、餅はほぼ出来上がる。力でこねるのではなく、体重でこねるのだ。」「手で、ついてはダメだ。腰でつくものだ。」「手返しは、つく横からでないと、頭を打ってしまう。」「手返しは、もちを返すのではなく、リズムを取ってあげることだ。」などなど。しかし、そんないっぱいの量をついても、つきたてのやわらかい餅は食べたことがありませんでした。餅は、冬の間の大切な、保存用の食べ物です。ほかの地域ではわかりませんが、つきたての餅を食べたという記憶は、大人になってからしかありません。また、正月の食べ物なので、年を明けてから餅をつくということもあることも知りませんでした。ただ、それらは、地域での伝承なので、本来のものとは、違ってきているのかもしれません。どうも、年末の12月29日は二九を音韻からフク(福)と読み、その日に餅をついていた気がします。(逆に、「苦を搗く」音韻から九日餅(くんちもち)と呼び、年の暮れの数日間のうちその日だけは餅を搗いたり購入を避ける風習がある地域もあるようですが。)
 みんなで集まって、わいわいがやがやと餅をつく姿を見ながら、年末を感じたものです。

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2005年12月19日 旅先にて

志賀直哉

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 昨日、訪れた尾道には、大正元(1912)年に「志賀直哉」が移り住んだ棟割長家が現在でも見られるようになっています。代表作「暗夜航路」も、ここ尾道のこの部屋で執筆されました。彼は、生涯20数回転居しているので、各地に居宅跡があります。鎌倉にも、結婚した翌年の大正4年に、現在では雪ノ下となっている千度小路に居住しました。大正14年には、京都の山科から奈良に移り住み、4年後、奈良市の高畑に新居を建て、東京に戻るまでの9年間をここで暮らしました。この建物は、彼自身が設計をしており、数寄屋造りの名人が作っていて、現在公開されています。そして、ここで、尾道で書き始めた「暗夜行路」を完成させています。
 転居を繰り返している理由の一つに、父親との不和があるようです。中等科に進む直前、母の死にあい、その年のうちに父は再婚します。これも影響していると思いますが、直接的な原因としては、この頃、足尾鉱毒事件がおこり、その見解について、父親と衝突します。これが、以後の決定的な不和のきっかけとなります。そのあと、女中に夢中になり、結婚を約束したため、父との関係が険悪になります。その頃に、有名な小説「清兵衛と瓢箪」を発表します。これは、なかなか興味深い気がします。
 この作品は、教科書にも取り上げられて有名ですが、一応、あらすじは、
「小学生の清兵衛は、瓢箪が好きでたまらない。ある日、教室にまで持ち込んで手入れをしていたところを先生に見つかり、激しく叱られ、瓢箪を取り上げられてしまう。家でも父にさんざん叱られ、せっかく集めた瓢箪はすべて割られてしまい、清兵衛は、「大人のくせに何もわかっていない」と思う。取り上げられた瓢箪は六百円もの大金で売れた。」というものです。
 子どもの一途な執念を、彼の父を含め、先生はじめ、周りの大人には理解されず、ただ、その行為に対して、彼の父は、こんな態度をします。
『その話を聞くと、急に側にいた清兵衛を捕えて、散々に殴りつけた。清兵衛は、ここでも、「将来とても見込みのないやつだ。」といわれた。「もう、貴様のような奴は出て行け」といわれた。』
 このような無理解な父親が、見込みのある奴を、ない奴にしてしまうことが多いのではないでしょうか。子どもの興味はあらゆるところにあり、それが将来役に立つか、立たないかは、誰にもわかりません。わかっているのは、子どもを理解することが大切だということです。そして、子どもを、子どものやることを大切にするということです。
 この小説に結びには、こう書いてあります。
「・・・・・清兵衛は今、絵を描く事に熱中している。これが出来た時に彼にはもう教員を怨む心も、十あまりの愛瓢を玄能で破って了った父を怨む心もなくなって居た。然し彼の父はもうそろそろ彼の絵を描く事にも叱言を言い出して来た。」

 その後、実生活では、志賀直哉は、父親と和解し、すぐに「和解」という小説を書いています。

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2005年12月18日 旅先にて

一言

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 人の話は、文章とちがって、素通っていきます。聞き手にとって、その場で、その内容を把握しながら聞くのですが、言葉の解釈は、聞き手によってなされます。いわゆる我田引水といわれるもので、結局は、自分の都合のよいように聞くことが多くなります。私の部屋に飾ってあった、毎月のカレンダーの一言にこんなことが書いてありました。「物事の善悪を判断するときに、好き嫌いで判断してしまうことがある。物事の真理を見極める必要がある。」逆に話し手になるとき、できるだけこちらの真意を誤解されずに伝える努力が必要です。勝手に、自分の都合のよいように判断されてしまっては困ります。しかも、それを他人に伝えられていくと、いわゆる「伝言ゲーム」のように、仕舞いには、まったく言った内容と異なったものになってしまうことがあるからです。また、逆のことがいえることがあります。本人は、そんなに深い意味で言ったつもりはなくとも、聞き手が深く考えてくれることがあります。また、さりげない一言から、考え方や、人柄がわかることもあります。
もうひとつ、言葉のすばらしさがあります。それは、言葉によって、ちがうものに見えてくることがあるのです。たとえば、今日、尾道を歩きました。尾道は、坂と階段が多く、歩くのはとても疲れます。途中でいやになってしまいます。そんなときに、こんな看板を見ました。「健康への道 出発点から1Km エネルギー消費量(体重60K)41Kcal」これを読むと、もう少し歩こうという気になります。同じような言葉が、昨日の広島でのリースさん(フランクフルト保育行政官)の講演の中にありました。最近フランクフルトでは、0歳児保育が進められてきています。その理由を、こう言いました。「政策的には、3歳以下(0歳から3歳)に対する陶冶と保護の提供を拡張すべきだとしていて、それを実施に移すための措置が実行されています。その背後にあるのは、子どもたちには、生まれた最初の瞬間から学習の機会が与えられなければならないという要求である、というふうに言うことができます。」日本では、たぶんこう言います。「最近、少子化になってきたので、仕事と育児の両立をするために、乳児からの保育を充実します。」と。暗に、子どもにはよくないが、親のために仕方なくするニュアンスが感じられます。それに反して、フランクフルトでは、あくまでも、子どものために0歳児からの保育をすると言い切ります。日本同様、少子化がかなり進んでいても、絶対にその言葉は口に出しません。また、多国籍の子を受け入れてきたり、子どもたちの多様化を進めるために、私は、こういう言い方をします。「それぞれの異なりを認め合い、そのものたちが、みんなで生きる社会を作りましょう。」ということで、「共異体」ということを提案していますが、どうして、これが必要かは、なんだか、そのような世の中になってきたからというような、子どもにとって、それがどういうことかはありません。それを、リースさんは、こう言いました。「子どもと大人の双方にとって、多様性と差異が豊かさとして体験できる場所として理解されていて、文化的価値や伝統、習慣を日常生活に取り入れることは本来的な課題として理解されています。」
 言葉ひとつで、ずいぶん違うものですね。

投稿者 fujimori : 21:29 | コメント (0)

2005年12月17日 由来

南天

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 先日、鎌倉に行ったときに「瑞泉寺」を訪ねました。紅葉がきれいということだったのですが、庭の真ん中に「南天」の真っ赤な実がたわわになっていました。この実は、鳥の大好物なので、食べられなければ、冬まで残っています。「南天」というと、真っ赤な真ん丸い実であるので、雪ウサギの目によく使います。また、赤飯に入れたり、赤飯の掛け紙には南天が描かれています。これには、こんな意味があるようです。古来より、「難を転じて福を招く」(「難転」あるいは「成天」に通じる)と言われ、縁起良い植物として、祝い事や除災の祈念に用いられてきました。その昔は武士の出陣に臨んで一枝を鎧の内に挿し武運長久を祈りました。また、元服の式に挿花したり、安産のお守りにしました。南天の葉は諸毒を消すと言われ、赤飯に添えます。ちなみに、赤飯に小豆を用いるのは、小豆に薬効があるからともいわれ、身体によいものと評価されているからです。また赤い色は邪気をはらい厄除けの力をもつと信じられ、祝い事や特別の行事に使われています。慶事に赤飯を用いるようになったのは江戸後期からといわれています。また、南天は不浄を清めるということで,お手洗いの外に植えてあったりします。また,南天の箸というのも食あたりを防ぎ,長寿を祈願するということで好まれるようです。また、防火・厄除けとして庭先や鬼門にも植えられます。京都の金閣寺の床柱は、南天の材を使っていることで知られています。福寿草の花と南天の実とセットで縁起物の飾り付けとして、正月用の生け花にされることがあります。実を乾燥させたものには「せき」止めの効き目があります。「南天のど飴」というのがありますね。また、葉には「ナンジニン」という成分を含み、殺菌効果があります。また葉の煎液が目薬としても使われています。このように、南天は昔から、生活と深いつながりがあります。
南天と同じような赤い実のなるもので、お正月の飾りによく使われるものに、「千両」(仙蓼)、「万両」という縁起の良い植物があります。区別としては、「南天」の実は上方に飛び出していますが、「万両」は葉の下側に実があります。そして、「千両」は、葉の上に実があります。
「千両」は、切り花のほうがよく出回ります。花屋は毎年市場で、千両市というので買い求めます。赤い実が大変きれいで、おめでたいのでお正月しかでてきません。「万両」は、小低木なので1m位までしか伸びません。真っ赤な実がとても冬にはきれいなのは同じで、鉢植えでもでまわります。そのほかにも、「十両」「一両」もあるそうです。
 科学が進んで、様々な研究がされると、新しい知恵が生まれるというより、昔からの知恵が、科学的にも証明されるということが多い気がします。これは、生活の知恵のなかに多くあります。また、子どもの伝承遊びのなかにも、そんな昔からの知恵が多い気がします。生活や子どもの遊びは、知識でするものでないからでしょう。しかし、最近は、生活の知恵や、子どもの遊びを、知識として押し付けようとしたり、知識として覚えようとすることが多い気がします。もう一度、知恵としての伝承をしていかなければならないと思います。

投稿者 fujimori : 21:09 | コメント (0)

2005年12月16日 読書

三島

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「春の雪」が映画化されて、上映されています。私は、この手の恋愛物は苦手で、映画もほとんど見ませんが、この原作には、とても興味がありました。というか「豊饒の海」4部作を、出版当時、夢中で読んだものです。第4巻の最後にこう書いてあります。「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。…… 「豊饒の海」完 昭和45年11月25日」
作者三島由紀夫は昭和45年11月25日、切腹自殺しました。三島由紀夫は昭和45年(1970年)の11月25日に市ヶ谷の自衛隊本部に侵入し、自衛隊員に決起を呼びかけ、自刃を行ったのです。そしてその日の朝、彼の最後の長編小説『豊饒の海』の最終原稿を手渡しているのです。つまり、11月25日の朝、最後の著作の原稿を手渡し、その日の午後には市ケ谷で自刃しています。この最後の文章を、それを知って読むと感慨深いのですが、そうでなければ、そんな気配は見られません。心の高ぶりも、決心も、感じられません。
しかし、この本を読もうと思ったのは、そんな劇的なことに関心があったのではなく、この本の装丁に惹かれたからでした。三島の世界を象徴するように、この本の表紙は、絹の布でできています。しかも、その第1巻の「春の雪」はとてもきれいな紫色をしています。第2巻の「奔馬」は真っ黒、第3巻の「暁の寺」は真っ赤、第4巻の「天人五衰」は真っ青です。
第1巻の「春の雪」は恋愛ものです。このなかで、主人公が、鎌倉の別荘に行きます。そのくだりにこう書いてあります。「青葉に包まれた迂回路を登りつくしたところに、別荘の大きな石組みの門があらわれる。―略― 和洋折衷の、12の客室のある邸を建て、テラスから南へひらく庭全体を西洋風の庭園に改めた。南面するテラスからは、正面に大島がはるかに見え、噴火の火は夜空の遠い箒になった。由比ガ浜までは庭伝いに5,6分で歩いていける。」このモデルは、先日行った、「鎌倉文学館」です。本当は、加賀百万石の藩主で知られた、旧前田侯爵家の鎌倉別邸だったそうです。この建物が建っている鎌倉といい、その建物のつくりといい、いかにも三島が好きそうですね。
第2巻の「奔馬」が、私は当時一番好きでした。これは、神風連史話に傾倒する主人公が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語です。なんとなく、三島の末期を予感させますね。
しかし、このシリーズの本当の物語は、各巻ごとに時代と背景と環境は異なる独立した物語として完結しながら、それぞれの主人公が歴史の流れとともに、輪廻、転生の不思議な縁でつながるというものです。作品の末尾にはこう書かれています。「『豊饒の海』は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunditatis の邦訳である。」何もない、砂漠のような月にある海の名前を取ったのは、面白いですね。三島由紀夫のあまりに美しい言葉を並べ、テーマも少し陳腐の嫌いがあるのですが、天才の「ほとばしり」を感じます。

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2005年12月15日 近頃思うこと

150段

 昨日は、赤穂浪士の討ち入りの日でした。この話は、日本人は好きですね。好きな理由の一つに、目的のために、今を耐え忍び、言いたいことも言わず、周りに気づかれないように準備を進め、最後に目的を果たすところにあります。最後に見返すというところが、その前の屈辱が大きいほど、「ほら見ろ!」ということがあります。どうも、途中の苦しさ、大変さを人には見せず、最後に出来上がってからみんなに披露することの快感があるのでしょう。しかし、私は、それは、本当でない気がします。私が好きな考え方が「徒然草」の150段にあります。
能 をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

この段は、宮本輝氏の「約束の冬」に取り上げられており、宮本氏が訳しています。
芸能を見につけようとする人は、「よくできないような時期には、なまじっか人に知られまい。内々で、よく習得してから、人前に出て行くようなのこそ、まことに奥ゆかしいことだろう」と、いつも言うようであるが、このように言う人は、一芸も習得することができない。まだまったくの未熟なうちから、上手の中にまじって、けなされても笑われても恥かしいと思わずに、平然と押しとおして稽古に励む人は、生まれついてその天分がなくても、稽古の道にとどこおらず、勝手気ままにしないで、年月を過ごせば、芸は達者であっても芸道に励まない人よりは、最後は上手と言われる芸位に達して、人望も十分にそなわり、人に認められて、比類のない名声を得ることである。世に一流といわれる一芸の達人といっても、初めは下手だという噂もあり、ひどい欠点もあったものである。けれども、その人が、芸道の規律を正しく守り、これを重視して、気ままにふるまうことがなければ、一世の模範となり、万人の師匠となることは、どの道でも、かわりのあるはずがない。」
芸 を身につけようと思っている人が、「へたくそなうちは、なまじっか人に知られては、はずかしい。人知れず猛特訓して熟練してから、お披露目をすれば格好良く見えるだろう」と、よく思うけれど、こんなことを言っている人が、芸を身につけたためしは何一つとしてない。ということですね。「まだ、まだ」という人は、どこかで納得いくようになるのかと思います。保育の世界も、「これでいい。」ということはありません。「さあ、みんなに見せられるようになった。」という時期は、いつなのでしょうか。みんなで、試行錯誤を繰り返し、みんなでいっしょに考えていくからこそいいものになっていくのでしょうね。恥を恐れていては、いいものには、なりません。

投稿者 fujimori : 16:43 | コメント (1)

2005年12月14日 来客

労使関係

 あるところで、新しい試みの話をした後、アンケートで「その試みを実行しようとするときの障害は、何ですか?」と聞いたところ、保育者の回答のほとんどは、「園長」と答えていました。逆に園長に尋ねた回答のほとんどは、「保育者」でした。お互いが、お互いを壁と感じているようです。
今日の来客は、とても珍しいパターンです。今まで、数日間にわたって園の職員を全員交替で実習によこし、最後にそこの主任が来て話をし、そして、今日、そこの園長が来ました。園職員全員で来ることはあっても、それぞれ別々の日に園長、主任を含めて全員が来るというのは珍しいです。別な日なので、それぞれの本音が聞けるからです。そして、園に戻って、みんなで話し合えるからとてもいいと思います。(特に、園長と職員)
園というのは、企業ではありませんが、企業の「労使関係」という考え方が、職員との関係で参考になることがあります。保育園、幼稚園では、企業でいうと、中小企業です。中小企業の場合は、とくに労使の間の個人的なつながりが密接で、従業員と使用者との人間関係が、その企業の労使関係に及ぼす影響が強くなっています。経営者の従業員に対する人間的理解の欠如が原因となって、労使関係が悪化した多くの例があります。人間関係に十分な心づかいをして、従業員との信頼関係を築き上げていくことが、労使関係をよくするためにはとても必要なことだといわれています。私は、そのほうの専門家ではないので、詳しくはわかりませんが、一般に大きくアメリカ型とドイツ型に分けられるようですが、どうも最近は、労使関係でも「ドイツ型」が提案されているようです。アメリカ型は、会社の主催者の意向は経営に強く反映します。しかし、企業に対する一体感は薄く、企業内部での一体感もあまりありません。一方、ドイツ型は産業民主制の立場から、労使の関係は対等であり、経営に対する責任分担は両者共同で行われます。このため、企業内での一体感は高まりますが、意思決定が対立した場合は調整が難しくなります。ドイツでは、協調的問題解決型、すなわち協約自主性というようです。参考に、トヨタの労使関係を見てみました。トヨタの人事労務は「労使相互信頼」を基本理念としています。労使相互信頼は、「従業員の生活向上は会社の繁栄があって初めて実現するものであり、労使が会社の繁栄を共通の目的として価値観を共有する」が基本精神のひとつにあります。そして、その基盤として「相互信頼」に「相互責任」が加わっています。
園に見学にきた保育士さんから、こんな感想のメールをいただきました。
「お話を聞かせていただき、私が特に印象深く残ったのは、園長先生が現場の職員の先生方を信頼し感謝をしていて、その園長先生の姿勢にしっかりと受け答え、実践していらっしゃる現場の先生方とのチームワークです。つまり「輪」ですよね。「輪」は「和」にもなります。きっと、通園している子どもたちは、いちばん身近なところにいる大人が安定して穏やかであれば、自然と心が和むことでしょう。そして、子供の様子を見れば、その子どもたちの保護者の方々も、我が子をしっかりと受け止めて下さっていると確信して先生に協力したいという感情が湧いてくるのでしょうね。『子どもが外の社会で最初に生活をする場の大人が信頼できる人間であること』とても大切だと思います。」

投稿者 fujimori : 18:04 | コメント (0)

2005年12月13日 講演先にて

妻からのメール

 私が、出張先で泊まるときに、妻からメールをもらいます。妻は、保育園にはかかわっていないので、外から保育の世界を見たり、育児を専業主婦としていた経験からのコメントは、とても参考になります。直近のものを紹介します。
12月12日
 私は今日「山内一豊と千代」の講演を聴きましたが、なかなか面白かったです。本を読んでいたので、よけいに面白く感じたのでしょう。講演者の先生は来年の大河ドラマの時代考証担当の方だから、来年の大河はいつもより面白いかもしれません。時代考証をした人の所へは苦情の電話や手紙が来るそうで今年の義経の担当の先生は、精神的に追い詰められ病気になってしまったそうで、自分も覚悟しているとおしゃっていました。大変なことですね。
さっきNHKの八時からの番組で大変面白いことを聞きました。アフリカのマタ・アトランティカという所にムリキという種類のサルがいるそうです。普通サルはボスがいて階級があるし喧嘩が多いのに、この種類は仲が良くてボスもいないし喧嘩もしない仲良しサルなのだそうです。理由はいくつかあるのですが、日常穏やかなハグをしているのが大きな特徴だそうです。ちょうど今読んでいる本「抱かれる子どもは良い子に育つ」にも通じるところでもありちょっとその偶然に驚きました。「穏やかなハグ」は確かに心が落ち着く気がします。もちろん誰でも良い訳じゃなく、愛情を感じられる人にだけですが。

12月1日
 ところで、朝に話してもらった「子供の犠牲になりたくない確立が高い日本人」のことですが、やっぱり気になりますね。私は子供が生まれてから、全ての行動を起こす時に(時には間違っていたかもしれませんが)自分では「子供が第一優先」で決定していました。だからといって決して犠牲になったとは一度も思ったことはありませんでした。かえってだからこそ、最良のコースをたどってこられたと感謝しているくらいです。例えば子育てが一番ハードだった長男が4歳、長女が1歳くらいの時(長男が幼稚園に入る前)には、一番の夢がゆっくりトイレに入ることでした。30代前半ですが。その当時独身の友人はヨーロッパ旅行を楽しんでいると聞きましたが、羨ましいとか、子供の犠牲になっているとか思ったこともありませんでした。ただ、ちょっと今の人と違うのは、同じ暮らしをしている人が90パーセントくらいで海外旅行に浮かれている人は一割もいなかったということです。今は5割くらいはいるでしょうか?そうだとまた話も少し違ってくるでしょうか。 おととい、昨日の貴方のブログではありませんが、「子供との思い出」や「子供の笑顔」しぐさ等々、言い尽くせない素晴らしい経験というか「生きている喜び」ですよね。他に取って代わるものなどありません。
先日、ラジオに近石しんすけさんが出演されて「子供には小さい時に充分な幸せをもらったから、大人になってもらうものは何もない」っておしゃっていたけれど、本当にそう思うし、近石さんの心の広さを知りました。小さな心の人間が増えたということなのでしょうか?

11月26日
今日の朝日新聞に、マレーシアの前首相マハティール氏が寄稿している文章にうなってしまいました。なぜイスラム教が「戦争の宗教」になってしまったのかが、明確にわかるのですが、それは他のジャンルでも当てはまるとも思いました。(保育にも)かつてイスラム教徒たちは、偉大なギリシャの科学者や数学者、哲学者たちの著書を読みペルシャ人、インド人、中国人たちからも学んだ。ところが宗教のみを学び始めると、視野の狭さが今日のイスラム教徒を苦境に導いていった。そういう意味では、貴方のブログが保育だけに突出しないで、多岐に渡ったジャンルで書かれていることは、保育界の閉塞感を打破する一助になっている一つの現れであると改めて感じました。
今晩は「やっぱり変だよ。日本の営業」を読もうかと思っています。どんなジャンルでも転換期を迎えているようで、時代を先取りした人の話は、どれもファンタスティックで興味深いです。

投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (1)

2005年12月12日 地域を知る

鎌倉の歴史

 加齢してくるにしたがって、様々な変化が現れます。できなくなったこと、できるようになったことがあります。また、見えにくくなったこと、見えるようになったことなどもあります。ですから、あるときは、年を取ったことを嘆くときがあったり、ありがたく思ったりすることがあります。つくづく、人間というものは、勝手なものだと思います。逆に、よくできているなあと思うこともあります。そんなことで、以前と同じものを見ても、そのときとまったくちがう見方をすることがあります。ですから、いつも新鮮に感じます。日曜日に行った鎌倉も、あらためて、「鎌倉」の歌を味わうことができました。
 1番にまつわる話です。(七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎 名将の/剣投ぜし古戦場
鎌倉幕府の専制政治は頂点に達していたころのことです。そこに、天皇の新政復活を目指す後醍醐天皇の動きが活発化し、討幕の兵を募りました。その声に応じた一人が上野国(群馬県)の新田義貞だったのです。そして、鎌倉に向かう途中で、いろいろなところで戦っていきます。その戦場として有名なひとつに、「分倍が原」の合戦があります。新宿から八王子に京王線で行く途中にある駅です。多摩川を背にして後がない幕府軍は、決死の勢いで戦い、新田軍は入間川まで後退したのですが、新田軍に味方する武士が増え、幕府軍を圧倒し、再び南下した分倍が原で激しい戦闘となり双方で数千人の死傷者が出たほどでした。さらに関戸河原にまで南進し、勝ち進みます。そして、いよいよ鎌倉に近づいていきます。鎌倉は南が海で、東西は山に囲まれた天然の要害です。極楽寺坂の切り通しは鎌倉七切通しの一つで、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地の舞台の一つです。極楽寺一帯は北条軍が強固な陣を構え、海上には大船を浮かべ、一部の隙もありません。幾度となく両軍が攻防を繰り返し、多数の死者がでました。新田義貞は、極楽寺坂の突破をあきらめ、稲村ガ崎の海岸沿いからの攻略に切り替えざるを得なかったのです。しかし、水が深く、渡ることができませんでした。『太平記』によれば、このとき義貞が黄金造りの太刀を海に投じて竜神に祈ったところ、水が引き、干潟となったので、新田軍は鎌倉に突入することができた、とあります。そして、源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
4番(上がるや石のきざはしの/左に高き大銀杏/問わばや 遠き世々の跡)は、有名ですね。鶴岡八幡宮での右大臣就任拝賀の儀を終えて石段を下ってきた3代将軍実朝は、大銀杏の陰から飛び出した甥で前将軍頼家の遺児公暁によって暗殺されたという話です。
5番(若宮堂の舞の袖/しずのおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ)は、最近のNHKの「義経」で印象が深い、源義経の愛妾・静御前を歌ったものです。義経が兄頼朝と不仲になって京都から脱出したとき、静もこれに同行しました。しかし、翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ、鎌倉に送られました。そして、都第一と歌われた白拍子の舞を見たいという頼朝・政子夫妻の求めにより、鎌倉鶴岡八幡宮社前の若宮堂で踊りました。そのとき、義経を恋い慕う歌を歌ったので、頼朝はこれを怒り、「殺してしまえ」と命じますが、政子がそれを諌め、髪を下ろすことで許されました。その後、静は義経の子を出産しますが、男児であったため、即日由比ヶ浜に沈められてしまいました。そののち静は許され、京に帰されましたが、以後の消息は不明だが、故郷の磯村で小さな庵を結び、義経と殺された子の菩提を弔い続けたと伝えられています。

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2005年12月11日 旅先にて

鎌倉

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開成中 海難事故の碑
 歌の歌詞からは、いろいろなことを学びます。「冬の星座」では、宇宙の広がりと、冬の空で演じられる星の営みを感じます。また、「たきび」では、冬の道を歩いている子どもたちの心の動きが感じ取れます。また、ある出来事に対しての心の動きを歌ったものもあります。たとえば、鎮魂歌「七里ヶ浜の哀歌」があります。この歌は、のちに、「真白き富士の嶺」として歌い継がれています。明治43年鎌倉七里ケ浜で、逗子開成中学のボートが沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡しました。そのなかで、5年生の徳田勝治と、逗子小学校高等科2年生の徳田武三の遺体が発見されます。兄の勝治は武三を抱きかかえ、弟の武三は勝治に抱きついたままの状態でした。おそらく兄は溺れかけた弟を助けようとしたものの、ついに力つきたものと思われます。(七里ガ浜公園には、この2人の少年が抱きあっているブロンズ像「真白き富士の嶺」が建てられています。)その事故に心を痛めた、当時鎌倉女学校の教師三角錫子がガードン作曲の「夢の外」に歌詞をつけたものが、この「真白き富士の嶺」という歌です。1.真白き富士の嶺 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙 帰らぬ十二の 雄雄しき御霊に 捧げまつる 胸と心2.ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も波も 小さき腕に 力も尽き果て 呼ぶ名は父母 恨みは深し 七里ヶ浜(本当は、6番まであるのですが)そのように歌詞から心を感じ取れるほか、いろいろなものが学べます。たとえば、「桃太郎」とか「浦島太郎」などは、昔話を歌詞によって語ります。歌うことによって、ストーリーがわかるようになっています。そのほかには、歌によって、観光案内をするものがあります。そのひとつが、鎌倉を題材にして、1910年に発表された文部省唱歌の『鎌倉』という歌です。作詞者は芳賀矢一ですが、作曲者は不明です。全8番におよぶこの歌には、鎌倉の名所や歴史上重要な土地、各地に伝わる史実や伝説などが旅の形式をとりながらコンパクトに紹介されています。きょうは、その歌詞に登場する「七里ガ浜」「稲村ガ崎」「極楽寺坂」「長谷観音」「由比ガ浜」「雪ノ下」「八幡宮」「若宮堂」「鎌倉宮」の場所を訪ねてみました。

1、七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎 名将の/剣投ぜし古戦場
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七里ガ浜と稲村ガ崎

2、極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おわします
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極楽寺坂と長谷観音

3、由比の浜べを右に見て/雪の下村過行けば/八幡宮の御社
4、上がるや石のきざはしの/左に高き大銀杏/問わばや 遠き世々の跡

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鶴岡八幡宮と大銀杏

5、若宮堂の舞の袖/しずのおだまきくりかえし/かえせし人をしのびつつ
6、鎌倉宮にもうでては/尽きぬ親王のみうらみに/悲嘆の涙わきぬべし
7、歴史は長き七百年/興亡すべてゆめに似て/英雄墓はこけ蒸しぬ

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八幡宮と頼朝の墓

8、建長円覚古寺の/山門高き松風に/昔の音やこもるらん
 
 今日は、NHKの「義経」の最終回でした。鎌倉幕府の創設と、滅亡の地を見て、今を生きる意味を考えなければという思いを強くしました。

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2005年12月10日 近頃思うこと

おたのしみ会

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今日は、「おたのしみ会」でした。園としての位置づけは、「表現」と「言語」の発達を保護者に見てもらうというものです。0歳児は、朝、集まってから挨拶をし、わらべ歌「ちょち ちょち あわわ」を保育者が歌いながら子どもといっしょに手遊びをしている姿を、当日は舞台の上で再現し、見てもらいます。そして、年齢が高くなるにつれて、「劇」を演じるようになって行きます。先日のブログで、私が「たきび」の歌を子どもたちに歌ってもらうときに、まず劇をしたこととねらいが似ているところがあります。
文学作品を読むことが子どもにとって楽しいのは、主人公に身を寄せ、出来事を見守っていくことにあるのです。さまざまな体験や冒険をしていきながら、何を考え、どんな工夫をし、様々な人と出会う中で、どのように困難を乗り切り、最後に思いを達成するかを共感していくのです。もちろん、年齢が低いころは、深い読み取りというより、子どもの言葉では、「面白い」「かわいそう」という感想でいいと思います。以前のブログでも書きましたが、ある保育大会の「絵本」の分科会で、「ごんぎつね」をとりあげ、子どもの感想が「かわいそう」ということなので、そうではないということをどのように子どもたちに伝えていくかを発表していましたが、私は、そのような実践は、幼児期には無意味な気がします。こどもが、「かわいそう」「おもしろい」には、大人と違うもっと深い意味があり、その感想に対して、大人がとやかく言うのでなく、「そうだね、かわいそうだね。」「ほんとに面白いね」でいいと思うのですが。子どもたちが文学作品を素直に楽しんでいるのに、教育となると急に、子どもの思いとは距離のあるものになってしまうことがおおいようです。子どもの思いを深めるためには、解釈よりも、その立場になって、演じさせることのほうが、効果があると思います。ですから、「たきび」の歌の歌詞の解釈よりも、その場面を演じさせることで、 深めようとしたのです。「演じる」ことは楽しさ、新しさにつながる学習活動の開発の視点です。それは、体験・理解・ 表現という過程で捉えれば学習の体験化につながります。「おたのしみ会」での劇は、そのような意図もあります。そして、もう一つの意味として「演じる」ことは、豊かな言語の発達の基盤を学ぶことにあります。日本では、まだまだ多国籍の子の入園が少ないのですが、ヨーロッパなどでは、移民の多国籍の子に対する「言語教育」が、きちんとカリキュラム化され、絵本などを通して、丁寧な指導がされていました。今の日本の子どもたちは、非常に言葉が悪い子が多いような気がします。たぶんに、テレビの影響が大きいのでしょう。しかし、たぶん、テレビを見ている時間よりも、時間的には、特に保育園児は、保育者との関わり、絵本、紙芝居とのかかわりの時間のほうが長いのです。環境としてのテレビよりも、環境としての保育者の存在が子どもに影響します。もっと、言葉を大切にして、子どもと接してもらいたいものです。また、きちんとした「言語」を子どもたちに伝える方法としての「本の読み聞かせ」「劇遊び」を見直してもらいたいものです。

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2005年12月09日 近頃思うこと

陶冶

 今、建築業界では、建物の構造の手抜きで、将来ちょっとした地震で倒れるのではないかという建物で大変な騒ぎです。まだまだ解明されていない複雑な状況、関係があるので、はっきりしませんが、わかっているのは、何で鉄筋の数や、柱の数を減らしたかというと、コスト的に安いものにしたかったとか、工期を短くしたかったからのようです。また、検査機関が、なぜわからなかったかというと、見た感じの建物を重視して、外からは見えない構造をそれほど真剣に考えていなかったことがあるようです。
 建物のことをビルディングと言います。建てることを英語で「build」と言います。しかし、buildの意味には、ほかに「人格などを形成する」があります。人格形成するとき、コスト的に安くするため、早くきちんとさせようとするため、見た感じを優先させようとして、心の中の鉄筋を数本抜いたり、土台を粗末にしてしまうと、将来、ちょっとしたことで倒れやすくなる人間を作ってしまいかねないということになってしまいます。しかも、それ自体が倒れるだけでなく、隣の建物までも壊しかねません。なんだか、日本での今の幼児教育のような気がします。
 今日、広島の幼稚園の園長からもらった資料にこう書いてありました。「日本や英語圏では、ケアと教育という区別の仕方をするが、ドイツ語圏では、betreuung, bildung, erziehung 保護と陶冶と教育という言い方をする」よく、教育=educationの語源は、ラテン語のeducoからきているといわれています。この educoという語には、「育てる」という意味と同時に、「引き出す」と言う意味も含まれています。つまり、教育とは、「人間に本来備わっている能力や性質を、外部からの作用によって引き出し育て上げる」になります。もう一つ、教育には「人間が社会の中で、人間として生活できるように人格形成を施すという一面もあります。これがビルドです。これを日本語に訳すときに、最近はあまり使われませんが、いただいたレポートでは、「陶冶」と訳しています。そして、幼児施設は、「養護」と「陶冶」と「教育」を考えなければならないといっています。
 陶冶(とうや)は、「人間形成」のことをいう古い表現で、「教育」とほとんど同義に使われます。近年は、ほとんど人間形成という言葉で置き換えられ、陶冶という言葉は使わなくなりました。使われなくなってきた背景には、人を焼き物を作るように、型に合わせて、焼き固めるような行為を連想させるというのが一因となっているとみられています。この字からして、そう思ってしまうのはわかるのですが、本当は、「陶」は、人を教え導くの意味で、「冶」は立派なものに仕上げることの意味です。型にはめる、製作者の意のままに教育するといった意味合いではないのです。一部には、良い材料をしっかり探し出し、吟味して選び出し、それを細心の注意をもって立派なものに仕上げていくという意味だという説明をする人もいます。辞書には、「生まれついた性質や才能を鍛えて練り上げること。」とあります。ペスタロッチの教育理論は「基礎陶冶の理念」として示されていて、そこには人格陶冶が人類陶冶の基本課題であることが明示されています。子どものさまざまな事件、学級崩壊などの現象など、子どもが壊れていく今、もう一度、「人格陶冶」という観点を見直す必要があるかもしれませんね。

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2005年12月08日 教員の頃

さざんか

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 今、園の周りの家々は、夜はクリスマスのイルミネーションがとてもきれいです。遠くから、車で見に来る人もいるようです。その家の周りの垣根には、青や白のライトが点滅します。しかし、昼間に歩いてみると、その飾りはほとんど目立ちません。昼間に目立っているのは、そろそろ咲き始めている「さざんか」の垣根です。さざんかは、椿に似ていますが、椿(つばき)科です。この花の原産地は、日本です。ですから、学名も英名もサザンカ(Sasanqua)といいます。つばきの中国名「山茶花」が、いつの頃からか、このサザンカの名前として間違って定着したのです。読みは「山茶花(さんさか)」→「茶山花(ささんか)」→「さざんか」というぐあいに変化したらしいです。「山の茶の花」という名前よりははるかに豪華な花です。特に、冬にはあまり花は咲いていないので、赤や白の山茶花の花は目立ちます。ところで、さざんかと椿は似ていますけど、どこが違うかということは有名ですね。椿の花は落ちるときにボテッと全部一緒に落ちてしまいます(このことが斬首刑を連想するのか、武士は椿の花を嫌ったそうです)が、さざんかは花びらが一枚いちまいばらばらに散ります。また、「さざんか」というと、「たきび」の歌を思い出します。この歌を、1年生に教えるときに、子どもたちに劇をしてもらいました。
「子どもが二人、垣根沿いに歩いています。そして角を曲がったら、その先で焚き火をしています。「あっ、たきびだ、たきびだ。」「ねえ、あたろうか?」「うん、あたろうよ。」でも、どうしようかと迷っています。だって、北風がぴいぷう吹いているから。歩いている脇の垣根には、さざんかの花が咲き始めています。「早く行こうよ。」「たきびだ、たきびだ。落ち葉をたいているよ。」「早く、あったまりたいね。しもやけの手がかゆくなってきた。」ほら、木枯らしが吹いてきます。「おお、さむい!」この道は、とっても寒い道です。「やっぱり、あたろうか?」「あたろうよ。」相談しながら、子どもたちは歩いていきます。」こんな劇をやった後で、「たき火」の歌の歌詞を読んでもらいます。
1、かきねのかきねのまがりかど たきびだたきびだ落ち葉たき あたろうかあたろうよ 北風ぴいぷうふいている
2、さざんかさざんか咲いた道 たきびだたきびだ落ち葉たき あたろうかあたろうよ しもやけお手々がもうかゆい
3、こがらしこがらし寒い道 たきびだたきびだ落ち葉たき あたろうかあたろうよ 相談しながら歩いてる

そして、歌を歌うときに、「あたろうか?」「あたろうよ。」のところだけ、せりふで言ってもらいます。子どもたちは、とても感情をこめて歌ってくれました。子どもたちに歌を歌ってもらうときに、歌詞を言うことでもなく、曲を歌うことではなく、その気持ちを感じてもらいたいと思って、新しい歌を教えるときに、いつもいろいろな工夫をしたものでした。

投稿者 fujimori : 23:55 | コメント (0)

2005年12月07日 由来

おとめ山公園

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昨日は、19年開園予定の新宿の保育園の現地調査がありました。いま、根切り工事が始まっています。基礎や地下構造物を造るために、地盤面下の土砂、岩盤を掘削することを「根切り工事」といいます。床掘りともいうこともあります。土を掘ると、張り巡らされている木の根を切ることになるので、「根切り」というのでしょうか? 今は、都内の工事では、土を掘ると昔の杭や基礎が出てきて、それを抜いたり、壊したりすることが多いですね。そして、その掘った土を運び出さなければなりません。しかし、今回の工事現場は、前の通りが狭い上に、急斜面なので、大きなトラックでは難しいこともあり、大変です。この道は、工事の時には急斜面で大変ですが、歴史的には、とても由緒があります。東京には、様々な名前のついた坂がたくさんあります。この坂は、「相馬坂」といいます。新目白通りを下落合4丁目付近で北に入り、落合第4小学校・おとめ山公園の間を通るのが、相馬坂で、北に向かってやや急な上り坂です。この小学校と、相馬坂を挟んで、新しい保育園が建つ予定です。江戸時代、この坂に隣接するおとめ山公園一帯は、将軍家のお鷹狩の場所で、一般の人々は立ち入ることができず、御禁止山(おとめ山)と言われていました。(はじめて聞いたときは、乙女山と思っていました。)御留山というのは江戸時代(藩制時代)に、役人の許可がないと入れない山を意味していました。有益な資源が有るので、役人の管理下に置いて管理させていた山なので、伐木禁止、採掘禁止させる意味で、立入を禁止の地域なのです。しかし、このおとめ山には財産があるわけではなく、将軍が鷹狩りという遊び(スポーツ?)をするために、保護したようです。どこかに、川にも御留川もあるそうです。このあたりを、明治になって相馬家が買い取り屋敷を建てたことから、相馬坂と言われています。おとめ山公園は、自然の雰囲気を残した樹木の多い公園です。山手線「高田馬場駅」と「目白駅」から徒歩10分ほどの場所にひっそりとある区立公園ですが、真夏の一時期には数千人もの人々が集まります。庭内には、落合が妙正寺川を中心に昔から蛍の棲息地であったところから、区ではこの公園内で蛍の人工養殖をはじめ、成功しており、毎年7月下旬に蛍観賞の夕べが開催されているからです。養殖に利用されているのはもちろん自然の湧水です。(名水巡礼東京八十八ヵ所に選ばれています。)明治以降は、山を南北に分けて、北側を近衛家、南側を相馬家が所有していました。庭園は「林泉園」と称し、池泉回遊式のもので、大正3年に長岡半平が築造したものだそうです。現在残っているのはこの部分で、戦後は荒廃し、長らく“落合秘境”などと呼ばれてきましたが、地元の文化人が陳情して、昭和44年に区立公園となりました。スギ、ナラ、シイ、クヌギなどの豊かな木々が生い茂り、池には、鯉と、亀が住んでいますし、カルガモも子育てをします。こんな公園を、大切にしたいですね。

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2005年12月06日 近頃思うこと

東京の人

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 今日は、都内に出る用があったので、ついでに浅草に買い物に行きました。目指す店は、仲見世の終わりのほう、浅草寺近くの路地にある店です。仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も多くなってきたので、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保の頃といわれています。雷門から浅草寺にいたる仲見世は、江戸時代には、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していきました。しかし、明治維新で、寺社の所領が政府に没収され、浅草寺の境内も東京府の管轄となり、明治18年に東京府(今の東京都)が当時仲見世で商いをしていた全商店を取り払い、煉瓦作りの近代仲見世を完成させました。当時の仲見世は美しい煉瓦作りで、この煉瓦は当時の各刑務所の罪人の手によってによって制作されたそうです。その赤レンガの「印」によってどこの刑務所で制作されたかがわかるそうです。今日行った仲見世の上のほうには、冬の夜空の三日月がさむざむとかかっていました。下町には、ああ、もうすぐ年末だなあ、そして、そのあとに正月が来るんだなあという実感が沸いてくる情緒があります。
 私の幼稚園在園のころから、高校を卒業するまでの間の生活圏は、下町でした。家から歩いて浅草まで15分くらいでしたし、上野まで20分、銀座まで30分という、バリバリの『江戸っ子』です。地方の人は、「東京」というと、どのあたりを思い浮かべるのでしょうか。新宿歌舞伎町あたりか、原宿か、渋谷でしょうか。また、「東京の人」というと、どのようなタイプを思い浮かべるのでしょうか。よく、東京は、隣に誰が住んでいるかわからないくらい、隣近所とは疎遠で、人のことは気にしない、コミュニティーが欠如している町というイメージがあるようです。しかし、私が住んでいた町は、隣の家のその日の夕食が何かわかるほど接近していましたし、会話も、よく「今日の夕飯、何にする?」などでした。先ほど亡くなった江戸文化に詳しい「杉浦日名子」さんが、こんなことを書いていました。「『頼まれたら、いやと言わぬ 江戸っ子気質』とよくいうのは、江戸の町並みは密集しており、隣と接近しているために、プライバシーをお互いが意識して守っていた。そのために、頼まれたら「いや」とは言わないが、頼まれなければ、人のことには介入しないという、節度ある付き合い方をしていたことが表れている言葉です。」私からすると、今の時代に求められているコミュニティーのあり方のような気がします。また、最近は、町会に加入しない世帯が増えてきたのに反し、あの六本木ヒルズの住人は、100%の加入だそうです。人はいろいろな刷り込みを持って判断します。そのひとつが年齢であるという話を、以前のブログで書きましたが、地域に対する刷り込みもあるようです。「東京」というと、あるイメージを持ちます。私は、東京生まれで、東京育ちだからというわけではありませんが、地方の人が持つ東京のイメージは、私からすると東京ではない気がします。新宿歌舞伎町や、原宿のお店などは、東京の人はめったに行かず、地方の人のほうが行くように思いますし、人と触れ合ったり、付き合うことを嫌がるニュータウンの住人たちの多くは、地方出身の人のほうが多い気がします。

投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (1)

2005年12月05日 映画

行ける所、行った所

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 私は、もうわが子が大きくなってからは、あまり子どもが好きなような映画やイベントには行かなくなっています。妻と二人では、なんだか恥ずかしい場所もあるのです。「行こう、行こう。」と思っているのに、まだ行っていないところに「ディズニーシー」があります。ディズニーランドは、子どもが小さいころは、毎年行っているくらいでしたが、「シー」のほうは、わが子と行かなくなってから出来たので、まだ行っていません。また、冬になってのスキーにも、子どもが小さかった頃は、毎冬、何回か行っていましたが、今は、もう行っていません。最近の人は、子どもがいると行けないところ、やれないことを考えてしまいますが、逆に、子どもがいないと行けないところも、やれないことも多くあるのです。テレビで、なつかしの歌番組をやるときに、ある時代の歌が、夫婦とも、ほとんどわからないことがあります。考えてみると、そのときは、子どもに合わせてレコードを聴いたり、テレビを見たりしていたので、大人の歌はほとんど聴いていないことがわかります。その代わりに、その頃の「おかあさんといっしょ」や「みんなのうた」や「ポンキッキ」で歌われていた歌は、ほとんど全部歌うことができます。逆に、今は、ほとんど知りません。本当は、職業柄、子どもに関するテレビ番組を見る必要があるのかもしれませんが、大人だけで「あかあさんといっしょ」は、ちょっと見ることをためらいます。最近、体操のお兄さんと、体操が変わったので見てみましたが、「パジャマでおじゃま」などのときは、チャンネルを回してしまいます。かわいいのですが、園でそんなかわいい子は毎日見ているので、改めてテレビで見ようと思わないからです。
 映画も同様です。ドラえもんなどは、もう見に行けません。「東映まんが祭り」(私は、わが子が小さかった頃も見に行ったことはないのですが)などは、おじさんが一人で見に行ったら、変態と思われてしまうかもしれません。そんななかで、妻と必ず見に行くシリーズがあります。「スターウォーズ」と「ハリーポッター」です。スターウォーズは、最初、独身のときに勉強を教えていた小学生に無理やり勧められて見に行き、はまってしまったのです。ハリーポッターは、原作を読んではまってしまったのです。昨日は、そのハリーポッターの新作を妻と見に行きました。その二つの映画に共通するところがあり、それが、私にはとても興味のあるところです。それは、天から特別な才能を授かった人の、果たすべき使命です。スターウォーズは、「フォース」という力を授かったものの物語です。人間には、理屈ではどうしてもできないことがあります。そのときには、「考えないで、フォースを感じろ!」というのが1作目にあって、その部分が好きなのです。物事を追及した最後は、目で見えるものは、さまざまなものに惑わされてしまうので、目を閉じて感じるというのは、日本でも、剣の世界などにあります。そして、その力を人より強く授かったものがいます。しかし、その力を、自分では使いこなせないときに、悪に利用されてしまいます。しかし、最近のスターウォーズの作品は、少しずつそのテーマがぼやけてきているので、残念なのですが。ハリーポッターも同じです。その力を生まれながらに持っているゆえに、さまざまな困難に立ち向かわなければならないのです。こんなことを熱っぽく語るのは、子どもっぽいかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 18:59 | コメント (0)

2005年12月04日 由来

「冬の星座」2番

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 「冬の星座」の歌の歌詞を味わっていると、日本語の美しさに心打たれます。音からの意味、音の美しさ、また、漢字の形の意味深さ、漢字の書き方による複数の意味、様々な情景を表わす言葉、どれもとても美しく、その言葉が、あたかもその場の言葉で言い表せないと思える情景までも、言い表すことができます。逆に、怖いこともあります。その言葉を発した意図とはちがった内容が、聞き手に伝わってしまうことがあるからです。また、聞き手が、自分の都合のよい解釈をしてしまうことがあるからです。日本語とは、とても難しいものですね。
「冬の星座」の2番の歌詞です。
『ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく 無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と きらめき揺れつつ 星座はめぐる』「ほのぼの」とは、「ほのかに明るいさま」をいいますが、明るさの強さというよりも、その明るさの暖かさを示している気がします。「ほのぼの」とは、たとえば、「ほのぼのとした家庭」というように使うことがあり、そのときの意味は、「心がほのかにあたたまるようなさま。ほんのり」となります。ということで、その光は、ほんのりとあたたかみの感じられるさまをいいます。ここに歌われる「銀河」は、天の川のことですが、その川の流れるさまは、なんとなく安らぎを与えてくれ、まさに「ほのぼの」ですね。どうも、この天の川は、どの国でも多くは、川に見えるようです。エジプトでは、「天のナイル川」バビロニアでは「天のユーフラテス川」インドでは「天のガンジス川」と呼んでいたそうです。そして、中国で、銀色の川ということで「銀河」といいます。英語では、「ミルキー・ウェイ」といいますが、ヨーロッパでは、あの光のやわらかさから、川というよりも母乳の跡とみえたようです。この由来は、ギリシャ神話の中にあります。怪力のヘラクレスが赤ん坊の頃、女神ヘラの母乳を飲もうとした時に、かなり強く吸ったため、その乳がほとばしって空にかかったとされ、ミルクの道、ミルキー・ウェイと呼んでいるのです。その天の川が、「流れる」ではなく、「る」を二つ重ねて、星の瞬きを表わしているような響きがあります。そのほのぼのさに反して、「オリオン座」の姿は、まさに空を覆い、舞い降りてくるという感じで、圧倒されます。そして、スバルの瞬きは、「さざめいて」いるのです。「さざめく」とは、「大勢の人が、にぎやかに音や声を立てて騒ぐ。」という意味のように、スバルはプレアデス星団とも言いますが、ギリシャ神話でオリオンに追われて星となったプレアデスの7人の姉妹とされています。姉妹が7人も集まると、さぞかしさざめくことでしょうね。次のフレーズが、最も好きな部分です。「無窮を指差す北斗の針と」は、壮大な、無限に広がる宇宙の姿がみえます。「無窮」とは、「果てしない、永遠無限という意味」であり、四字熟語「天壌無窮」は天地とともに極まりなく続くことをいいます。「北斗の針」とは、言わずと知れた「北斗七星」のことです。天の北の方に位置し、W字型のカシオペアとともに北極星を探す指標になっているので、「針」といっていますが、ここでは、北を示すというよりも、無限に広がる宇宙を指差しているなんて、すばらしい表現ですね。

投稿者 fujimori : 21:42 | コメント (1)

2005年12月03日 由来

「冬の星座」1番

 さて、今までの、冬の星座についての基礎知識の上で、歌の「冬の星座」について、その歌詞を味わってみたいと思います。(どうも、想いが強いので、1番だけで今日は、終わりそうです)
『木枯らしとだえて さゆる空より 地上に降りしく 奇(くす)しき光よ ものみな憩える しじまの中に きらめき揺れつつ 星座はめぐる』
 いいですね。本当に、この歌詞は大好きです。というより、心の中に無限の夜空が浮かんできます。
「木枯らし」は、晩秋から冬にかけて吹く冷たい北寄りの季節風をいいます。いかにも、その風が木を吹き枯らす感じがします。漢字一字で書くと「凩」ですが、風の中で、木が一本じっと冷たい風に耐えながら立っている感じがよく出ています。その風が、やみます。「途絶えて」は、とぎれることですが、ただ、風が止むとか、止まるという言葉に「絶える」が続くと、冬の風らしい寒々さを感じます。風がやんだ分だけ、寒さが身にしみます。さゆる(冴える)というのは、「寒さが厳しくなる。しんしんと冷え込む。」という意味と「くっきりと澄む。はっきりと見える。」ということで、「冬の夜空に星が冴える」とも使います。冴ゆる空とは、その両方の意味を持って、心身と冷え込んだ澄み渡る夜空のことです。そんな空から、光が地上に降りしきます。「降りしく」は、「降り敷く」と書くと、「一面に降って敷きつめる」というように、光が地上一面に敷きつめるかのように降り注ぐということであり、「降り頻く」と書くと、「絶え間なく降る、しきりに降る」という意味になります。どちらでも、意味は通じるだけでなく、両方の意味があるように思います。そのように降り注ぐ星からの光は、「奇しき光」です。奇し(くすし)は、薬の語源として言われていますが、奇は、「あや」とも読むことがあり、「不思議なるものに心惹かれて歎ずる声」でもあり、奇(くす)しきものとは、「不思議なる力を発揮するもの」として、「薬」となったといわれています。「くすしき」は、音からだけでは、わかりませんね。つぎの「ものみないこえる」も、歌っているときには、どこで区切るのかわからなかった部分です。「もの」は、すべての物事や現象の内容に通用する名詞です。ですから、地上、天上すべてのものが、「憩う」のです。すべてのものが息を休め、休息し、「静まりかえって、物音一つしない静寂のなかで」ということが「しじまのなかに」です。そんな静寂の中で、星の光が煌く(きらめく)のです。ただ光るのではなく、「きらきらと光り輝く」ことが、きらめくことなのです。そして、その光がちらちらと揺れています。この「きらきら」「ゆらゆら」は、惑星と恒星の違いなのです。火星や、金星などの惑星は、きらきらしません。その星たちが、ゆっくりと、北極星を中心に夜が更けるにしたがって、回っていきます。「星座は巡る」のです。しかし、ただ「回る」のではなく、巡り会う・巡り合わせなどには運命的意味合いが含まれるように、「星座が巡って」いくのは、時の流れというだけでなく、人の力の及びもしない悠久さを感じますね。

投稿者 fujimori : 22:00 | コメント (2)

2005年12月02日 由来

冬の星座いろいろ

 星座のなかでも、冬の星座は、とても派手です。そのわりには、あまりギリシア神話には取り上げられていません。真ん中に目立つオリオン座でさえ、ペルセウスに比べて、かなり色あせてみえます。しかし、星座としては、なんといっても、冬が一番美しいと言われています。シベリア気団から吹く冷たいこがらしが吹きやんだ夜、空はよく晴れて澄みわたります。冬の空が澄みきっているのも日本の天気の特徴です。冬の東空から南空には、大きく「オリオン座」が見えます。この形を見つけることが、まずは星への興味を引きます。他の星は、なかなか星座の形が見えることが少なくなったからです。お牛に立ち向かっていくオリオンという名の猟師の姿を描いたものです。四つの明るい星とオリオンのベルトにあたる三つ星、オリオン座の大星雲が有名です。四つの星のひとつ「ベテルギウス」は大きさが太陽の1000倍近くもある赤い巨大な星で、もし太陽の位置に持って来ると、地球だけでなく火星の軌道までを飲みこんでしまうほどの大きさです。また、この星が、冬の大六角形の中心になります。それと対象にあるのが、逆に若い星「リゲル」は青白く光っています。オリオン座大星雲は、双眼鏡で見るとガスが広がって雲のように見えるので、散光星雲と呼ばれています。ガスの中心にある星の強い紫外線のために水素(すいそ)ガスの集まりが輝いているのです。このペテルギウスと冬の第三角形を構成するひとつが、夜空の恒星(こうせい)の中でもっとも明るく見える星(マイナス1.5等星)「シリウス」です。この星は、おおいぬ座の鼻のあたりにあります。三角形のもうひとつは、こいぬ座のα星プロキオンという星で、全天で8番目の明るさを持つ星です。意味は「犬の前」「犬の先がけ」で、おおいぬ座のシリウスより先に東の空から昇ってくるからだそうです。この星座のいわれも、とても悲しい話です。
 他に目立つ星として、おうし座のなかの「アルデバラン」という赤い光を放つ星があります。この星を含んで、牛の角のV字が目立っていますが、この星座の有名なのは、牛の心臓部にある「プレアデス星団」です。これは、いくつもの星が、ホタルの群れのように浮かんでいます。この星団は、「すばる」とも呼ばれ、若い星たちの集まりですが、肉眼でも数個(すうこ)の星の集まりが確認(かくにん)できます。昔は、このなかの星のいくつ見えるかで視力検査をしたとも言われます。今、大体6個見えるといい目ですね。さらに北の方に目をやると,ぎょしゃ座の「カペラ」が明るく輝き,その下にはふたご座の「カストル」と「ポルックス」がなかよく並んでまたたいています。これらの星の中で、カペラ,アルデバラン,リゲル,シリウス,プロキオン,カストル6つの1等星を結んでできるダイヤモンドの形が、「冬の大六角形」であり、冬の星座を知るための良き目印となってくれます。こんなことを話していると、「冬の星座」の歌までたどり着きませんね。

投稿者 fujimori : 22:19 | コメント (1)

2005年12月01日 教員の頃

星座

 私が小学1年生を担任しているときに、よく、子どもたちに「ギリシア神話」を話してあげました。私は、ギリシア神話が好きでした。なぜなら、その結末が、星座になることが多いからです。すると、私は、教室の天井に金色の色紙で作った星で、話に出てきた星座を、できるだけ、その位置に貼っていきました。また、その大きさも、その星の明るさに合わせました。だんだんと、天井いっぱいが星で埋め尽くされていきました。星座の本を見ると、星の間に線があり、それを結んで形になります。しかし、実際の星には、線がありません。そこで、天井には線がないので、その天井いっぱいの星から、星座のかたちが見えてきます。他のクラスの子は、ただ星がいっぱいのように見えても、私の担任しているクラスの子は、星座が見えるのです。ですから、実際の空を見ても、星座を見つけることができます。話のなかで、子どもたちは、「ペルセウス」の冒険や、「こと座」の「オルフェウス」の悲しい話や、「大熊座」の切ない結末などの話に、固唾を呑んで聞き入ったものでした。
 今日は、今年最後の出張先である松山にいます。宿は、道後温泉です。このホテルは、屋上が露天風呂になっていて、今日は少し曇りでしたが、星空がよく見えます。最初にこの宿に泊まったときには、冬の星座が、とてもよく見えました。一人で露天風呂に入っていたので、思わず、歌を歌っていました。私が、大好きな歌です。「冬の星座」(堀内敬三 訳詞・ヘイス 作曲)です。その歌は、メロディーがとてもきれいで、大好きな歌です。このメロディーはアメリカのポピュラー曲で、ヘイスの作曲です。医学博士でもあったウィリアム・シェイクスピア・ヘイスの作品は、アメリカでも長く親しまれているものが多く、日本ではこの歌の他に、「故郷の廃家」が有名です。また、私は、そのメロディーの美しさにも増してとても気に入っているのは、その歌詞です。この歌は古くは「他郷の月」という名の曲名で、故郷の家族を懐かしむ歌として、日本に紹介されましたが、堀内敬三によって訳し直され、冬の星空の歌として広く歌われるようになりました。この堀内敬三という人、アメリカはマサチューセッツ工科大学院卒業という学歴をもちながら、日本人にはとっつきにくかった外国曲をなじみ深いものにした第一の功績者といっても過言ではないようです。かつては中学校の唱歌に指定されていましたが、言い回しが今の子どもには分かりにくいといった理由で、残念ながら10年ほど前から音楽の教科書から消えてしまっているようです。確かに、私も当時は、ずいぶんと意味をちがえて覚え、今、あまり意味もわからず覚えた歌詞を口ずさみながら、本当の意味や、その思い、宇宙の営み、そんなものを感じるようになってきました。ですから、少し意味がわからなくても、その音の美しさ、日本語の意味の深さを感じればいいと思います。明日のブログで、その歌詞の深さを語りたいと思います。

投稿者 fujimori : 23:52 | コメント (0)