学ぶの半ばなり

 今日で今年が終わりです。このブログを振り返って、「自分ながらよく続いたな。」と思います。しかも、内容はつまらないだろうし、長くて読みづらいし、読む人は、大変だろうと思います。私は、日記も続いたことはありません。ほかのことでも、続いたためしがありません。そのなかで、ひとつだけひと月ですが、毎日続いたものがありました。それは、教員を辞めるときの最後のひと月の間、クラス便りを日刊で出していました。その頃は、コピーもなく、印刷も手回しでした。家に帰ると、鉄筆で原紙に書いたものです。間違えたときは、あの独特のにおい(マニュキアのにおいと同じ)の修正液を使います。そして、朝早く学校に行って、印刷をします。紙も、わら半紙というものです。こんな毎日のなかで、ふと思ったことがありました。「こんなに毎日書いているのに、何の反応もないは、何でだろうか。読んでいないのではないだろうか。」と保護者を疑ったのです。そして、ある日のクラス便りに、その不安を書きました。すると、その次の日に、大勢の保護者がお便り帳をよこしました。そこには、みんな楽しみに読んでいると書かれていましたが、ある保護者のお便り帳に書かれている内容に頭を殴られた気がしました。そこには、「先生は、クラス便りを毎日出しているのは、ほめられたくて書いていたのですか?反応が欲しくて、書いていたのですか?先生のことをいいと思っている保護者を疑っているのですか?」私も、まだ人間ができていない気がし、とても反省しました。その時を含めて、いろいろなところで、ずいぶんと保護者に育てられた気がします。
 そのときに書いていたのは、確かに書きたいことが山ほどあったからです。子どものことを伝えたくて仕方なかったのです。決して、ほめられたくてではなかったはずです。だから、毎日続いたのでしょう。
このブログが続いていることについても同じことが言えそうです。毎日続けて大変でしょうと人はいいますが、今のところ、私は、毎日ふたつくらい書きたいことがあります。ですから、毎日、「何だ、一つしか書けないや。」と思うことにしています。また、長さも、最初に書いていくと、倍か3倍の長さになってしまいます。書きたいことがたくさんあるからです。それを、できるだけ1600字を限界にして縮めています。毎日が、いっぱいいっぱいだったら、たぶん続かないでしょう。
 読む人は、自分にとって、興味のあるところ、退屈しているとき、自分ながらの読み方をしてください。つまらないかもしれませんが、これが、私にとって、自然なことだからです。書くことで、自分も勉強になっているからです。
 私が、見学者の対応する時でも、講演に地方に行くときでも、それが自分にとって、自然な気がすることと、自分にとっても勉強になるから、できるだけ受けてしまいます。
「教うるは学ぶの半ばなり」(書経)です。
来年もよろしくお願いします。

八犬士

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 私が小学生の頃、臨海学校は、千葉の岩井海岸でした。今でも、夏は海水浴客や臨海学校の子ども達で賑わい、秋から春にかけても、民宿は、コーラスクラブや剣道、空手、柔道などの合宿銀座のようだそうです。この岩井駅を降りると駅前に伏姫と八房の像があります。それは、戌年である来年のお正月の話題作である「南総里見八犬伝」の始まりの場面となるのが、この岩井海岸がある富山町の中央に位置する富山(とみさん)(八犬伝では富山(とやま))だからなのです。(八犬伝は架空の物語ですが、富山町には伏姫の籠穴や犬塚、八房誕生の地など、八犬伝にちなんだ地が数多くあります。)NHKでの人形劇「新八犬伝」は、夢中で見ました。かなり、高視聴率を稼いだようです。また、角川映画「里見八犬伝」(薬師丸ひろ子・真田広之主演)などで有名ですが、私は、いつの頃か忘れてしまいましたが、小さかった頃、父親に連れて行ってもらった映画を見て、夢中になりました。(この映画は実写でしたが、いつごろ、誰が主役かまったく覚えていませんし、インターネットで調べてみましたが、出てきません。)すぐに本を買って、読みふけりました。以前にも書きましたが、私は、天命を持って生まれたものが、その使命を果たすという話が昔から好きだったようです。
 「南総里見八犬伝」は江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた原典は九十八巻、百六冊に及ぶ大長編です。物語は、室町時代、安房の国の城主里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間に不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れます。 伏姫の死とともにこの玉が八方に散し、やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し苦難に出会いながらも、因縁の糸で結ばれて少しずつ出会っていきます。そして、里見氏のために忠義をつくし、主君を守るために活躍するという、いわゆる勧善懲悪の理念に貫かれた物語です。舞台も房州を中心に、関東から甲信越にまでわたって展開し、ハラハラ、ドキドキの一大スペクタクルです。
八犬士が持っている玉に浮かび上がる「仁義礼智、忠信、孝悌」の8つの徳目は、次のような儒教に典拠があるといわれています。孟子の「惻隠之心仁之端也、羞悪之心義之端也、辞譲之心礼之端也、是非之心智之端也」(四端の説)と論語の「主忠信」と孟子の「堯舜之道、孝悌而巳矣」です。簡単に言うと、「仁」とは、「思いやり、慈しみ」。「義」とは、「人道に従うこと、道理にかなうこと」。「礼」とは、「社会生活上の定まった形式、人の踏み行なうべき道に従うこと」。「智」とは、「物事を知り、弁えていること」。「忠」とは、心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心」。「信」とは、「言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと」。「考」とは、「おもいはかること、工夫をめぐらすこと。親孝行すること」。「悌」とは、「兄弟仲がいいこと」といわれています。
 また、ある使命を持ったものであるという証拠には、この玉を持っているほか、それぞれが、犬の姓を持っていることと、体のどこかに牡丹の痣を持っています。これは、三島由紀夫の「豊饒の海」で転生する主人公4人にはいずれも脇腹に三つのほくろがあることを連想させます。
 私は、小さかった頃、何かの使命を持って生まれてきているかもしれないと、体のどこかに証を探したものです。

あぶりだし

 学校は、今、冬休みです。今では、寒くていやだと思いますが、子どものころは楽しいことがいっぱいあった冬休みでした。クリスマスから、年末のあわただしさ、お正月のゆったりした日々、ずいぶんとメリハリのある休みです。子どもの遊びも、たこあげ、はねつき、かるた、すごろく、とても豊富でした。その遊びのなかで、最近あまり見かけなくなったものに「あぶりだし」があります。これは、冬のアイテム「みかん」と「火鉢」が必要だったために、冬の遊びの代表格です。「あぶりだし」は、知っている人も多いでしょうが、白い紙に、みかん汁やレモン汁などで、絵や文字を描きます。そして、液が乾けば、何が描かれているかは本人にしか分かりません。しかし、液の乾いた紙をストーブやコンロ、火鉢などであぶると、紙の上に茶色の文字が浮かび上がってくる遊びです。酢、レモン汁、あるいは玉ねぎの汁は、紙に化学変化をおこし、発火温度が紙より低い物質に変えてしまいます。ですから、その汁で書いた紙をろうそくなどであぶると、変化した物質が紙より先にこげて、茶色の文字があらわれます。子どものころは、「秘密の暗号」として友達に渡したりして楽しみました。レモンやみかんや酢やたまねぎの汁のほかに、みょうばん水、トマト、オレンジジュース、りんごジュース、牛乳、さとう水などでやっても、いろんな色がでます。そして、今は、火鉢であぶらないで、あたためておいたオーブントースターに入れて、10秒たてば、絵がうき出てきます。
 紙で遊ぶというと、最近はいろいろとありますね。昨日、園で、見学者に対して、子どもたちがこんなことを言っていました。「ねえ、ねえ、この絵本見て!ここをこするとにおいがするんだよ。」とカレーの絵を指していました。これは、紙というより、インクの上に匂いの粒がついていて、こすると、カレーのにおいがするようになっているのです。カレーのほかに、イチゴのにおいや、チョコレートのにおいのするインクもあります。また、絵本に、手で触ると絵が浮き出てくるものもありました。手の体温に反応するのです。しかし、この企画は失敗したそうです。沖縄では、触らなくても絵が浮き出てしまったそうですし、北海道では、触っても絵が浮きでなくて、苦情が殺到したそうです。
 今日、電車に乗ったとき、知床の案内の中吊り広告にこう書いてありました。「この紙は、マイナスイオンを出しています。」その車両全部がその広告だったので、さぞかし、その車内は、マイナスイオンで満たされていたでしょう。
園では、今年の運動会のプログラムは、今年のテーマ「木かげでひとやすみ」にちなんで、年輪をかたどったものでした。その一番上の年輪を、ヒノキで作った紙にして、木のにおいを嗅いでもらえるようにしました。
 紙の原料は、パルプで、勿論、木材から作られることが多いのですが、最近は、ケナフやバガスといった非木材繊維と呼ばれるものもパルプ化され、原料となっています。とくに、ケナフは熱帯性の一年草で,二酸化炭素を効率よく吸収し,早く生育する植物で、栽培が比較的容易であることから、その栽培が、学校で環境教育としてされることが多いようです。
 紙は、いろいろと変わってきても、子どもの伝承遊びは、ぜひ、伝えていかなければなりませんね。

経済館

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 何かイベントをやるときには、多くの集客を目指します。そのためにいろいろな企画を立てます。私は、このような企画を立てることがとても好きです。それは、来る人が楽しむ企画は、立てる側にとっても楽しいものでなければならないからです。また、来客者が、ただ楽しいだけでなく、楽しんでいるうちに、来客者に知らず知らずのうちに、こちらの伝えたいことが伝わっていかなければなりません。
私が30代の頃から、八王子市で仲間の若手男性園長たちと、毎年12月に、駅ビルで「乳幼児の世界展」というイベントを開催していました。そのイベントを通して、「市民に子どものことを理解してもらおう!」「保育園は、そんなことに取り組んでいるのだ。」ということを訴えようとしたものです。ある年、子どもを理解してもらおうと、こんなことをしました。まず、子どもは、よく、持ったコップを落として親に叱られます。そこで、子どもは、どんなコップを、どんな感覚で持っているのか体験してもらいます。まず、子どもと大人の手のひらの面積を比較して見ると、ほぼ子どもは半分です。また、背筋力を測ってみるとこれもほぼ半分です。また、指を伸ばして届く距離を測っても半分です。そこで、直径が、普通のコップの倍ある入れ物に、コップにいっぱいに水を入れた重さの倍の重さのものを入れて持ち上げてみてもらいます。思わず、落としそうになります。また、大人の雑巾の倍の厚さで、大きさも倍のものをタオル地で作り、これを絞ってもらいます。しっかりと絞れません。また、子どもの視野の広さのめがねをかけてもらい歩いてみると、車が近づくまで、横から来る車に気がつきません。そんなものを部屋いっぱいに並べて、子ども体験をしてもらいました。テーマは、「子ども探検ツアー募集中」です。
25日の日曜日に、東京タワーフットタウンに行ってきました。ここに、11月から「感 どうする経済館」がオープンしています。ここでは、日本経済の今、日本経済の現状を、楽しく体験しながら勉強できるミュージアムになっています。プロデュースは作家の荒俣宏さんです。この部屋のベンチは、1万円を並べた100億円の束と同じ大きさになっています。ショックなのは、「日本経済の足音時間」というもので、「私たちが作り出している金額(GDP)」と「日本の借金」がものすごい速さで増えていきます。しかも、作り出しているスピードよりも、借金のスピードがものすごい勢いで増えていきます。別なコーナー「日本の借金リュック」では、政府債務の金額の重さを実感するアイテムで、世帯当たりの負担金額に換算した重さのリュックサックを背負ってみます。「100の1万円」では、1万円で買えるもの、1万円で行けるところ、1万円分かせぐのに必要な時間。そんなアイテムが100並んでいます。つまらなそうな経済というものを、楽しく理解してもらえるために、とてもいい企画ですね。
 いつか、全国の幼稚園、保育園で、全国いっせいに、各地で子どものことについてのイベントを行うような企画をしてみたいですね。

あかり

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光る海 光る大空 光る大地 行こう無限の地平線」で始まるのは、「エイトマン」の主題歌です。コマーシャルに使われて、もう一度思い起こしましたね。これを何の宣伝に使ったかというと、光通信です。いまや、光は、明かりをともすだけでなく、情報のやり取りにも使われることになっています。
 日曜日に六本木にあるAXISビル内のAXIS Gallery Annexへ「あかりメッセージ2005」を見に行きました。ビル内では2つの会場に分かれ、学生展とプロ展が行われていました。テーマは「21世紀のAndon(行灯)を考える」というものです。「あかり」のデザインには、いくつかの要素があります。まず、一番わかりやすいのが、照明器具のデザインです。壁にかけるもの、机に置くもの、床に置くものによって、また、居間に置くもの、食堂に置くもの、オフィスに置くものなど、置く場所によってデザインが変わってきます。次のデザインが、「ひかり」のデザインです。どのくらいの照度のものを、どこに当てるかです。それは、まず、器具自体の問題があります。経済的にはすばらしいのですが、私は、蛍光灯の発明が、ある意味で「ひかり」のデザインを無味乾燥にしたように思っています。それに比べて、ろうそくの光は、なんともいえません。(外国では、ろうそくを保育室の装飾や保育に多用します。)この光は、何かを物語っているような気がするからでしょう。物語にもよく登場します。そして、雪がしんしんと降りしきるのは、物悲しい気がするのですが、雪明りはとても明るいです。昔は、それで勉強したというのもうなずけます。しかし、蛍の光では、勉強はできそうにありませんね。(「蛍雪の功」とは言うものの)それから、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」にも出てきた「裸電球」の光です。この「あかり」は、生活感がでています。今月23日の祝日に行った「建築家吉村順三の作品とその世界」(会場: 東京藝術大学大学美術館)では、吉村順三のこんな言葉が書いてありました。
「建築家として、もっともうれしいときは、建築ができ、そこへ人が入って、そこでいい生活がおこなわれているのを見ることである。日暮れどき、一軒の家の前を通ったとき、家の中に明るい灯がついて、一家の楽しそうな生活が感じられるとしたら、それが建築家にとっては、もっともうれしいときなのではあるまいか」
 たぶん、この家の中の明かりは蛍光灯ではない気がします。
 「あかり」の次のデザインは、「ゆらめき」のデザインです。これは、電気では難しいです。星も、自ら光っていない恒星はゆらめきません。「ゆらめき」は、それ自体の燃えている活動だからです。しかし、最近では、電気でその「ゆらめき」を演出できるようになりました。
最後のデザインの要素で大切なのは、「影」です。光で生じる「影」を、どうデザインするかです。これをよく表しているものが、谷崎 潤一郎の「陰翳礼讃」です。この中に、こんな言葉があります。
ひとはあの冷たくも滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くはない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」
 影というよりも、「ひかり」をなくしたときのデザインをかんじる文ですね。

河合継之助

 「読書三到」が表わしているように、江戸時代は朱子学中心でした。朱子は、「只是知を致す」という徹底的に学ぶこと(致知)を唱え、読書三昧です。それに対抗するように言われているのが、「陽明学」です。陽明学とは、中国の明時代に、王陽明がおこした学問で儒教の一派です。心即理、知行合一、致良知の言葉に思想が凝縮されています。「心即理」(しんそくり)とは、人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではないということで、その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はないということです。「知行合一」(ちこうごういつ)とは、論語には、「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」といいますが、王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張しました。朱子学では、万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」という主張なので、これに対立しています。「致良知」(ちりょうち)は、実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である良知を推し進めればよいという主張です。やはり、朱子が「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を発揮して物事の是非を判断するということに対して、「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として物を心の理としてそれを正すことによって知を致す、すなわち「良知を致す」ことであると解釈しています。
 そんなことから、日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた半面、陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、私が先日、広島へ行って聞いたドイツ人の講演で出会った「心の陶冶」鍛えることの大切さを主張した教えです。それゆえ、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かったようです。
 この陽明学に18歳の時に出会い、精神根底にこの思想をもち、それが、後年の悲劇を呼び込んだ人が、明日テレビ放映される「河合継之助」です。私が、この河合継之助を主人公にした、司馬遼太郎の「峠」を読もうとしたきっかけは、「知行合一」という「知って行わないのは、未だ知らないことと同じであること」に共感したからです。以前のブログに書きましたが、「備中松山藩の山田方谷を訪ねる」場面を読んでいるときに偶然に備中「方谷」駅を通過したのです。そして、それが、テレビドラマ化されると知って驚きました。しかし、継之助の行動には幾つかの矛盾があります。時代の流れが読めていたのに、政府軍へ戦いを挑み長岡を戦火にまみれさせ、藩をつぶし、藩主を滅亡させた点などはその際たるものでしょう。長岡市民は彼を恨み怨嗟の声は絶えなかったといいます。「峠」を読みながら、継之助が、この道に進まざるを得なかった心の動きに、なんとも言えず切ない思いをしたものでした。しかし、「「我あって他あり、他あって我あり」の精神は、今の時代、人生の上で、もう一度「陶冶」という概念を含めて、人間としての関係性の構築から、道徳的基本を考え直さなくてはいけない事を教えていることに間違いはないでしょう。

読書三到

 先日の新聞全面広告に、こんな言葉が出ていました。
「口でよく読み、目でよく見、心で理解することを、読書三到といいます。」
 最近は、この言葉は、あまり聞かなくなってきました。読書は、江戸時代以降、活字文化が主役になりました。寺子屋時代は、「読書三到」が国語教育の中心だったようです。読書三到(どくしょさんとう)という意味を広辞苑ではこう書いてあります。
「読書の法は心到・眼到・口到にあるということ。すなわち、本をよむときは心・眼・口をその本に集中して、熟読すれば内容がよくわかることをいう。南宋の朱子が主張した読書の際の三条件。
心到:=心を本に集中させる
眼到=目を本に集中させる
口到=声に出して本をよく読む

『 到 』は徹底的におこなう意。」
『訓学斎規』読書写文学では、こう説いています。
「読書に三到有り。心到・眼到・口到を謂う。心ここに在ざれば、すなわち眼子細を看ず。心眼すでに専一ならざれば、却ってただ漫浪誦読(まんろうしょうどく)し、決して記する能わず。記するも久しきこと能わざるなり。三到の中に、心到最も急なり。心すでに到らば、眼・口あに到らざらんや」(心が集中していなければ、眼もおろそかになり、口誦しても覚えられない、心が集中していさえすれば、眼と口はついていく)とあるように、特に心到が大切であるという考えです。
 しかし、私は、もう一つあると思っています。それは、「耳到」です。いわゆる「読み聞かせ」の大切さです。「耳をよく傾けて本を読む」ことで、内容がより深く理解でき、話の主題により迫ることができると思います。中学校の国語のテストには、最初のほうに長文読解の問題があります。私が中学生の勉強を見ていたときに、その長文を読み聞かせて問題を解かしたところ、自分で読むよりは正解率が上がりました。これは、特にそれほど勉強ができる子たちではなく、普段、あまり本を読まない子だったので、読み聞かせは、とても効果がありました。自分で読むと、まず、文字を読むのに頭を使い、同時に内容を理解していくのは、難しいのでしょう。そのときに、「読み聞かせ」は、必ずしも文字の読めない子にしてあげることではなく、子どもが大きくなってからも、たまには、子どもに本を読んであげてほしいと思うようになりました。大人でも、たまにラジオなどで、「朗読」をする番組がありますが、よく知っている話でも、それを聞いたあとに、もう一度その本を読みたくなることがあります。見て読むのと、聞いて読むのと、違うところが見えてくるのでしょうね。
 また、本の読み聞かせは、内容を子どもたちに伝えるだけではないことをドイツに行って改めて考えさせられました。多国籍の子を多く受け入れている欧米での本の読み聞かせは、「言語教育」の一環ということでした。先生は、正確で明瞭な発音で、口を大きく開けながら読み聞かせをしていました。多国籍の子だけでなく、今の子たちが、初めて他人の言葉に接する園での役割はとても大きいと思います。テレビからの言葉の影響に負けないようにしないといけないですね。

クリスマスといえば

今日は、クリスマスイブです。クリスマスといえば、とても懐かしい、暖かい思い出があります。
 担任している1年生の授業中に、私がみんなに、「明日クリスマスだけど、サンタさんから、みんなは何をもらうのかな?」と聞いたところ、ある子が、「先生は何をもらうの?」と聞いたので、「本当は欲しいけど、先生はもう大人だから、何もくれないと思うよ。」と答えました。次の日の日曜日は、クリスマスでした。私が家にいると、玄関が「ピーン、ポーン」となりました。だれかお客が来たのかと出てみると誰もいません。どうしたのかと思って探してみると、門のところの郵便受けに、担任をしている一人の男の子がしがみついています。「どうしたの?」と聞いてみると、「ぼくが、先生へのクリスマスプレゼントとして来たんだよ。」子どもというものは、発想が豊かで、胸にジーンと来ることを言いますね。
 こんなこともありました。国語の授業で、小沢正の『目をさませトラゴロウ』の「ひとつがふたつ」という教材をやったときのことです。『目をさませトラゴロウ』というのは、「山のたけやぶに、とらがすんでいた。なまえはトラノ・トラゴロウといった。」という書き出しで始まる7つの話が語られます。それぞれの話は、とてもやさしい童話ですが、一貫しているテーマは、やはり、「自己同一性」であり、「子どもの自立性」です。教科書に取り上げられていたのは、その巻頭の「ひとつが ふたつ」でした。この話は、「山の発明家である、きつねが、たるのかたちをした、1つのものを2つにする機械を自慢げに持ち出す。さるは、りんごを、うさぎは、にんじんを2つにふやしてもらうが、トラゴロウには、2つにしてもらうものがない。そこで、自分自身を2つにしてもらおうと、機械のなかに入り込む。そうすれば、1ぴきが竹やぶで昼寝をしているあいだに、もう1ぴきが肉まんじゅうをさがすことができるというわけだ。トラゴロウは、無事2ひきになるけれど、2ひきは、それぞれ、自分がほんとうのトラゴロウだと主張して、たちまち大げんかになる。きつねは、今度は、2つのものを1つにする機械を発明せざるをえなくなるのである。1ぴきだけのトラゴロウにもどったは、はずかしそうにいう。「ほんとうの トラゴロウは ぼくだけだ。(中略)やっぱり ぼくは 一ぴきだけのほうが いいなあ」とつぶやきます。
 この授業のあとで、みんなに「みんななら、何をひとつをふたつにしてもらいたいのかな?その理由も書いて!」ということで、紙に書いてもらいました。それを読んでみると、クラスの大半がふたつにしてもらいたいものが同じものでした。それは、「藤森先生。一人は、職員室で仕事をする先生。もう一人は、ぼくたちと一緒に遊んでくれる先生。」私は、休み時間とか放課後には、いつも職員室で仕事をしていました。忙しそうにしている自分をちょっと反省しました。

田端

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 以前のブログにも書きましたが、鎌倉には、様々な作家をはじめ、文化人が住んでいました。その人たちの資料館「鎌倉文学館」に行きましたが、同様に、北区の田端にも様々な文化人が住んでいたようです。その資料がある、「田端文士村記念館」に行ってきました。田端という駅は、山手線・京浜東北線が乗り入れていて、その両線の分岐する駅ですので、特に朝晩の通勤時間には乗換えをするお客さんの数が多いようです。また、高架には、たまに、新幹線が通るのが見えます。しかし、このあたりは、明治の中頃まで、雑木林や畑の広がる閑静な農村でした。そこに若い芸術家・文士たちが移り住むようになり、“田端文士芸術家村”と呼ばれるコミュニティができあがりました。上野に美術学校(現東京芸術大学)ができると、台地つづきの田端に美術家たち(板谷波山・小杉放庵ら)が住むようになり、美術家どうしの交流が盛んになりました。大正になって、東京帝国大学に通う芥川龍之介が、当時住んでいた新宿では「田舎過ぎる」といって田端に引っ越してきたのです。そして、室生犀星・掘辰雄・菊地寛・野口雨情ら文士やパトロンたちが多く集まり、田端は“文士芸術家村”となりました。今日、行った「田端文士村記念館」には、彼らの作品・遺品の一部、貴重な映像を展示しています。
 その展示のなかで、興味を特に引いたのは、「金の船」(その後、「金の星」と誌名を改称)の編集室が、ここ田端にあったことです。この「金の船」は、斎藤佐次郎が、1918年(大正7年)鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊したのに触発され、出版社キンノツノ社社長横山寿篤と児童雑誌創刊を決意し、島崎藤村、若山牧水、西条八十、有島生馬らの賛同を得、さらに西条八十から野口雨情の紹介を受け、1919年(大正8年)11月、児童雑誌『金の船』を創刊したのです。その後、中山晋平より本居長世の紹介を受け、野口雨情と本居長世による多くの童謡を世に送り出しました。この頃発行されていた「赤い鳥」は北原白秋、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が中心的人物となり、それぞれが覇を競いました。(この3人が、3大詩人と呼ばれています。)「金の船」の中心人物の「野口雨情」は、やはりブログでも書いた「証城寺の狸囃子」の作詞で有名ですが、ほかに『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』などがありますが、いずれも曲がつけられて、広く愛唱されています。
 話は変わりますが、「夕焼け小焼けで 日が暮れて?」の作詞で有名な、「中村雨紅」は、八王子市上恩方町に生まれました。(この「夕焼け小焼け」の詩は、ふるさと恩方の風景を歌ったといわれ、従って、今、八王子市で、夕方になると、市内全域にこの曲が流れます。)この中村雨紅は、詩人・童謡作家ですが、東京府立青山師範学校卒業後、日暮里や厚木で教諭をしながら詩作を続けました。そして、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称したのです。
 どこかで、いつも、何かがつながってきますね。

鳥山

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 今日は、園の「今年の納めの会」で、みんなで、鳥山に行きました。八王子には、「鳥山」という食べるところが何件かあります。「うかい鳥山」「ひな鳥山」「鎌田鳥山」などです。この鳥山という呼び方は、全国にあるかわかりませんが、もともとは、野鳥を食べさせるところでした。市内には、丘陵があり、そこで、「カスミ網」を使って、野鳥を捕っていました。秋から冬にかけて、シロハラやツグミなどが日本に渡ってきます。それを一網打尽にしてしまうのが「カスミ網」です。この罠は、細い糸(近年ではテグス等)で作られた網を空中に渡し、そこに飛んできた野鳥を捕らえる物です。現在、カスミ網はそれを所持することも販売することも禁止されていますが、今でも観賞用(メジロなど)や食用(ツグミ・スズメなど)といった野鳥の需要は高く、かすみ網を用いた密猟は後を絶たないようです。特にツグミという鳥が食用にされたのは、名前は、女の子の名前のようでかわいい感じがするのですが、体型はやや丸型です。特に、日本に渡ってきた直後と、春の渡りの直前は、脂肪をたっぷりと蓄えていて、おいしかったそうなので、狙われたようです。
もちろん、鳥山で食べさせてくれるのは、今は野鳥ではなく、ほとんどが鶏肉です。鶏は太古から我々にとって身近な存在だったようです。古墳の副葬物として鶏を形取った埴輪が出土されていることや「万葉集」に東の枕詞として「鶏が鳴く」があることからも、鶏が当時の人々に親しまれていたことが解ります。古事記での天照大神を呼び戻すために「常世の長鳴鳥」として鶏が登場しているように、刻を告げる役割が中心だったようですが、食用にもされていたようです。しかし、天武天皇のときに、牛・馬・犬・猿・鶏の食用禁止令が出され、家畜は食べてはならないということになりました。その頃から、近世に至るまで食用の鳥と言えば、キジや水鳥などの野鳥に限られていました。しかし、信長・秀吉の頃となるとヨーロッパの宣教師や商人の影響により、鶏肉が日本人の食卓に並ぶようになり、肉の禁止令は出ていましたが、江戸時代になると幕府や諸藩によって奨励され、鶏の飼育が広まりました。幕末になると肉食はポピュラーとなり、坂本龍馬がシャモ鍋を好んで食べていたことは有名な話です。明治以降は、肉食の禁令が解かれましたが、今と違って、「番頭さんは牛肉料理で旦那さんは鶏料理」といわれるほど鳥料理は、昭和中期、食肉用ブロイラーが台頭するまで高級食材だったようです。主な食べ方は、国によって違うようです。例えばドイツやスイスの北ヨーロッパ、中近東、中南米などは丸焼きや半割、または四つ割の骨付きのあぶり焼きにして食べる習慣があり、一方イギリスや南ヨーロッパでは骨付きの煮込み料理が多く、アメリカはケンタッキーフライドチキンに代表される様にフライドチキンが主な調理法であるようです。日本は、手羽先や手羽元は別にしても、正肉(骨なし肉)で売っているのがあたり前で、丸鶏を売っているのはあまり見かけません。鶏肉を細かく切って骨なしで食べるというのは古来日本独特の食べ方だったそうで、これは、正肉というのは、料理のバリエーションを豊富にし、器用な日本人らしい特徴のようです。