子は宝

 今日は、来週行われる「お楽しみ会」の第1回予行練習でした。その練習を見ていて、無性に子どもがかわいく思います。予行といっても、きちんとするのは、今日は初めてという感じですし、少し高くなった舞台に乗って、ライトを浴びて歌や踊りやせりふを言う姿は、嬉しそうでもあり、また、少し緊張しているようでもあり、なかなか普段の保育の中では見ることのできない子どもの成長をかんじます。本当に、子どもってかわいいですね。そんなときに、昨日のブログで書いた山上億良のもう一つの歌を思い出します。
『瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ
何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ』

<瓜を食べれば、子どものことが思われる。また、栗を食べれば、ますます子どものことが気にかかってくる。いったい、子どもというものは、どこから来たものだろうか。しきりと目の前にちらついていて、私は、おちおち眠ることができない。>
 この歌は、今でいう単身赴任で家族と離れているときの歌ですが、何かおいしいものを一人で口にするとき、こんなものを自分の愛している子どもにも食べさせてやりたいと思う心は、今も変わることのないものです。何をしても、何を見ても、つい子どものことを思い出してしまうのです。それは、子どもがどんなに大きくなっても、それなりに感じます。小さい子を見れば、わが子が小さかった頃を思い出し、わが子と同じ年代の若者を見ると、思い出します。憶良も、「何処より…」というあたりは、寄る寝床についてからの思いでしょうが、四六時中、子どものことを忘れることができなかったようです。思い出して、なかなか寝れないようです。単身赴任は、いつから始まったのかはわかりませんが、また、今は日本だけしかないようにも言われていますが、私は、昔、狩猟生活をしているときは、みんな単身赴任だったような気がします。猟にしても、漁にしても、数日間は、母子と離れて獲物を取りに行ったような気がします。その時にも、たぶん家で待っている子どものことを思って、その子に獲物を食べさせようと思っていたに違いありません。
また、この歌の反歌として詠まれた歌があります。
『反歌 銀も金も玉も何せむに勝れる宝 子にしかめやも』
<銀だとか黄金だとか、珠だとか、そういったものは自分にとって何の魅力もない。いろいろとすぐれている宝も、子どもに及ぶものか。及びはしないのだ。>
 彼は、かなり貧しかったようで、黄金に対する憧れは人一倍あったはずですが、それでもなお、子どもへの愛情の前には、それを蹴散らしているのです。本当に、どんなものよりもまして、子どもは宝ですね、と無条件に思う人が少なくなってきているのでしょうか。

子は宝” への6件のコメント

  1. 子を思う心にいろんな都合が入り込んできてしまっているのが現状かもしれません。無条件で子を思う気持ちを表現するのではなく、「いろいろあるんだよ、いろいろ」と無条件ではないケースに出会います。せめて思いだけは無条件であってもイイと思うんですが。個人からは少し離れますが、社会全体としてももっと子や孫の世代、100年先くらいまでを見据えた行動が求められていると思うんですが、「今」しか見えていないようなことが多いですね。残念です。と言っている自分の見据えている先もちょっと怪しいですが。

  2. お金が回っていることが元気であり、お金が回っていないと元気がない印象を受けたり、欲しい商品を手に入れたりすることが幸せであったり…そのようなことが正しいことであると思い込んでいる部分もあるのかもしれません。目の前にある幸せにはなかなか気がつかないな…と反省することも多いです。病気をした時に、健康であることを思い浮かべて、そのありがたさに気がつく時があります。意識を少しだけでも内側へ向けることができると幸せという形も見えてくるのかもしれません。少しブログの内容とは違いますが、そんなことを思いました。

  3. 関係がないのかもしれませんが、数年前に両親と口論している中「いつまでも子ども扱いするな」と私が言うと、「親にとってみれば“子ども”はいつまでも“子ども”なんだよ」と父に言われたことを思い出しました。色々な思いが駆け巡りましたが、確かに…と妙に納得してしまった記憶があります。子どもとは、常に思っているし、信じているけども、いつまでも心配するといった存在であるのですね。私も、親や社会が子どものことを第一に考えていることを世間が認めてくれる世の中になることを願っています。

  4. k.takaさんのお父上が言われた「親にとってみれば“子ども”はいつまでも“子ども”なんだよ」、は本当にその通りで、・・・まぁ、私の息子は「いつまでも子ども扱いするな」ということはおそらく私に向かって言わない、と思いますが、何だか言ってもらいたいな、と思いました。もし言われたら、「親にとってみれば“子ども”はいつまでも“子ども”なんだよ」と言えますからね。格好いいですね。さて、私は子どもが一人しかいません。40歳になってはじめて授かった子なので、かわいくて仕方がありません。よって、10日間以上離れて暮らした経験を持たないですね。山上憶良が歌った親の心境に至らずに済んでいます。今日も息子の求めに応じて出かけました。息子と一緒に出掛けられるのもそろそろ終わりになる頃を息子が迎えています。寂しいですね。そして、やがて20歳とかなって、「子ども扱いするな!」と言われてみたい、そして「子どもはいつでも子どもなんだよ!」とわが子の成長を目に涙を浮かべながら喜びたいものです。まことに「子は宝」なんですよ、k.takaさん。

  5. コメントの原文を書いていたのは熊本空港へ向かうバスの中だったのですが、外の景色とあいまって、何だか目頭が熱くなってしまいました。子どもを想う気持ちと、子どもに申し訳ないことをした気持ちが合わさるようでした。反省するのはもうここでお終いにして、より良い父親に、夫になろうと思う次第です。
    子は宝とは本当ですね。僕の両親も、祖母も、妻の両親も、親戚の方々も全ての人が、息子を可愛がってくれています。妻が何より息子を愛しています。毎日可愛くてたまらないといった妻の姿を見ます。幸せな気持ちになります。
    学生時代に「保育士は子どもが可愛いいだけではやっていけない仕事」と、教わったことがあります。その先生は、子どもを可愛がる以外にもたくさん仕事があるというような意味で仰ったのでしょうが、今になってみても共感できないのは、保育士は子どもが可愛いという気持ちが根本に必ずあることが求められる仕事でないかと思うからです。本当に子どものことが可愛くて仕方なければ、やっていける仕事だと思うからです。
    子は宝という思いを思い出すべき保育士も少なくないかと思います。本当に子どもは宝であると思います。

  6. 子どもは宝。本当にそう思います。ちょうど今、娘が僕の腕の中で眠りました。寝たばかりで、まだ動かさないので、このままコメントを入れさせて頂きます。
    単身赴任は経験したことがなく、これからもないとは思うのですが、離れた場所へ行くとなると、妻や娘のことを山上億良の歌のように、何をしていても思い出すと思います。日々の成長には本当に感動します。これから、娘が大きくなり成人を迎え、家族を持ち…、と想像すると嬉しいような寂しい気持ちになります。親にとってみれば“子ども”はいつまでも“子ども”というのは、そうかもしれませんね。娘がうまれてからも親には何度も助けてもらっています。
    保育園でも卒園した子のことを考えると、親のような気持ちになることがあります。
    今の子ども達のためになにができるか、常に考えていきたいと思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です