変える努力

 人は、いろいろなものに対して、刷り込みを持っています。対象物の本質を見ようとしないで、刷り込まれた色めがねを通してみることが多くあります。その刷り込みのひとつに、年齢のよる刷り込みがあります。これは、日本では、特に強い気がします。物事の習熟は、加齢によって深まっていくと思われています。そのために、年功序列という独特の社会構造が形成されます。年齢が高くなると、物事に、熟練してくると思うからです。確かにそういう部分もあります。保育者が、年齢が高くなるほど保育に熟練してくるということは、いえると思います。というのは、私は、経験量が増すために、子どもを見る目が深くなると思うからです。それなのに、どうも、経験量が増すと、保育技術が増してくるとか、手馴れてくるとか、扱いが上手になることが、保育に熟練してくると思われていることがあります。そうなると、困ることがあります。その熟練してくる価値を失いたくないために、変化、改革をすることに抵抗します。また、その職業が長くなるにつれて、本来は、視野が広くなっていくのですが、実際は、その職業を通して物事を見ることが多くなるので、視野が狭くなってくることのほうが多い気がします。私は、年齢が増すにつれて、子どもを見る目が深くなり、子どもの変化、子どもの姿を見る目が本質を捉えるようになって欲しいと思います。そうであれば、今の子どもの置かれている環境の変化、子どもの様子の変化を見、そのなかで子どもを守るためにどうすればよいか考え、改革をしていかなければならない必要性を感じるはずです。
 先日の朝日新聞の「私の視点」にマレーシアの元首相であるマハティール・モハマド氏が、「イスラム社会 逆行が苦境をもたらした」というタイトルで投稿していました。そこには、今、対立が激しくなっているイスラム社会に対しての考えが書かれていました。
かつてイスラム教徒たちは見識をつんだがゆえに力があった。―略― 偉大なギリシャの科学者や数学者、哲学者たちの著書を読んだ。ペルシャ人やインド人、中国人たちの著書からも学んだのである。―略― ところが、イスラムの有識者たちは15世紀ごろから、科学的な研究を抑制し始めた。―略― そうした視野の狭さが、今日のイスラム教徒を苦境に導いたのである。コーランは、「私たちが変える努力をしなければ、アラーは私たちの不幸な状況を変えない。」と諭す。―略― 私たちイスラム教徒は自己を省みて、自ら変わらなければならない。アラーは、悔い改めるものを救うのだ。」
 変化を見、改革をしていこうとすることをせず、改革を阻止しようとする年配の保育者は、加齢していくことは、その職種への習熟がマイナスになっていっているのではないだろうかと思うことがあります。ぜひ、率先して、子どものための行動をして欲しいと思います。

変える努力” への7件のコメント

  1. いつも純金のような貴重な言葉を有難うございます。
    変わることで何かがなくなると思っていると、そのうちに大事なものも全部なくなっているってこと、私は小さい頃にたくさんそんな体験をしました。藤森先生の仰る通り、世界観や歴史観などからも目の前の出来事の深さを学ぶことができるのに技術がついたからとわかったつもりになるというのは本当に残念なことですね。知らないうちに身の回りから刷り込まれているんですね。先生といわれる人たちが物事の本質を見て、その時の経過から深く多様な真実を洞察していけばきっと世の中もっと良くなっていくと思いました。

  2. 年数を経て習熟していくことで変化を嫌うようになるケースを何度も見てきました。なぜそうなってしまうのか、考え続けて必要な変化は積極的に行っていくべきなのにと、いつも思っています。でも逆に自分が今後年数を重ねていったとき同じようなことを思っていられるか、そのことが少し不安になることもあります。子どものことに関しては常に率先して必要な行動を起こせるような、そんな自分でありたいと思っています。

  3. 子ども達の現状を把握し、必要であれば変化、改革をしていく姿勢は常に思っていたいと思います。ただ、変えたい、変わったことがやりたいではなく、子どもの現状をしっかり把握した上での変化、改革なのかという視点を持つことが私に足りない部分なので、丁寧に意識していきたいと思います。どうしても「やりたい!楽しそう!」だけで動いてしまうことがあります。そんなおもいきりも時には必要なのかもしれませんが、そればかりしているようではダメですね。もうそろそろ、地に足をつけていきたいとここ最近はずっと思っています。

  4. 経験年数を増していくごとに、保育の変化に臆病になり、視野が狭くなっていってしまうという流れには、自分の価値を下げたくない、これまでの経験を捨てたくない、といった思いが大きいのですね。確かに、年ごとに新人が入ってきて、自分の存在価値を示すことができる位置というのは確保したいという気持ちは分かります。これまで積み上げてきたものが、一気に崩れるとなると不安でしょうね。正直、私もその感覚に陥ったことがあります。しかし、その度に「この小さなプライドが成長を妨げる」と自分に言い聞かせてきました。そして、その変なプライドが「子どもにどう影響しているか」というところを大切にしなければなりませんね。日々成長し、変化していく子どもと共にいるならば、大人にも、変化や改革が必要になりますね。

  5. 今回のブログに引用されている、マハティール氏の見解は100%同感です。そしてイスラム教徒としての同氏の自省、すなわち省我、に私は賞賛の拍手を送ると共に、イスラム教という教えの崇高さに改めて敬服の念を覚えるのです。特に引用されているコーランの一節「私たちイスラム教徒は自己を省みて、自ら変わらなければならない。アラーは、悔い改めるものを救うのだ。」には心から感動しました。イスラム教徒でなくても、この精神は持ち続けたいものです。子どもは興味関心好奇心そして探求心の純粋な塊です。保育者と言われる人々は年々歳々このことを振り返って、経験年数が何年であろう、変えてはならない子ども観としてこのことを保持し続けることこそが肝要でしょう。真の保育者とは、自分自身を物事の判断基準とするのではなく、目の前にいる子ども存在の十分な理解によって、臨機応変に思考し行動できる人、だと思うのです。

  6. 自慢できることではないのですが、複数の保育園に勤めた経験があります。その中で、経験年数や勤続年数にあぐらをかいた保育士を多く見てきました。その多くは、新しいアイディアも保育にかける情熱もほとんどない割に口が達者で、若い職員の弱点によく気がつき、重箱の隅をつつくのが得意な人が多かったように思います。子どもに対しての見方が悲観的であったり、すぐに感情的になったりすることも特徴として挙げられるかと思います。
    世の中のベテラン保育士が、新宿せいが保育園の先生のようだったらどんなに素晴らしいだろうと思います。ベテラン保育士の怠慢に悩まされる保育園が多い中で、日本の保育の最前線をしっかりと走っておられると思います。そして後輩を信じて、育てて下さいます。人それぞれに役割があることを理解して、接して下さいます。
    本当に感謝しています。熊本は城山保育園の研修を終えたバスの中で今このコメントを書いていますが、明日からまた新宿せいが保育園に行くのが楽しみで仕方ありません。そんな毎日を日本の保育士が過ごすことが、直接的に子ども達の幸せな毎日につながるように思います。

  7. 今回のブログを読み、少し焦りというか、自分に足りない部分であると思いました。私は去年もこうだったからと、あまり変えず変化が苦手な方です。視野が狭くなっていたかもしれません。
    先輩に、色々な変化を積極的に行う方がいます。その方は、とても楽しそうに提案をし、環境や流れを考えてくれます。子どものため!とすぐに行動する姿がとてもかっこよくて尊敬してします。その先輩のように、常に子どもたちのためとすぐに行動でき、必要であれば変化をもたらす、そんな保育士でありたいです。

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