父親の背中

 昨日の映画には、子どもの遊び場として、路地が出てきました。小学生のころ、私も、学校まで、路地伝いに行ったことがあります。家と家の間にある隙間、車が通ることができないほど細い路地、道に植木をたくさん置いてある路地、やっと車が通れる路地とあります。下町は、ほとんどが問屋なので、日曜日に休みの店がほとんどでした。したがって、近くに広い公園など遊び場がないために、その路地や神社の境内が子どもの遊び場であり、人々の出会う場所でした。(たぶん日本で初めて歩行者天国が行われたと思います。道の端には、車止めが日曜日には置かれました。)そんな路地で育った私は、父親の育児参加が言われはじめたころ、新聞が、「父親の育児」というテーマで、原稿を募集しました。そこで、私が、地域の保育展のチラシのリードに書いた詩を投稿したところ、採用され、紹介されました。
お父さんの背中って なんだか 路地裏の感じがする
なぜって 路地裏って 懐かしいような 甘酸っぱいような香りがする
表にあるような 派手さはないけれど 力強さや生活力がある
陽は当たらなくても 陽だまりのように とってもあったかい気がする
そして 子どもの世界を じゃましないで だけど しっかり守ってくれる
僕たちは きっと 路地裏で大きくなったんだ 
路地裏でいろんなことを覚えたんだ
お父さんの背中って やっぱり 路地裏だ

 わたしは、「父性」と「母性」はあると思います。もちろん、この役割分担は、具体的な「父親」と母親」の役割ということではありませんし、生まれついての本能というつもりはありません。ただ、子どもを育てる上で、大きく二つの要素があると思います。しかし、どうも、最近は、家庭に母性的なかかわりが強すぎたり、父性的なかかわりだけであったりすることが問題のような気がします。たとえば、「教育」という漢字も、「教」の字は、子どもを鞭打つように人間の長い一生を洞察した上で、しつけなどを中心に厳しくものを習わせることで、きわめて厳しい意味を持つ字であり、それに対して、「育」の字は、生まれた赤ちゃんを母が慈愛を持って育てることを意味し、今日の厳しさに対して、母親のような暖かい心で教え諭し、受容することをいうそうです。教育には、その二つの観点が必要ということです。同様に育児でも、アメリカでは、「受け入れる育児」と「突き放す育児」の両方が必要といわれています。私は、「受け入れる育児」と「見守る育児」が必要だと思います。特に、今は、幼児期以降に対しての「見守る」という観点、路地裏というような環境からの子どもの支えが必要な気がします。

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