鯨とサケ

 今日は、三陸海岸沿いの岩手県山田町に来ています。この地区では、18世紀の中頃に、網を使用したイルカ漁が大浦という地区で始まりました。これは湾に入ってきたイルカを追い込み、網で捕獲する「追込網」という漁法で、大正時代まで約200年の間続けられました。大正2年には、2000?3000頭という大量のイルカがとれたと伝えられています。他にも、山田町では、オットセイ猟、トド猟も行われていました。オットセイは毛皮や食用として、トドは食用にされていました。 そして、昭和24年に農林大臣から大型捕鯨の許可を得て、捕鯨が始まり、規制により商業捕鯨が禁止になった昭和62年まで続きました。
 なんだか、イルカ漁やオットセイ猟があったと聞くと、かわいそうにと思います。今、捕鯨も、日本のほかの地域でも世界から反対を受けています。しかし、同じ山田町で盛んな「サケ漁」は何も言いません。どこがちがうのでしょうか。まず、その種が絶滅に近い貴重な種ということがあるでしょう。また、見た感じが、かわいい姿をしているということがあるでしょう。またある人は、知恵がある動物は、殺すときに悲しい思いをさせるからいけないのだという人もあります。しかし、もともとは、その地方における食料として捕獲していて、生きるためだったことが多くあります。たとえば、「エスキモー」の語源は、東カナダに住むクリー族の「生肉を食べる者」を意味する語から来ているとされています。そのため、1970年代ごろからカナダでは「エスキモー」は差別用語とされ、「人々」を意味する彼らの言葉「イヌイット」を代わりに使用するようになりました。日本のマスコミ、出版界でも「エスキモー」は差別用語であり「イヌイット」に置き換えられるべきとされています。しかし、私は、生肉を食べるということが、何で差別化はよくわかりません。生肉を食べるということは、決して残酷なことではなく、その民族の文化だと思います。「食」は文化なのです。日本でも、アイヌが肉を食べるという狩猟民族であるということで、残酷な民族といわれてきましたが、熊など生き物に対して、きちんと敬意を払い、大切にしています。それに引き換え、去年、北海道に行って、とてもショックだったことがありました。川を遡上するサケを、川で取ると密漁になるので、海から川になる手前でサケを釣っていました。次から次へ釣れるサケを、イクラがないオスと見ると、放り出し、メスの場合は頭をたたいて殺し、おなかからいくらだけを出して、あとは、その場に足で蹴り上げ捨てているのです。川岸は、サケのオスの死体と、腹を割かれたメスの死体で埋め尽くされていました。それを見たときに、鯨がいけなくて、サケならいいとはいえませんでした。もちろん、今は、鯨のように他の食べ物で代用できるようなもので、しかも貴重種はできるだけ守ったほうがいいと思いますが、だからといって、そのほかは、無用に殺してもいいということはないと思います。

鯨とサケ” への7件のコメント

  1. 臥竜塾は、いつも楽しみに開いています。イヌイットが食べてきた生食には栄養学的に理由があるそうで、今年のNHK高校社会科のテレビでその映像が流れていました。寒い地方はビタミンやミネラルが不足するので動物の血はそれを補うための智恵と文化であるという説明がされていました。伝統的な食文化には、文明人が再発見しなければならない智恵が隠れていることが多いような気がしますね。このグログは自分の考えをまとめていくための貴重な機会です。ありがとうございます。

  2. 数が少なくなった種は保護する必要もあるのかもしれません。しかし、随分勝手だなと思うこともあります。ブラックバスの駆除のように外来種を駆除する取り組みをよく聞きます。なんだかあれには違和感があります。私たちの周りにいる鯉だってもとは外来種だったりします。捕鯨もクジラの数の調整であるといった意見を聞いたことがあります。何がよくて、何がいけないのか、どうあるべきなのかは分かりませんが、どんな生き物であれ、簡単に無惨に殺されている姿を見るのは辛くなります。ちょうど、今、読んでいる本が「魚は痛みを感じるのか?」というものです。痛みを感じるからダメとか、痛みを感じないからイイといった単純なものでもありませんね。

  3. 命に敬意を払っているかが、大切である気がします。狩猟や漁業などでも、人の価値観が混ざってくると何が正しいのかがわかりにくいですね。いけないものを獲って、「生きるためです」と本気で言われたら言葉に詰まってしまいます。しかし、一つの命を犠牲にしている感覚は忘れてはいけませんね。以前、ある方が食事の前に、目をつむって手を合わせ、小さい声でモニョモニョと言葉を発している姿を見たことがあります。たくさんの命の犠牲があって、自分が生かされていることに感謝を伝えていたのだと勝手に推測しています。「食は文化」。食事を否定することは、そこの文化を否定してしまということなのですね。

  4. これはいつも感じることですが、その地で生きるために長い時間をかけて考えられてきた食文化に対して、他の地の価値基準を強引に当てはめていいか悪いかの判断をすることは全く意味のない行為だと思います。各地に様々な文化があり、それらがさらに豊かになるように、そして互いの文化を尊重して交流することが本当の意味での国際交流だと思います。文化を破壊することは簡単ですが、作り直すのはとてつもない時間と労力がかかることも知っておかなければいけないと思います。

  5. 今回のブログの八年後の同日が、残念ながら、津波被災2年8か月目となります。8年前、私が岩手山田町の保育園園長をしている時、藤森先生に二度お越し頂きました。そのうちの一回の時のことをきっかけに今回のブログがものされていることに感動と恐縮を覚えます。先日もあることをきっかけに、私が子ども、時分、イルカやクジラの肉を食べていた、というお話をしました。もの心ついた頃はもう食べなくなっていたイクラもおそらく食していたのだろうと思います。そうした意味で私は今回のブログで紹介されている「エスキモー」or「イヌイット」と対して変わらぬ食生活をしていたのでしょう。そうそう、私の実家にはオットセイの皮でこしらえたソファ掛けがありました。やはり、子どもの頃、その皮の臭いをかいでいたことを今思い出しました。津波被災後も故郷の今日は、サケ漁の出来不出来が大問題です。その意味では、藤森先生が訪れた8年前と同じです。クジラの肉もシャチやイルカの肉も食卓に上らなくなった故郷の食風景です。さみしいような、良かったような、そんな複雑な気持ちの今日この頃です。

  6. 捕鯨を反対する人達の中に「私はベジタリアンである」と主張する人がいたという話を聞いたことがあります。野菜なら命を奪ってもいいのかと思ったことを思い出します。
    藤森先生の仰る通り、食は文化であると思います。そして人間である以上、何かを口にせずに生きていくことは殆どできないと思います。生きることは食べることであり、その食べ物を自分達で文化として築き上げてきたことを、誰に否定する権利があるのでしょうか。
    宗教間の争いにとてもよく似ていると思います。自分の信仰するものを一番だと思うことは結構ですが、自分と価値観の合わない相手を傷つけるようなことはしないでほしいです。それが自分の信仰するものを結果的に傷つけてしまうことになることに気付いてほしいです。

  7. この動物を食べるのはかわいそうと思い、その他はそうは思わない。人間の勝手で動物が無用に殺されてしまうのは、心が痛いですね。いただきます。この言葉の重みを改めて感じました。感謝を込めて敬意を払い大切にする心があるからこそ、初めて食べ物として食べられるのでしょうね。生きるために当たり前の行動ですが、その当たり前の心をを忘れてしまわないように、心がけて行きたいと思います。

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