« 算額 | メイン | 鯨とサケ »

2005年11月10日 講演先にて

高野長英

高野長英.jpg
今日は、岩手県水沢市にいます。この水沢市には、水沢三偉人と呼ばれている水沢市出身の高野長英、後藤新平、斎藤實の記念館、碑、居住宅などがあります。以前、この水沢市に来たときに時間があったので、高野長英記念館に行ってみました。なぜかというと、私が小学生のころに、衝撃的な印象があるからです。「写真で見る歴史」というような本を買ったことがありました。そこには、いろいろな写真とともに歴史が書いてありました。そのなかの1枚の写真が衝撃的だったのです。それは、写真というよりも、絵の写真です。それは、自分の顔を塩酸で焼いて、人相を変えようとしている絵でした。必死に生きよう、自分の理念を貫こうとするあまりに、猛烈な痛さにも耐えて、自分の顔に塩酸をつけて、苦痛にゆがんだ顔をしている絵なのです。それが、「高野長英」でした。彼は、1804年水沢で生まれ、世界に目を向け日本の夜明けのため生涯を捧げたのです。記念館は、水沢公園の東側一角にありました。もう一度、忘れかけていた彼の生涯を思い出しました。そこに高野長英という紙芝居がありましたので、絵はありませんが、ちょっと長いのですが、文だけでも掲載してみます。今を生きる勇気がわきます。(高野長英記念館・紙芝居より)
1、江戸時代は、外国との往来が、禁止されていました。長崎の出島が、世界に開かれたたった一つの窓口でした。この出島に、1823年、シーボルトがやってきました。シーボルトの噂を聞いた人々が、日本の各地から、長崎にやってきました。この物語の主人公、高野長英も、シーボルトから医学と蘭学を学んだ一人でした。
2、やがて、江戸にもどった長英は、医者になり、蘭学の塾も開きました。そして、渡辺崋山と出会い、「尚歯会」に参加しました。尚歯会には、武士や医者の他に、お坊さんや町人まで、身分の違う多くの人々が集まっていました。
3、さて、オランダから幕府にとどいた情報によると、イギリスの船が、近々、日本にやってくるそうだ。漂流民を日本に送る理由だが、通商を求めてくるとの噂もあった。幕府は、外国船打払い令を盾に、この船を追い払うことに決めた。世界の様子を勉強していた尚歯会の人々は、これを聞いてびっくりしました。
4、「漂流した者たちを、親切に、送り届けるというのに、大砲を打ち込むとは、何ということだ。そんなことをしたら、どんな災難が日本にふりかかるか分かったものではない。そうだ、世界の様子を知らせる本を書こう。幕府の取り決めが間違いであることを知ってもらおう。」と長英は考え、夢物語を書きました。
5、ところが、目付け、鳥居耀蔵は、無人島に渡ろうとしたという罪をでっちあげ、渡辺崋山や高野長英を訴えました。もともと、鳥居耀蔵は、西洋を研究する蘭学者をきらっていた。この機会に、「蘭学を広める者どもを手痛い目にあわせ、ねだやしにしてやろう。」と考えたのでした。
6、こうして、夢物語を書いた長英は、「幕府の政治を批判し人々を惑わした」という罪に問われ、今でいう無期懲役にあたる永牢を言い渡されました。長英は、牢屋から無実を訴え続けますが、許されませんでした。
7、そして6年が過ぎたある夜のこと。牢屋が火事になり、長英は牢から解き放されました。3日の間に戻れば、罪が軽くなる定めでしたが、長英は、ついに戻らなかったのです。
8、故郷では、母が長英の身を案じていました。このとき、母は前沢の茂木家に身を寄せ、水沢の高野家には孫に当たる能恵がひとり残されていました。
9、江戸から逃亡した長英は、密かに故郷を訪ねました。6年ぶりの親子の再会ですが、落ち着いて話をする暇はありません。長英は、母の幸せを祈りつつ、早々に旅立たなければなりませんでした。
10、母との再会を果たした長英は、門人や学者の仲間に助けられ、幕府の追及を逃れて旅を続けました。
11、危険な旅を続けながらも、長英は、病気に苦しむ人をいつも忘れませんでした。病人の治療や薬をつくったりもしました。
12、四国に逃れていたある日、長英は名高い金比羅神社に参拝しました。ここで、長英は、「アジアの第一人者になる」と誓います。そして、幕府の目を逃れ、広島、大坂、名古屋と旅を続けました。
13、江戸に戻る決心をした長英は、顔を薬で焼き、人相を変えます。
14、顔を変え、名前も沢三伯と改めた長英は、大胆にも、江戸で病院を開き、蘭学の勉強を続けます。
15、しかし、ここにも蘭学を弾圧する幕府の手は伸びてきました。10月30日、遂に、長英の家に、奉行所の捕りかたが踏込みました。長英は思わず、短刀に手をのばし、後ろから襲い掛かる捕り方に切りつけました。しかし、抵抗むなしく、長英は、のどをついて覚悟の自殺をします。長英46才の最後でした。
16、長英の友人、江川英龍は、夜明けの富士山を描き、「里は、まだ、夜深し、富士の朝ぼらけ」との言葉を書き添えました。しかし、日本の人々は、いつまでも目を塞がれてはいませんでした。高野長英や渡辺崋山などの尊い努力によって、日本の夜明けは、もうそこまで近づいていたのです。(完)

投稿者 fujimori : 2005年11月10日 21:47

コメント

藤森先生のおかげで、岩手保育界の夜明けは近づいたと
確信します。日本の夜明けもやっと近づいたと思います。
勇気の湧き出るお話、ありがとうございました。
ちなみに、水沢三偉人の一人の後藤新平先生が今の
東京の原型を築き上げました。東京はいい町です。

投稿者 toshi123 : 2005年11月10日 22:41

 はじめまして、私もシーボルトに興味を持っています。

高野長英も悲劇的な最後でしたが、優秀な方でした。

シーボルトの残した資料やコレクションはとても貴重で詳細にまとめられていますよね。川原慶賀の描写力もさすがです。

私も今回ブログでシーボルトについて記事にしました、よかったらいらして下さいね~ではまた!

投稿者 ルーシー : 2006年09月23日 11:16

コメントしてください




保存しますか?