木更津

木更津.jpg
 今日は、市原市の近くの木更津を歩いてみました。木更津というと、今は、東京湾アクアラインの一方の出口で有名ですが、この地には、さまざまな遺跡や、伝説、歴史があります。太田山公園にある、木更津市立金鈴塚遺物保存館に行ってみました。そこには、東を代表する前方後円墳・金鈴塚古墳出土品が展示されています。特に、古墳名称の由来となった金の鈴は、今でも光り輝いていました。また、そこで、ちょうど「野焼き」をしていました。土器などを、釜で焼かないで、平地で、焼くやり方です。縄文土器などは、そのように焼く方法もあったようです。私が、子ども会(以前のブログで、地域を知る運動会をした子ども会を書きました。)の活動のなかで、テーマを「作る」とした年、地域を流れる川に行って、滑床という土を取ってきて、砕いて、粘土にしました。次の活動日に、それを使って、みんなで縄文式土器を作ったのです。(本当は、半分以上瀬戸の土を混ぜました。)そして、次の活動のときに、公園で、「野焼き」をしたのです。(実際は、全部割れてしまいましたが。)これらの活動を通して、この地域の人が、昔、どのように土器を作ったかを体験したのです。
話を元に戻して、この太田山公園には、千葉県立上総(かずさ)博物館と、のほか、「きみさらずタワー」という展望台が建っています。この展望台の塔の上には、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)と、オトタチバナヒメ(弟橘姫)のブロンズ像が建っています。
遥か昔の古墳時代、ヤマトタケルノミコトがヤマトの国(日本)の統一を考えて、東の国に住む異民族と戦うために、大勢の家来と奥さんのオトタチバナヒメを連れて、三浦半島から房総半島へ舟で渡ろうとしました。穏やかな東京湾でしたが、しばらくしてもの凄い嵐がやってきて海は大しけとなりまた。ミコトたちを乗せた舟はまるで一枚の葉っぱの様に大波に弄ばれました。この頃の言い伝えでは、舟に女性が乗り込むと何か航海に良くない事が起こる、と言われていました。責任を感じたヒメは、その海の荒れを抑えるために、自分を犠牲にしようと考え、海に飛び込びました。しばらくすると荒れていた天候が嘘のようにおさまり、舟は何事もなかったかの様に対岸の房総半島に到着しました。さてこれから「いくさ」へ、という時でしたがミコトは、自分が愛していた優しいヒメの事が忘れられず、「君去らず 袖しが浦にたつ波の その面影を 見るぞ悲しき」という歌を詠み,しばらくショックでこの土地を離れる事が出来ませんでした。昔は地位のある偉い人の事を「君(キミ)」と呼び、「君不去(キミサラヅ)」という言葉が訛って「木更津(キサラヅ)」となった、と言われています。今からおよそ1700年ぐらい前、日本各地で大きな古墳が造られていた頃の話です。
 また、それから7日の後にオトタチバナヒメの櫛(くし)が海辺に流れ着いたので、その櫛を取って墓を作り、おさめたのが、富津市吉野の吾妻(あづま)神社であり、流れ着いたオトタチバナヒメの袖(そで)を納めて建立(こんりゅう)したのが、木更津市にあるあずま(吾妻)神社です。また、ヒメの着物の袖(そで)が流れ着いたので、周辺の海辺を、袖ケ浦(そでがうら)と呼んでいます。そして、オトタチバナヒメが海上に布を流して身を投じたので、その付近は「布流津(ふるつ)」といわれ、「ふるつ」がつまって「ふっつ」になったそうです。富津の地名の由来です。このあたりの地名が、ぐっと身近に感じられます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">