
今日は、福岡県古賀市に来ています。古賀市は、位置的には、あの金印が出土した志賀島の近くにあります。私が、初めて博多に来たとき、講演の時間までに、昼食を食べる時間があったのを、昼食を抜きにして、どうしても見たかった「金印」を、福岡市博物館まで急いで見に行き、汗びっしょりで会場に着いた途端に、講演をした思い出があります。
金印は、どの教科書にも出てきます。学校で習う「金印」は、「江戸時代に2人の農民が、志賀島の田んぼで偶然に金印を発見しました。」ということになっています。そして、この金印は地主に渡され、福岡の画商に持ち込まれ、画商は儒学者に鑑定してもらったところ、これがたいへん貴重なものであることがわかったということです。うらには、「漢委奴国王」と彫られていますが、委奴国を倭の奴国と読むか、伊都国と読むか論争が起こりました。また、そんなに貴重な金印が、なぜ志賀島のような辺鄙な場所に埋められていたのかということも不思議です。この金印は中国の後漢書に、弥生時代に漢の皇帝「光武帝」が奴国(なこく)の使者に金印を渡したことが書いてあり、その金印だと言われています。歴史的にも貴重な品で国宝になっています。しかし、歴史ほど当てにならないものはありません。最近、何度も裏切られているからです。たとえば、子どものころには、「縄文時代という原始的な社会に、稲作が伝わり、より高度な弥生文化が始まった。」と習いましたが、今は、それはちがっているということになっています。縄文時代もかなり高度な文化であり、弥生時代と縄文時代は、並行して存在していたというのです。鎌倉幕府の成立も、「いい国作る鎌倉幕府」ということで、1192年と覚えましたが、いまは、それより以前に鎌倉幕府は成立したことになっています。ということで、歴史を覚えること、特に年号を覚えることに大切な青春を費やしたことの責任をとってもらいたいと思っています。ということはさておいて、そもそも日本(倭国)のことが記述として残っている事柄は、この後漢書の記述が最古です。その記述にある金印が発見されたということは、後漢書の信憑性も高くなったということであり、中国の歴史の上でも重要な品のようです。卑弥呼も魏の国より「親魏倭王」の金印を授かっていますが、これは西暦238年頃の話ですから、これより約200年も古いのです。紀元3世紀の頃に、「魏志倭人伝」に書かれた「卑弥呼女王の邪馬台国」という日本の原始小国家があったことは有名ですが、それが何処にあったかという問題は昔から大きな謎として多くの研究者により論じられ、現在でも埋蔵物が発見されるたびに、卑弥呼の墓ではないかとよく騒がれています。大別すると、邪馬台国は大和説と九州説にわかれています。その場所をめぐる論争は、倭人伝に書かれている記述から、論じられています。伊都国から先の近郊国を、「東南、奴(na)国に至る、百里。東行、不弥(fumi)国に至る、百里。」と記載されていますが、多くの説は、奴国を福岡平野(那河川流域)と解釈していますが、昔、話題になった宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」(私も読みました。)では、不弥国を「香椎から古賀の間」と解釈しています。古代史は、天文学同様、結局は、「ロマン」の問題です。何が本当かというよりも、いろいろと想像することがとても楽しいことなのです。
歴史がお好きなんですね。
私は、苦手です。
歴史のいえば、年号や人物の丸暗記した思い出があります。
歴史は、ロマン。いいですね。
シュタイナー学校では、歴史の授業で、先生が、その時代を生き生きと語って聞かせるところから始まるそうです。
実は私、福岡に31年住んでいますが、金印を見たことがありません。