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2005年11月30日 [近頃思うこと]
子は宝
今日は、来週行われる「お楽しみ会」の第1回予行練習でした。その練習を見ていて、無性に子どもがかわいく思います。予行といっても、きちんとするのは、今日は初めてという感じですし、少し高くなった舞台に乗って、ライトを浴びて歌や踊りやせりふを言う姿は、嬉しそうでもあり、また、少し緊張しているようでもあり、なかなか普段の保育の中では見ることのできない子どもの成長をかんじます。本当に、子どもってかわいいですね。そんなときに、昨日のブログで書いた山上億良のもう一つの歌を思い出します。
『瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ
何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ』
<瓜を食べれば、子どものことが思われる。また、栗を食べれば、ますます子どものことが気にかかってくる。いったい、子どもというものは、どこから来たものだろうか。しきりと目の前にちらついていて、私は、おちおち眠ることができない。>
この歌は、今でいう単身赴任で家族と離れているときの歌ですが、何かおいしいものを一人で口にするとき、こんなものを自分の愛している子どもにも食べさせてやりたいと思う心は、今も変わることのないものです。何をしても、何を見ても、つい子どものことを思い出してしまうのです。それは、子どもがどんなに大きくなっても、それなりに感じます。小さい子を見れば、わが子が小さかった頃を思い出し、わが子と同じ年代の若者を見ると、思い出します。憶良も、「何処より…」というあたりは、寄る寝床についてからの思いでしょうが、四六時中、子どものことを忘れることができなかったようです。思い出して、なかなか寝れないようです。単身赴任は、いつから始まったのかはわかりませんが、また、今は日本だけしかないようにも言われていますが、私は、昔、狩猟生活をしているときは、みんな単身赴任だったような気がします。猟にしても、漁にしても、数日間は、母子と離れて獲物を取りに行ったような気がします。その時にも、たぶん家で待っている子どものことを思って、その子に獲物を食べさせようと思っていたに違いありません。
また、この歌の反歌として詠まれた歌があります。
『反歌 銀も金も玉も何せむに勝れる宝 子にしかめやも』
<銀だとか黄金だとか、珠だとか、そういったものは自分にとって何の魅力もない。いろいろとすぐれている宝も、子どもに及ぶものか。及びはしないのだ。>
彼は、かなり貧しかったようで、黄金に対する憧れは人一倍あったはずですが、それでもなお、子どもへの愛情の前には、それを蹴散らしているのです。本当に、どんなものよりもまして、子どもは宝ですね、と無条件に思う人が少なくなってきているのでしょうか。
投稿者 fujimori : 15:32 | コメント (0)
2005年11月29日 [近頃思うこと]
忘年会
そろそろ忘年会の季節がやってきました。今日は、今年初めての忘年会がありました。ある年、職場の忘年会の席で、私は、「この1年を、忘れたくなるように過ごしてはいません。1年1年きちんと覚えていたいように過ごしたつもりです。ですから、この会は、忘年会ではなく、覚年会にしたいと思います。」と挨拶をしたことを覚えています。最近は、それよりお年をとったせいか、1年1年惜しむ気持ちが強くなりました。春を惜しむ「惜春」と同じように「惜年会」という感じです。
忘年会とは広辞苑によると「その年の苦労を忘れるために年末に催す宴会」とあります。 やはり、忘れたいのですね。いやなことが多い1年のことのほうが多いのでしょうか。しかし、この忘年会というのは日本独特のもののようですが、その起源は、鎌倉時代だそうです。しかし、その忘年会とは、慰安のようにドンチャン騒ぎをしたり、飲んで騒いで年を忘れようとしたのではなく、優雅に厳かに連歌(和歌などをつなげて詠うもの)を詠う「年忘れ」という行事だったそうです。それが、 江戸時代になって、庶民が「一年の労をねぎらい、杯を酌み交わす」というような、現在に近い形の忘年会が行われるようになりました。しかし、庶民の間でのことで、武士階級では「年忘れ」というようなことは行われずに、「新年会」の方を大事にして、主君への忠誠を誓うものとしていました。それが、現在のように、行事として慣例化したのは明治時代に入ってからで、政府の官僚や学生を中心に忘年会がにぎやかに開かれていたという記録があります。官僚はボーナスが出た頃、学生は年末年始の帰省前に集まっていたと伝えられており、この頃になると忘年会は、現在とあまり変わらない年末のイベントとなっていったと思われます。「忘年会」という名前が文献に始めて出てくるのは、私の高校の先輩である(といっても、ずっと先輩)夏目漱石が明治後期に書いた「我輩は猫である」です。この言葉は、何の注釈もなく使われているので、たぶん、普通に使われていた言葉なのでしょう。
忘年会ではありませんが、この時期になると思い出す歌があります。みずからの家庭というものにふれて歌って、人間らしい心持ち、素朴で直接的な愛情の表現をとった歌人として、有名な山上憶良の作です。憶良は、『万葉集』で最も個性的なものを持った人であると、言われています。こんな歌です。
『憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ その彼の母も 吾を待つらむぞ』(万葉集 巻三)
<憶良は、今はもう退出しましょう。家には子供が待って泣いているでしょう。その子の母もまた、私の帰りを待っていましょうぞ>
この歌は、宴会の最中に、いつまでも同僚と酒を飲んでいたくなかったのでしょう。ころを見計らって皆より先に席を立とうとして、挨拶代わりに、即興でこの歌をよんだものです。家で待つ子のために、何の気取りもなく、こんなことを言えるようになりたいものです。こんな態度が、「かっこいい」といわれる社会になって欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 22:44 | コメント (0)
2005年11月28日 [新聞記事より]
変える努力
人は、いろいろなものに対して、刷り込みを持っています。対象物の本質を見ようとしないで、刷り込まれた色めがねを通してみることが多くあります。その刷り込みのひとつに、年齢のよる刷り込みがあります。これは、日本では、特に強い気がします。物事の習熟は、加齢によって深まっていくと思われています。そのために、年功序列という独特の社会構造が形成されます。年齢が高くなると、物事に、熟練してくると思うからです。確かにそういう部分もあります。保育者が、年齢が高くなるほど保育に熟練してくるということは、いえると思います。というのは、私は、経験量が増すために、子どもを見る目が深くなると思うからです。それなのに、どうも、経験量が増すと、保育技術が増してくるとか、手馴れてくるとか、扱いが上手になることが、保育に熟練してくると思われていることがあります。そうなると、困ることがあります。その熟練してくる価値を失いたくないために、変化、改革をすることに抵抗します。また、その職業が長くなるにつれて、本来は、視野が広くなっていくのですが、実際は、その職業を通して物事を見ることが多くなるので、視野が狭くなってくることのほうが多い気がします。私は、年齢が増すにつれて、子どもを見る目が深くなり、子どもの変化、子どもの姿を見る目が本質を捉えるようになって欲しいと思います。そうであれば、今の子どもの置かれている環境の変化、子どもの様子の変化を見、そのなかで子どもを守るためにどうすればよいか考え、改革をしていかなければならない必要性を感じるはずです。
先日の朝日新聞の「私の視点」にマレーシアの元首相であるマハティール・モハマド氏が、「イスラム社会 逆行が苦境をもたらした」というタイトルで投稿していました。そこには、今、対立が激しくなっているイスラム社会に対しての考えが書かれていました。
「かつてイスラム教徒たちは見識をつんだがゆえに力があった。―略― 偉大なギリシャの科学者や数学者、哲学者たちの著書を読んだ。ペルシャ人やインド人、中国人たちの著書からも学んだのである。―略― ところが、イスラムの有識者たちは15世紀ごろから、科学的な研究を抑制し始めた。―略― そうした視野の狭さが、今日のイスラム教徒を苦境に導いたのである。コーランは、「私たちが変える努力をしなければ、アラーは私たちの不幸な状況を変えない。」と諭す。―略― 私たちイスラム教徒は自己を省みて、自ら変わらなければならない。アラーは、悔い改めるものを救うのだ。」
変化を見、改革をしていこうとすることをせず、改革を阻止しようとする年配の保育者は、加齢していくことは、その職種への習熟がマイナスになっていっているのではないだろうかと思うことがあります。ぜひ、率先して、子どものための行動をして欲しいと思います。
投稿者 fujimori : 22:04 | コメント (1)
2005年11月27日 [講演先にて]
そば

今朝撮った、福井城跡と福井の地名の由来の「福の井」という名井
昨日の昼食は、永平寺そばをご馳走になりました。その店は、大本山永平寺の参道沿いにあり、永平寺では 唯一の手打ちそばのお店とうたっています。全国は、「そば」と「うどん」派に分かれます。有名ですが、讃岐に行くと、年がら年中「うどん」です。食事だけでなく、ちょっと時間があると、「うどんでも食べようか。」といわれます。秋田は、「稲庭うどん」ですし、伊香保は、「水沢うどん」など、有名です。そばも、各地に有名どころがあります。この「永平寺そば」は、一般に越前地方で呼ばれている「越前そば」よりも太めで、色が黒く、腰がしっかりしていて、このそばを噛みしめると、そば本来の味がにじみでてきます。噛みしめて食べるそばです。永平寺の山の谷は耕地が少なく焼畑農耕がおこなわれ、毎年新しい焼畑に大根を作り、2年目はほかの作物を、そしてその後は、必ずそばを蒔き、各自がそばがきはもとより雑炊などにし、大切な主食の代替としてなくてはならないものであったようです。由来としては、200余年の昔に、京からそば切りが伝わり、永平寺を初め各寺院に摂心や大晦日の上納品として、また点心に用いられたのが始まりのようです。そして、門前近郷にはどこの家でも、そばを打てないところはない位に誰でもができ、この土地の人たち流、つまり永平寺流のようなものが生まれ、長年受け継がれてきたとの事です。
もう少しで年末を迎えます。年末とそばというと、「年越しそば」を食べますね。年越しそばは、大晦日の夜に行う年越しの行事を総称して年取り、またはお年取りということから「年(歳)取りそば」ともいいます。また、大晦日の別称から「大年そば」「大つごもりそば」ともいうことがあります。「つごもり」とは 「月ごもり」が詰まった言葉で、月の末の日の意味です。古くから続く食習の起源、由来ははっきりとしないことが多いのですが、大晦日の夜にそばを食べるという年越しそばも例外ではなく、いくつかの説が伝えられています。そのうち最も広く知られているのは、そばは細く長くのびることからの縁起説でしょう。寿命を延ばし、家運を伸ばしたいという願いがこめられています。ですから、地方によってはこれを「寿命そば」や「のびそば」と呼ぶこともあります。そのほかに、そばは切れやすいことから、一年の苦労や厄災、あるいは借金を断ち切るという意味があるともいわれます。そこで、「年切りそば」、「借銭切りそば」と呼ぶこともあります。また、金箔を使う細工師は飛び散った金粉を集める時に練ったそば粉を使うことから、そばは金を集めるという縁起から、食ベるようになったという説もあります。
どのいわれから、今年は、年越しそばを食べようかと考えてしまいます。
投稿者 fujimori : 21:24 | コメント (0)
2005年11月26日 [講演先にて]
かっこよさ
今日の朝食は、ホテルで取らないで、外に出ました。ホテルの朝食は、かなり高額のわりには、どこも同じようで、あまりおいしくはありません。近くに「スターバックス」があったのでそこにしました。スターバックスは、とても考え方に、共感を覚えるところが多くあります。まず、全店「禁煙」がいいですね。(どうしても吸いたい人は、オープンカフェで吸えますが)いくら分煙といっても、ただ場所がちがうだけとか、ついたてがあるだけですと、どうしても煙が流れてきます。また、店内で喫食する場合は、皿もカップも陶器を使っています。マクドナルドなどは、食べた後で、何でもかんでもトレー以外すべてをボックスに捨てるのは、いつも気が引けます。(スターバックスは、きちんと分別で捨てるようになっています)また、スタバーバックスにあるナプキンには、こう書いてあります。「この紙ナプキンは、古紙70%、竹パルプ30%から作られています。Made in Japan.」また、マドラーは、間伐材で作られています。これらは、スターバックスミッション宣言の中に「地域社会や環境保護に積極的に貢献する 」とあるからです。具体的な環境方針として、「環境へ配慮した商品の開発と提供、廃棄物の削減、資源の有効活用と再資源化、エネルギー使用量削減、環境汚染の予防に努めるために、目的・目標を設定し、達成状況を見直すしくみを作ります。」とあります。
ずいぶんと最近「かっこよさ」が変わってきた気がします。たとえば、私が学生のころは、喫煙は、なんとなく格好良かった気がします。「タバコは、動くアクセサリー」などというコピーがあったほどです。また、再生紙も、茶色の色の紙で、真っ白い紙に比べて、なんだか貧乏臭いような気がしました。食器を洗って何度も使うよりは、使い捨てにかっこよさを感じていた時代もありました。今は、だいぶ、逆になってきました。かっこいいだけでなく、レベルの高さを感じるようになってきています。
同じように、変わってきたことがいくつかあります。たとえば、職場で我が子や妻の話をすることは、今は、仕事ができる人という評価にかわりつつあります。他にも、もっともっと変わって欲しいことがあります。たとえば、「まじめ」とか、「お堅い」とかが一時期、からかわれたこともありましたが、それらは、評価されるようになって欲しいと思います。私が教員になりたてのころ、同僚と帰りに喫茶店に入って、子どもの話しをしたところ、「外に出てまでも、仕事の話しをする人って、最低ですね。」と言われました。その人は、今は、教務主任をしています。もしかしたら、もうすぐ副校長になるでしょう。早くなって欲しいと思います。少しでも、子どもから離れて欲しいと思うからです。自分の仕事に誇りを持ち、堂々と仕事の話ができるようになりたいものです。
投稿者 fujimori : 22:20 | コメント (0)
2005年11月25日 [講演先にて]
鷺
今、京都にいます。京都府では、昨年養鶏場で起こった高病原性鳥インフルエンザの集団発生で騒がれました。京都府丹波町の浅田農産船井農場で鶏が大量死しているとの匿名電話が京都府にあり、鳥インフルエンザ感染が発覚し、大量死の最中に鶏や卵の出荷を続けていたことも判明、感染は同町内の別の養鶏場にも“飛び火”し、消費者の不安は拡大しました。そこで、同社に対する社会的批判も高まり、会長夫婦が自殺したことは記憶に新しいですね。この一連の感染で約24万羽の鶏と約2千万個の卵が処分・廃棄され、風評被害も広がり、防疫作業は自衛隊も投入して進められたほどでした。そして、農水省の究明チームは「ウイルスは野鳥がアジアの発生国から持ち込んだ可能性が考えられる」との見解を出したのです。そんなことがあってか、鳥インフルエンザなど「新型インフルエンザ」の感染対策を話し合う京都府、京都市の緊急会議が今日、あったようです。そこで、鳥から人への感染予防や、感染者の早期発見方法について議論したと報じられています。しかし、この問題は、今や、世界的な問題になっています。野鳥や、渡り鳥は、今までもいたのに、何で今?と考えてしまいます。たぶん、自然な自然の営みに、人間が介入した結果のような気がします。
京都の川で、「さぎ」を見かけました。たぶん、「小鷺」(こさぎ)でしょう。全身真っ白な線の細い姿が清楚な感じの鳥で、白鷺の中では最も小さく、爪先の黄色い足に黒くて長い脚が特徴です。冬場でもよく見かけます。同じような鷺の仲間に「中鷺」(ちゅうさぎ)がいますが、気持ち、小鷺 よりも大きめですが、くちばしが黄色いことで区別できます。その黄色い嘴はダイサギよりも短めで、先っぽが黒くなっています。ややこしいのですが、それより少し大きめなのが、「大鷺」(だいさぎ)です。その名が示す通り、白鷺の中では一番の大型です。大鷺の場合は冬になると、黄色くなる嘴と、いつも爪先の黒い足が特徴です。首もすこし、長めです。それらの鷺は、白鷺というように、真っ白でとてもきれいな鳥で、飛ぶ姿も優雅です。川や田などで、どれか考えると、楽しいです。しかし、私が始めてみて感激した鷺は、「五位鷺」(ごいさぎ)です。じっとたたずんでいる姿は、なんだか気品を感じました。そのときは、名前の由来を知らなかったのですが、五位鷺の由来は平家物語にあるそうです。醍醐天皇がこの鳥を捕まえよ、と家来に命令した時、まったく何の抵抗もなく捕まえられたそうです。天皇は命令にさからわず神妙であることに褒美として五位の位を授けたそうです。実は、今日宿泊している場所に縁があります。醍醐天皇が神泉苑に行幸になったときに、名付けられたのです。神泉苑は、京都の中京区にあり、今、大河ドラマで描かれている義経と静が出会った場所とも言われています。なんだか、鳥インフルエンザから、いろいろとめぐらせてきました。
投稿者 fujimori : 23:51 | コメント (0)
2005年11月24日 [新聞記事より]
生活体験
昨年の産経新聞に、小中学生の自然体験、生活経験の乏しさについてのデータが掲載されていたことがありました。
「都市部、郡部あわせて三千人を超える子ども達の結果のいくつかは、次の通りです。
・日の出、日の入りを見たことがない 約50%
・自分の身長より高い木に登ったことがない 約41%
・わき水を飲んだことがない 約52%
・生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがない 約50%
・自分の服を洗濯したり干したことがない 約44%
・包丁やナイフで果実の皮をむいたことがない 約22%
この結果から、家の中にこもり体を動かさない子どもの姿が見えてきます。自然の雄大さにも、ちょろちょろ出ている湧き水にも、そしてまた、しわしわの洗濯物が叩くことできれいになっていくことにも幼児は感動します。体験や経験から学ぶことはとても多いです。そして、体験したことを親子で話すというのが、シングルエイジ教育の基本のように思います。」
このコメントと、結果を見て、心配なことは、「えっ、こんなことは必要なの?」「そんなことを言ったって、逆に昔の人にパソコンを触ったことがないか?ときいてみると、ほとんどの人は、ないと答えるでしょう。それは、時代ではないでしょうか。」という人が多いことです。私が、小学校1年生を担任していたとき、子どもたちに「雑巾の絞り方」を指導したことがありました。すると、保護者の何人かから、「いまどき、雑巾を絞ることは必要ないのではないですか?家には、廊下はありませんし、机など拭くときは、乾いたモップで払うだけか、不織布で出来ている布を使って拭くだけで、雑巾など使うことがありません。」といわれました。そのとき、私は、「剣道で、竹刀を握るとき、野球でバットを握るとき、みんな同じ握り方をします。この手の動きは、決して雑巾を絞るときだけに必要なのではなく、力学的に意味があるのです。」という説明したことを思い出します。子どものさまざまな体験は、決して、それ自体だけに意味があるのではなく、さまざまな生きる知恵に関係してきます。ただ、乳幼児期では、子どもにその体験をさせるというより、まず、大人がモデルを示す必要があると思っています。掃除などを、子どもが見ている前でしたほうがいいと思います。その点で、私は保育園に通園している子どもたちが心配です。保育園では、子どもたちがいないところで掃除をします。大人の仕事は、子どもが帰ってからします。確かに邪魔かもしれません。子どもがいる間は、充分に子どもと関わる必要があるように言われてきました。しかし、目の前で大人が掃除をしている姿を見せないと、部屋は自然にきれいになるものだとか、誰かに頼んできれいにしてもらっているとか思ってしまい、学校に行って、自分たちで教室を掃除するようにならないでしょう。今の時代は、子どもと関わるということは、いっしょに遊ぶことだけでなく、大人のモデルを示すことも含まれると思います。
投稿者 fujimori : 17:05 | コメント (0)
2005年11月23日 [散歩]
小田急線

今日は、小田急沿線を歩いてみました。まず、京王線の下高井戸駅で降ります。そこから、下高井戸と三軒茶屋を結ぶ「東急世田谷線」に乗って、「山下駅」で下りました。この世田谷線は、2両連結の綺麗ないわゆるチンチン電車です。山下駅は、小田急線の「豪徳寺駅」とつながっています。豪徳寺という寺院は、今回は行きませんでしたが、以前行ったことがあります。豪徳寺は古くから有名で現在でも大規模な寺院といっていいでしょう。ここには、江戸城桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓があります。また、そのそばには、桜田殉難八士之碑もあります。また、ここには、このブログの名前と同じような名の「臥竜桜」という桜の木があります。また、豪徳寺には、「招き猫伝説」があります。昔は、かなり貧しい寺であったころ、和尚が自分の食べるものを減らしてまでも大切に飼っていた猫に、「この恩に対して、なにか果報を持ってきて欲しい」と言い聞かせたところ、そのあと、大きな寺院になったことから、和尚は後にこの猫の墓を建て、後世この猫の姿をつくり招福猫児(まねぎねこ)として拝んだとして、招き猫は、吉運、家内安全、営業繁盛、心願成就するとしてみんなに知られることになったそうです。次の駅の「梅ヶ丘」は、「東京都立梅ヶ丘病院」があることで有名です。この病院は、国内で最大規模の児童・思春期精神疾患の専門病院です。治療対象となる疾患は、発達障害圏(精神遅滞、自閉症、学習障害)、神経症圏(神経症性不登校、強迫性障害、不安性障害、解離・転換性障害、適応障害等)、精神病圏(統合失調症、気分障害)、多動性障害(ADHD)、睡眠障害、チック性障害、摂食障害、行為障害などです。そして、これらの疾患に対して、医師、看護師、心理職、精神科ソーシャルワーカー、作業療法士、保育士等から構成されるチーム医療を行っています。これらの診療は、今後ますます必要になってくるでしょう。次の駅の「世田谷代田」は、京王井の頭線新代田駅の間に、戦争中から戦後にかけて、井の頭線に車両を運び込むための連絡線が引かれていたそうです。(今も、その名残が残っています。)次の駅は、有名な「下北沢」です。原宿並みに、様々な店が、小さな路地に至るまで、びっしり並んでいます。原宿よりは、少し、レトロっぽい店が多い気がします。また、この町には、「本多劇場」グループの、映画館や、小劇場がいくつかあります。いつも、若者でにぎやかな町です。次の「東北沢」は、文字通り、下北沢の東にあります。次の駅の「代々木上原」駅と、次の「代々木八幡」の間は、最近、素敵な店が何店かあるということで、雑誌などに取り上げられています。次の「参宮橋」の駅名である参宮橋は、行政上の地名ではありません。 地名は東京都渋谷区代々木で、参宮橋は、明治神宮の西参道にかかっている橋の名称です。橋のたもとには東京乗馬倶楽部があります。次の「南新宿」は、もう新宿です。駅では、代々木駅が近いので、代々木ゼミナールを始め、様々な専門学校が並びます。そして、新宿駅に着きました。
投稿者 fujimori : 22:49 | コメント (1)
2005年11月22日 [来客]
公私の幼保
今日の来客は、社会福祉法人立保育園、学校法人立幼稚園、東京都昭島市立保育園、長野県伊那市立保育園の園長、保育者でした。いわゆる、幼稚園と保育園、私立と公立です。しかし、どこも乳幼児期の子どもを預かっている施設です。ドイツで、キンダーガーデンといわれている施設を、幼稚園(ようちえん)と訳します。(独・英:kindergarten)そして、その施設とは、「3歳から小学校就学までの幼児を保育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を助長するための教育施設のことである。」と辞書に書かれています。いわゆる、日本でいう幼稚園の内容です。しかし、ドイツに行って気がつくのは、では、保育園はなんていうのかというと、日本の3歳以上児の保育園に相当する施設が見当たりません。というのは、ドイツでの保育園は、すべて3歳未満児を預かる施設だからです。逆を言えば、3歳以上児を預かる施設は、すべてキンダーガーデンというからで、そこにいる園児は、お昼で帰る子、3時に帰る子、5時に帰る子と様々です。ですから、キンダーガーデンの親は、専業主婦の場合であろうが、勤めていようが関係ありません。親がどのような生活形態を取ろうが、子どもに対する幼児教育は変わらないのです。第55回日本保育学会で、パメラ・オーバーヒューマー所長(ドイツ・バイエルン州立幼児教育研究所)が、「1997年EU各国の国際調査をもとに、それぞれの特徴の解説」をしました。そこで、「スペインやフィンランドは、6,7歳までを対象にした幼児教育保育所で、教育と養護(ケア)といった区分や年齢による区分がなく、統合された調和のある保育を目指している。スペインは、教育省、フィンランドは社会省の所管に一元化され、いずれも義務教育部門とは別になっている。ベルギーやルクセンブルグは、就学前教育専門家として位置付けられ、行政レベルが作成したカリキュラムに基づいて教育が行われている。そして、教育と養護(ケア)が分かれている。フランスやオランダは、教育と養護(ケア)が区分されている。デンマークやドイツは、幼児教育保育者のほかに、社会的保育者(ソーシャル・ベタゴーグ)がいて、学校外の保育システムがつくられている。」という講演を行いました。どの国でも、所轄官庁は、年齢で分かれているか、一元化されていて、それらの国と比較して、同じ年齢の子(3~6歳児)を違う省庁(文科省と厚労省)の管轄で行う国は、日本しかないそうです。日本は、何で、親の利用の仕方、保護者のライフスタイル、運営母体の違いで、子どもの処遇がちがっているのでしょう。国主導の「総合施設」のようなものではなく、現場から、幼保と、また、公私とそれらの区別なく、同じ子どものための保育、幼児教育の質を考えなければならない時代が来たのかもしれません。そんな思いを強くした、今日の来客でした。
投稿者 fujimori : 21:50 | コメント (4)
2005年11月21日 [地域を知る]
西条

私は、ウォーキングが好きです。休みの日は、できるだけ、あちらこちらを歩き回ります。これは、運動のためということもありますが、歩き回ることが好きなのです。どこを歩き回るかというと、人によって、大きく二通りあると思います。ひとつは、山など、自然の中を歩くことです。私は、それも好きですが、もっと興味を持つのは、町の中を歩き回ることです。日曜日などは、人があまり町の中を歩いていない住宅街や、店がみんな閉まって閑散とした町の中を歩くのが好きなのです。それは、町並みが好きだからです。そこに人はいなくても、そこに住んでいる人の顔がみえます。その通りを通る人の姿が浮かびます。そこの生活が見えます。そこに実態としての人がいない分だけ、想像の中の人はたくさん生活しているのです。そして、思いがけない発見をすることがあります。小さい路地を発見したときの喜びは言いようがありません。私が高校生のころ、地域の地図を買って、そこに書かれている道をすべて歩いてみようと思ったことがありました。その道を歩いたら、赤い線を引きます。すべての道を赤くしていったのです。私にとっての道は、どこか目的地に行くための通路ではなく、生活の場なのです。たぶん、これは私が下町で育ったからでしょう。以前、路地について書いたように、子どものころから、道が遊び場であったからです。今でも、どこかに行くときでさえ、道が二つに分かれているとつい知らないほうの道を歩いてみようとします。私の子どもが小さかったころ、よく子どもに怒られました。「知っているほうの道を、通ってよ!」子ども心に知らない道は不安が多かったのでしょう。

もうひとつ好きな町並みがあります。それは、地方に講演に行ったときに、その町の町並みを歩くことです。そこには、いつも歩く道と同じような興味のほかに、その道から歴史を感じるからです。普段の人の顔だけでなく、昔の人の顔が見えるからです。ですから、地方に行っても、自然のなかを歩くよりも、町の中を歩き回ってしまいます。どうということもない町でさえ興味があるのですから、今日歩いたような町並みは、とても感動します。朝のうちのほんのいっときしか時間がありませんでしたが、その町並みには、明確な顔がありました。主張があるのです。今日の町は、広島の山陽道「西条」という町です。この西条の町の屋根瓦は殆ど赤褐色です。町並みはゆるくカーブしていて、ほぼ中央に桝形が設けられ、道は鍵の手状に折れ曲がっています。旧山陽道の本町通りから少し北に御茶屋(本陣)跡があり、当時の御門が復元されていました。明治以降、酒造の町 西条という呼び名で呼ばれています。あんなに、醸造所が並んでいる町はあまり見たことがありません。煙突が何本も並び、白壁の家が連なり、道端には、地域のお年寄りが水を汲みに来ている井戸があります。いい町並みです。
投稿者 fujimori : 22:50 | コメント (0)
2005年11月20日 [散歩]
いちょう祭り
私の住んでいる八王子市で行われるさまざまなイベントのなかで、一番好きなものに「いちょう祭り」があります。(そのほかは、どれもあまりぱっとしません。)八王子の町は、八王子城の城下町としてと、甲州街道の宿場町としてと、横浜への絹の道に沿っての織物の町という姿を持っています。町の中心を横切っているのは、横浜、川越街道(国道16号)と、甲州街道(国道20号)です。その甲州街道は、みごとないちよう並木が続き、見事な黄葉、そしてその落ち葉でつくられる黄金の絨毯は、まことに美しい景観を醸し出します。これは、昭和2年、横山村長房の「龍が嶺」南麓一帯に大正天皇の御陵が設けられる事になり、昭和2年から街道の改修工事が始まり、昭和3年に完成しました。この時追分交差点から高尾駅までに並木として、ほぼ4Kmにわたる甲州街道両側に770本の「いちょう」が植えられたのです。今は、この大正天皇陵の奥に、昭和天皇の武蔵野陵もあります。このいちょう並木が植えられてから80余年経過し、この間、八王子市は大きく変貌し、特に 最近30年ほどは21校に及ぶ大学の進出で、大学の町になっています。
「いちょう祭り」は、八王子を象徴するこの壮観を背景に、市民によって作られた祭りです。昭和54年(1979)に第1回の祭典が開催され、今年は26回になります。(昭和55年は学園都市宣言の行事のため、いちょう祭りは開催しなかったようです。)甲州街道は江戸五街道の一つで、途中に小仏関所があった事から、この史跡に至る道を通行手形で通過した江戸時代の史実をまね、「関所オリエンテーリング」を実施しています。毎年通行手形を持って沿道町会による12関所で焼印を押しながら5、6キロの街道(約8000歩)を歩いて、完歩者には、最後の小仏の関所でパーフェクト賞がもらえます。この手形の売上金が、祭りを運営するための資金となるのです。この手形は、今年は、今年の星座を図案化したものでした。
私は、ほぼ、毎年参加していました。ある年は、教え子たちと、子どもができてからは、我が子の成長に伴って、歩く距離を伸ばし、参加してきました。しかし、わが子が大きくなってからは、なかなか行く機会がなくなっていましたが、久しぶりに妻と二人で歩いてみました。(今日は、夕方広島に行かなければならなかったのですが、きちんと、完歩して、パーフェクト賞をもらいました。)子どもと一緒のときはそれなりの楽しさがあり、妻と二人で歩くときもちがった楽しさがあります。道々で見る店、食べるもの、歩くペース、妻とですと、気が楽です。
毎年30万人余の参加があるこの「いちょう祭り」は、「自然と心のふれあう地域文化を創造しつつ、地域の発展と社会的な広がりを作ることを目指して、市民の活力を生かして、有志市民により企画され、市民手づくりの新しい祭りとして実施運営されています。」と趣旨にあるような試みが、わたしはとても好きです。
投稿者 fujimori : 23:16 | コメント (0)
2005年11月19日 [近頃思うこと]
頭のいい子
今、発売の「プレジデント ファミリー」の雑誌の目次には、ものすごいタイトルが並んでいます。総タイトルが、「頭のいい子の親の顔」で、一部が、徹底調査!「東大生100人の小中学校時代」勉強時間、部活は?父親の学歴、年収、家庭の人間関係は?「有名進学塾に通う僕らのホンネ」「学力は家で伸ばす賢い父母の三つの習慣」「高校からアメリカへその決断の見返りはどこにある」「早慶の高校にもあった一芸一能でもらう入学パスポート」「超難関校に合格した一家の手帳をお見せします」二部は、特選!父は知らない中学受験と高校受験「夢を広げる学校選び」ということで、さまざまな学校選びが続きます。これでもかというように、コラムエッセイには、「どうしてやる気のない子が増えたのか」とか「子ども二人を私立にやれるか」などなど、巻末付録に「東大、京大合格者ランキング50年史」「今後50年の教育カレンダー」なんか、うんざりしますね。もうすぐ受験シーズンなので、当然かもしれませんが、すごいですね。といいつつも、思わず、買ってしまいました。(もう、わが子は、受験には関係ない年ですが)しかし、中身は、それほど受験をあおってはいません。私の出身高校は、受験校で有名な高校だけあって、本当に頭のいい子がいて、それは生まれつき頭がいいというか、テストができるように生まれてきたというか、覚えることが生まれつき優れているというか、逆に、それしか能はないというか、私からすると、魚屋と八百屋の違いであり、どちらがえらいということでないという経験をしました。というのは、勉強をするとかしないとかの問題ではないのです。したがって、その子と、同じ土俵で勝負しても、一生かないません。一生懸命子どもの尻をたたいて勉強をさせている親子を見ると、かわいそうになりますし、もしいい学校に入れようと思ったとしても、その方法は間違っています。それが、東大生100人の小学校時代のアンケートに表れています。たとえば、「家族旅行によく出かけましたか?」では、82%が「はい」(しかし、海外旅行には、ほとんど行ったことがありません)と答えていますし、「家族一緒に夕食をとりましたか?」は、64%が「はい」と答えていまし、食べていないと答えた子でも、週末はほとんど一緒に食べています。(いいえと答えた子が、5%です)また、テレビゲームをしていた時間は、平均で1日1時間です。小遣いも平均月613円です。習い事も、塾以外では、ピアノ、水泳の40%、習字35%に比べて、英会話は14%しかいません。そして、座談会でも、コーディネーターをつとめた末木さんは、いま、親の目線で学校選びをしてしまったりする親が多いなか、意外と、東大生の親は、精神的な自立をしており、「あなたのことをちゃんと気にかけているよ。」という信頼関係さえあれば、いい意味での放任主義で子育てしていいのだという感想を持ったようです。
必ずしも、東大に行くことがいいと思いませんが、このような結果は、子どもをいい学校に入れようと過干渉気味に子どもにべったりついている親に対しては、いい警告かもしれませんね。テレビゲームばかりやらないで、家族で旅行をしたり、一緒に家で食事をしたりするほうが、どちらにしてもいいようですね。
投稿者 fujimori : 10:51 | コメント (0)
2005年11月18日 [由来]
風邪
今年は、どうも新型インフルエンザが流行しそうです。新型インフルエンザは、鳥などのインフルエンザA型ウイルスが変異し、人から人への感染力を獲得して出現するようです。1918~20年のスペインかぜは世界で約4000万人、68~69年の香港かぜ(A香港型)は100万人以上が死亡したとされています。なんだか怖いですね。しかも、治療薬「オセルタミビル(商品名タミフル)」の備蓄はなくなる可能性があるとか、その副作用があるとか、言われています。しかし、政府では、新型が出現しても、むやみに恐れる必要はないといっています。インフルエンザが流行するのは、軽症者の多くが外出して感染を広げるためなので、大流行時に、会社の出勤停止や集会の自粛など、異例の勧告が出されました。個人ができる予防は、マスクの着用、手洗いの励行など、通常のインフルエンザ対策と同じようです。
風の語源は、「か」が「気(か)」で大気の動きを意味し、「ぜ」は「風(じ)」で「気風(かじ)」の転とされていますが、風邪の語源も「風」と同じだといわれています。また、インフルエンザの語源は、「星の影響」を意味するイタリア語です。ずいぶんロマンチックのようですが、昔のイタリアでは、この病気の原因が解らず、占星術師などにより惑星の並びによるものと考えられていたことによります。英語では、インフルエンスは、「影響」という意味です。面白いことに、感冒は、オランダ語のカンバウ(カゼ)からきているそうです。
ウイルスが多いところは、1番が、カラオケマイクで4000個、次が、公衆電話の受話器3000個、電車の吊り輪1000個のようです。あとは、居酒屋、タクシーなので、気をつけましょう。
予防の「うがい」の語源は面白いです。うがいは、岐阜県長良川の鮎漁で有名な「鵜飼」が語源なのです。鵜飼は、かがり火を焚いて鮎などを近寄らせ、鵜に魚を水中で飲み込ませた後、引き上げて吐かせることから、「うがい」と呼ばれるようになったのです。また、お屠蘇(おとそ)は、唐時代の医者が、流行風邪予防のために作ったのが、おいしいと流行になったのが最初で、この医者が住んでいた家の名前が「屠蘇庵」といったそうです。そして、屠蘇とは、「鬼気を屠絶し人魂を蘇生させる」ということで、ここから、1年中の邪気を払い、延命長寿を願うために飲む酒となって、お正月の飲みものになったそうです。ちなみに屠蘇は、薬局などで売っている屠蘇散(肉桂、大黄、百じゅつ、山椒、桔梗、乾姜などの薬草を合せたもの)を、5~6時間水にひたしてから取り出し、清酒(みりんを加えることもある)を加えて作っているので、当然、風邪薬ですね。
風邪を引いたら、鵜のような「うがい」をして、おとそを飲んで寝ましょう。
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2005年11月17日 [保護者]
保護者
保育園や幼稚園、学校など子どもを預かる施設は、その子どもの保護者との関係をどう作るかが課題になっています。先ごろ中央教育審議会から出された「新しい時代の義務教育を創造する」という中でも、その難しさについて、こう書かれています。
「本審議会でも、家庭や地域の教育力を取り戻すことは難しく、学校への期待は大きいとの意見。一方で、本来家庭や地域が果たすべき機能を学校に持ち込むのではなく、家庭や地域がその責任を果たすことが必要であるとの意見。家庭の教育力が低下しているからといって学校の役割を拡大しても、子どもの心の満足は得られず、家庭の教育力は学校で代替できる性質のものではないとの意見などが出された。学校五日制についても、両方の立場からさまざまな意見が出された。このほか、家庭支援のための福祉行政との連携の必要性。ゲーム・テレビの影響などマスメディアを含め、大人社会のあり方の問題なども意見として出された。また、学校と、家庭・地域とが共同し、両方が教育力を高めるべきとの意見も出された。」
私たちが、「子どもが他者と関わる力をはぐくむ保育環境と家庭環境」という調査をしたことがありました。そのなかで、「保護者に対するサポート」という項目では、「保育士が保護者に対してサポートを行うことも、間接的に子どもが他者と関わる力をはぐくむことにつながっている。」 という結果がでました。そして、「関係者がいっしょに育児にかかわっているような状態を構築することが、子どもの力をはぐくむ土壌となるといえるだろう。」というまとめでした。それが、まさに、どちらがどちらに責任を押し付けるのではなく、「共同して」という姿勢なのです。もちろん乳幼児期と学童期の違いはありますが、保護者は、保育士に対して、いっしょに育児をしている仲間だと感じることが、子どもの発達を促すのです。少子化の原因のひとつとして、公教育への不安があるといいます。保護者の教育への信頼が、子どもたちの情緒を安定させ、それが学習効果をあげ、発達を促すのです。
私の園で、保育参観のあとの保護者とのメールのやり取りで、感動したことが最近ありました。
保護者「先日、朝、○○先生から、「いつもありがとうございます。」と言われて、「こちらこそ、いつも、私の子供をはじめ、園児と共に過ごしていただき、ありがとうございます。」と言う機会を逃してしまいました。何卒、よろしくお伝えくださいますようお願いします。気の利いた感謝の気持ちひとつ伝えられない、私ですみません。本当に、先生方には、感謝しています。これからもよろしくお願いします。
園「○○の感謝の気持ちは、私も同じでございます。(便乗させていただきます)伝言、必ず伝えます。
保護者「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございますm(__)m 先生方や保護者の方からの応援って本当にうれしいですよね。あと、先生方は、私に対して、「すみません」と気を使っていただいていますが、私も仕事に追われるだけでなく、日々の生活の中で、何か園のために始められればと思っていたことが、今、現実になっているので、大げさかもしれませんが、夢が叶っているんですよね。これからも、保護者と保育園がうまく連携をとりながら、いろんな問題を解決できるような関係でいましょうね。多分、父親の他のメンバーも同じ気持ちだと思います。(^^ゞ
投稿者 fujimori : 19:56 | コメント (0)
2005年11月16日 [来客]
慣れる
今日は、園への見学者が、一昨日からのセミナーの続きで26名いました。この数が多いのか少ないかは、微妙なところです。月曜日は、60名以上いましたし、月に数日は20名を超えることもありますので、職員は、なれてしまっているかもしれません。なれているといえば、見学者からよく「子どもたちが、見学者になれているようで、少しも動じませんね。」と言われます。それは、子どもたちは、見学者がいようと、いまいと、物事に集中していますし、自分たちのことを黙々とやっているからです。しかし、慣れるということは、どういうことなのでしょう。意味としては、
(1)たびたび経験した結果、当たり前のこととして受けとめるようになる。なれっこになる。
「都会での生活に―・れる」「会議の雰囲気に―・れる」「待たされるのには―・れている」
(2)何度も経験してうまくできるようになる。習熟する。
「料理も―・れれば手際よくなる」「―・れた手つき」「―・れない仕事で疲れた」
(3)接触する機会が多く、心理的な隔たり・距離感がなくなる。
(ア)人に親しみをもつようになる。「生徒はようやく新しい先生に―・れてきた」
(イ)獣・鳥などが人に対して警戒心や敵愾心(てきがいしん)をもたなくなる。
「野生の動物はなかなか人に―・れない」
(4)体になじんで具合がよくなる。「足に―・れた靴」
(5)動詞の連用形や名詞の下に付いて、何度も経験して具合がよくなる意を表す。
「履き―・れた靴」「書き―・れた万年筆」「旅―・れた人」
これらのなかで、見学者が使う「なれているのですね。」は、どの意味なのでしょうか。
(1)の意味が多いかもしれません。見学者のいることを当たり前のこととして受け入れているようになっているようです。 (2)の意味であれば、子どもたちは、次第に見られることに習熟してきて、感心してもらえる行動を心得てきたということになります。しかし、ほぼ毎日見学者がある状態であるときに、子どもたちは、見学者へ気を使っていたら、どこか無理がきます。(3)は、少しあるかもしれません。見学者に対して、親しみまでは行きませんが、警戒心は持たなくなってきている気がします。(4)(5)では、どうもなさそうです。
やはり、どうも1番目の意味ですね。ということは、子どもたちが熱中しているという姿は、見学になれているので、普段のままの様子が見られるということです。見学者にとって、子どもの普段の様子が見られるので、参考になると思うのですが、どうも、なれてくると、特別な姿になることだと思っているようです。私が教員のときに、教室の後ろに、保護者がいつでも見に来てもいいように椅子を3脚置いておきました。授業参観の日の子どもの姿は、特別な姿ですから。
投稿者 fujimori : 21:03 | コメント (1)
2005年11月15日 [教員の頃]
ユリノキ

今、園の周りの街路樹は、紅葉がきれいです。といっても、赤ではなく、黄色く色づいています。この街路樹は、「ユリノキ」といいます。木の名前の由来は、いろいろなところから来ています。昔、その木を見て、何かを連想したり、何かに似ていたりして名前をつけます。この木の花を見た人が、この木の花がユリの花に似ているということで、「ユリノキ」(百合の木)とつけたようですが、実際は、チューリップに近いのです。ですから、学名はtulip tree 、また別名もチューリップの木といいますが、日本に渡来した明治時代には、日本ではチューリップがなかったので、ユリとなったとか聞きました。別のところで、始めてみた人が、花を見ないで、葉を見たところ、葉の形が祭りなどに着るはんてんに似ているので、「ハンテンボク」「半纏木」(はんてんぼく)とよびました。他にも、葉の形から、「奴凧(やっこだこ)の木」、「軍配(ぐんばい)の木」などともいうようです。
この木には、思い出があります。私が少しの間、勤めた小学校の校歌に「ユリノキは 風に輝き 枝をはり」という歌詞がありました。そのころは、ユリノキを知らなかったので、他の教師に聞いてみましたが、誰も知りません。そこで、調べてみました。その木の別名が「半纏木」ということを知って、校庭にあるその木の葉を見たら、まさに祭りに着る半纏にそっくりだったので、非常に感動してしまいました。そのころ、朝礼で、教師が交代でいろいろな話をしていましたので、私の当番の日に、画用紙に半纏の絵を描いて、実際にハンテンボク(ユリノキ)の葉を見せて、子どもたちにその木の名前の由来を話したのです。いつも歌っている校歌の歌詞なのに、他の教師は、調べようとしなかったです。
また、朝礼といえば、思い出すことがあります。いつものように私が担任している1年生の後ろで、校長先生の話を聞いていました。すると、担任しているクラスの子達が、ふらふらして、話を聞いていません。そこで私は、「きちんと、校長先生の話を聞きなさい。」と注意しました。すると、隣のクラスのベテランの教師がこう言いました。「それは、校長の話がつまらないからいけないのよ。」私は、「つまらないなら、後で言いにいけばいいじゃないですか。きちんと聞かなければ、文句を言いにいけないでしょ。」私のクラスは、子どもたちに何度か、校長室まで、今日の話はつまらなかったとか、面白かったと言いに行かせていました。すると、隣のクラスの教師があきれたようにこう言いました。「ずいぶん先生って、軍国主義なのね。」びっくりしました。どうも、きちんとさせると軍国主義だと思っているようです。私は、子どもでも、校長のところに、つまらなければつまらないと言いにいけるのが「民主主義」だと思っています。戦後、どうも民主主義とか、自由ということが間違って理解されてきたことがあるようです。
投稿者 fujimori : 20:19 | コメント (0)
2005年11月14日 [近頃思うこと]
父親の背中
昨日の映画には、子どもの遊び場として、路地が出てきました。小学生のころ、私も、学校まで、路地伝いに行ったことがあります。家と家の間にある隙間、車が通ることができないほど細い路地、道に植木をたくさん置いてある路地、やっと車が通れる路地とあります。下町は、ほとんどが問屋なので、日曜日に休みの店がほとんどでした。したがって、近くに広い公園など遊び場がないために、その路地や神社の境内が子どもの遊び場であり、人々の出会う場所でした。(たぶん日本で初めて歩行者天国が行われたと思います。道の端には、車止めが日曜日には置かれました。)そんな路地で育った私は、父親の育児参加が言われはじめたころ、新聞が、「父親の育児」というテーマで、原稿を募集しました。そこで、私が、地域の保育展のチラシのリードに書いた詩を投稿したところ、採用され、紹介されました。
お父さんの背中って なんだか 路地裏の感じがする
なぜって 路地裏って 懐かしいような 甘酸っぱいような香りがする
表にあるような 派手さはないけれど 力強さや生活力がある
陽は当たらなくても 陽だまりのように とってもあったかい気がする
そして 子どもの世界を じゃましないで だけど しっかり守ってくれる
僕たちは きっと 路地裏で大きくなったんだ
路地裏でいろんなことを覚えたんだ
お父さんの背中って やっぱり 路地裏だ
わたしは、「父性」と「母性」はあると思います。もちろん、この役割分担は、具体的な「父親」と母親」の役割ということではありませんし、生まれついての本能というつもりはありません。ただ、子どもを育てる上で、大きく二つの要素があると思います。しかし、どうも、最近は、家庭に母性的なかかわりが強すぎたり、父性的なかかわりだけであったりすることが問題のような気がします。たとえば、「教育」という漢字も、「教」の字は、子どもを鞭打つように人間の長い一生を洞察した上で、しつけなどを中心に厳しくものを習わせることで、きわめて厳しい意味を持つ字であり、それに対して、「育」の字は、生まれた赤ちゃんを母が慈愛を持って育てることを意味し、今日の厳しさに対して、母親のような暖かい心で教え諭し、受容することをいうそうです。教育には、その二つの観点が必要ということです。同様に育児でも、アメリカでは、「受け入れる育児」と「突き放す育児」の両方が必要といわれています。私は、「受け入れる育児」と「見守る育児」が必要だと思います。特に、今は、幼児期以降に対しての「見守る」という観点、路地裏というような環境からの子どもの支えが必要な気がします。
投稿者 fujimori : 23:53 | コメント (0)
2005年11月13日 [映画]
夕日

今日は、少し風邪気味ということもあって、久しぶりの邦画「ALWAYS 三丁目の夕日」を見に行きました。これは、今一番の人気の映画です。もともと1400万の発行部数を誇る、西岸良平の傑作コミックを映画化したものです。最近テレビにしても映画にしても、コミックからのものに人気があります。「ごくせん」「ドラゴン桜」などもそうですね。また、VFXを駆使して再現された昭和30年代の東京下町は、リアルに再現され、かつて、セット作りに苦心した時代から、ずいぶんと技術が進んだ感があります。
「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和33年、建設中の東京タワーを背景に、下町に暮らす個性豊かな面々が織り成す感動と希望の物語です。特に、二人の小学生を中心に、それぞれが豊かではないけれど、未来に希望を抱き、大切な夢に向かって生きていく姿に、今を生きる私たちはもう一度大切な何かに気づかされ、観終わった後、勇気と幸福感で満たされます。しかし、一方、この映画の感想は、「ずるいな」ということです。感動する場面、せりふを、これでもかと入れています。特に私は、ちょうどこの時代に、この主人公と同じ年齢で、しかもこの舞台である下町で生活していたのです。まったくダブっているので、ストーリーがなくても、場面の細部にいたるまで、懐かしさがこみ上げ、その時代を思い出してしまうので、胸に迫るものがあるのは当然です。
着工された東京タワー、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の“三種の神器”を揃えることが庶民の憧れ。子どもは路地裏で遊び、駄菓子屋に通い、夏休みに怒られてした昼寝、登校日、道路では、オート三輪や都電が走っています。私は、中学1年生のころは、都電22番(浅草と銀座の間を走る)で通学していました。そんなわけで、その時代へのノスタルジー、その時代に生きる人々のふれあい、楽しさ、をつい思ってしまいますが、時代は、戻ることはできません。いくら、あの時代がいいからといって、携帯電話が普及し、メールでやり取りをし、パソコンで物を調べ、24時間コンビニで物を売っている現在、決して、過去のような生き方はできないのです。しかし、最後の言葉に出てくるように、「夕日」は変わらないはずです。「大切にしないといけない心」は、変わらないはずです。というよりも、変えてはいけないのです。この映画を通して、何が「流行」で、何が「不易」かを、もう一度考えてもらいたいと思います。そして、守るべきものを、どうすれば守れるか考えないといけないのです。あの時代を懐かしく感じるように、今の時代が懐かしく感じられるように、あの時代がよかったといわれるような「今」を作っていく責任を感じます。
投稿者 fujimori : 20:56 | コメント (0)
2005年11月12日 [講演先にて]
遠野
今日は、山田町から、宮古を通って、閉伊川側沿いの道を盛岡まで行きました。今、紅葉真っ盛りで、また遠くに雪をかぶった岩手山が見え、とても景観がすばらしい道でした。また、昨日山田町へ向かう道は、今は、かつての活気がなくなった釜石を通りましたが、途中、とても美しい村を通りました。そこは、「柳田国男」の「遠野物語」でも有名な、遠野市です。「遠野」の語源は、アイヌ語の「ト-ノヌップ(湖の周りの小高いところ)」からきていると言われます。(遠野物語のなかにも、アイヌ語がたくさん出てきます。)ここは、この村に伝わる昔話が有名だけでなく、谷間に広がる盆地に、民家がたたずんでいる姿は、とても美しいです。山と、空を切り取る民家の屋根と壁は、計算されているかのようです。「遠野物語小事典」には、この姿を、「自然の風景に溶け込んで、小さな山や丘に見えた。」と書かれています。このあたりで有名な「日本十大民家」の一つに数えられる「千葉家」に寄ってみました。このあたりの民家は、「曲がり屋」というつくりをしています。曲り家というのは、L字型の家のことで、人間の住む母屋と馬小屋を直角に連結した農家をいいます。その平面図は、遠野物語にも書かれています。昔話に欠かせないつくりでもあります。これを外から見てみると、屋根は茅(かや)で葺き、周りを土壁で塗りつぶし、柱や貫だけを露出させるつくりになっています。「千葉家」は、見晴らしの良い小高い丘の中腹に石垣を築き、前面に柵をめぐらした屋敷構えの家で、曲り家の最盛期に建てられ,保存状態も良く、上層農民の最高級の曲り家として典型的なものといわれます。
そのあと、「伝承園」に行きました。ここでは、遠野地方の農家のかつての生活様式を再現し伝承行事、昔話、民芸品の製作・実演などが体験できます。園内には国の重要文化財に指定されている曲り家「菊池家住宅」、柳田国男の遠野物語にも、語り手として書かれている話者「佐々木喜善記念館」、遠野物語のなかのいくつかの話のなかに出てくる千体のオシラサマを展示している「御蚕神堂」などがあります。「遠野物語」とは柳田国男という学者が明治時代に書いた伝説集です。内容は民俗学の論文ではなく、一般的な読者を対象にした読み物です。(しかし、文語体で書かれているので、今、読むのには、苦労しますが)ここには、119話収録されています。「遠野物語」の中には、河童、山姥、座敷童、神隠し等の怪異の物語が多く、読んだときは、この地には、こんなに妖怪がいるのかと思ってしまいました。しかし、「遠野物語」に語られる物語の多くは、普遍的・一般的な伝説であり、率直に言って日本中どこの町や村にもあるようなもののようです。
説話の多くはもともと口承文芸で、地域・言語によっては、ある時代から書き言葉で残されるようになったものもあります。「グリム童話」も、口伝に取材して後年本にまとめられたものですね。今、映画で、「ブラザーズ・グリム」が上映されていますが、これは、グリム兄弟をペテン師のように描いていますが、やはり、昔話が伝わる村を描いています。それに比べて、柳田国男によって、「遠野物語」という格調高い文学作品を通して、遠野という村を格調高くよみがえらせたよい例のようです。
投稿者 fujimori : 22:24 | コメント (0)
2005年11月11日 [講演先にて]
鯨とサケ
今日は、三陸海岸沿いの岩手県山田町に来ています。この地区では、18世紀の中頃に、網を使用したイルカ漁が大浦という地区で始まりました。これは湾に入ってきたイルカを追い込み、網で捕獲する「追込網」という漁法で、大正時代まで約200年の間続けられました。大正2年には、2000~3000頭という大量のイルカがとれたと伝えられています。他にも、山田町では、オットセイ猟、トド猟も行われていました。オットセイは毛皮や食用として、トドは食用にされていました。 そして、昭和24年に農林大臣から大型捕鯨の許可を得て、捕鯨が始まり、規制により商業捕鯨が禁止になった昭和62年まで続きました。
なんだか、イルカ漁やオットセイ猟があったと聞くと、かわいそうにと思います。今、捕鯨も、日本のほかの地域でも世界から反対を受けています。しかし、同じ山田町で盛んな「サケ漁」は何も言いません。どこがちがうのでしょうか。まず、その種が絶滅に近い貴重な種ということがあるでしょう。また、見た感じが、かわいい姿をしているということがあるでしょう。またある人は、知恵がある動物は、殺すときに悲しい思いをさせるからいけないのだという人もあります。しかし、もともとは、その地方における食料として捕獲していて、生きるためだったことが多くあります。たとえば、「エスキモー」の語源は、東カナダに住むクリー族の「生肉を食べる者」を意味する語から来ているとされています。そのため、1970年代ごろからカナダでは「エスキモー」は差別用語とされ、「人々」を意味する彼らの言葉「イヌイット」を代わりに使用するようになりました。日本のマスコミ、出版界でも「エスキモー」は差別用語であり「イヌイット」に置き換えられるべきとされています。しかし、私は、生肉を食べるということが、何で差別化はよくわかりません。生肉を食べるということは、決して残酷なことではなく、その民族の文化だと思います。「食」は文化なのです。日本でも、アイヌが肉を食べるという狩猟民族であるということで、残酷な民族といわれてきましたが、熊など生き物に対して、きちんと敬意を払い、大切にしています。それに引き換え、去年、北海道に行って、とてもショックだったことがありました。川を遡上するサケを、川で取ると密漁になるので、海から川になる手前でサケを釣っていました。次から次へ釣れるサケを、イクラがないオスと見ると、放り出し、メスの場合は頭をたたいて殺し、おなかからいくらだけを出して、あとは、その場に足で蹴り上げ捨てているのです。川岸は、サケのオスの死体と、腹を割かれたメスの死体で埋め尽くされていました。それを見たときに、鯨がいけなくて、サケならいいとはいえませんでした。もちろん、今は、鯨のように他の食べ物で代用できるようなもので、しかも貴重種はできるだけ守ったほうがいいと思いますが、だからといって、そのほかは、無用に殺してもいいということはないと思います。
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2005年11月10日 [講演先にて]
高野長英

今日は、岩手県水沢市にいます。この水沢市には、水沢三偉人と呼ばれている水沢市出身の高野長英、後藤新平、斎藤實の記念館、碑、居住宅などがあります。以前、この水沢市に来たときに時間があったので、高野長英記念館に行ってみました。なぜかというと、私が小学生のころに、衝撃的な印象があるからです。「写真で見る歴史」というような本を買ったことがありました。そこには、いろいろな写真とともに歴史が書いてありました。そのなかの1枚の写真が衝撃的だったのです。それは、写真というよりも、絵の写真です。それは、自分の顔を塩酸で焼いて、人相を変えようとしている絵でした。必死に生きよう、自分の理念を貫こうとするあまりに、猛烈な痛さにも耐えて、自分の顔に塩酸をつけて、苦痛にゆがんだ顔をしている絵なのです。それが、「高野長英」でした。彼は、1804年水沢で生まれ、世界に目を向け日本の夜明けのため生涯を捧げたのです。記念館は、水沢公園の東側一角にありました。もう一度、忘れかけていた彼の生涯を思い出しました。そこに高野長英という紙芝居がありましたので、絵はありませんが、ちょっと長いのですが、文だけでも掲載してみます。今を生きる勇気がわきます。(高野長英記念館・紙芝居より)
1、江戸時代は、外国との往来が、禁止されていました。長崎の出島が、世界に開かれたたった一つの窓口でした。この出島に、1823年、シーボルトがやってきました。シーボルトの噂を聞いた人々が、日本の各地から、長崎にやってきました。この物語の主人公、高野長英も、シーボルトから医学と蘭学を学んだ一人でした。
2、やがて、江戸にもどった長英は、医者になり、蘭学の塾も開きました。そして、渡辺崋山と出会い、「尚歯会」に参加しました。尚歯会には、武士や医者の他に、お坊さんや町人まで、身分の違う多くの人々が集まっていました。
3、さて、オランダから幕府にとどいた情報によると、イギリスの船が、近々、日本にやってくるそうだ。漂流民を日本に送る理由だが、通商を求めてくるとの噂もあった。幕府は、外国船打払い令を盾に、この船を追い払うことに決めた。世界の様子を勉強していた尚歯会の人々は、これを聞いてびっくりしました。
4、「漂流した者たちを、親切に、送り届けるというのに、大砲を打ち込むとは、何ということだ。そんなことをしたら、どんな災難が日本にふりかかるか分かったものではない。そうだ、世界の様子を知らせる本を書こう。幕府の取り決めが間違いであることを知ってもらおう。」と長英は考え、夢物語を書きました。
5、ところが、目付け、鳥居耀蔵は、無人島に渡ろうとしたという罪をでっちあげ、渡辺崋山や高野長英を訴えました。もともと、鳥居耀蔵は、西洋を研究する蘭学者をきらっていた。この機会に、「蘭学を広める者どもを手痛い目にあわせ、ねだやしにしてやろう。」と考えたのでした。
6、こうして、夢物語を書いた長英は、「幕府の政治を批判し人々を惑わした」という罪に問われ、今でいう無期懲役にあたる永牢を言い渡されました。長英は、牢屋から無実を訴え続けますが、許されませんでした。
7、そして6年が過ぎたある夜のこと。牢屋が火事になり、長英は牢から解き放されました。3日の間に戻れば、罪が軽くなる定めでしたが、長英は、ついに戻らなかったのです。
8、故郷では、母が長英の身を案じていました。このとき、母は前沢の茂木家に身を寄せ、水沢の高野家には孫に当たる能恵がひとり残されていました。
9、江戸から逃亡した長英は、密かに故郷を訪ねました。6年ぶりの親子の再会ですが、落ち着いて話をする暇はありません。長英は、母の幸せを祈りつつ、早々に旅立たなければなりませんでした。
10、母との再会を果たした長英は、門人や学者の仲間に助けられ、幕府の追及を逃れて旅を続けました。
11、危険な旅を続けながらも、長英は、病気に苦しむ人をいつも忘れませんでした。病人の治療や薬をつくったりもしました。
12、四国に逃れていたある日、長英は名高い金比羅神社に参拝しました。ここで、長英は、「アジアの第一人者になる」と誓います。そして、幕府の目を逃れ、広島、大坂、名古屋と旅を続けました。
13、江戸に戻る決心をした長英は、顔を薬で焼き、人相を変えます。
14、顔を変え、名前も沢三伯と改めた長英は、大胆にも、江戸で病院を開き、蘭学の勉強を続けます。
15、しかし、ここにも蘭学を弾圧する幕府の手は伸びてきました。10月30日、遂に、長英の家に、奉行所の捕りかたが踏込みました。長英は思わず、短刀に手をのばし、後ろから襲い掛かる捕り方に切りつけました。しかし、抵抗むなしく、長英は、のどをついて覚悟の自殺をします。長英46才の最後でした。
16、長英の友人、江川英龍は、夜明けの富士山を描き、「里は、まだ、夜深し、富士の朝ぼらけ」との言葉を書き添えました。しかし、日本の人々は、いつまでも目を塞がれてはいませんでした。高野長英や渡辺崋山などの尊い努力によって、日本の夜明けは、もうそこまで近づいていたのです。(完)
投稿者 fujimori : 21:47 | コメント (2)
2005年11月09日 [新聞記事より]
算額

今日の読売新聞に、「数学の海へ」という連載記事で、「和算を現代に生かす」というものがありました。ここには、中高校生を対象とした「算額をつくろうコンクール」(和算研究所主催)のことが載っていました。(算額とは,神社や仏閣に奉納した数学の絵馬のことです。江戸時代中期,寛文年間の頃から始まった風習といわれ,現在全国に約820面の算額が現存しているようです。算額は,数学の問題が解けたことを神仏に感謝し,益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと思われます.人の集まる神社仏閣を発表の場とし,難問や問題だけを書いて解答を付けないで奉納するものも現われ,その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことが行われました.算額奉納の習慣は世界に例を見ず,日本独自の文化であり,明治になり洋算の導入を容易にしたのも算額を奉納する風習が貢献しました.)このコンクールは、現代版の算額を作ってもらい、問題の独自性や、美しさなどを競わせるものです。最近は、大学の入試問題に算額が登場し始めているようです。最近は、400人が応募するほど人気が高まっています。この作品を見ると、必ずしも数学の成績と一致しないそうです。この研究会の顧問である小川氏はこういっています。「コンクールは、遊びと数学を結びつける絶好の機会。数学の面白さは理系、文系を問わない。平面幾何が必要になったこともあり、こんご、算額は授業でも活用できるようになるだろう。」といっています。しかし、もうすでに活用されているようです。やはり以前の新聞記事で、このような記事がありました。
「学習内容の理解度に応じて指導する「習熟度別授業」に取り組む学校が増えている。文部科学省のまとめでは、2004年度、小学校81・6%、中学校72・3%の実施率で、00年(小学校38・8%、中学校31・0%)から4年間で倍増の勢いだ。習熟度別授業は「個に応じた指導」の一例として、03年に小学校の指導要領に明記され、同省が今春まで全国約1600校で展開した「学力向上フロンティア事業」で実践研究も進んだ。」とあり、実践例のひとつにこんな授業が紹介されていました。
「名古屋市熱田区の市立白鳥小は2年前から、同市の「学力向上パイロット事業」の指定を受け、算数での習熟度別授業を実施している。3年生以上で、3学級を4コースに分け、5人の先生で指導。子どもたちが、習った内容を応用する「問題づくり学習」にも取り組んでいる。同校は熱田神宮のすぐ前に校門がある。今年の正月には、学年ごとに1問ずつ、算数の問題を作り、校門に張り出し、参拝者に見てもらったり、解いてもらったりした。江戸時代、独学で学んだ算数の問題を、神社に奉納し、参拝客らに解いてもらう「算額」という文化があったことを知り、現代版「算額」に挑戦した。立ち止まる参拝者も多く、「正解を教えて」と、学校に電話してくる人もあった。 同小では、さらに地域の人たちに問題を解いてもらったり、反対に地域の人たちの作った問題を子どもたちが解いたりと、「問題づくり学習」を深めることを考えている。」
私の息子が中学生のころ、数学の教師は、「数学とは、自分独自の考え方で解くものでなく、一字一句教科書と同じ解き方、言葉を使うものである。」という授業をし、きれいに書いたノートを、展覧会に展示していました。(自分独自の解き方は、本当は、塾で習ったものだという思い込みがあったようです。)
今日から訪れている岩手県でも、一ノ関を中心に、和算が盛んだったようで、神社には、算額が多く、一ノ関博物館には多く所蔵があるようですし、また、「算法新書」を著した千葉胤秀が、陸中磐井郡生れのために、今の花泉市には銅像や記念碑があるようです。
投稿者 fujimori : 16:14 | コメント (1)
2005年11月08日 [セミナー]
学校・教育施設展
今日は、東京ビッグサイトまで、「第4回学校・教育施設展2005」に行ってきました。(社団法人日本能率協会主催)この展示会は、学校・教育関連施設のリニューアル技術と経営支援までのハード・ソフトを一堂に紹介する専門展示会です。「全国の教育委員会・地方自治体・学校・幼稚園関係者ならびに建築設計担当者が抱える今日的課題の解決を目指します。」とあります。何が、今日的課題であるのか、その解決方法とは何なのか、興味がありました。特に、そのなかでの特別企画に惹かれました。展示は、「これからの教室」のモデルイメージを展示会場内に設置し、新しい学校づくりを目的とした学習環境のリニューアル事例とそこで行われる学習スタイルを提案しています。(提案しているつもりです。)また、設備・備品の使用方法、空間の有効な活用方法等につきプレゼンテーションを行います。その挨拶文には、「児童・生徒一人一人が自ら学ぶ力を養成していこう、またそのためにも選択性のあるさまざまな教育を与えていこうという教育の個別化・個性化の方針は、すでに1980年代には明確に打ち出されていたが、これまでなかなか具体的な成果 には結びつかなかった。これが近年、教育現場に急速に広がってきている。その要因をカリキュラムの面 で見ると総合的学習の導入の影響など新学習指導要領に沿った近年の教育の個性化・多様化のさまざまな施策が考えられる。ここでは従来のように教師から教えられるだけでなく、学科の枠を超え、児童・生徒が自ら課題を見つけ調べその成果 を発表することで自ら学ぶ力の養成が主眼に置かれている。また教育の個別化・多様化を推進させる大きな鍵となるのは、学校のIT(情報技術)化であろう。パソコンやインターネット技術の普及によって児童生徒が自ら学ぶ環境が整ってきているが、教師の役割もそれまでの教える立場から監督する立場へ、いわゆるティーチャーからディレクターへのパラダイムシフトが起きつつあるように見受けられる。情報化先進国の米国や北欧では学校によっては児童生徒1人に1台のパソコンが整備され、日常的にそれを利用しながら個別 学習を進めるシステムができあがっている。中には通 常の学習机ではなく、パソコンやAV機器などが設置されたワークステーションによって構成されたオフィスのような学校も登場してきた。我が国でもIT化によって個別 ・グループ学習を進めるための「新世代学習空間」が提案され、平成13年度より余裕教室などを改築・改修してつくるこの「新世代学習空間」に対して、国から補助金がでる仕組みがスタートした。古い校舎を使いつづけるためにも、校舎の耐震改修などと同時に、こうした新しい学習空間をどうやってつくっていくかが今後の課題となろう。本企画ではこういった背景のもと、スペースや家具にとどまらず、IT機器を活用した実践的な学習活動のシュミレーションも行いながら、より具体的な「既存教室リニューアルによる新世代学習空間」を提案したい。」とあります。私たちが進めようとする考え方のキーワードがいくつもありますね。しかし、展示を見たり、シンポジウムやセミナーを聞いたりして、まったくがっかりしたというか、私たちのほうが進んでいるというか、逆にやりがいがあるというか、まったくお粗末でした。たとえば、教育の個別化、多様化を進めたり、教師が、今までの教える立場から監督する立場になるための具体案は、「一人ひとりにパソコンを与える。」ことで、達成できるかのような提案でした。今、理屈や理念ではわかっていても、具体的な方法論は、考えられていないというか、考えられないような気がします。今こそ、私たちが、現場から、具体的な保育、教育の形を提案していかなければならないという思いをいっそう強くしました。この趣旨文は、今の課題、提案として参考にはなりますね。
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2005年11月07日 [旅先にて]
証城寺

「証 証 証城寺 証城寺の庭は ツ ツ 月夜だ みんな出て 来い来い来い おい等(ら)の友達ァ ぽんぽこ ぽんの ぽん
負けるな 負けるな 和尚(おしょう)さんに 負けるな 来い 来い来い 来い来い来い みんな出て 来い来い来い」
この結果、狸は、どうなったと思いますか?はじめは、おなかをたたいて、楽しく歌ったり、踊ったりしていました。そこへ和尚さんが出てきて、一緒に楽しみ始めました。そのうちに、狸は、和尚さんに負けまいとたたき始めました。競争し始めたのです。その結果、その狸は、死んでしまったのです。これは、江戸時代の初期(17世紀中ごろ)に誕生した、千葉の木更津にある、證誠寺に伝わるお話です。そこに、昨日、行ってみました。
「ある秋の晩、寝ていた住職がふと眼を醒ますと、何やら表がざわざわ騒々しい。気になって戸の節穴からそーっと庭の方を覗いてみると、何とそこには大小100匹程の狸が行列を作って「證誠院のぺんぺこぺん、俺らの友達ゃどんどこどん」と唱いながら踊っている。おなかをどんどこ叩いたり、中には葉っぱや葭の茎で作った笛で調子をとっているものもいる。住職は最初びっくりしたがそのうちその調子があまり面白いので、自分でも足で床を踏み鳴らしたり手を叩いたりしはじめた。そのうちついにその狸の中に引き込まれて一緒に踊り出してしまう。狸は驚きもせず、むしろ前よりもっと激しく唱い踊り出し本堂の周りを、行列を作って廻り始めた。住職も負けじと一緒になって時間が経つのも忘れて踊った。狸と住職の競争になった。そのうち夜が明けてきて狸達は森に戻っていった。またその次の晩、次の次の晩も住職が夜待っていると同じように狸達の唄と踊りが始まった。ところが4日目の晩、住職は待っているのに全く音がしなくなって、狸たちが現れない。住職は長い事待っていたけれども結局その晩狸は現れなかった。翌朝住職は本堂の周りを調べていると、そこにはお囃子のリーダーとしてぼんぼこお腹を叩いていた一番の大狸が腹の皮が破けて死んでいた。住職は哀れに思いその大狸を葬った、、、」という話です。
これを題材として、昭和4年に野口雨情・中山晋平両氏によって作られた童謡が「證誠寺の狸ばやし」です。
今、保育園や幼稚園では、発表会シーズンです。その練習を見るたびにこの話を思い出します。楽器演奏でも、歌でも、踊りでも、とても楽しいものです。しかし、楽しいものでも、競争となると違ってきます。確かに、競争することで、がんばる気持ちとか、よいものにする意欲が湧くことがあります。しかし、競争は、結果的に、周りが見えなくなってしまいます。この狸のように、体の調子が悪くなっていたり、心が壊れ始めていたりしていることに気づきにくくなります。それを楽しんだり、向上する楽しさから、ただ勝つことに心を奪われてしまうからです。私たちは、発表会を通して、何を子どもたちに伝えたいのか、どんな心を伝えたいのか、それを後回しにして、勝つこと、すなわち、まわりからの見た目を優先してしまうと、大切なものを失ってしまいます。
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2005年11月06日 [旅先にて]
木更津

今日は、市原市の近くの木更津を歩いてみました。木更津というと、今は、東京湾アクアラインの一方の出口で有名ですが、この地には、さまざまな遺跡や、伝説、歴史があります。太田山公園にある、木更津市立金鈴塚遺物保存館に行ってみました。そこには、東を代表する前方後円墳・金鈴塚古墳出土品が展示されています。特に、古墳名称の由来となった金の鈴は、今でも光り輝いていました。また、そこで、ちょうど「野焼き」をしていました。土器などを、釜で焼かないで、平地で、焼くやり方です。縄文土器などは、そのように焼く方法もあったようです。私が、子ども会(以前のブログで、地域を知る運動会をした子ども会を書きました。)の活動のなかで、テーマを「作る」とした年、地域を流れる川に行って、滑床という土を取ってきて、砕いて、粘土にしました。次の活動日に、それを使って、みんなで縄文式土器を作ったのです。(本当は、半分以上瀬戸の土を混ぜました。)そして、次の活動のときに、公園で、「野焼き」をしたのです。(実際は、全部割れてしまいましたが。)これらの活動を通して、この地域の人が、昔、どのように土器を作ったかを体験したのです。
話を元に戻して、この太田山公園には、千葉県立上総(かずさ)博物館と、のほか、「きみさらずタワー」という展望台が建っています。この展望台の塔の上には、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)と、オトタチバナヒメ(弟橘姫)のブロンズ像が建っています。
遥か昔の古墳時代、ヤマトタケルノミコトがヤマトの国(日本)の統一を考えて、東の国に住む異民族と戦うために、大勢の家来と奥さんのオトタチバナヒメを連れて、三浦半島から房総半島へ舟で渡ろうとしました。穏やかな東京湾でしたが、しばらくしてもの凄い嵐がやってきて海は大しけとなりまた。ミコトたちを乗せた舟はまるで一枚の葉っぱの様に大波に弄ばれました。この頃の言い伝えでは、舟に女性が乗り込むと何か航海に良くない事が起こる、と言われていました。責任を感じたヒメは、その海の荒れを抑えるために、自分を犠牲にしようと考え、海に飛び込びました。しばらくすると荒れていた天候が嘘のようにおさまり、舟は何事もなかったかの様に対岸の房総半島に到着しました。さてこれから「いくさ」へ、という時でしたがミコトは、自分が愛していた優しいヒメの事が忘れられず、「君去らず 袖しが浦にたつ波の その面影を 見るぞ悲しき」という歌を詠み,しばらくショックでこの土地を離れる事が出来ませんでした。昔は地位のある偉い人の事を「君(キミ)」と呼び、「君不去(キミサラヅ)」という言葉が訛って「木更津(キサラヅ)」となった、と言われています。今からおよそ1700年ぐらい前、日本各地で大きな古墳が造られていた頃の話です。
また、それから7日の後にオトタチバナヒメの櫛(くし)が海辺に流れ着いたので、その櫛を取って墓を作り、おさめたのが、富津市吉野の吾妻(あづま)神社であり、流れ着いたオトタチバナヒメの袖(そで)を納めて建立(こんりゅう)したのが、木更津市にあるあずま(吾妻)神社です。また、ヒメの着物の袖(そで)が流れ着いたので、周辺の海辺を、袖ケ浦(そでがうら)と呼んでいます。そして、オトタチバナヒメが海上に布を流して身を投じたので、その付近は「布流津(ふるつ)」といわれ、「ふるつ」がつまって「ふっつ」になったそうです。富津の地名の由来です。このあたりの地名が、ぐっと身近に感じられます。
投稿者 fujimori : 21:36 | コメント (0)
2005年11月05日 [散歩]
秋の花

今日は、市原市で講演です。市原市といえば、少し前まで、サッカーJリーグの「ジェフユナイテッド市原・千葉」のホームタウンでした。(今は、千葉市になっています。)この市原市は、関東で横浜市に次いで2番目に大きいそうですが、まだ多くの自然が残っています。駅でいうと、「五井」という駅です。以前、ここから小湊鉄道に乗って、養老渓谷に行ったことがありました。2冊の本の原稿締め切りが近づいて、どうしても間に合いそうになかったので、温泉宿に閉じこもって書こうとしたときです。(どうしても、原稿は、職場や、自宅では書くことができません。日常から離れて、神経を集中しないとだめなのです。他にも、何軒か温泉宿めぐりをしました。)市原市は、今は、海岸部は工場地帯や市街地となっていますが、東部や中部には、田園や台地の自然が昔のまま残っています。南部には、養老渓谷・奥清澄自然公園や梅ヶ瀬渓谷自然環境保全地域などを中心とする美しい自然が広がっています。ということで、海岸、河川、台地、谷津、森林、渓谷、更には田や畑などの耕作地を含め、様々な自然環境が存在しています。そうした自然のなかで、秋の花々に出会うことがあります。よく、川原などに黄色い花が多くなると、大気汚染が進んでいる証拠であり、帰化植物が多くなったことの証であると何かで読んだことがありました。では、これは、何でしょうか。「紫・白・紫・紫・黄・白・紫」なんだか紫が多いですね。これは、「秋の七草」の花の色です。「秋の七草」は、「ハギ・オバナ・クズ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・アサガオ」です。秋の花には、どうも紫色をした花が多いようです。他にもナンバンギセル、ツリガネニンジン、マツムシソウにリンドウ、などが秋の花ですが、やはり紫の色の花ですね。ところで、秋の七草は、古くは万葉集に、「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七草の花。萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花また藤袴、朝貌の花」(山上憶良)と詠まれました。(ただし、「尾花」はススキ、「朝貌」はヒルガオ科のアサガオ(平安時代に渡来)ではなく、キキョウであろうとされています。)「ハギ」という植物はなく、50以上の植物に「~ハギ」の名がついています。よく目につくのはミヤギノハギやツクシハギなどのようです。鎌倉には、萩の寺がありますし、都内でも、萩のトンネルがある公園に行ったことがあり、秋を感じます。また、「ススキ」は、十五夜のお月見にはかかせませんね。「クズ」は、最近は、繁殖力が強いためか、いたるところで見ることができます。しかし、古くから「くず粉」(葛粉)といって、根を食料にしたり、「葛根湯」という薬にしたり、衣料、飼料などに利用されてきました。「ナデシコ」は、日本女性の代名詞「ヤマトナデシコ(大和撫子)」として使われますね。「オミナエシ」は、やさしげなその黄色の花の風情から、よく女性になぞらえて歌われました。どうも、このあまり派手でない花の姿が日本では好まれたようで、栽培の歴史も古く、平安時代から庭に好んで植えられていたようです。「フジバカマ」は、河原などに生育し、戦前までは各地でふつうに自生していましたが、いまではあまり見られなくなりました。「キキョウ」は、秋の七草のひとつですが、本当は、6月の終わり頃から咲き始める夏の花です。キキョウも野生では減少しています。秋の七草くらい、自生できる環境を残したいものですね。
投稿者 fujimori : 21:49 | コメント (0)
2005年11月04日 [研修]
高齢者
今日は、園内で、「ゆうゆうサポート事業」の1講座である「正常な子どもの発達」ということで2時間話をしました。この「ゆうゆうサポート事業」というのは、簡単に言うと、「育児をお互いに助け合いましょう。」「育児で、困ったと思ったときには、いつでも、『助けて!』と言える社会を作りましょう。」ということです。育児は、主に母親の肩に重くのしかかっています。「それをひとりでがんばって支えなくても、社会で支えていこう。」というネットワークを作ろうというものです。今日の話の中に使わせてもらった話があります。
今年の2月に行われた全国私立保育園連盟主催の保育総合研修会での記念講演での話です。講師は、京都大学霊長類研究所助教授の正高信夫氏です。
「霊長類を学ぶと、皆さんにとって当たり前のことが不思議に見えてきます。哺乳動物は約4700種いますが、高齢者が存在するのは人間のみです。高齢者の定義は、生物学者にいわせると「繁殖活動を停止したのに生きている」ということです。生物の最大の使命は子孫を残すことで、役目を終えたのに生きているのは邪魔、子孫の食い扶持を減らすこと、資源の浪費になります。たとえば、鮭などは、産卵したら死ぬという効率のいい生物です。日本猿は飼育下での寿命は20歳。雌は人間同様に28日周期で生理があり、閉経すれば数年で死にます。痴呆の治療の研究で、動物実験をするのに、痴呆の動物が必要なのですが、犬、猫の場合はいるのですが、サルはその前に死んでしまいます。野生だともっと短命で、18,19歳で最後の出産をし、授乳中に力尽きて衰弱し、親子とも死んでしまいます。なぜ、人間だけに高齢者が存在するのか、何か理由があるはずです。その理由は子育てです。親が子育てするのは、ここ100年くらいの出来事で、それまでは高齢者が子育てをしていました。そして、親は働き、その家は繁栄してきました。等々」
確かにそうかもしれません。出産をする時期は、肉体的にも、精神的にも人生のなかで一番強い頃でしょう。その頃の人が、家にだけいるより、働いたほうが、みんなが生きていく上で効率的だったのでしょう。しかし、子どもがいるので、その子を、高齢者が見るというのは、当然なことかもしれません。もともと、そういう意味では、子育てと仕事は両立するものでもないし、子どもにとって、母親にとっても、一日中いっしょにいることは、肉体的にも、精神的にも無理なことかもしれません。したがって、これからは、女性も社会に参画し、育児を社会全体で支える必要があります。しかし、私はこう思います。かつては確かに、男も女も働いていたでしょう。しかし、今と大きく違うのは、親は、ほとんど子どもの見ているところで働いていた気がします。ですから、子どもは、置いていかれることに納得していたに違いありません。子どもを置いて、自分だけが楽しんだり、好きなことをしていませんでした。また、農家などでは、日が暮れる前に帰ってきたことでしょう。今は、帰りが遅すぎるように思います。母親だけが、家の中だけで、育児をするのではなく、男女とも、きちんと働いて、自己実現を図り、社会を広く見て、そして、子どもが小さいうちは、明るいうちに子どものもとに帰れるような社会作りが必要なような気がします。また、親の育児を支える社会を作っていくことも必要でしょう。
投稿者 fujimori : 19:05 | コメント (0)
2005年11月03日 [散歩]
デザイン
今日は、明治神宮外苑の絵画館前で行われている、「東京デザイナーズウィーク(TDW)2005」に行ってきました。TDWは、インテリアや家電など国内外メーカーやインテリアショップなどが参加するデザインイベントです。主催者である「NPO法人デザインアソシエーション」の理事長である喜多俊之氏は、このイベントの趣旨として、このように言っています。
「今“デザイン”は、暮らしと経済と産業に 大きなキーワードとして浮上しています。
心豊かな生活文化の土壌ともいえるデザインが、世界の多くの国々で、国家プロジェクトとして取り上げられています。
20年前、デザイナーズサタデーとしてスタートした活動はいま、企業にとっての次の創造の場作り、若きデザイナー達が世界に歩みだすための発表の場作りに広がろうとしています。
「デザインがこの国を変えていく」。
このメッセージで始まる2005年デザイナーズウィークは、日本のデザインアソシエイツとして世界に向けて、新しい時代の熱いメッセージを発信してまいります。
デザイナーズウィークの1週間、優れたデザインに数多く出会い、デザインがもたらす新しい生活を体感してください。」
(上の写真:会場で、私が買ったもの。ペットボトルが、如雨露になる。)
グッドデザイン賞の授賞式に出席したときにも感じましたが、今、デザインという考え方が変わってきています。わたしが、2001年度に受賞したのも、「人々の関係性」のデザインが良いということで、決して、建物の意匠のデザインでもなく、何かのもののデザインが対象ではありませんでした。今年の大賞を取った「注射針」にしても、どう見てもデザインが良いとは思いません。いまや、デザインとは、かたちではないのです。生き方であったり、暮らし方であったり、ものの考え方であったりするのです。
東大の大学院教授の佐藤学氏は、「これからの教師は、デザイナーになるべきである。」といっています。英語の名刺の肩書きに、園長をどのように書くか、よく迷います。「principal」とか、「head master」とか書きます。ちょっと気が利いて、「director」と書いたりします。しかし、私は、グッドデザイン賞を取ってからは、「designer」(デザイナー)でも、いいかなあと思っています。
「デザインがこの国を変えていく」
ですから。
投稿者 fujimori : 22:07 | コメント (2)
2005年11月02日 [近頃思うこと]
ボローニャ国際児童図書展

今日は、板橋区で講演がありました。板橋区というと、板橋区立美術館に、たまに行きます。この美術館は、昭和54年5月に、東京都23区内初の区立美術館として開設されました。付近には区立郷土資料館・区立赤塚植物園などの施設があり、手頃な散歩コースとなっています。ここにたまに行くのは、ここの企画展の中で、「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」を開催しているからです。
「ボローニャ国際児童図書展」は、イタリアのエミリア・ロマーニャ州の州都、ボローニャ市で毎年開催されている絵本原画コンクールです。世界で唯一の子どもの本専門の国際見本市なのです。この展示会に私はどうしても行きたくて仕方がありませんでした。しかし、その時期は、4月の初めなので、入園式があるため、行くことができませんでした。でも行きたい気持ちは募るばかりなので、ある年、入園式を遅くして、思い切って行くことにしました。そして、学研に頼んで、出版社の一員として参加させてもらったのです。会場には、入選作品の展示だけでなく、絵本などの出版社のブースが設けられています。ここに世界中のイラストレーターたちが訪れ、作品ファイルを持って出版社のブース廻りをしながら、自分の作品の「売り込み」をします。もちろん日本からもたくさんのイラストレーターの方たちが訪れています。学研でも、毎年、「ワールド絵本」に取り上げる作品を探すためにブースを開いて、びっしりと時間を決めて面接していました。また見本市では、子どもの本にかかわる展覧会、講演会などさまざまな文化イベントも実施され、また関係者が集まることを利用しての国際会議などが活発に行われています。1964年より途切れることなく行われています。参加したときも、夜に出版社によるパーティーが開かれ、それにも参加させてもらいましたが、そこで、有名な作家を紹介してもらいました。1967年よりボローニャ児童図書展の中で開催されている、絵本原画のコンクールは、1994年よりフィクションとノンフィクションの二部門に分けられています。その日本での幹事館が、板橋区立美術館なのです。
このコンクールで賞をとった日本人は、たくさんいます。私が行った年か、その前後に、役者・演出者として映画、テレビ、商業演劇と幅広く活躍 している米倉斉加年氏が大賞を取った年でした。彼は、(1976(昭和51)年に、「魔法教えます」(偕成社)により、第13 回ボローニャ国際児童図書展の「子供の本のグラフィック大賞」を受賞。翌1977(昭 和52)年の第14回同展でも、自作の絵本「多毛留」(偕成社)が「青少年の本のグラ フィック大賞」を受賞して、世界で初めて2年連続の大賞受賞者となって有名です。私も、その本を持っています。もう一度、行ってみたい「ボローニャ国際児童図書展」です。
投稿者 fujimori : 21:46 | コメント (0)
2005年11月01日 [由来]
金印

今日は、福岡県古賀市に来ています。古賀市は、位置的には、あの金印が出土した志賀島の近くにあります。私が、初めて博多に来たとき、講演の時間までに、昼食を食べる時間があったのを、昼食を抜きにして、どうしても見たかった「金印」を、福岡市博物館まで急いで見に行き、汗びっしょりで会場に着いた途端に、講演をした思い出があります。
金印は、どの教科書にも出てきます。学校で習う「金印」は、「江戸時代に2人の農民が、志賀島の田んぼで偶然に金印を発見しました。」ということになっています。そして、この金印は地主に渡され、福岡の画商に持ち込まれ、画商は儒学者に鑑定してもらったところ、これがたいへん貴重なものであることがわかったということです。うらには、「漢委奴国王」と彫られていますが、委奴国を倭の奴国と読むか、伊都国と読むか論争が起こりました。また、そんなに貴重な金印が、なぜ志賀島のような辺鄙な場所に埋められていたのかということも不思議です。この金印は中国の後漢書に、弥生時代に漢の皇帝「光武帝」が奴国(なこく)の使者に金印を渡したことが書いてあり、その金印だと言われています。歴史的にも貴重な品で国宝になっています。しかし、歴史ほど当てにならないものはありません。最近、何度も裏切られているからです。たとえば、子どものころには、「縄文時代という原始的な社会に、稲作が伝わり、より高度な弥生文化が始まった。」と習いましたが、今は、それはちがっているということになっています。縄文時代もかなり高度な文化であり、弥生時代と縄文時代は、並行して存在していたというのです。鎌倉幕府の成立も、「いい国作る鎌倉幕府」ということで、1192年と覚えましたが、いまは、それより以前に鎌倉幕府は成立したことになっています。ということで、歴史を覚えること、特に年号を覚えることに大切な青春を費やしたことの責任をとってもらいたいと思っています。ということはさておいて、そもそも日本(倭国)のことが記述として残っている事柄は、この後漢書の記述が最古です。その記述にある金印が発見されたということは、後漢書の信憑性も高くなったということであり、中国の歴史の上でも重要な品のようです。卑弥呼も魏の国より「親魏倭王」の金印を授かっていますが、これは西暦238年頃の話ですから、これより約200年も古いのです。紀元3世紀の頃に、「魏志倭人伝」に書かれた「卑弥呼女王の邪馬台国」という日本の原始小国家があったことは有名ですが、それが何処にあったかという問題は昔から大きな謎として多くの研究者により論じられ、現在でも埋蔵物が発見されるたびに、卑弥呼の墓ではないかとよく騒がれています。大別すると、邪馬台国は大和説と九州説にわかれています。その場所をめぐる論争は、倭人伝に書かれている記述から、論じられています。伊都国から先の近郊国を、「東南、奴(na)国に至る、百里。東行、不弥(fumi)国に至る、百里。」と記載されていますが、多くの説は、奴国を福岡平野(那河川流域)と解釈していますが、昔、話題になった宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」(私も読みました。)では、不弥国を「香椎から古賀の間」と解釈しています。古代史は、天文学同様、結局は、「ロマン」の問題です。何が本当かというよりも、いろいろと想像することがとても楽しいことなのです。