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2005年10月19日 講演先にて

松前町

 今日は、愛媛県の松前町に来ています。初めて来たとき、「松前町」を「まつまえちょう」と読みました。本当は、「まさきちょう」です。「弘前」は「ひろさき」と読むのは、有名です。松前藩から、まつまえと読んでしまうのですが、それは、北海道にあります。地名には、その地方の人でないと、なかなか読めないものがあります。たとえば、多摩地区でいうと、青梅線に「青梅」「福生」「河辺」という駅がありますが、知らないとなんて読むのかわかりません。「おうめ」「ふっさ」「かべ」です。北海道などは、読めない駅名が多いと思います。元は、アイヌ語であることが多いからです。「長万部」「倶知安」などは、有名です。なんて読むのかわからないとき、駅の駅名板や信号などに、その地域名の下にローマ字で書いてあると、なんと読むのかがわかります。そのときに、ローマ字や英語で書いてあると、なんと便利なのだろうと思い、他のところも、そのように表示すればいいのにと思うことがあります。しかし、逆にローマ字では、わからないことがあります。漢字で書くと、なんとなく、その土地の由来がわかることがあるからです。たとえば、「青梅」は、「梅の産地かな?」と思えます。そうすると、松前町は、「松の先のほうということかな?」とか、「松山の先のほうということかな?」とか、いろいろと想像します。それが、ひらがなや、ローマ字からではわかりませんし、その文字からは、何のメッセージも感じ取れません。漢字は、学校時代は、覚えることで苦労し、いやな存在でしたが、大人になると、いろいろなことを思い巡らすことのできる、ありがたい存在に思えます。
 そんな松前町に来るために羽田空港のラウンジにいたときに、そこで読んだ雑誌の中に、昨日の「過剰育児」に関係する最近の記事を読みました。
ノンフィクション作家の石川 決貴氏の「続 孤家族のゆくえ」(サンデー毎日)という記事です。
『「子どもを産んだら、こんなにかわいくて愛しいものがこの世にあったのかと感動しました。」東京都の母親は、まもなく2歳になる長女を抱き寄せ、うっとりと言う。ところが、彼女の言葉はこう続く。「だからもう子どもは要りません。」かわいいのに、子どもは要らない。矛盾に感じ取れる前後の言葉。だが、ここに少子化のひとつの背景があるのだ。「娘には、私の持てる力を全部使いたいんです。やりたいことは何でもやらせてあげたいし、親としてできるだけのことをするつもり。ずっと、『この子ひとすじ』で生きたいんですね。そうなると、これ以上子どもを産めないでしょ。私の愛情とか関心、お金が分散しちゃうと、かわいそうじゃないですか。」母親一人に子ども一人の組み合わせなら、自分のすべてを注ぐことができる。だが、子どもの数が増えれば、その分持てる力は散ってしまう。』 
 愛を注がれる子どもは幸せだというのは、必ずしも断言することはできませんね。このような愛情を一身に注がれる子どもはかわいそうにさえ思えます。また、このような子どもが通う幼稚園や学校は気の毒にさえ思えます。それは、どうも、これは愛情ではない気がするからです。子どもにとってどうでしょうか。これが、次の文章で少し判る気がします。
『ところでもうひとつ別の「ない」を訴える女性たちがいる。「子どもの育て方がわからない」というものだ。―略― 兄弟もなく、異年齢の子どもとの交流もほとんどなかった彼女に、赤ちゃんは未知なる存在。子育ての予行練習を兼ねて、ペットを飼おうかと思っているんですね。そうでもしないと、生き物のあつかい方がわからないし。』
 やはり、ペットと同様に、一方的な愛情のようですね。でも、本人は、そうは思っていないでしょうから、人間としてのあつかい方を、少しずつ、教えていく必要があるかもしれませんね。

投稿者 fujimori : 2005年10月19日 23:53

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