いろいろな見方

 今日は、鯖江市の「草の実保育園」の職員全員26名で見学に来ました。その園には行ったことがあって、私の話を聞いたりしている人は多いのですが、実際に見てみようということで来ました。私の園には、いろいろと見学は多いのですが、園の誰が来るか、それを園に戻って、他の職員にどう伝えるかが課題のようです。そういう意味では、全員で見に来るということはとてもいいことです。しかし、園では、なかなかそれを実現する日程が組みにくいようです。どうしても、土曜日か日曜日になってしまいます。しかし、土曜日は園児の登園が極端に減りますので、普段の保育を見ることはできずに、環境を見て、想像してもらうしかありません。「人が生きている象を見ることは希である。だから、死んだ象の骨を見て、その姿を考え、その生きていた姿を想像した。」と、たしか韓非子にありました。
 象といえば、もう一つこんな逸話を思い出します。「群盲(ぐんもう)象を評(ひょう)す(群盲象を撫でる、とも言う)」と言うことです。昔、王様が、目の見えない人を数人連れてきて、その人たちには見たことも聞いたこともない「象」というものにさわらせ、それがどのようなものなのか、王様に説明させたという話しです。手を引かれて大きな象の回りに立った数人の、目が見えない人々が生まれて初めて「象」の身体にさわります。そして一人ずつに象とはどういうものかを説明させます。
「象は、骨のように堅くて、つるつるして、先が尖って曲がっている丸い棒のようなものです。」
「いえいえ、太い柱のようなもので毛が生えております。」
「いや、毛は生えているが柱ではなくて壁のようなものです。」
「違います、薄くて平べったい、大きな団扇のようなものです。」
「とんでもない、象は綱のようなものです。」
「何を言うか、象は柔らかくて動く丸い管のようなものです。」
こうしてそれぞれが触れた部分だけが「象」というものなのだと思い込んで、ケンカが始まったという話です。これは、人々は自分が体験したつもりのものでも、実は、ほんの一部分だけの情報や一つの側面の解釈であり、全体を正しく理解することはなかなか難しいということを言っているといわれています。たとえば、円柱の形を人に説明をするとき、上から見ると円に見えます。真横から見ると長方形に見えます。また、斜めに切った切り口を見ると楕円に見えます。どこを、どのように見たかで、形が違ってくるのです。(しかし、この逸話の解釈も様々あるようです。)
もう一つ象というと、「星の王子様」を思い浮かべます。あの、最初の象を飲み込んだうわばみの絵です。この絵を見た大人たちは、帽子が書いてあると思います。そこで、こう思います。「大人の人ってものは、よくわけを話してやらないと、わからないのでした。」また、こう言います。「僕は、がっかりしたのです。大人の人たちときたら、自分たちだけでは、何一つわからないのです。始終、これはこうだと説明しなければならないようだと、子どもは、くたびれてしまうんですがね。」
本質を見るのは、難しいですね。

いろいろな見方” への7件のコメント

  1. 「群盲象を評す」・・・仏教のお経典に出てきます。こだわりを捨てよ、執着から解放されよ、というお釈迦様がお説きになられた仏教の本質に導くお話です。年齢別保育へのこだわり、また異年齢保育へのこだわり、これらをアウフヘーベン止揚した先にあるのが「たてわりではない異年齢保育」という藤森先生提唱の保育形態です。変わっていく、こだわらない、そうした先生の留まらない思想哲学が行動の裏づけをもちながら様々な訴えかけします。その訴えを受け止める側の器が小さいと受け止めた通りに行動できずに悶々とします。私自身のことです。曼珠沙華、曼荼羅、蓮、群盲の象、・・・全て仏教経典に出てきます。それにしても韓非子が出てきたり、論語が出てきたり、そうかと思うとユングやサン=テグジュペリが出てきたり・・・Fujimoriワールド、まさにthe World、グローバルです。

  2. 東西にまたがっての、知恵のことばやたとえ話がきけるのは、とても勉強になります。ここは本当の意味での「塾」だなあと思います。なかなか読むのが追いつかず、きょうようやくここまで読んできたのですが、これからも読んでいくと、先生の視野の広さにひっぱられていくような気がします。これからも楽しみに読んでいきます。

  3. 本質を見たいという思いは強く持っているのですが、もしかするとどこまでいっても見ることができないということもあるかもしれませんね。そう思うと少し寂しい気もするのですが、その思いがなければ本質にたどり着くこともできないのではとも思うので、なかなか悩ましいところです。とにかく思うのは、わかった気にならない、謙虚であること、でしょうか。

  4. 断片だけを見て判断したり、一つの情報を鵜呑みにしたりして、知ったつもりになってはいけないなと自分を振り返って思いました。情報だけが全てではありませんし、体験したとしても何も考えずにでは意味がないのかもしれません。私は考えも浅いですが、実践もまだまだ十分にできていません。考え、実践していくことが大切なのですが、どうもうまくそれができていない毎日を過ごしています。そんな自分に嫌気がさす時があります。なかなかうまくはいかないものですね。だからこそ、投げ出してはいけないともっと、もっと言い聞かせていきたいと思います。

  5. 大人が、子どもを見て時折感じる可笑しな“呆れ”というものがあるなら、子どもも、大人を見て感じているのでしょうかね。なんだか面白いと感じてしまいますし、まぁどちらもお互いさまということで、大人と子どもが対等な関係になりやすい本だなぁと思いました。本質を見るには、両者の対等な関係が必要なのかもしれませんね。

  6. 大人になればなる程、頭は固くなり、聞く耳は遠くなり、意固地で論争好きの意見屋さんになっていってしまうのでしょうか。そうだとすれば、何の抵抗もなく大人になっていく人は、まるで退化をしていくようです。
    大人というのは、大きな人ということでしょうか。体格のことだけを指しているとすれば、体が『大』きいだけの、『人』です。大人という言葉自体は人間性や、精神的なものに触れていません。体格の話なのかもしれません。
    であれば、やはり、脳は使っていかなければなりません。子ども達はよくわかっています。体が大きいだけの人と見なされないように、見本となれるような生き方をしていきたいです。
    象をさわった人達の中に誰か一人でも、「皆の意見を合わせたらこんな姿形かな」とできる人はいなかったのでしょうか。権力のある人の前でも、心を騒がせず冷静に、よりくっきりと全員が気持ちよく全体を見渡せるように配慮をしていきたいものです。

  7. 物事の本質、私はまだ本質を見る力があまりないです。新しいことを始めるとき、必ず体験し、行動して、そこで得た経験が自分の力になっていきます。その時、これくらいでいいだろうとわかったつもりになることがあります。そのあと、必ず失敗をします。わかった!という実感が大切ではないですね。しかし、その実感は、自分自身の実感であって、人が感じる実感とは違う気がします。k.kさんが言っていた誰か一人でも協力する姿勢を見せたなら、結果は変わったでしょう。本質を見るのは、一人ではなく、様々なの意見があったり、協力をすることによって本質は見抜けるのかなと思いました。大人になり、考えが固くなっている部分もあります。新しい出会いや仲間との話し合いの中で、本質を見抜いてみたいと思いました。

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