障子を開けると何が?

 「障子を開けると、何が見えるでしょうか。」
「障子をあけてみよ 外は広いぞ」と言ったのは、豊田佐吉です。
私は幼稚園のころ、いつも思っていたことがあります。前の子のスモックの後ろをつまんで、みんなでつながって汽車ごっこをして遊んでいたのですが、そのたびに自分の手を見つめて、「なんで、手はものが握れるのだろう。」と不思議でした。同じように、今、保育園から車で帰るときに、「何で、足をちょっと踏むだけで、こんなに移動距離が瞬間に長くできるのだろう。」とつい、思ってしまうのです。原理はわかっているのですが、なんだか、車の発明に感動してしまうのです。
今日、「豊田佐吉記念館」に行ってきました。
豊田佐吉は、江戸時代の末期、慶応3年(1867)に、遠江国(現在の静岡県)に生まれました。佐吉の両親は、彼を大工にさせようと修行させましたが、発明・工夫の夢がすてられず、24才のときに、布地を織るバッタン式の木製織機(もくせいしょっき)を改良し、特許を得ました(明治24年)。その後、東京に出て会社を作り、自分で改良した機械を販売しようとしましたが、うまくいかず故郷に戻っていきます。しかし、故郷に戻ってからは、取扱いが簡単で能率のよい糸繰返機(かせくりき)を発明したり、木製織機を動力化したり、数々の発明を生み出し成功をおさめます。彼は、昭和5年(1930)、64才で死亡するまで、自動織機の改良を続け、特許を84件、実用新案権は35件も得ています。この豊田佐吉の成功をもとに、息子の喜一朗(きいちろう)がつくった自動車会社が、現在のトヨタ自動車です。
佐吉は、天才だと思います。天才というのは、天から授かった才能を、たとえどんな境遇にあっても、結局はいつか使うようになる天命がある気がしています。しかし、天才とは、黙って何かを生み出す能力ではなく、それに取り組む姿でさえ、天命なのです。当然、夜もろくに寝ないで研究したため、まるで病人のようになりました。周りの人にきちがい扱いされ、相手にされなくなりました。失敗を重ねてお金もどんどんなくなっていきました。佐吉の場合、それを支えたのは、母親だったようです。しかし、その子喜一郎の場合、このような父親を持つことは不幸でもあったようです。喜一郎の少年時代は暗く、孤独そのものでした。父親は発明に熱中するあまり家庭を顧みません。郷里や三河や東京を転々とするありさまで、喜一郎が生まれてまもなく、辛抱しきれなくなった母親までも、喜一郎をおいて離婚するのです。生後数年間、喜一郎は佐吉の両親に育てられました。その後、後妻の浅子のもとで育てられるようになります。しかし、浅子は佐吉の仕事にかかりっきりでした。いまでいう鍵っ子のような淋しい毎日を過ごしました。そんな喜一郎を癒したのは、機械の見取り図でした。部屋の片隅で暇さえあると黙々と図面のようなものを熱心に書いていたそうです。やはり、佐吉の子、喜一郎も天才のようです。
いま、離婚した親の元で育ったり、鍵っ子のように放っておかれたり、そんな状況でもいつか、どこかで、その才能を発揮する機会があるでしょうか。

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