省我のいわれ(真相)

 「省我」のいわれを、難しく語りました。しかし、本当のいわれは、もっと簡単な話ですということを話します。
じつは、諏訪市に、曹洞宗愛宕山地蔵寺という名刹があります。この寺の庭は、庭園史上江戸初期様式の代表作に推奨され、日本百名庭園にも数えられ幽邃な美しさで知られています。また、池泉は放生池で、祈願や供養に諏訪湖産の名鯉が放たれ「鯉の寺」の愛称もあります。その寺の境内に、歌が刻まれた石碑があります。その作者名に「省我」と刻まれています。この歌詠みは、私の何代か前の先祖で、連歌などを趣味にしていたようです。(奥の細道で、芭蕉に随行したことのある河合曾良と親交があったようです)そして、いくつか雅号を持っていました。そのうちの一つに「荷風省我」というものがあり、それを高校時代に知って、私は、意味もよくわからないで、当時ラジオなどに投稿するときのペンネームに使っていました。なんか、格好がよかったからです。そして、54年、八王子市に保育園を開園することになり、その名前をどうしようかと話し合った結果、私が、「省我」はどうかということで、まあ、先祖の名前だし、いいだろうということになったのです。
しかし、その後、その名前の由来を知って、重さを感じます。もう一方の「荷風」のほうも、意味があります。荷風といえば、永井荷風を思い浮かべますが、本当は、ハスの花の上に吹く風のことのようです。(今になると、それをどこで聞いたか忘れましたが)ということは、「荷風省我」というのは、「ハスの花の上に座って、そこに吹いてくる風に当たりながら、じっとわが身を省みている」というイメージです。最近は、その心境は、とてもいいなあと思うようになりました。今、園庭に花托が咲いています。「ハス」というのは、この植物の果実の入った花托が、昆虫の蜂の巣に似ているところから付けられた名前といわれています。ハチス(蜂巣)の「チ」が抜け、略されてハスになったというのが定説のようです。花托は9?11月ころに見られます。ハスというのは、原産地はインドであるといわれ,日本には中国を通じて伝わったものです。仏像の台座に「蓮華座(れんげざ)」というのがありますが,蓮華とはハス(蓮)の花そのものです。「ひ?らいた ひいらいた なんの はなが ひ?らいた れんげの は?なが ひいらいた」というのは,あのレンゲ草の花のことではなく、蓮の花の蓮華のことです。また、中華料理などに用いられる「れんげ」も、ハスの花びらの形に似ているところからついていますね。そして、蓮の根はレンコンですが,その通りの字を書いて、「蓮根」です。なんか、漠然と言っていること、知っていることが、つながってくると、納得がいくことが多いですね。

マンダラ

1冊の本と出合いました。「ネパールの神々」という本です。
その本は、ネワール人絵師イシュワリ・カルマチャリャの作品を集めた画集です。ネワール族というのは、語源は、ネパールと同一といわれています。その画集は、経典画ですが、ヒンドゥー教や仏教の神々が描かれています。どうして、こんな難しい画集を買ったかというと、その中の絵に、「マンダラ」の絵があったからです。ドイツに行った人たちを中心に、子どもたちに「マンダラの塗り絵」がはやっています。これは、集中することやバランスのとれた子どもになることに役に立つといわれているものです。この塗り絵の解説には、「マンダラは仏教とヒンズー教の文化から、瞑想の道として伝えられました。深層心理学者のユングもマンダラの価値を当時の現代人のために発見しました。」とありますが、マンダラの解説はなかなか難しく、しかも私みたいにあまり勉強家ではない者にとっては、簡単にこれを述べるわけにはいきませんが、塗り絵をさせておいて、何もわからずにいるのは申し訳ないと思い、私なりの解釈を少ししてみました。(専門の中山さんに笑われるかな)
曼荼羅(マンダラ)とはサンスクリット語で、通常、本質、精髄をもつもの、つまり仏の悟りそのものを意味する言葉とされています。また単に、円、輪、集合体と言う意味もあり、輪円具足(りんえんぐそく)と訳されることがあります。「円輪(輪円)具足」とは、車輪が車軸やスポークなどの部品(円輪)が完全に揃って(具足)はじめて機能を果たすという意味からきています。したがって、あらゆるものを包摂し、しかも円輪のごとく秩序を保ちつつ個性の発揮される、調和と共生の世界を説いていますので、私たちが進める「共異体」の世界であり、インクルージョンの世界であると私は思っています。画集の解説には、「マンダラは、神像やその象徴を含むが、同心円や方形などの幾何学的図像を用いることによって、全宇宙体系や秩序的体系を表現したものである。」と書いてあります。また、ユングはマンダラを「自分自身でも意識できない部分を含めた心全体を表現する図」と言っています。じっと見つめていると、宇宙の中の自分という存在が、個として存在しているのはなく、宇宙のなかで一体化した中で、自分が何をすべきなのか、自分の天命として、何が課せられているのか、という気持ちを、地球という枠から出て感じます。

愛 地球博

「ねえ、大阪の万博のとき、何年生だった?」少し前だったら、「東京オリンピックのときは、何歳だった?」と聞きました。年配の人は、「終戦のとき、何歳だった?」
よく、年齢をあらわすのに、共通体験を確認することがあります。これは、ほとんどすべての人がその経験をしていること、そのときの年齢がすぐに思い当たるほど、その経験が生活に密着していることが必要です。したがって、同じオリンピックでも、「メキシコオリンピックのときは?」と聞かれても、とっさに思い出せません。「札幌オリンピックのときは?」と聞かれると、微妙です。
 出来事だけでなく、「ビートルズの曲がはやっていたのは?」「ピンクレディーがはやっていたのは、何年生のころ?」「スターウォーズの第1作目が上映されたのは?」というように、当時はやっていた歌や映画の場合もあります。しかし、これになると、少し人によって、思い出せる人が違うことがありますが、それでも、大体話しがつながります。話だけでなく、歌の場合は、一緒に歌ったりします。最近のスマップのCMで、昔のTVアニメのエイトマンの主題歌を歌っていますが、私の職場で、その歌を知っているかということが話題になり、それによって年齢を判断しました。知っている人は、その後の部分を歌ったりしました。
 先日のTVの中での卒業式の場面で、子どもたちが自主的に「仰げば尊し」を歌った場面がありました。この歌を聴いて、私は懐かしく思いました。たぶん、私より上の人たちは、みんな懐かしく思ったでしょうし、みんなで歌おうと思えば歌えます。しかし、私の子どもたちは、もう卒業式では、その歌は歌っていません。この歌の是非は別として、最近は、この歌は歌わずに、その学校で選んだ卒業式の歌を歌います。したがって、年齢が違えば、また、学校が違えば共通な歌はありません。
 このように、最近は、多様化と、個人化で、ますますその世代の共通体験がだんだんなくなってきています。そんな時代の中で、久しぶりに共通の話題が今年ありました。「愛 地球博」です。もうすぐ閉幕ですが、今年何歳か覚えておくと、後で「ねえ、愛知博のとき、何歳だった?」と聞かれたときに、すぐに答えることができるでしょう。

「老」のイメージ

 今日は、「敬老の日」です。
「老」というイメージは、何歳くらいを思い描くでしょうか。
たぶん自分の年齢によるでしょう。ですから、自分の年齢が高くなるにつれて、だんだん、「老」のイメージは、高くなります。
 では、以前に少し話をした、「昔話」に出てくる「老」はどんなでしょう。
日本昔話の中の親子関係は、まず、ほとんどが、子どものいない老夫婦が、子どもが欲しくて欲しくてたまらずにいたところ、さまざまなパターンで授かり、その子どもがいろいろな冒険をするという構成になっています。
桃太郎(おじいさんとおばあさんに、桃から男の子が生まれる)
かぐやひめ(おじいさんとおばあさんに、竹から女の子が生まれる)
一寸法師(おじいさんとおばあさんに、指ほどの小さい男の子が生まれる)
力太郎(とんでもない無精たれのおじいさんとおばあさんに、体のあかから男の子が生まれる)
タニシ長者(貧しいお百姓夫婦に、タニシ(男の子)が生まれる)
うりこひめ(おじいさんとおばあさんに、瓜から女の子が生まれる。)

このように、ほとんどが「むかしむかし あるところに おじいさんとおばあさんがすんでいました。」という書き出しで始まる昔話ですが、生まれる子どもにしては、お父さんとお母さんですが、旅に出るときも、「おじいさん、おばあさん、行ってまいります。」と挨拶をします。本当は、「おとうさん、おかあさん、行ってまいります。」と言うのでしょうね。また、「じいさまかぼちゃ」という話は、きれいな娘が、じいさまとばあさまが欲しくて欲しくてたまらず、「おおきなかぼちゃ」をたたくと、中から、じいさまとばあさまが出てくるというものです。お父さんと、お母さんが欲しいということだと思うのですが。たぶん、そのあたりは、専門家が研究していると思いますので、本当のことはわかりませんが、昔話を読んだり、聞くものにとっては、どうしても子どもができないということをあらわすのには、おじいさんとか、おばあさんのほうが納得しやすいのでしょう。でも、当時の平均寿命からすると、このおじいさんでも、30歳くらいかもしれませんが。また、やっとできた子どもですから、子どもは、ただかわいがる存在のようです。そして、ある年になると、自立をしていき、冒険の旅に出て、それを見守るという過程が、お話になっています。

障子を開けると何が?

 「障子を開けると、何が見えるでしょうか。」
「障子をあけてみよ 外は広いぞ」と言ったのは、豊田佐吉です。
私は幼稚園のころ、いつも思っていたことがあります。前の子のスモックの後ろをつまんで、みんなでつながって汽車ごっこをして遊んでいたのですが、そのたびに自分の手を見つめて、「なんで、手はものが握れるのだろう。」と不思議でした。同じように、今、保育園から車で帰るときに、「何で、足をちょっと踏むだけで、こんなに移動距離が瞬間に長くできるのだろう。」とつい、思ってしまうのです。原理はわかっているのですが、なんだか、車の発明に感動してしまうのです。
今日、「豊田佐吉記念館」に行ってきました。
豊田佐吉は、江戸時代の末期、慶応3年(1867)に、遠江国(現在の静岡県)に生まれました。佐吉の両親は、彼を大工にさせようと修行させましたが、発明・工夫の夢がすてられず、24才のときに、布地を織るバッタン式の木製織機(もくせいしょっき)を改良し、特許を得ました(明治24年)。その後、東京に出て会社を作り、自分で改良した機械を販売しようとしましたが、うまくいかず故郷に戻っていきます。しかし、故郷に戻ってからは、取扱いが簡単で能率のよい糸繰返機(かせくりき)を発明したり、木製織機を動力化したり、数々の発明を生み出し成功をおさめます。彼は、昭和5年(1930)、64才で死亡するまで、自動織機の改良を続け、特許を84件、実用新案権は35件も得ています。この豊田佐吉の成功をもとに、息子の喜一朗(きいちろう)がつくった自動車会社が、現在のトヨタ自動車です。
佐吉は、天才だと思います。天才というのは、天から授かった才能を、たとえどんな境遇にあっても、結局はいつか使うようになる天命がある気がしています。しかし、天才とは、黙って何かを生み出す能力ではなく、それに取り組む姿でさえ、天命なのです。当然、夜もろくに寝ないで研究したため、まるで病人のようになりました。周りの人にきちがい扱いされ、相手にされなくなりました。失敗を重ねてお金もどんどんなくなっていきました。佐吉の場合、それを支えたのは、母親だったようです。しかし、その子喜一郎の場合、このような父親を持つことは不幸でもあったようです。喜一郎の少年時代は暗く、孤独そのものでした。父親は発明に熱中するあまり家庭を顧みません。郷里や三河や東京を転々とするありさまで、喜一郎が生まれてまもなく、辛抱しきれなくなった母親までも、喜一郎をおいて離婚するのです。生後数年間、喜一郎は佐吉の両親に育てられました。その後、後妻の浅子のもとで育てられるようになります。しかし、浅子は佐吉の仕事にかかりっきりでした。いまでいう鍵っ子のような淋しい毎日を過ごしました。そんな喜一郎を癒したのは、機械の見取り図でした。部屋の片隅で暇さえあると黙々と図面のようなものを熱心に書いていたそうです。やはり、佐吉の子、喜一郎も天才のようです。
いま、離婚した親の元で育ったり、鍵っ子のように放っておかれたり、そんな状況でもいつか、どこかで、その才能を発揮する機会があるでしょうか。

新宿区落合

 今日は、平成19年に開園する予定の新宿の保育園の保護者が、せいがの森保育園に見学に来ました。「新宿」といえば、ある思い出があります。今、園長として勤めているせいがの森保育園は、多摩ニュータウンにあります。多摩ニュータウンは、4市にまたがり、計画が始まり建設が始まってから、もう、30年以上経っています。初期の頃開発されたあたりは、高齢化と過疎化が始まり、小学校なども統廃合が問題になっていますし、また、丘陵を開発して町を造ったので、階段や坂が多く、高齢者にとっては、とても住みにくくなっています。それらの問題を話しあったり、研究するために、「ニュータウン学会」という集まりがあるのですが、私が理事を務めていた頃、「もう30年以上たっているのだから、ニュータウンと呼ぶのは、おかしいのではないだろうか。」という議論がありました。いろいろと話し合った結果、「新宿は、今でも新宿ではないか。」ということになり、ニュータウンのままで、落ち着きました。新宿という地名は、このようないきさつがあります。江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)の翌年に、日本橋を起点として五街道が定められました。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、各街道にはそれぞれ一定数の宿が置かれ、宿は伝馬を提供する義務が課せられていました。その一つである甲州街道は日本橋から甲府に至る幹線で、甲府から中山道の下諏訪まで連絡していました。甲州街道は、日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこで、名主・高松喜六らの願いにより、その中間にあたる地に宿場の設置が認められました。そして、1698年、内藤家の屋敷の一部を用地として新しい宿場が開設されたのです。このようにして甲州街道の新しい第一宿、内藤新宿が成立しました。この宿場の名前を、内藤氏が幕府に返上した屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、新宿の地名の起こりとなりました。今では、もう、新しい宿ではありません。しかし、新宿として、常に新しいものを発信しています。また、保育園ができるあたりは、「新宿区下落合」という地名です。落ち合う場所という意味ですが、何が落ち合うかというと、このあたりは、もと豊多摩郡落合町とよばれたところで、落合は、神田川と妙正寺川との合流点であることからといわれています。その西部にあることから西落合、中央部にあるので中落合、神田川の下流部分にあるので下落合、上流部にあるので上落合となったようです。
 今日のせいがの森保育園は、新宿の保護者たちと落ち合う場所でした。15,6名でしたが、ここまで見に来る保護者ということで、とても熱心で、子どもにも一生懸命で、先方でもそう思ってくれているそうですが、私も開園がとても楽しみです。いっしょになって、良い保育園を作り、日本に新しい発信していく仲間だという意識が確認できました。新しい保育園の名前は、「新宿せいが保育園」と名づけるつもりです。

臥竜塾のいわれ

 最近、かなり昔に読んだ本「天の園」「大地の園」と思いがけず何度か出会うことがありました。「天の園」は、打木村治の作品で、明治後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村(現在の唐子地区)を舞台に描かれた全六部の長編小説で、「路傍の石」「次郎物語」とともに三大児童文学と言われています。それぞれ1巻で、1学年での生活が書かれており、6学年で6巻というようになっています。そして、サブタイトルとして、「雲の○○」となっています。(たとえば、第1巻は、「雲の学校」)そのあとの中学生編が「大地の園」(全4巻)です。小学編は「天」、中学編は「地」。はっきりと区別した題をつけています。天と地の大きな違いは、子どもが育っていく環境です。「大地の園」1巻のあとがきに『<天を所有し天に所有されて自在>であった小学生のときとは、まるっきり勝手が違う。つまり、次元がちがってしまったのである。このちがいをわたしはきびしくみつめながら、やはり人間形成の基盤の追求の方法は変えなかった。べつのいいかたをすれば、雲に抱かれた童心の場と、地上でおのれをおのれの手で抱くよりほかない童心の場とを天と地に区別した。小学生は天の子であり、中学生は天から落ちた地上の子である。』と記しています。
この「大地の園」で、中学生の主人公の「保」がいつも先輩たちと話をしたり、集いあっている部屋を、保の母親が、「にぎやかで、まじめで、さわやかで、面白くて、いつまでも見とれてしまう風景が目の前で展開されていた。」この集まりを、将来天に上るために、今は臥せて、じっと力を蓄えている竜になぞらえて「臥竜塾」と名づけます。
 私が、保育園を始めた頃、夜、何人かの中学生の勉強をみていました。その風景が、「にぎやかで、まじめで、さわやかで、面白くて、いつまでも見とれてしまう風景」であったので、(そうなってほしいという希望も含めて)その場を「臥竜塾」と名づけていたのです。今回、ブログをはじめるにあたって、その場を何という名前にしようかと考えていたら、その名を思い出したのです。
 また、最近、ある映画のチラシが目に入りました。「雲の学校」という映画で、今年各地で上映かを行っています。その企画書には、こう書いてあります。
「本企画は、農民文学、児童文学の第一人者として多くの傑作を世に送り続けてきた打木村治先生の生誕100年を記念して、先生が昭和47年に発表した大作「天の園」全六巻をアニメーション映画化し、我々現代に生きる者達が見失ってしまった日本人の根底にあった大切なものを、もう一度考えて見る縁とすることを意図したものであります。」
そして、その舞台は、曼珠沙華を見に行ったあたりだったのです。今度、そのあたりの縁のある場所を散歩したり、記念碑を見ようと思います。映画も見る機会があったらといいなと思っています。