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2005年09月30日 [写真]
苔の洞門(支笏湖)と鮭の遡上(千歳川)

投稿者 fujimori : 23:55 | コメント (0)
千歳
明日は、朝早く金沢に移動するために、今日は千歳空港のそばのホテルで宿泊です。
この地のメッセージに「千歳一隅の出会い」というのがありました。これは、千年に1度の出会いということでしょう。しかし、これは、しゃれでしょうが、本当は、「千載一遇」といいます。この千歳(せんさい)と、千載(せんさい)とは、数で大きな違いがあります。というのは、「載」は数の単位で、1載は、10の48乗の数で、0が1の後に48個も並びます。私は、小学校のころクラブ活動で、「算数クラブ」に所属していました。なんだか、まじめそうな、難しそうなクラブですが、実は、毎回とても楽しみでした。数の不思議さ、数の楽しさを教えてくれたからです。その時間の中で、数の単位を教えてもらいました。普通は、「兆」くらいまでしか使いません。よく知っている人で次の単位の「京」くらいまでです。この後、ずいぶんと続きます。これは、覚えても意味がありませんが、数への興味を持つには役に立ちます。ためしに、並べてみます。
一(いち)・十(じゅう)・百(ひゃく)・千(せん)・万(まん)・億(おく)・兆(ちょう)・京(けい)・垓(がい)・ (し)・穰(じょう)・溝(こう)・澗(かん)・正(せい)・載(さい)・極(きょく)・恒河沙(こうがしゃ)・阿僧祇(あそうぎ)・那由他(なゆた)・不可思議(ふかしぎ)・無量大数(むりょうだいすう)です。万までは、0がひとつずつ増えていきますが、そのあとは、4つずつ増えていきます。ですから、最後の「1無量大数」は、0が68個つきます。(10の68乗)したがって、千載一遇でいう「千載」は「10の47乗分の1」と言う確立の事です。そのほかに、これら単位で面白く持ったのは、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数は仏教に由来します。10の52乗の「恒河沙」です。「恒河」とは、ガンジス河のことです。沙は、砂のことで、恒河沙とは、ガンジス河の砂の数ほど、と言う意味です。なるほどと思います。また、「阿僧祇」とは、梵語でアサンキヤの漢語で、インドの数量単位で極めて巨大で数えきれないという意味です。「無数」ということです。仏教用語で52段だかある悟りの極意を極めるために必要な時間だそうです。「那由他」は、訳梵語でナユタの漢語訳で、那だけでも大きいことを表し、やはり、きわめて大きい数の意味です。「不可思議」は、字の通り、梵語でアチンティアの漢語訳で「思い計る事ができない」という意味です。「無量大数」の無量とは、空間的に限られていない無限のことです。無量大数は時代によって、無量を10の68乗、大数を10の72乗と二つに分かれる場合があります。
たった、「千歳」というひとつの言葉から、思考というものは、無限に広がっていくのですね。
投稿者 fujimori : 23:32 | コメント (2)
2005年09月29日 [由来]
苫小牧と八王子
今、支笏湖温泉にいます。支笏というのは、奇妙な名前ですね。もとは、アイヌ語で「シ・コッ(大きな窪地)」と呼び、つまり最初は支笏湖を指す名前ではなかったということなのです。松前藩によると、もっと広範囲が「シコツ」のエリアとされていて、千歳だけでなく、苫小牧や鵡川方面までもがその範囲でした。そのときの漢字表記は「志古津」(シコツ)。 しかし、江戸時代の1805年のこと、「シコツ」だと「死骨」を連想し、縁起が悪いので改名することになり、「鶴は千年」にちなむ逆に縁起の良い「千歳(ちとせ)」と名づけて今日に至っているそうです。河川名も「千歳川」になりましたが、支笏湖にはそのまま名前が残っています。
という訳で、支笏湖は、苫小牧の近くでもあります。苫小牧というと、「パルプ」を思い出しますが、なんと、私の住む八王子市と姉妹都市なのです。それには、こんな経緯があります。
徳川幕府は甲府との境にあった八王子を、関東入国に際して、甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入を阻止する重要な砦と考えました。この警備に武田家の遺臣250人を落城後間もない八王子城下に配したのでした。(この落城物語が絵本になっています)そして、徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州との国境にあり、重要な逃走路となる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていました。その武士団を、「千人同心」といいます。身分は武士なのですが、通常は高持ちの百姓として、耕作にあたっていました。千人同心は当初の甲州境の警備だけでなく、のちには日光の東照宮の警備(火の番)や、江戸城や大阪城の修理などの活動も行いました。そして、「寛政12年(1800)に武州八王子から北辺の警備と北海道開拓のために未開の勇払原野に移住し鍬を振るいました。このことが本市開拓の第一歩となりましたが、厳しい気候条件などで不毛の原野の開拓は思うようにまかせず、多くの犠牲者を出し、入植4年目に開墾地を離れました。しかし先人たちのこのような筆舌に尽くし難い苦労が、200年を経た今日の苫小牧の礎となっています。」と、苫小牧市のホームページに記されています。現在ではこの縁で,日光市(栃木県)・苫小牧市(北海道)とは姉妹都市になっているのです。また幕末には長州出兵や横浜警備なども行っています。江戸幕府が安定すると,八王子千人同心の中から医師,文人,思想家などの多くの学識者を輩出し地域に文化的な影響を与えました。幕末、テレビの「新撰組」で有名になった新撰組6番隊隊長井上源三郎は、千人同心でした。今、千人同心の住んでいた屋敷跡には碑が建ち,その一帯は「千人町」という地名がついています。
各地を歩いたとき、その土地の由来を知り、それが身近かな関係であることを知ることは、ひとつの楽しみですね。
投稿者 fujimori : 12:55 | コメント (3)
2005年09月28日 [由来]
運動会

今日は、保育園で、運動会の第1回予行練習でした。私の園では、「子どもの運動能力の発達を保護者に伝える」という目的と、「親子のふれあいを提案する」という目的と、「普段の保育をより深める」という目的に位置づけられています。したがって、毎日練習するとか、その年齢ではできないようなことを披露するということはしませんので、予行練習日が、初めてやる日のようなところもあります。日本での運動会の歴史は1874年、海軍兵学校で、イギリス人ストレンジという東京大学予備門の英語教師が、教官指導のもと行った「競闘遊戯会(きょうとうゆうぎかい)」が、初めて人に見せる運動会の最初といわれています。そんな運動会も、時を経て、様々な形にその姿を変えていきました。今、小学校の学習指導要領では、 学校行事については,「全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,集団への所属感を深め,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。」と定められており、その中で、運動会は、「(3) 健康安全・体育的行事:心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。」と位置づけられています。ということで、現在では全ての学校で運動会が行われています。日本の多くの学校で行われている運動会は、当日までに何度も練習があり、全体で予行練習を行い、万全の状態で本番をむかえ、当日は白線が何本も引かれ、明確に区画された会場で大勢の観客に見守られる中、生徒全員による入場行進、整列の後は開会式が行われます。引き続き全校生徒による準備体操がある。その後には、徒競走、ダンスやマスゲーム、団体競技、組体操、リレーなどの種目が続きます。これは、この学習指導要領によっています。また、競技内容も運動会の起源のひとつとして海軍兵学寮によるもの、その発展によって戦前は戦意高揚に利用されてきたことが影響しています。騎馬戦、棒倒しなどは、その名残と思います。では、幼児期では運動会は、どのように位置づけられているのでしょうか。保育指針には、「保育の計画作成に当たっての留意事項」として、「各種の行事については、子どもが楽しく参加でき、生活経験が豊かなものになるように、日常の保育との調和のとれた計画を作成して実施すること。」と書かれていますし、幼稚園教育要領には、もっと具体的に、「特に留意する事項」として、「行事の指導に当たっては,幼稚園生活の自然の流れの中で生活に変化や潤いを与え,幼児が主体的に楽しく活動できるようにすること。なお,それぞれの行事についてはその教育的価値を十分検討し,適切なものを精選し,幼児の負担にならないようにすること。」となっています。もう一度、この視点に帰って、ただ、やめるとかやるではなく、行事の目的、練習方法、プログラムなど見直してみたほうが良いかもしれません。
投稿者 fujimori : 11:59 | コメント (0)
2005年09月27日 [来客]
看護師
今、看護学校から実習に来ています。現在、准看護師の資格は持っていて、正看護師になるために、「健常児と触れ合う」という課題を持ってきています。
2002年3月より保健婦・保健士、助産婦、看護婦・看護士、准看護婦・准看護士の名称は、それぞれ保健師、助産師、看護師、准看護師という名称に変更になりました。「保母」が「保育士」に変わったのと似ている状況があります。ひとつは、女性だけではなくなったということで、男女共通の呼び名に代えたということです。しかし、もともと、女性を「看護婦」男性を「看護士」と呼んでいたため、共通として、保育士のように「士」を使わずに「師」を使うことにしたのでしょうね。もう一つは、「婦」という字です。これは、なかなか難しい問題があります。「婦人」「主婦」なども議論を呼んでいます。漢和辞典(学習研究社「漢字源」)では、そもそも「婦」の原義は、「女+帚(ほうきを持つさま)で、掃除などの家庭の仕事をして、主人にぴったりと寄り添うよめやつまのこと」であり、「つまり、婦人、主婦、○○婦など、「婦」の使用は、女性は家にいて家事をという男性優位社会の固定観念を認め、それを助長することになるという主張です。しかし、語源というものは、いろいろな説があり、「掃く」という行為は、旺文社の「標準漢和辞典」によると、「女と帚(ほうき)とを合わせて、一家の祭事を行なう女・よめの意。のちにひろく、おんなの意に用いる。」とあり、帚(ほうき)は家事を行なうためでなく、祭事を行なうためのものと解しています。昔は家事ではなく、祭礼であるというのです。そのほかにも、どうも神聖な仕事をするようなイメージの解釈が多いようです。また、陳舜臣氏によれば「婦」は古来、上流の女性の階級名であり、掃くという意味はないといいます。しかし、もし「婦」という字を当てられたり、その呼称で呼ばれることが不愉快な人が多ければ、新しい字を考えてもいいかもしれません。また、「士」と「師」も難しいですね。ある辞書を調べると、「士には仕える」「師は先生をさす」とあり、別の辞書は、「士は資格・役割を持つ者」保育士や弁護士や栄養士などで、「師は技術者」のことで看護師や医師や美容師がこれに当たるといいます。また、准看の「准」も、「準」とどう違うのでしょうか。眠れなくなりそうですね。
投稿者 fujimori : 15:03 | コメント (0)
2005年09月26日 [読書]
江戸の子育て
昨日は、アメリカの古きよき時代の親子像を描いた映画を見ました。そういえば、日本のよき時代の親子像を書いたものがありました。
外国との交渉も持たず、安定した政権の中で庶民が過ごした江戸時代が終わろうとしたとき、そして、新しい明治という時代が始まったばかりのとき、さまざまな外国人が日本を訪れています。その人たちからすると、日本はかなり神秘の国だったでしょう。そして、日本の子育て、教育をどう見たのでしょう。それが「江戸の子育て」(中江和恵著)の序の部分に書いてありました。
イサベラ・バード(イギリス婦人):「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。」「子ども崇拝は米国よりも日本の場合がもっと一般的である。私が思うには、日本の形式が最もよい。」
モース(アメリカ人):「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。」「小さな子どもを一人家へ置いて行くようなことは決して無い。」
オールコック(イギリス初代駐日公使):「ここには捨て子の養育院は必要でないように思われるし、嬰児殺しもなさそうだ。」
フィッセル(オランダ商人):「私は子どもと親の愛こそは、日本人の特質の中に輝く二つの基本的な徳目であるといつも考えている。このことは、日本人が、生まれてからずっと、両親がすべてを子どもたちに任せてしまう年齢にいたるまで、子どものために捧げ続ける思いやりの程を見るとはっきりわかるのである。」「日本人は、子どもたちの無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大であり、手を打つことなどとてもできることではないくらいである。」
ゴロヴニン(ロシア海軍少佐):「日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持っている。ごく幼い頃からの読み書き、法制、国史、地理などを教え、大きくなると武術を教える。しかし一等大切な点は、日本人が幼年時代から子弟に、忍耐、質素、礼儀を極めてたくみに教え込むことである。」「日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書きのできない人間や、祖国の法律を知らない人間はひとりもいない。」
ニコライ(ロシア領事館付主任司祭):「読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にも引けを取らない。」
大げさであったり、一部しか見ていない感はあるものの、この頃の庶民の暮らしを見ると、納得する部分もあります。今でも、冷静に考えてみると、世界の中では、日本という国は、このような国かもしれません。
投稿者 fujimori : 19:25 | コメント (0)
2005年09月25日 [映画]
シンデレラマン

最近、映画を見るとき、片方が50歳以上の夫婦であれば、二人とも1000円で見ることができる企画があります。昨年その企画があったため、かなり映画を見ました。1年限りの企画だったのですが、好評のため、今年も継続されています。
今日は、台風の影響で雨が降る予想があったために、映画を見ることにしました。その映画は、「シンデレラマン」です。実在のボクサー、ジム・ブラドックの半生を描いた伝記映画です。内容は、主人公のジムは愛する妻、3人の子供と幸せに暮らしながら、将来を期待されるボクサーでした。ところが拳の負傷から負けが込み、やがてライセンスを剥奪され失業者となってしまいます。経済的な困窮から家族はやがて何度も離れ離れになってしまいそうになりましたが、ある日、元マネージャーから一夜限りの復帰戦の話がきます。強豪ボクサーの相手がおらず、ジムに白羽の矢が立ったのです。じつは、単にKO経験の無い彼が滅多打ちにされるという筋書きを期待されてのことだったのです。しかし、意外な試合結果を呼びます。その後、ジムは一念発起、猛トレーニングを開始し、復活するという話です。タイトルの「シンデレラマン」は、アメリカの好きな「シンデレラストーリー」をイメージします。最後には、ハッピーエンドという安心して見られる内容です。しかし、いろいろと考えるところがあります。たとえば、ボクシングで戦うときに、よくスポーツ選手が言いそうな「夢をつかむために戦い、勝利をつかむ」という様子は、主人公には微塵もありません。逆に、自意識過剰で夢を追いまくる権化のようなボクサーと戦うことで、その考え方を否定しているかのようにも見えます。では、彼は何のために戦ったのでしょうか。彼は劇中のインタビューでそう聞かれたとき、生活のためという言い方の「パン」のためと答えずに、「ミルク」と答えます。これが、実は、この映画の主題の気がします。彼は、普段はおとなしいのですが、貧しさのために妻が子どもたちを親類に預けることを決めたときだけは猛烈に怒ります。また、家族を養うために、いとも簡単に選手としてのプライドを捨て、かつての仲間の元へ無心にも行ったりします。こうした行動からわかるように、この映画の主人公の生きていく中心は、子ども、家族なのです。これが、「ミルク」で象徴されている気がします。ボクシングをすることは、単に「自分の夢をかなえる」ということとか、「生活の糧」とかではなく、「家族とともに暮らすこと」「子どものため」がすべてなのです。生きる中心に常に子ども、家族を置くことが、人を強くするということを教えている気がします。
投稿者 fujimori : 20:26 | コメント (0)
2005年09月24日 [来客]
いろいろな見方
今日は、鯖江市の「草の実保育園」の職員全員26名で見学に来ました。その園には行ったことがあって、私の話を聞いたりしている人は多いのですが、実際に見てみようということで来ました。私の園には、いろいろと見学は多いのですが、園の誰が来るか、それを園に戻って、他の職員にどう伝えるかが課題のようです。そういう意味では、全員で見に来るということはとてもいいことです。しかし、園では、なかなかそれを実現する日程が組みにくいようです。どうしても、土曜日か日曜日になってしまいます。しかし、土曜日は園児の登園が極端に減りますので、普段の保育を見ることはできずに、環境を見て、想像してもらうしかありません。「人が生きている象を見ることは希である。だから、死んだ象の骨を見て、その姿を考え、その生きていた姿を想像した。」と、たしか韓非子にありました。
象といえば、もう一つこんな逸話を思い出します。「群盲(ぐんもう)象を評(ひょう)す(群盲象を撫でる、とも言う)」と言うことです。昔、王様が、目の見えない人を数人連れてきて、その人たちには見たことも聞いたこともない「象」というものにさわらせ、それがどのようなものなのか、王様に説明させたという話しです。手を引かれて大きな象の回りに立った数人の、目が見えない人々が生まれて初めて「象」の身体にさわります。そして一人ずつに象とはどういうものかを説明させます。
「象は、骨のように堅くて、つるつるして、先が尖って曲がっている丸い棒のようなものです。」
「いえいえ、太い柱のようなもので毛が生えております。」
「いや、毛は生えているが柱ではなくて壁のようなものです。」
「違います、薄くて平べったい、大きな団扇のようなものです。」
「とんでもない、象は綱のようなものです。」
「何を言うか、象は柔らかくて動く丸い管のようなものです。」
こうしてそれぞれが触れた部分だけが「象」というものなのだと思い込んで、ケンカが始まったという話です。これは、人々は自分が体験したつもりのものでも、実は、ほんの一部分だけの情報や一つの側面の解釈であり、全体を正しく理解することはなかなか難しいということを言っているといわれています。たとえば、円柱の形を人に説明をするとき、上から見ると円に見えます。真横から見ると長方形に見えます。また、斜めに切った切り口を見ると楕円に見えます。どこを、どのように見たかで、形が違ってくるのです。(しかし、この逸話の解釈も様々あるようです。)
もう一つ象というと、「星の王子様」を思い浮かべます。あの、最初の象を飲み込んだうわばみの絵です。この絵を見た大人たちは、帽子が書いてあると思います。そこで、こう思います。「大人の人ってものは、よくわけを話してやらないと、わからないのでした。」また、こう言います。「僕は、がっかりしたのです。大人の人たちときたら、自分たちだけでは、何一つわからないのです。始終、これはこうだと説明しなければならないようだと、子どもは、くたびれてしまうんですがね。」
本質を見るのは、難しいですね。
投稿者 fujimori : 18:25 | コメント (2)
2005年09月23日 [写真]
継子の尻拭い

投稿者 fujimori : 21:29 | コメント (1)
昔話の親子パート2
日本の昔話が、「むかしむかし あるところに おじいさんとおばあさんが すんでいました」と始まることで有名ですが、外国の昔話の親子関係というと、まず、どんなイメージを持つでしょうか。わたしは、知っている有名な話で思い浮かぶのは、「シンデレラ」「白雪姫」「ヘンゼルとグレーテル」などですが、これら外国の話の多くは、母親がなくなり、父親に後妻が来て、その後妻が意地悪だったり、魔女だったりして子どもを追い出してしまう話が多いようです。母親の強さに引き換え、父親は人がよく、やさしいが、母親の意見に逆らえない存在として描かれています。そして、外国の話は、子どもよりも夫婦としての結びつきを優先することが多いようです。日本で、最近、再婚した相手の気を引くために実のわが子を虐待してしまう親がいるというニュースを思い浮かべます。なんだか、外国の残酷な昔話に似ています。日本では、各国の中でも子どもを優先に考え、大切にする国といわれてきました。最近は、子どもを別の存在と考え、夫婦間を優先に考える海外の考え方に近くなっているのかもしれません。
しかし、日本でも、継母にいじめられるという話は、よくありますが、それは、ちょっと違うようです。有名なものに、落窪物語(平安時代に作られた中編の物語で、作者・成立年ともに不明)がありますが、テーマは”継子いじめ”、すなわち、養女として引き取られた家で継母にいじめられる姫君のお話です。そのほか、この”継子いじめ”というテーマは、物語のひとつのパターンとして、室町時代の物語や御伽草子などでよく扱われました。平安時代当時から人気のある物語だったようです。しかし、最後は、幸せになったり、継母に仕返しをすることで終わるので、なんとなく救われますが。
といえば、思い当たる草花があります。ちょうど今の頃、夏から秋にかけて、少し湿気の多い野原や土手に、しばしば群生している花です。園でもたまに咲くことがあり、私はその花を見つけると、すぐに取り除くように指示します。花は、小さくてかわいらしいのですが、茎にびっしりと下向きの刺(トゲ)を持ち、子どもが触ったり、大人が他の草を抜こうとして、思わず触ったりすると、とても痛い思いをするからです。また、花のかわいらしさに反して、この花の名前は何とも凄まじい名前です。「継子の尻拭い」(ままこのしりぬぐい)といいます。継母(ままはは)が継子(ままこ)の尻をこれで拭いて継子いじめをする例え(たとえ)に付けられた名前です。なんだか、切ないですね。
投稿者 fujimori : 21:20 | コメント (0)
2005年09月22日 [写真]
ハスの花と花托

投稿者 fujimori : 18:09 | コメント (0)
省我のいわれ(真相)
「省我」のいわれを、難しく語りました。しかし、本当のいわれは、もっと簡単な話ですということを話します。
じつは、諏訪市に、曹洞宗愛宕山地蔵寺という名刹があります。この寺の庭は、庭園史上江戸初期様式の代表作に推奨され、日本百名庭園にも数えられ幽邃な美しさで知られています。また、池泉は放生池で、祈願や供養に諏訪湖産の名鯉が放たれ「鯉の寺」の愛称もあります。その寺の境内に、歌が刻まれた石碑があります。その作者名に「省我」と刻まれています。この歌詠みは、私の何代か前の先祖で、連歌などを趣味にしていたようです。(奥の細道で、芭蕉に随行したことのある河合曾良と親交があったようです)そして、いくつか雅号を持っていました。そのうちの一つに「荷風省我」というものがあり、それを高校時代に知って、私は、意味もよくわからないで、当時ラジオなどに投稿するときのペンネームに使っていました。なんか、格好がよかったからです。そして、54年、八王子市に保育園を開園することになり、その名前をどうしようかと話し合った結果、私が、「省我」はどうかということで、まあ、先祖の名前だし、いいだろうということになったのです。
しかし、その後、その名前の由来を知って、重さを感じます。もう一方の「荷風」のほうも、意味があります。荷風といえば、永井荷風を思い浮かべますが、本当は、ハスの花の上に吹く風のことのようです。(今になると、それをどこで聞いたか忘れましたが)ということは、「荷風省我」というのは、「ハスの花の上に座って、そこに吹いてくる風に当たりながら、じっとわが身を省みている」というイメージです。最近は、その心境は、とてもいいなあと思うようになりました。今、園庭に花托が咲いています。「ハス」というのは、この植物の果実の入った花托が、昆虫の蜂の巣に似ているところから付けられた名前といわれています。ハチス(蜂巣)の「チ」が抜け、略されてハスになったというのが定説のようです。花托は9~11月ころに見られます。ハスというのは、原産地はインドであるといわれ,日本には中国を通じて伝わったものです。仏像の台座に「蓮華座(れんげざ)」というのがありますが,蓮華とはハス(蓮)の花そのものです。「ひ~らいた ひいらいた なんの はなが ひ~らいた れんげの は~なが ひいらいた」というのは,あのレンゲ草の花のことではなく、蓮の花の蓮華のことです。また、中華料理などに用いられる「れんげ」も、ハスの花びらの形に似ているところからついていますね。そして、蓮の根はレンコンですが,その通りの字を書いて、「蓮根」です。なんか、漠然と言っていること、知っていることが、つながってくると、納得がいくことが多いですね。
投稿者 fujimori : 17:58 | コメント (0)
2005年09月21日 [写真]
マンダラ(画集より)
投稿者 fujimori : 19:14 | コメント (0)
マンダラ
1冊の本と出合いました。「ネパールの神々」という本です。
その本は、ネワール人絵師イシュワリ・カルマチャリャの作品を集めた画集です。ネワール族というのは、語源は、ネパールと同一といわれています。その画集は、経典画ですが、ヒンドゥー教や仏教の神々が描かれています。どうして、こんな難しい画集を買ったかというと、その中の絵に、「マンダラ」の絵があったからです。ドイツに行った人たちを中心に、子どもたちに「マンダラの塗り絵」がはやっています。これは、集中することやバランスのとれた子どもになることに役に立つといわれているものです。この塗り絵の解説には、「マンダラは仏教とヒンズー教の文化から、瞑想の道として伝えられました。深層心理学者のユングもマンダラの価値を当時の現代人のために発見しました。」とありますが、マンダラの解説はなかなか難しく、しかも私みたいにあまり勉強家ではない者にとっては、簡単にこれを述べるわけにはいきませんが、塗り絵をさせておいて、何もわからずにいるのは申し訳ないと思い、私なりの解釈を少ししてみました。(専門の中山さんに笑われるかな)
曼荼羅(マンダラ)とはサンスクリット語で、通常、本質、精髄をもつもの、つまり仏の悟りそのものを意味する言葉とされています。また単に、円、輪、集合体と言う意味もあり、輪円具足(りんえんぐそく)と訳されることがあります。「円輪(輪円)具足」とは、車輪が車軸やスポークなどの部品(円輪)が完全に揃って(具足)はじめて機能を果たすという意味からきています。したがって、あらゆるものを包摂し、しかも円輪のごとく秩序を保ちつつ個性の発揮される、調和と共生の世界を説いていますので、私たちが進める「共異体」の世界であり、インクルージョンの世界であると私は思っています。画集の解説には、「マンダラは、神像やその象徴を含むが、同心円や方形などの幾何学的図像を用いることによって、全宇宙体系や秩序的体系を表現したものである。」と書いてあります。また、ユングはマンダラを「自分自身でも意識できない部分を含めた心全体を表現する図」と言っています。じっと見つめていると、宇宙の中の自分という存在が、個として存在しているのはなく、宇宙のなかで一体化した中で、自分が何をすべきなのか、自分の天命として、何が課せられているのか、という気持ちを、地球という枠から出て感じます。
投稿者 fujimori : 19:07 | コメント (2)
2005年09月20日 [記念日]
愛 地球博
「ねえ、大阪の万博のとき、何年生だった?」少し前だったら、「東京オリンピックのときは、何歳だった?」と聞きました。年配の人は、「終戦のとき、何歳だった?」
よく、年齢をあらわすのに、共通体験を確認することがあります。これは、ほとんどすべての人がその経験をしていること、そのときの年齢がすぐに思い当たるほど、その経験が生活に密着していることが必要です。したがって、同じオリンピックでも、「メキシコオリンピックのときは?」と聞かれても、とっさに思い出せません。「札幌オリンピックのときは?」と聞かれると、微妙です。
出来事だけでなく、「ビートルズの曲がはやっていたのは?」「ピンクレディーがはやっていたのは、何年生のころ?」「スターウォーズの第1作目が上映されたのは?」というように、当時はやっていた歌や映画の場合もあります。しかし、これになると、少し人によって、思い出せる人が違うことがありますが、それでも、大体話しがつながります。話だけでなく、歌の場合は、一緒に歌ったりします。最近のスマップのCMで、昔のTVアニメのエイトマンの主題歌を歌っていますが、私の職場で、その歌を知っているかということが話題になり、それによって年齢を判断しました。知っている人は、その後の部分を歌ったりしました。
先日のTVの中での卒業式の場面で、子どもたちが自主的に「仰げば尊し」を歌った場面がありました。この歌を聴いて、私は懐かしく思いました。たぶん、私より上の人たちは、みんな懐かしく思ったでしょうし、みんなで歌おうと思えば歌えます。しかし、私の子どもたちは、もう卒業式では、その歌は歌っていません。この歌の是非は別として、最近は、この歌は歌わずに、その学校で選んだ卒業式の歌を歌います。したがって、年齢が違えば、また、学校が違えば共通な歌はありません。
このように、最近は、多様化と、個人化で、ますますその世代の共通体験がだんだんなくなってきています。そんな時代の中で、久しぶりに共通の話題が今年ありました。「愛 地球博」です。もうすぐ閉幕ですが、今年何歳か覚えておくと、後で「ねえ、愛知博のとき、何歳だった?」と聞かれたときに、すぐに答えることができるでしょう。
投稿者 fujimori : 21:32 | コメント (0)
2005年09月19日 [読書]
「老」のイメージ
今日は、「敬老の日」です。
「老」というイメージは、何歳くらいを思い描くでしょうか。
たぶん自分の年齢によるでしょう。ですから、自分の年齢が高くなるにつれて、だんだん、「老」のイメージは、高くなります。
では、以前に少し話をした、「昔話」に出てくる「老」はどんなでしょう。
日本昔話の中の親子関係は、まず、ほとんどが、子どものいない老夫婦が、子どもが欲しくて欲しくてたまらずにいたところ、さまざまなパターンで授かり、その子どもがいろいろな冒険をするという構成になっています。
桃太郎(おじいさんとおばあさんに、桃から男の子が生まれる)
かぐやひめ(おじいさんとおばあさんに、竹から女の子が生まれる)
一寸法師(おじいさんとおばあさんに、指ほどの小さい男の子が生まれる)
力太郎(とんでもない無精たれのおじいさんとおばあさんに、体のあかから男の子が生まれる)
タニシ長者(貧しいお百姓夫婦に、タニシ(男の子)が生まれる)
うりこひめ(おじいさんとおばあさんに、瓜から女の子が生まれる。)
このように、ほとんどが「むかしむかし あるところに おじいさんとおばあさんがすんでいました。」という書き出しで始まる昔話ですが、生まれる子どもにしては、お父さんとお母さんですが、旅に出るときも、「おじいさん、おばあさん、行ってまいります。」と挨拶をします。本当は、「おとうさん、おかあさん、行ってまいります。」と言うのでしょうね。また、「じいさまかぼちゃ」という話は、きれいな娘が、じいさまとばあさまが欲しくて欲しくてたまらず、「おおきなかぼちゃ」をたたくと、中から、じいさまとばあさまが出てくるというものです。お父さんと、お母さんが欲しいということだと思うのですが。たぶん、そのあたりは、専門家が研究していると思いますので、本当のことはわかりませんが、昔話を読んだり、聞くものにとっては、どうしても子どもができないということをあらわすのには、おじいさんとか、おばあさんのほうが納得しやすいのでしょう。でも、当時の平均寿命からすると、このおじいさんでも、30歳くらいかもしれませんが。また、やっとできた子どもですから、子どもは、ただかわいがる存在のようです。そして、ある年になると、自立をしていき、冒険の旅に出て、それを見守るという過程が、お話になっています。
投稿者 fujimori : 23:08 | コメント (0)
2005年09月18日 [散歩]
障子を開けると何が?
「障子を開けると、何が見えるでしょうか。」
「障子をあけてみよ 外は広いぞ」と言ったのは、豊田佐吉です。
私は幼稚園のころ、いつも思っていたことがあります。前の子のスモックの後ろをつまんで、みんなでつながって汽車ごっこをして遊んでいたのですが、そのたびに自分の手を見つめて、「なんで、手はものが握れるのだろう。」と不思議でした。同じように、今、保育園から車で帰るときに、「何で、足をちょっと踏むだけで、こんなに移動距離が瞬間に長くできるのだろう。」とつい、思ってしまうのです。原理はわかっているのですが、なんだか、車の発明に感動してしまうのです。
今日、「豊田佐吉記念館」に行ってきました。
豊田佐吉は、江戸時代の末期、慶応3年(1867)に、遠江国(現在の静岡県)に生まれました。佐吉の両親は、彼を大工にさせようと修行させましたが、発明・工夫の夢がすてられず、24才のときに、布地を織るバッタン式の木製織機(もくせいしょっき)を改良し、特許を得ました(明治24年)。その後、東京に出て会社を作り、自分で改良した機械を販売しようとしましたが、うまくいかず故郷に戻っていきます。しかし、故郷に戻ってからは、取扱いが簡単で能率のよい糸繰返機(かせくりき)を発明したり、木製織機を動力化したり、数々の発明を生み出し成功をおさめます。彼は、昭和5年(1930)、64才で死亡するまで、自動織機の改良を続け、特許を84件、実用新案権は35件も得ています。この豊田佐吉の成功をもとに、息子の喜一朗(きいちろう)がつくった自動車会社が、現在のトヨタ自動車です。
佐吉は、天才だと思います。天才というのは、天から授かった才能を、たとえどんな境遇にあっても、結局はいつか使うようになる天命がある気がしています。しかし、天才とは、黙って何かを生み出す能力ではなく、それに取り組む姿でさえ、天命なのです。当然、夜もろくに寝ないで研究したため、まるで病人のようになりました。周りの人にきちがい扱いされ、相手にされなくなりました。失敗を重ねてお金もどんどんなくなっていきました。佐吉の場合、それを支えたのは、母親だったようです。しかし、その子喜一郎の場合、このような父親を持つことは不幸でもあったようです。喜一郎の少年時代は暗く、孤独そのものでした。父親は発明に熱中するあまり家庭を顧みません。郷里や三河や東京を転々とするありさまで、喜一郎が生まれてまもなく、辛抱しきれなくなった母親までも、喜一郎をおいて離婚するのです。生後数年間、喜一郎は佐吉の両親に育てられました。その後、後妻の浅子のもとで育てられるようになります。しかし、浅子は佐吉の仕事にかかりっきりでした。いまでいう鍵っ子のような淋しい毎日を過ごしました。そんな喜一郎を癒したのは、機械の見取り図でした。部屋の片隅で暇さえあると黙々と図面のようなものを熱心に書いていたそうです。やはり、佐吉の子、喜一郎も天才のようです。
いま、離婚した親の元で育ったり、鍵っ子のように放っておかれたり、そんな状況でもいつか、どこかで、その才能を発揮する機会があるでしょうか。
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2005年09月17日 [来客]
新宿区落合
今日は、平成19年に開園する予定の新宿の保育園の保護者が、せいがの森保育園に見学に来ました。「新宿」といえば、ある思い出があります。今、園長として勤めているせいがの森保育園は、多摩ニュータウンにあります。多摩ニュータウンは、4市にまたがり、計画が始まり建設が始まってから、もう、30年以上経っています。初期の頃開発されたあたりは、高齢化と過疎化が始まり、小学校なども統廃合が問題になっていますし、また、丘陵を開発して町を造ったので、階段や坂が多く、高齢者にとっては、とても住みにくくなっています。それらの問題を話しあったり、研究するために、「ニュータウン学会」という集まりがあるのですが、私が理事を務めていた頃、「もう30年以上たっているのだから、ニュータウンと呼ぶのは、おかしいのではないだろうか。」という議論がありました。いろいろと話し合った結果、「新宿は、今でも新宿ではないか。」ということになり、ニュータウンのままで、落ち着きました。新宿という地名は、このようないきさつがあります。江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)の翌年に、日本橋を起点として五街道が定められました。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道で、各街道にはそれぞれ一定数の宿が置かれ、宿は伝馬を提供する義務が課せられていました。その一つである甲州街道は日本橋から甲府に至る幹線で、甲府から中山道の下諏訪まで連絡していました。甲州街道は、日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこで、名主・高松喜六らの願いにより、その中間にあたる地に宿場の設置が認められました。そして、1698年、内藤家の屋敷の一部を用地として新しい宿場が開設されたのです。このようにして甲州街道の新しい第一宿、内藤新宿が成立しました。この宿場の名前を、内藤氏が幕府に返上した屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれ、新宿の地名の起こりとなりました。今では、もう、新しい宿ではありません。しかし、新宿として、常に新しいものを発信しています。また、保育園ができるあたりは、「新宿区下落合」という地名です。落ち合う場所という意味ですが、何が落ち合うかというと、このあたりは、もと豊多摩郡落合町とよばれたところで、落合は、神田川と妙正寺川との合流点であることからといわれています。その西部にあることから西落合、中央部にあるので中落合、神田川の下流部分にあるので下落合、上流部にあるので上落合となったようです。
今日のせいがの森保育園は、新宿の保護者たちと落ち合う場所でした。15,6名でしたが、ここまで見に来る保護者ということで、とても熱心で、子どもにも一生懸命で、先方でもそう思ってくれているそうですが、私も開園がとても楽しみです。いっしょになって、良い保育園を作り、日本に新しい発信していく仲間だという意識が確認できました。新しい保育園の名前は、「新宿せいが保育園」と名づけるつもりです。
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2005年09月16日 [写真]
唐子の田園風景

投稿者 fujimori : 17:40 | コメント (0)
臥竜塾のいわれ
最近、かなり昔に読んだ本「天の園」「大地の園」と思いがけず何度か出会うことがありました。「天の園」は、打木村治の作品で、明治後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村(現在の唐子地区)を舞台に描かれた全六部の長編小説で、「路傍の石」「次郎物語」とともに三大児童文学と言われています。それぞれ1巻で、1学年での生活が書かれており、6学年で6巻というようになっています。そして、サブタイトルとして、「雲の○○」となっています。(たとえば、第1巻は、「雲の学校」)そのあとの中学生編が「大地の園」(全4巻)です。小学編は「天」、中学編は「地」。はっきりと区別した題をつけています。天と地の大きな違いは、子どもが育っていく環境です。「大地の園」1巻のあとがきに『<天を所有し天に所有されて自在>であった小学生のときとは、まるっきり勝手が違う。つまり、次元がちがってしまったのである。このちがいをわたしはきびしくみつめながら、やはり人間形成の基盤の追求の方法は変えなかった。べつのいいかたをすれば、雲に抱かれた童心の場と、地上でおのれをおのれの手で抱くよりほかない童心の場とを天と地に区別した。小学生は天の子であり、中学生は天から落ちた地上の子である。』と記しています。
この「大地の園」で、中学生の主人公の「保」がいつも先輩たちと話をしたり、集いあっている部屋を、保の母親が、「にぎやかで、まじめで、さわやかで、面白くて、いつまでも見とれてしまう風景が目の前で展開されていた。」この集まりを、将来天に上るために、今は臥せて、じっと力を蓄えている竜になぞらえて「臥竜塾」と名づけます。
私が、保育園を始めた頃、夜、何人かの中学生の勉強をみていました。その風景が、「にぎやかで、まじめで、さわやかで、面白くて、いつまでも見とれてしまう風景」であったので、(そうなってほしいという希望も含めて)その場を「臥竜塾」と名づけていたのです。今回、ブログをはじめるにあたって、その場を何という名前にしようかと考えていたら、その名を思い出したのです。
また、最近、ある映画のチラシが目に入りました。「雲の学校」という映画で、今年各地で上映かを行っています。その企画書には、こう書いてあります。
「本企画は、農民文学、児童文学の第一人者として多くの傑作を世に送り続けてきた打木村治先生の生誕100年を記念して、先生が昭和47年に発表した大作「天の園」全六巻をアニメーション映画化し、我々現代に生きる者達が見失ってしまった日本人の根底にあった大切なものを、もう一度考えて見る縁とすることを意図したものであります。」
そして、その舞台は、曼珠沙華を見に行ったあたりだったのです。今度、そのあたりの縁のある場所を散歩したり、記念碑を見ようと思います。映画も見る機会があったらといいなと思っています。
投稿者 fujimori : 17:29 | コメント (1)
2005年09月15日 [評価]
グッドデザイン賞受賞(内緒)
今年も、グッドデザイン賞を受賞しました!(本当は、10月3日にプレス発表なので、今は内緒です)
2001年度、「せいがの森保育園」で、グッドデザイン賞(新領域部門)を授賞しました。そのときのテーマは、「人々の関係性のデザイン」でした。グッドデザインといえば、どうしても形がいいと思いがちです。ですから、受賞したというと、「さすがいい建物ですね。」と言われます。しかし、形ではないもののデザインの評価ということで、「新領域部門」が2000年に創設されたのです。その部門に、園が、地域の人々、異年齢の子ども同士の関係性をデザインしていて、その結節点としての役割を担っているということで応募し、受賞したのです。面白いですね。そう思ってみると、よいデザインはいろいろなところにあります。賞といえば、せいがの森保育園がある地域のNPOが「都市景観賞」を受賞しました。私が授賞式に参加して、賞状をもらったのですが、都市の景観が美しいという評価には、三つの条件があります。まず、「町並みが美しいこと」、「官民の連携が美しいこと」、「地域住民の活動が美しい」ことが挙げられています。やはり、最近評価されるのは、人々の動きのデザインの美しさです。ということで、今年受賞したのも、ギビングツリー(私が主宰する保育環境研究所)と、株式会社世界文化社との共同開発によって作った保育家具についてですが、家具そのものではなく、「子どもの動きをデザインする」ということで、新領域部門に応募しました。コンセプトは、子どもたちが自発的に遊び、主体的に関われる環境の構成、よい「空間的環境」の実現を目指すものです。空間をデザインすることで、子どもの動きをデザインし、その動きから、今後、子どもに望まれる力を育成していこうというものです。前回の受賞のときにも思ったことですが、受賞は、私が提案した内容というよりも、これらの提案を評価する審査員の力量を感じます。保育園の第三者評価事業においても、調査者の力量が求められますね。新しい時代の保育の提案、実践を評価できる知見の広さを望みます。
投稿者 fujimori : 23:20 | コメント (2)
2005年09月14日 [来客]
見学者
今日は、セミナーの最終日で、園への見学者が、25人来ました。これでも、月曜日の62人と比べるとかなり少ないので、園内がだいぶすいている感じがします。私が園にいるときは、ほとんど毎日といってもいいくらいに来客があります。そのなかに、園を見に来る人がいます。多くの来客を受け入れていると、こちらからいろいろと見えてくるものがあります。園を見に来る人がいると書いたのは、実は、見学をしない人がいるということです。私は、見学は、「見る」だけでなく、そこから「学び」がないといけないと思っているからです。必死に見ていても、学んでいません。また、「学ぶ」ということは、そこから何かしら自分の中に取り入れて、次に、行動に移すことも意味します。私は、昔からかなり外国の保育を見てきました。しかし、「見て」来ただけのような気がします。「いいな」「きれいだな」「すごいな」だけでは、何の意味もありませんでした。最近は、やっと、ドイツに見学に行くようになりました。
「観光」という言葉でも、「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」ということが五経のうちの一つである易経にあるそうです。「国の光を観る」ということは、「その国の王の立派な人徳と、その王による国民の教化の美しさをみる」(これが、観光の意味)ということであり、「用て王に賓たるに利し」とは、「それだけの知力を持った人物であればこそ、王の賓客として遇せられる臣となることができる」(これが、観光の目的)ということのようです。同様に、「見学」には、「見て」「学ぶ」ということなのです。ぜひ、見学者には、いろいろと学んでほしいと思っています。
同じことが、私が提案する、「保育者は、子どもにとって、よき環境になるべきである。それは、子どもを見守ることである。」といっていますが、ここにも、ただ「見る」のではなく、「見て」「守る」二つの要素がなければいけないのだと思います。子どもが一生懸命にサインを出しているのに、「見守っています」という保育者がいますが、これは「見ています。」というべきですね。子どもの心をぜひ守ってもらいたいと思います。普段何気なく使っている言葉でも、よく考えるといろいろなものが見えてきますね。
投稿者 fujimori : 18:22 | コメント (0)
2005年09月13日 [写真]
第9回保育環境セミナー

投稿者 fujimori : 21:57 | コメント (0)
保育の質
今日は、保育環境セミナーの二日目です。昨日の理念の確認から、今日は、具体的にどんな保育に変えていかなければならないのか、そのためには、子どもをどのように支えていかなければいけないかを、ワークショップをしたり、海外の保育を参考にしたり、Q&Aから、今後進むべき方向を探りました。
一昨日の選挙において、小泉政権の圧倒的支持により、ますます、小泉構造改革の両輪である規制緩和と地方分権化は、進められていくと思います。その中で、教育、保育、少子化対策はどのように進んでいくのでしょうか。教育改革は、国による画一的な教育から、人々のニーズに応じた弾力的で多様な教育へと転換していくでしょう。そして、今行われている「特区」の試みのように、自治体がそれぞれのやり方を試し、その中の成功した手法を他の自治体が導入していくようになるでしょう。どちらにして、郵政事業の民営化同様、国任せの発想からの転換を迫られると思います。同じようなことが、保育行政に対しても行われるでしょう。介護保険同様に、利用者に直接助成する仕組みに転換していくことが予想されます。そうすることにより、助成なしに行われている認可外施設の質の向上と、量の拡大を狙います。これらの改革は、文面として聞くと、うなずけることも多く、納得がいきます。しかし、現実は、いろいろと難しい問題を含んでいます。確かに、競争することで質が高まるでしょう。しかし、その「質」とは、何でしょうか。企業の競争のひとつである、「価格競争」でしょうか。「サービス内容の質」でしょうか。私は、そのときに、本当の質が提案できる「専門性」が必要と思います。サービス内容が、ただ時間を長くするとか、休みを取らないで毎日預かるだけとか、親の手を煩わせないとか、子どもに苦労させないようにするとかだけであったら、一時、子どもの数が増えたところで、国を支え、世界に貢献する人材は育たない気がします。時代は後戻りしませんし、ただ、制度を守ろう、予算を守ろうという運動論だけでは、また、経営的強化だけに心を砕くだけでは、肝心の子どもは救えません。これからの時代を見据え、しっかりした「保育内容の質」を構築し、それを、きちんと自治体や保護者に提案できるような「専門性」をつけていかなければなりません。それを考えるきっかけとなれるような研修を目指しています。
投稿者 fujimori : 21:50 | コメント (0)
2005年09月12日 [セミナー]
オルタナティブ保育
今日から三日間、今年2回目の「第九回保育環境セミナー」が開催されています。毎回定員100名を超える参加者が全国から集まります。そのテーマは、新しい時代の保育を考えていこうとするものです。
家の冷蔵庫の扉には、妻がいろいろなものを貼ります。その中の1枚の紙切れには、これからの時代のキーワードとなるべき言葉が書かれています。その中のひとつに、最近出会うことが多くなりました。また、私の話の中にも使うことが多くなり始めている言葉があります。それは、オルタナティブ「alternative」という言葉です。(オルターナティブともいうこともあります。)意味は、
(1)二者択一。代替物。代案。
(2)既存のものと取ってかわる新しいもの。
(3)1990 年代のカウンター-カルチャー,音楽スタイルのこと。オルト-カルチャーとも。
(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)
ですが、オルタナティブ教育というように使われることがあります。それは、二番目の意味の、既成のものと取って代わる教育という意味で使われます。ただ、既成のものは何かということで、イメージするものがかなり違うようです。日本では、オルタナティブ-スクールというと、新語事典には、フリースクールのことを言うと書いてあります。フリースクールとは、授業への出席を強制しない,校則を全校集会で決めるなど,子どもの自由や自主性,個人差などを配慮した、児童中心主義の教育を行う学校形態の総称をいいます。それは、今の既成の学校は、授業への出席を強制する。校則を、教師か一部の生徒で決める。子どもの自由や自主性は認められず、個人差は配慮されず、教師中心主義の教育を行っているので、それに取って代わる教育ということです。「オランダの教育」(平凡社)の著作者である「リヒテルズ直子」氏は、既成の教育といわれるのは、長い間習慣とされてきた、同じ年齢の子どもをひとつの教室に集め、先生が教壇に立って、主に一方通行で知識を伝達し、子どもはそれを受身に習う、という形式の教育と考えて良いと思っています。この意味で、欧米では、新しいオルタナティブ教育が行われてきているようです。
では、私たちの保育はどうでしょうか。何が、既成のものとして思われているでしょうか。私は、まったくリヒテル直子さんが言っているように、「同じ年齢の子どもを、ひとつの保育室に集め、保育者が前に立って、主に一方的に知識や活動内容を伝達し、子どもはそれを受身に、言われたとおりに活動するという形態をとっている。」という保育が、既成のものとして行われている気がします。今の時代にあった、それに取って代わる保育を考えないといけないと思います。
投稿者 fujimori : 23:40 | コメント (0)
2005年09月11日 [写真]
曼珠沙華公園
投稿者 fujimori : 18:48 | コメント (0)
高麗神社とごんぎつね
今日の散歩は、9.11ということで、都内はテロなどで危ないかもしれないということで、山のほうへ花を見に行くことにしました。八王子から1時間くらいの日高市というところに、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)公園」があり、一面に彼岸花とも言う曼珠沙華が咲いているという公園があります。昨日から、公開されているということで行ってみました。西武池袋線の「高麗」という駅で降ります。近くにJRの駅で、「高麗川」という駅もありますが、高麗という字は、なかなか読める人はいないと思いますが、「こま」と読みます。この字を見ると、なんとなく朝鮮の高麗(こうらい)とか、高句麗(こうくり)を思い出します。しかし、特に関係ないと思いました。すると、駅を降りると、いたるところの看板に、日本語とハングルが書かれています。この辺は、多いのか、そんな時代になったと位しか思いませんでしたが、初めていろいろなことがわかりました。花はまだ咲いていなかったので、せっかくということで近くを散歩することにし、高麗神社に行ってみました。すると、そこに神社の由来が書いてありました。
紀元前1世紀ころ朱蒙(しゅもう)によって建国された高句麗が、668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったとき、高句麗の人たちが日本に渡ってきました。そこで、日本は、その人たちを受け入れるため、武蔵国に「高麗郡」を置いて、そこに住まわせました。その首長として当地に赴任したのが、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たり、若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯だそうです。よく聞いている地名でも、その由来は、なかなか面白いものがあります。
もうひとつ、日高市は、「栗」が有名です。「彼岸花」と「栗」というと、ひとつのお話が思い出されました。新美南吉の名作「ごんぎつね」です。こんな一文がありました。
「墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさきつづいていました。」
「そっと物置の方へまわってその入口に、栗をおいてかえりました。つぎの日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもって来てやりました。」この話は、私の息子も、娘も、小さいころとても嫌いな話でした。
「楽しい気持ちになりたいから本を読むのに、何で、本を読んで泣かなきゃいけないの!」
小さい子どもにしては、あまりにも悲しい結末が耐えられなかったのでしょう。
投稿者 fujimori : 18:33 | コメント (0)
2005年09月10日 [記念日]
敬老の日
もうすぐ、「敬老の日」です。そこで、母親を食事に誘いました。日本には、「こどもの日」「母の日」「父の日」など家族の記念日があります。しかし、祖父母がいて、両親がいて、子どもがいて、というような家族形態が必ずしもノーマルでなくなった今は、記念日の取り扱いについて、保育園などは、難しいものがあります。
今までは9月15日が敬老の日でしたが、1昨年より9月の第三月曜日に変更し、今年は9月19日が敬老の日です。敬老の日は、もともと「としよりの日」という名前で昭和29年に制定されましたが、もっといい呼び方にしようということで、昭和39年に「敬老の日」と改められました。そして昭和41年に「国民の祝日法」が改正され、“老人を敬愛し長寿を祝う”として、国民の祝日となっています。では、その由来はなんでしょう。有力な説に2つあるようです。まずひとつは、聖徳太子の説です。聖徳太子が大阪に四天王寺を建てた時、ここに四天王の名前に合わせて、敬田院・ 悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置したといわれています。その内の悲田院というのが、今でいうところの老人ホームで、この悲田院が誕生したのが9月15日であったため、この日が選ばれたということです。ふたつ目は、元正天皇の説です。元正天皇が717年に「万病を癒す薬の滝」といわれていた岐阜県の養老の滝へ行幸し、「醴泉は、美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め、養老元年と為すべし」と告げて、年号を「養老」に改元した故事にちなむというものです。養老の滝には伝説があります。ある父親思いの息子が、老いた父に酒を飲ませたいと願ったところ霊泉から酒がわいたという故事です。これらにもとづき、全国的に9月中旬頃に地域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが慣わしになり、そこで9月15日を敬老の日に定めたといわれています。
ところで、一寸法師にしても、桃太郎にしても、かぐや姫にしても、子どもがほしくて、やっとできたという昔話は、始まりが、「むかし むかし あるところに おじいさんとおばあさんがすんでいました。」ですが、このおじいさんとおばあさんは、お父さんとお母さんのはずですよね。そのような、昔話に見る親子関係を調べてまとめたことがあります。そのときの資料を見つけて、見つかったら、今度、このブログに書いてみます。
投稿者 fujimori : 21:06 | コメント (0)
2005年09月09日 [散歩]
ネット散歩
「いろいろな考え方の社会化と、情報収集の満足感と、安心感が得られるという精神安定剤的な意味」のための散歩同様、暇なときにネットの中を散歩することがあります。インターネットブラウザーを使って、たくさんのサイト(ホームページ)を渡り歩くことをサーフィンに例えて、「ネットサーフィン」と言うそうですが、私からすると、「ネット散歩」のほうがいいような気がします。私が散歩するときは、町の中を散歩するときと自然の中を散歩するときがあります。また、目的地を決めてそこに向かって出かけるときと、なんとなく歩き回って、偶然の出会いを楽しむときがあります。ネット散歩でも、まったく同じです。目的地がある場合は、検索でまずキーワードから入ります。そして、リンク(文書内に埋め込まれた、他の文書や画像などの位置情報で、リンクのある場所を,マウスでクリックすると、関連づけられたリンク先にジャンプするようになっています。)しているページを見ることができたり、最近ブログのなかで、トラックバック(ウェブログ(ブログ)の機能の一つで、別のウェブログへリンクを張った際に、リンク先の相手に対してリンクを張ったことを通知する仕組みのこと。)という機能があるので、どんどんと広がって行きます。
もう一つ、時間があるときに目的がなく歩き回るやり方があります。そのなかで、こんな楽しみ方があります。まず、検索で、自分の名前を入れます。そうすると、自分の名前がでているホームページや、ブログが出てきます。それを見ることによって、思わない発見をすることがあります。まず、そこに掲載されている特殊性はあるものの、今、自分が大体どの分野で活動しているかがわかります。保育関係か、情報関係か、エコ関係か、地域支援かなどです。どの分野の記事に掲載されているかでもわかります。次に私の書いた本が、どの図書館で購入したかがわかります。あまりよく位置も知らない小さな町の図書館のお知らせに購入したと書いてあったり、有名な大学の図書館で購入したなどを見ると、なんだかうれしくなります。でも、中古品としてオークションに出されたのを見ると、なんだか複雑です。そして、たまに、本の感想が書かれているものを見つけると、とても参考になります。それを書き込むような人は、たくさんの本を読んでいますし、私を個人的に知っている人ではないので、言いたい放題書いているからです。また、たまに、講演を聴いて人が、ブログの日記の中で書いてあることもあります。それも、かなり本音で、しかも、保育者でないことが多いので、おもしろいです。私の講演は、「なんと言っても声が、癒し系で良い」という書き込みを見ると、だから聞いている人は、よく眠ってしまうのだと納得したりします。
投稿者 fujimori : 15:56 | コメント (1)
2005年09月08日 [来客]
団塊の世代
今日は、久しぶりに東京ワンダー社の多摩支社長の高野さんと少し話をしました。同じ団塊の世代ということもあって、なんとなく、共通なものがあります。話をしているうちに、何が団塊の世代であろうと考えました。定義としては、第二次大戦後、数年間のベビーブームに生まれた世代のことであり、もう少し正確に言うと、堺屋太一が命名したのは、「昭和22年から26年頃までに生まれた人々」(1947年から1951年ごろまで)でした。日本民族は終戦直後の1947年から1949年にかけて、空前絶後の大増殖を行ったのです。この3年間に生まれた日本人は、その直前よりも20%、直後よりも26%も多いそうです。その前後の世代を、もっと細かく命名されています。
プレ団塊:1943年(S18)~1946年(S21)生まれ
団塊:1947年(S22)~1949年(S24)生まれ
ポスト団塊:1950年(S25)~1953年(S28)生まれ と言うのだそうです。
そして、その世代のキーワードは、まず、受験戦争・競争です。確かに、私の小学校時代から、四谷大塚進学教室がありました。(日本進学教室のほうがもっとレベルは高かったのですが、今は、どこにいったのでしょうね。) そして、全共闘。私の同級生には、赤軍派もいて、指名手配の写真に載っていた人もいます。(いまだに地下で活動している人もいます。)そして、ジーパン。私は、大学時代は、ジーパンしかはきませんでした。(今のようにぼろぼろはありませんでしたが、ストーンウォッシュということで、ブリーチなどでわざと洗って、色をまだらに落としたりしていました。)そして、ニューミュージック・ニューファミリー などなど新しい価値観、生存競争などのイメージがあります。そして、高度経済成長と公共工事ラッシュ。列島改造論からバブルがはじけるまでかなり価値観の変わる中を生きてきました。ちなみに若年層は団塊の世代に対してあまりいい印象を抱いていないことが多いそうです。今では、すでに私たちの価値観は過去の存在となった様に見えますが、実は、年金問題や社会的地位・発言力において未だに大きな社会的影響力を持ち、他の世代と感情的軋轢が生じることもあります。「押し付けがましい」「横並び意識が強い」「ついつい精神論を振りかざす」など、バブル崩壊後、バッシングされることが多いのですが、団塊の世代は言わば「戦後日本の一期生」であり、適当な反面教師にできる世代がいませんでした。そこで、独自の試行錯誤をせざるを得ず、その奮闘する姿が、ある程度固まった社会を受け継いだ後進の世代から見て、奇異に見えてしまうという事情があるようです。その団塊の世代が、一斉に定年になり始めます。いわゆる2007年問題といわれているように、その時期から、その世代が、会社から、社会に戻ってくるのです。どんな価値観を持って、老後を迎えるのでしょうか。
投稿者 fujimori : 18:09 | コメント (4)
2005年09月07日 [写真]
グッドデザイン賞
投稿者 fujimori : 19:38 | コメント (0)
グッドデザイン
今日の午後は、世界文化社と、シーズアイ(日本と中国でのオフィス・商業施設・キッズスペースなどのスペースプロデュース)という会社の人と、子どもの家具についての打ち合わせをしました。今、グッドデザイン賞に応募し、1次が通過している「大きな木」家具シリーズをいっしょに開発したメンバーです。2001年度に私の園で、「人々の関係性のデザイン」ということでグッドデザイン賞を受賞し、今年、家具による「子どもの動きをデザインする」ということで応募し、来年以降のグッドデザイン賞を狙って、「大きな木」キッチンシリーズということで、「子どもの自発的学びをデザインする」ということで開発しているのです。
グッドデザイン賞(Gマーク)というのは、通商産業省によって設立された総合的なデザイン評価制度です。審査基準は、デザインだけでなく、保育園運営や会社経営にも、とても参考になります。
「良いデザインであるか」という審査基準
美しさがある、独創的である、使いやすさ・親切さがある、使用環境への配慮が行き届いている、価値に見合う価格である、誠実である、機能・性能がよい、安全への配慮がなされている、生活者のニーズに応えている、魅力が感じられる
こんな施設になっているでしょうか。こんな生き方をしているでしょうか。また、「良いデザイン」というだけでなく、ほかにも、こんな観点が必要です。
「優れたデザインであるか」「未来を拓くデザインであるか」というものです。その中身はいろいろありますが、たとえば、「ユーザーの抱えている問題を、高い次元で解決している」「システム化による解決を提案している」「人と人の新しいコミュニケーションを提案している」「時代をリードする表現が発見されている」「次世代のグローバルスタンダードを誘発している」「日本のアイデンティティの形成を導いている」「次世代のライフスタイルを創造している」「社会・文化的な価値を誘発している」などは、私が今やろうとしている目標でもあります。
投稿者 fujimori : 19:15 | コメント (0)
2005年09月06日 [来客]
出会い
人の出会いは、いろいろなところからはじまります。そして、その出会いの中に、これからの人生に意味を持つ人がいることがあります。私は、好奇心が強いことと、出会いの中で、いろいろな取捨選択が自然と行われていくと思っているので、意思を持って、あまり事前には会うか会わないかを選択はしないようにしています。よく職員に言われます。忙しいのだから、いちいち一人に対して相手をしないほうがいいのではないかと。しかし、自分の仕事は、夜遅くでもできますが、人との出会いは、そのときにしか生まれないことが多くあります。ですから、それを優先してしまいます。当然、あとで、時間を無駄に過ごしたと後悔することも多々あります。しかし、それも会わなければわからないことです。今日の人とは、こんなメールが来たことから会ってみました。
「はじめまして。○○の○○と申します。
先日のグッドデザインプレゼンテーションにおきまして藤森さまの「せいがの森保育園」の展示を拝見し、詳しいお話をお聞きできればと思い、ご連絡させていただきました。
弊社はグラフィックの出力・制作を行っております。イベントのパネル、ラッピングバス、壁・床・地面・窓などに貼れるグラフィック、ステッカー・・・などを制作しております。
このグラフィック素材を保育園や幼稚園の空間作りに活かすことができるのではないかと考えていたところ偶然GDPにおいて藤森さまの展示を拝見いたしました。
一度弊社のご紹介をかねてお話をお聞きしたいと思っておりますので、お時間をいただけないでしょうか。ご都合の良い日程を連絡いただければそちらに合わせます。
お忙しいとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。弊社での制作例を添付いたしますので参考までにご覧ください。」
ただの売込みかもしれませんが、なんとなく、私を知ったのが、GDP(グッド デザイン プレゼンテーション)というのが会おうと思った気持ちにさせたのかもしれません。その会場に行っていろいろな情報を得ようとしたこと、積極的にコンタクトを取ってきたことなどで、第1段階はクリアーです。次は、そのあとに私の考えを読み取り、具体的な提案をしてくるかです。そして、先方が、私と付き合うことにどれだけの価値を見出すかです。それによって、私のほうも、先方に対する価値が出てきます。というように、人の付き合いは始まっていきます。とは言うものの、息子と同世代の子にとって、就職はきついことだなあと実感しました。
投稿者 fujimori : 17:19 | コメント (0)
2005年09月05日 [保幼小]
幼保の違い
今日は、都内の会議で、森上史朗氏(子どもと保育研究所)の話を聞く機会がありました。その中で、いくつか面白いことを聞きました。幼稚園と保育園の一元化の話の中で、最近、幼児教育についていろいろと論議されていますが、基本的には、その内容の根拠となる「幼稚園教育要領」と「保育所保育指針」は、4歳以上児に対しては同じであるので、内容においてはどちらがどうという明確な違いはありません。しかし、しいて言うならば、一つ、大きく違うところがあるという話でした。それは、発達の捉え方です。幼稚園教育要領は、一本化した発達論であり、それぞれの年齢における発達は、年齢別な到達論になってしまっています。したがって、5歳児は全員このような姿になり、その姿で、小学校に直接つなげていくという書き方をしているというのです。その点、保育所保育指針では、発達段階として捉えることをせず、あくまでも、発達過程を示しているに過ぎないというのです。現在の発達心理学では、あくまでも過程を提示するのみで、能力論的な考えではなく、行為論的視点に変わってきているようです。何ができるようになったかではなく、何をしようとするようになったかということを重視します。また、固体論から、関係論になり、子どもがどのように固体として発達するというのではなく、子どもがどのようなかかわりの中で育っていくかという発達になってきているというのです。友達との相互作用の中で磨かれたり、完成されるという考え方がでてきているそうです。
今、幼稚園でも3歳児を保育することが多くなり、今の教育要領では無理になっているために、改定が予定されているそうです。そこに、年齢をどのように捉えるかわかりませんが、発達過程として捉えたとき、子ども集団をどのように構成するのでしょうか。日本では、どうしても、年功序列型社会から、能力主義社会には移行しづらいように、子どもの発達を、子ども個人としてみるよりも、年齢としてみてしまうようです。
投稿者 fujimori : 18:11 | コメント (1)
2005年09月04日 [散歩]
散歩
いつもの運動不足を補うために、日曜日はいろいろなところを妻と歩き回っています。いわゆる、最近はやっている「ウォーキング」です。しかし、昔から趣味は何かと聞かれたときの答えの定番は、「読書」と「散歩」でした。話はそれますが、犬を散歩させるときの意味についての記述で、おもしろいものがありました。
「運動不足の犬は欲求不満になりがちとよく言われます。そのために毎日長い時間散歩をする方がいますが、人間の普通に歩く速度では犬にとってそれほどの運動とはなりません。では自転車で走ったらどうか?これは確かに運動量としてはかなりのものになりますが、犬の体には余り良いとはいえないそうです。理想的な運動は自由運動です。全力で野山などを走り回ることが真の運動と言えるのかも知れません。では、運動ではないとすると散歩の意味ってなんでしょう?トイレですか?それならすぐに済んでしまいますね。また散歩に出なければトイレが出来ない犬にすると、老後や病気の時に困ります。出来るだけ室内でもトイレが出来るよう育てたいものです。では散歩には意味がないのか?そんなことはありません。いろいろな環境に慣れるという社会化としての意義や、情報収集の満足感と安心感を犬が得られるという精神安定剤的な意味があります。」
なんだか、私が散歩に行く理由に似ています。運動としてだけであれば、もっと早足で、両手を振って、とウォーキングの歩き方があります。私は、そのように歩いていないで、どうお犬の散歩同様、「いろいろな考え方の社会化と、情報収集の満足感と、安心感が得られるという精神安定剤的な意味」があるのです。また、運動の理想的なものは、「自由運動」であるということも気に入りました。やらされるもの、やってもらうものは、運動にならないのですね。
きょうは、まず、選挙の期日前投票をしてきました。かつては、不在者投票ということで、何で当日、投票ができないかを聞かれ、できるのに期日前にするのに後ろめたさがありましたが、いまは、好きなときに、近くの場所で、遅い時間まで投票できるので、期日前にすることが多くなりました。そして、今日、投票場で初めての体験をしました。「出口調査」です。いつも、その言葉は聞くのですが、自分で受けたことがないので、やってみました。まず、ためらったのが、突然、「誰に投票しましたか?」とストレートに聞かれたことです。当然というば当然ですが、今まで、何年も投票していましたが、投票者の名前を、人に言ったことがなかったからです。「どの党に投票しましたか?」「何を観点でその党にしましたか?」「いつも支持している党はどこですか?」「小泉さんは支持していますか?」の5問でした。なんだか、自分の心を人に見せるようで、恥ずかしい気がしました。
投稿者 fujimori : 20:00 | コメント (0)
2005年09月03日 [保護者]
花火大会
今日の夜は、保護者主催の「花火大会」がありました。今、園や学校の悩みの一つに、保護者対応があるようです。この夏、保護者対応についての講演をいくつか頼まれました。確かに、わがままな、自分勝手な保護者もいます。すぐに苦情を言ってくる保護者もいます。ある研修会で業者の男性から声をかけられました。「私の妻は、教員をしているのですが、最近の保護者は苦情をすぐ教育委員会などに言っていってしまって困っている。直接言ってくれればまだいいのに。」そのときに、私は、こう答えました。「それは、今まで、直接言っても、対応してくれなかったり、聞いてくれなかったりする経験があるのでしょうね。」苦情は、いろいろと難しい問題をはらんでいることが多くあります。というのは、その内容を解決すれば済むとは限らず、何かのトラウマが潜んでいることが多いからです。それを、丁寧に取り除いてあげないと、真の解決にはなりません。この夏、ある小学校から新卒の教員が研修に来ました。とても熱心で、よい先生になりそうな人でした。その人が、研修の最終日私のところに来て、「ひとつ聞きたいことがあるのですが。ここの園児は、なんで、きちんと人の話が聞けるのですか?そうなるためのこつを教えてください。」私が、とっさに答えたのは、「それは、子どもの話をよく聞いてあげるからですよ。自分の話を人にきちんと聞いてもらえたという経験が、今度は人の話を聞こうとする気持ちにさせるのです。」教員は、兎角、自分本位で話を進め、じっくりと子どもの話を聞くことが少ないものです。確かに、時間もないし、多くの人数の子どもの話は聞けません。ですから、本当は、幼児期に家庭で親がじっくり話を聞いてあげ、保育者がじっくりと話を聞いてあげることが大切なのです。それを家庭でされていない子、それでも足りない子の話を、教師が聞いてあげてほしいと思います。
花火大会は、親子での参加です。普段、なかなか子どもの話を聞けない保育園では、保護者が自主的に親子の触れ合う場を提供してくれます。そんな姿は、トラウマを作るのと反対に、きっと、子どもたちが、親になったときのいいモデルを子どもの心に刻むことでしょう。
投稿者 fujimori : 18:14 | コメント (2)
2005年09月02日 [写真]
ドイツ

投稿者 fujimori : 18:42 | コメント (0)
「せいが」の由来
今日の来客は、福井県の「しろの子保育園」からでした。私の園への来客は多いのですが、そのときの取次ぎの職員が困るのは、園名を告げられたときです。先方は使い慣れているのでしょうが、こちらは、初めて聞くと、微妙なところが聞き取れないことが多いからです。多くの園名は、その保育園のある地名から取っています。それは、誰が聞いても、その場所がわかるからでしょう。6月にドイツに行って、8箇所園を見ましたが、後で記録するのに困るのは、園名です。たとえば、最初に行った園の園名は、「Kindergarten Helmut-Käuter-Str.18 81739 München」というように、「ミュンヘン市の何通りの何丁目の幼稚園」と住所名しかついていません。場所はすぐにわかるのですが、呼びにくいです。日本のナンバースクールといわれるように「第3小学校」といわれても、市内で何番目に創立されたかはわかるものの、子どもは関係ありませんし、どこに有るのかもわかりにくさもあります。また、この間、よく付き合っている「かき道ピノキオ保育園」の「かき道」が、「牡蠣道」ということで、牡蠣を運んだ道ということでついた地名であることを知って、感動したものです。「しろの子」も聞いてみると、地域の丸岡城下にある園ということでした。地名や、思いや、いわれなどでつけるのでしょうが、知ってみるとなるほどと思います。
私の園「せいがの森保育園」の「せいが」についてもよく聞かれます。まず、「地名ですか?」そのときに「論語の学而篇」から取ったのですと答えるようにしています。ここには「吾(われ)、わが身を日に三省す」ということが書かれています。それは、曾子のことばです。曾子とは、孔子の門人で、姓名は曾参(そうしん)、字(あざな)は子輿(しよ)。親孝行の人として知られ、『孝経』の著者と伝えられています。曾子は、「反省」の重要性を説いています。自己の内面を見つめること、これは儒家思想の基本の一つです。ただ曾子はそれを「日に三たび」と説くのです。この「三」は三つのことであるという理解もありますが、漢文では通常「たびたび」「何度も」というイメージを伝えることばです。この「三省」から取って、「三省堂書店」とつけたことは、ご存知の通りです。では、曾子はどのようなことを「省み」たのか。それは、「忠(まごころ)」をつくして他人の面倒を見る、「信(まこと)」の気持ちで友と交際する、そして、自分が習得したことのみを他人に伝える、ということだったそうです。(「人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか」。)
ということで、私の園の「せいが」は、わが身を省みる「省我」とつけたのです。(と、人には説明しますが、本当は、そんなに考えていませんでした。本当のいきさつは、またの機会にします。)しかし、今になってみると、園に見学に来る人への自分の対応の気持ちかもしれません。
投稿者 fujimori : 18:41 | コメント (1)
2005年09月01日 [来客]
浜田廣介
昨日、むくどり保育園の理事長先生が他2名と園に見えました。園名の由来は、浜田廣介の作品である「むくどりのゆめ」からとったという思いをたぶん伝えたくて、お土産のその本を持ってきてくれました。しかし、直接その本を出さずに、同じ作者の名作といわれている「ないた赤おに」とどちらがいいかと聞かれ、私の希望で「むどりのゆめ」のほうをいただいたのです。
浜田廣介といえば、思い出す本があります。昭和35年4月に中央公論社から発行された「子どもと文学」という本です。これは、かなり児童文学者の間で世評を呼び、問題とされました。その後絶版になったを、福音館書店で昭和42年5月に再度新しい版で出たのです。それを人から借りて読んだのが忘れられず、20年位前に古本屋で見つけ買ったのです。
それは、題名の通り、子どもと文学について、石井桃子、いぬいとみこ、瀬田貞二、松居直など6名の共著で、書かれています。その中で、浜田廣介の作品について福音館書店の松居直氏が書いています。当時、この内容にショックを覚えました。いただいた「むくどりのゆめ」についても、その解説が丁寧に書かれているのですが、皆さんがよく知っている「泣いた赤おに」についての記述の最初の部分を少し見てみます。
この話は、次のような書き出しではじまっています。
「どこの山か、わかりません。その山のがけのところに、家が一けんたっていました。きこりが、住んでいたのでしょうか。いいえ、そうではありません。そんなら、くまが、そこに住まっていたのでしょうか。いいえ、そうではありません。そこには、わかい赤おにが、たったひとりで住まっていました。」
まず、はじめの、「どこの山か、わかりません」という書き出しはまったくむちゃくちゃです。導入部は、時、場所、人物などを、読者にはっきりとわからせるような書き出しが、なによりもたいせつです。「むかしむかい、あるところに」ということばは、「どこの山か、わかりません」などというあいまいなことではなく、「むかしむかし」であり、「あるところ」という一つの場所を、はっきりと示している約束事です。「どこでもいいよ」というような親切心は、子どもの文学上ではもっとも不親切です。つぎに、「きこりが住んでいたのでしょうか」ということばがでてきます。読者はきこりを頭の中にえがきます。すると、「いいえ、そうではありません」と否定されます。「くまが、そこに住まっていたのでしょうか」で、こんどはクマを思いえがきます。すると、「いいえ、そうでもありません」とまたやられます。やっと、若い赤おにが一人住まいをしていることがわかりました。なぜ、こんな書き方がされるのでしょうか。子どもを混乱させ、物語の発展をとめる以外に何の効果もありません。
こんな調子で、さまざま部分を、子どもの文学として不適切なことを述べて行きます。そういう意味で、どんな昔話も、「むかしむかし あるところに おじいさんとおばあさんが すんでいました。」とはじまるのは、子どもの心の動きにそって、いつ、どこに、誰が、何をしたかを思い浮かべやすいように、まず説明するように始まります。だからといって、この作品が、文学としての価値が低くなるわけではないのですが。
来客は、いろいろなものを持ってきてくれます。