理論家

子育て神話にとって有利であると思われながらそうならなかったのが出生順位だとハリスは言います。親は第一子とそれ以降に生まれた子どもたちとを区別して扱いますが、その扱い方に違いが生じるのは、子どもたちの生得的な特徴の違いに反応しているだけではありません。それでも研究者たちはこの半世紀もの間、出生順位が性格に永続的な跡を残すという確固たる証拠を追究しつづけていますが、彼らのその努力はいまだ結実していません。また一人っ子ときょうだいのいる子との間に性格的な違いがあることを示そうとする試みにもいまだ成功例はありません。もし親が子どもたちに重大な影響を及ぼすのであれば、なぜ彼らは一人っ子の性格をだめにしてしまわないのでしょうか。

この二つの期待が外れたことで、すなわち出生順位による影響も、一人っ子であることの影響もないとなれば、子育て神話を支えていた最後の柱も危うくなるでしょう。

それでもまだ崩れ落ちません。何かがまだそれを支えているようだとハリスは言います。そうです。「行動遺伝学的証拠、すなわち家庭環境全体は予測しうる影響を何も及ぼさないことを示すデータは、さまざまな家庭環境すべてを網羅していない」という主張です。問題は被験者全員が「十分に好ましい」家庭、すなわち正常という範囲に入る家庭の出身者である点です。理論家の中には、正常で十分に好ましいという範囲内の家庭であれば、子どもはどの家庭で育っても同じように育つと公言する者もいます。しかし彼らでさえも、正常という範囲を逸脱した家庭、それはすなわち極端に粗悪な家庭であるが、そうした家庭は子どもに影響を及ぼすという認識を捨ててはいません。

彼らが言おうとしているのは、彼らがデータを集めた家庭の範囲全体においては、家庭の好ましさと子どもの好ましさの間にはなんら関連性はないということです。その範囲とは「優れている」からはじまり、「粗悪」を通って「ひどい」の少し手前までを指します。関連性を導き出せるとすれば、彼らがデータをもっていないほんの一握りの家庭だけです。これまでに彼らが集めたかなりの数の証拠は、的外れなものか、子育て神話が間違っていることを示唆するもの、そのどちらかでした。しかし、まだ集めていない証拠もわずかにあり、それらこそが子育て神話が正しいことを立証してくれると彼らは信じているのです。

何とも危なげな支柱ではあります。私たちのように普通で、ありふれた親は、子どもたちにきわだった影響は及ぼしません。すなわち私たちは工場の作業員のように互換性があるということです。きわだった影響を及ぼす唯一の親とは、入院が必要となるくらいまで子どもをひどく虐待する親、かえられることのないおむつや腐った食べ物の悪臭漂う寒いアパートで子どもを放置するような超粗悪な親です。これが薄いなりにも、子育て神話の最後の砦となっているのです。家庭環境はそこで育つ子どもたちに一生残る損傷を負わせるほどに粗悪な場合もある、と。

子育て神話の支持者たちには、超粗悪と評されるごく少数の家庭に関しては彼らの考え方も当てはまるかもしれないという、薄いなりにも残された最後の砦を、そのまま守っていてもらおうとハリスは言います。しかしその彼らの考え方は大半の家族には当てはまらないのです。そんな極端な例をもってして、世間一般の望みどおりに育たなかった子をもつ普通の親を攻撃してもよいという正当な理由は、どこにもないのです。

家庭環境の影響

家庭はそこで育つ子どもたちに一体どのような作用を及ぼしているのでしょうか。このことを発見し、発見したことにより苦境に立たされることになったのが行動遺伝学者たちです。というのも彼らも他の皆と同様に、家庭環境が重要だと考えていたからです。そこで案出したのが、「家庭の中で大きな影響力をもっているのはそこに住む子ども同士の相違点である」という考え方です。きょうだい同士で共有するものはどのような大人になるかを左右するものではなく、少なくとも予見しうる影響はないことが証明されているとしたのです。そのため、きょうだい間で共有しないものから子育て神話を証明する責任が重くのしかかることになったのです。

これは聞こえほど無理難題ではないとハリスは言います。実際、親が子どもたち一人一人を同じように扱わなければいけない理由はありません。よき親なら子どもたち一人一人が独自性のある人間になってほしいと思うべきではないでしょうか。それぞれが最も得意とすることをしてほしいと望むべき子ではないでしょうか。これは親の姿勢をマルクス主義的にとらえた見解だと言います。「人はその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」

実際、ある程度までではありますが、それは正しいとハリスは言います。確かに親は、少なくともいくぶんかは子どもたちそれぞれが違う人間になってほしいと望むべきです。一人目が活動的で話し好きであれば、次はおとなしい子を歓迎するでしょう。もし一人目がピアノ好きであれば、二人目ですが、だからといって二人目がチューバをはじめてくれれば大満足でしょう。しかし、だからといって二人目が懸賞金目当ての拳闘選手や麻薬売人になっても同じように喜べるわけではありません。わが家の二人目が大きくなるにつれ、ハリスは彼女の夫と「成績優秀者はすでに一人いるから、それを繰り返すことはない。二人目には何か別なことをさせよう」などと話し合ったわけではないと言います。逆に二人ともが学者になったとしても、そうした退屈さも悪くはなかっただろうと振り返ります。親がどんな子どもにももっていてもらいたいと望む特質がいくつかあると言います。やさしさ、良心、知性。これ以外の特質に関しては適度な範囲でばらつきがあっていいと親は思っていると言います。しかし、全員に望む特質に関しても、ばらついてもよい特質に関しても、言えることは一つ。家庭環境が長期的な影響を及ぼす証拠は何一つないということだと言うのです。

親は子どもによって扱い方を変えるし、子どもも一人一人違うものです。この二つの事実に関しては疑う余地もありません。しかし行動遺伝学者が子育て神話を支持しつづけるには、親の行動の違いが子どもたちの違いを引き起こしていること、もしくはそれに関与していること、それらが既存の違いに反応しているだけではないことを示さなければならないのです。しかし、いまだそれにはいたっていないようです。それどころか、親が子どもを扱うその方法は子どもたち自身の違いよりも実際には均質である、すなわちきょうだい二人の行動は親が彼ら一人一人を扱うその方法よりもかけ離れているという証拠が見つかっているそうです。

重大な影響

子育て神話はまた、科学的追究の進歩を遅らせてしまったと言います。有用な調査報告の代わりに、無意味な研究、親の溜息と子どものあくびとの相関関係を示すような退屈な研究が増殖しました。研究者たちが注目すべきこと、彼らが求めるべき答えは次のようなものであるはずだと言います。どうしたらクラスの子どもたちを学校肯定派と学校反対派という相反する集団に分裂させずに保つことができるのでしょうか。この分裂を防いで子どもたちをまとめあげ、やる気のある状態に保つことに成功した教師、学校、文化は、いかなる方法を用いたのでしょうか。もともと不利な性格特性をもっている子が、その特性を悪化させるのを防ぐ方法とは何なのでしょうか。攻撃的な子どもが、子ども時代には同輩から拒絶され、思春期には、同じ経験をもつ他の子どもたちと集うようになってますます攻撃的になるという悪循環に飲みこまれてしまったら、それを止めるにはどうすればいいのでしょうか。子ども集団の規範を改善させるために、はたらきかける方法はあるのでしょうか。より大きな文化がティーンエイジャーの集団の規範にすこぶる有害な作用を引き起こすのを防く方法はあるのでしょうか。何人揃えば集団が形成されるのでしょうか。

ハリスは、こうした質問に答えることはしてきませんでした。そのための研究はいまだかつて行なわれたことがないからです。

子育て神話によると、親は子どもがどう育つかに重大な影響を及ぼすと考えます。そう、「重大な影響を」です。私たちはここかしこでのIQのことを話題にするわけでも、100項目にも及ぶ質問に一つでも肯定的な解答を増やすことを話題にするわけでもないのです。私たちの話題とは、子どもが人気者になるかそれとも友だちをもたない者になるのか、大学を卒業するか高校を中退するか、神経質になるかそれとも十分に適応できるか、処女でいられるかそれとも妊娠するか、だと言うのです。人がどう行動するか、どれだけ望ましい生活が送れるかを左右する心理的特徴、自分から見ても、また自分と生活や仕事をともにする人々から見ても目につく特徴のことを話題にするのです。それは、一生あなたにつきまとう特徴です。そういうふうに人は考えます。親は子どもに大きく影響する、しかも一生残るような影響を、と。

しかし仮に親が影響を及ぼすことがあっても、その内容は子ども一人一人によって異なるはずだとハリスは言います。なぜなら子ども同士で共有する遺伝子による類似性を取り除くと、同じ親に育てられた子どもでもそっくりにはならないからです。同じ家庭で育てられた二人の養子は別々の家庭で育てられた二人の養子とその性格的な類似性は変わらないのです。同じ家庭で育てられた一卵性双生児は、別々の家庭で育てられた一卵性双生児とその類似性は変わらないのです。家庭はそこで育つ子どもたちに一体どのような作用を及ぼしているのでしょうか。それが何であれ、それは子どもたちをより良心的にするわけでも、社交性を低下させるわけでも、攻撃性を強めるわけでも、不安を取り除くわけでも、幸せな結婚生活を送る可能性を高めてくれるわけでもありません。少なくとも家庭は子どもたち全員に対してこれらを施しているわけではないのです。

子育て神話の功績

子育て神話は、現代独特の現象なのかもしれないとハリスは言います。ものごとを極端な状況にまで追いこみ、論理的な限界話を超えてまで考え方を押し進めようとします。子育て神話では親への要求が誇張され、それがあまりに苦難を強いるものになってきているので、ハリスは、もはや円熟期を過ぎて、腐敗すら近いようにハリスは思っています。

これが人畜無害な空想話であれば、これほど強くこだわりはしなかっただろうとハリスは言います。それに子育て神話にもなんらかの有益な副作用があるかもしれません。少なくとも理論的には、親がやさしくなるはずです。もし自分の犯した間違いが子どもの一生を決めかねないと思えば、親は控え目になり懲罰を減らすでしょう。ところが親が控え目になっても虐待行為が減少している様子はまったく見られません。また今の若者たちが二世代もしくは三世代前よりも幸せで精神的にも健康であるという徴候もまったく見られないのです。

子育て神話が実際に功を奏したという証拠はどこにもないとハリスは言います。しかし、被害は確認ずみなのです。子どもをこのすばらしい機械にかけてもどういうわけか、幸せで賢く、十分適応した自信あふれる人間にはならなかった不運な親は、ひどく自責の念にかられることになったのです。こうした親は、一緒に生活するのが難しい子ども、もしくはなんらかの理由で地域社会の規範に従うことのできない子どもをかかえて苦悩するだけではないのです。彼らは地域社会から自分に向けられる非難にも耐えなければならないのです。時には非難されるだけではすまされないこともあります。法的な責任が問われることもあるのです。罰金を科せられ、実刑判決が下される恐れもあるのです。

子育て神話は、子どもたちを不安の種へと変えてしまったとハリスは言います。親は自分が間違ったことをするのではないかと神経質になり、何気ない一言や目配せが子どもの可能性を永久につぶしてしまうのではと恐れます。子どもの下僕になってしまったばかりではありません。その下僕としても力不足の烙印を押されてしまうのです。なぜなら、子育て神話の布教者たちが定めた規準はあまりに高く、それを満たせる者などどこにもいないからです。たっぷりと寝る時間すらとれない親は、子どもたちに十分な「大切な時間」を割いてあげていないと言われるのです。親は自分には何かが不足しているという思いに駆られます。その不足分を補おうと子どもたちのためにオチャをたくさん買い与えます。最近のアメリカの子どもたちはびっくりするほどオモチャをたくさんもっているのです。

子育て神話は、家族の生活にまやかしという要素をもちこんだとハリスは言います。心からの愛情表現は、義務的でうわべだけの愛情表現に押し流され、まったく意味をもたなくなってしまったと言うのです。

自分の弱点

自分の弱点を親のせいにするのはフィリップ・ラーキンだけではないとハリスは言います。それは誰もがすることだと言うのです。ハリスは、自分でさえも自信を失いかけていたときはそうだったと振り返ります。自分を責めるのは確かにつらいです。しかし、利己的な理由だけで、子育て神話がこれほどまでに私たちの文化に深く根づいたわけではありません。また、子育て神話は精神分析学(フロイト)と行動主義(ワトソンやスキナー)の二つの影響が合体して生まれたものだとハリスは言います。しかし、このような見解だけで、その浸透の度合いが説明されるわけでもないのです。学術系心理学の一派としてはじまったものが、その当初こそ人目につかず細々とやっていたのですが、まもなくその域を超えて広まるにいたりました。トークショーのホストやそのゲスト、詩人やじゃがいも畑の主人、世話になっている公認会計士や自分の子ども。彼らは皆自分の弱点の責任を親に押しつけ、自分の子どもの弱点の責任を自ら背負うのだと言います。

親の務めは重要視されすぎてきたと言うのです。親は実際以上に子どもの性格に影響を及ぼしていると思いこまされてきたのです。親はすでに子どもの将来を決定するだけの力をもっており、親が子どもの遺伝子を選べる日が来るまで待っことはないと言った科学ジャーナリストの言葉をハリスは以前引用しました。別の科学ジャーナリストは「親は子どもの自我形成において、もっとも大きく、最も重大な役割を果たす」と《ニューヨーク・タイムズ》紙で語っているそうです。子どもが自分自身を肯定的にとらえることができるよう、子どもを褒め称え、常に体全体で愛情を表現してあげなければならないといいます。自らを「ドクター・ママ」と呼ぶ育児相談の専門家は、「毎日、言葉以外の方法で愛情とその子を受け入れてあげていることを伝える」ことを忘れてはならないと言います。子どもは皆、何歳になっても触れられ、抱きしめられることを求めている、と言うのです。同じく育児相談を専門とするベネロープ・リーチは、親が務めを正しく果たしさえすれば、子どもは幸せで、自信あふれる子になると言っているそうです。「子どもとは、あなたとの関係、さらにはあなたが彼に伝授したすべての事柄に自らの基盤をおくものだ」。体罰や言葉による非難は、育児アドバイザーに言わせればご法度です。子どもにはあなたが悪いと言うのではなく、あなたの行なったことは悪いことだと教えるのです。いや、そこまでも言わない方がいいかもしれないと言います。あなたの行なったことは私を嫌な気持ちにさせたと言うべきだと言うのです。

子どもはそこまでもろいものではありません。思っている以上に彼らは強いのです。強くなければならないのです。なぜなら外の世界では、誰も子ども用のグローブをはめてはいないからだというのです。家庭の中では「あなたのしたことはママを嫌な気持ちにさせたよ」と言ってもらえるかもしれませんが、公園では「ふざけんな。ばかやろう!」となると言うのです。

子育て神話は、乗り越えられない山はない、というモットーを掲げる文化の産物です。優れた電子機器、生化学が生み出した魔法のような万能薬をもってすれば、自然に打ち勝つことができると言うのです。もちろん子どもとは一人一人違って生まれてくるものですが、それは何の問題にもならないのです。子どもをこのすばらしい機械にかけ、特許を得た特別な方法で調合した愛、制限、タイムアウト、そして教育玩具の混合物を加えると、幸せで賢く、十分適応した、自信あふれる人間に出来上がるというのです。

被告は子育て神話

子どもの性格、行動、態度、そして知識に影響を及ぼすために、親には何ができるのか問う疑問に対して、ハリスの解答に満足できていないかもしれません。子どもの中にどうしても好きになれないところがあるからといって自分を責めることはない、などと言われても嬉しくないという人もいるかもしれません。逆に不安になる人もいるかもしれません。特に幼い子どもをもつ人はそうかもしれません。彼らは親こそが重要であると思いたいのです。子どもの可能性を伸ばしてあげられる、子どもの好きではない部分も変えてあげられる、それらの方法があると思いたいのです。努力さえすれば親も役に立てると。

親たちはそのために多くをつぎこんできたのです。だまされたと思うのも当然だろうとハリスは言います。実際の親としての務めは広く宣伝されているようなものとは一致しないのです。子育ては誠実さと努力をもってすれば成功が保証されているような仕事ではないのです。良心的な親が、何一つ失敗をしていないのに、素行の悪い子どもをもつこともあるのです。

私たちは多岐にわたる驚くべき技術を手に入れました。私たちは多くの子どもたちを死にいたらせ、子どもたちに障害を残してきた病の多くを根絶する術を覚えました。自然界が私たちに投げこんでくるカープ・ボールの多くにも対処してきました。だからこそどんな球にも対処できるという幻想をいだくことになったのかもしれないとハリスは考えています。

私たちの思いどおりに子どもを育て上げることができるという考えは幻想にすぎないと言うのです。あきらめるべきだと言います。子どもとは親が夢を描くための真っ白なキャンバスではないのです。育児アドバイザーの言葉に気をもむことはないと言います。子どもには愛情が必要だからと子どもを愛するのではなくて、いとおしいから愛するのです。彼らとともに過ごせることを楽しもうと助言します。自分が教えられることを教えてあげればいいのです。気を楽にもって。彼らがどう育つかは、あなたの育て方を反映したものではないと言うのです。彼らを完璧な人間に育て上げることもできなければ、堕落させることもできません。それはあなたが決めることではないのです。子どもたちは「明日との館」に住んでいるのだからとハリスは言うのです。

フィリップ・ラーキンはこんなことを言っています。

「パパもママもしくじった。そうするつもりはなかったが。二人の短所を君に詰め込む。組を思って、さらに余計なものまでも。」

年老いたママとパパは詩人となった息子に公然と非難され、反論の場も与えてもらえないでかわいそうだとハリスは思います。そこで、彼女は勝手ながらと言いながら、彼らに代わってこんなふうに応えています。

「ヘビの歯よりも鋭くつきささる わが子のののしるその言葉。それは不当だ。事実じゃない。彼はしくじった。でも私たちのせいじゃない。」

裁かれるのはフィリップのママとパパではありません。被告は子育て神話そのものであり、それこそ息子が滑稽な詩で簡潔にまとめあげた内容だとハリスは言うのです。さらに彼女はこう叫びます。「陪審員の皆様方、どうか被告に詐欺罪と重窃盗罪で有罪を。子育て神話こそがそれを奪った張本人だ。」

親はいいカモ

人生は、何が起きるかわかりません。ハリスは自身の経験からそう感じているそうですが、これでも安心材料にならないのなら、育児アドバイザーたちではさらにだめだろうと言います。彼らの言葉に従った結果、何に行き着いたでしょうか。子どもたちをすべて平等に愛さなければ気がとがめるようになりました。しかし、生まれつき他よりも愛らしい子どもがいるのは決して親の責任ではないとハリスは言います。また、「大切な時間」を十分に子どもたちのために割いてやることができなければ気がとがめるようになりました。それなのに、子どもたちはその「大切な時間」をむしろ友だちと過ごすことを望んでいるのです。父親と母親の揃った家庭を与えられないことに気がとがめるようになりました。しかし、長期的に見た場合、それが重大な意味合いをもつという確固たる証拠はどこにもないのです。子どもを叩くと気がとがめるようになりました。しかし、成長したヒト科.の動物は、幼き者を何百万年もの間叩きつづけてきたのです。そして何よりも都合の悪いことには、もし「子どもが少しでも道を誤ると、気がとがめるようになってしまったのだと言うのです。さらにハリスはこんな辛辣なことを言います。「親はいいカモだ。」フロイトがその口火を切ってからというもの、親は格好の標的とされてきたと言うのです。随分ときついことを言っていますが、私はそれほどでもありませんが、それには同感します。

育児アドバイザーたちは、つねに子育てから喜びと自発性を排除し、それを苦労に仕立て上げてきたと言います。はるか昔のことですが、ジョン・ワトソンは「このうえなく子どもを愛する」危険性をとくと訴えたそうです。彼は不快感を抑えようともせず、あるドライブでの出来事を語っています。せっかく数学に強いところをみせたのに、彼の警告が無視されてしまった一件です。

「さほど前のことではないが、4歳と2歳になる二人の息子、その母親、祖母、そして看護婦を連れてドライブに出かけた。二時間あまりのドライプの間、子どもの一人は32回もキスを浴びた。4回は母親から、8回は看護婦から、そして20回は祖母からだった。他方の子どももほぼ変わりない愛情に包まれていた。」

おそらく母親のキスの回数が最も少なかったのは、彼女がワトソンの妻だったからだろうとハリスは言います。彼女は夫の意向にさからって子どもたちにキスしたのです。人目を盗んでのキスでした。

今日、育児アドバイザーたちはすっかり方向転換し、子どもへのキスを犯罪行為から義務へと変えました。もし私が子どもだったら、医者が処方したキスを一日三回もらうよりは年に一度の人目を盗むようなキスの方がいい」とハリスは言っています。

子どもの性格、行動、態度、そして知識に親が影響を及ぼすためには何ができるのでしょうか。これまで、健康的な食生活を子どもに提供すること、予防接種をきちんと受けさせることについては何も触れていません。それは、ハリスが主張したいのはそのような内容のものではないからです。また精神疾患について語る資格も自分にはないと言います。もしかしたら、ハリスの主張の視界の外にある問題を子どもがかかえてしまうこともあるでしょう。もしその徴候が子どもに現われたら、適切な専門家に相談すべきであることは言うまでもないと言います。

きょうだい関係

伝統的な社会では、幼児は母親の腕から卒業すると主に兄や姉、異母きょうだい、いとこなどの親戚で形成される遊び集団に入ります。このような社会の慣行では、すぐ上のきょうだいがその幼児のお目付役となり、他は干渉しません。上のきょうだいは下のきょうだいが負うすべての傷の責任を負うことになります。ハリスは、その下のきょうだいとは、自分から母親の腕を奪ったその張本人であることを思い出してほしいと言います。母親の関心を数年間にわたり独占しつづけたその張本人なのです。

年長の子は年少の子を支配することを許され、もちろんそうするべきだとされます。年長の子どもが年少の子どもを支配するのは当然のことであり、伝統的な社会ではそれを阻止する動きもありません。なぜならかかる社会では公平であることにさほど関心がないからだとハリスは言います。

私たちの社会では、公平無私を貫こうとするときょうだい関係に問題が生じてきます。年長の子が年少の子を支配するのを親が防ごうとすれば、きょうだい間に猛烈な敵意が芽生えてしまいます。親が年長の子による支配を防ぐためには年少の子の味方になるしかないと言うのです。すると年長の子は、正しくは年長の子の多くは、親が弟や妹ばかりをかわいがると思いこんでしまうのだと言うのです。

5歳の子に3歳の子の面倒を見させろ、とハリスは言っているのではないと言います。少なくとも唐突にはそうさせるべきではないと言うのです。しかし、きょうだい間の何が問題なのかを知ると、おそらく年長の子のおかれた窮状をもう少し思いやってあげられるかもしれないと言います。親とはどの社会でも年長の子よりも年少の子に目がいくもので、年長の子はまず親の自分への関心を奪われます。それから年少の子をこき使えるという生得的な権利までも剥奪されてしまったのです。伝統的な社会では1勝1敗。私たちの社会では0勝2敗となると言うのです。

ハリスが以前、アフリカの幼い男の子がまだ赤ん坊だった弟を奪い取ろうとした巨大なチンパンジーを追って重傷を負った逸話を紹介していました。その男の子は、チンパンジーは殺して食べてしまうところだった赤ちゃんの命を救いましたが、ともすれば自分の命を落としかねませんでした。それから彼の母親は彼にふたたび赤ちゃんの弟の面倒を見させたのです。アメリカの親なら考えもしないことだとハリスは言います。その男の子は自分に課せられた責任の重さを真剣に受けとめていました。伝統的な社会ではきょうだいはライバルではありません。盟友なのです。

何が起こるかはわかりません。ある母親は子どもがビアノを習うことにさほど熱心ではなく、子どもは今も音符を読めません。別の母親も同じように熱心さに欠けていましたが、子どもは優秀なピアニストになりました。すべてが順調な子どもは成功への道を一直線に進みます。その一方で逆境に打ち勝ち、さらなる成功を手に入れる者もいます。変わった名前やたび重なる転居は子どもにとって難儀なことかもしれませんが、変わった名前や放浪好きの親をもつ子どもが時には大統領や詩人、著名な生物学者になることもあるのです。明敏な子どもばかりの学校に通わせれば、子どもの成績も上がります。しかし、ハリス自身はおごり高ぶった人の多い住宅地よりもアリゾナで過ごしたときの方が成績はよかったそうです。なぜなら、アリゾナの新しい学校での初日に生物学のテストで一番を取ったことから「天才」と呼ばれるようになったからだそうです。ハリスは、「そう、何が起こるかはわからない。」というのです。

遊び友だち

親は子どもを制するべき存在です。親こそ主導権を握らなければならないのだとハリスは言います。ところが今日では、その権力を行使することを躊躇しすぎるため、家庭を効率よく運営するのが難しくなってきているようです。この親の躊躇は育児アドバイザーに強要されたものなのですが。

今日の子どもたちの状況は子育て神話によって親が臆病者と化してしまう前の状況よりも安泰だとはハリスは思っていないと言います。前世代の経験は、子どもたちに自分が宇宙の中心だと思わせなくても、もしくは命令に背くと最悪タイムアウトが待っているなどと理解させなくても、十分に社会に適応した子どもを育てることができることを立証してくれていると言うのです。親は子どもよりも分別があるのですから、子どもに指示を出すのに遠慮など無用だと言います。親にだって幸せで平和な家庭を送る権利はあるのです。

伝統的な社会では、親が遊び相手になるようなことはありません。親は遊び仲間ではないのです。親が子どもたちを楽しませるなんて伝統的社会では言語道断なのです。「大切な時間」の説明を試みようものなら笑い転げるに違いないとハリスは言います。

クリントン政権で労働長官を務めた政治経済学者のロバート・ライシュが政府職を辞して、マサチューセッツの自宅に戻った理由の一つは、12歳と16歳になる二人の息子たちともっと一緒に過ごしたいからというものだったそうです。ところが、彼が思い描いていたようにはなりませんでした。

「“大切な時間”について書かれていることなど忘れたほうがいい。ティーンエイジの男の子たちはそのようなものを欲してもいなければ、それを活用することもできない。他にやりたいことがたくさんあるのだ。ビル・クリントンの閣僚を辞して自宅に戻り、週末を空けて、息子のいずれかが一緒に大切な時間を過ごそうという私の誘いに乗ってきてくれるのを待った。“親父、ごめんよ。一緒に観戦に行きたいけど、ディヴィッドとジムの三人でスクエアに行く約束しててさ”“その映画、おもしろいらしいよ。でも親父あのさー、正直言うと行くならダイアンと行きたいんだよな”」

息子たちは完全に彼を避けていたわけではありません。時には彼に意見を求めたりもしたし、それで彼の気持ちも和らいだこともありました。息子たちは彼を傷つけようとしたわけではないのです。父親は好きだけど…といった感じだとハリスは言います。

幼い子どもたちはティーンエイジャーと比べたら、容易に誘いに乗ってきます。しかし、それは、自分たちだけでどこかへ出かける自由があまりなく、選択肢が限られているからなのかもしれないと言います。もし別の選択肢があれば、幼児でさえも他の子どもたちと行動をともにするほうを選ぶかもしれないと言うのです。もっともその場合でも親には見える範囲にいてもらいたいと思うのですが。

私の園に見学に来た人が、5歳児が保育者と一緒に遊んでいない姿を見て、こう子どもに聞いたそうです。「君たちは先生と遊ばないの?」その答えは、「うん、別に遊ばない。」という答えでした。そこで「先生と一緒に遊びたいと思わないの?」と聞いたところ、「友達の方がいいもん!」と答えたそうです。私は、そのような子どもたちのほうが正常な発達のように思えるのですが。ただ、その時には、何か起きた時に、いつでも飛んできてくれる大人が、呼べば聞こえる距離にいることが大切ですが。

適切な刺激

相関関係に関してはもはや言うまでもないとハリスは言います。子どもに読み聞かせをする親がより賢い子どもをもつようになるのは、親自身が賢いからです。子どもが賢くなるのは、知能はある程度遺伝的に受け継がれるものたからです。もし読み聞かせをする親がより賢い子をもつようになる原因が環境的なものであれば、同じ親に育てられた養子縁組によるきょうだい二人のIQの相関関係はゼロにならないはずです。赤ちゃんにしゃれた音楽を聴かせ、しゃれたものを見せれば、赤ちゃんを賢くさせることができるという考え方には、なんら科学的根拠はないのです。

インターネット上のチャットに投稿された発言の中に、「脳の発達を勉強中の大学院生」と名乗る若い母親が自分のひときわ聡明で機敏な1歳8カ月の息子について語ったものがありました。彼女の両親はこの少年の聡明さを母親と父親の聡明さに帰しましたが、彼女はその解釈について「私の親としての子育てを侮辱したものだ」と感じたといっているそうです。その若い母親は言います。「私は必死に頑張って、十分に愛着した愛情あふれる関係を築き、適切な刺激を十分に与えてきた」

彼女は必死に頑張りました。そんな彼女にはハリスは満点をあげたいと言います。しかし、親として子どもを育てることは、セックスがそうであるように、大変に苦労を感じなければならないものではないはずだと言います。進化はムチだけでなくアメも与えてくれました。自然の摂理は私たちが私たちに課せられたことを実行できるよう、それを楽しみとしてくれたのです。もし親として子どもを育てることが骨を折る作業なのであれば、チンパンジーがあえてそんなことをするでしょう。親は親として子どもを育てることを楽しむべきです。もし楽しくないというのなら、それは努力のしすぎかもしれません。このことは、私も講演の中で話したことがあります。育児をすることが母親にとって楽しいものであるか、何か無くわえるものでなければ、人類がここまで遺伝子をつないでこれたはずがないのです。それが、ハリスが感じるように、どうも育児に負担だけを感じ始めているようです。それは、少子化をうむだけでなく、保育者のなり手が減ってきているのです。

進化はアメにもムチにもなります。同じ種の中では、体格的に大きくて強い者が、小さくて弱い者を制します、それが自然の法則なのです。大きい者が小さい者に何をすべきかを指示し、それに小さな者が従わなければ厳罰が下されます。確かに不公平ですが、それはどうしようもないのです。自然にとって公正さなどまったく眼中にないのです。チンパンジーの集団では体格の大きいオスが小さいオスよりも優位に立ち、小さいほうが然るべき敬意を表さなければ彼らは叩きのめされるのです。オスはメスを同じ理由から叩きのめします。若い者は自分よりもさらに若い者に対して同様の措置をとります。

この見苦しい慣行は、そっくりそのまま伝統的な社会で守られています。それには長い歴史があるのです。今日のように公正さややさしさにこだわるようになったのは、ごく最近のことなのだとハリスは言うのです。