同調の時代

ハリスは、思春期はたびたび同調の時代、すなわち仲間たちから最も影響を受けやすい年代だと評されますが、人はどんな年齢においても仲間たちからの影響を受けやすいのだと言います。そして、思春期よりもおそらく子ども時代のほうが同調することが多いだろうと言うのです。社会心理学者ソロモン・アッシュによると、あの有名な集団同調性テストにおいて全被験者の中で最も多数意見に流されやすかったのは10歳未満の子どもたちだったそうです。他の子どもたちが全員間違った判断をする中で、最も幼い被験者のわずか一握りだけが正しい知覚判断をつづけることができたそうです。子ども時代は同調への圧力が最も強い時期なのです。

誰からより強く影響を受けているか、たとえばもし親と友人がそれそれ相反する助言をした場合どうするかと子どもに聞くと、幼い子どもほど親の意見を参考にすると答えます。もっともこの質問は状況に関係なく聞いたものであり、聞き手も大人です。子どもたちは質問の意味を「親と友だち、どっちが好き?」と解釈してしまうかもしれません。当然彼らにとっては友人への愛よりも親への愛情の方が強いのです。その答えは心の中でも個人間の関係を司る部分が出したものですが、長い目で見た場合、家の外の世界で彼らがどう行動するかを決定するのは集団を司る部分であるはずだとハリスは考えています。

子ども時代は同化の時期だと言います。この時期に子どもたちは同じ年代、同じジェンダー集団に属する各人たちと同じように行動することを学びます。子どもたちはこうして社会化を果たすのです。年齢集団が子どもと大人の二つしかない社会では、14年という歳月はまずまずの大人をつくり上げるには十分だとされています。そのような社会では成人した男性、女性のあり方がかなり明確にされているのです。その点に関しては選択の余地はほとんどありません。

ところが子ども時代は分化の時期でもあります。地味か派手か、頑固か柔和か、敏捷か緩慢か、子どもは自分がいかなる人間であるかを同じ集団の他のメンバーや、同性で同年代の他の子どもたちと自分とを比較することで、または比較されることで学ぶと言われています。彼らはそこで学んだ内容をひっさげて、次なる年齢別カテゴリーへと進級していくのです。

もし社会が思春期という時期を提供してくれるのであれば、思春期にこそ彼らはその情報を活用するのです。先進社会では、大人は専門分野をもつことを要求されますが、それは多様な選択肢から選ぶことになります。そしてその選択を行なう時期が思春期なのです。ティーンエイジャーが自分自身を各集団に分類するときには、彼らは自分自身のもつ顕著な特性を見極める作業をしていると言います。彼らは別の方向ではなく、ある一定方向に前進することに决めるのです。このような判断は改変不可能ではありません。ハリスの下の娘はそれを立証してくれましたが、いくつかの選択肢を排除してしまうことにはなります。大学人学資格は高校の卒業証書とは違います。28歳で大学に入学することは18歳で入学することとは違うと言うのです。

非行の原因

ヤノマミ族のような社会では、攻撃的に振る舞わない男の子こそ浮いてしまうのです。アメリカではサプカルチャーごとに、そして地域ごとに、攻撃性への許容度や、万引きや麻薬の使用に関する態度に違いがあるのです。

そのような違いはある高校内の仲間集団においても見られます。類は友を呼ぶというように、攻撃的なティーンエイジャーや、刺激的で危険をともなうことに惹かれる者たちは、自分の同類を見つけだします。そのような性格特性は部分的には遺伝的なものであるため、自分と同類の者を見つけようとする者はある意味で自分と同じような遺伝子をもつ人を探していることになるのです。

非行の原因を解明するためにはそこに関与する四つの異なる要素を理解することが必要であるとハリスは言います。文化、文化内の年齢別カテゴリー、年齢別カテゴリー内の仲間集団、そして個人です。文化の中には衝動的で、攻撃的な行動を助長するものもあります。年齢別カテゴリーが三つ以上存在する文化ではティーンエイジャーと大人との間に問題が起きやすいと言います。多くの仲間集団が存在する学校では、悪さを誇りとし、自分たちをいい子ぶりっ子と対比させる集団がでてきます。多くの仲間集団がある場合、子どもたちは個人の特徴に基づいて自分たちを分類し、自分に一番合った集団へと引き寄せられるのです。

非行少年を更生させることを目的としたプログラムには効果がないことが明らかになっているそうです。一般的に一時的で濃密な更生プログラムに参加した者の再逮捕率は参加しなかった者と変わらず、時にはそれ以上の場合もあるそうです。再逮捕率が高まるのは子どもたちが厳しい処分を受けた場合、つまり刑務所や以前「教護院」と呼ばれていたものの現代版に送致された場合です。ハリスがこれまで述べてきたことから考えれば、犯罪を犯した子どもたちを同じように犯罪を犯した子どもたちと一緒にしても、犯罪を犯すことは普通なのだという意識から彼らの目を醒まさせることはできないというその理由が理解できるはずです。

では、犯罪行為に関してハリスはどのような見解を持っているのでしょうか?

思春期はたびたび同調の時代、すなわち仲間たちから最も影響を受けやすい年代だと評されます。ところが、人はどんな年齢においても仲間たちからの影響を受けやすいのだとハリスは言います。今回のハリスの見解を知るにつけて、そこに疑問を持ちます。思春期と限定する話ではないことが多いからです。それは、もちろん大人になってからもそうでしょうが、私たちが相手にしている乳幼児においてもそれを感じるのです。しかし、まだまだ、乳幼児における子ども集団の環境の影響、特に乳児における仲間の影響についての研究が少ない気がします。しかし、もちろん、この時期における犯罪はありませんから、直接に犯罪行為についての考察は難しいかもしれません。そこは、ハリスは同感が得ているのでしょうか。

犯罪行為

ハリスの下の娘はもはやティーンエイジャーではありません。そしてもう何年もタバコを手にしていないそうです。この例は、ハリスが少し前に紹介した論文でティーンエイジャーの生活においては普通のことだと言います。犯罪者は、特に男性の場合はそのほとんどがティーンエイジャーから二十代前半だそうです。モフィットが研究したティーンエイジャーの少年の典型的なサンプルのうち、一度も違法行為を行なったことがないと答えた18歳はわずか7パーセントにすぎなかったそうです。犯罪行為は子どもと25歳以降ではまれだそうです。問題を起こすのは、子ども以上大人未満の人たちなのです。

違法行為をした若者の大半は、それなりによい子として子ども時代を過ごし、最後にはそれなりに法を遵守する良民となります。彼らの非行は、モフィットの言うところの「一時的なもの、または場面に限定されているもの」であり、社会的状況に左右されるのです。非行は概して子どもたちが個々人で行なうものではありません。友人とつるんで行なうものなのです。

彼らの行動は反社会的かもしれませんが、社会化に欠けているわけではありません。厄介な存在であるかもしれませんが、多くの場合、彼らは危ない状況に陥っているわけではないのです。いきり立っているように見えるのは、非行の現場を押さえられたからだろうとハリスは言います。彼らのほとんどは普通の子どもたちで、自分のおかれた社会的状況にふさわしい行動をとっているだけだと言うのです。彼らは所属する集団の規範に従い、ときとしてそれは親の規範には反するかもしれませんが、集団内の地位向上を図り、または地位を失わないようにしているだけなのだと言うのです。それを変えたいならば集団の規範を変えるしかありませんが、そう簡単にはいかないのです。

だからとって、ハリスは過剰なまでに悲観的になっているわけではないと言います。ティーンエイジャーの集団の規範は、部分的には大人集団の規範の規範にその基礎をおき、他の文化的情報源、とりわけメディアからの影響を受けます。メディアが暴力行為を魅力に満ちたものとして描くこと、もしくはさらに悪いことに暴力を凡庸なこととして描くことが、過去30年間の犯罪の増加につながったとハリスはは考えています。サン・アンドレスの子どもたちは攻撃的な振る舞いを普通だと思いながら成長しますが、それは村の多くの人々がそのように行動しているからです。北アメリカやヨーロッパの子どもたちも、攻撃的な振る舞いを普通なのだと思いながら成長しますが、それはテレビに映し出される多くの人々がそのように行動しているからです。子どもたちはこのような知見を仲間集団にもちこむのです。仲間たちも同じ村に住み、または同じ番組を見ているので、それらを集団の規範として受け入れるのです。オレたちの社会に住む人々はそのように行動すべきなのだ、と彼らは考えるようになるのです。

実際にそのように行動しなければならない社会もあります。ヤノマミ族の男性は自分の妻の行動が気に入らなければ棒で叩き、体のさほど重要ではない部分に矢を放つそうです。ヤノマミ族に拉致されたプラジル人少女エレナがそれを語っています。成熟したエレナはヤノマミ族の酋長フシウェにもらわれましたが、彼にはすでに四人の妻がいました。フシウェはヤノマミ族にしてはやさしい男でした。何しろ彼女は彼を愛していたそうです。それでも一度、彼女の責任ではなかったある事柄に腹を立て、彼女の腕を折ってしまったことがあったそうです。

言い分

ユーモア作家デイヴ・バリーは、15歳の夏にはじめてタバコを体験していますが、それはやむにやまれぬ理由からだったそうです。

喫煙反対派の言い分として、「厭わしい中毒性を引き起こすもので、徐々にだが確実に息切れを起こし、肌の色もドス黒くなり、体は腫瘍だらけの病人と化してしまう。そして残る片方の肺からは、有毒な老廃物が茶色の痰となって吐き出されるようになるのです。」

喫煙賛成派の言い分として、「他のティーンエイジャーたちがやっています。」

ティーンエイジャーたちにタバコが及ぼす健康の害、しわだらけになる!不能になる!死んでしまう!を話しても無駄だと言います。それは大人のプロパガンダであり、大人の言い分です。大人が喫煙を好ましく思わないからこそ、危険で、悪評高き点があるからこそ、ティーンエイジャーはそれに惹かれるのです。

喫煙は気持ちの悪いものだと話しても効果はありません。それは、苦い経験からハリスが学んだことだそうです。大人があるものを気持ち悪いと評しただけで、アンチ大人たちはそれに惹かれるのです。

彼らと同年代の人に講演を依頼してもだめだと言います。講演者は裏切り者、メルの一人、ガリ勉、いい子ぶりっ子とみなされるだけです。大人に貧乏くじを引かされた哀れな奴としてしか見てもらえません。

タバコを入手しにくくすることでさえ効果薄だと言います。マサチューセッツ州の町では未成年者にタバコを販売した店を厳重に取り締まりましたが、それでもティーンエイジャーたちの喫煙はなくならなかったそうです。タバコの入手を難しくしたことで、ますます彼らのチャレンジ精神を駆り立ててしまっただけだったそうです。

大人が思春期の子どもに及ぼすことのできる力は限られています。ティーンエイジャーたちは独自の文化を構築しますが、それは仲間集団ごとに異なります。彼らが大人文化のどの部分を取り入れどの部分を放棄するのか、そして新しく独自に考案するものがどういうものであるか、私たちには予測もつかなければ、それを決めることもできません。

とはいえ私たちは無力ではないとハリスは言います。大人は彼らの文化にとっての主要情報源であるメディアを管理する立場にあります。メディアが喫煙者を反逆者や自らを危険にさらす者として描き、喫煙を「どうにでもなれ」という意思表示に用いたことで、タバコはティーンエイジャーにとって魅力的な存在となってしまったのです。映画やテレビ製作者たちが自発的に俳優たち(ヒーローであろうが、悪党であろうがかまいません)が、タバコを吸う姿を撮影することをやめないかぎり、この問題は解決しないだろうとハリスは言います。

タバコの値段を急騰させるのも効果があるかもしれません。少なくとも喫煙者の喫煙量が減り、常習者になりうる人の数は減るでしょう。

では、反喫煙広告が意味あるでしょうか? それも難しいかもしれません。最良の策は、タバコ産業の大物たちが、喫煙奨励は大人がティーンエイジャーに対して企んだ策略であることを理解させる広告キャンペーンを一展開することだと言います。野放図なタバコ会社のお偉いさんたちがティーンエイジャーがタバコを一箱買うごとに愉快そうに甲高く笑う様子を描けばいいと提案します。だまされやすいティーンエイジャーに商品を売りこもうとその広告、喫煙をかっこいしとして、喫煙者をセクシーな人物として描写する広告を考案している様子を描けばいいと言います。喫煙を、〈われわれ〉が望むことではなく、〈彼ら〉がわれわれに望むこととして描けばいいのだと言うのです。

タバコを吸う理由

研究によると、あるティーンエイジャーがタバコを吸うようになるかどうかを見極める最良の方法は、その友人がタバコを吸うかどうかを見ることだそうです。親がタバコを吸うかどうかよりも当たる可能性高いそうです。これは、日本では、ティーンエイジャーに限ることではないようです。タバコを吸っている人たちは、その仲間の多くが吸っている場合のことが多い気がします。吸わないグループは、皆タバコを吸いませんし、吸っている集団は、吸っている人が多くいます。その仲間内では、どちらが普通であるかということが重要な気がします。また、その中で違った行動をすると、他の人からバカにされる可能性が高いからの気もします。特に、タバコを吸っている人たちの中で見られるのは、禁煙をしようとする人を応援するよりも、なんとなくバカにする気配があるような気がします。そんな人たちを見ると、大の大人になっても、ティーンエイジャーのような精神年齢を持っているのではないかと疑ってしまいます。

タバコを吸うティーンエイジャーは他の「問題行動」も起こしやすいという研究もあるそうです。酒を飲む、違法薬物に手を出す、若い頃から性生活が派手になる、授業を抜け出す、学校を退学する、法を犯す。彼らの所属する仲間集団ではこれらの行動は正常なことと考えられているのだとハリスは言います。

ところが、すでに述べたように、喫煙とは複雑な習慣です。タバコには常習性があります。コカインやニコチンといった常習性のある物質を体験する可能性、そしてそれを常習してしまう可能性は人によってさまざまですが、それらの差には遺伝的要因も関与していると言われています。喫煙は性格特性に見られるのと同じパターンを当てはめることができることがわかったそうです。同じ遺伝子を共有する人同士ほど似る、すなわち両者ともタバコを吸うようになるか、それとも吸わないでいるかだそうです。ところが同じ家庭で育ったからといって、それが一致する可能性が高まるわけではありません。喫堙者を親にもつ子どもの多くがタバコを吸うようになるのは、喫煙という習慣には一部、遺伝的な要素がかかわっているからなのだそうです。

環境の影響を遺伝的な影響から切り離したのはアリゾナ大学の行動遺伝学者ディヴィッド・ローだったそうです。ティーンエイジャーがタバコを吸うようになるか、それとも吸わないでいるか、そこに環境が影響を及ぼすルートはたった一つしかなく、それはもし仲間たちが吸えば、おそらく彼女も吸うようになる、ということです。一方、遺伝子が影響を及ぼすルートは二通り、1つは性格への影響を通じてです。衝動的な興奮好きは、喫煙に対して肯定的な能度をいだく仲間集団に落ち着きやすいようです。二つ目は、ニコチンを常習しやすいかどうかです。

タバコを吸う仲間との接触はティーンエイジャーがタバコを体験することになるかどうかの決定要因となります。遺伝子は依存症になってしまうかどうかを決定するそうです。

ハリスは、遺伝子に対してはなす術もないが、依存症になることを避ける唯一の方法があると言います。それは、子どもたちにタバコを体験させないことだと言います。「危険!危険!」というラベルをタバコの箱に明記するだけでそれが可能だと思っている人は、思春期の頃の自分を忘れてしまった人だろうと言います。ユーモア作家デイヴ・バリーは、15歳の夏にはじめてタバコを体験していますが、当時としては、今日のティーンエイジャー同様、それはやむにやまれぬ理由からだったそうです。

集団のアイデンティティ

ハリスの下の娘は13歳にしてタバコを吸っていたそうです。彼女が言葉を話すようになって以来、ハリスが反タバコ主義を吹聴しつづけてきたのにもかかわらすです。ハリスはかなり如才なくやってのけているつもりでいたそうです。その不快さを強調し、健康を害することについてはさほど触れなかったそうです。それで効果はなかったと言います。彼女は落ちこぼれ集団に属していましが、そこでは喫煙は当然のことだったのです。それが集団の規範だったのです。仲間からの圧力ではと思うかもしれません。ところが、心理学者シンシア・ライトフットが話を聞いたティーンエイジャーたちによると、それは「まったくのでたらめ」だといっています。その一人は飲酒をはじめたいきさつを次のように語っているそうです。

「自分がどれだけすばらしい人間であるかを何とか皆に示そうとし、その最も有効な方法は、もし他の誰もがお酒を飲み、それを当然のこととして皆が考えているのであれば、自分も彼らと同じ価値観をもち、認められるべき存在であることを証明するために同じ行動をとることだ。同時に仲間たちからの圧力というのは、まったくのでたらめだ。学校に人学してからというもの、仲間たちの圧力については、誰かが私のところに来て“ほら、これを飲みな。かっこよくなれるぜ”と言うものだと教えられてきた。だが、まったくそんなことはなかった。」

ライトフットがまとめているように、「仲間からの圧力というのは、従うことを強いられるというよりは、集団のアイデンティティに関連する、もしくは関連するであろうと思われる経験に自分も参加したいという願望に近い」。ティーンエイジャーが集団の規範に従うことを強いられることはまれです。そんなものははるか昔、子ども時代に卒業しているのです。

タバコを)吸うティーンエイジャーたちは喫煙する仲間をもつだけではありません。大概、その親も喫煙者です。心理学者もそうでないものも、ほとんどの人はティーンエイジャーの喫煙に親の姿を見ます。子どもは、喫煙は大人のやることだと思うようになり、ゆえに自らもそれをやりたくなると考えます。ハリスは、以前、ヤノマミ族の男の子がペニスを結びつける理由を説明した同様の仮説に異議を唱えていました。喫煙はペニスを結びつける習慣よりも複雑な習慣ですが、一つだけ大きな利点があると言います。それはデータが豊富に揃っていることだとハリスは言うのです。

以前はアメリカの多くの地域でタバコは大人文化の一つとして受け入れられていましたが、同様に子ども文化の一つとしても受け入れられていたのです。ティーンエイジャーたちも喫煙をはじめましたが、それは同年代の子どもが皆そうしていたからなのです。親は反対するにもやんわりと諭すだけでしたし、それすらしない親もいました。ヤノマミ族の間でペニスを結びつける習慣が受け継がれたように、喫煙は文化の他の側面と同じように受け継がれていったのです。

もはやそのような形では受け継がれません。大人のほとんどが喫煙するようなアメリカの地域社会はめずらしくなり、親自身は喫煙しても子どもの喫煙を認める親は少なくなったからです。今日、喫煙はむしろ思春期の子どもたちの団結心を象徴するものとなってしまったのです。高校の中の特定の仲間集団への忠誠心の象徴、いい子ぶりっ子やガリ勉たちのような他集団への軽蔑心の表われ、そして大人が何を考えようと、大人の規則なんてくそくらえだという意思表示なのです。お揃いのジャケットを着用することで、自分がどのギャングの一員であるかを示すようなものなのです。頭のてっぺんを小さく丸く剃ってしまうことで、どの部族に属しているのかを示すようなものなのです。

親との関係

「好ましい」仲間集団の一員となったティーンエイジャーは、親との関係も良好である場合が多いようです。非行集団の一員となった者は、親との関係がぎくしやくします。発達心理学者たちは、この相関関係を親の影響を立証するものとして、すなわち、彼らの立てた仮説が正しいとい証拠としてとらえるようです。好ましいティーイエイジャーたちが好ましくなるのは、正しい子育てを実践した親の影響を受けているからだと彼らは考えます。また好ましくないティーンエイジャーたちがそうなるのは、親ではなく仲間たちの影響を受けたからですが、それは親が間違った子育てを実践してきた結果だというのです。

ハリスは、そのようには考えていません。彼女の考えでは、いずれのティーンエイジャーたちも同じように仲間たちの影響を受けているというのです。彼らはたんに異なる種類の仲間集団に属しているだけなのだと言うのです。

彼女は、彼女の夫と異なるタイプのティーンエイジャーを二人育ててきたと言います。娘たちは同じ地域に住み、四年違いで同じ学校に通いました。小学校時代はそれぞれが同じような仲間集団に属していましたが、高校に入るとそれが変わりました。上の娘は頭脳派、下の娘は落ちこぼれだったそうです。最終的には上の娘はコンピュータ・サインティスト、下の娘は看護師となり、二人とも立派になりました。一人はその方向に向かって邁進したそうですが、他方は紆余曲折を経てそこに達したそうです。

二人の娘たちは同じ親に育てられましたが、きょうだいとは往々にしてそうであるように、まったく違う人間だったのです。上の子は親の導きをほとんど必要としませんでした。自分のしたいことをしたいようにしましたが、それは折よくハリスたちが望んでいることと一致したそうです。下の娘には私たちの導きはほとんど通用しなかったそうです。聞いたそばからそれをはねつけたのです。それは彼女の仲間集団が掲げる目標や価値観と相容れなかったからです。彼女の親であるハリスたちは苛立ち、腹を立てることが多かったそうです。

驚くべきことではありませんが、ある種の仲間集団に属する子どもは親と良好な関係にあり、別の種の仲間に属する子どもは親とうまくいきません。問題はなぜ、子どもたちはその仲間集団の一員となったかであるとハリスは言います。ハリスは、彼女の夫とともに娘たちに施した何かのせいなのか、ハリスたちの責任なのでしょうか。もしここでハリスはそれは自分の責任ではないと答えれば、それは彼女が責任を逃れ、いかなる関与をも免れようとしているように聞こえてしまうのでしょうか。

ここで、ハリスは自分の経験を紹介しています。その上で私たちの判断を仰ぎたいと言います。「なぜ思春期の子どもたちは愚かなことをしでかすのか?それをとうやめさせるか?」という問いです。

ハリスは、この問いに目を背けてはいけないと言います。確かに彼らはどうしようもなく愚かになるときがあります。私たちの警告を、そして箱に目立つように印刷された警告文をも無視し、タバコがやめられなくなってしまうのです。あまりに早くに初体験をすませ、性生活も派手で、コンドームを使用し忘れることも非常に多いようです。運転すればスピードを出し過ぎ、アルコールも飲み過ぎます。テリー・モフィットの言うとおり、法を破ることは彼らにとってまったく日常的なこととなってしまっているのです。

興奮好き

高校における社会的カテゴリーには自ら進んで入るものと、人から指名されて入るものとがあるとハリスは言います。非行というカテゴリーはその両方だというのです。中にはその興奮と危険に惹かれて自らそのカテゴリーに入る者もいます。そのような者を興奮好きと心理学者は呼ぶそうです。他は否応なしに、他のどの集団にも受け入れてもらえなかったためにこのカテゴリーに配属された子どもたちであると言います。このような子どもたちは小学校においても仲間たちから拒絶されていた子どもたちです。たいていの場合、活発すぎて、気むずかしく、過剰なまでに攻撃的であるのが理由です。中学の頃には自分と同じような子を見つけ、お互いを励ましあったとハリスは言います。思春期の仲間集団に属する子どもたちは元来似たもの同士です。集団性により彼らの類似性はさらに増長され、他の集団のメンバーたちとの差別化を図るようになります。頭脳派はますます頭がよくなり、ガリ勉派はますますとろくなり、非行派は深刻な問題を起こすようになるのです。

思春期の子どもたちはほとんどの場合、自分の親とよく似ている人たちの住む地域で生活します。また仲間たちも自分とよく似た家庭環境で育ちます。子どもたちは家庭で学んだものを仲間集団にもちこみ、共通するものの多くをそのまま保持しますが、均質的な地域においてはその数はかなり多くなります。以前紹介したスナイダー博士のように、男の子のほとんどが医者を目指すような社会で育った子どもたちは、声変わりした途端にその計画を放棄するとは限りません。均質的な社会においては、成績の優秀な者が見せる思春期の反抗的行為は形式的なものともいえますが、人に危害を与えないまでも、やはり人を不愉快にさせます。女の子は髪の毛の半分を紫に染め、菜食主義者となると言います。男の子なら髪の毛の半分を剃り落とし、親にとっては耳ざわりな音楽を聴くようになるのです。それも大学への願書は記入するのです。愚かに見えても、どうしようもない愚か者ではないのです。このハリスの見解は、日本の思春期を迎えた若者と若干違いはあるものの、同じような行為をするものです。いくつか思い当たる節があります。

高校はさまざまな仲間集団を提供してくれますが、今述べたような地域では、これらの集団は親が快く思うようなものがほとんどです。仲間集団と親が同じ目標、価値観を共有する場合、ティーンエイジャーとその親とのトラブルは最小限に抑えられると言います。

トラブルが発生しやすいのはティーンエイジャーたちが親のものとはかけ離れた目標や価値観を掲げる集団の一員となったときです。親の言う「悪い仲間」とつきあうようになったティーンエイジャーに平和な家庭生活は望めないと言うのです。親は娘の友人を毛嫌いし、娘の服装も振る舞いも気に入らず、学校の成績にも満足できません。親は友だちとのつきあいを辞すよう彼女に言うものの、家の外での行動までコントロールすることはできません。結局彼女は親に内緒で友人たちと会い、そのことで嘘をつきます。親に与えられた選択肢は二つあるといます。いっそう独裁的になり、意地悪くなることでふたたび掌握を試みるか、あきらめるかです。

高校に存在するカテゴリー

カテゴリーはそこに属する人々の人格、性癖、そして能力を反映するようになっています。また、選択肢の数も変化をします。高校は一般的に小学校よりも多くの生徒をかかえ、また生徒たちはより自由に仲間を選ぶことができるため、生徒たちはさらに細分化されます。高校に存在するカテゴリーの中には聞きなれたものもあるでしょう。スポーツ派、頭脳派、ガリ勉、人気者、落ちこぼれ、そして非行グループ。高校の規模が大きくなればなるほど、社会的カテゴリーの選択肢は増えます。たとえば、大都会の高校には芸術や演劇が好きで、異性には興味がない少年の集団ができる場合が多いと言います。このような集団が存在することで、対象となる子どもも早い段階から自分がどのような人間であるかを自覚でき、また「カミングアウト」もしやすくなるでしょう。高校の規模も小さく、社会的カテゴリーの選択肢が少ない地方では、自分が同性愛者であることを公に認める男性は少なくなります。

高校では類は友を呼びますが、それは必ずしも自らの力で引き寄せるとは限りません。子どもたちはたびたび所属したくない社会的カテゴリーに押しこまれてしまうのです。自らガリ勉を志願する者などいません。実は典型的なアメリカの高校では、頭脳派志願もいないそうですが、ガリ勉のレッテルを貼られる子どもは、運動が苦手で、より高立の集団に入るだけの人気がない子どもなのです。ヨーロッパ系、もしくはアフリカ系アメリカ人の思春期の子どもたちにとって、頭のよさは取り柄にはなりません。そのレッテルを貼られないためには、仲間たちから尊重されるような別の取り柄が必要だそうです。

頭のよさが取り柄にならないのは、成績優秀者は裏切り者とみなされるからかもしれないとハリスは言います。〈彼ら〉すなわち親や教師の影響を受けすぎているとみなされるのだと言うのです。人類学者ドン・マーテンは、イリノイ州のある中学校で見られたガリ勉に相当する社会的カテゴリーについて語っているそうです。そのカテゴリーに属する者たちは軽蔑的な意味あいで「メル」(退屈な奴の俗称一として使われるメルヴィンに由来)と呼ばれたそうです。この学校では幼く、連動が苦手で、とりわけ魅力的ではない男の子はメルと呼ばれ、人生を、少なくとも思春期をふいにしてしまうのです。頭脳派とは異なり、メルはずば抜けて明晰でもなければ、勉強好きでもありません。ところが頭脳派同様、大人の影響を過大に受けているとみなされるのです。大人の考え方を嘲弄することができないために、仲間たちから子どもっぽく思われてしまうのです。

「思春期前半の子どもたちは、小学校からの移行には二つの変化がともなうことを知る。これまでの子ども時代から離脱すること、そしてこれからの思春期に携わること。仲間たちの目にはメルはこの二つの課題、とりわけ一つ目を達成することができなかったと映るのだ。一度メルのレッテルが貼られると、いじめの標的にされてしまう。」

少年にとって、一度貼りつけられたレッテルを振り払うことは難しいですが、思い切った手段を講じる気さえあれば、不可能ではないと言います。ドン・マーテンの研究で被験者となった少年の中にウィリアムという名の子がいました。彼は七年生のときにはからかわれ、いじめられていましたが、八年生になり、メルらしさを脱ぎ去ることができたのです。ウィリアムは体系的にそれを行ないました。まず彼は他のメルとの接触を断ちました。同じ社会的カテゴリーに属しているからといって、お互いに好意をいだいているとは限らないからです。いちゃもんをつけられるとやり返し、いじめっ子のご機嫌とりはやめにしました。意図的に学校の規則を破りました。その決定的瞬間は別の子が英語の授業中に彼の鉛筆を取ったときに訪れたのです。ウィリアムは大声で「こんちきしよう!」と怒鳴り、職員室に呼ばれたのです。こうしてウィリアムのメルとしての孤独な生活に終止符が打たれたのでした。

取捨選択

思春期の子どもたちはもちろん親の考え方をすべて拒否するわけではありません。マリファナ常用者の子どもがマリファナに手を出すこともあります。取捨選択は個人の自由裁量ですが、必ず何かは保持されるとハリスは言います。各世代がそれぞれ振り出しに戻ることはないと言うのです。

取捨選択が個人の自由裁量で行なわれ、さらに先進国社会の若者たちはに同年代の仲間とかかわるので、高校や大学に新たに入学した者たちは、独自の文化を構築することになります。その新たな文化には社会全体、すなわちメディア、世界情勢、そして先輩の文化から迎え入れた情報と、先人たちと差別化を図る目的で文化の構築者たちが新たに加えたものとがプレンドされているというのです。

このような文化の再編成は60年代後半から70年代前半にかけてとりわけさかんだったようです。当時、思春期の子どもたちを研究した心理学者たちは、コーホート、すなわちいくつかの世代が重なって存在する集団への準拠は性格の発達に重大な影響を及ぼすと結論づけているそうです。それぞれのコーホートは各人の性格にそれぞれ独特な一利一害をもたらしてきました。たとえば、1972年の14歳はその1、2年前の14歳よりもはるかに独立していましたが、達成度や忠実度は低かったそうです。先人よりも自由であることへのこだわりが強く、学業成績はさほど重要視されなかったようだとハリスは言っています。時代とともに人も変わると言うのです。

幼い子どもたちの社会的カテゴリーは包括的で、明確な人口学的特徴に基づく場合が多いようです。三年生の女の子は、自分自身を三年生の女の子として自覚しますが、この自己カテゴリーは同級生の女の子たちに好かれているかどうか、もしくはその子が他の女の子たちに好意を寄せているかどうかは関係しないと言います。三年生の女の子の人数が多く、彼女たちをまとめておくものが何もなければ、別の人口学的特徴、たとえば人種や社会経済的地位などに基づき、いくつかの下位集団に四分五裂します。

ところが、学校では集団内にまた集団が形成されています。三年生ですら、自分をどのようにカテゴリー化するか、いくつかの選択肢から選ぶことができます。人数的に多い人口学的集団の中には、行動を共にする子どもたちで形成されるより小さな集合体、同志的小集団が損じします。こうしたクリークに属する子どもたちは、一般的に学業への態度、好きか嫌いかが同じで、他の事柄に対しても似たような態度でのぞみます。小学校の間は、このようなクリークがまだまだ流動的で子どもたちは他のクリークへと移動することもあると言います。クリークが変わると彼らの態度も新しい友人たちと一致するよう調整されるとハリスは考えています。

高校に入るとクリークを移ることははりかに難しくなると言います。子どもたちが高校に入学するころには、同級生の間で、そして彼ら自身によってその子のタイプが決められている場合がほとんどだと言うのです。幼い頃に形成していた一時的なクリークは比較的固定された社会的カテゴリーへとまとまりますが、それはもはや人口学的要素だけに基づくものではありません。今やそのカテゴリーはそこに属する人々の人格、性癖、そして能力を反映するようになっているのだと言うのです。