よい子

社会化研究者たちは、根底に、育児スタイルには「よい」ものと「悪い」ものがあり、よい育児スタイルを実行している親の子どもは悪い育児スタイルの親の子どもよりも、よい子に育つという先人観があるとハリスは言います。子どもには愛情をたっぷりと注ぎ、その子を十分に認めてあげること、体罰やけなすような発言は控える、一貫性のある態度でのぞむこと、などです。同時に子どもに何を望むのかについてもある程度はっきりしています。「よい」子とは明るく、協力的で、ロポットほどではなく適度に従順で、無謀すぎず臆病すぎず、学業成績もよい、友だちも多い、そして正当な理由もなく人を叩いたりしない子どもです。

確かに私たちは、子どもに対して先入観を持っています。子どもらしさとは、元気な子どもとはなどです。よく、保育目標に「元気で明るい子ども」と掲げてある園を見かけます。以前、ブログで紹介したと思いますが、私の娘が小学校の中学年のころだったと思いますが、さくらももこの本のある部分を見せられました。そこには、さくらももこが小学生の頃よくお母さんに言われていたこんなことが書いてありました。クラスにサッカーの上手な長谷川健太君という子がいました。彼はサッカーが上手なだけでなく、勉強もよくできて、近所でも評判のいい子だったそうです。さくらももこは、お母さんに「健太君は、暗くなるまで外で元気に、真っ黒に日焼けしてサッカーをしている。それに比べて、あなたは背中を丸めて、机に向かって漫画ばかり書いている暗い子だ。少しは健太君を見習いなさい。」というようなことを言われました。その時にさくらももこは、おかしいと思います。健太君はサッカーが好きな子、それに比べて私は漫画を描くのが好きな子、どちらも自分の好きなことをしているのに、健太君は、「いい子」で、私は「悪い子」というのはおかしくないか?というような内容だったと思います。人は、いい子、子どもらしい子、元気な子という先入観があるようです。

生活スタイルや育児スタイルいずれの研究においても、研究者たちは生活もしくは育児におけるある様式の優良性とそれがもたらすであろう結果(健康状態もしくは子ども)の優良性に関するデータを集めます。そして双方の研究の目的はともに、正しい行為が望ましい結果をもたらすことを証明することです。双方の研究の結果は相関関係として表わされますが、この相関関係は元来あいまいな概念なのです。

ハリスは、疫学者の功績を批判しましたが、だからといってプロッコリの摂取をやめて、怠惰でわがままな生活に戻ってよいことを示唆するつもりはないと言います。ハリスは、彼らには申し訳なかったといいながら、ここで話を社会化研究に戻しています。仮に子どもの知能の向上と環境要因の相関関係を研究することになったとします。まず子どもに知的刺激を与えるような環境を提供する親の子どもはより賢くなるとの仮説を立て、その仮説を検討します。つまり、実証できるようにするためのデータ収集に着手します。測定するのは家庭環境の知的刺激度と子どもの知能です。環境要因の簡単な目安としてその家庭内の絵本を数えることにし、知能の目安としてIQを測定します。これらの測定値は元来の目的である特徴を大ざっぱにとらえただけのものですが、そのまま数値として表現されていることから数値への変換作業が省け便利です。

根底にある先入観

ハリスが想定した結果から、この研究で、ブロッコリを食べたことが男性被験者の寿命を延ばしたと立証できたのでしょうか。プロッコリを食べる男性は人参や芽キャベツの摂取量も多いかもしれません。ブロッコリ敬遠派よりも肉やアイスクリームの摂取量が少ないかもしれません。おそらく運動量も多いでしょうし、シートベルトもきちんと着用するでしょうし、喫煙する可能性も低いでしょう。ブロッコリの食習慣以外のあらゆる生活様式もしくはそれらをひっくるめた効果によってブロッコリ好き派の寿命が延びているのかもしれないのです。ブロッコリを食べることとなんら関係がないかもしれないのです。またブロッコリを食べることが、かえって被験者の寿命を縮めている可能性すら考えられますが、その作用がブロッコリ好きのその他あらゆる行動の効果によってかき消されているのかもしれないのです。

さらに状況を復雑にしているのは、ブロッコリを食べる習慣は既婚か未婚かにも関係しているかもしれません。一般的に既婚男性は独身者よりも長生きであるといわれています。それから考えるとブロッコリ好きが長生きできるのは、結婚しているからであって、ブロッコリを食べているからではないのかもしれません。その一方で、ブロッコリを食べるから既婚男性は長生きするとも考えられます。

このようにいろいろと考えると、研究結果を読み取るのは難しいですね。はっきりしているのは、ブロッコリを食べることと長生きすることとの相関関係から何かを結論づけるのは難しいということがわかります。また同様にはっきりしているのは、そのような相関関係からの推断は日常茶飯事であるということだとハリスは言うのです。たとえ学術誌に掲載する論文に、その結果は別の解釈もありうると周到に明記したとしても、その警告文が新聞記事にまで反映されることはまずありません。さらに言えば、それがその論文を読んだ疫学者の注意を引くこともないでしょう

疫学者たちはカリフラワー協会から補助金を得るためだけに研究を行なっているのではありません。彼らにはより大きな目的があります。それは今日のライフスタイルにかかわる判断が明日の自分の命を左右する、それを立証することです。この分野の研究者たちは柔軟性に欠けていますが、それは彼らがある先人観に基づいて行動しているからではないかとハリスは考えています。その先人観とは、ライフスタイルには「よい」ものと「悪い」ものがあり、よいライフスタイルをもつ人は悪いライフスタイルをもつ人よりも健康であるという考えです。よいライフスタイルの基本とは周知のとおり、野菜をよく食べ、油ものを避け、毎日欠かさず運動し、タバコは吸わない、などです。疫学者は被験者のライフスタイルの優良度を評価し、彼らの健康度を測ります。よりよいライフスタイルがより健康的な肉体につながることを証明することが彼らの目的なのだからです。

同じように、社会化研究者たちも根底には先人観があるとハリスは言います。育児スタイルには「よい」ものと「悪い」ものがあり、よい育児スタイルを実行している親の子どもは悪い育児スタイルの親の子どもよりも、よい子に育つと考えているというのです。健康的なライフスタイルの基本が周知のことであったように、「よい」育児スタイルの基本もまた皆の知るところなのです。

相関関係

社会化研究とは、子どもの心理的成長に環境が及ぼす影響、とりわけ親の育児態度や子どもに対する行動による影響を科学的に追究する学問です。科学的な手段をいくつか使用するという意味で科学ではありますが、それは決して実験科学ではないとハリスは言います。それは、実験を行なうには、あるものに変化を与え、それが他方に及ぼした影響を観察しなければならないからです。社会化研究者は、親が子どもをどう育てるかには関与しようがない場合がほとんどであるため、実験を行なうことはできないのです。代わりに彼らは親の行動様式がいく通りもあることを活用します。そのばらつきはそのままに、計画的にデータを収集することで、同じ変化を示すものを探り出します。すなわち彼らは相関関係を調べているのです。

相関関係の研究といえば、よく知られているものに疫学があるそうです。疫学者は人の健康状態を左右する環境要囚を研究します。データを収集し、分析するために彼らが使用する方法は社会化研究で用いられるものと似ており、それゆえに同じような問題をかかえることになるとハリスは言うのです。彼女は、多少遠まわりにはなりますが、ここで疫学について触れています。この二つの分野の共通点は、今後きっと役立つことになると言っていますが、私たちにとっても、保育について考える上でその研究方法と考察のしかたを知ることは、とても意味あることです。それは、また、私が保育についての研究に対して、実際の子どもの姿とその仮説との違いについて首をかしげる部分の理由がよくわかりました。

この例は、ハリスが架空で想定されたもので、疫学者になったつもりで、ブロッコリを食べることと健康との関係を調査することになったとします。その方法は単純明快です。大勢の中年期の人々に対して、ブロッコリをどの程度食べているかという聞き取り調査を行い、その5年後に対象者のうち何人が生存しているかを調べるというものです。単純に「生存」を健康体であることの指標とします。それは、総じて生きている人の方が死んでしまった人よりも健康体であるからです。

その結果、5年後にはブロッコリを食べることと生存しつづけることの関係が明確になります。その結果は、次のようなものとします。5年後の生存率は、最低週1回は食べるブロッコリ好き派は女性99%、男性99%、月1回程度は食べるブロッコリ我慢派は、女性99%、男性97%、近づきたくもないブロッコリ敬遠派では、女性99%、男性95%となったとします。この結果をコンピュータに入力すると、ブロッコリを食べることは被験者全員(99、98、97パーセントではたいした差ではない)もしくは女性の長命には有意な効果をもたらさなかったとの分析結果がはじき出されます。しかし、男性のみを考えた場合、ブロッコリを食べることと長命との関係は「統計的に有意」となりました。それはすなわち、ここで生じた数値の差がまぐれや偶然によるものである可能性は皆無ではありませんが、きわめて低いという意味です。それはまた、この結果は記録に値するものであり、公表できるということになります。さらにはカリフラワーの食習慣と健康との関連性を研究するために補助金を申請できることをも意味していることになります。

そうして、この研究が疫学関係の学術誌に掲載されることになります。それがある新聞記者の目にとまり、翌日、新聞には次のような見出しが躍ることになります。「ブロッコリで男性は長生き―研究で明らかに」

特定の分野

社会化研究は「育ち」側で、行動遺伝学は「生まれ」側でそれぞれ主張を展開します。この両者がもっとも隔たりを見せる分野が発達心理学だそうです。社会化研究者も行動遺伝学者の両者ともに大学生や大学院生相手に教鞭をとること、そして研究を行なうことで生計を立てています。彼らの地位は自分の研究が成功するか否か、また自分の著作物の数およびその評価に左右されます。彼らは専門家であるがゆえに、時間を割いてまで他方の著作物に目を通そうとはしないとハリスは言います。彼女は、その理由の一つには意見の不一致が明白だからで、一つには時間的な問題もあるからだと考えています。一般的に、学者が目を通す出版物といえば自分の専門分野のものばかりで、それ以外は深く関連する分野のものを多少手にとる程度だというのです。

しかし、ハリスの場合は違っていたそうです。彼女は大学で教鞭をとっているわけでもなく、特定の分野での研究を義務づけられているわけでもありませんでした。。教科書の執筆にはバランスのとれたものの見方が求められるため、教科書の執筆や改訂作業および次なる一冊の準備作業に携わっていた頃は、あらゆる視点から書かれた本や学術誌に目を通していたそうです。だからこそ研究系の心理学者の多くには欠けてしまっている展望をもつことができるようになり、分野全体を見わたせるようになったと振り返ります。近くでは見えなかったものが、少し距離をおくことで見えてくることがあったというのです。これは、よくわかります。保育学の専門家たちは、どうしても自分たちの専門分野からだけでものを言う場合が多く、もっと、広い視点から考えてほしいと思うことがあります。今回のブログにハリスの考えを紹介しようとしたのは、私が常々思っていることを彼女が言ってくれている部分が多いからです。

彼女は、社会化研究と行動遺伝学を一望におさめながら調べた結果得られたことを伝えようとしています。研究者たちが何を発見し、その発見をどう解釈したのか、また彼らの解釈がどう間違っているのかを解説しようとしています。

研究に携わっていない人なら、何人もの大学教授が言及していることにどうしてそんなにこだわるのか、と思うかもしれませんが、その理由は、彼らの研究やその解釈が、新聞や育児雑誌に掲載される記事や小児科医から受けるアドバイスのほとんどすべての根底にあるからだと言います。ヒラリー・クリントンが『村中みんなで』の中で読者に提供した育児アドバイスのほとんども、こうした大学教授らによる研究結果に基づいています。ヒラリーは抜かりなく下調べをしていたのだとハリスは言うのです。

子育て神話、すなわち親とは子どもを取り巻く環境の中で最も重要な部分であり、子どもがどう育つのか、その大部分を決定づけるものであるという考え方は、まさに研究系の心理学から生まれた概念です。私たちの文化にはすっかり浸透しましたが、これは先代から伝承されたものではありません。それどころか昔の人々はそうは考えていなかったというのです。彼女の考察にも、私が「昔からというのは、いったいいつの昔からなのか?もっと進化から、ヒトとしての営みから育児を考えるべきである」と考えているのに近いものの見方をしています。

ある特定の家族モデル

子育て神話によると、子どもに言語を含む文化知識を伝えるのも、将来社会で一人前の大人として認められるよう身支度を整えさせるのも親の役目だとされています。しかし、移民の親をもつ娘は地元の言葉や習慣を親から学ぶわけではありませんし、イギリスの裕福な家庭に生まれた男子はめったに親と顔を合わせないため、この神話は通用しません。また異なる多くの文化において、子どもがあまりに親と同じように行動すると、やっかいなことになりかねません。それでも子どもたちは、皆なんらかの方法で社会的にふさわしい行動様式を身につけていくのです。

子育て神話はある特定の家族モデルを想定しているにすぎません。それは典型的な中流階級に属する北米もしくは西欧の家族です。社会化研究者たちは一般的に、地元の言葉を話さない親のいる家庭や、全寮制の学校に在籍する子どもたちや、住みこみの家庭教師や乳母に育てられた子どもたちを研究対象としては見ていません。人類学者や比較文化心理学者は他社会における育児方法を数多く研究していますが、社会化の研究者たちは自分たちの立てた仮説が他社会で成長する子どもたちにも適応するか否かを検証することはまずないのではないかと言うのです。

もちろんあらゆる社会に適応するものもあります。どの社会でも赤ちゃんは無力で無知な状態で生をうけ、年長者の介護を必要とします。どの社会でも赤ちゃんはその土地の言語や習慣を身につけ、同じ家族の各人と友好関係を築かなければなりません。世界には規則というものがあり、すべて思い通りに行動することはできないということを知る必要があります。これらはかなり早い時期、それも大人の保護者に完全に依存している頃から学びはじめなくてはならないのです。

大人の保護者が赤ちゃんの生活にたいへん重要な役割を果たしていることは間違いありません。こうした年長の人々から赤ちゃんは言葉をはじめて学び、彼らのもとで他人との関係を築き、それを維持することをはじめて経験し、規則を守ることをはじめて知ります。しかし社会化研究者たちは、さらなる別の結論まで引き出そうとするのです。子どもたちが初期に身につける関係や規則は、その後の人間関係や規則への従順さを方向づけてしまうものであり、それゆえに彼らの人生全般を決定づけることになる、というのです。

ハリスもそう思っていたそうです。もちろん、今でも子どもたちは幼い頃から人間関係や規則について学ぶべきであると考えてはいるそうです。言語の獲得もまた重要です。しかし、私たちの社会では一般的に家庭におけるこの初期の学習が、子どもの将来の方向性を決めるとは、彼女はもはや考えなくなったというのです。学習すること自体は大切ですが、そこで学んだ内容が家庭以外の世界でも通用するとは限らないと考えています。朝、母親が着せるダサいセーターのように、玄関から飛び出した瞬間に子どもはいとも簡単に脱ぎ捨ててしまうかもしれないのです。

当初から研究系の心理学は大きく分裂していたそうです。一方は「生まれ」による影響を主張し、遺伝によって受け継がれたものに最大の関心をおいていました。他方は「育ち」による影響を主張し、経験によって習得されたものに最大の関心をおいていました。この両者がもっとも隔たりを見せる分野が発達心理学だと言います。社会化研究は「育ち」側で、行動遺伝学は「生まれ」側でそれぞれ主張を展開します。

親の模倣

子育て神話が信じられている中、ハリスが疑問に思った体験が三つあり、その三つ目は、次のようなことでした。発達心理学者の多くは、子どもたちは自分がどう行動すべきかを、親と同性の親を観察し、模倣しながら習得すると考えました。この仮説はフロイトから受け継いだものです。フロイトはエディプス・コンプレックスもしくはエレクトラ・コンプレックスが解消されると、同性の親との同一視という形をとり、最終的に超自我が形成されると考えたのです。エディプス期の疾風怒濤を乗り越える以前の幼い子どもたちは、超自我が形成されていないためきちんと振る舞うことができないのです。

児童心理学者セルマ・フライバーグは、その著作が1950年代に人気を博しましたが、フロイトの考える社会化過程に賛同しました。何をすべきでないかはわかっていますが、自分の行動を抑えきれない微妙な時期にある子どもの行動を、彼女は次の逸話で表現しているそうです。

「母親は電話中で、台所にいたのは30カ月のジュリア一人だった。テーブルの上には卵の人ったボウルがある。ジュリアは無性にスクランブル・エッグをつくってみたくなった。…ジュリアの母親が台所に戻ったときには、娘は嬉しそうに卵を床にポチャポチャ落としては「ダメ、ダメ、いけまちぇんよ。ダメ、ダメ、いけまちぇんってば」と自分で自分を激しい口調で叱っていた。」

フライバーグはこのジュリアの「粗相」は超自我が形成されていないことの現われだと、おそらく彼女は母親を同一視していないのだろうと考えたのです。しかし母親が戻り、手を卵まみれにしたジュリアを見つけたときの、ジュリアの行動をハリスはじっくり観察してみました。ジュリアはスクランプル・エッグをつくりながら「ダメ、ダメ」と叫んでいたのです。それは、ジュリアは母親のまねをしていたのです。それでも母親は喜んではくれなかったのです。

実際、子どもは自分の親を模倣してもふさわしい行動様式を身につけることなどできません。なぜなら彼らの目に映る親の行動といえば、羽目をはずす、人に命令する、車を連転する、マッチをつける、思うままに行動するなど、それらを禁じられている人から見るとさぞかし楽しげに見える行動で、子どもには禁しられていることばかりだとハリスは言うのです。子どもの立場から見ると、初期の社会化とは、親のように行動してはならないことを学ぶことが中心となると言うのです。

では、あまり複雑化していない社会では同性の親を模倣することも多少有効に作用するのではないかと考えるかもしれませんが、それもそうではないと言います。非工業化社会では、大人として適切な行動と、子どもとして適切な行動はわれわれの社会よりもはるかにかけ離れているというのです。一例を挙げると、ポリネシアの村落社会では子どもは大人に対して控えめで従順であることが求められ、話しかけられた時だけ口を開くことが許されます。大人は自分の子どもに対しても、他の大人に対してもそのようには振る舞いません。ポリネシアの子どもたちは、自分の親を見習って織物の織り方や魚の捕り方を身につけますが、社会行動のルールはそうはいきません。多くの社会では、大人っぽく振る舞う子どもは生意気だと思われてしまうのです。

不思議な体験

子育て神話が信じられている中、ハリスは不思議に思った体験が三つあったそうです。まず一つ目。学生時代、ハリスはマサチューセッツ州ケンブリッジで下宿をしていたそうですが、大家さんはロシア人夫妻で三人の子どもたちとともに一階に住んでいました。夫妻はお互いに対しても、子どもたちに対してもロンア語で話していました。それは、彼らは英語がへたで、ロシア訛りが強かったからでした。ところが五歳から九歳までの彼らの子どもたちはというと、まったく訛りのないきれいな、すなわち近所の子どもたちが話すポストン=ケンプリッジ・アクセントの英語を話していたそうです。外見も近所の子どもたちそっくり。親の方はその洋服のせいなのか、身振り顔つきなのか、どこかに「外人くささ」が漂っています。しかし子どもたちはまったく外国人には見えない、ごく普通のアメリカの子どもだったのです。

この親子を見て、ハリスは不思議に思います。もちろん赤ちゃんは独自に言語を覚えるわけではありません。話す言葉はもちろん親から習います。しかしこの子どもたちの話す言語は親から習ったものではありません。五歳の子どもでさえ親よりも流暢な英語を話していたからです。

二つ目はイギリスで育てられる子どもについてです。ハリスは、イギリスのミステリー小説に目がないそうですので、そのおかげであることに気がつきます。イギリスの上流階級の男性は代々、子育て神話では説明のできない育てられ方をしているのです。イギリスの裕福な家庭に生まれた男子は、はじめの八年間の大半を乳母や住みこみの家庭教師、それに兄弟の一人や二人とともに過ごします。母親と過ごす時間は短く、父親と過ごす時間はさらに短いのです。親は子どもに口出しはしません。姿すら見せるべきではない、と考えているくらいです。八歳になると男子は全寮制の学校へと送り出され、その後10年間を学校で過ごすことになり、帰省するのは「長期休暇」のときだけです。それでもイートン校やハロー校から巣立つときにはイギリス紳士の一人として十分認められるだけの行動様式を身につけているのです。その話し方や身のこなし方は乳母でも住み込みの家庭教師のものでもなく、イートンやハローの先生のものでもありません。上流階級のアクセントや立ち振る舞いは父親そのものです。しかし、その父親はその息子に成長にちっとも関わってはいないのです。

ここに挙げたハリスの体験は、だれでも少なからず見聞きしたものです。私もよく話をするのですが、私の子どものころは、家では商売をしていましたから、両親とも昼間は働いていました。赤ちゃんの頃は住み込みのお子守さんが私をおんぶして一日過ごし、食事はやはり住み込みのお手伝いさんが作り、幼稚園にはやはり住み込みの番頭さんが送り迎えをしました。遊ぶときには、きょうだいで遊ぶか、友達と遊びます。風呂も銭湯に行きます。そして、夕食を食べた後は、住み込みの人たちはみんな自分の部屋に入ってしまいますので、やっと一家団欒で過ごします。そんな時に、食事におけるおふくろの味とはだれの作ったものなのか?愛着とは?それらは、決して親とだけの関係ではなく、地域の中で、複数の人たちの中で育てられてきた気がします。そんな時に、だれの影響を一番受けてきたのでしょうか?

社会化の研究

かつて親は、子育てをするうえで、理屈で育児をしていたわけでもありませんし、何かの狙いを持って子どもの相手をしていたことはありませんでした。だからといって、子どもが変に育つことはめったにありませんでした。その一つの理由には、親の態度が子どもにどの湯女影響を与えるかという研究がされてこなかったことと、親はそれほど子どもだけを相手に生活しているわけではなく、子どもたちは、地域の中で、きょうだいの中で育っていたからです。しかし、1950年代になって、親の養育態度が子どもの育ちに影響があるのではないかと言われ始めました

そして、親の育児方法のいくつかの側面が子どものいくつかの特徴に作用していることを示すために、数千にも及ぶ調査が実施され、有意な結果が明らかになりました。それらの結果は、「チャイルド・ディヴェロップメント」や「ディヴェロップメンタル・サイコロジー」といった学術誌に掲載され、子育て神話を裏づける証拠の一角をなすようになっていったのです。それ以外の、有意な結果を出すことのなかった調査については知る由もないとハリスは言います。それは、そのほとんどが葬られてしまったからです。有意な結果が得られなかった初回の調査において、親の育児習慣と子どもの性格との間には「わずかな関係」しかなかったことを知ることができたのは、その調査をしたマコビー博士が35年という年月を経て活字でそれを認めたからだったのです。

これまで説明してきたような研究を専門とするのは、発達研究の中でも社会化研究と呼ばれている分野だそうです。社会化とは、野性的な赤ちゃんが、望ましい行動を身につけた生命体へと変貌を遂げ、自分が育ってきた社会の一員として認められるようになるまでの過程をいいます。社会化を果たした個人は同じ社会の各人が話す言語を話し、ふさわしく行動し、必要な技能を身に着け、広く普及している信条を取り入れる。社会化研究者たちは親がどのように社会化を施すか、それがどれだけ効果的に行なわれているかを子どもたちがどれだけ立派に成長したかで判断し、研究するのです。随分と古典的な考え方ですね。いまは、そう思えますが、当時は画期的な研究だったのでしょう。

社会化研究者たちは子育て神話を信じています。ハリスもそれを信じていた一人であったことを告白しています。ハリスは、子育て神話を信じ、児童の発達に関する教科書を3冊共同執筆したのです。そして、彼女は共著でない新たな発達論に関する教科書を執筆しようとしました。しかし、それにとりかかったところで、その作業を放棄せざるをえない事態が発生したというのです。何年もの間、彼女は社会化研究のデータの信憑性にもやもやとしたわだかまりを感していたそうです。その間、彼女の出版元が読者に読んでもらいたいと期待している内容にそぐわない体験については、深く考えないようにしていたそうです。そしてある日、子育て神話をもはや信じていない自分に気づいたと言います。

それは、彼女が実際に見聞きした体験によるもので、刷り込みを持たないで目の前のことを冷静に考えてみたのです。すると、不思議に思ったものが三つあったそうです。

初期の研究成果

今日の発達心理学が登場したのは1950年代になってからだそうです。研究者たちは4歳児同士がどのような点で似ているのかから、それそれがどのように違っているかへと着眼点を変えたのです。こうした着眼点の変化により、当時としては斬新な見解が生まれました。それは子ども間の相違点は親の育て方の違いに起囚するというものだったのです。この種の研究の先陣を切った調査の背景にはフロイト心理学と行動主義の両方の影響がはっきりとうかがえるそうです。この調査は離乳や訓練方法を含む親の施す賞罰が子どもの性格にどう影響するかを調べるためのものだったそうです。特に研究者たちが注目したのは、超自我の形成といったフロイト的概念にかかわる子どもの性格の側面です。そうした研究者の一人が今や越した長い研究生活に終止符をうち、スタンフォード大学を退任したエレノア・マコビーだそうです。30年以上前のことですが、記事の中で、マコビーはこの初期の研究成果について次のように語っているそうです。

「この一連の作業による結果は多くの意味で残念なものであった。400近い家族を対象としたが、親の育児習慣(親との詳細にわたる面接によって測定)と、それとは独立した方法で測定した子どもの性格特性との間にはわずかな関係しか見いだすことができなかった。それがあまりにもわずかだったため、この二つのデータについて公表されたものはほとんどない。

この調査の一番の功績といえば、母親の立場から見た育児習慣に関する本が出版されたことだ。この本は説明文が中心で、この調査にいたった仮説を検証したテスト結果はわずかしか掲載されなかった。」

ハリスは、この内容について、「こうした不運なスタートではあったが、これにより同じ路線の追究心が損なわれることはなかった。むしろその逆で、その後も今日にいたるまでおびただしい数の研究が行なわれた。」と述べています。

もっともフロイト学説と行動主義との関連性の追究はまもなく姿を消したそうですが、両者の考え方はともに健在です。すなわち親が子どもの成長に影響を及ぼすという行動主義者の考え方、そして親は自分の子どもをひどくダメにしてしまうことがあり、実際そうなる場合も多いと言うフロイト派の考え方がいまだに根強く残っているというのです。

親が子どもの成長に影響を及ぼすことはもはや当然のこととなりました。その後の研究者たちの目標は、親が子どもの成長に影響を及ぼしているか否かではなく、どのように影響しているかを解明することにあったのです。その過程は今や標準化しています。親の子どもの育て方を観察し、その子どもがどう成長するかを観察する。これを相当数の親子に対して行ない、すべてのデークを収集し、全体の傾向を探ることによって、親の育児方法のいくつかの側面が子どものいくつかの特徴に作用していることを示すというのです。親の行動と子どもの特徴の間に「統計的に有意である」、専門的な表現を避けるならば「公表に値する」関連性が現われることを期待するのです。

エレノア・マコビーの調査では、統計的に有意な結果を得ることはできなかったそうですが、その後実施された数千にも及ぶ調査の多くはそれぞれが同じ方法を用いながらも成果を上げたのです。そこで有意な結果が明らかになったのです。

発達心理学

私が最近考えていることの一つに、ヒトにおける育児とはどのような行為なのかということです。ヒトは、他の生き物同様、地球に誕生してから長い間遺伝子をつないできました。そのために育児という行為は必要でした。そして、赤ちゃんは育児をされながら成長していきました。それは、次に育児する側になるための成長ともいえます。ということは、育児の意図ははっきりしています。それは、学問で学んだわけでもありませんし、言い伝えられてきたことでもありません。しかし、それは容易なことではなかったでしょう。それは、その行為を妨げたであろう様々なことが襲ってきたでしょう。様々な災害、病気、戦い、飢え。生存を脅かすようなことが襲ってきます。それらを克服しながら、また、そのリスクを抱えながらも今日まで遺伝子をつないできました。

最近、それらの脅威を人間の知恵で乗り越えることができるようになりました。しかし、その代わりに遺伝子をつないでいくための障害が新たに表れ始めてきました。それは、精神的な問題です。精神的に育児が困難になり始めてきたのです。鬱などの精神的な病気だけでなく、育児に対する喜び、多くの子どもを育児するための環境、様々な楽しさの出現などから、育児の優先順位が下がってきた気がします。

未熟な人間がどのように成熟した大人へと成長するかが専門的に研究されるようになったのは比較的最近、1890年頃のことだそうです。しかも、初期の発達心理学者は子どもには関心をおいても、その親にはさほど注目しませんでした。フロイトの学説や行動主義が浸透する以前の発達心理学の本には、子どもの性格形成における親の影響の記載は無に等しいそうです。1934年に初版が出版されたフローレンス・グッドイナフによる有名な教科書『発達心理学』には親子関係をとり上げた章はなかったそうです。研究は子どもそのものに向かい、少年非行の要因を論ずるときでも、その本の中でグッドイナフは「環境の悪さ」が及ぼす作用について言及しているそうですが、それは都市部の中でも住居が「崩れかかり、荒廃している」場所、もしくは「酒場や賭博場が多い」場所を指しているだけだったそうです。親や地域の人という環境についてはどう思っていたのでしょうか?

ちょうど同時期にウィンスロップとルエラのケロッグ夫妻が、以前ブログでも紹介した霊長類を育てる実験を行ない、その結果を報告しています。その実験とは、グアと名づけたチンパンジーを自分たちの息子ドナルドと一緒に自宅で育て、可能なかぎり両者を同等に扱いました。ケロッグの著書には「環境」という単語が何度も登場しますが、その単語はグアが本来なら育つであろうジャングルや動物園と「文明的な環境」もしくは「人間環境」とを区別するために使用されているものでした。ある家庭と別の家庭とを明確に区別する意味で「環境」が使われることはありませんでした。

おそらく初期の発達心理学者の中でも最も影響力があったのはアーノルド・ゲゼルだろうとハリスは言います。ゲゼルもグッドイナフも、親は子どもをとり巻く環境の中では評価の対象でもなく、際立った特徴もない、画一的な存在としてとらえていました。ある一定の年齢までの子どもたちも同様に画一的だと考えていたようです。ゲゼルは「あなたの四歳児」や「あなたの七歳児」の扱い方をまるで「あなたのフォード車」や「あなたのスチュードベーカー車」の取り扱い方法のように説明しました。家庭とは子どもたちが夜になると帰宅するガレージのようなもので、そこはさしたる特徴もない付き添い人がいて子どもたちをきれいに洗浄し、ワックスをかけ、タンクをいっぱいにすると捉えていたそうです。