2010年09月02日 講演先にて

龍馬と小楠

 坂本龍馬が、勝海舟とともに長崎へ行く途中、熊本で「横井小楠」と会うのですが、龍馬はこのときに初めて会っているのではありません。実は4回目です。初めて会ったのは、文久2年(1862)8月に松平春獄の紹介で江戸でした。1858年4月には松平春嶽が当時31歳であったころ、横井のいた肥後藩に交渉して、50歳の横井を政治顧問に 迎えていたのです。彼を福井に招聘するように進言したのは、福井藩医の子として、当代一と言われた蘭学塾である緒方洪庵が作った「適塾」に学んだ橋本左内でした。彼は、開国交易に注目し、藩政改革の目玉として横井小楠を招聘することを進言し、がちがちの攘夷派だった藩主「松平春嶽」を開明的な君主に変貌させたのです。そして、横井小楠と組み、藩主松平春嶽を徳川幕藩政治の中枢に押し出したのです。そのために、横井小楠を家老の上である藩主のすぐ下に置き、藩全体の政治顧問として扱い、藩政改革を推進していきます。そのために、福井藩は、わずかな年数で、貧乏藩から一躍雄藩に変貌します。そんな福井藩に、神戸海軍操練所をつくる時、幕府からは自前で金を集めるよういわれ、出してもらえなかったとき、海舟の使いとして龍馬が福井藩へ出向き、春嶽に交渉して資金を借りた話が、「龍馬伝」で放映されました。
その横井は、安政2年(1855)から明治元年(1868)に維新政府に招かれて上京するまで、福井藩にいた間を除く前後8年を、熊本市の東はずれ、秋津町沼山津に居宅を構えます。そこを、四季の眺めを楽しめるというところから「四時軒」と名づけ、自らも沼山と号しました。そして、そこで学問と思想を若い藩士に教えていました。
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今は、横井小楠記念館として業績の紹介と遺品などを展示しています。ここに、龍馬は3度やって来ています、ここに初めて来たのは、龍馬が横井と会うのは4度目でしたが、勝海舟のお供として訪れた時です。私も先週末、ここに初めて訪れたのです。その建物から眺める外の景色は、遠くに山並みが見え、まだまだ暑い夏の景色でしたが、さぞかし、その名の通り四季の風景が美しいことでしょう。また、龍馬と横井が対談した11畳の客間が、昔のままの姿で残っています。横井は、その時に龍馬の話を聞き、「海軍問答集」を執筆することになるのです。
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また、このときに横井と会った勝海舟は、後に「氷川清話」のなかで、「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ」と述べています。しかし、坂本龍馬が、6回目に会った慶応元年(1865)5月、二人は意見の対立をみて、けんか別れをしてしまいます。龍馬は、元治元年8月、西郷と意気投合、長州藩の薩摩不信を除去するよう仲立ちしていました。坂本は、この「薩長同盟」の推進に、横井にも力を貸してほしいと思います。しかし、当時の小楠は、沼山津蟄居中で、その構想が理解できず、幕府の第2次長州征伐への熊本藩の対応をめぐり二人が激論になります。二人の論争は一昼夜におよび、しまいに龍馬が先生の説は凡人以下になってしまったとして、「先生といえども、こんな僻地にいると天下の事情に通じておられない。今、天下に勤王をもって称せられるものは、薩摩と長州をおいてどこがありましょうか。この二藩にかけるべきでしょう」と悪態をついてしまいます。そこで横井は怒って「坂本君、もう二度と来るな、帰れ!」と怒鳴りました。「帰りますとも。わしは西郷や大久保と大芝居をやりますきに、先生は二階にすわって酌でもさしながら見物していてつかされ」と言って喧嘩別れしたエピソードも残っています。横井は、禁門の変など長州の暴発は「私」であるとして、日本の「公」のため叩き潰すべきである、と思ったのです。しかし、のちに横井は長州への誤解を解いて、龍馬の考えを追認することになり、また龍馬は、生涯、小楠を尊敬し、明治維新政府の参議に推薦しています。
坂本龍馬は、日本せましと動き回りますが、それは、地理的だけでなく、人的にもいいと思った人にはすぐに接触した積極性があったようです。熊本城の近くに横井小楠をめぐる群像が置かれてありました。(前に横井小楠、後ろに左から坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久)
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投稿者 fujimori : 22:52 | コメント (0)

2010年09月01日 講演先にて

熊本から長崎

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」を見て感心するのは、当時活躍している人の行動範囲の広いことです。テレビでは簡単に江戸から京都、そして長崎と画面が変わりますが、その移動には飛行機ならわかるのですが、新幹線を使ってもかなり時間がかかります。それを、当時おもに歩いての移動ですから、大変だったと同時に時間がかかったでしょう。坂本龍馬に限らず、いろいろと活躍した人の足跡を見ると、その移動距離はすごいものがあります。ただ、テレビで見るほど、何回も行ったり来たりはしていないかもしれませんが。
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最近の龍馬伝の舞台は京都です。先日も今日の薩摩屋敷が放映されていました。薩摩屋敷は、現在の同志社大学の構内の中にありました。敷地は、5800坪(19000㎡)9棟の建物もあるほどの広さだったようです。一方、長州屋敷は、木屋町通、御池通の北に京都藩邸がありました。現在は京都ホテルオークラが建ち、桂小五郎像と長州屋敷跡の碑が建っています。もう一つの舞台は、寺田屋がある伏見です。ここを行ったり来たりしています。
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 また、少し前までの主な舞台は長崎でした。坂本龍馬が亀山社中を立ち上げた長崎です。その前は、江戸でした。そして、江戸から神戸へと移ります。勝海舟の海軍塾の塾頭だった坂本龍馬は、英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するために、海舟とともに外国勢との調停役としての幕命を帯びて、当時海軍塾のあった神戸から長崎へと旅立ちます。その時の道中のことが、勝海舟 による「海舟日記」に書かれています。
往路では、10日間かかり、復路は9日間かかっての旅のようです。まず、往路についてこう書かれてあります。
「元冶元年 (1864年)2月14日神戸を出港」とあります。まず、瀬戸内海の海路を進みます。当時の乗り物の第1は、船利用です。日本は、海で囲まれ、国土の中を川が走っています。水路利用は、さまざまな商品を運ぶ上でも重要であり、その為に、栄えた町は港とか、川に沿ってありました。その船は、「15日佐賀関に入港。徳応寺に止宿」とあるように、大分県に着きます。現在でも、国道九四フェリーが九州大分県佐賀関と四国愛媛県三崎(佐田岬半島の先端)を最短航路(31km)をわずか70分で結んでいます。また、この間の豊予海峡で捕れる関アジや関サバは有名です。徳応寺 にある第10世住職によって書かれた「日本人物誌」には、勝海舟 が 佐賀関 に上陸したことを絵入りで紹介し、宿泊 したことが記載されているようです。
その後は、九州横断の陸路を取ります。「16日豊後鶴崎の本陣に宿泊。17日野津原に宿泊。18日久住に宿泊。19日内の牧に宿泊。20日大津宿を経て熊本城下新町の本陣に宿泊」とあるように、肥後街道を歩いていったようです。龍馬は、各宿泊地では偽名で泊まったようです。熊本に着いた龍馬は、海舟の使いで横井小楠を訪ねています。その後何度かここを訪ねるのですが、先週末、講演の合間に横井小楠記念館に連れて行ってもらいました。彼については、明日書いてみようと思います。
そして、「21日夜大津宿より乗船。島原へ渡る。21日払暁、島原へ着船。城下本陣へ休息。直ちに出立。」とあります。先週末、私も龍馬同様、熊本から船で島原に上陸しました。私が上陸した港の近くに、坂本龍馬が上陸した碑が建っていました。その前の日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では、「薩長同盟」を結んだ日のことをやっていましたので、感慨深いものがありました。
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「此地より長崎迄は、土地磽かく、田畑の間大石雑わり、小石、道路満ちて甚だ悪し、雲仙の嶽噴火せしによるか、西洋に云うラアの之年を経しものあらむ。22日会津(愛津)に宿す。23日長崎着、日見峠甚だ難所、直ちに奉行之御役宅へ行き面会、洋船未着之由を聞く、福済寺旅宿となる。」こうして、長崎に着いたのです。私も今日まで長崎で研修です。

投稿者 fujimori : 23:07 | コメント (3)

2010年08月31日 保幼小

集中

 以前、文科省に聞いたのですが、今ある小学校で、1時間の授業時間を短縮する試みが行われているそうです。その内容が、昨日の朝日新聞に取り上げられていました。「授業時間 割ったり足したり」という記事です。現在、授業一コマは小学校45分、中学・高校は50分がスタンダードです。私の高校は、都立高校という公立校でしたが、1コマ100分で、1日3コマでした。ですから、時間割は2週間で1サイクル、最後の土曜日は休みでした。それが、近年、教える内容に応じて短く「小分け」にする試みが続いているようです。それは、どうも「子どもの集中力が落ちている」ことが原因のようです。
 最近行われている試みとして鹿児島県のある中学校では「放課後モジュールタイム」ということで、25分間の授業を1日の終わりに設けているそうです。現在の学習指導要領が施行されてから、1コマの授業時間を必ずしも50分としないで弾力的に運用することが可能になっているからです。この中学校での生徒の感想は、「集中して勉強ができた」「苦手なところがわかった」というようなもののようです。
 「集中力」という著書がある立正大学名誉教授である山下登美代教授は、朝日新聞の記事の中で子どもの勉強に集中できる時間の限界は、「一般的には小学生は『学年×10分』と言われています。」と話しています。低学年の頃は、周りの音などに反応し、すぐに注意がそれがちですので、教員は逆に音を出したり絵を使ったりして子どもの目をうまく導かなければなりません。しかし、それが高学年になるにつれて、やる気や好奇心が育って集中力がついてくるものですが、近年は全般的に子どもの集中力が落ちたと言われています。それに対して山下教授は、「小学校高学年でも、音や視覚効果で子どもたちの関心を引く必要が出てきている。背景には社会環境の変化がある」と言っています。今のテレビやゲームは、限られた画面の中にたくさんの情報が流れています。「目や耳からたくさんの刺激が入ると、注意が分散している状態になる。それが子どもにとって当たり前の生活になると、例えば先生一人の声を耳で聞いているだけの授業はひどく耐えがたいものになってしまう」というのです。
 このような背景を踏まえ、授業時間を短くする試みは、なんと大学でも始まっているそうです。メールやツイッターをやっていると、「読む」「聞く」「書く」はすべて短いし、テレビのインターネットは興味があるところだけ見る。おもしろくなければすぐ他のページに行く。最近の若い世代の特徴をこうあげます。そして、この記事の中で、今の学生たちは、IT機器を短い時間で同時並行的に使いこなすというように、今の社会ならではの知識を得る方法にたけている面もある。集中力は当然身につけさせたいが、昔からの授業スタイルを押しつけて才能を消してもいけない。悩ましい問題ですと結んでいます。
 最近、世界では「乳幼児期における権利」を検討していますが、この「乳幼児期」とはいつのことを言うかというと、出生、乳児期、就学前期間、および、学校への移行期にあるすべての子どものことを指すようになっているようです。それは、出生から8歳までの期間を乳幼児期に関する適当な作業的定義として提案しているのです。小学校入学する時期を境に昔からの学校教育方法に切り替えるのは、どうも無理があるようです。

投稿者 fujimori : 22:18 | コメント (5)

2010年08月30日 近頃思うこと

共生の中での共食

昨日のドイツの写真を見ていくつか気がつくことがあります。保育者が乳児に離乳食を食べさせる場面を周りで取り囲んでみている子どもたちは、さまざまな年齢の子たちがいることです。発達過程の異なる子どもたちが複数で取り囲んでいるということです。このような風景を見ると、日本では、それでは乳児は周りが気になり、気が散って落ち着いて食べることはできないのではないかということを危惧するでしょう。乳児にとっては、食べさせてくれる大人一人だけを見ることによって、誰が食べさせてくれているのか、また、きちんとここの発達を理解した人がいることが子どもに安心感を与えると思われています。また、家庭ではお母さんは一人であり、いろいろな人に見てもらうわけではないということも言われます。しかし、人はいろいろな環境で育ち、その環境から保育のモデルを求めることがありますが、私は下町で育ちましたが、お母さん一人が必ずしもいつも子どもの世話をしていることはありませんでした。家にはお子守さんがいたり、お手伝いさんがいたり、また、近所のおばちゃん、いろいろな人に抱かれて育ちました。また、家族内にも兄弟がたくさんいましたし、祖父母がいた家庭も多くありました。いつも同じ人がおむつを替えたり、食事を食べさせたりしてはいませんでした。ただ、それらの人々は、突然ある日子どもを見ていたわけではなく、普段から、社会みんなで子どもたちを見守っていたのです。子どもたちが安心感を持つのは、お母さん一人が自分を見ていてくれるのだという気持ちよりも、地域の人みんなが見てくれているのだという確信のほうが精神的に安定をもたらしていた気がします。これは、隣の家が遠いところにある過疎地などは違うかもしれませんが、逆に村の人がみんな家族という意識だったような気がします。
川田学準教授は、学術集会の中でこう言っています。「親が子どもと向き合って、じっくり食事をとるということは大切なことかもしれません。しかし、幼い子どもにとって食には遊び的要素だ満載で、思い通りにはなりませんし、1対1で向き合っていると息苦しくなることもあるように思います。」かつて、あるベテラン保育者から言われたことがあります。「食事は遊びではあるまいし、手でぐちゃぐちゃ食べたり、手づかみで食べたりするなんともってのほかです。ですから、私たちは、乳児から子どもの後ろに回って、キチンと手を添えてあげてスプーンの使い方を教えるのですよ!」もちろん、食事は大人のいう「遊び」ではありません。しかし、子どもにとっての学びである「遊び」であることとしての食として見直さなければなりません。しかし、どうしても子どもの行動を母親がネガティブにとらえてしまうのは、現代的な環境にあると川田さんは指摘しています。「乳児と若い親という、発達的に最もかけ離れたペアによる1対1の食事ですと、子どもが他者を観察し、好奇心を働かせる余裕(遊び)が、また美味しそうに食べるのを見て思わず手を出してみたり、食具使用を模倣したくなるというプロセスがなかなか生まれにくいでしょうし、いきおい、“食べなさい”“遊ぶ”“自分でやりたがる”という面が、ネガティブにとらえられ、葛藤だらけの食事になってしまうこともあるでしょう。」
育児の中で、子どもの行動をネガティブとして受け取ることは、何も食事の場面だけではなく、子どもの特徴であるさまざまな行動についても起こりうることのような気がします。それが、最近の子どもへの虐待につながることになっていることもあるような気がします。子どもの遊び、生活の中で子ども集団での行動としての「共生(協力)」も「共食」と同じように人間としての特徴であることをもう一度思い出すべきでしょう。

投稿者 fujimori : 22:26 | コメント (6)

2010年08月29日 近頃思うこと

共視共食

 今日から、このブログも6年目に入りました。
 おんぶには、スキンシップという面だけでなく、こんな役目があることをアーノルドという人が指摘しています。「(おんぶによって)あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買い物、料理、井戸端会議、洗濯など、身の回りで起こるあらゆることに参加する。彼らが4つか5つまで成長するや否や、歓びと混じりあった格別の重々しさと世間知を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ。」このように子どもたちが他の人がするのを見ることは、社会性の発達の中で重要な役割をしていたのではないかということが最近発達心理学の中で重要視されてきているそうです。この行動を「共同注視(ジョイントアテンション)」というそうですが、おんぶにはそのような効果があったのであろうという指摘は、とても面白いと思います。
 同様に、最近、食事をみんなで一緒に食べることによる社会的認知的発達や、自己と他者理解に効果があるのではないかということを、香川大学の川田学準教授「食の中の模倣過程と自他関係の形成」ということで発表しています。これは、おんぶ同様に、みんなで食べる意味を社会性の発達の中で重要であるとするのは、とても面白い観点だと思います。いままで、みんなで一緒に食べることで食欲が増すということは知られています。また、最近、他の人と食べることで味覚が変わることもわかってきています。いわゆる、たくさん食べようとする意欲が生まれたり、好き嫌いがなくなるのは、みんなで食べることによるということが分かってきているのです。
最近、どこでも「食育」ということが言われていており、新しい学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針にも食育が取り上げられ、食の営みとして見直されてきています。一方、一時期、家族の生活リズムの違いから子どもたちが一人で食事をするという個食や孤食が問題になり始めました。また、孤食をさびしいと感じずに、好むようになってきた子どもたちも問題になってきています。また、一緒に食卓で並んで食べていてもそれぞれのメニューが違う個食ということも問題になっています。また、乳幼児では基本的にはだれかに食べさせてもらわなければなりませんので、孤食はないのですが、母親と乳幼児2人きりで食事をするというケースが多いようです。
人類学的視点から見たヒトの食は、「人間は料理をする動物である」および「人間は共食する動物である」といいます。複数の個人が集って食事をするという共食が、ヒトの食を特徴づけ、また、人類における家族の起源と共食は深い関係にあり、子どもは家族を中心とした共食環境の中で、食行動や食文化はもちろん、他者理解や社会的ルールを学ぶ機会を得てきたのです。特に、食の基本が形成される乳児期では、多くの発達過程が見える中での食事は、食の自立、食具使用の発達、社会認知的発達においてとても重要であったようです。
最近取り上げられる「食育」は、栄養指導、料理活動、栽培活動での事例が多く、どれも「食材」に焦点が当たっていますが、誰と食べるかも重要です。そういう意味では、少子社会において、幼稚園や保育所で、子ども集団による食事はとても意味があります。特に、乳児からの食事も大人との二人きりで食べることは見直さなければならないようです。今年ドイツに行ったときに、園で保育者が乳児に食事を与えている姿を、幼児にも見せていました。
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投稿者 fujimori : 21:56 | コメント (7)