自己発展力

倉橋惣三が再評価されている中で、どうも誘導の中の「教育的意図」が一人歩きをしてしまい、誤解を受ける気がしています。それは、特に幼保一体化のなかで「学校教育」の内容が問われているからです。

1歳児でこんな場面を見ました。食事の時間になると、保育士は机の上にエプロンや手拭タオルを広げておきます。そこへ、ヨチヨチ歩きの子等がそのエプロンや手拭タオルの中から自分のものを見つけて、その席に座ります。それは、エプロンや手拭タオルの色や形の違いから自分のものを見つけているのです。しかし、あるとき、ある子のエプロンがないことに保育士は気がつきました。そこで、その子の補充用が入っている引き出しを開けて取り出そうとしました。その引き出しを覗いてみると、数枚のエプロンが用意されているのですが、それらはみな色や形が違うもので、その子のエプロンだという特徴はありませんでした。私は、それなのに、どうして1歳児は自分のエプロンを探し出せるのだろうかと不思議に思ってみていました。すると、保育士さんはこう言ったのです。「何々ちゃん、こっちへ来て、自分の好きなエプロンを出してください!」と子どもを呼んで、自分で選らばせて、自分で出して、自分で席に持って行かせたのです。ですから、以後自分のエプロンを探すことができるのです。

モンテッソーリが、実感したように子ども自ら使いたい教具を取り出すことにより、以前より真剣に遊びに取り組むようになったことから、「活動を自由選択から始める」重要性に気づきます。そして、その活動も、その活動の周期を尊重しつつ、片付けの時間がくると、先生が鈴で静かに合図するだけで、決して無理やりにやめさせることはしません。それは、やがて、子ども自ら一人ひとりが判断して、自分の活動の終わりを決めるようになると思っているからです。そうすることで、「終わるまでやろう」という気持ちを持たせ、「達成感が子どもを育てる!」という信念を持つことになるのです。
また、自分から教具を選択して活動することで、集中して行うようになるということに気づきます。子どもは魅力的な対象があれば、集中して関わるからであり、子どもにとって魅力的な対象とは、自ら選んでいるということが必要なのです。そして、この集中力こそ、知性や情緒の安定など、教育の課題を解決する鍵だと思い、集中力を促す教具、環境の研究を始めます。

倉橋は、「就学前教育に対する周到の用意は、学齢後の教育に正しき基本を与えて、真実にして効果的なる出発を得せしめるものである。」として、就学前教育の主目的を単に「小学校教育に対する、目前的準備効果」におくのではなく、むしろ、「人生の長き教育過程に対して、その基本的任務を担任せんとする」もので「人間の基本教育」であると捉えているという点では、今も肝に銘じておく必要があります。そして、「基本教育」の中味を、「人生教育の全過程に対する基本として、重要なるものは、知能の早き獲得にあらずして、生命の発展勢力の増進と統制とにある。」としています。この「生命の発展勢力の増進と統制」という言い方は面白いですね。自己統制は、知能の成果ではなくして、生活活力そのものであるということは非常に重要なことで、つい、しつけだと思って教え込もうとしがちですが、実は、生活活力であり、それは根の力であり、就学前教育は根の教育であるとしています。この根の力とは、自己発展力であり、それを教育することこそ就学前教育であるとしています。

この自己発展力は「生きる力」であり、その力をつけることは、幼児の活力の十分な解放と十分な機会を与えることが重要であるとしています。ただ、それが、どうして誘導保育になるのかはよくわかりませんが。

能動と誘導

人は、赤ちゃんのころからすでに非常に能動的であるということを今では誰でも知っていることです。赤ちゃんは、何もできず、大人がいろいろとやってあげなければならないと思っていたことは間違いであり、世話を大人がするように赤ちゃんから働きかけてさえいるということもわかってきています。ですから、子どもが自ら働きかけるように意図するというよりも、子どもが興味・関心を持つような環境を用意するだけでいいのです。かつて、子どもはある意味では無力であり、大人の庇護が必要で、大人が誘導しなければいろいろなことを学んでいかないと思われていました。子どもを主体的に考えていた倉橋でさえ、子どもの遊びを誘導するために、計画します。それは、「系統的保育案」といわれるもので、子どもの遊びの中にある主題を保育者が誘導し実現していく 誘導保育案 と、唱歌・遊戯・談話・観察・手技の保育五項目を意識的・計画的に配置した 課程保育案 を総合した保育カリキュラムとして位置づけています。

倉橋は、このように保育の計画性の必要を提案しているにもかかわらず、子どもの能動性についてもよく理解しているようです。「興味のある主題はその誘導保育の主題から誘導されたものでも、自由感で遊んでいるのであれば、それは当然自由遊びだといっていいのであります。すなわち、ここでいう自由遊びということは、誘導保育案に誘い出されている保育と、必ずしも別なものと決まっているわけではありません。」と述べています。ということは、保育の計画において、主題を中心とした「誘導保育案」だけが必要であるのではなく、子どもの活動の中から子どもの興味関心の実情を理解し、子どもに経験して欲しいねらいや内容を探っていくのです。それが、前から私が提案している「DO、SEE、PLAN」の考え方なのです。そういう意味で、自由遊びは、「設定保育」の前に行う、意図のない保育ではなく、自由遊び自体にも学びがあり、その中に意図する課題を見つけ出す保育であると考える必要があるのです。

モンテッソーリは、あるとき教具の棚の鍵をかけるのを忘れたとき、子どもたちが勝手にそれを持ち出している姿を見て、それは、自分で教具を選べることを表しているのだということに気づき、棚の鍵をやめ、子どもの取り出しやすい配置にして自由に選ばせたところ、以前より真剣に取り組むようになったことから、「活動を自由選択から始める」重要性に気づきます。子どもの自由選択は、子どもが自分の育ちに必要な要素を選んでいる行為なのです。

] 倉橋が提案する誘導保育に、私は、保育者の「教育的意図」を感じてしまうのでどうしてもそのまま受け入れることには抵抗があるのですが、それは、当時の子どもの生活環境や保育、教育の現状がそう提案させた背景にあるようです。当時、子どもは地域の中で、また家庭の中でそれほど大切にされていたわけでもありませんでしたし、物も豊富にあったわけでもありませんでした。そのときに、いろいろなものが置かれている保育室の中で子どもを自由に思いのままに行動させてしまったら、子どもたちは勝手に振舞い、収拾がつかないほど放任されてしまったでしょう。また、保育、教育現場では、大人が主導し、一斉に指示し、知識をただ頭から叩き込もうという教育が行われた中で、子ども主体である保育を実践しようとしたときに、誘導保育は、限りなく子ども主体にするために譲歩した方法ではなかったかと思います。

 もし、今でも子ども主体の保育に変えよう、子どもが興味関心を持ち、自ら選択し、自ら取り組む保育をしようとしたときに、それまでの保育が一斉に、保育者主導が強かった場合は、子どもがかなり荒れてしまったり、めちゃくちゃになってしまうことが見られます。それは、子ども主体がいけないのではなく、子どもが育っていないためであり、そのときには、きちんと、丁寧に育てていかなければならないのです。この段階では、もしかしたら、保育者の意図性は強くなるかもしれません。

プロジェクト

 イタリアのレッジオ市における取り組みに「プロジェクト学習」という学習スタイルがあります。この学習は、子供2人から5人くらいまでのグループを形成し、日常の出来事、子ども自身の着想、保育者の体験などをもとにして学習を進めていきます。この場合、何をテーマとするかは、子どもたちの活動をよく観察して見つけ出します。ですから、このプロジェクトに取り組む機関は、保育者が決めることはなく、子どもたちの興味・関心が続く範囲で決められます。それは、数日から、長い場合は数ヵ月にわたって行われることもあります。この中で、子どもたちは同じテーマについて繰り返し学習していきます。プロジェクトは、子どもたちの中から発生的ですが、個人、または保育者との二者の中から生まれてくるのではなく、グループの中で生じる概念であり、アイディア、興味についての深い学習です。このプロジェクトを通して、保育者は、子どもが学習の方向性を決定すること、グループがトピックを調査する方法、トピックを示す代表的な手段、活動を表現する材料の選択を手伝います。保育者の「意図」は、あくまでも子どもに寄り添う形で行われます。

また、オランダのピラミッドメソッドという保育カリキュラムにも「継続性のあるプロジェクト保育という学びのプログラム」があります。このプロジェクト保育における課題は、子どもから発生的に生じるのではなく、保育者が、言語能力やソーシャルスキルを高めるために年間12のプロジェクトを取り入れ、特定のテーマに沿った活動が創作されていきます。ですから、現代の子どもの生活実態に即し、保育者の意図がかなり反映されます。

それに対して、倉橋は、子どもの生活における子どもの興味・関心に即して、そこに方向性や系統性を持たせることにより、その生活が発展していき、その生活興味への質的な深まりが生まれてくるという方法論を取ります。「子どもが興味を持つ」という対象は、どんなものなのでしょうか。ひとつは、「その年齢の子どもが持っている興味の一般心理」というものです。保育所保育指針の中に書かれている養護の「情緒の安定」に「子どもの適切な一人一人の子どもの置かれている状態や発達過程などを的確に把握し、子どもの欲求を適切に満たしながら、応答的な触れ合いや言葉がけを行う。」とありますが、これは、子どもの欲求は、その子の発達過程における発達に必要なことが中心であるということに立っています。ですから、そこに子どもは興味を持つということです。

 次に、「子どもの環境が、その子どもに促してくる興味」「季節とか、年中行事の具体的条件であったり、さらにその時々の偶発的事件」などの「興味の社会条件」が挙げられています。これらの興味に沿って、ある方向性、それは、発達の方向性であるのですが、その方向は必ずしも意図する方向ではなく、人類が、自ら持っている遺伝子として組み込まれた成長、発達を保障するという考え方が必要だと思います。また、子どもに環境が影響しての興味は、意図して起こすというより、環境の変化や状況に子どもの興味関心を持たせ、そこに子ども自ら働きかけようとする意欲を持たせるような意図は必要な気がします。しかし、倉橋は、「自由遊びをしている子どものさながらの生活から、年齢や季節などその時期の子どもの興味にあった主題を与えることで、子どもの生活をそちらに誘導していく」という考えを持ちます。ここでの意図は、「主題を与える」ことになり、その主題は年齢などで決めていくようなイメージを持ってしまうと、子ども主体であるということから少しずれていってしまうような気がするのです。主題は、子どもが興味を持ったものから見つけていくべきで、また、主題は与えるのではなく、保育者は、主題を子どもが見つけていく手伝いをすることだと思います。

 このように考えると、私は、イタリアのレッジオ市におけるプロジェクトのほうがいいと思っています。

ブラヘイジ4

旧安田庭園は、その名に残っているように「安田財閥」に関係があります。もともとは、徳川綱吉の母親である桂昌院の異父弟であった常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資の下屋敷でしたが、旧備前国岡山藩主池田章政邸となりました。彼は、廃藩置県で岡山県になるまで岡山藩知事を務めていました。彼の江戸邸だったのが、明治24(1891)年、安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となりました。

 彼は、もともとは越中国富山の生まれです。彼の実家は、幕末に富山藩の最下級の武士の身分でしたが、実際は、半農半商で生活は貧困していました。そんな生活の中で、善次郎は20歳のとき江戸に出て市内を行商したのち、日本橋小舟町の両替店に手代奉公します。そして、1864年、零細な鰹節小商兼銭両替店の安田屋を日本橋人形町の裏通りに開業して独立します。そして、維新後は安田商店と改称し、新政府が発行した不換紙幣(太政官札)を取り扱い、巨額な利益を手にし、その後も次々に発行された公債を買い、当時屈指の新興の金融業者に成長します。そして、明治9年には、第三国立銀行の設立に参画、次いで13年には安田商店を安田銀行に改組し、15年には新設の日本銀行の理事に就任して、日本銀行を背景に両銀行の経営を発展させていきます。そして、26年に帝国海上保険を設立するとともに日本最初の火災保険会社の東京火災保険の経営を引き受け、これがのちに安田火災保険となります。しかし、大正10(1921)年9月28日、84歳のとき、刺殺されてしまいます。彼の死後、大正11(1922)年、この家屋及び庭園は東京市に寄付されました。そこで、この旧安田邸跡地は寄付者の名を残して「旧安田庭園」と命名しました。同じように、彼の名を残しているものに、生前寄付することを約束した東大安田講堂および東京市政会館、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などがあります。これらは、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていませんでした。

 この日のブラヘイジの最終目的は、大江戸博物館で開催されている特別展「平将門」を見ることです。この特別展は、初めて武士による世の中を作り上げた「時代への挑戦者」平清盛の生涯を描いた50年目の節目を迎えたNHK大河ドラマ「平将門」にちなんだ展覧会です。この展覧会では、世界遺産・厳島神社に伝えられる多数の至宝をはじめ、この時代を生きた人々の肖像画や書跡、主要な源平合戦を描いた絵画のほか、平安末期の文化を象徴する美術・工芸品などが展示され、平清盛が活躍した時代が紹介されています。

 平氏は、海賊退治などで瀬戸内海に進出、清盛が安芸守に任じられると、航海の守り神・厳島神社を一門の氏神のように篤く信仰しました。清盛は後白河法皇をはじめ多くの人々をともなって参詣し、社殿を造営し、社領や宝物を相次いで寄進します。今回の展覧会での目玉は、清盛が長寛 2 年 (1164) に一門の繁栄を願って奉納した、善美を尽した装飾経「平家納経」を4巻です。「平家納経」は、平清盛が一族の繁栄を願い厳島神社に奉納した装飾経で、経文名を記した題箋に鍍金した金銅を、軸には水晶を使い、両端に精緻な細工を施した金銀金銅の透かし彫り金具をつけている非常に美しいもので、国宝に指定されています。料紙には雁皮紙を使用し、表裏に金銀の箔や砂子を撒き、金泥・銀泥、或いは岩絵具や型押しで地紋を浮き出たせ、更にその上に金銀泥、岩絵具で絵や模様を描き、文字は墨・緑青・金泥を使用しています。これらの経巻を清盛、重盛、頼盛、教盛、そして重臣ら32人が一人一巻ずつ書写したと願文に記されています。

 この日のブラヘイジは、両国駅で、体の温まる飲み物をみんなで飲んで、帰路につきました。東京は、あちらこちら行ったようですが、それぞれが近く、総歩数は、約13000歩でした。

ブラヘイジ3

  墨田区の「東京都慰霊堂」の裏には、「安田庭園」があります。この庭園は、案内には、「もと常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688~1703)に築造されたと伝えられる隅田川の水を導いた汐入回遊式庭園で、明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正11年東京市に寄附されました。関東大震災後、太平洋戦争を経て東京都から墨田区に移管され、全面的改修をを行い、復元、開園しています。」とあります。

  この庭園からいろいろなことがつながっていきます。昨年の暮れ、私は妻と京都の嵐山に行き、その散策の途中で「清涼寺」に立ち寄りました。ここは、浄土宗の元祖法然上人が、24歳の時に人々を救う仏教を求めて、同寺の釈尊像の前に7日間こもったと言われている寺院として有名で、入ってすぐのところに法然の青年像が建っています。また、この本堂(釈迦堂)は、たび重なる焼失の後、徳川5代将軍綱吉と、その母桂昌院の発願により、大阪の豪商泉屋吉左衛門らの発起により再建されたとあります。この豪商泉屋は、江戸時代はじめに蘇我理右衛門が若いときから銅吹き(銅の精錬と細工)を身につけて、19歳から京都で店を構え、「南蛮吹き」という銀銅吹き分けの新技術を、一人の西洋人から習得しました。この銅吹き所は、徳川時代を通じて銅精錬業の中心となっていきました。その後、事業を京都から大阪に移し、三代友信が初めて吉左衛門を名乗り、江戸、長崎に出店を設けました。そして、銅の鉱業、精錬と輸出は事業の中心でしたが、ほかに両替業、札差業、砂糖、薬種などの輸入などという多角経営が行われ、これが「住友財閥」になって行きます。

  また、清涼寺の本堂は、桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれたのですが、この桂昌院についてもずいぶんと面白い歴史があります。彼女は、徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となったのですが、実は、京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘から登り詰めた、いわば日本版シンデレラなのです。運命というのは不思議なもので、まさか、八百屋の娘が後に将軍になる綱吉の母親になるとは思ってもいなかったでしょう。それは、京都の公卿の娘が尼になって、江戸城で家光に拝謁したところ、家光が一目惚れして側室にさせたのがお万の方で、彼女に腰元としてついていったのがお玉でした。腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまり、彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になったのです。ここでも運命のいたずらがあります。まず、生まれたのが男の子であったこと、別の側室に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたのですが、四代を継いだ家網は子どもなしで早死に、続いてその弟、網重も亡くなり、綱吉に将軍の座が回ってきたのです。

  この桂昌院は、非常に教育ママだったようで、綱吉にいつも「勉強しなさい!」といっていたようで、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になり、四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは学者並みであったと言われています。また、桂昌院は、とても身内を大事にしていたようで、弟の本庄宗資は、はじめ公家の家臣でしたが、本庄氏は小大名でしたが 桂昌院の庇護の元、将軍家より松平姓を賜り、常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任していきます。この常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領して、元禄4(1701)年、この地に下屋敷として築造したと伝えられているのが、旧安田庭園なのです。

ブラヘイジ2

1950年7月、東京都台東区浅草菊屋橋で(株)萬代屋が設立されました。この会社のスタートは、セルロイド製、金属玩具の販売業でした。その後製品を続々と市場に投入し、70年代には、マジンガーZ、仮面ライダー、80年代にはガンプラ、90年代にはたまごっちといった商品が大ヒットします。1961年には社名を「バンダイ」に変更します。この、バンダイ本社が、駒形にあり、「駒形どぜう」の店舗の道を挟んでの隣にあります。ここが、ブラヘイジで最初に立ち寄ったところです。ビルの脇に並んだキャラクターの前で、思い思いに記念撮影です。

その後、隅田川に架かる駒形橋を渡り、吾妻橋からつながっている浅草通りに沿って歩いていくと、業平橋に差し掛かります。この「業平」とは、もちろん、平安時代に「伊勢物語」を書いた在原業平から採られています。「駒形橋」から上流へ「吾妻橋」「言問橋」と続くのですが、この言問橋の名称にはこんな由来があります。「歌人・在原業平は官位を取り上げられ、無官の時期が10年も続きました。業平はこの時期に諸国を放浪し、東国滞留は数年におよびました。隅田川の渡船で業平が詠んだ歌は、江戸時代になり隅田川に架かる橋を詠唱の「言問わん」から言問橋と名付け、業平が遊歴彷徨した故事を偲び、地名・橋名から名付けられたものと思われます。」と東武鉄道の説明に書かれてあります。この歌とは、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥我がおもふ人はありやなしやと」というもので、この在原業平の「東下り」の故事にちなんで、ここにある「地名や橋名」に「業平」とつけられています。

ただ、東武鉄道では、2012年春に予定されている東京スカイツリーの開業にあわせ、玄関口となる伊勢崎線・業平橋駅の駅名を「とうきょうスカイツリー」に改称すると発表しています。なんとなく残念です。ということで、次の目的は、もうすぐ開業の「東京スカイツリー」の真下に行くことです。東京スカイツリーは、5月22日のグランドオープンに向けて急ピッチで周辺の施設を建設中です。真下からでは、全景を写真に撮ることはできませんし、ましてや人を入れた写真となるとスカイツリーの下の方しか写りません。そこで、地元の人たちでカーブミラーをいろいろなところに用意してあり、そのミラーに映し出された姿をとれば、魚眼レンズのように全景を写すことができます。

そこから、両国に向かいます。まず、立ち寄ったのは、「東京都慰霊堂」です。ここには、私が子どものころにはよく遊びに来ました。そのころは「震災記念堂」と呼んでいましたが、その名のとおり、関東大震災の慰霊堂です。もともと、この場所には陸軍の「本所被服敞」があり、関東大震災が起きた1923年9月1日は公園予定地として更地でした。震災発生後、東京下町の方々から火気が立ち、やがて町中が火の海になってしまったので、ここは格好の避難場所になったのです。しかし、しばらくしてこの地に火災旋風がおきました。多くの家財道具が持ち込まれ、足の踏み場もないほどの状態のなかで火災旋風が起こったわけで、ここで東京全体の犠牲者数の半数以上である3万8000人もの犠牲を出してしまったのです。その後、この跡地に慰霊記念堂が建てられ、震災の犠牲者約6万人の遺骨が納められましたが、その後東京空襲での犠牲者約8万人の遺骨が収められ、名称が東京都慰霊堂になったのです。
もう少し、ブラヘイジは続きます。

どじょう

 私の園の裏の鯉がいる水路には、ドジョウも何匹かいます。このドジョウは、誰かがどこかから捕まえてきて、そこに放したものです。ドジョウは、言うまでもなく日本の代表的な川魚です。私の子どものころは、田んぼや水路だけでなく、側溝にもたくさんのドジョウがいました。ドジョウは、比較的水質の悪化に強いため、田んぼや小川、浅い池沼などの底質が泥や細かい砂の場所に多く生息していました。子どものころは、家からざるを持ち出して、いわゆる「ドジョウすくい」をしたものでした。ドジョウに人気があったのは、ドジョウの特徴である十本の口ひげがなんともかわいいのと、ずっと眺めていると、腸呼吸をするために水面に上がってくる姿が観察できるので、にごっている水でも水面を見ていても飽きなかったからです。

 このドジョウが、また注目を浴びているのは、野田首相が行った「どじょうには、どじょうの持ち味があります。金魚のまねをしてもできません。赤いべべを着た金魚にはなれません。どじょうですが、泥臭く、国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。」という「ドジョウ」演説が有名になり、その後、Tシャツになったり、野田氏自身の著書や、引用した相田みつをさんの作品集も増刷されたようです。もともとの相田みつをさんの作品「どじょう」は、「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」というもので、込められたテーマは「自分を他人と比べない」です。

 こんな、金魚と比べられるドジョウですが、実は、柳川鍋に代表されるように、人間が食べてもおいしく栄養価が高い魚です。一番美味しい食べ方は、ドジョウ鍋です。割いたものを使ったものと、丸がありますが、丸鍋は酒で弱らせたものを湯通し、滑りを取り去り、一度みそ汁で下煮。これを酒、味醂、醤油の地で煮たものです。柳川鍋は割いたドジョウを湯通しして滑りを取り去り、やや甘口の酒、味醂、醤油の地で煮て、卵でとじたものです。東京にはドジョウの専門店が多いのは、江戸という地が、古くは水路が張りめぐらされた水郷地帯であった名残だそうです。

  何回か紹介しましたが、昨日の土曜日、下町をぶらぶら歩く「ブラヘイジ」が開催されました、ぶらぶら歩く楽しみは、下町の味を味わうということがあります。昨日は、歩き始める出発点として、「駒形どぜう」でドジョウ鍋をみんなで囲みました。この店の創業は1801年で、徳川11代将軍、家斉公の時代だそうです。店の上には、創業210年という横断幕がかかっています。この店の歴史には、「初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。」

  また、この店の特徴は、暖簾に「どぜう」と書かれていることですが、もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書いており、それが仮名遣いでは「どじょう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案だそうです。それは、文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったそうです。江戸は、非常に火災が多く、それに対するまじないだったのですね。

  それにしても、寒い日、どじょう鍋の上に山盛りにねぎを載せ、そこにトッピングとして頼んだ裂きごぼうも山盛り乗せて食べたどじょうの味はとても美味しく、体がぽかぽかしてきて、その後の散歩の足取りが軽くなりました。

意図

 最近、保育関係者の中で、日本の子ども・保育研究の先駆者である倉橋惣三氏の保育理論を聞くことが多くあります。彼の幼児教育に対する考え方の再評価を含めて、多くの保育研究者からその名前と、その保育理論を例に出して語られることが多くあります。確かに、彼は、アメリカの幼稚園改造運動の影響を受けながら、保育理論研究を進め、輸入理論にとらわれない日本の保育理論を構築したことでは偉業をなしたといっても過言ではありません。しかも、彼の児童中心の自発的な遊びを尊重するその保育理論は、幼保一体化の中でもう一度抑えなければならない考え方であることも確かです。

 しかし、私は、彼の理論の中で、気になるところがあります。また、なんだか時代性を感じる部分があり、今の時代ではそのまま取り入れるのには危険がある部分も感じます。彼の保育理論のすばらしさは、今にそのまま取り入れることで評価することではなく、そこにあたらな命を吹き込むことで真の幼児教育を構築することになるのだと思っています。

 私は、きちんと倉橋の保育を研究しているわけでもありませんし、十分に彼の著書を読み込んでいるわけではありませんので、もしかしたら、彼と同じことを言っているかもしれませんが、多くの解釈している人の説明に違和感や矛盾を感じることがあるのです。それは、「意図性」ということに含まれる「教育」とか「指導」とか「誘導」という考え方です。

 倉橋は、子どもは自ら育つ力を有した有能な存在であるとしながら、「環境、および保育者のかかわりの中に教育の目的を織り込んでいく」ということを提案しています。私は、ここに、「教育の目的を織り込んでいく」という「意図性」と、「保育者のかかわりの中」という子どもと保育者との二者関係から保育を語っていることが気になります。それは、「教育の目的」がなんであるかをきちんと議論しないと、子ども主体が、保育者主体に陥りやすい気がします。それは、保育者のかかわりが保育であるかのような誤解を受け、複数いる子ども同士の関わりの中での育つ力があまり語られていない気がするのです。ですから、「必要に応じて子どもの中に入って一緒に遊びながら、個々の子どもが必要としていることに応じて援助を行うこと」が求められてしまうのです。

 子どもの遊びには、当然意識した意図はありません。しかし、子どもたちは成長するための課題を達成するような遊びを自ら選んでいます。私は、その意図を保育者は汲み取り、子ども同士という環境を含めた環境を用意することで、成長を確実なものにしなければならないのです。そこには、何を教えるかという意図は強くありません。

 私は、本来の「意図性」を、倉橋が提案した園庭の考え方に見ることができると思っています。「できるだけ自然のままで、草の多い丘があり、平地があり、木陰があり、くぼ地があり、段々があって、幼児が転んだり、走ったり、自由に遊ぶことができるようなところが良い。」「夏には木陰となり、冬は日光が十分当たるように落葉樹を植えると良い。」「幼児にはできるだけ自然の美しさに親しませたい。それには日当たりの良い運動場の一部を花畑、菜園として野菜や花を作り、それを愛育するように仕向ける。」

 当然、この園庭には意図があります。野生のまま放っておいているわけではありません。しかし、ここでの意図は、何を教えるとか、何をさせるというよりも、子どもの自発的な営みを期待しているのです。ここでは、教育的目的を持つことはせず、子ども同士で、生き生きと活動することでしょう。私は、このような環境を室内に用意することが必要な気がします。

生活と遊び

 私が若いころに、少しワルと呼ばれていた中学生の面倒をみていたときに、受験が近づいてきたころ、面接の練習をしました。そのときに、質問で「将来、どのような職業に就きたいと思いますか?」という質問に、「食べていければいいです。生活できれば、どんな職業でもいいです」ということ答えを聞いて、なんだかさびしく感じると同時に、「生活」とは、なんだろうかと思ったものでした。この字から見ると、「生きて、活動すること」となります。ですから、この生活とは、人間に限らず、生きているものにはどんなものにも使います。

 では、「子どもの生活」と使うときには、どのような意味が含まれるでしょうか。
倉橋惣三は「幼稚園真諦」のなかで次のように述べています。「幼児のさながらの生活から出発し、生活を通して、それを本当の生活にしていくのが幼稚園の教育だ。」すなわち、生活の中に教育的価値を見いだし、どのように体験させていくかというところに、教師の計画的な環境構成や援助がいるとしているのです。良い教師とは、一日の生活の中で、そのような教育の機会を与える教師であるといいます。ですから、「幼児を教育すると称して、幼児を先ず生活させることをしない幼稚園に反対」とはっきりいっています。

  よく、園では、「コアタイム」とか、「設定保育」と称し、その時間内だけが保育であり、そのほかの時間帯は子どもたちの自由時間であるとして、週案などの保育計画はただこの時間内だけを立てたり、日誌も、この時間内での活動だけを記したりします。しかし、園は朝「おはよう」と登園してきてから「さようなら」と帰るまでが保育なのです。私の園への見学者にデーリーとして「何時から何時まで設定保育ですか?」と聞かれることがあるのですが、私は「子どもが来てから帰るまで、すべての時間帯は設定保育です。」と答えることにしています。散歩に出かけるときにも、目的地での活動だけが保育ではなく、行く途中、帰り途中すべての時間帯が保育なのです。それは、子どもの生活そのものが保育だからです。倉橋は、「生活の教育化」という概念を持っていたのです。

  「生活の教育化」ということは、具体的にはどのようなことでしょうか。倉橋は、子どもは、自ら育つ力を持っている有能な存在である主体者であるという前提の下、子ども達は環境との相互作用により発達していくことから、環境を構成していきます。環境に主体的に関わることで子ども達は自己充実し、その中で必要な経験をし、保育者は、個々の子ども理解から、子どもに経験してほしい狙いを織り込んだ環境を構成し、個々の子どもがその環境の中で子どもにふさわしい生活を送ることができ、もし、子どもが必要としていることがあればそれに応じて答え、いつでもそのスタンスでいることを表明し、見守っている存在である必要があるのです。

  では、子どもにとっての「ふさわしい生活」とは、園生活の中でどのような生活を指すのでしょうか。彼は、その基盤は「遊び」であり、「主体的な活動」にあるとしました。「遊び」は、子どもにとっては「生きること」であり、「成長すること」そのものであり、まさに「生活」という、「生き」「活動」していることなのです。現在、小児保健の教科書には、「遊び」は「赤ちゃんの生活すべて」と位置づけられています。この遊びの意味は、乳児に限らず、子どもにとっては、「生きる」ための要素がたくさん詰まっているのです。

  子どもの「生活」と「遊び」は切っても切れない関係にあるのです。

幼児教育指導

 学校教育において「指導」という言葉は、その内容を示した「学習指導要領」ということばに代表されるように、「学習を子どもたちに指導する」ということになるのでしょう。しかし、その内容の中で「確かな学力」では、「基礎・基本を確実に身に付け、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」とあります。指導といっても、あくまでも子ども自らの行為である学習を揚げています。

 戦後、日本は、学校教育法が成立し、幼児教育においても幼稚園、保育所、家庭の幼児教育まで含めた幼児教育の手引きとして「保育要領」が示されました。しかし、この作成に当たって、GHQの指導の下、教師の主導性が強いものでした。その後、講和条約の締結後、幼稚園は、高等教育まで見通した「学校教育」の一貫性の中で構想が練られます。それは、「学習指導要領」が定められていた小学校への準備教育という考えの下、「幼稚園教育要領」が刊行されました。しかし、このとき、いくら小学校教育の準備期といっても、「指導」ではないということで、当初考えられた「幼稚園学習指導要領」という名称は、却下されました。それは、幼児期は、一人ひとりの発達が違い、発達の段階としてまとまった形の学習方法、内容を示す時期ではなく、子どもの遊びを中心とした保育方法、内容を示す必要からだったのです。

 しかし、どうしても幼児教育において、小学校教育と同じような「指導」という方法が根強く残ってしまったのは、たぶん、「領域」の考え方でしょう。「学習指導」ではなく、「幼稚園教育要領」ということで、倉橋惣三の子ども達の自然な生活を中心とした生活主義は、反映され、残されたのですが、「望ましい経験」として子どもたちの楽しい園生活が羅列的に並べられて板の保育内容を、もう少し整理しようということで六つの「領域」にまとめたのです。そして、その内容とそのことばが、小学校の教科をイメージさせ、幼稚園教師に小学校との連携を強く意識させ、領域別に教えるという保育活動を産むことになるのです。ですから、今でも「幼稚園教育要領」には、「各領域に示すねらいは幼稚園における生活の全体を通じ、幼児が様々な体験を積み重ねる中で相互に関連をもちながら次第に達成に向かうものであること、内容は幼児が環境にかかわって展開する具体的な活動を通して総合的に指導されるものであることに留意しなければならない。」というように「総合的に指導されるもの」として「指導」ということばが残ってしまっているのです。

 しかし、どうしても幼児の知識や技術の習得に偏した教育を行っている幼稚園が見られるため、文部省では、「領域と教科」の区別について丁寧に説明しています。教科とは、「国語、算数、社会、理科など学校で児童生徒に授ける教育内容の単位で、それぞれの教材の特性に応じて分類され、発展的、系統的に分けられているもの」と説明しています。簡単に言うと、「指導」とは、「授ける」こととして使っています。一方、領域は、「子どもたちが望ましいと思われるさまざまの経験や活動があって、それらの経験や活動を通じて幼児が刺激され、誘発され、気づき、習得されると思われる“ねらい”をまとめたものにつけた名称に過ぎない」

 しかし、どうしても現場では、この「指導」ということばによる誤解が混乱を招いています。「子どもを指導してはいけない」ということを、「子どもに指示してはいけない」とか、「子どもに注意してはいけない」とか、「子どもを導いてはいけない」と思ってしまうことがあります。幼保一体化の中で、きちんと「遊び」「指導」ということばの合意を図ることが必要な気がします。