志向意識水準

ダンバーは、ここでこんなことを言います。文化こそ、ヒトとそれ以外の動物を線引きするものである、そんな主張にいつまでもこだわっていると、遺伝的排他主義と言われるだろうと危惧します。もちろん、言語と同じように、人間の文化にはほかの動物には見られない側面がたくさんあると言います。ただしそれは、文化という連続体の頂点に近い部分に過ぎないと言います。おそらく問題はそこにあると言います。私たち人間は連続性でものを考えることがとにかく苦手で、すぐに単純な二分法で済ませようとするのだというのです。しかし言語の文化も単体ではありません。それを支えているプロセスの多くは、人間以外の動物、少なくとも一部と共有しているのだと言います。

これだけは人間以外にはできないと断言できるものがあるとダンバーは言います。それは、フィクションの世界を構築することだと言います。そもそも動物は、物語というものを理解できません。言葉を持たないことももちろんありますが、想像の世界だけのお話、という概念がはなから理解できないのだと言います。もし言葉を持っていても、額面どおりの意味に受け取ってしまい、存在しない世界の記述に戸惑うばかりだろうとダンバーは言うのです。

ウィリアム・シェイクスピアの「オセロ」という舞台劇があります。この話の設定を観客が素直に信じてくれなければ、舞台は台無しになります。となると、観客の心理、それは、舞台を見る人はこう感じるだろうという予想も計算に入れる必要があります。もっとも自分の意図だけなら、平均的な成人は誰でもやっていけることなので、難しくはありません。ただシェイクスピアは、観客を限界に挑戦させます。観客に五次志向意識水準まで了解させつつ、物語を進行していかなければなりません。それを見事にやってのけたからこそ、シェイクスピアは偉大な劇作家として歴史に名を残しているのだとダンバーは言うのです。

私たちの目下の問題は、それができるのは人間だけということだとダンバーは言います。チンパンジーが認知できるのは、せいぜい二次志向意識水準、つまり自分の意図を認識し、相手の意図を見透かすことまでです。ですから、チンパンジーがタイプライターをいくら叩き続けても、「オセロ」を書き上げることはできないのです。何百年もやっていればひょっこり同じものができ上がるかもしれませんが、それはあくまで統計的にはありうるという話だとダンバーは言います。「オセロ」を書き上げたチンパンジー自身は話の展開を「志向」していたはずがないし、観客がそれについてこられるかといった発想ももちろんありません。イアーゴーがオセロに何か言おうとすることまでは理解できても、イアーゴーが自分の言葉をオセロにどう解釈させたいのかまではわからないであろうと言います。三次志向意識水準を持たないかぎり、それを理解することはできないというのです。

文学作品をちょっと読みかじるとき、たき火を囲んで物語を披露するとき、私たちは空想の世界に遊んでいます。それができるのは人間だけで、現存するどんな動物もそこまでの認知能力は持っていません。大型類人猿であれば、他者の心境を想像してごく単純なお話を組み立てることはできそうだと言います。ただ、登場人物は一人が限界です。もしかすると、人間でいうと、8~11歳の認知能力に相当する三次、四次志向意識水準までは持てるかもしれないと言います。けれども、シェイクスピアやモリエールとまでは行かなくても、これぞ人間の文化と呼べるような洗練された物語を、自ら志向して紡ぎだせるのはヒトの成人だけであるとダンバーは言います。

客観的な視点

動物の発声には、私たちが思っている以上に豊かな意味があるようだとダンバーは言います。しかし、ヒト以外の動物の言葉に関して、解決できるようになるのは、まだ先のことだと言っています。それでも、チンパンジーに言葉を教える試みは、かなりの成果を挙げているようです。これまでにチンパンジー数頭と、ゴリラとオランウータンが1頭ずつ訓練を受けているそうですが、目覚ましい成果を挙げているのはチンパンジーだけだそうです。出された指示に従い、質問に答えるチンパンジーの認知能力は人間の幼児と同じレバルだそうです。しかし、さらに驚きなのは、チンパンジーとほぼ同等のことをこなす鳥がいたということです。みんなに愛され、惜しまれながら世を去ったオウムの一種、ヨウムのアレックスは、英語での会話までやってのけたと言います。

それでも動物には決定的な障壁があるとダンバーは言います。もっと高次元の文化に進んで、宗教的な儀式とか、文学とか、さらに科学を生み出すには、自分の殻から出て客観的な視点で世界を眺めることが不可欠だと言います。それには、「何が起こったのか?」だけでなく、「どうしてそうなったのか?」という問いかけが出来なくてはならないと彼は考えています。しかし、動物は、あるがまま世界を受け入れているようだと言います。自分の利害だけを気にする小さい視点を離れ、いまとはちがう状況を想像できるのは人間だけの能力だろうと言います。子どもの「どうして?」攻撃におとながいらだつのも、人間ならではのことなのだとダンバーは言います。

一歩下がって物事を見られる能力を社会的な場面で発揮できれば、「心の理論」が充分に発達していることになると言います。心の理論ができていれば、他者の心の内を理解したり、さらにはその知識を武器に相手を利用したり、意のままに動かすことも可能です。この能力は、生まれたときにはなく、だいたい四歳頃に獲得しますが、なかには自閉症者のように一生身につかない者もいます。心の理論がまだできていない子どもは、巧みな嘘がつけないし、なりきり遊びもできません。そればかりか心の理論がないと小説は成り立たず、科学や宗教も存在しない。どちらもありえない世界を想像できないと話にならないからだとダンバーは言うのです。

これほどの高みに到達した動物はいません。サルは相手を欺くことはしますが、それはせいぜい3歳児レベルのものです。他者の行動を読んでつけ込むことはできても、他者が自分とはちがう考えを持っていることは理解できないと言います。それに対して唯一の例外は、大型類人猿ということになるそうです。

人間と動物の境を知るにつけ、何度も思うことですが、私たちは果たして人間の領域になっているのだろうかということです。三歳以上にもなると、人間であれば、他者の行動を読んでつけ込むことが出来るだけでなく、他者が自分とはちがう考えを持っていることを理解できるはずだと言うのです。また、これらの能力を考えるとき、こんな疑問が湧いてきます。それは、能力は個人によって違っていますが、他の動物も個によって違いがあるのでしょうか?種によっての違いではなく、同じチンパンジーでもできる個とできない個が、人間ほどの違いがあるとは思えないのですが。

個人によって、持っている能力が大きくちがうのは人間の特徴かもしれません。

動物の発声

ダンバーは、合理的かつ操作的な定義をもってすれば、チンパンジーには文化があることになると言います。しかし、トマセロが指摘するように、チンパンジーが文化を学習する方法がヒトと同じかどうかは、疑いを持ってしかるべきだろうと言います。そこで、「文化を生み出す能力」と「文化を発展させる潜在性」を区別するのも一つの考え方だと彼は言います。類人猿は野球帽を後ろ向きにかぶるなど、環境とのからみでさほど必然性がなくても、成り行きで新しい行動を身につけることがあると言います。けれども過去に誰かが達成したことを土台にして、新しいことを切り開いていく能力は人間にしかありません。もし文化というものがあるとすれば、科学はその代表選手だとダンバーは思っていますが、アイザック・ニュートンは、科学が進歩するには、「巨人の肩」に乗ることが不可欠だと考えました。まさにそれが、「文化を発展させる潜在性」と言うことだろうというのです。

では、人間を区別するものは何かというときに何度も出てくる「言葉」について、最近の知見ではどうなのでしょうか?当然のことながら、私たちが人間の文化と見なすものは、言葉に深く根ざしていることはたしかです。何かを説明するとき、教えるとき、儀式で詠唱するときに私たちは言葉を使います。デカルトが言うように、動物はそんなことはしません。しかし、彼らは声を出さないわけではないとダンバーは言います。イヌは吠えるし、サルはキーキー鳴きます。こうした泣き声は彼らの情動と直結しているというのが、これまでの常識でした。イヌが吠えるのは、興奮が一定レベルを超えたときに声帯が震えるから、というわけでした。ヒトも叫んだりうなったりして似たような声を出しますが、それ以外にも意味のある一連の音を任意で発声することができます。ミツバチが花蜜のある場所の方角と距離を伝える羽音もよく話題にされますが、これも言葉とは呼べないだろうとダンバーは言います。限られた特定の状況でしか使われないからです。相手の健康を気遣ったり、お悔やみを伝える羽音というのは存在しません。

それでも最近の研究結果から考えると、少なくともサルと類人猿に関しては、これまでの常識をひっくり返す必要がありそうだとダンバーは考えています。ペンシルヴェニア大学のドロシー・チェイニーとロバート・セイファースは、ケニアのアンボセリ国立公園で独創的な実験を行なったそうです。対象は野生のサバンナモンキーです。隠したスピーカーからサバンナモンキーの鳴き声を流して反応を調べたところ、彼らの泣き声は多くの情報を伝達しており、しかも発声者の行動に大きく左右されることがわかったそうです。彼らは、ヒョウ、猛禽、ヘビを泣き声で正確に表わしていたのです。ほかの仲間が何かやろうとしているぞとか、自分に近づく仲間が上位か下位かといったことを、グラントと呼ばれる低いうなり声のちょっとした違いで表現するのです。チェイニーがボツワナで行なった最近の研究では、ヒヒは、怒らせてしまった相手をなだめるためにグラントを発するのですが、それはもう謝罪と呼んでいいレベルだったそうです。かつてヒヒのグラントは、これ一種類しかないと思われていたのです。

どうやら動物の発声には、私たちが思っている以上に豊かな意味があるようだとダンバーは言います。無知な者が聞いたら同じような音でも、実際はとても複雑なやり取りが行なわれているようです。ヒト以外の動物の言葉に関しては、私たちはまだ初心者に過ぎないと彼は言います。それを解決できるようになるのは、まだ先のことだと言っています。

文化の起源

ケンブリッジ大学のウィリアム・マックグレーは、製作物こそ人間独特の文化だとする考え方を厳しく批判しているそうです。彼は、著書「文化の起源を探る―チンパンジーの物質文化」のなかで、人間が使えば道具になるのに、なぜチンパンジーが使ったら道具として認められないのかと疑問を投げかけたのです。アフリカで30年にわたってチンパンジー観察を続けてきたマックグルーは、ハンマーから探針、釣り道具、スポンジまで、彼らが自然にあるものを利用したり、手作りした道具をたくさん挙げて見せたのです。もしそれが説明書きなしで博物館に展示してあったら、ヒトと類人猿のどちらが使ったのか区別できないはずだと言います。マックグルーによると、チンパンジーの道具と原始的な人間社会で使用されていた道具の違いは、チンパンジーは保存容器を持たず、魚や獣を捕る罠を作れなかった、という二点だけだったと言います。

動物の文化として、あまりに有名で、もはや伝説の域に達している二例を、ダンバーは紹介しています。ひとつは、牛乳瓶のふたをあけるアオガラです。これは1940年代のイギリス南部の話で、アオガラが牛乳瓶の紙ぶたを開け、表面のクリームを吸い取るやり方を覚えたところ、ほかのアオガラもまねをするようになったというものです。もうひとつは、芋を洗うニホンザルです。イモという名の若いメスがサツマイモを海水で洗って食べたのを皮切りに、群れ全体にこの食べ方が広まったというものです。

しかし、どちらの例も、ここ数年心理学者からの厳しい攻撃にさらされているそうです。当時のデータを丁寧に検証し直した複数の報告では、文化的に学習する行動にしては、伝播のスピードが遅すぎると指摘されたそうです。サツマイモ洗いは群れ全体に広がるまで何十年もかかったし、しかもまねをしたのは若いサルだけで、年寄り連中はついに取り入れることがなかったのです。こうした新しい習慣が広がるのは、もっと単純なプロセスなのではないだろうかとダンバーは考えます。誰かがやってるのを別の者が注目し、それからは試行錯誤で問題解決を学んだというだけだというのです。これが人間ならば、先に習得した人から問題の本質を解説してもらいながら指導を受けることもあれば、ひたすら模倣だけで身につけることもあるかもしれません。それが、人間の文化と動物の文化のはっきりした違いだとダンバーは言うのです。

少し前のブログで、ライブツィヒにあるマックス・ブランク進化人類学研究所の心理学者マイケル・トマセロを紹介しました。彼は、「コミュニケーションの起源」ということで、人間のコミュニケーションの起源について、大型類人猿の経験から研究をし、考察し、理論的なものとして、仮説をいくつか提案しました。私のブログではこれを取り上げました。ダンバーもここで、彼の説を紹介しています。それは、最近のこうした見解を受けて、動物には人間と同じ意味での文化が本当にあるのか?という疑問を投げかけたことについてです。トマセロは、コミュニケーションの起源を研究していたこともあって、伝播のメカニズムに関心を持ったのです。それに対してマックグルーのような霊長類学者は、動物の行動そのものに興味があるようです。

この違いは、文化についての見解に、どのような違いを見せたのでしょうか?

守りたい文化

ルソーは、「ダランベールへの手紙」のなかで、「動物は心と情念を持つ。しかし、誠実さや美しさといった厳粛なイメージが入り込むのは、断じてもっぱら人間の心だけである。」と言っています。動物と人間の境は、人間特有な能力は何かということは、もののとらえ方で違ってきます。例えば、「憐憫の情」という心があります。それは、「相手を不憫に思う気持ちのこと」とあります。その気持ちは、人間特有でしょうか?ルソーは、それについて、こう書いています。動物にも原初的な形で憐憫の情があるとしつつ、「動物の場合は、偶然にまかせてはたらく、ほかのものが苦しむことへの嫌悪感でしかありませんが、人間の場合は、想像力によってその働きが強められ、自分を意識することで働く範囲が広げられ、完成へと向けて自分を改善する能力のおかげで、道徳的で普遍的な水準へと自らを高めていくことができるという違いがあります。」として区別しています。

17世紀の哲学者で数学者であったルネ・デカルトは、「われ思う、ゆえにわれあり」と宣言しました。その言葉は有名ですが、それにこう続けています。「動物は話せないから考えることはできない。したがって機械のようなものだ。」と述べているそうです。ダンバーは、それ以来、デカルトの影を引きずった「動物と人間」の二分法で生きてきたと言います。この二分法がいちばん深く根付いて、人間とそれ以外の動物とのあいだに大きな溝を掘ったのが社会科学の分野ではないだろうかと言います。この世界では、動物をモデルにして、人間の行動を研究するのは完全に見当違いであり、人間と獣を区別する最大の目印は、文化と言語だとされていると言います。

もちろんその根底には、文化と言語というふたつの現象が人間独特のもの、という前提があると言います。そして、人間の名誉を守ろうとするあまり、滑稽なほど過剰な反応が起きたりします。動物に言語、あるいは文化があることを証明しようとすると、そのたびにゴールポストの位置がずらされると言います。最初は、道具を使えるのが人間ということになっていたのですが、道具を使う動物の存在が明らかになると、今度は道具を作れるのが人間だという定義に変わりました。

私たちがそれほどまでに守りたい文化とは、いったい何なのでしょうか?今から半世紀前、アメリカの人類学者アルフレッド・クローバーとクライド・クラックホーンが、人類学と社会科学の論文を分析したところ、文化の定義がおよそ40種類にもなったそうです。これらは大きく三通りに分けることができると言います。まず、文化は人間の頭脳が生み出した発想だとするものです。社会規範とか、儀式の手順、信念などです。次に、文化は人間の頭脳が生み出した製作物だとするものです。例えば、道具、陶器やその装飾、衣服などのいわゆる物質文化です。そして、言語とその産物を文化とするものです。例えば、シェイクスピアからボブ・マーリーまで含まれる、いわゆる高級な文化です。最後の定義は、人間を支える重要な柱である言語を引っ張り出しています。

こうした堂々巡りが行なわれます。それは、言葉を持つのは人間だけ、ゆえに文化は人間しか持たない。なぜなら文化イコール言語だから、というようにです。これらの定義を見ていると、ダンバーはふと疑問を持つと言います。それは、人間の行動は、本当に人間だけのものなのか?動物の心は空っぽなのか。彼らには世界観みたいなものはないのか。チンパンジーがハンマーとかなとこを使って木の実を割るのは、物質文化と呼ばないのか?というような疑問です。

不幸の確立

ダンバーは、もっと早い段階で気づくべきだったと振り返ります。不幸の手紙を捨てた翌日、火曜日の会議はのっけからつまずいたそうです。プロジェクターの延長ケーブルが用意されておらず、ようやく一本見つけてきたとき、遅れに遅れた最初のセッションは、とっくに始まっていたそうです。水曜と木曜は、2つの講義がダブルブッキングしていたことが判明したそうです。木曜日は後ろ髪を引かれる思いでミーティングを切り上げ、ランチタイムの出版記念パーティに出席するためにロンドンの反対側まで出かけたら、パーティは一週間先だったそうです。夜帰宅したら、妻がインフルエンザで寝込んでいたそうです。それから週末にかけて家族がひとり、またひとりと倒れ、最後に彼の番が来たそうです。病気で仕事を休んだのは25年ぶりだったそうです。二人の息子は39度の熱を出し、娘は学校にあがって11年目にして初の病欠になったそうです。

これが偶然の重なりであることは、だれもが、そして他ならぬ彼自身もよくわかっていると言います。けれども5つ、もしくは9つの不運が同じ週に起こったとなると、ちょっと考え込んでしまうと言います。確率的には100万分の1ぐらいか?迷信や星占いを信じたくなる気持ちもわからないでもないとダンバーは言います。

けれども落ち着いて分析してみれば、確率は思ったほど低くないことが判明したそうです。家族がドミノ倒しのようにインフルエンザにかかったことは、1つ屋根の下に暮らしていれば大いにある話だろうと言います。しかも、その冬のインフルエンザは例年になく悪性だったのです。子どもたちがそれぞれ通う学校では、生徒の半分が欠席というクラスもあったのです。家族が全員寝込んだところも少なくなかったのです。

講義のダブルブッキングも、新学期最初の週は混乱しているので、まま起こることだったのです。技術的な問題で会議のセッションが遅れることもよくあります。しかし、1週間も先の予定のために、ロンドンをわざわざ半周して時間を無駄にしたのは……これは、さすがに、よくあることでは片付けられません。がしかし、不幸の手紙を受け取るとは誰も予想していませんでした。あの手紙自体、まだ始まっていなかったかもしれないのです。そんな前のことまで計算に入れるのは、いかさまというもので、せいぜい運命の女神が判断材料にするぐらいだろうとダンバーは言うのです。

そもそも不幸の手紙には四日間の猶予が与えられていました。何かあるなら金曜日以降です。ですから、あのとき彼を襲ったできごとは、「不幸」に勘定してはいけないのだ!と言います。実際のところ、金曜日からの一週間は、インフルエンザにかかったばかりということを除いて、悪いことは何も起こらなかったそうです。

不幸の手紙を捨てたこと、彼がひどい目に遭ったことに因果関係は存在しないと彼は言い切ります。そもそも、悪いことが起こる確率はけっこう高いのに、私たちが気づいていないだけかもしれないと言います。たまたま不幸の手紙を受け取って意識がそっちに向くと、後片付けで証拠を探してしまうようです。それは、明らかに非科学的な振る舞いだとダンバーは言います。

彼は、「まあ不幸の手紙をあまり悪者にしてはいけないだろう。おかげで記事のネタがひとつできて、そこそこの原稿料がもらえたわけだから……かたじけない」と言います。ずいぶんと、ポジティブですね。

人間の限界

ダンバーは、ひそかに、ジョゼフ・プリーストリーによるフロギストン説をよみがえらせる化学者が現われないかと心待ちにしていると言っています。それは、どういうことなのでしょうか?アントワーヌ・ラヴォアジェは、プリーストリーの宿敵でした。彼は、物質の燃焼は、空気中の酸素との反応だと考えました。彼は、ルイ16世の徴税請負人だったために断頭台の露と消えたそうです。ところが、プリーストリーは、同時代のほとんどの人がそうであったのですが、物質の燃焼は、物質中のフロギストンが放出されることだと主張したのです。

数字に強かったラヴォアジェは、燃焼後の物質は重量が増えていることを示して、何かを放出するのではなく、取り込んでいるはずだと証明したのです。これが原子論への道を開くことになったそうです。もちろん、ラヴォアジェの酸素説がひっくり返ることは絶対にないそうです。けれども、プリーストリーほどの偉大な化学者が、完全に間違っていたとはどうしても思えないのだとダンバーは考えているようです。

ダンバーは、さらにこんな人間の特性の例を出しています。それは、物事を正しく考えられない残念な例だと言います。まだ、電子メールがなかった頃のこと、月曜朝のポストに茶色の大きな封筒が入っていました。なんとそれは不幸の手紙だったそうです。手紙には「お金は送らないで!」と書かれていたそうです。そのかわり四日以内に手紙のコピーを友人や同僚5人に送ること。「さもないとあなたは不幸になります。」それだけの内容でした。このような手紙は、日本でも一時はやりましたね。そんな手紙が来たら、どうするでしょうか?

昔ながらの経験主義を引きずるダンバーは、当然のことながら速攻でゴミ箱に捨てるつもりだったそうです。そうしなかった理由はただ1つ。アメリカから始まったこの不幸の手紙には、これまでの送り手の手紙も同封されていたからだそうです。彼は、好奇心からそれらの手紙に目を通したそうです。

おもしろいのは、送り主、ちなみに全員が本職の科学者だったそうですが、彼らが迷信深いと思われたくなくて、必死なことだったそうです。「ジム、こんなくだらない話をぼくが信じていないことは君も承知だろう。それでもこれを送るのは……」とか、「私は子どもの頃から、この種のチェーンレターが大嫌いで、全部自分の所で止めていました。でも今回は

……」とかだったそうです。

どうして今回は送ったのか?ダンバーは、その答えは簡単で、不幸への恐怖だと言います。どの手紙も、理解を求める言葉で締めくくられていました。「いま補助金申請の結果待ちだから、何があったらと思うと……」「来週、就職の面接を控えているんです。ご存じの通りこのご時世なので……」

それらの手紙を読み終わったダンバーは、どうしたかというと、少々不遜な笑いを浮かべながら手紙の束を封筒にしまい、古紙リサイクルの回収箱にドサリと落としたそうです。その週は、出かける用事が入っていたそうですし、翌日から自分がまとめ役の会議が予定されていたそうです。むろん、原稿の締め切りも次々と容赦なく押し寄せていたときだったそうです。

なぜ、二分法?

保育という仕事は、子どもたちの感情や情緒について考えることが多いために、二分法で考えることは困難なことが多いだけでなく、二分法で考えるべきではないと私は思っています。子どものけんかにしても、子どもたちの心の問題であることが多いため、どちらが悪いとか良いとかを簡単に決めつけるべきではありませんし、何が正しくて、何が間違っているかということも決めつけることは慎重にしなければなりません。それに対して、科学の世界では、二分法が成り立ちやすい分野だと思っていました。しかし、ダンバーは、科学の世界でも二分法があまりに氾濫していることを嘆いています。それは、生物学の世界でも似たようなことがあるそうですし、なんと物事が割り切れる数学の世界でも例外ではないと言います。

1764年、イギリスの長老教会牧師で、王立協会フェローだったトマス・ベイズが生前に書いた論文が発表されました。内容は、信念や信頼に基づいた確率論で、いかなる状況にも適応できる定理が1つだけという、いたってシンプルなものだったそうです。しかし、数学者たちは、この確率論にいい顔をしなかったそうです。コインを投げて、表と裏のどちらが出るといった、客観的な事実の頻度によって確率を定義するべきだと考えたようです。こうしてベイズと彼の確率論は、一度は忘れられました。しかし、最後に笑ったのは、彼だったのです。確率の頻度理論は、ベイズの定理の特殊例にすぎなかったということがわかったのです。

「生まれか育ちか」というおなじみの論争も、一定間隔で再燃しますが、そのたびに同じところで決着してきたとダンバーは例に出しています。まるで、それ自体が自然法則のようだと彼は言います。1940年代の「生まれか育ちか」論争は、知能指数の遺伝をめぐって起きたそうです。50年代には、本能をめぐる行動生物学の議論の流れで出てきたそうです。70年代には、社会生物学の分野で起こった大論争の中で意見が衝突したそうです。90年代に入ると、進化心理学という新しい分野が登場したことにからんで、社会科学や心理学主流派の研究者たちがこの議論を蒸し返したそうです。どの場合も、生物において遺伝の影響と環境の影響は、そうはっきり線引きできるものではないという発言が、必ず最後に出てくるそうです。光は波か粒子かという話と同じで、その場に応じてどちらかだけ採用して論じるのが好都合ということのようだとダンバーは言うのです。

どうして、どの分野でも二分法で物事を処理しようと、答えを出そうとするのでしょうか?ダンバーは、そこのところをこのように説明しています。「私たちの頭脳は、連続性を扱うことが不得手なのだ。異なる次元で、いくつもの変数が相互に作用するときは、なおさら苦手になる。」ですから、私たちは単純な二分法に走りたがるのだと彼は言うのです。そうすれば、難しいことを考えなくてもすむからだというのです。

日常生活をうまく乗り切る経験則がたくさん身についたのは、ひとえに進化のおかげだということはわかります。しかし、それは上っ面だけの話だとダンバーは指摘します。科学のほんとうの中身は、きわめて複雑で、二分法的な思考では、歯が立たないと彼は言います。知識の幅が広がりを脅かすのは、他ならぬ私たちに内在する限界なのだというのです。

そんな考えを持っているダンバーは、ひそかに、ジョゼフ・プリーストリーによるフロギストン説をよみがえらせる化学者が現われないかと心待ちにしていると言っています。

どちらも正しい

人間の知性は詩を生み出し、現代科学をもたらしましたが、その知性といえども有限であると思い知らされるときがあるとダンバーは言います。たとえば、私たちは単純な二分法に陥ってしまうことがあまりに多いと言います。「賛成か反対か」「左か右か」「容認か排除か」「敵か味方か」という区別を単純に当てはめてしまうと言うのです。アフリカ南部で、昔ながらの生活を営み、かつてはブッシュマンとも呼ばれていたサン族は、自分たちのことを「ズー・トゥワシ」と称するそうです。これは、「ほんとうの人」という意味で、つまりはサン族とそれ以外の人間を区別していると言います。

ダンバーは、科学の世界でも二分法があまりに氾濫しているといつも思っているようです。死の性質をめぐる有名な論争もそうだと言います。光は粒子なのか、それとも波なのか?19世紀には、地質学界で天変地異説と斉一説が鋭く対立して大論争になったことがあったそうです。そんなときには、どのような決着を見るのでしょうか?

また、19世紀に、地質学界で天変地異説と斉一説が鋭く対立して大論争になったことがありました。天変地異説は、フランスの分類学者ジョルジョ・キュヴィエが唱えたもので、洪水や火山噴火といった環境の大激変が、それまでの生物を根絶やしにし、その後、新しい生命が出現したというものです。一方、斉一説は、地質的な現象は長い時間をかけて少しずつ起こっていったとする考え方です。こちらの中心人物は、イギリスの地質学者であり、ダーウィンにも影響を与えたサー・チャールズ・ライエルだそうです。

生理学の世界でも似たようなことがあったそうです。19世紀半ば、イギリス人のトマス・ヤングとドイツ人のヘルマン・フォン・ヘルムホルツが、いまではおなじみの「色覚三原色説」を提唱したのです。その後の研究で、赤・緑・青の三原色それぞれに反応する錐体細胞が網膜にあることが確認され、この説は正しいことが証明されたそうです。ところが、数十年も経って、ドイツの生理学者エヴァルト・ヘリングが、実験結果をもとに、「反対色説」を唱えたそうです。色覚システムは青と黄、赤と緑という組み合わせで色を認識しているというものでした。

ダンバーは、二分法で面白いのは、あれだけ白熱した議論が、どちらの説も正しいと指摘されると、きれいに収束することだと言います。光は、場面によって波になったり、粒子になったりするそうです。現実を踏まえて、分析に都合が良い方を選べばよいそうです。進化の速さも時と場合によって変わるそうです。火山の噴火や隕石の落下が起これば、生物が大量に死滅するので、たしかに進化は加速するでしょう。しかし、そうでないときは、たまに起こる突然変異を軸にしたのんびりしたペースで進むでしょう。色覚に関するふたつの説も、視覚情報を分析するシステムの違いに過ぎないそうです。硬膜は三原色で光をとらえますが、脳の視覚皮質は、4色で視覚情報を分析するのだそうです。

これと同じような例はほかにもあるようです。たとえば、ほ乳類の音の知覚をめぐっては、「場所」派と「周波数」派に分かれて激しい議論になりました。音の高さは、蝸牛が伝達した振動が、コルチ器官のどこに到達するかで決まるというのは場所派の主張です。一方周波数派は、コルチ器官自体の振動数が高さを決定すると考えました。結論はどうかというと、どちらも正しいということのようです。低音は周波数で、高音になるとコルチ器官内の場所にもとづいて処理されているのだそうです。

二分法

ここでまた、私たちが生きていく上で大切にしなければならないことが示唆されています。まず、ヒトが持っている能力を他の生き物と区別するものは、「能力の種類」ではなく、むしろ「能力を発揮できる程度」だということです。これは、私たちが大切なのは、どのような能力を持っているかということではなく、持っている能力をどのように発揮できるかということなのです。今回、教育として大切なものとして、「知識・技能の習得」が挙げられていますが、それも、どのような知識を持っているか、どのような技能を持っているかということが大切なのではなく、それらの知識をどのように使うことができるのか、持っている技能を何のために、誰のために使うかどうかに意味あるのです。

また、すべてのほ乳類と鳥類が生きていくための基本能力がどんなものであるか、そして、その能力のレベルがどのくらいであるかが問題であるということだそうですが、そのときの基本能力とはどのようなものかということが、私たちが持たなければいけない能力を示しています。ダンバーが、その例としてあげているものに、「因果関係を把握する」「類推する」を挙げています。そして、彼は、これらの能力が合わさって大きなスケールで展開されるときに、心を読む能力がふと出現すると言っています。このふたつの能力は、先の見通しが立てられるということであり、また、因果関係を把握するということは、仏教の世界でも大切にしていることでもあるのです。

しかし、これらの能力は何も特殊な能力ではないと言います。ある意味ではそれは当たっていますが、霊長類とかヒトだけに限定されるものではないようです。ほかのみんながやっていることをもっと上手にやっているだけであるとダンバーは言います。そう考えると、ネズミとかヒトまで、ほ乳類を構成するさまざまな種の違いは、しょせん計算上の「誤差」に過ぎないようにも思えてくると彼は言うのです。

私が人類の進化に興味を持つのは、何度も言っていますが、現代を生きる私たちにとっても重要なこと、生きる価値を思い知らされることが多いからです。同時に、現代においても直面している課題が見えてくるからです。次にダンバーは考察していること、感じていることも常々私が課題だと思っていることのヒントがあります。

人間の知性は詩を生み出し、現代科学をもたらしましたが、その知性といえども有限であると思い知らされるときがあるとダンバーは言います。たとえば、私たちは単純な二分法に陥ってしまうことがあまりに多いと言います。「賛成か反対か」「左か右か」「容認か排除か」「敵か味方か」という区別を単純に当てはめてしまうと言うのです。アフリカ南部で、昔ながらの生活を営み、かつてはブッシュマンとも呼ばれていたサン族は、自分たちのことを「ズー・トゥワシ」と称するそうです。これは、「ほんとうの人」という意味で、つまりはサン族とそれ以外の人間を区別していると言います。

ダンバーは、科学の世界でも二分法があまりに氾濫しているといつも思っているようです。死の性質をめぐる有名な論争もそうだと言います。光は粒子なのか、それとも波なのか?19世紀には、地質学界で天変地異説と斉一説が鋭く対立して大論争になったことがあったそうです。そんなときには、どのような決着を見るのでしょうか?