自分と同じような集団

家族と一緒のときには、ローラは両親のようには振る舞いませんでした。両親から学んだものも多いのですが、同時に両親と同じように振る舞ってはいけないということも学びました。彼女は子どもらしく振る舞うべきだったのです。ちなみに当時の子どもたちの行動は、親の子どもへの態度同様、今日とはすいぶん違っていました。小説『大草原の小さな家』シリーズはドラマ化されたテレビ番組とはずいぶん異なっており、そこにはいかに親の子への態度が時代とともに変わったかということ、またそのように親の態度が変わっても同じようにふさわしい結果がもたらされることが示されているとハリスは言います。

ローラ・インガルス・ワイルダーが育った世界、テレビ番組ではなく、小説に描かれているその阯界は今日の私たちの世界とは多くの点で異なっていると言います。それでも今日私たちが住む家には、ローラの大草原の人里離れた家との共通点が一つだけあると言うのです。それは家が私的な空間であるということです。現代の家庭における私的さにおいては、インガルス一家はサリエントな社会的カテゴリーではありません。なぜなら周りに別の家族が存在しないからです。

自分をカテゴリー化する場合、人は自分と同じような人、すなわち、自分に似ていると知覚した人のいる巣箱に自分を委ねるとハリスは言います。子どもたちは親を自分に似た人としては知覚しませんが、もし周りに他の子どもがいなければその区別がつきにくくなります。子どもの目には、大人は別の種の存在のように映るかもしれません。成長した人間はなんでも知っていて、好きなように行動できます。体は恐ろしく大きく、強く、毛深く、体の所々に膨らみがあります。大人も走ることができますが、子どもが大人を見るときはたいてい座っているか立っています。泣くこともあるでしょうが、大人が泣くことをみることはまずありません。まったく別の生き物だとハリスは言うのです。

現代の子どもたちには万人に教育をという法律に基づいて、「自分と同じような」集団が準備されています。それがクラスメートだとハリスは言います。家族と相互に作用しあうのは家の中だけのことで、家にいるときは自分の家族だけなのですから、家族はサリエントではありません。家にいるとき、大家族であれば子どもと大人に分かれ、小家族であれば個々に分かれますが、それぞれは別の地位を獲得するために別々の行動をとると言うのです。

狩猟採集民もしくは村の遊び仲間における子どものように、先進国の子どもたちも子ども集団において社会化を経験していきます。この集団こそ子どもたちにとって「心理的に重要」なものであり、子どもたちが「積極的にはたらきかける」ものであり、「適切な振る舞い方や態度についてのルール、基準、考え方を学ぶ」場所なのだ、とターナーは言っています。

ハリスは、自分の理論を体裁よく表現するために、「集団社会化説」と呼んでいます。もっともこの考え方はたんに社会化に関することではないと言います。それは子どもの性格が成長する過程での経験によってどのように形成され、形を変えていくかについてもかかわっているからだというのです。これが子育て神話の代替案として彼女が提唱する理論です。この理論は、最近私が主張する考え方と同じです。

カテゴリー化

『大草原の小さな家』の著者ローラ・インガルス・ワイルダーの家族は彼女らだけで開拓への旅に出発します。最初は、他に家族がいなかったために、ローラにとって「インガルス家」は顕著なカテゴリーにはなりませんでした。そこで、彼女はいやおうなしに家族の中で社会化を果たしたのですが、「インガルス家」は他の家族もいるような土地に定住したときにはじめてサリエントなカテゴリーとなったのです。

家族と一緒のときには、ローラは両親のようには振る舞いませんでした。両親から学んだものも多かったのですが、同時に両親と同じように振る舞ってはいけないということも学びました。彼女は子どもらしく振る舞うべきだったのです。ちなみに当時の子どもたちの行動は、親の子どもへの態度同様、今日とはすいぶん違っていました。小説『大草原の小さな家』シリーズはドラマ化されたテレビ番組とはすいぶん異なっており、そこにはいかに親の子への態度が時代とともに変わったかということ、またそのように親の態度が変わっても同じようにふさわしい結果がもたらされることが示されているとハリスは言います。

ローラ・インガルス・ワイルダーが育った世界、テレビ番組ではなく、小説に描かれているその世界は今日の私たちの世界とは多くの点で異なっています。それでも今日私たちが住む家には、ローラの大草原の人里離れた家との共通点が一つだけあるとハリスは言います。それは家が私的な空間であるということです。現代の家庭における私的さにおいては、インガルス一家はサリエントな社会的カテゴリーではありません。なぜなら周りに別の家族が存在しないからです。

自分をカテゴリー化する場合、人は自分と同じような人、すなわち、自分に似ていると知覚した人のいる巣箱に自分を委ねます。子どもたちは親を自分に似た人としては知覚しませんが、もし周りに他の子どもがいなければその区別がつきにくくなります。子どもの目には、大人は別の種の存在のように映るかもしれません。成長した人間はなんでも知っていて、好きなように行動できます。体は恐ろしく大きく、強く、毛深く、体の所々に膨らみがあります。大人も走ることができますが、子どもが見るときはたいてい座っているか立っています。泣くこともありますが、泣くことはまずありません。まったく別の生き物なのです。

現代の子どもたちには万人に教育をという法律に基づいて、「自分と同じような」集団が準備されています。それがクラスメートだと言います。家族と相互に作用しあうのは家の中だけのことで、家にいるときは自分の家族だけなのですから、家族はサリエントではありません。家にいるとき、大家族であれば子どもと大人に分かれ、小家族であれば個々に分かれますが、それぞれは別の地位を獲得するために別々の行動をとるとハリスは言うのです。

このハリスの考察は興味深いものがあります。さらに最近は、家にいるときに家族だけというよりも母子だけという環境になってきています。大家族から小家族へ、さらに二者関係だけになりなじめているのです。

別の集団

サルでさえ利口なもので、共通する敵の脅威を利用して集団内葛藤を静めるそうです。フランス・ドゥ・ヴァールは、野生のヒヒが一致団結して別のヒヒの群れを襲撃することによって集団内葛藤を静める様子や、動物園のチンパンジーがチーターの姿が見えないチーター舎に向かって威嚇的な叫び声をあげているのを目撃しているそうです。「共通の敵を求める力はあまりに大きく、敵をでっちあげてしまうこともある」とドゥ・ヴァールは言っています。「長尾のマカタが水面に映った自分の姿を威嚇するために水浴び場に飛びこむのを目撃したことがある。12頭の緊迫したサルたちは水の中にいた『別の』集団を前に一つになったのだ」と言っています。

共通する敵がいないときや、もしくは全員の協力なしでは達成できない共通の目標がないときには、集団は分裂し、個人や小グループの集まりとなりやすいのです。エレベーターに閉じこめられた人たちはそれぞれが主導権を争ったり、悲観論者、道化者などの役についたりして、別の行動をとるようになるのです。

その冬、ドナー峠ではドナー隊の他には誰もいませんでした。もし別の開拓者グループや攻撃的なネイティブ・アメリカンの部族と遭遇していれば、彼らも団結できたことだろうと言います。「ドナー隊」という社会的カテゴリーは顕著ではなかったのです。カテゴリー化するにも別のカテゴリーがなかったのです。〈われわれ〉となるには〈彼ら〉が必要です。そのため、集団は家族単位に分裂したのです。気候があれほど厳しくなく、また人々があれほど飢えていなければ、別の小集団、大人と子どもに分かれていたかもしれないと言うのです。

ドナー峠では、その特殊な状況のため、子どもだけの遊び仲間グループは存在しませんでした。通常、何家族かが集まって集団を形成すると、子どもたちはお互いに惹かれるようにして集まってきます。狩猟採集民族では集団内の緊張が高まったり、集団に必要な食料を得るのが難しくなったりすると、家族ごとに分裂することがあるようですが、それは子どもにとってはつらいこととなります。分裂を決めるのは大人たちであって、子どもたちではありません。動物行動学者イレネウス・アイブル=アイベスフェルトはクン族のある兄弟がそれぞれをいらだたせる様子を見て、「当時クン族は家族ごとに分裂」したため、「兄は今までの子ども同士の遊び集団がなくなり、はけ口をなくしてしまった」と説明しています。

アメリカの聞拓者たちは必ずしも大集団で移動したわけではありません。ハリスは、『大草原の小さな家』を例に出していますが、そのテレビドラマは日本でも随分と人気を博しました。たしかに、小さな家でしたね。このシリーズの著者ローラ・インガルス・ワイルダーの家族は彼女らだけ、つまりママ、パパと三人の娘たち、メアリー、ローラ、そしてキャリーだけで開拓への旅に出発しています。だからといって、ローラにとって「インガルス家」は顕著なカテゴリーとなったのでしょうか。そうはならなりませんでした。他に家族がいなかったからです。ローラにとってサリエントなカテゴリーとは子どもたちと親だったのです。彼女はいやおうなしに家族の中で社会化を果たしたのですが、「インガルス家」は他の家族もいるような土地に定住したときにはじめてサリエントなカテゴリーとなったのです。

心理的集団

サリエントであるとは際立つこと、目立つことであり、あるものを認識するときに目につく特性を意味します。しかし、サリエントはつかみどころのない、堂々巡りになりかねない概念であり、学術系の心理学者たちは常にその危険性と隣り合わせです。なぜそのカテゴリーを採用したのか、それがサリエントだったから。どうしてそれがサリエントだとわかったのか、それが自分の選んだカテゴリーだったから、という具合にです。

ターナーはこの堂々巡りから脱出するために、ある社会的カテゴリーがサリエントになるための条件を規定しました。その条件とは、他に比較できるようなカテゴリーが存在することでした。例えば、「成人」という社会的カテゴリーは成人ばかりの部屋ではサリエントになりませんが、そこに子どもが入れば、サリエントになります。「ラトラーズ」というカテゴリーは彼らが自分たちとは別の11歳の少年集団がこのキャンプ地内に存在すると知らされたときにサリエントになったのです。もし彼らの知らされたのが11歳の少女の集団の存在であったならば、そのときサリエントになった社会的カテゴリーは「少年」であったでしょう。

もしある社会的カテゴリーがサリエントになり、自分をそのカテゴリーの一員とみなした場合、そのときこそ集団がもっとも自分に影響を及ぼすのだとハリスは言います。そのときこそ集団内の共通点がもっとも増強され、集団間の違いが拡大するのだと言うのです。

ジョン・ターナーはそれを心理的集団と呼んでいます。この集団は、古くは関与集団と呼ばれていたそうです。それはある一時に自分が一員であるとみなす集団を意味します。ターナーは次のように定義しているそうです。

「心理的集団とはその構成員にとって心理的に重要なもので、構成員は積極的にこの集団から社会的比較や行動の規範、価値観を身につけ、それに基づき適切な振る舞いや態度に関するルールや基準、そして考え方を学ぶ。そしてそれが彼らの態度や行動に影響を及ぼすことになるのだ。」

規範や価値観を獲得すること。ルール、基準、そしてふさわしい行動についての考え方。彼らの態度や行動への影響。これらはまさに社会化を説明する文章だと言います。

家族が子どもたちに社会化を施すことも時にはありますが、一般的には家族はそんなことはしません。その理由をハリスは次のように説明しています。

サル集団の中では、順位制における各個体の地位の向上や防衛のために頻繁に喧嘩が起こりますが、そのほとんどはすぐに解決します。霊長類学者フランス・ドウ・ヴァールは、集団のメンパーそれぞれは「友人であると同時にライバルであり、食料や異性をめぐって喧嘩はするが、お互い依存しあっている」と言っているそうです。

こうした集団内の喧嘩は、集団が捕食者もしくは別のサル集団から襲撃される危機に直面すると、たちまち見られなくなるそうです。人間に置き換えれば、外敵によって集団の顕著さが増強されると言えます。人間集団でも同じですが、結果としては分化(この場合、優位な地位をめぐる闘争)があとまわしにされ、集団は共通する敵を迎え撃つべく団結するのです。

カテゴリー

今日、集団のなじみやすさは相変わらず、どの程度「彼らは私と似ているか、私は彼らと、似ているか」によって、つまり自分がどれだけなんらかの形でその集団のメンバーと似ていて共通点があるのかという認識の程度によって査定されるのだとハリスは言います。その共通点は何でもいいようです。同じ県民である、前回同じ党に投票した、年齢や性別が同じ、キャンプに来るバスが一緒だった、同しエレベーターに閉じこめられた、などです。

ハリスは、社会的カテゴリーはタマネギの層のごとく包みこむようであり、そしてお皿いっぱいに盛られたフライド・オニオン・リングのように重なり合っているものだと言います。この複雑な現代社会において、一個人に与えられる選択肢は驚くほど多いのです。マーガレット・ブリーンの曾々々孫は自分を「カリフォルニア州民」「アメリカ人」「民主党支持者」「女性」「バークレー校の学生」2012年同窓生」もしくは「ブリーン家の一員」とカテゴリー化することができると述べていました。ハリスは、さらに彼女にはもう一つ選択肢が残されており、それは前述のカテゴリーには準ぜずに「この世に一人しかいない自分自身」というカテゴリーに凖ずることだと言います。マーガレット六世に与えられた数多くの選択肢のうち、彼女はどれを選ぶのか、どの選択肢が彼女の考え、感情、そして行動の方向性を決めるのか。ここまでくると社会心理学者に、そして彼らの、趣向を凝らした認知理論に登場してもらう必要があると言うのです。

ハリスが最も影響を受けたのは、彼女がすでに紹介していますが、オーストラリアの社会心理学者ジョン・ターナーのアプローチだそうです。ターナーは、過大評価者と過小評価者の実験を考案したヘンリー・タジフェルのもとで研究生活を送りました。それゆえに彼の理論はタジフェルの初期の研究結果に基づいているそうです。

ターナー理論で気に入ったのは、自己カテゴリー化とかかわりのある部分だとハリスは言います。ターナーは、人間はあらゆる方法、あらゆるレベルで自分をカテゴリー化し、しかもその包含の範囲もさまざまで、「この世で一人しかいない自分自身」から巨大なカテゴリーである「アメリカ人」さらには「人類」まで幅広い、と述べているそうです。自己カテゴリーは刻々と変化するもので、それは社会的な状況、自分がどこにいて、誰と一緒なのかによって大きく左右されると言います。自分があるカテゴリーを採用するのは、数ある社会的カテゴリーの中で、そのとき、その一つが他と比較して顕著だからというのです。

サリエントであるとは際立っこと、目立つことであり、あるものを訒知するときに目につく特性を意味します。ところが、これはつかみどころのない、堂々巡りになりかねない概念であり、学術系の心理学者たちは常にその危険性と隣り合わせだとハリスは指摘します。なぜそのカテゴリーを採用したのか、それがサリエントだったから。どうしてそれがサリエントだとわかったのか、それが自分の選んだカテゴリーだったから、という具合にと言うのです。

似たもの夫婦

人間は親族を匂いではなく、熟知性で見分けるそうです。きょうだいは自分がともに育った人です。自分のきょうだいと結婚しないのは、それが法に反するからではなく、結婚したいとは思わないからです。男子も女子も一緒に、イスラエルの農業共同体であるキブツの中でまるできょうだいのように育てられたイスラエル人は同じキブツ出身者とは結婚しないそうです。

ところが人間はそれでも自分と似た人間に惹かれます。ハリスは、夫と妻は概して、キューピッドが無角為に矢を放った男女よりもはるかに似ていると言います。婚姻関係にある二人は、人種、宗教、社会階級、IQ、学歴、態度、性格特性、身長、鼻の大きさ、目の間の幅などにおいて似る傾向があることがわかっているそうです。よく言われるように、夫婦は歳とともに似てくるのではなく、はじめから似ているのだと言います。

類似性はまた友人関係の基本でもあると言われています。保育園においてでさえ、子どもは自分と「似た」子どもに惹かれると言われています。小学校での仲よし同士は同じ年齢、性別、人種そして同じことに興味をもち、同し価値観をもつ場合が多いと言うのです。

ハリスは、自分と似た人に惹かれるのは遠く血縁認識から来ているのではないだろうかと考えています。狩猟採集民族であれば、自分と容姿がそっくりで同じ言語を話す人が同じ集団の一員である可能性は、容姿も異なり聞き慣れない言語を話す人よりもはるかに高く、その人は自分の親戚という場合もあります。さらにハリスは、教養あるアメリカ人であれば、同じ容姿で話し方も考え方も同じである人に信頼をおく傾向があることに自ら気づくだろうと言います。

アシナガバチにしても、人間にしても、見知らぬ者はよからぬことを企んでいるかもしれないと、本能的に彼らに不信感をいだきます。共食いの習性をもつ動物は多く、人間も例外ではありません。この習性があれば、その個体の親族ではない自分は食べられてしまうかもしれないのです。見知らぬ人、もしくは奇妙な行動をとる人に対してまず現われる反応が恐怖心です。恐怖心をいだきつづけるのは不快であるため、恐怖心は敵対心へと変わっていきます。ポリオに感染したチンパンジーが不自山な体を引きずり、自分の集団に戻ったときのことをハリスは以前に紹介していました。それを思い出してもらうとわかりますが、その時に彼の仲間はまず彼に恐怖心をいだき、次にそれが怒りにかわり、彼を襲撃するにいたりました。随分と、とんでもないことをしでかしてくれたものだとハリスは言います。

別集団に対する敵対心を解釈するために、趣向を凝らした説明など必要ないと言います。ハリスは、それは進化の過程を振り返れば十分理解できることで、動物の場合にも通用するのです。集団対比効果により集団間の違いは強調され、元来違いのなかった集団間には違いが創出されますが、この現象は、ハリスの知るかぎりでは動物には見られないと言います。この効果は人間や動物が別集団に対して敵対心をいだくことによって直接もたらされる結果なのだと言います。誰かを恐れ、嫌えば、その人とは違う人間になりたいと思います。人間は適応力に富んだ生き物ですが、他の集団のメンバーとは異なる人間になるための方法を見つけ出すことに関しては天才なのだとハリスは言うのです。

人間と動物

人間と同じ行動が動物たちにも多数見られるにもかかわらず、彼らの集団行動に関する理論は、動物には当てはまりません。たとえば、ジョン・ターナーの考えでは、人間が自分の所属集団をひいき目に見て、別の集団を見下すのは、自尊心を高めたいからだと言います。自分の集団が他よりも勝っていると考えることで自尊心が高まるというのです。仮にチンパンジーに自尊心への欲求を授けることができたとしても、あの猛烈な集団行動を駆り立てる動機となるにはあまりにちっぽけすぎるとハリスは言います。自分の集団のために人は人を殺し、自ら死を決するのです。ロバーズ・ケイヴのサマーキャンプでの11歳の少年たちの激しい情動と好戦的な行動が、自尊心によって駆り立てられたとは考えにくいと彼女は言います。それだけの動機では、11歳の少年に宿題をやらせることさえできないでしょう。

強力な動機となるのは生存と生殖に関するものだと言います。何百万年もの間、人間が檜舞台に上がるはるか前から、霊長類は集団で生活してきました。最後のわずかな期間を除き、個人が生き残れるか否かは集団の存続次第で、その集団は親しい親戚一同で構成されていました。自分と遺伝子を共有する人のために死ぬということは進化論的に考えても理にかなっていると言います。動物の多くが自己犠牲とも見える行動をとるのは、仮にその動物が死することがあってもそのきょうだい、子ども、親を守ることができるからです。たとえば、鳥は仲間に危険を知らせるのに大声で鳴きますが、それがかえって敵の目を引くことになるのです。その個体がこの世から去っても、親族と共有する遣伝子は守られ、受け継がれていきます。

人間の狩猟採集集団では、皆が血族関係か婚姻関係で結ばれていました。今日ではもはや集団が親戚同士だけで構成されることはなくなりましたが、集団行動を駆り立てるしくみは今も昔も変わらないと言います。新たな認知能力によって集団が多彩になっても同じ進化をとげてきたのです。集団性からくる感情の力は、集団でいることが生き延びるための唯一の望みであった長い進化の歴史に根づいており、その集団とは自分のきょうだい、子や親、もしくは夫や妻で構成されていたのです。

動物の多くには生物学者の言う「血縁認識」の能力が備わっていると言われています。同じ種のうちでもどの個体にはやさしく接し、どの個体にはいじわるく接するべきかを教えてくれる能力です。たとえばアシナガバチは巣に進人しようとしている別のアシナガバチが〈われわれ〉の一員なのか、〈彼ら〉の一員なのかを匂いでかぎわけます。その新来者が〈われわれ〉と同じ匂いであれば、進人を許可します。トラフサンショウウオがきょうだいを認識するための手段も匂いだそうです。もしトラフサンショウウオをきょうだいのいないもの同士で飼育すると、共食いをはじめることも多いそうです。他のトラフサショウウオは平気で食しますが、自分のきょうだいは食の対象にはなりません。匂いによる血縁認識は免疫機能が「自分」と「自分でない」とを識別するメカニズムと同じような生化学的メカニズムに基づいているそうです。

社会心理学者

ハリスは、こんなことを言っていました。「今日、スキナー派はハシブトインコ同様絶滅寸前の状態にあり、一方社会心理学者はハト同様に繁殖を謳歌している」。ところが社会心理学も変わったと言います。今では人の行動よりも、人の頭の中で何が起きているのかに重点がおかれるようになったというのです。重要なデータはすでに収集ずみです。今必要なのはそれを入れこむ理論的な枠組みだとハリスは言うのです。集団関係についての理論を組み立て、その真価をめぐる論争を展開するだけで、今日の社会心理学者は手いっぱいのようです。

彼らの理論が解き明かそうとしているものは何でしょうか?そのいくつかをハリスは挙げています。「人が自分の集団を偏愛し、他集団に対して時に敵対心をいだくのはなぜか。」「同調を強いられているわけでなくても同じ集団のメンバーと同じようになりたいという思い、他の集団とは違うようになりたいという思いを翦り立てるのは何か。」「集団内のメンバーから自分を差別化したい、自分の地位を開拓し、個人の成功と社会的認知を勝ち取りたいという気持ちを駆り立てるものは何か。」「同化と分化という相反する過程のどちらが優勢となるかを決定するものは何か。」さらに「所属すべき集団の選択肢が複数あった場合、人はどのようにその決断を下すのか。」「ドナー峠の生存者の一人であるマーガレット・ブリーンが、自らをドナー隊の一人ではなく、プリーン家の一員だと思うその根拠は何か。」などです。

人間の集団行動は複雑怪奇だとハリスは言います。この社会に住む人々は自分を数多くの集団に帰属させるもの、それをオーストラリアの社会心理学者ジョン・ターナーは自己カテゴリー化と呼んだそうです。マーガレット・ブリーンの曾々々孫は状況に応じて、「女性」「カリフォルニア州民」「アメリカ人」「民主党支持者」「バークレー校の学生」「2012年同窓生」さらには「ブリーン家の一員」というカテゴリーに自分を当てはめるのです。これらの集団の他のメンバーは彼女と面識がある必要もなければ、他の誰がそのメンバーなのかを知る必要もありません。彼女は物理的に移動することなく、頭の中で、ある集団から別の集団へと忠誠の対象を切り替えることができます。カハマ集団の一員となるためにカハマに移動しなくてもいいのです。こうした特徴のために、人間の集団行動は人間以外の動物の集団行動とはかなり様相が違ってきます。チンパンジーに耳元で「君は過大評価者だ」と伝えたところでチンパンジーに集団意識が生まれるとは思えないとハリスは言います。。

それにもかかわらず、人間の集団行動が祖先である霊長類から受け継がれたものであることには間違いないとハリスは言います。ハシブトインコ同様、人間も単独で生活するようにつくられてはいないのです。

社会心理学者が提唱する集団関係に関する理論は、人間の心の中で何が起きているのかに関する理論です。スキナーの間違いは、人間の行動も彼がラットやハトの行動を解釈するのに用いたのと同じ単純なメカニズムで解釈できると考えたことであるとハリスは指摘します。現代の社会心理学者はそれと正反対の間違いを犯していると彼女は思っていると言います。

集団行動

集団行動の基本的な現象、自分の集団への偏愛、他集団への敵対心、集団間の対比効果、集団内の同化と分化といったものはどれもあまりに頭の中では明確で、研究室で簡単に実証でき、また現実社会でも簡単に観察することができるため、社会心理学者たちはまもなく手もちぶさたとなり、その隙間を埋めるくらいしかやることがなくなったとハリスは言います。1950年代に行なわれた華々しい研究の後、社会心理学が哀退の一途をたどることになったのは、失策が原囚ではなく、その成功が原因だったのだとの見解を示しています。

もちろん、それだけが社会心理学の衰退の原因ではありません。別の原因はスキナー派行動主義の台頭だとも彼女は考えています。彼女が大学院生として在籍し、1961年に退学を迫られた心理学部では、最も傑出した教授と言えばB・F・スキナーであり、彼女以外の大学院生のほとんどは彼の弟子だったそうです。社会心理学そのものがそこには存在せず、社会心理学は「社会関係学」と呼ばれる別の学部に属していました。心理学部の学生は柔な社会関係学部の学生を見下していたそうです。

33年を経て、ようやく彼らを見下したのは間違いだったことに気づきました。各生命体の行動はその生命体がどのような報酬を与えられ、どのような報酬を与えられなかったかという強化歴を知ることで解釈できるとスキナーは考えました。彼が対象を「生命体」と呼んだのは、種間に重大な違いがあるとは認識しなかったからです。どの種の行動も同じだと考えたのです。この考え方の欠点は(むしろ欠点の一つはと言うべきか)進化の過程において集団で生活するよう設計された種では、孤立した単体に注目してもその種の真の行動を解釈することはできないという点です。スキナーの学生たちはハトを巣箱に入れ、つつくボタンを与え、ハトがそのボタンをつつけば時折トウモロコシの粒を与える、そうした場合にハトがどのように行動するかを研究しました。しかしハトは単独で生活するようにはつくられていません。ハトは他のハトと一緒に生活するようにつくられているのだとハリスは言います。

これが、私も保育における子どもの発達心理学の欠点であると主張しているところです。人類は、進化の過程で9か月くらいから集団保育をされてきました。それは、大人になってから集団で、社会を形成して生活する種だからこそ意味あることだったのでしょう。そのことから、孤立した単体に注目して赤ちゃんの行動を解釈しても、その行動は実際の赤ちゃんにおける真の行動分析にはならないと思うのです。特に、園では子ども集団があり、多くの大人に囲まれて生活しています。その中での赤ちゃんの情緒の安定とか、子ども同士の関係性発達とかは、違ったものがあるのです。

ハリスは、こんな例を出しています。アリゾナの鳥類学者の中には同じ過ちを犯した人たちがいるそうです。彼らは稀少生物に指定されているハシブトインコ88羽を人為的に育て、インコが過去に繁殖していた松林に放しました。するとすべてのインコは死ぬか行方不明となってしまったそうです。野生のインコは通常群れをなしますが、人為的に育てられたインコには仲間との交流を求める様子はいっさい見られなかったそうです。単独で行動する鳥はまもなくタカの餌食となってしまいます。人間の支配下で育てられたハシブトインコはまさにその運命をたどったのでした。

集団形成

集団は大小をとくには問いませんが、たいていは二人以上で構成されます。通常、二人は集団とは呼ばす、専門的には「二者関係」などに使われます。私は、保育の世界ではこの「二者」という言葉に、いろいろと翻弄されている気がします。ハリスは、もし専門的に考えたくなければ、「二人は気が合うが、三人は仲間割れ」などという表現もあると言います。

人間の集団形成の過程はさまざまだとハリスは言います。自分が過大評価する傾向があると研究者に知らされた少年は、瞬時に自分を「過大評価者」という誰が属しているのかもわからない集団の一員として自覚すると言います。故障したエレベーターに閉じこめられた五人。数分で救助されれば、単なる五人で終わりますが、救助に30分もかかれば、その五人はある集団となります。運命共同体、「一蓮托生」であるという意識が集団性を生み出します。エレベーターに閉じこめられた五人には呼称はありません。社会的カテゴリーは名前ではなく、概念で規定されているというのです。さらにエレべーターの五人は揃って同じように振る舞うわけでもありません。立ち往生したエレベーターにも道化役はいます。

集団の中でも基本となり、しかも永続する集団といえば家族であるとハリスは言います。部族社会では、村落が分裂して交戦状態にある場合、家族はほとんどいつも行動をともにしますが、両サイドに縁者がいる人は胸が引き裂かれる思いで、不本意な戦いを強いられることになります。村落などの小集団が合体して大集団を形成する手っ取り早い方法が縁組です。ある村落の首長が自分の娘を別の村落の首長と結婚させれば、彼女の子どもたちは両方の村落に祖父母をもつことになります。これだけで戦争を防げる場合があります。ハリスは、こんなことを考えてみてもらいたいと言います。もしロミオとジュリエットが生きつづけ、子どもを授かっていれば、モンタギュー家もキャピュレット家も赤ちゃんの洗礼式を機に和解したかもしれなかったというのです。もっとも、必ずしもそうなるとは限らないですが。

集団が崩壊するとき、家族単位で散らばっていくことも多いと言います。1846年11月、農民ジョージ・ドナー率いる荷馬車隊がカリフォルニアの雪深い峠で立ち往生してしまいました。後にドナー隊と呼ばれるようになった彼らはまもなく食料が底をつきました。はじめいた87人のうち40人が冬の間に一部は殺害されたり死亡し、中には他のメンパーに食べられてしまった者もいたそうです。女性の死亡率は男性のわずか半分でしたが、女性が命拾いしたのは婦人を敬い、弱きを助けるという騎士道精神からではありません。ドナー峠には「女性と子ども優先」という決まりはありませんでした。女性が助かったのは、彼女らが全員いずれかの家族の一員であったからです。一方の男性は多くが独身でした。ドナー隊にいた独身男性16名、そのほとんどが健康でまわに壮年期を迎えていた者たちばかりでしたが、そのうち生き延びることができたのはわずか3名にすぎなかったそうです。進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは、「ドナー隊の記録から、家族は団結して、他人を犠牲にしてでも助け合うということが明確になった」と言っています。カニバリズムによって生き延びた者もいたそうですが、彼らは自分のきょうだい、子どもや親、夫や妻にはいっさい手をかけなかったのです。